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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

1950年に創刊された雑誌「京都 観光と美術」は、「月刊京都」の前身

京都本




「京都」創刊号


 白川書院「月刊京都」

 京都で発行される京都をテーマにした雑誌の老舗といえば、「月刊京都」。白川書院の発行です。

 「月刊京都」
 2013年7月号は祇園祭特集

 白川書院は、戦前、臼井喜之介が創業したウスヰ書房(のち臼井書房)が、戦後に改組された出版社です。
 ウスヰ書房については、→ <臼井書房の書物たち> をご覧ください。

 昭和16年(1941)に刊行した『随筆京都』でヒットを飛ばした臼井書房は、その後、京都に関する書籍を刊行していきます。


 月刊誌「京都」の創刊

 終戦から5年後の昭和25年(1950)8月、同社は白川書院となって、月刊誌「京都 観光と美術」を創刊します。
 現在まで63年つづく「月刊京都」の前身です。

 「京都」創刊号
  「京都 観光と美術」創刊号

 表紙の絵は、勝田哲による「舞妓」。勝田は、京都生まれの日本画家で、舞妓など美人画を得意としました。著名な作品には、天草四郎の肖像などがあります。
 青のバックに朱色のタイトル文字、白い枠を切って舞妓を配しています。シンプルな表紙で、時代を感じさせます。

 表紙をめくって1ページ目には、「八月のことば」と、同月のスケジュール「京暦」が掲載されています。「八月のことば」は、有職故実などに詳しかった猪熊兼繁が執筆しています。

 夏は暑いものである。この暑い夏のなかでも、とりわけ京は暑い。京都で最も暑いのは七月の祇園祭前頃から、八月のお盆までのようである。

 という書き出しの短い随筆は、迎え鐘、送り火、清水の星下し、六斎念仏など、お盆の頃の行事を綴っていきます。 

 さらにページを繰ると、目次です。
 たとえば、

  吉井 勇 「京洛点描(和歌)」
  清水六兵衛「陶器放談」
  武者小路実篤「京の宿」
  川勝政太郎「宇治橋と浮島大石橋」
  重森 三玲「茶庭めぐり(表千家)」
  新村 出 「京ことば」

 など、著名な筆者の興味深い随筆が数多く掲載されています。
 臼井喜之介自身も「洛味を訪ねて(1)」を執筆しました。富本憲吉、花柳章太郎、市川紅梅らによる座談会もあります。


 新村出の京ことば論

 私が懐かしく、関心を持って読んだのが、『広辞苑』を編んだことで知られる新村出(しんむらいずる)博士の「京ことば」でした。

 はじめ京都へ来た時には、京都の言葉が大変自分の耳を刺戟し、また、近代の言葉のうちにも古い平安朝文学の言葉の流れ或ひは余韻を伝へたものがあつて、なつかしく思つた。例へば平安朝文学に「月いとあかし--月が明るい」の、あかしは関東では明るいと云ふことは云ふが「あかい」と云へばレッド・カラー(赤色)の意味にほかならなかつたが、京都へ来た時分、今も云ふか、云はぬかしらない(編輯者註、今もいふ)が「燈火があかい」といふやうなことを聞いたので非常にうれしかつたことを思ひ出す。

 新村は、山口生まれ、静岡育ち、一高、東京帝大卒なので、まったく関西とはゆかりがありませんでした。けれども、京都帝大の教授となったので「三十三四の時から京住ひ」、ということは明治40年代の京言葉を知っているということです。
 「月があかい」の話は、明治42年(1909)春に京都の宿に滞在した時、まだランプを使っていた時代のことでした。新村は、「源氏物語なんかに出て来る『月いとあかし』といふ言葉が二十世紀のはじめになほ残つてゐるおもひで、京都情緒のほのかな匂ひを感ぜずには居られなかつた」と述懐します。

 これは私などにも懐かしい話で、確かに昔は「明るい」ということを「あかい」と言っていました。日の暮れ、「まだ外があかい」というような言い方をしていたのです。もちろん新村博士のような感慨は誰も抱かず、ごくふつうに使われていました。

 「京都」創刊号

 今も学童らのいふ「かたつむり」といふのは、古い平安朝からある言葉で歌にも出て来るし字引にも出て来たし、また堤中納言物語の中にも出てくる言葉で、(中略)東京の言葉では「まへまへつぶろ」と云ふ。(中略)その「まへまへつぶろ」を私のこどもが学校でいつたところが教場の中で大笑ひをされて、子供は真赤な顔をしてしまつたといふ経緯もある、
「まへまへつぶろ」に対して「ででむし」といふのは蝸牛が殻の中に引込んで萎縮してゐる、それを子供が「出ろ出ろ」といふことで「ででむし」といふ意味のことは語源的に少し考へればわかることではあるが、関西へ来た私には初耳であつた。もちろん狂言などに「ででむし」といふのがあり、東京の能舞台で見て知つてはゐたが、子供にとつては初耳であるから、教場仲間が「まへまへつぶろ」が初めての如く、うちの子にとつては「ででむし」が初めてゞあつた。


 そのあと博士は、「要するに方言とか標準語とか云つても主観的なもので客観性はないと云つてもよい」と述べています。
 ただ、お子達は大変だったようで、「子供達は家庭では親の言葉[関東の言葉]、仲間同士では京都言葉といふやうな二重の言語生活を最初は営んだ」。新村は、さすがに言語学者なので「私が京都へきた最初の二三年位はバイリンギュアリズムといふ風があつた」と高尚に述べているのですが、子供たちの言葉は次第に「京都言葉化」していったのでした。

 また、困ったことはアクセントの問題で、いわゆる「くも」が“雲”になったり“蜘蛛”になったりする話です。

 アクセントの相違から来る誤解やら感情の衝突などは屡々[しばしば]あるもので、誰でも例にする話であるが「物を借りる時」の「物をかつた」と云ふ関西人の言葉に対して、関東人はそれを当然「買つた」と云ふことに解釈するであらう。(京都では買ふ場合「買[こ]うた」とウ音便にいふ、編輯者)

 これは、よく言う話です。私たちも、物を購入することを「こうた」と言うのですけれど、最近は“標準語化”が進んで、若い世代は、もうこんな言い方はしないだろうと思います。もちろん、借りるという意味の「かった」も同様です。

 さて、最後に彼が締めくくっている話題を引いておきましょう。新村夫人の友人O夫人、彼女は東京育ちですが夫君は関西人、姑さんもそうで、言語ギャップのために時々悩まされたという話です。
 O夫人いわく……

 東京では夫を奥さんが送り出す時「いつてらつしやいまし」と云つて送る。それは「元気で健やかに行つていらつしやいませ」といふ意味であるが、関西では奥さんが夫の出かけに「お早うお帰りやす」といふ。
 ところがそのO婦人の姑さんは「どうもお前の云い方は冷淡だ、たゞいつていらつしやいましといふのでは情が薄い。“お早うお帰りやす”と云ふと、さういふ風にいはれた旦那様は非常に早く家庭へ帰つて来たいといふ気持を浚[そそ]られる。どうも関西の言葉の方が情が籠つてゐる」といふやうなことを訓[おし]へられたといふ(後略)


 なんだか笑い話みないな、冗談とも本気ともつかない姑さんの教訓ですが、そこに「情」を感じるという感性は確かに関西人らしいと思います。
 
 こういった大家の肩の凝らない随筆が掲載されているところに、雑誌の時代性があり、また『随筆京都』などと相通じるものを感じます。




 書 名:「京都 観光と美術」創刊号
 出版社:白川書院
 刊行年:1950年

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きょうの散歩 - 祇園祭 還幸祭 - 2013.7.24 -





還幸祭


 7月17日は山鉾巡行を見に行きましたが、それに続いて24日夕、還幸祭に行ってきました。
 午後5時頃から始まりますが、仕事帰りなので7時から駆け付けました。

還幸祭

 当然ですが、御旅所はもぬけの殻です……

 改めて説明しますと、祇園祭には7月17日の神幸祭と24日の還幸祭があります。
 これは、八坂神社から四条寺町にある御旅所へ神さまが渡御され(17日)、また帰って来られる(24日)神事です。祇園祭の中心は、この神さまが乗られた神輿(みこし)の渡御ですが、その先触れであった山鉾巡行がその華やかさから現在ではメインのようにみなされています。
 山鉾巡行は、昭和41年(1966)までは、17日の「前祭(さきのまつり)」と24日の「後祭(あとのまつり)」に分かれていましたが、それは神幸祭と還幸祭にそれぞれ付随していたからです。

 7月17日の夕方、神社を出た神輿は、鴨川東岸の地区を巡行した後、西岸の地域を経て、四条寺町の御旅所に着輿します。
 神輿は、主に3基あって「中御座」(素戔嗚命・三若[さんわか]神輿会)、「東御座」(櫛稲田姫命・四若[しわか]神輿会)、「西御座」(八柱御子神・錦神輿会)で、加えて子供神輿の「東若御座」があります。

 還幸祭

 下の写真は、23日夕方に撮影した御旅所の様子。この時も参拝に来る方が多数いらっしゃいました。

御旅所
  左から、東御座神輿、中御座神輿、西御座神輿

 御旅所は、現在は四条通南側の1か所ですが、江戸時代は異なっていました。
 黒川道祐「雍州府志」巻2は、次のように記しています。

 (前略)四条御旅所の仮宮に到る。(中略)茲[ここ]に於いて又、牛頭天王[現在の中御座]、幷[ならび]びに、八王子[現在の西御座]の両神輿を東の仮宮の前に靠[よせか]く。梅の坊、輿中の神を仮宮に遷す。又、一基の神輿、少将井の神[現在の東御座]を南の仮宮に遷す。(中略)然して後、天王、幷びに、八王子の空輿を北の御輿屋に置き、少将井の空輿を南の御輿屋に置く。此の如き時は即ち、神は仮宮に存す。

 祭神の呼び名などが異なっていて分かりづらいですが、まず神輿が着くと、仮宮に神さまを遷して、そのあと空になった神輿を御輿屋(みこしや)に置く、というのです。
 これは「都名所図会」巻2の図を見ると、よく理解できます。

 「都名所図会」より祇園御旅所
  「都名所図会」巻2より「祇園御旅所」

 赤く囲ったところが「ミこしへや」で、四条通の両側にあることが分かります。これが空の神輿を置くところです。
 その脇に、「天王社」や「少将井」といったお宮さんがありますが、これが神さまを遷す仮宮です。天王社が黒川道祐のいう「東の仮宮」、少将井が「南の仮宮」に当たります。
 これが江戸時代の配置で、今日とはかなり違っていますね。

 ちなみに、道祐は、近頃は神さまのいなくなった空の神輿に供物を献じたりしていて変なことだ、と揶揄しています。

 御旅所がこの形になったのは豊臣秀吉以後で、それ以前は、東洞院冷泉にあった少将井の御旅所と、東洞院高辻上ルの大政所の御旅所だったそうです。
 大政所の御旅所跡は、いま烏丸高辻上ルに小祠となって残されています。

 大政所跡
  大政所御旅所跡

 さて、急いで四条通を西へ、そして南へ。午後7時頃、大政所跡にたどり着いた時には、すでに最終の西御座(錦神輿会)の神輿が到着していました。

還幸祭

 烏丸通の片側車線いっぱいに、神輿とそれをかく人たちが密集しています。八坂神社の小冊子には「600名」とあるのですが、数えるのは不可能で、もちろんこの写真の範囲外にも大勢おられます。
 写真左に、大政所跡の小祠があり、神主さんによる神事が行われます。

還幸祭

 ここから、しばらく西御座について歩きました。神輿は押されているので、意外に早い速度です(ほぼ人が歩くくらい)。東洞院三条までお伴しました。

 西御座とは、ここで一旦お別れ。なぜなら、この三条通を今度は西から中御座、東御座、西御座と神輿が戻って来るからです。
 それでも小1時間あるので、三条通をうろうろし、最後はコンビニで缶ビールを買って、路傍に腰かけて飲んでしまいました。

 三条寺町の西で待っていると、8時半頃、まずご神宝奉持列がやってきました。

還幸祭

 神輿の先触れですが、最後に駒形稚児が現れます。

還幸祭

 馬上にかわいいお稚児さんが乗っています。これは、南区久世の綾戸国中神社の氏子から選ばれるもので、久世稚児とも呼ばれています。

 それからまた、しばらく待つと、いよいよ中御座の神輿が登場。

還幸祭

 1928ビル(旧毎日新聞京都支局)の前で、少し停まって差し上げをしたりします。
 このあと、三条寺町を南下して四条通へ。元の御旅所前に戻っていきます。
 そこからは、四条通を一路東へ。

 とりわけ壮大な光景は、四条河原町交差点での差し回しでしょう。

還幸祭

 百万都市の目抜き通で、すべての交通をストップしてこのような祭礼が行われることは、まさに世俗を離れた聖なるものの体現です。

還幸祭

 こちらは、四条通の突当り、八坂神社の西門下での様子。美しいですね。

 9時半頃、南楼門から境内に入り、舞殿を3周します。

還幸祭

 これから、ほぼ1時間、境内で何度も差し上げが行われました。

還幸祭

 中御座の神輿が舞殿に上げられたのは、10時半頃。
 
 このあと、東御座、西御座と神輿が続くのですが、今晩はここで失礼。帰路、最初に見た西御座と擦れ違いました。

 いろいろ印象深い還幸祭でしたが、やはり「ホイット、ホイット」という掛け声が耳に残ります。独特のリズム感があって、海外の方にも人気のようでした。
 来年は、もう少しじっくり見られたらと思っています。


 還幸祭




 【参考文献】
 「雍州府志」1686年(岩波文庫版)
 「都名所図会」1780年
 『平成二十五年度 祇園祭』八坂神社、2013年
 米山俊直編著『ドキュメント祇園祭』NHKブックス、1986年
 川嶋将生『祇園祭』吉川弘文館、2010年


荒神橋・荒神口の由来は、「火の用心」の神さまにあり





清荒神護浄院


 「荒神橋」と「荒神口」

 京都は、大阪などに較べると、難読地名は少ないような気がします。お茶屋街の「先斗町」、新撰組の屯所があった「壬生」、映画村のある「太秦」など、知っていないと読めないものはありますが、そんなに多くもないでしょう。

 今回取り上げる「荒神橋」「荒神口」も、読める範囲に属します。荒神は「こうじん」。神さまの名前ですね。

 小さな橋・地点なので、他府県の方は分からないと思いますが、京都の人には結構知られていると思います。荒神橋は、鴨川の丸太町橋上流に架かっています。

鴨川

荒神橋
  荒神橋

 このあたりの河原は、昔は近衛通を突当ったところということで、近衛河原とも呼ばれていたといいます。

 そして、この橋の西、河原町通との交差点が「荒神口」。

荒神口

 ごく小さな、ふつうの交差点ですけれども、たぶんタクシーで「荒神口」と言ったら、間違いなく連れて行ってくれると思います。
 かつては、ここから鴨川を渡って京の外に出、いわゆる志賀越え(山中越え)で比叡山を越えて、近江まで行くことができました。現在でも、荒神橋の東詰から、北東方向へ斜めの道が走っていますが(途中、京大構内で消滅)、これが志賀越えです。つまり、ここは洛中から洛外へ出る「七口」のひとつだったわけです。


 火防の三宝荒神

 荒神口の交差点を西へ入ると、御所に行く手前に清荒神(きよしこうじん)護浄院があります。門には「清荒神」と書かれた大提灯がぶら下がっています。

清荒神護浄院
  清荒神護浄院

 関西で清荒神といえば、兵庫県宝塚市にある清荒神清澄寺(せいちょうじ)が有名です。清澄寺に行くと「日本第一」と書かれていますが、この護浄院は「日本最初」とあります。第一とか最初とか言うのが荒神さんの癖なのでしょうか。

 清荒神護浄院
  「日本最初 清三宝大荒神尊」

  寺伝では、光仁天皇の皇子である僧・開成(かいじょう)が、摂津の勝尾山で修行中、八面八臂の荒神像を刻んで祀ったといい、これが後に京へ移されたというのです。
 「都名所図会」巻1には、「祭る所、八面八臂の荒神なり」と記しています。

清荒神護浄院

 「雍州府志」巻2には、次のように登場します。

 荒神河原の西に在り。此の社、元、摂州、清澄の地に在り。而る後、此の所に勧請す。故に清荒神と謂う。又、三宝荒神と称す。又、竈[かまど]の神と謂う。興津彦・興津姫・中御神を祭る所なり。婦人、特に之れを尊崇す。社僧の住む所、常施寺と号す。

 同書によれば、宝塚の清荒神を勧請したもので、そのため清荒神と言ったといいます。
 竈の神と記されていますが、興津彦、興津姫も「古事記」などにみえる竈神です。
 火を焚く竈の神ですから、火防(ひぶせ)の神としても信仰され、このような護符も売られています。

清荒神護浄院
  「火之用心」の護符

 ちなみに、宝塚の清荒神に行くと、大量の火箸(ひばし)が奉納されているのに驚かされます。

 清荒神清澄寺
  清荒神清澄寺(兵庫県宝塚市)

 清荒神清澄寺
  すべて火箸です!(清荒神清澄寺)

 こちら、京都の清荒神護浄院は、つつましやか。

清荒神護浄院

 大きなものが長押の上に懸けられていて迫力ですが、納札所には少しだけ火箸が見られます。

清荒神護浄院

 20~30本くらいでしょうか。

 毎月28日には、護摩供が修せられます。

 京都で火防といえば、すぐ愛宕さんを思い出しますが、この清荒神もそのひとつなのです。


 清荒神護浄院




 清荒神護浄院

 所在 京都市上京区荒神町
 拝観 境内自由
 交通 京阪電車丸太町駅下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「雍州府志」1686年(岩波文庫版)
 「都名所図会」1780年


きょうの散歩 - 祇園祭 山鉾巡行(その2) - 2013.7.17 -





祇園祭・鶏鉾


 山鉾巡行が始まる午前9時を前に、各鉾町の山や鉾はそろそろと動き始め、所定の位置に着いていきます。

 祇園祭・鶏鉾
  鶏鉾

 四条室町下ルに建つ鶏鉾(にわとりほこ)も、僅かに北上して、四条通に出てきます。

 祇園祭・鶏鉾
  四条室町の鶏鉾

 四条通と室町通の交わるこの場所は「鉾の辻」と呼ばれ、東に函谷鉾(かんこほこ)、西に月鉾、北に菊水鉾、南に鶏鉾が位置しています。
 山鉾巡行の順番は、「くじ取らず」で長刀鉾が第一番ですが、鉾ではそれに函谷鉾が続きます。月鉾、菊水鉾、鶏鉾の3基は、くじによって、全体の9番、13番、17番に入ります。今年、鶏鉾は9番目になりました。

 この交差点で、最初の直角カーブ、すなわち「辻回し」となります。

 祇園祭・鶏鉾

 辻回しは、鉾の車輪の下に割竹を敷き、水を掛けて滑りをよくしながら、3度くらいに分けて徐々に回します。

祇園祭・鶏鉾
  割竹と桶

 鉾の車体の下部には、割竹と水を入れる桶が常備されています。
 巡行の間、辻回しは何度もありますから、割竹はその都度出し入れするとしても、水はどうやって調達するのでしょうか?

 四条室町の角に、一軒の中華そば屋さんがあるのですが、実は……

 祇園祭・鶏鉾

 車方(くるまかた)の若い男性が、この店に水をもらいに来たのです。それも二度も。

祇園祭・鶏鉾

 桶だけでなく、現代的なバケツも使っていますね。店の人も気安く水を提供していました。

 祇園祭・鶏鉾 祇園祭・鶏鉾

 その甲斐あって、徐々に鉾は転回していきます。
 そして無事に、四条通に出てきました。時刻は、午前9時。先頭の長刀鉾が動き始めた頃です。

 祇園祭・鶏鉾

 最初、四条室町で見ていた私も、歩を進めて烏丸通を渡り、大丸前あたりまで歩いていきます。
 すると、私と同じようなペースで鶏鉾も進んできました。

 祇園祭・鶏鉾
  四条通の鶏鉾

 気が付けば、いつのまにか鶏鉾と一緒に歩いている自分に気付きました。

 よく見ると、先ほどの水を汲んでいた車方は、鉾の下に陣取っていました。

祇園祭・鶏鉾

 彼は、巡行の間、外に出るのは辻回しの時だけで、まっすぐの道では鉾の中で歩いているのでした。

 祇園祭・鶏鉾

 鉾が停まっている間、路肩で話している二人は、車方の親子です。息子さんは、おそらく中学生。おやじさんは、息子を連れだして、熱心に辻回しの方法を語っているのでした。
 そのうち、鉾はまた動くので、二人して車輪を押して始動させます。

祇園祭・鶏鉾

 車輪の前を回しているのがおやじさん、後ろから押しているのが息子さんです。

 祇園祭は、こうして世代を越えて継承されていくのですが、鶏鉾について歩いている一人の男性がいました。

 祇園祭・鶏鉾

 帯を低く締めて浴衣を着た老人。ずっと鉾の前後を歩いていて、時折、知己の人たちと楽しそうに挨拶を交わしています。

 祇園祭・鶏鉾

 たぶん、町内の長老なのでしょう。まったく巧まざる着こなしが、そのくせ格好よくて、深い年輪が感じられます。

 くじ改めを済ませて、四条河原町の交差点。ふたたび辻回しです。

 祇園祭・鶏鉾
  四条河原町の鶏鉾

 ものすごい人垣で、あとから着いた私は遠くから見ることに。

祇園祭・鶏鉾

 これは辻回しを終え、北に向いたところです。
 時刻は午前10時30分。私も、そろそろ仕事に行かなければなりません。河原町通を動き始めた鶏鉾を見届けて、駅に向かいました。

 鶏鉾といえば、「イーリアス」の一節をモチーフにしたベルギー製の綴織や、今年から新調された角倉船の胴懸など、装飾に目が行きがちです。
 しかし一方で、その鉾を動かしているのは町内の人たちで、老いも若きも力を合わせて事に当たっています。その一人ひとりの姿には矜持と責任とがにじみ出ていて、自らが伝統を支えていることへの強い意識が感じられるのでした。
 長い歴史の中で、多くの困難を乗り越えてきた人たち。幾世代を越えて、その伝統は確かに継承され、時代々々に従った形に変化しながらも、その大本は受け継がれていきます。

 今朝は、7時半から10時半まで、ほんの3時間でしたが、祇園祭に携わる人たちの姿を追いながら、改めて歴史の重みと、人と人との紐帯の大切さを思わずにはいられませんでした。

 来年は巡行の形が変わるという話もありますが、時間が許せば、また鶏鉾を見に行きたいと思っています。


きょうの散歩 - 祇園祭 山鉾巡行(その1) - 2013.7.17 -





裃の人たち


 7月17日は、祇園祭の山鉾巡行。
 毎年ほとんど仕事の日なので、なかなか見に行けないのですが、今年は午前中の時間を使って、少し見てきました。

 朝、7時半、地下鉄・烏丸御池駅から見学スタート。
 巡行は9時からですが、この時間、すでに各町で支度は始まっていました。

 黒主山
  黒主山

 こちらは、三条室町下ルの「黒主山」。
 最近は、そろえのTシャツのみなさんも多いみたいですね。

鯉山
  鯉山

 町家の前に建つ山もあれば、

菊水鉾
  菊水鉾

 マンションの前に建つ鉾もあります。
 祇園祭も、移りゆく京都の姿を反映しています。

 船鉾
  船鉾

 デザインが格好いい「船鉾」。

裃の人たち

 その前で談笑する裃(かみしも)の男性たち。
 この日は、21世紀とは思えない光景が現れます。

 浴衣の子供

 子供たちも、そろって浴衣姿です。

鶏鉾
  鶏鉾の曳き手

 時間はまだ8時台。
 曳き手のみなさんが、記念撮影する風景も。

鶏鉾

そして町の狭い通りでは、山や鉾がそろそろと動き始めます。

 岩戸山
  岩戸山

 町内の人たちに押されて進む「岩戸山」。
 まだ綱では曳きません。

 岩戸山
  岩戸山

 伯牙山
  伯牙山
 
 電線の多い通りは……

 伯牙山

 竹竿で、電線を払いながら進んでいきます。

 このようにして、巡行開始の午前9時が近付いてきます。

四条通


 【この項、つづく】



【新聞から】京都の “和風モダン建築”

建築





 「京の和風モダン建築 十選」(石田潤一郎)
 日経 2013年6月27日付~7月12日付



  京都の和風モダン建築


 京都工芸繊維大学の石田潤一郎氏が、京都の「和風モダン建築」を紹介する連載。
 第1回の冒頭に、こう前置きされています。

 明治以来、日本の建築家は「西洋そのまま」の洋館をめざす一方で、「和」の継承もまた願った。京都ほどそうした試みを誘った土地はない。

 もちろん、近代建築に和風の要素を取り入れる試みは、京都以外の地域でも幅広く行われてきました。ただ、こうして改めて京都の建物を並べて見ると、その豊かさに気付かされます。
 石田氏が選んだ10の建物は、次の通り。

  1 京都市美術館本館
  2 大覚寺 心経殿
  3 南座
  4 大雲院 祇園閣
  5 京都教育大学付属京都小中学校
  6 旧武徳殿
  7 京都芸術センター(旧京都市立明倫小学校)
  8 京都市美術館別館(旧京都市公会堂東館)
  9 龍谷大学 大宮図書館
 10 弥栄[ヤサカ]会館


 6は京都市武道センター、8は京都会館、10は祇園の甲部歌舞練場にあります。

 南座や京都市美術館は誰もが知っている建物ですが、龍大の図書館など注目されづらいものも含まれています。

 和風モダン建築という呼称は、特に学術用語ではないと思いますが、本来なら洋風であるはずの近代建築に和風の要素を取り入れた建物、という意味でしょう。
 かつて、よく「帝冠様式」という語が用いられました。昭和初期、軍国主義的な雰囲気を背景に、西洋建築の上に“冠”の如く和風の屋根を載せた建物が造られました。これを帝冠様式と呼んでおり、歴史的な用語だろうと思います。

愛知県庁と名古屋市役所
「帝冠様式」の代表例、愛知県庁(右)と名古屋市役所

 京都では、京都市美術館などが、これに当たるでしょう。

京都市美術館
  京都市美術館

 ただ、「帝冠様式」というと時代色を強く感じすぎますし、かといって「近代和風建築」というと、寺社や邸宅などの在来の木造建築も含んで幅広くなります。
 「近代モダン和風」といえば、“モダン”の部分に力点が付いて、一定の特徴を持った建物を抽出できそうです。

 ただし、選ばれた建物はすべて鉄筋コンクリート造ではなく、旧武徳殿(松室重光設計)なども入っています。

武徳殿
  旧武徳殿

 これがモダンかな、とも思いますが、石田氏は次のように解説しています。

 その彼が武徳殿という復古的なようで新しい課題に取り組んだ。「新しい」というのは、演舞場として、24メートル×15メートルの大空間が求められたからだ。そこには柱が立っていてはならず、しかも明るくなければならない。そこで松室は、西洋風のトラスで屋根を架け、壁は筋交いで固めた。また採光のため、ガラスを入れた高窓をめぐらせた。

 木造の和風建築でも、近代になると多くはガラス窓を入れます。

武徳殿
  武徳殿のガラス窓

 1階の目立つところは蔀戸(しとみど)にして、上部の採光はガラス窓という合理性。なかなか気付きません。

 基壇に開けられた通風口にも……

 武徳殿

 煉瓦のヴォールトが。隠された“モダン”です。

 「和風モダン建築」は、少しエキゾチックな雰囲気がして、欧米人が造った日本建築、といった趣きもあります。
 細部意匠も含めて、じっくり見てみると案外おもしろいですね。

 

臼井書房の書物たち

京都本




臼井書房


 『随筆京都』と「大黒柱」


 なにげなく、脇村義太郎『東西書肆街考』(岩波新書)をパラパラ見ていました。
 書肆(しょし)とは、本屋さんの古風な言い方ですね。

 東西書肆街考

 そのなかに、次のような記述がありました。

 昭和十四年に、臼井喜之介が数年勤めていた出版社星野書店をやめ、独立して京大北門前にウスイ書房(のちに臼井書房とあらためた)を開いた。小売のかたわら出版をやり、詩の雑誌を出したりしていた。処女出版『随筆京都』(昭和十六年)は大いに売れた。戦争となって応召し、後は夫人の手で続けていたが、雑誌は統合され、小売は次第に続けることが困難となって、営業を中止したかたちで終戦を迎えた。(48ページ)

 そう言われれば、臼井書房という名はよく見掛けるし、『随筆京都』も持っています。

臼井書房
  『随筆京都』の題簽

 この本は、昭和16年(1941)11月に刊行されたので、太平洋戦争の開戦直前になります。発行所は「ウスヰ書房」となっており、北白川京大北門前とあります。発行者は「臼井喜之介」。住所は、左京区北白川追分町87。
 京都ゆかりの文化人ら58名の随筆を収めています。歴史家・魚澄惣五郎、建築家・岸田日出刀、作家・近松秋江、法学者・松波仁一郎、釣魚家・佐藤惣之助、俳人・荻原井泉水、建築史家・天沼俊一、国文学者・澤瀉久孝、歌人・吉井勇など、バラエティーに富む人選です。

 その最末尾に、臼井喜之介自身も「京都的といふこと」という短文を寄せています。
 「京都的」とは、京都に対して感じる一種のニュアンス、であるとし、京都のもつ歴史、伝統が、「故旧をなつかしむ気持」を起させるのであろうと述べています。

 臼井喜之介は、そこにも書いているように、京都に生まれ育った詩人で、第一詩集は『ともしびの歌』でした。丸山薫による、その序文には「臼井喜之介は京都に住んでゐる。京都の町が半ば仄(ほの)ぐらい因襲の廂の下にあるやうに、臼井喜之介にもそんな影の世界がある。彼はそこに生活(くら)し、詩を灯して四辺を照らし、懐かしんでゐる。さればこそ、彼の詩を浸すあの油のやうな情緒が培はれてきたのだらう」と記されているそうです。

 多くの人が「京都的」なものを感じる臼井の詩は、「大黒柱」という詩だといいます。(368-369ページ)

 うへの方に
 古ぼけた時計が かかつて居り
 もたれかかると
 冷つこい肌ざはりがして
 きしかたの ながい匂ひがする
 ありがたい木目のいろが
 ことしも お祭の神燈に つやつやと黒びかりして
 づつしりとおもい 大黒柱
 おほ祖母がふき 祖母が拭き 母のいままで
 いくめぐりの秋冬を
 じつと この土間に 冷えつづけてきたらう
 寄ると
 さみしく 顔がうつる



 臼井書房の本たち

 私が持っている臼井書房の本をざっとあげると、

 臼井喜之介編『随筆京都』1941年
 天沼俊一『日本古建築行脚』1942年
 美術史学会『別尊京都仏像図説』1943年
 川勝政太郎『京都古蹟行脚』1947年

 などがあります。

 出版社名には変遷があり、『随筆京都』は「ウスヰ書房」、『古建築行脚』は「臼井書房」と漢字表記に。『仏像図説』は、奥付は「臼井書房」なのに、表紙は「一條書房」刊となっていて、戦時中の出版社の統合を示しています。
 戦後は臼井書房に戻りますが、昭和25年(1950)からは白川書院となります。

 『東西書肆街考』は、次のように記しています。

 白川書院は、臼井喜之介が昭和二十五年に雑誌『京都』を創刊する時、臼井書房を改称したものであり、『京都』は一時『京都と東京』と改題したこともあったが、数年前『京都』に復し、京都ブームに乗り、臼井が逝った後も夫人・令息などで経営を続け、三百号記念号を出した。戦後、混乱の中で大仏次郎が京都ブームの種を蒔き、臼井が『京都』でこれを育て支えてきたというべきであろう。(67ページ)
 
 ご承知の通り、白川書院の「月刊京都」は現在も発行され続けています。

 臼井書房
 川勝政太郎『京都古蹟行脚』


 天沼俊一『日本古建築行脚』

 天沼俊一博士は、私の敬愛する建築史家ですが、戦時中の昭和17年(1942)に臼井書房から『日本古建築行脚』を上梓しています。

 臼井書房

 この本は、京都を離れて全国の古建築を文字通り行脚したもので、鶴林寺(兵庫)、高野山(和歌山)、厳島神社(広島)に始まり、「北陸の旅」や「岐阜愛知紀行」などを収載します。
 多くの文章が調査日記風に書かれていて、いつ、どこに、誰と行ったかが書かれていておもしろいのですが、S博士とかT老とかM師とかN氏とかO君とか、とにかく誰のことやら分からず、難解なクイズのようにも読めます。

 そのはしがきには、次のように記されています。

 昭和十六年夏のある日、臼井書房主人来訪、日本の古建築に関する一書出版の希望を述べられたので、予て考へてゐた通り、其若干に就いて紀行と稍々専門的記載とを兼ねたものを試みる事にした。(1ページ)

 臼井書房


 昭和16年(1941)夏、臼井喜之介は、京都帝大を退官していた天沼に出版の依頼を行ったのでした。その数か月後に刊行された『随筆京都』の末尾には、同書の近刊予告が出されています。

 工学博士 天沼俊一著
 日本古建築行脚

 著者は言ふまでもなく我が国建築史の泰斗、本書は著者自らカメラを下げて日本全国を実地に踏査された積年の研究の集績である。尚古図新、古典新生の世代に古建築の研究はやうやく盛大ならんとしつつあるが、本書はそのもつとも権威ある指針となるであらう、古建築行脚案内と専門的な研究紹介、その二つを併せ保つ本書はけだし江湖渇望の書であらう。


 出来上がった書物は、確かに紀行と専門的解説をミックスしたような風変りな味わいで、天沼俊一の人間味もうかがえて、おもしろいものです。


 牛のマーク

 その臼井書房のマークは牛でした。

 臼井書房

 上の写真は戦後すぐの『京都古蹟行脚」のもの、冒頭の写真は昭和16年(1941)刊『随筆京都』の印紙です。

 これを見て、やはり思われるでしょうか、ラスコーの壁画かな、と。

 その証拠は見付けていないのですが、ラスコー壁画の発見は昭和15年(1940)ですし、詩人の臼井喜之介が、それをマークに選んだとしても変ではないと思います。
 このあたりは、もう少し調べてみましょう。

 さらに、『日本古建築行脚』の函にあるマーク。

 臼井書房

 これは乳牛か何かを前から見た絵ですね。
 四角くマーク風に函にプリントしてあります。ちょっとした遊び心でしょうか。

 臼井書房と臼井喜之介。京都の出版文化を支えた一人として、興味深いものがあって、もっと知りたい気がしてきました。




 【参考文献】
 脇村義太郎『東西書肆街考』岩波新書(黄87)、1979年
 臼井喜之介編『随筆京都』ウスヰ書房、1941年
 天沼俊一『日本古建築行脚』臼井書房、1942年
 美術史学会『別尊京都仏像図説』臼井書房(一條書房)、1943年
 川勝政太郎『京都古蹟行脚』臼井書房、1947年
 

【大学の窓】 書庫の書物たち

大学の窓




 懐かしい書庫で勉強


 書庫

 上京大学(仮称)の図書館にある書庫。

 近年は、カウンターで申し込みさえすれば、利用者の誰もが書庫に入って図書を閲覧できるようになっています。私の学生の頃は、教員と院生だけだったような気もしますが、手軽に文献にアクセスできるのは喜ばしいことです。

 院生の頃は、この書庫に籠って、史料を読んだものでした。
 懐かしい机、エレベータの脇にある水道の蛇口と鏡も、昔と変わっていません。あの頃は、あり余るほど時間があったのですが、今は授業の前に1時間ほど閲覧するのが精一杯でしょうか。


 『聚楽』という名の写真集

 先日、一冊の書籍のタイトルを知りました。
 
 『聚楽』。

 いったいどんな本なのか?
 京都府立図書館、総合資料館にないか調べてみましたが、架蔵されていないようでした。念のため、大学図書館の蔵書を検索してみると、うまい具合に所蔵されていたのです。
 次の授業日に、早速書庫に入って、閲覧してみました。

 『聚楽』--正確なタイトルは『東洋古建築庭園画集 聚楽』--は、大型書架に置かれており、帙(ちつ、複数冊の本を納めるケース)に入ったものが、3つありました。それぞれの帙が、第1期、第2期、第3期に相当します。各帙には、さらに12の畳紙(たとうがみ、紙製の包み)が入っており、その中に12シートの写真が収められています。つまり(基本的には)1つの帙に144葉の写真が収録されている勘定です。
 ちなみに、この大学の所蔵本は、おそらく編者から、当時大学に在籍した宣教師に贈呈されたものと分かります。

 第1期から開いていきます。
 昭和2年(1927)12月の刊行。発行所は、座右宝刊行会ですが、編者・発行者は橋本基となっています。
 橋本基は、東京市牛込区に在住していましたが、日本画家・橋本雅邦の子息として知られ、自身も画家でした。志賀直哉に師事していたので、本書の監修者は志賀になっています。
 シート状の写真を見ていくと、いきなり門とか庭とかの写真が続きます。ちょっと「?」ですが、蹲(つくばい)などが出て来るに及んで、どうも茶道、「数寄」への興味かなと感じるようになってきます。曼殊院の書院などもあって、なるほどと思わせるのですが、いきなり八瀬の農家の土間(前回紹介した白河女のカマドのようなもの)が出てきて驚きます。しかしこれも、数寄的な関心から来るものだと理解できます。
 
 第1期の写真の撮影者は、大塚稔と萩生田政勝。印刷所は、大塚巧芸社。同社は、大正8年(1919)創業の美術写真印刷の草分けです。おそらく編者は、父・雅邦の伝手で大塚に仕事を依頼したのではないでしょうか。萩生田政勝は本書の写真をたくさん撮っていますが、どのような人なのか知りません。

 第2期、第3期も見ていくと、修学院離宮や桂離宮、著名寺院、邸宅などの京都の名庭から、東京の芝離宮などに至るまで、東西のさまざまな庭園、茶室などが登場し、目を楽しませてくれます。撮影者も上の2人に加えて、京都の写真で知られる黒川翠山、並木毅夫が加わっています。

 大学には第3期までしか所蔵されていなかったのですが、第4期もあるようです。
 昭和初期の全国の庭園、建築などを記録した写真集として、資料的価値も高いでしょう。
 
 こんな書物に出会えるのも、図書館の醍醐味ですね。 



“畑の姥” の驚異的頭上運搬術!

洛西




『日本地理大系』よりはたの姥


 畑の姥の運搬術

 京都の人にとって、懐かしい言葉のひとつに「ショウギ」というものがあります。
 もちろん、「将棋」ではなく「床几」と書きます。

 辞書的には、戦国武将が戦陣などで用いる、脚がX形になった折畳み式椅子もありますが、京都でいうのは細長い腰掛け台です。歌舞伎や時代劇の茶店で、お茶をすすっている、あの緋毛氈などを掛けた台です。東日本では「縁台」というのでしょうか。
 これは実に日本的なものらしく、あるテレビ番組で外国の方がその便利さに驚いていました。椅子なのにテーブルにもなる一石二鳥の存在。それが珍しいようでした。

 京都では、家の前にポンと出して使っていて、別に毛氈など掛けることもなく、木の肌のままです。私が住む地域では、今は地蔵盆の時にこれを出してきます。数十年使っていても、しっかりしています。脚が抜けるタイプもあるのではないでしょうか。
 なかには、家の壁面に取り付けて、使わない時は畳んでおけるものもあって、これを「ばったり床几」というのだそうです。よく見掛けるものですが、この言葉は、私は建築史の人に聞くまで知りませんでした。

 その床几、これまでどういうふうに売り買いするかなど考えたこともなかったのですが、今回ひとつの答えが分かりました。
 前回取り上げた「大原女」。その仲間のひとつである「畑のおば」が、床几を行商していたというのです。その写真が、これです。

 『日本地理大系』よりはたの姥
 『日本地理大系』より「はたの姥」

 畑の姥(はたのおば)。
 京都の西郊、紅葉の名所・高雄方面から行商に来る女性の称です。

 写真は、昭和4年(1929)に刊行された『日本地理大系 近畿篇』掲載のもの。キャプションには、

 はたの姥
 洛西梅ケ畑方面から出る女で梯子[はしご]、床几[しょうぎ]、鞍懸[くらかけ]を売りに出る。衣服は縞や絣木綿、脚絆[きゃはん]手甲[てっこう]、冬は黒、夏は白、三幅前垂は後合せ(他は右脇合せ)冬は裁着(方言かあらん[方言だろうか])を衣服の上に履く。髷[まげ]の上に藁[わら]の輪(髷ばといふ)を置き何んな重い物でも載せる。売声は「梯子や鞍懸いらんかいな」(69ページ)


 風俗研究の大家として知られる江馬務の解説です。「鞍懸」とは、踏み台(足継ぎ)のこと。

 梅ケ畑から来るから「畑の姥」なのでしょう。
 高雄から周山方面にかけての中川、小野郷、梅ケ畑などは北山杉の産地です。そのため、畑の姥の行商品も木製品でした。
 高雄女(たかおめ)とも呼ばれる畑の姥は、前回紹介した『日本百科大辞典』によれば24貫の重荷も頭上に載せると記されています。24貫といえば、約90㎏! 信じがたい数字ですが、上の写真を見れば誇張でないことが理解できるでしょう。
 写真の女性は、前後に長くハシゴを載せ、その上の中央に床几をひっくり返して据え、その上と前後に1つずつ鞍懸を置いています。バランスが崩れないように細ひもを掛けて両手で握っています。その右手にも、鞍懸を1つ持っています。つまり、ハシゴ1、床几1、鞍懸4を運んでいるのです!!
 これだけあれば90㎏くらいはあるかも知れません。

『日本地理大系』より高雄女
 高雄女 清滝川に架かる高雄橋にて(『日本地理大系』)


 北白川の石売り

 江戸時代の京都の女性の職業はさまざまありますが、安国良一氏の研究によると、例えば次のようなものがありました。

 *柴売り(八瀬)
 *石売り(北白川)
 *黒木売り(鞍馬)
 *炭持ち(鞍馬)
 ・茶摘み(宇治)
 ・人形売り(稲荷)
 ・扇折(御影堂)
 ・団扇屋(深草)
 ・絹屋(西陣)
 ・張物屋(蛸薬師通)
 ・八百屋(錦小路通)

 このうち上の4つ(*印)は、行商です。
 なかでも興味深いのが「石売り」でしょう。北白川は、花崗岩の石材「白川石」の産地でした。「都名所図会」巻3(1780年)にも、「北白川の里人ハ石工[いしきり]を業として常に山に入りて石を切出し灯籠、手水鉢、其外さまざまのものを作りて商[あきなふ]也」とあります。

 その図。

「都名所図会」より北白川
 「都名所図会」より「北白川」

「都名所図会」より北白川

 山中越の路傍の岩崖に登り、槌を振って石材を切り出します。
 ところが、図をよく見ると、中央下にこんな人馬が描かれているのです。

「都名所図会」より北白川

 まさに、石売り女!

 馬の背に石を結わえて、都へ向かっています。前回紹介した大原女と同じで、京へ至るまでは運搬に馬を利用するわけです。
 でも、そこで考えてしまうのです。都に着いたら頭の上に石を載せて売り歩くのだろうか、と。
 今のところ、その答えは分かりませんが、畑の姥の例からすると、重い石を籠に入れて頭に載せる……などという芸当を出来る女性がいたような気がしてなりません。


 白河女の昼食

 『日本地理大系』には、白河女についての珍しい写真が掲載されているので、紹介しておきましょう。

『日本地理大系』より白河女の台所
 『日本地理大系』より「白川農家の台所」

『日本地理大系』より白河女の昼飯
 同「白川女昼飯」

 白河女に対する、あくなき関心が表れていて、ちょっとおかしいくらいです。
 江馬務による解説文を抜粋しておきましょう。まず、上の写真から。

 白川農家の台所
 洛北北白川の台所の庭は広く取られてゐて、(中略)その庭の一方に偏つて走り元があり、炊事、調理をするようになつてゐる。(中略)横には必ず井戸がある。井桁に石もある。白川の婦人は、その特殊な姿のままで炊事調理をするのである。(67ページ)


 「走り」は、流しの意味です。
 昭和初期の写真ですので、もちろん立って調理していますが、右の女性が「走り」の上で何かを切っており、左の女性が井戸で水を汲んでいます。
 走りの右には、大きな作り付けの棚があって、このような雰囲気は市街の町家と同じですね。

 では、下の写真のキャプションです。

 白川女昼飯
 (前略)庭の中央に竈[かまど]を置き、上に釜と鍋を五箇所備へ、釜の中、大釜といつて一つは別に大きい。その釜の上に花と神へ供へる御飯とを置く。花は毎月一日は松とし別にお灯明を供へる。これ[ママ]竈を荒神といつて祀るのである。
 御昼飯は主人などが外へ働きに出てゐるから、写真のやうに竈を台にして寂しく御飯を戴く。竈の横には竈の棹といつて物干竿[ものほしざお]があり、之に布巾などをかける。これ等は総て古来の伝統の然らしめる所である。(67ページ)


 写真の一番奥が「大釜」でしょう。
 私の母の実家(京都市内の農家)でも、台所に仏さんの御飯を金物の高坏のような器に入れて供えていました。
 カマドで昼食を取るのが寂しいかは別にして、戦前ではおおむねこんな感じだったろうとうなずけます。

 こちらは、白河女の風俗を示した写真です。

 『日本地理大系』より白河女
 『日本地理大系』より「白河女」

 花売りの女性で、衣服は紺絣、前垂も同じで、帯は縞もの、白い腰巻を見せています。
 手拭には町名を染め抜くそうで、確かに何やら文字が見えています。
 売り声は「花いりまへんか」。


 賀茂の女
 
 『日本地理大系』より賀茂の女
 『日本地理大系』より「賀茂の女」

 こちらは、単に「賀茂の女」と記された写真。
 つまりは、上賀茂や下鴨の女性で、野菜の行商です。いわゆる振り売りで、南京などを入れているよう。

 着衣や前垂は紺絣、帯が木綿の浅黄か縮。衣服はからげない(つまり白い腰巻が見えない)ので、やや地味な印象です。
 上賀茂は、今でも賀茂ナスや漬物「すぐき」で有名ですが、都市近郊の蔬菜栽培を行ってきた地域でした。


 最後に、再び大原女

 改めて、同書に掲載された大原女の写真を見ておきましょう。

 『日本地理大系』より大原女
 『日本地理大系』より「大原女風俗」

 なんとカラーです。こうなると、民俗学的な色彩は薄れ、観光資源の趣きですね。

 『日本地理大系』より大原女
 『日本地理大系』より「八瀬口にて」

(前略)重い薪の束を頭上に戴き花の枝を折り添へて「黒木召せ」と呼び歩き京の名物となつた。この姿は昔阿波内侍が建礼門院に仕へ侍りし時、山に柴を刈りに出た哀れ深き姿である。然し八瀬大原の女は決して絵のやうな手弱女ではなく、腕力体格男児に劣らず、薪を満載して往復四十粁[キロ]の山路を日帰りする。(後略) (66ページ)
 
 解説とともに、この写真を見ると、「大原女」というイメージを破る力強い女性の姿が浮かび上がってきます。

 最後に、この一枚。

 『日本地理大系』より大原女
 『日本地理大系』より「大原女」

 二人の大原女ですが、右の女性は、前回紹介した写真の女性と同じと思いませんか?

 『日本案内記 近畿篇上』より大原女
 前回紹介した『日本案内記』の大原女

 背景、路面等までよく見ると、まったく同じ時に撮影したものと察せられます。
 鉄道省『日本案内記 近畿篇上』は昭和7年(1932)刊ですから、改造社版『日本地理大系』(昭和4年=1929)が先に発刊されたことになります。すると、『日本案内記』が改造社から写真を借用したのか、それとも第三の撮影者がいて、どちらもそこから提供を受けたか、ということになります。
 そのあたりはよく分かりませんが、他の書籍などを探ってみると、もっと彼女が登場しているかも知れません。

 このように、人気の高かった行商の女性たちも、戦後は徐々に姿を消していくことになります。
 昭和42年(1967)刊の『近畿の観光地理』には、このように触れられています。(適宜改行しました)

 北白川といえば思い出されるのが、花売りの白川女であろう。近郊農業の特色として北白川の畑地では花がさかんに栽培され、三幅前垂に手甲脚絆、頭に大きなかごを乗せた花売娘が町から町へ花を売り歩いたものであった。
 しかし、宅地化が進むにつれ、今では花畑をみつけることすら困難になってきた。したがって白川女が得意先へ届ける花は主として南志賀、大津方面から仕入れたものである。
 頭にかごをのせる風俗ももはやみられなくなった。リヤカーを引いて町へ出かける彼女たちの中に若い女性はもうみられない。老人の完全な内職となってしまった。(54ページ)


 戦後わずか20年。高度経済成長の社会変化の中で、古い伝統も変容を余儀なくされたのでした。




 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『日本百科大辞典』第2巻、三省堂書店、1909年
 『日本地理大系 7 近畿篇』改造社、1929年
 『日本案内記 近畿篇 上』博文館、1932年
 藤岡謙二郎ほか編『近畿の観光地理』地人書房、1967年
 安国良一「近世京都の庶民女性」(『日本女性生活史 3 近世』東京大学出版会、1990年所収)



戦前は “大原女” が大ブーム?!





『京都』より大原女(部分)


 どの本を見ても出てくる「大原女」

 京都の北郊、八瀬、大原。

 八瀬といえば「かま風呂」、大原といえば「大原女」と、昔は相場が決まっていました。
 特に、大原女(おはらめ)は、諸々の案内書に必ずといってよいほど登場し、大正から昭和にかけては写真で紹介する格好の題材になっていました。

 しばしば引用する北尾鐐之助の「近畿景観」シリーズ(創元社刊)。その第1巻『近畿景観』(1929年)の表紙は、こんな雰囲気です。

 『近畿景観』表紙

 おそらく、京都の五重塔。八坂の塔か東寺の塔か、はたまた御室の塔なのか。
 近藤浩一路の絵。浩一路は、漫画家としても水墨画家としても知られていますが、金文字を巧みに用いた本書の装丁は秀逸です。
 その裏表紙。

 『近畿景観』裏表紙

 なんと、大原女。
 やはり近畿といえば京都、京都といえば大原女なのでしょうか。


 大原女、高雄女、いろいろあって

 どんな本にも出てくるくらいなので、たぶん百科事典にも解説されているだろうと、三省堂の『日本百科大辞典』を繙いてみます。その解説は、こうです。(適宜改行しています)

 おはらめ(大原女)
 柴・薪・花・梯子等を頭に戴きて京都の市街に出で商ふ京の近郷の婦女の称。愛宕[おたぎ]郡八瀬・大原(芹生・古知谷等の諸村の泛称)の里より出づるもの最も古く且多きより概して「おはらめ」といふ。
 されど実際はこれらの里のほかに高雄(梅畑村・植尾村等)・中川郷若くは白川・賀茂等より出づるものも少なからず。
 これらの村里のものには各々特有の風俗・礼儀・作法等ありて、明にこれを区別し得べし。京にては矢背[やせ]大原女・高雄女[たかおめ](俗に畑のおばともいふ)・中郷女[なかがわめ](中川郷女の略)などと区別す。矢背大原女は高雄女よりも頭に戴くもの軽く、姿も艶なり。八瀬より京の端までは三里ばかり、大原よりは四里余にて、此間は品物を牛馬におはせて来るなり。
 高雄女はみにくき方にて言葉遣ひもあらく、剛なるものは二十四貫ほどの重荷を戴くと云ふ。又其特徴として煙草をくゆらすを誇りとす。京まで三里余の路を往復し、夜は十二時に至るも売らざれば帰らず。すすめ売するものも多し。
 中郷女は材木類のほか、他の品を商はず。多くは材木商の妻女・姉妹にて又女は美貌なれど、言葉は頗る賤し。中郷女は短袴を穿ち、頗る異様なり。
 すべて大原女の風俗は、脚に脚袢を穿き、手には甲掛を穿つ。其村々によりて小異あり。
 白河・下鴨等より出づるものには又花売を多しとす。通常菖蒲・「さつき」など野生のまゝを折り来りて商ふなり。
 概して大原女の出づる村々の男子は多く市中に来らず。家に在りて梯子・茣蓙[ござ]などを作り、或は農業を主とし、其間に山に入りて木を樵りなどし、妻女をして市に鬻[ひさ]がしむるなり。婦女は雨の朝も雪の朝も、一日にても京に出でざるはなく、殊に高雄女は其日に得たるだけの銭を以て米・醤油の類を求め帰りて、明日の「かて」に充て、敢てこれを貯ふることなしと云ふ。(『日本百科大辞典』2巻、109-110ページ)


 とても詳しい記述です。
 大原女は、大原や八瀬の女性であること。京都北郊の大原女のほかにも、西郊の高雄女、中郷女といったものがあったこと。扱う商品も土地によって異なること。風俗も地区によって違うこと、などが分かります。
 それぞれの見目形に触れているのは時代としても、中郷女は土地柄で材木(北山杉?)のみを扱い、都に程近い白河、下鴨などの女性は花売りが多いなど、行商品が異なっている点も興味深いです。
 それらの中で、大原女が諸書によく登場したのは「姿も艶なり」だったからでしょうか。脚絆に手甲というスタイルが魅力的だったのかも知れません。

 同書は、「都名所図会」巻3の絵を挿図として紹介しています。

「都名所図会」

 京都までの3~4里(12~16㎞)は牛馬に荷を負わしてくる、という姿を表しています。柴や薪を運んでいますね。

 「都名勝図会」

 着物の雰囲気がちょっと艶かも。


 写真に見る大原女

 昭和3年(1928)に小塙徳子が書いた随筆には、当時から20~30年前(つまり明治30年代頃)の大原女の姿が、次のように描写されています。

 御所染の帯に絹房の腰紐、形の木綿、裾清げな白はゞき白たび白の甲掛、大原女わらじ、浅黄手甲、落し髷と称する御所風の押へつと匂やかな黒髪を、そつとおほつた紺地刺繍の飾り手拭、かね黒く眉跡青い典雅な面輪がそれらの中にポツと浮く。(小塙徳子「大原街道」、『京ところどころ』所収)

 美しい大原女の姿です。

 次は写真で。

 『新撰京都名勝誌』より大原女
 『新撰京都名勝誌』より

 木橋を渡る大原女。


『京都』より大原女
 『京都』より

 足元の白い脚絆が目立ちます。

 『日本案内記 近畿篇上』より大原女
 『日本案内記 近畿篇上』より

 典型的な大原女スタイル。頭には手拭、藍染の着物、御所染の帯は前結びにし、白い腰巻を見せ、脚絆に二本鼻緒の草鞋。背景には茅葺の民家が写っています。民俗学的なにおいのする写真ですね。

 戦前、案内書に紹介される京女といえば、舞妓、芸妓と大原女。舞妓さんらは今でも祇園などで見掛けますが、さすがに大原女は見ることができないでしょう。
 洛北で育った私の少年時代には、まだ行商の女性が大勢リヤカーを曳いて商いをされていました。多くは、農家の奥さんだったのでしょう。さすがに手甲、脚絆の大原女姿ではなかったかも知れませんが、かすりの着物を着たりして、情緒があったものです。
 そのような姿も、さすがに過去のものになってしましました。




 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『日本百科大辞典』第2巻、三省堂書店、1909年
 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年
 『京ところどころ』金尾文淵堂、1928年
 『京都』京都市役所、1929年
 北尾鐐之助『近畿景観』創元社、1929年
 『日本案内記 近畿篇 上』博文館、1932年