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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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いつの時代もマナーは大事じゃ

洛東




「花洛名勝図会」より三十三間堂


 三十三間堂の扉にある “しみ” の正体は?

 幕末の名所を紹介した「花洛名勝図会」を眺めていて、ふと気付いたのです。

「花洛名勝図会」より三十三間堂
 「花洛名勝図会」巻7より「三十三間堂後堂射前之所」

 以前にも取り上げたことがある三十三間堂の西庇の図。
 4、5人の侍が縁の上を歩いてきます。そして、“ここが、かの有名な「通し矢」を射るところじゃ”などと、名物・通し矢の話に花が咲いています。
 ところが、その目の前にある扉。今日のテーマは、こちらです。

 「花洛名勝図会」より三十三間堂

 扉に何か、黒いぐねぐねとした線が数本画かれています。

 「花洛名勝図会」より三十三間堂

 左扉も同様で、こちらはちょっと点々ぽくも見えます。

 勘のよい方は、もうこれが何か気付かれたことでしょう。


 大仏の鐘楼にも

 違った場所でも確かめてみることにしましょう。

 方広寺。
 三十三間堂の北、大仏で有名だった寺院です。その大きな釣鐘は今も健在。

方広寺鐘楼
  方広寺鐘楼

 こちらが「花洛名勝図会」の挿図です。

「花洛名勝図会」より大仏鐘楼
 「花洛名勝図会」巻7より「大仏鐘楼東面より望むの図」

 いまのように柵はないので、大勢の人が鐘見物に群がっています。
 その画面の端の方、太い柱をよく見てみると……

「花洛名勝図会」より大仏鐘楼

 明らかに、文字が書き付けられていることが分かります。
 
 そう、これは落書きなのです。

 じっくり見ると、女性の頭の右上には、おそらくは「江戸深川住」という住所と、たぶん「明伊てる人」という名前が記されています! まあ「あかるい てるひと」は言葉遊びですけれども、はっきりと住所、氏名ですね。

 いつの時代も、訪問年月日、住所、氏名を書くのが定番です。
 先ほどの三十三間堂の扉の“しみ”も、やはり落書きなのでした。現在と異なり、縁の上を自由に歩けたのですから、筆記具である矢立てを持っていれば、簡単に落書きできます。

 実は私は、変な趣味ですが、寺院の落書きを見るのが愉しみなのです。
 建物の扉や壁をよく観察すると、墨書による文字やその痕跡が発見できます。差し障りがあるので名前は伏せますが、有名な建物でも無数の落書きが記されているものもあります。それらの一つ一つをじっくり読んでいくと、参詣に来た往時の人々の息遣いが伝わってきます。

 三十三間堂も、堂内で探すと結構書き付けられていることが分かるでしょう。
 そして、興味深いのは、こちら。

 三十三間堂
  三十三間堂の北妻側の落書き

 北の妻側の板壁に、このような墨書があります。

三十三間堂
 拝観口から入ってすぐのところ。松の木の後ろあたりに書かれている

 堂の下から眺めると少々高い位置ですが、縁の上で書いたとすれば納得できます。

 「膳所家中/上坂三郎」と読めます。

 近江・膳所藩(現在の滋賀県大津市)の藩士が書いたものです。上坂三郎がどんな人物なのかは残念ながら分かりませんが、近江から所用で京へ上った途次、三十三間堂に参拝した際に落書きしたのでしょう。
 少なくとも150年以上前のものですから、すでにもう文化財の一部になっています。

 5年ほど前にも、イタリア・フィレンツェの大聖堂に落書きをした日本の大学生がいてニュースになり、さらにイタリアの人々が「寛大」な対応を取ったということで話題になりました。
 国内の寺社を見る限り、良くも悪くも、落書きは日本人の旅の「文化」だったようです。それが現在まで続いているともいえます。
 落書きを礼賛するわけではありませんが、寺社などを参詣した際に、人はなぜ落書きをするのか? その意味を少し考えてみた方がよい気がします。それもまた、信仰のひとつの形と捉えることができるかも知れないからです。
 私たちは何事にも「近代的」な尺度によって善悪を判断しがちですが、落書き=いけない行為と決め付ける思考には慎重であらねばなりません。

「花洛名勝図会」より三十三間堂

 といっても、文化財愛護の観点からは、やっぱりよろしくない行為であるのは確か。
 この中に上坂三郎殿がおられるかどうか定かではありませんが、文化財保護上は許されない行為なので、くれぐれもなさらぬように。




 三十三間堂(蓮華王院)

 所在 京都市東山区三十三間堂廻り町
 拝観 大人600円ほか
 交通 京阪電車七条駅下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 

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たいまつを焚いて神幸を迎えた松明殿稲荷は、七条大橋畔にある





松明殿稲荷神社


 七条大橋の畔の小祠

 鴨川を渡る七条通に架かる七条大橋。

七条大橋

 その西詰に小さな神社があります。
 私も、七条通はよく通るのですが、これまで社号を眺めるだけで、なぜかお詣りしたことはありませんでした。
 しかし、その社号が変わっているのです。

 「松明殿稲荷神社」

 「たいまつでんいなり」神社と読みます。
 なにやら、いわくありげな名前ですね。


 「松明殿」という名の由来

松明殿稲荷神社

 冒頭写真の石鳥居、実は目の前が七条通で、写真も歩道の外に踏み出して撮っています。境内は、随分と狭いです。
 ところが、意外に著名な神社で、「都名所図会」巻2(1780年)にも登場しています。

「都名所図会」より松明殿稲荷神社
 「都名所図会」より「七条河原松明殿」

 流れの速い鴨川に、長い七条大橋が架かっています。そこを行く一隊の行列。橋の畔の松明殿稲荷の前を通っています。
 伏見稲荷の稲荷祭の神幸の図です。

 稲荷祭は、三月中の午の日に、伏見稲荷から御旅所への神幸が行われます。また、四月上の卯の日には、御旅所から本社へ戻る還幸があります。御旅所は、八条油小路下るで、JR京都駅の南西(イオンモール京都の西側)にあります。
 伏見稲荷から御旅所に向かう道筋は、伏見街道を北上し、鴨川を渡って七条通を西へ進むものでした。
 名所図会の図は、京の人々に親しまれた神幸の列が、まさに七条大橋を渡る場面を描いているのです。

「都名所図会」より松明殿稲荷神社
 「都名所図会」の松明殿稲荷

 図には、入母屋造の本殿と拝殿、そして現在と同じく七条通に面した鳥居が画かれています。
 よく見ると、通りの北側の町家の人達が、列を眺めている様子も描いてあります。

 松明殿稲荷という名前の由来の一端は、下の拡大図でよく分かります。

 「都名所図会」より松明殿稲荷の大たいまつ

 鴨川の河原で大たいまつを焚いて、神幸を迎えたのです。
 まさに松明殿。「都名所図会」には「炬火殿」という表記もなされています。

 古くは、天暦10年(956)の燎祭が行われた際、「炬火殿」の号を賜ったとされます。ただし、この時の社地は八条油小路の北だったといいます。


 木食上人の井戸と手水鉢

 境内には、ひとつ目を引くものがあります。

松明殿稲荷神社
  手水舎

松明殿稲荷神社

 手水舎に据えられた手水鉢(左)と井戸(右)。
 これが、由緒あるものだそうです。

松明殿稲荷神社

松明殿稲荷神社

 「松明殿/手洗水」と刻された手水鉢の左側面には、写真下のように願主の名が記されています。
 そこには、読みづらい場所なので下部まで見えないのですが、「願主/木食養阿上□」とあります。最後は「上人」なのでしょう。

 井戸には、

松明殿稲荷神社

 「養阿水」とあります。

 これは、江戸中期、木食上人として知られた養阿(木食正禅養阿、?-1763)が奉献したものと言われます。脇の立札には、宝暦2年夏に寄進された旨が大書されています。どうやら、手水鉢に刻銘があるようです。たいへん見えづらいのですが、右側面を覗き込んでみると、「宝暦四甲戌[年]」という年紀と「夏六月吉[日]」という文字がうかがえます。宝暦4年(1754)6月に奉納された手水鉢ということが分かります。

 ところで木食上人とは、一般的な呼び名で、五穀を断って木の実や草などを食べながら修行した徳の高い僧を指します。
 木食正禅養阿は、五条坂の安祥院に堂宇を再建(1725年)した僧として知られ、丹波・保津村(現在の亀岡市)の武家の出で、高野山で木食行を積みました。京都では、東海道の日ノ岡峠(山科-三条間)の整備などを行っています。

「都名所図会」より日の岡
 「都名所図会」より日の岡

 養阿が切り下げの改修を行った日ノ岡。中央に「木食寺」が描かれています。
 彼はここに接待所を設け、量救水(亀の水)によって旅人や牛馬の喉を潤しました。
 「都名所図会」には、

 木食上人住して坂路を造り牛馬の労を助く。量救水ハ石刻の亀の口より漲る。炎暑の節、旅人の渇を止むといふ

 と記されています。

 手水鉢、井戸とも養阿自身が設けたもののままなのか、少し不分明ですけれど、その名が刻まれて長く伝えられているところに、上人の徳がしのばれます。




 松明殿稲荷神社

 所在 京都市下京区稲荷町
 拝観 境内自由
 交通 京阪電車七条駅下車、すぐ



 【参考文献】
 
 「都名所図会」1780年
 日本歴史地名大系27『京都市の地名』平凡社、1979年


京都観光、80年前はどこへ行く?

寺院




『鉄道旅行案内』


 大正のベストセラー『鉄道旅行案内』

 旅のお伴に旅行ガイドブック、というのは、昔も今も変わりません。

 明治時代以降のガイドブックについてみると、明治、大正頃までは写真が入らない(あるいは口絵だけにしか写真がない)ものが一般的ですが、昭和初期にもなると本文中にも写真が挿入され、よりヴィジュアルになってきます。
 全国をカバーする案内書のベストセラーは、明治後期から定番化した『鉄道旅行案内』でしょう(冒頭の写真)。これは、鉄道省(のちの国鉄)が編纂した“官製”のガイドブックです。ただ、『鉄道旅行案内』は、大正時代がブームの中心なので、写真ではなく吉田初三郎の鳥瞰図や挿絵が売り物だったのです。

『鉄道旅行案内』
  『鉄道旅行案内』大正15年版の挿絵(京都の部分)

 こちらは京都の一部分ですが、舞妓さん、大原女、高山彦九郎(三条大橋畔)、大石蔵之助(祇園&山科)、天智天皇(御陵)など、古風なモチーフを描いています。


 谷口梨花の京都観光の印象

 その『鉄道旅行案内』の編集に携わっていた人に、谷口梨花(たにぐち・りか)という人物がいます。自著としても、博文館などからガイドブックや随筆をたくさん上梓しています。代表的な著作のひとつに『汽車の窓から』があって、大正7年(1918)から版を重ねたガイドブックとして、これもベストセラーになりました。西南部編と東北部編の2冊構成で、「車窓から見ゆる景観」に着目し「車中に於ける無聊を慰むる」目的で出版されたものといいます(同書例言)。

 即ち車窓に於てこの書を繙けば、其車窓より見ゆる景観が、旅行者の目に活きて来る訳である。山川風物皆意義を有[も]つて車窓の人の目に映ずる訳である。

 もちろん、「汽車を下りて案内する」ことも忘れず、沿線ごとに全国をカバーする旅行案内書となっています。

 「京都と其附近」については、47ページも割いて紹介されています。駅でいうと、山科と京都。「大阪及附近」が24ページですから、かなり大きな扱いです。
 ここでは梨花の京都観光についての感想をみてみましょう(適宜改行しています)。

 京都の見物には幾日かゝるか、夫[それ]は見物する人の心々である、只一通りの見物で済まさうとするには三日位でも好い、五日あれば充分だ、しかし充分に落ついて見物するには、如何[どう]しても十日なくては出来ぬ、歴史的に美術的に、研究的態度で調査しかゝると、それは又一月や二月でも足りぬ。

 と、いきなり物凄いことを言い始める梨花。
 一般の観光客は、三日で精一杯でしょう。
 そして、彼は、ある時の京都旅行の実際について述べ始めます。

 私は嘗[かつ]て東京を午後四時発の急行列車に乗つて、翌朝午前五時半に京都に著し、同夜九時京都発の急行列車で、翌朝九時半に東京へ帰つたことがある、即ち土曜の午後に発つて月曜の朝帰つた訳だ、娘を同行して京都の概念を与へるためであつた。

 娘さんも大変……

 私達は京都に著くと直に汽車で嵐山に急いだ、十一月の十二日で紅葉にはちと早かつたが、静な朝景色をしんみりと味はつた、茶屋もやうやう起きたばかりで、綺麗に箒目を立てゝ居た。嵯峨から又京都へ引返して駅で朝食をして、今度は奈良行の汽車に乗つた、桃山御陵に参拝する為である、御陵を拝し乃木神社に詣でて、又京都へ引返したのが十一時、夫から市中を見物した。

 そして、ようやく京都の市街に入ります。

  先づ東西本願寺を見せて、七条通りから三十三間堂近くまで電車で行き、其処から東山一帯の名所を見せて清水で昼食、南禅寺から引返し、平安神宮を見て御所を拝した時はもう日の暮々、電車で新京極に行つて夕食、祇園から四条通りをぶらついて、汽車の時間を計つて停車場に帰つた、
 これでもやはり京都見物である、つまり東京から土曜日曜にかけても見物が出来るのだ、若し二日休みが続けば奈良へ廻つても好い訳だ。


『汽車の窓から』より嵐峡
 谷口梨花が訪ねた嵐山(『汽車の窓から』より)

 たいへんな強行軍なのですが、昔の人(江戸時代も明治以降も)は、“早回り”が普通です。大正時代ですから、こんな感じなのでしょう。
 新ためてまとめると、こんな旅行でした。

 【第1日=土曜日】
  夜行列車で、東京から京都へ。
 【第2日=日曜日】
  早朝5時半、京都着。
  嵐山へ。
  京都駅へ戻り、朝食。
  午前、桃山御陵、乃木神社。
  11時、東本願寺、西本願寺、東山一帯を観光(三十三間堂、清水寺など?)
  清水で昼食。
  午後、南禅寺、平安神宮、京都御所。
  夕方、新京極で夕食。
  祇園、四条通を散策、京都駅へ戻り、9時の夜行列車に乗車。
 【第3日=月曜日】
  午前9時半に東京へ戻る。

 正味1日の観光ですが、嵐山と桃山御陵へ行って、あとは東山界隈の散策、および平安神宮と京都御所です。
 1日にしては、盛りだくさんですが、さすがに慌ただしく真似したいとは思いませんね。


 京都観光のモデルルート

 大正から昭和初期でも、京都観光のモデルルートは、たくさん提示されています。
 今回は、現在のJTB(当時の日本旅行協会=ジャパン・ツーリスト・ビューロー)が刊行した『旅程と費用概算』(1935年)からピックアップしてみましょう。この本も、JTBの推薦コースですから、一般的な選択が示されています。

『大京都誌』より京都駅
  京都観光の出発場所・京都駅(先々代の駅舎) (『大京都誌』より)

 まず、遊覧自動車による1日観光です(京都遊覧自動車による)。
 午前8時と9時に京都駅出発。1巡8時間で「婦人案内人附」、つまりバスガイドさんが同行します。大人3円50銭なので、現在の感覚で7000円くらいでしょう。
 コース表には“車窓観光”も含めて記載されていますが、ここでは下車して見学する場所だけ列記してみます。

 ・桃山御陵、桃山東陵、乃木神社
 ・伏見稲荷神社
 ・豊国神社、大仏殿
 ・三十三間堂
 ・清水寺、新高尾、音羽ノ滝
 ・八坂神社、円山公園
 ・知恩院
 ・平安神宮
 ・銀閣寺
 ・梨木神社
 ・御所
 ・北野天満宮
 ・金閣寺
 ・西本願寺、東本願寺
 ・嵐山

 本当に1日で回れるのか不思議です。
 桃山御陵、乃木神社、梨木神社(祭神:三条実美ら)といったコースが、時代を感じさせます。
 ちなみに、現在の京都定期観光バスの1日コースは、平安神宮、嵐山(散策あり)、金閣寺、清水寺ですから、3~4倍のボリューム? といえるかも知れません。現在のお値段は6,460円で、80年前とほぼ同じなのがおもしろいです。

 『旅程と費用概算』には、2日、3日のコースも紹介されていますが、3日かけると市街に加えて、鞍馬、比叡山、愛宕山まで、ほとんどの名所を回れる設定で驚かされます。


 『大京都誌』の観光

 昭和7年(1932)に『大京都誌』という書物が刊行されましたが、ここでも京都の観光について1章を割いています。

 まして京都のやうに名勝と古蹟に埋つたやうな所は、遽[にわ]かに考へるとそれからそれへと気が移つて、どうもよい日程が立ちにくい。さりとて筆者が勝手に日程をつくつて、この順にご覧なさいと申したのでは、上戸に羊羹をお勧めするやうな場合があらうも知れない。
(中略)
 併し筆者の経験から申せば、余り観光能率に重きを置かれた結果何処へ行つても納得の行くほど観た所がなく、至るところで急き立てられた点だけが印象を残してゐる。読者諸君も二度と京都へ来ないと誓ひを立てゝ観光される訳でもあるまいから、一概に数を貪るといふよりも、今度観た所は此の次に省いてもよいやうに、多少ゆつくり御覧になる方がよろしくはあるまいかと思はれる。


 と、ユーモラスに至極もっともな注意を加えて、次のようなプランを記しています。

 【1日日程】
 (甲)夜行列車で、早朝京都に着くプラン
 ・東本願寺
 ・三十三間堂、博物館、豊国神社、耳塚、大仏(方広寺)
 ・西大谷
 ・清水寺
 ・高台寺
 ・東大谷
 ・円山公園、八坂神社
 ・知恩院、青蓮院
 ・疏水インクライン
 ・南禅寺
 ・岡崎公園、平安神宮
 ・京都御所
 ・下鴨神社
 ・金閣寺
 ・北野神社

 先ほどの注意とは打って変わって、1日で回り切れるか心配なボリュームです。ただ、おおむね東山中心なので、もしかすると可能かも?

 (乙)前日一泊するプラン。三条大橋から出発
 ・疏水インクライン
 ・南禅寺
 ・岡崎公園、平安神宮
 ・北野神社
 ・金閣寺
 ・下鴨神社
 ・京都御所
 ・東本願寺
 ・三十三間堂博物館、豊国神社、耳塚、大仏(方広寺)
 ・西大谷
 ・清水寺
 ・高台寺
 ・東大谷
 ・円山公園、八坂神社
 ・知恩院、青蓮院
 ・西本願寺

 回る順序が違うだけで、ボリューム満点なのは変わりありません……

 同書にも、遊覧バスによる観光ルートが紹介されています。観光地は、先の『旅程と費用概算』にほぼ同じなので省略し、コメントだけ引いておきましょう。

 筆者も本書を草するために、内々一度実験を試みたが、案内婦人の説明も、専門家ならぬ一般観光客に対しては、先づあの位の辺でよからうと肯かれる。ほめてよいところはチツプ厳禁といふ風紀の厳粛ぶりと、指定食堂がこれも風紀のよい信用の厚い家である等で、
(中略)
総案内箇所は驚く勿れ殆んど八十、車上説明観覧五十有余、下車観覧が二十四五箇所といふ大盛りである。


 やはり当時でも、案内箇所が多くて驚嘆だったのでしょう。
 
 今では80年前の観光法を真似するわけにもいきませんが、できればゆっくりと味わって観光してほしいと願うばかりです。




 【参考文献】
 鉄道省『鉄道旅行案内 大正15年版』博文館、1926年
 谷口梨花『増訂 汽車の窓から 西南部』博文館、1918年
 日本旅行協会『旅程と費用概算』博文館、1935年
 野中凡童編『大京都誌』東亜通信社、1932年


大仏餅に伏見人形、大和大路~本町通も、古きをたずねるとおもしろい

洛東




伏見人形


 三条大橋、大和大路をスタートして…

 前回、大和大路について取り上げました。その界隈も、興味深い話題が尽きないのですが、せっかく大和(奈良)へ至る街道ですから、少し歩いてみてはいかがでしょうか。

三条大橋
  三条大橋

 旅のスタートは、やはり三条大橋。
 東海道の起点、終点であり、往時から旅籠なども多かった場所です。三条京阪のターミナルを南に出ると、もう大和大路。通称「縄手通」です。

縄手通
  縄手通


 白川に架かる大和橋を渡ると、すぐに四条通です。
 そこから五条通までは約1km。意外に近いんですよ。

 少し前まで、四条通を下がったところに、確か大和会館という近代建築の雑居ビルがあったのですが、(おそらく)2012年に取り壊されてしまいました。昭和初期頃の建物でしたが、残念です。
 大和大路の左手には建仁寺がありますので、寄ってみてもよいかも知れませんね。

建仁寺
  建仁寺


 本町通は、かつては商家の賑わい

 五条通より先は、西(鴨川寄り)に本町通がありますので、そちらを歩くとよいでしょう。

本町通
  本町通

 本町通は、伏見に至ることから「伏見街道」とも呼ばれます。その両側の町は「本町」ですが、1丁目から22丁目! まである南北に長い町で、約3kmにわたります。南端が東山区の南の端(伏見区との境)になっています。

 稲荷大社や伏見の町に至るにぎやかな街道筋だったので、さまざまな商家が軒を連ねていました。江戸後期の「京羽二重大全」には、次のような商売が記されています。

 菓子屋、油屋、酒屋、筆屋、馬借、鍔[つば]屋、やすり屋
 扇屋、からくり人形司、大仏餅、道具屋、薬屋、墨屋、茶屋
 籠屋、きせる屋、楊枝屋、紙屋、合羽[かっぱ]屋、大工道具
 棟屋、鎌鍛冶、火打ふくろ、竹枝、土人形、地黄煎、種物類
 くつわ、瓦師

 実に多種多様です。


 「大仏餅」が名物!

 なかでも一番有名なのは「大仏餅」でしょう。これは、大仏の鎮座した方広寺の前にあった餅店です。本町通四丁目にありました。
 「都名所図会」(1780)には、「其味[あじわい]美にして、煎[にる]に蕩[とろけ]ず、炙[あぶる]に芳して、陸放翁が炊餅、東坡が湯餅におとらざる名品なり」と、中国・南宋の詩人である陸游と、北宋の蘇東坡の名まであげて称賛します。
 幕末の「花洛名勝図会」(1864)は、「其味ひ美にして、煎に蕩けず、炙に芳しく、浪花の虎屋饅頭と相伯仲す。遠近に名高く洛東名物の一なり」と、ほぼ「都名所図会」を引きながら、平易に大坂の虎屋と比較するところが愉快です。

 「花洛名勝図会」より大仏餅店
  「花洛名勝図会」の大仏餅店

 江戸時代の看板は、時代劇などとは異なり、店から道路に向かって垂直に掲出されていました。ところが、大仏餅店の看板は、通りと並行に掲げられています。これが珍しく、また立派な唐破風を付けていることから、著名な看板でした。その文字は、妙法院の堯然法親王が揮毫したとも言われ、格が高いと考えられていたのです。
 絵では、よく読めませんが、短い水引暖簾には「洛東名物大仏餅」と書かれ、これは池大雅の筆といいます。
 奥で、杵で餅を搗いているのがリアルですね。

 と、長々と説明しましたが、この餅屋さんは今はなくて、想像するだけなのが残念です。


 伏見には「伏見人形」

JR東海道本線

 七条通を過ぎてしばらく行くと、本町通はJR東海道本線にぶつかります。やむを得ず、跨線橋で線路を越えて歩を進めましょう。

 往時の一の橋、二の橋などの跡を通って南下すると、一軒の商家が……
 これが先ほどの史料にもあった、かつての「土人形」を商う店です。

伏見人形の丹嘉
  丹嘉

 伏見人形の老舗「丹嘉(たんか)」。寛延年間(1748-51)の創業。幕末頃には合わせて50軒ほどの窯元があったといいます。

 伏見人形というと、稲荷ゆかりの狐のほか、代表的な饅頭喰いや布袋さんなど、多様な人形があります。ただ、京都や大阪の遺跡から出土する江戸時代のものを見ると、素朴で小さなものが大半ですが、種類は今日以上に豊富です。こどもの玩具や土産物、お飾りなどとして重宝されたのでしょう。

 都名所図会より伏見人形
 「都名所図会」の伏見人形

 こちらは「都名所図会」に描かれた伏見人形売りの様子。路傍に床几を出して土人形を並べています。奥に、大ぶりな狐と布袋さんが立っています。手前は、宝珠のようなものなど、小ぶりの品が置かれています。こどもから通りすがりのお侍まで、みんなに人気のようです。

 丹嘉を過ぎると、ほどなく伏見稲荷大社です。

伏見稲荷大社
  伏見稲荷大社

 三条からここまで、5kmほどの行程です。
 意外に近く、休日のウォーキングとしても好適なのではないでしょうか。




 本町通(伏見街道)

 所在 三条大橋~伏見稲荷大社(京都市東山区~伏見区)
 行程 徒歩で約5km
 交通 京阪電鉄三条下車



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「再撰花洛名勝図会」1864年
 日本歴史地名大系27『京都市の地名』平凡社、1979年
 田中緑紅『京の京の大仏っあん』京を語る会、1957年
 『ビジュアル・ワイド 京都の大路小路』小学館、2003年 



東山の繁華街を貫く「大和大路」、その名は何に由来する?

洛東




「花洛名勝図会」より大和橋


 祇園の繁華な通り

 鴨川の東、祇園の三条から四条にかけての一帯は、料理店、古美術商、スナックなどが立ち並び、祇園新橋のあたりは2時間ドラマでお馴染みの“京都らしい”地区といわれます。

 鴨川に沿った川端通は、私が学生の頃までは京阪電車の軌道敷で、その地下化に伴い道路になりました。そのため、古くは鴨川沿いの道といえば、もう1本東の大和大路で、特に三条と四条の間は「縄手(なわて)通」と呼ばれています。鴨川の堤に敷設された道路です。

縄手通
 看板に「祇園縄手繁栄会」。 祇園を冠して呼ばれることが多い

 縄手とは、あぜ道や真直ぐな道を指す言葉で、「縄手」とも「畷」とも書かれます。例えば、大阪府高槻市には「八丁畷」という道路がありますが、これも延長が8丁(900m弱)ある道ということだったのでしょう。


 「花洛名勝図会」の大和橋、大和大路
 
 冒頭の写真は、幕末に刊行された「花洛名勝図会」(1864年)の「縄手通 大和橋」の挿図。
 川は白川。橋は石橋で、簡単な高欄が付けられているのが分かります。背後(東側)には、商家や茶屋が並んでいます。
 同書は、大和橋について次のように記しています。

 大和大路三条と四条との間にあり。是、白河の流、賀茂川に入る所なり。大和大路にかくるを以て大和橋といふ。石を以て造る橋なり

 こう記して、近辺や南方には近年遊所が再興され、ますます繁昌している、と述べています。

 鴨川を含めて描いた広域の図。

「花洛名勝図会」より大和橋と縄手
 左に「なハて」、右に「大和ばし」とある(「花洛名勝図会」)

 この図を見ると、大和橋から左(北)は鴨川に沿って茶屋らしき二階家が建っているのが見て取れます。「洛陽勝覧」(1737年)という書物によると、大和大路の西側の多くは茶屋で、59軒もあって茶立(ちゃたて)女という遊女を抱えていたといいます(『京都の大路小路』)。

 大和大路については、

 芝居の東にあり。俗に縄手といふ。三条の橋より南を経て、伏見豊後橋にいたるの通称なり。則、此道を経て南の方、大和国に到るを以て斯ハ号[なづ]けり。尤[もっとも]此道、方広寺の前にてハ大仏門前と謂。
 いにしへ此所ハ左右田圃にして広き縄手の此彼に民家ありしとぞ。故に元結を製するものここに住て、路傍に元結を干て製し、旅人にひさぎしが今尚余風遺りて、此所の名物となる。「縄手元結」の聞え世に高し


 通りの名称については、三条-四条間を縄手通、四条-五条間を建仁寺通、五条以南を大仏仁王門通などと称するようです(『京都市の地名』)。

 「花洛名勝図会」も記すように、この道は遥か大和国(奈良県)に通じる街道の起点であるため、大和大路と呼ばれます。私も、伏見や宇治まで歩いたことがありますが、起点の三条大橋からまず大和大路に入ってスタートを切るのでした。
 五条通からは本町通と並行し始めますから、そこからは本町通をずっと下って行くと伏見稲荷へと至ります。三条から稲荷までは約1里、1時間の行程で、意外に京都市街から近いことが分かります。


 名物の元結

 ところで、上の引用では、<昔は、民家で髪を結ぶための元結(もとゆい、もっとい)を製造して売っていたため、これが当地の名物「縄手元結」になった>と記しています。
 元結とは、江戸時代、髷(まげ)を束ねるために使った糸で、紙の「こより」で作られていました。
 京都では、この縄手が元結屋の集まっているところとして知られていました。製造の上では、鴨川の河原が格好の元結の干し場となり、また売買上では、東海道の起終点である三条大橋に程近く、旅人相手に商いをすることができました。
 天保2年(1831)の「商人買物独案内」を見ると、7軒の元結屋が掲載されていますが、その6軒までが当地に店を構えています。名前をあげると、

 吉文字屋平兵衛
 吉文字屋重助
 吉文字屋彦兵衛
 吉文字屋喜兵衛
 亀甲屋勘兵衛
 藤屋喜兵衛

 吉文字屋という屋号が多いですね。亀甲屋も名のある店です。
 そう思って、改めて「花洛名勝図会」を見てみると、大和橋南詰の2軒目の店が気になります。

「花洛名勝図会」より大和橋(部分)

 旅人が店を覗いているのですが、軒先に何やら吊るしてあります。

 「花洛名勝図会」より大和橋(部分)

 もしかして、この吊ってあるものが元結? とも思ったりします。
 江戸時代の元結の売り方を知らないので何ともいえないのですが、ひとつの想像ですね。
 

 現在の大和橋は、デザインも歴史的

 白川に架かる大和橋は、古くは木橋でしたが、享保17年(1732)、石橋に架け替えられました。明治初期には長さ8間4尺(約15m)、幅2間2尺5寸(約3.7m)だったそうで、現在よりも大きな橋だったことになります。
 明治末に白川の幅が狭くなったため、明治45年(1912)、橋も小さく架け替えられたようです。
 
大和橋
 
 現在の大和橋。2003年に改修されたものです。
 よく見ると、おもしろいことに気付きます。

「花洛名勝図会」より大和橋(部分)
 「花洛名勝図会」の大和橋(部分)

 高欄のデザインが、江戸時代の石橋のものを踏襲しているのですね。これは、なかなかお洒落です。
 小さな橋ですが、奈良につながるスタート地点と思えば、かなり雄大な橋ともいえるかも知れません。




 大和橋

 所在 京都市東山区元吉町ほか
 見学 自由
 交通 京阪電鉄祇園四条下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「再撰花洛名勝図会」1964年
 「商人買物独案内」1831年(『新撰京都叢書7』臨川書店、1984年 所収)
 日本歴史地名大系27『京都市の地名』平凡社、1979年
 『ビジュアル・ワイド 京都の大路小路』小学館、2003年 


【大学の窓】 江戸時代は “閉ざされた” 時代?

大学の窓





 上京大学(仮称)での日本史の演習、今日はみんなで課題図書を読み、意見交換する授業です。私の教室には十数名が集まってきました。

 今年、私が選んだ本は、田中優子『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫)。初めて取り上げてみました。

 なぜ、この書物を選んだかといえば、最近私が近世日本における中国文化の影響について考えていたからです。

 江戸の想像力


 京都の寺社でいえば、例えば宇治・萬福寺。
 17世紀に来日した隠元をはじめとする僧たちが、明末清初の文化を伝播しました。その一例に書がありますが、それについては、こちらの記事をご覧ください。 ⇒ <萬福寺の聯と額は、京都人の憧れの的>

 中国の書は「唐様」ともてはやされ、儒者から庶民に至るまでブームを起こしました。「売家と唐様で書く三代目」という川柳は、余りにも有名です。

 萬福寺
  萬福寺総門

 『江戸の想像力』の構成は、次のようになっています。

 第一章 金唐革は世界をめぐる-近世を流通するもの
 第二章 「連」がつくる江戸十八世紀-行動本草学から落語まで
 第三章 説話の変容-中国と日本の小説
 第四章 世界の国尽し-近世の世界像
 第五章 愚者たちの宇宙-『春雨物語』の世界

 本書では、江戸のネットワーク、とりわけ海外とのつながりが強調されていますが、学生たちにはその点が意外だったようです。

 いわく、<江戸時代といえば「鎖国」という閉ざされたイメージだった>。

 『江戸の想像力』が出版されたのが1986年。もう30年近く前になります。その後、江戸ブームも到来し、専門的な研究も進んで、江戸時代が“閉ざされた世界”だったという認識は、少し古典的な考え方になっていきました。
 ところが、高校で日本史を学んだ学生たちは、江戸=鎖国=閉じた社会、という認識を持っていたのです。

 さらに、おもしろかったのは、<鎖国中に通交があったのはオランダ>というイメージです。
 実際には、先の萬福寺の例をまつまでもなく(本書にも少しだけ萬福寺が登場していますが)、中国からの影響は多大なものがありました。同じ東アジア、漢字文化圏ですから、当然のことといえるでしょう。高校までの歴史学習では、そのあたりが分かりづらいらしく、驚きだったようです。
 
 この授業での課題図書選びは、ちょっと(かなり?)変化球かも知れないので、学生たちは田中優子さんの自由奔放な展開に少し面食らったようでした。けれども、旧来的な鎖国史観を取り外すには、有効な“ショック療法”になったと思います。


【新聞から】伏見稲荷に田んぼがあった!? - 田植祭行われる -

伏見




伏見稲荷神田


 「輝く水田、五穀豊穣祈る
  伏見稲荷大社で『田植祭』」
  京都 2013年6月11日付


 京都を代表する古社のひとつ、伏見稲荷大社。
一昨年に鎮座1300年祭も終え、その由緒を示したところですが、京都新聞は6月10日に「田植祭」が行われたことを報じています。

 伏見稲荷

 広さ3.3アール(100坪)の神田で、「すげ笠をかぶり、あかね色のたすきをかけた早乙女ら約30人が、苗を丁寧に植えた」そうです。
 秋の「抜穂祭」で、約150kgが収穫される予定といいます。

 伏見稲荷に参拝する方は、本殿にお詣りすると、千本鳥居のある三ケ峰を巡られるでしょう。
 ところが、本殿の北東奥に、ひっそりと田んぼがあることは余り知られていません。これが「神田」です。
 「稲荷」という名があるように、餅を射たところ峰に稲が生じたという秦伊呂具の説話から、穀霊への信仰があります。

 新聞に報じられた田植祭は、古くは永正14年(1517)に行われたという記録があるといいますが、永らく廃絶し、昭和天皇の即位記念として昭和5年(1930)に復活されました。当時の神田は京都府向日市寺戸町で、境内の現在地に移ったのは昭和23年(1948)ということです。
 
 神事としては、4月12日に苗代に種もみをまく「水口播種祭」が行われ、6月10日に田植祭が執行されます。収穫の抜穂祭は10月25日で、稲わらは翌月の火焚き祭で焚かれます。

伏見稲荷神田

 写真は、いずれも2011年11月13日に撮影したもの。
 抜穂祭を終え、稲わらが掛けられている風景です。
 男性数名が作業しています。ずっと見ていなかったので作業内容は不明ですが、お火焚きの直後なので、稲わらを片付けるところなのでしょう。

伏見稲荷神田

 こじんまりとした田んぼですが、商売繁盛の大もとには五穀豊穣への信仰があるということを具体的な形で表している存在です。昭和になって再興させたというところがなかなか興味深く、信仰を視覚化するという点でおもしろい事例でしょう。

 なお、伏見稲荷大社については、こちらの記事もご覧ください。 ⇒ <社号も変われば、社殿も変わる -伏見稲荷大社->




 伏見稲荷大社

 所在 京都市伏見区深草藪之内町
 拝観 境内自由
 交通 JR稲荷駅下車、すぐ



東寺の南大門は、2.5キロ東方から移築された「崩門」





東寺南大門


 変遷を重ねてきた東寺の諸堂

 平安京以来の伝統をもつ東寺(教王護国寺)。市街では古い寺院のひとつですが、その伽藍は他寺と同じく焼亡を重ねて変遷してきました。

 広壮な金堂(国宝)は豊臣氏による再建(慶長8年=1603)、和様が美しい講堂(重文)は室町時代の再築(延徳3年=1491)、五重塔(国宝)は江戸時代の建立(寛永21年=1644)などとなっていて、門には蓮花門(国宝)など鎌倉時代の遺構が多く、校倉造の宝蔵(重文)は山内最古の建築で平安後期に建てられました。

 今回は、重要文化財の南大門を取り上げてみましょう。


 「都名所図会」に見える南大門

 東寺南大門です。

東寺南大門
  南大門(重文)

 単層切妻造、三間一戸の八脚門。かなり大きいので、写真を撮るにも苦労します。

東寺南大門
  内側から見る

 九条通に面していて、近鉄東寺駅などからのアプローチはここになりますが、東寺に見合った規模の大きい門といえるでしょう。

 ここで、少しさかのぼって江戸時代の「都名所図会」(1780年)を見てみましょう。

「都名所図会」より東寺南大門
  「都名所図会」より東寺(部分)

 200年余り前の南大門の姿です。
 一見して分かるように、屋根は入母屋造で重層になっており、現在と形が違っています。つまり、絵の門は現在のものではないということですね。

 寺伝によると、慶長9年(1604)に豊臣秀頼によって復興された南大門は、明治元年(1868)に炎上し、しばらく門がないままでした。
 現在の南大門は、その後、他の場所から移設されたことになります。


 元は大和大路七条にあった南大門

「花洛名勝図会」より三十三間堂
  「花洛名勝図会」より

 上図は、幕末に刊行された「花洛名勝図会」(1864年)の一場面です。長大なお堂は、もちろん三十三間堂。その下には(少し雲に隠れていますが)長い築地塀が続いています。塀の左方に、ひとつの門が開いています。拡大してみましょう。

「花洛名勝図会」より三十三間堂西門

 実は、この門が、現在の東寺南大門なのです。

 当時、この築地塀に囲まれた区画には、大仏殿を中心とする方広寺と、三十三間堂のある蓮華王院がありました。三十三間堂は、豊臣時代にこの築地塀によって方広寺の境内に取り込まれています。
 この門は、俗に「大仏崩門」と呼ばれていました。「くずれ門」の呼称は珍しく感じられますが、一説には「九頭竜門」の転じたものといいます。大仏殿の西門、あるいは三十三間堂の西門という位置付けです。
 
 門のあった位置は、現在の大和大路七条でした。

大和大路七条

 東を向いて撮影しています。右が三十三間堂、左が京都国立博物館です。およそ、この横断歩道のあたりに大きな門があったことになります。
 

 三十三間堂の南大門と兄弟関係

 つまり、この崩門は、方広寺を取り巻く築地塀(いわゆる太閤塀)に開けられた諸門の1つで、現存する蓮華王院(三十三間堂)南大門と同時期の建造ということになります。

蓮華王院南大門
  蓮華王院南大門(重文)

 こちらも、単層切妻造の八脚門です。東寺南大門は慶長6年(1601)に造られましたが、蓮華王院の南大門はその前年の造営とされていて、どちらも桃山時代を代表する大規模な門の遺構といえます。

 ここで、ひとつのことに気付きます。東寺南大門(かつての大仏の崩門)は、屋根は切妻造になっています。ところが、先ほどの「花洛名勝図会」には入母屋造に描かれていて、矛盾が生じています(ちなみに「花洛名勝図会」の絵は「都名所図会」を踏襲しています)。いったい、どういうことなのでしょうか?

 答えは、写真を見れば確実ですね。
 この門を撮った明治初期の写真に、蜷川式胤(にながわ・のりたね)の日記「奈良の筋道」収録写真があります。蜷川は、明治初期の文化財調査に携わった人物ですが、明治6年(1873)の調査日記は「奈良の筋道」と呼ばれています。
 その写真は、三十三間堂を写したもので、長いお堂の北半分を南から撮影したものです。お堂の前で、3、4人の人物が蹴鞠をしている!? 写真なのです。その画面の左端に、崩門の側面(妻側)が写っています。
 それを見ると、ぼんやりした画像ながら、現在の東寺南大門に同定できそうで、明らかに切妻造だったことが分かります。

 つまり、「都名所図会」の作画の時点で何らかの錯誤が起きた、ということなのでしょう。


 京博の建設で“邪魔者”に

 明治維新後、方広寺の大仏殿の南には、恭明宮という歴代天皇の位牌所、および宮中の女官の居所が設置されていました。その後、博物館の建設が計画され、恭明宮の跡地が現・京都国立博物館の敷地に選ばれます。

京都国立博物館
  現在の京都国立博物館

 その際、崩門の存在が問題になりました。門の所有者である妙法院は、この門と土塀を京都府に寄贈しようと企図しました。しかし府は、維持管理など厄介な問題が生じることから、それを断ります。門は、濃尾地震(1891年)の影響もあって、破損も生じていました。

 ところが、明治27年(1894)、問題は一転して解決に向かいます。明治初年に南大門を焼失した東寺が、この門をもらい受けたいというのです。それも“冥加金”1000円を付けて、というのですから、妙法院にとっては有り難い話でした(現在の感覚で数千万円くらいになります)。また府にとっても、当時東から延びていた七条通をさらに東伸させ、智積院前まで貫通させられるという好都合な提案といえます。
 東寺は、さらに移築費用1500円を支出して、明治28年(1895)3月から10月にかけて、崩門の移転工事を行いました。
 移転費は『京都国立博物館百年史』によれば、竹村藤兵衛が負担したということです。竹村は、衆議院議員も務めた明治期の京都の名望家ですが、京都美術協会の会員でもありました。同会は、当時、文化財を保護する法制度の制定に取り組んでおり(のちの古社寺保存法、明治30年=1897)、その流れの中で竹村が移築費用を捻出したのでしょう。

 明治28年というと、平安京遷都1100年にあたる節目の年で、現在の岡崎公園で第四回内国勧業博覧会が開催されました。この際、平安神宮が創建されたことはよく知られています。
 門の移築は、上記の文化財保存の経緯とともに、このことが背景にあるのかも知れません。


 不思議な石がひとつ…

 現在、東寺の南大門周辺をよく観察してみると、不思議な存在に気付きます。

 東寺南大門

 門の右側(東側)の小さな芝地の中にある、この石。

東寺南大門

このへそのついた石は何なのでしょうか?

 実は、答えは簡単そうです。
 以前、三十三間堂の回で同じような石を紹介しました。 記事はこちら ⇒ <三十三間堂の謎の石>

 この石の役割は、次の写真で分かると思います。

 「京都」より東寺
  『京都』より「東寺」

 東寺の五重塔と金堂を写しています。
 金堂の庇をよく見ると、その隅が棒のような柱で支えられていることが見て取れるでしょう。実は、このような柱を支える土台の石が、この謎の石だと考えています。
 つまり、崩門の先代の南大門(金堂と同時期に建てられた豊臣時代の門)が、100年以上経過して、軒を支える必要が生じた、と推測しています。
 そう思って先ほどの「都名所図会」を見ると、確かに支柱が! 赤丸の辺りに、この礎石が置かれていたのでしょう。

 「都名所図会」より東寺南大門

 門は明治初年に燃えましたが、礎石の1つだけが今日まで残されたのでした。旧門の僅かな名残りとして、一度東寺でご覧になってみてください。




 東寺 南大門(重文)

 所在 京都市南区九条町
 拝観 自由
 交通 近鉄電車東寺駅から徒歩約10分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 「再撰花洛名勝図会」1864年
 『京都』京都市、1929年
 『東寺の建造物』東寺(教王護国寺)宝物殿、1995年
 『京都国立博物館百年史』京都国立博物館、1997年
 米崎清実『蜷川式胤「奈良の筋道」』中央公論美術出版、2005年


きょうの散歩 - 曼殊院門跡 - 2013.6.5 -





曼殊院


 梅雨のさなかとは思えないほど晴れ渡った暑い午後、カメラだけをぶら下げて曼殊院門跡へと歩きました。
 そこへ至る坂道は思いのほか急ですが、そう長くはありません。

 『京都散歩』より曼殊院へ行く道
 北尾鐐之助『京都散歩』より「曼殊院へ行く道」(1934年)

 私が歩いた同じ道とは思えませんが、80年前の曼殊院へ向かう道です。遠くに比叡山の影が姿を見せています。
 曼殊院を訪れた北尾鐐之助は、こんなふうに書いています。

 いつたい、曼殊院の門といふものは、ちかごろ開かれた事があるのか。
 あの、左右にずつと広い白壁を展げた宏荘な表門。その前に築かれた高い石段。それ等は半ばくづれかゝつて、人の踏み登つたやうな跡は殆んど見られない。
 幽静といふよりも、どこかに廃頽といふ感じがある。小門を押してみたが開きさうにもないので、私は冷々とした石段の苔の上に立つて、ひとり麓の畑から来る雲雀の声を聞いてゐた。(「曼殊院から山端」、『京都散歩』1934年所収)


 北尾鐐之助は、どちらかというとシニカルな人ですが、この頃の曼殊院は訪れる人もまばらで寂しかったのでしょう。
 
曼殊院

 80年後の門と石段は綺麗に整備されており、修学旅行生を乗せたタクシーが坂道を下っていきます。
 そう、曼殊院はいつ行ってもタクシーで訪れる人がとても多いのです。北尾鐐之助のひそみにならってシニカルにみれば、門跡寺院というその高貴さからか、拝観者もタクシー観光をする裕福な人が多いのかも知れません(ちょっと皮肉すぎますね)。

 北尾が訪れたとき、拝観受付の体制は整っておらず、たまたま台所門から出てきた「詰襟服の青年」に案内を乞うたのでした。いまでは600円を払えば誰でも拝観できます。
 もちろん、戦前から曼殊院門跡は著名でした。ガイドブックにも掲載されており、その書院や庫裏は北尾が訪問した数年後の昭和12年(1937)に旧国宝に指定されています。いずれも明暦2年(1656)の建築で、特に大書院と小書院は数寄屋風の意匠によって有名になりました。

『京都名勝誌』より曼殊院大書院
 大書院(『京都名勝誌』より)

 昭和3年(1928)刊の『京都名勝誌』 は、「明治五年に京都府立病院の建設さるゝや、勧募に応じて宸殿を寄附し、子坊の隨縁・法雲・恵明・静慮を本院に合併したれば、一時大いに衰頽せり」とあって、北尾鐐之助の印象に符合します。
 いま曼殊院に行くと、その宸殿の再建の計画が進められていることが、そこここに記されています。

『京都古建築』より曼殊院小書院
 小書院(藤原義一『京都古建築』より)
 
 大書院、小書院とも、戦前は瓦葺でしたが、現在は杮葺に戻されています。

 『京都古建築』より曼殊院小書院富士の間違棚
 小書院 富士の間の違棚(同上)

 曼殊院の書院は、このような違棚や襖障子の引手、釘隠し、あるいは欄間の意匠など、細かな見どころが数多くあります。ただ、私の印象では、長い間にいろいろと手が入っているのか、少々散漫な感じも受けるのです。でも、壁の赤い色彩は素敵ですね。

曼殊院

 今日は大した距離を歩いたわけではないのに、余りに暑かったせいか、少し疲れました。


  曼殊院 庫裏の額




 曼殊院門跡

 所在 京都市左京区一乗寺竹之内町
 拝観 大人600円ほか(茶室 八窓軒は拝観1000円)
 交通 市バス一乗寺清水町より、徒歩約20分



 【参考文献】
 北尾鐐之助『京都散歩』創元社、1934年
 藤原義一『京都古建築』桑名文星堂、1944年
 『京都名勝誌』京都市、1928年


 *おかげさまで、今回で連載100回目となりました。いつもお読みいただき、御礼申し上げます。



 

建築の言葉の海は広大なり (2) -エビ・タコ・カメ -

京都本




海老虹梁


 『日本建築辞彙』の「エビ」

 前回取り上げた中村達太郎『日本建築辞彙』(明治39年=1906年)。

 愉しい建築語彙があふれているので、もう1回見てみましょう。

 この辞書は至って真面目なのですが、読んでいると何かと興味深いのです。例えば、動物の名が付く語彙が結構あります。

 例えば、エビ。

 そこには、「蝦梁(えびばり)」「蝦鎹(えびかすがい)」「蝦束(えびづか)」「蝦の腰(えびのこし)」「蝦虹梁(えびこうりょう)」「蝦錠(えびじょう)」と並んでいます。
 いずれも、エビのように(腰が)曲がった形態の物品を指しているようです。

 このなかで、最も有名な言葉が「蝦虹梁」でしょう。ふつう「海老虹梁」と書きます。

 冒頭の写真のものが海老虹梁です(写真は上善寺地蔵堂)。
 中村博士の語釈は、次のようになっています。

 彎曲[わんきょく]セル虹梁ヲイフ。縋破風[すがるはふ]ノ下方ニアリテ本柱ト向拝柱トノ間ノ位置ニ用ヒル」

 そして、向拝の図を見よと指示しています。その向拝の図。

向拝

 文章では分かりづらいのですが、図を見ると一目瞭然です。

 下の写真は、京丹波町の阿上三所神社の向拝に付けられた海老虹梁です。

 海老虹梁

 時代が下って江戸時代以降の寺社建築に好んで用いられます。
 

 では、「タコ」はいるのか?


 そこで、まったく下世話なのですが、タコが登場するのだろうかと探してみました。

 すると……、文字通りの「蛸」、そして「蛸胴突(たこどうづき)」「蛸突(たこづき)」と3つありました。
 では、「蛸」とはいったい何なのか?

 基礎ヲ突固ムルタメノ道具ナリ。円柱形ノ木ニ二本ノ角ヲ附シ、且[かつ]縄ヲ取付ケ、以テ人足ヲシテ之ヲ上下セシムルナリ。

 とあります。
 その図は、
 
  蛸

 たしかに、時代劇なんかで見たことがあるかも。
 地面を突き固める道具ですね。

 さらに中村博士の曰く、

 人ニヨリ之ヲ「かめ」トモ称ス。

 カメ?

 たしかに、なぜタコかも分からないし、カメかも分かりません。モノの呼び名とは不思議なものです。

 さらに、まだいるタコ。

  逆蛸

 「逆蛸」。“さかだこ”。

 説明です。

 長キ遣形[やりかた]杭ナドヲ打込ム場合ニ、杭頭上方ニアルトキ此種類ノ道具ヲ用フルコトアリ。其形ハ平蛸[ひらだこ]ヲ倒[さか]サニシタルモノニ異ナラズ。其足ハ四本トナスヲ普通トス。依リテ二人ニテ之ヲ使用スルナリ。

 杭の頭が高い所にある場合、これを使って下に引くように打ち込むわけですね。
 この「逆蛸」を見ると、タコの頭に足が付いているようで、「蛸」という名称も何となく理解できる気がします。


 「カメ」はいるのか?

 じゃあ、タコをカメとも呼ぶのなら、カメも掲載されているのでしょうか?
 カメの付く語は、よく知られた「亀腹(かめばら)」や、「亀の尾(かめのお)」「亀の甲流(かめのこながし)」「亀甲当」と並んでいます。

 問題は、最後の「亀甲当」で「かめのこあて」と読みます。

 挽臼[ひきうす]状ノ石ニ縄ヲ巻キツケ、三、四人ノ人足ニテ揚下ケ[あげさげ]シテ、地固ヲナスニ用フルモノ。之ヲ平蛸[ひらたこ]又ハ平亀[ひらかめ]トモイフ。

 そして、図です。

 亀甲当

 これなら、カメと言われても、うなずける形です。
 平たいから「平亀」と言ってもよさそう。
 そして、突き固める道具を「タコ」と呼ぶのだから、平たいタコで「平蛸」。納得ですね。

 やはり、建築の言葉の海は広いです。




 書 名:『日本建築辞彙』
 著 者:中村達太郎
 出版社:丸善
 刊行年:1906年