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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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建築の言葉の海は広大なり - 中村達太郎『日本建築辞彙』 -

京都本




日本建築辞彙


 明治時代の建築辞書

 建築用語を調べる辞典は今どき数多くありますが、その嚆矢と言われているのが、この『日本建築辞彙』です。

  日本建築辞彙 中村達太郎著

 明治39年(1906)に出版された辞書。
 先日、河原町の古書店に入ったら、たまたまあったこの本。明治42年(1909)刊の5刷で、定価は1円65銭。
 この本、これまでは復刻版を愛用していたのですが(太田博太郎・稲垣栄三編『中村達太郎 日本建築辞彙[新訂]』中央公論美術出版、2011年)、せっかくだから買ってみました。1,500円でしたし(安い!)

 中村達太郎(1860-1942)は、帝国大学工科大学などで建築学の教鞭を執った工学博士で、建築学会の会長も務めていますが、実作が少ないせいか、ほとんど知られていない人だと思います。

 復刻版の解説によると、「工部大学校卒の中村は、洋風建築の設計は学んでいたものの、建築の現場に関しては何も知らなかった。特に、在来の木造技術についてはほぼ完全な素人であり、それに関する知識の決定的な不足に気付いたのは当然のことである」(藤井恵介氏)とあって、大学卒業後、皇居造営を通してその感を強くしたと指摘されています。
 
 この本の自序で中村は、どのように語彙を選択したかを説明し、「予は高襟[ハイカラー]よりは印袢纏[しるしばんてん]を取れり」、「古語及び雅語よりは寧ろ通用語に重きを置いた」と述べています。
 「『搏風』を『破風』とし『切端[ツマ]』を『切妻』と書くごときは、学者より見れば不都合ならんが印袢纏主義なる予は却[かえっ]てよいことと思ふ」とも言っています。“印袢纏主義”なんて、かなり格好いいですね。
 「とらっす」(トラス)のような外来語も出てきますが、多くは日本在来の建築用語です。そのため、21世紀の私たちからみると、かなり難解な言葉も少なくありません。けれども、図が実に豊富で、言葉による説明では分かりにくくても“一目瞭然”“百聞は一見に如かず”的なところがあるのです。


 ふだんから読んでおけば、かなり役立ちそう

 この写真を見てください。

 沓巻
  旧武徳殿(京都市武道センター)

 松室重光設計の旧武徳殿。その背面の増築部・車寄せ(亀岡末吉ほか設計)のクローズアップ。角柱の足元ですね。
 では、この模様のたくさん付いた金物を一般に何と呼ぶでしょうか?

 まぁ、分かるはずもない質問です。
 ところが、『建築辞彙』には、その呼び名がちゃんと載っているのです。

 沓巻

 沓巻(くつまき)。

 語釈は「柱下ノ化粧金物。図ヲ見ヨ。」と簡潔です。
 本当に、図を見ると一発で分かってしまいますね。
 図をよく見ると、上部は八双(はっそう)金物のように出入りがあって、下部は蓮弁というか胡麻殻(ごまがら)じゃくりというか、凹凸になっています。武徳殿の金物は、猪の目を付けたりして華美な装飾ですが、全体の造りは図のものを基準にしていることが分かります。おもしろいですね。

 武徳殿の金物を見付けて、何という名前か調べることは、さすがに無理です。しかし、ふだんから『建築辞彙』を読んでおけば、なんとか対応できるかも知れない……、そんな期待を抱かせる辞書なのです。


 「竹の節欄間」とは?

 先日、東寺の観智院を訪れました。
 そのレポートは、こちら。 ⇒ <東寺の観智院は、書院造のおもしろさが感じられる桃山建築>

 そのとき、部屋の欄間が「竹の節欄間」になっている、という説明があったのです。その欄間自体は分かるのですが、なぜ「竹の節」というのか一向に見当が付かないのです。
 竹の節欄間の一例です。

竹の節欄間
  竹の節欄間の例(龍安寺方丈)

 ぜんぜん竹じゃないですね。
 でも、『建築辞彙』を見れば、たちどころに納得できます。

竹の節欄間

 ボーリングのピンのような部分(なんという譬え!)に、竹みたいな「節」があるでしょう。だから「竹の節」欄間というのです。
 ちなみに、ピンのような部分は「親柱」で(橋の欄干などと同じですね)、「節」には別の呼び方もあって、「篠[シノ]」とか「横篠」とも言うそうです。これは、竹つながりの呼称ですね。

 このように、他では勉強できない細かい説明が中村博士の真骨頂です。

 そして、私が好きな蓮(ハス)系の飾りもちゃんと説明されており、「逆蓮」(さかばす)も「握蓮」(にぎりばす)もあります。

握蓮
  握蓮の例(南禅寺三門)

握蓮
  『日本建築辞彙』より「握蓮」の図

 この図を見たら、絶対に間違えません。


 細かいこだわりも満載!

 しかし、ちょっと細かすぎる説明もあります。
 たとえば、これ。

露先

 露先。
 虹梁などの端に、若葉形の彫物(絵様=えよう)があります。
 こんな感じですね(明治後期のものなので華美です)。

露先
  若葉の絵様の例(仁和寺勅使門)

 中村博士は、この全体を解説するのではなくて、模様の先端の“すっ”と尖った部分を「露先」と呼ぶと教えてくれます。かなりマニアックです。たぶん知らなくてもいい、そんな気になります。
 でも、図が綺麗で見とれますね。

 さらには……

両折桟唐戸
  両折桟唐戸の例(妙心寺法堂)

 両折(もろおり)桟唐戸(さんからど)です。この扉の名前ではなく、

手先

 ふたつ折れになっている2枚の戸の、吊元に近い方を「釣元唐戸」、遠い方を「手先唐戸」と教えてくれます。
 なかなか、です。

 例をあげていくとキリがないので、このくらいにしておきましょう。

 『日本建築辞彙』、建築の言葉の海に漕ぎ出した中村達太郎博士のこだわりと熱情が感じられて、勉強にも気合が入ります。ただ原本は、明治時代らしくイロハ順の配列なので、引くには不適。辞書として引くときは、アイウエオ順に組み直した復刻版を使いましょう。
 でも、読み物として接するときは、絶対原本がおススメです。なんといっても先人の息遣いが伝わって来ますから。




 書 名:『日本建築辞彙』
 著 者:中村達太郎
 出版社:丸善
 刊行年:1906年


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3つの禅寺の庭を見て、方丈と庭の関係について考えた

洛西





龍安寺


 3つの禅寺を訪ねる

 先日、京都市街の北西にある3つの禅寺を訪れました。
 妙心寺天球院、龍安寺、大徳寺大仙院です。

 妙心寺の塔頭・天球院は、2013年3月から5月まで開催されていた「狩野山楽・山雪」展(京都国立博物館)で、その障壁画「朝顔図襖」「梅花遊禽図襖」を出品しました。今回は、朝顔図などが京博に寄託となって、そこだけ巧妙な複製品に入れ替えられました。
 そのあと、妙心寺の北にある龍安寺へ。実に久しぶり。誰もが知っている石庭のある寺。
 最後に、予定にはなかったのですが、大徳寺の塔頭・大仙院で枯山水の庭などを拝見しました。尾関宗園師もいらっしゃいましたね。


 龍安寺の石庭はどう見られたか

 まず、龍安寺の石庭について考えてみましょう。

龍安寺


 この庭には15の石が配されており、俗に“虎の子渡し”と言われることは、とても有名ですね。しかし、いつ誰が造ったのか、確かなことは分からないのです。
 それでも、というかそのせいで、さらにミステリアスに人々を魅了し、私が訪れた日もひっきりなしに拝観者が押し寄せていました(とりわけ欧米の人達が目立ちます)。

 ところが、このシンプルな石庭は、いつから現在のように大勢の人に見られるようになったのでしょうか。

 明治、大正時代の旅行案内書などを調べてみると、案外この石庭の扱いが小さいことが分かります。
 例えば、紀行文も得意とした作家・田山花袋の『京阪一日の行楽』(大正12年=1923)には、金閣寺を拝観したあと等持院で足利氏の木像を見て、次のように記します。

 等持院から嵯峨の仁和寺まではいくらもなかつた。寺を出て真直に西に向つて行くと、谷口のちよつとした部落があつて、それを右に行けば龍安寺、左に行けば仁和寺の塀に突当つた。(中略)この路はひとり手に人をその寺の裏門へに[ママ]伴れて行つた。(532ページ、「仁和寺」)

 と、龍安寺を素通りして仁和寺へ行ってしまうのでした。

 また、さかのぼって明治の文学者・野崎左文の『日本名勝地誌』第一編(明治26年=1893)には、次のように取り上げられています。

龍安寺
 大雲山と号す(中略)本堂は元と東福寺の昭堂を移し建立せし者にして天井の蟠龍及び迦陵頻の画図は同寺の兆殿司の揮毫なりとぞ、方丈は勝元の居館を以て直ちに之に充てたる者にして、庭前の仮山碧池、皆其嗜好に拠て構造し最も奇雅を極む、殊に其地北に衣笠山を負ひ南陽に面するを以て厳冬も暖気他に優りたる者あるより水鳥の来て庭池に浴する者多く、古へより龍安寺の鴛鴦[おしどり]と称し京都近傍の一奇景となれり (132ページ)

 
 ここには、「庭前の仮山碧池」とあり「仮山」は築山などを指す語で、それらは細川勝元の嗜好に沿ったものだと記しながら、ことさら石庭を強調するような書きぶりではありません。むしろ、オシドリが名物と言っているくらいです。この記述は「都名所図会」(1870年)を引き写しています。つまり、江戸中期から、こういう認識なのですね。

 もちろん、戦前こちらの石庭が有名でなかったと言っているわけではありません。すでに大正13年(1924)には国の史跡名勝に指定されているのです(昭和29年に特別名勝)。
 昭和9年(1934)、毎日新聞の北尾鐐之助が著した『京都散歩』(「近畿景観」第5編)がおもしろいので、引いておきましょう。たまたま私同様、同じ日に大仙院と龍安寺を訪ねたのでした。

 大仙院をみた眼に、龍安寺に来ると、これが同じ相阿彌の作だとはどうしてもおもはれない。
 (中略)
 私は広い方丈の縁に立つて、閉め切つた障子をそつと引き明けると、畳の上に妻と向き合つて坐つてみた。縁先きに立つてゐたのでは、或ひは石をみる観点が違ひはしないかとおもつたのである。
 ……かうしてみると、また感じがちがふね。
 さう云つて、私は夕暮れの寒い何もない石の庭を、再び仔細らしく見廻した。
 (中略)
 この庭は、相阿彌が晩年における、内面的な一つの要求の現れだといふやうに説いてゐるものと、いやさうではない、むかしこゝに住んでゐた細川勝元が、その信仰する男山八幡を拝するために、いつさいの樹木を除いて、かういふ庭を相阿彌に作らせたのだといふものもある。いまでは、その男山八幡の山を見渡す景色などは全く見えなくなり、近頃立つたらしい卒塔婆が一本、土塀の屋根越しに覗いてゐる。
 この有名な「虎の子渡し」の庭を作つたのは、相阿彌ではなくて金森宗和だといふやうな話もあるが、かういふ一木一草も用ひず、大小十五個の石を、五十幾坪の白砂の庭に、七、五、三に並べた丈けの庭といふものは、なるほど大徳寺の龍光院にある金森宗和の七五三の庭を除くと、さうは見当らない。その奇抜さが、古来、想像を超越した素晴らしいものとなつてゐる。(169-172ページ、「大仙院と龍安寺」)


 このように北尾は書き、さらに当時の著名人-室生犀星、志賀直哉、笹川臨風、荻原井泉水-らの意見を紹介して、「かういふ諸氏の考へ方を読むと、この庭の存在が、いかにも神秘的な絶対的なものになつて来て、何か変つた讃め方でも考へねば、嗤[わら]はれるやうな気もして来る」と述べるのです。

 ……御覧。荻原さんは石が隠れんぼうをしてゐるといふんだな。どこからみても石の一つが隠れて、全部が見えない。
 ……さうですか。
 と云つて、妻は立ち上ると、冷々と乾き切つた縁の上をあちこちと爪先きであるいて、うなづきながらまた石を数へはじめた。
 ……あれも石ですか。
 みると、一番左の石の前に、小さい不思議な白い砂が二つ、盛り上つてゐるのが見える。
 (中略)
 その外には、何ものゝ一点をも許さない白砂の上に、処女の乳房のやうな二つの砂盛りが作られてある。この小さい瘤起[りゅうき]は、古来どこの記録にも見当らないものだ。
 ……石ではないらしいが、相阿彌は銀閣寺にも、向月台、銀沙灘などゝ云つて、かういふ砂盛りを作つたんだ。
 私は手帳を出して、忘れぬやうにその不審を書きつけたりした。
 (中略)
 私は、帰り際に、庫裏の庭に立つて寺僧と話しかけた。
 ……昨日も雨で、けさ砂を浄めましたところです。あの、左の石のところに、二つばかり砂がもち上つてゐませう。なほしても、なほしても、むぐらがもち上げて実に困つとります。
 ……むぐらですか。
 私はびつくりしてさう叫んだが、とうどう笑ひ出してしまつた。石ばかりの龍安寺の庭ほど、古来、原型を失はぬ名園はないと云はれてゐるが、古来ないものに、土竜[もぐら]の作つた砂盛りが二つある。それにしてもよい事を聞いたものであつた。
 うつかり庭園研究家のやうな顔して、相阿彌を土竜にしてしまふところだつた。
 ……馬鹿な土竜だ。
 と云ひ云ひ、私たちは赤松林の石段を下りて行つた。(173-175ページ、同)



 方丈の庭

 北尾鐐之助は、モグラの逸話を通して、この庭についてとても大切なことを伝えています。
 「庭園研究家のような顔して」「何か変った讃め方でも考えねば、嗤[わら]はれるやうな気もして来る」龍安寺の石庭。ちょっと厄介です。

 下の写真は、私が訪ねた日の拝観者の様子です(ちなみに撮影しても構わないそうです)。

龍安寺

 方丈の広縁のさらに先にある落縁に、ずらっと拝観者が座り、石庭を眺めています。
 先ほど、北尾鐐之助が眺めたのは方丈の室内からでした。今は縁しか歩けないので(また人が一杯なので)、おのずと最前列に座って見ることになります。
 庭を熱心に見入る拝観者は、しかし後方の建物を意に介することはありません。けれども、この庭が建物(方丈)に付随するものであることは間違いないのです。

 方丈。
 ふつうこんな感じの建物です。

東福寺方丈
  東福寺方丈

 間取りは、6室から構成され、3室が2列に並んでいます。

 方丈間取り図
  方丈の間取り図(『京の禅寺』より)

 上の龍安寺の拝観者の写真でいうと、みなさん「広縁」と書かれたあたりに座られ、その下に広がる庭をご覧になっている、ということになります。

 方丈には本寺の方丈と、塔頭の方丈とがありますが、後者の場合、いわゆる本堂を兼ねるものでした。図の下の3室(前方丈)には、仏事などが行われる室中があり、のちには仏壇が置かれ、位牌などを祀りました。礼の間は接客スペース、檀那の間は来客のスペースです。一方、図の上の3室(内方丈)は住持の生活スペースで、右上に昼間の生活の場である書院があり、もともとは中央に眠蔵、つまり寝室がありました。書院は、住持の居住スペース兼書斎で、床、棚、付書院がある部屋です。


 性格の異なる南庭と東庭

 方丈は、図で分かるように、基本的に四周を庭で囲まれていることになります。そのうち、一番大きいのが南の庭になります。
 この南庭の例を写真で見てみましょう。

南禅寺方丈
  南禅寺方丈

東福寺方丈
  東福寺方丈

 いずれも、いくつかの石と樹木が配されていますが、大きなスペースを占めるのは白砂です。そういう点では龍安寺と同様です。

 一方、方丈の東の庭は趣きが異なります。
 私が訪ねた大仙院は、このような感じです(北尾鐐之助の写真=1934年です)。

大仙院の庭(北尾鐐之助撮影)
  大徳寺大仙院の庭(『京都散歩』より)

 写真の左には、方丈の東の縁が写っており、その脇の部屋は書院になります。
 大仙院の庭は、逆L形になっていて、カギの手に曲がっています。書院は、写真に写っている明り障子が開けられるとともに、北面に設えられた袋棚も開けられます。そのため、室内から北から東へと続く庭が眺められるようになっています。
 ここでもう一度、北尾の言葉を引いてみましょう。

 暫く雨にうたれる石の面をながめてゐると、今のこの狭さでは少し石が多過ぎるなとおもつた。渓流の裾の方にある縁の近くに、一つ大きな岩をどかりと据ゑたところなど、はじめはそのやり口に度胆をぬかれて、可なり感服したが、だんだんとみてゐるうちに、少しうるさいといふ感じがし出す。椿の刈込みを利用した滝口の布置には、なるほどゝ堪能するものがあるが、その他の手法については、少し技巧が過ぎて神経を使ひ過ぎてゐるとおもふ。(168ページ、同)

 実際に大仙院に行ってみると、この感想と似たような気持ちになるでしょう。非常に狭いスペースに、多数の石が配置され、水の流れなどが表現されています。
 北尾は実にいいところを見ています。ところが、一歩引いて書院の中から眺めればどうなるでしょう。おそらく、少し距離が出て、カギの手に折れ曲がった庭の広がりを感じられるのではないでしょうか。

 このように、同じ方丈の庭でも、南庭と東庭では全く表情が異なります。
 これには理由があります。もともと方丈の南庭は晋山式(住持の就任式)など、儀式が行われる場でした。そのため、木や石があっては邪魔になり、白砂が引いてある程度の空間でした。また、方丈の南側の部屋(特に室中)も儀式的、儀礼的な性格を持っていますから、そこから庭を眺めるということは不自然なことでした。もちろん、現在のように縁に座って庭を見ることは、なかったのでしょう。
 これが崩れて、龍安寺のように庭の真ん中に石を配したりするのは、近世的な現象と考えられます。

 一方、東庭は、住持の居室に面していましたから、部屋から眺められるのも自然でした。そして庭の造りも、書院の側から見て成り立つような構成になっているのです。少し込み入った印象を受ける庭もあるのは、狭い空間を奥行きのあるように見せる工夫なのでしょう。

 このことを実感したのは、同じ日に訪れた妙心寺天球院でした。

妙心寺天球院
  天球院方丈

 天球院の方丈は、通常とは異なり、北西の角に書院が設けられています。そこには西面した付書院があり、縁ごしに庭が望めます。

妙心寺天球院

 印象的なのは、左奥に紅葉が植えられていること。この樹が、左奥から手前へ向かって伸びていて、見事な眺めを作っています。また、手前側には石灯籠と蹲(つくばい)があり、隅を抑える格好です。
 これを反対から見ると、紅葉の伸び方が逆になり、様にならないのです。

 なんということはない小さな庭なのですが、東庭(ここでは西庭)が持つ意味を実感させてくれる、よい庭に巡り合ったのでした。




 龍安寺
 所在 京都市右京区龍安寺御陵下町
 拝観 大人500円など
 交通 市バス竜安寺前下車、徒歩すぐ

 大徳寺大仙院
 所在 京都市北区紫の大徳寺町
 拝観 大人400円など
 交通 市バス大徳寺前下車、徒歩5分

 妙心寺天球院
 所在 京都市右京区花園妙心寺町
 拝観 特別公開時のみ公開
 交通 JR花園駅下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 野崎左文『日本名勝地誌』第一編 五畿内之部、博文館、1893年
 田山花袋『京阪一日の行楽』博文館、1923年
 北尾鐐之助『京都散歩』(近畿景観シリーズ5)創元社、1934年
 芳賀幸四郎ほか『京の禅寺』淡交社、1960年
 白幡洋三郎『庭[にわ]を読み解く』淡交社、2012年


【大学の窓】 歴史学を専攻する学生の興味あるジャンルは?

大学の窓





 みんな何に興味があるんだろう?

 新学期が始まって早1か月半。上京大学(仮称)は、相変わらず多くの学生でにぎわっています。

 私が担当している授業は、1回生(1年生のこと。関西では「○回生」と呼ぶ)の演習です。話を聴くだけの講義ではなく、学生自らが調査・研究を実践してみるものです。
 近現代史が専門の私は、毎年2つのテーマ-「建築」と「写真」-を定めて、グループ研究してもらっています。写真は近現代に限られますが、建築は古建築ももちろん可です。

 班に分かれた初回は、いつも詳しい自己紹介をしてもらっています。今年は13名ですが、京都生れの学生は一人もいませんでした! TA(ティーチング・アシスタント)の大学院生も広島出身なので、京都生れは私だけでした!!(ちょっと衝撃の事実)。
 大阪出身も1人だけで、関東から九州の範囲で見事にバラついていました。

 さて、彼らが興味を持っている歴史上の時代やトピックは何なのか?

 時代では、やはり幕末維新期が人気ですね。今年は、というか今年も「新撰組」が好きな学生がいて、これは毎年の現象です。また、私には意外なのですが、徳川慶喜ファンの学生がいて、後で他の先生に聞いてみると、最近慶喜好きの学生が散見されるそう。何かの影響なのでしょうか?
 一方で、戦争に関心のある学生は、毎年必ずいます。

 建築のグループでは、こちらも定番として「お城」好きが多いですね。
 建築史の研究では城郭は中心的とも言い難いのですが、一般的には需要が高く、中世城郭なども案外人気があるようです。
 
 1回生の関心は、『日本史』教科書や歴史小説、読み物、テレビドラマなどの影響が強いと思います。かといって、“書院造をやってみたい”なんて学生はいませんけれども。
 また、民俗学への知識、興味は低下しているようで、「民家」なんて建築だけれども、ほとんど埒外のよう。それでも今年は、彼らの意見交換を聞いていたら「民家」という言葉が登場していたので、内心うれしかったです。民家もおもしろいと思うけどなぁ。

 そんなわけで、今年度も若い感性で“初研究”がスタートします。

 
  書庫


東寺の観智院は、書院造のおもしろさが感じられる桃山建築





東寺観智院


 東寺の“勧学院” 観智院

 東寺(教王護国寺)境内の北に開く北大門。そこから北総門に向かって伸びる道路が、櫛笥(くしげ)小路です。
 櫛笥小路に面して、観智院が建っています。観智院は、東寺の僧侶の住房(院家[いんげ])のひとつで、かつてはこの一角に15ばかりの院家が集まっていました。今に残るものは、この観智院だけです。

東寺観智院
  西門  門の右奥が客殿、左奥が庫裏

 観智院は、杲宝(ごうほう)が、南北朝時代の延文4年(1359)頃に創建しました。中世の東寺には「東寺の三宝」といわれる3人の碩学が出ていて、杲宝は頼宝、賢宝とともにその一人でした。現在でも、彼らが収集や書写した経典類などが観智院に残されています。


 桃山時代の国宝・客殿

 東寺の建造物のほとんどは、文禄5年(1596)の大地震で倒壊、損傷しました。観智院の堂宇も「観智院堂 瓦葺、同台所転倒」と記録にあるように(「義演准后日記」文禄5年閏7月13日条)、全壊しています。
 現在見られる建物は、その後、再建されたものになります。

東寺観智院鳥瞰図
 観智院鳥瞰図

 上図は、見づらいのですが、観智院前にある看板の鳥瞰図です。左が北です。
 門は、南と西にあり、西門(薬医門)の右上に客殿が、左上に庫裏が、その中間奥に書院があります。重要文化財の五大虚空蔵菩薩像を祀る本堂は、客殿と廊で結ばれ、東方に位置します。

 国宝の客殿。築地塀の外から見たところです。

東寺観智院

 入母屋造、銅板葺ですが、かつては檜皮葺でした。春と秋に特別公開されます。

東寺観智院
 観智院客殿(国宝)(『京阪沿線の古建築』より)

 棟札から、慶長10年(1605)の建築と分かっています。
 上の写真は、南側を見たもの。妻の拝みには三花懸魚があり、木連(狐)格子となっています。
 一際目立つのは、軒の唐破風。南門の正面に位置していて、この客殿の入口という構えです。

 建物の平面図を見てみましょう。

東寺観智院平面図
 『日本の美術 75 書院造』より

 南側に2部屋、北側に3部屋の構成で、周囲に広縁が廻っています。広縁の外側には引き戸が付いており、その外に落縁があります。

 東寺観智院
 『日本古建築菁華』上冊より

 この写真に見える縁は落縁で、引き戸がはまっているのがうかがえます。引き戸は、明り障子と舞良戸(まいらど)です。

 舞良戸の例
 舞良戸の例(東寺弁天堂)

 舞良戸は、横桟を打った戸です。
 観智院の場合、敷居に溝が3筋つけてあり、外側から、舞良戸、舞良戸、明り障子の順で取り付けられています。そのため、すべて舞良戸を閉め切ることもできます。雨戸のような感じですね。
 また、写真のように舞良戸を開けると明り障子が出てきて、採光に適した形になります。上の2枚の写真は、いずれも舞良戸をフルオープンしたところです。
 さらに、広縁と各室の間は、腰高障子になっていて、こちらも光を取り入れられます。

 また、南側の広縁は東へと延び、その先は寝殿造の名残りである中門廊(ちゅうもんろう)の形になっています。そこには、切妻造、桁行一間、梁間一間の扉付きの小さな門(中門)が設けられています。こちらは門としては形骸化していて、実際には後述する西側の玄関を用いるのでしょう。
 中門廊は寝殿造の名残りで、寝殿造から書院造へと向かう過渡的な姿を表していて珍しいものです。


 過渡期の書院造

 部屋の中の様子ですが、まず南側は接客の空間となっています。
 “タテ社会”の中では、面会が行われる際、空間の上でも上下関係を表現しました。今でも「上座」「下座」と言いますね。
 武家社会では、それを行う空間を「対面所」と呼んでいました。
 そのことは寺院でも援用され、例えば西本願寺「鴻の間」は対面所としてよく知られています。

 観智院客殿でも、南側の2室は対面所の役割を果たしていました。上座ノ間は、背後の壁に宮本武蔵筆と伝わる鷲図などが描かれていますが、その下には幅の狭い板(押板)が敷かれており、左側には違棚が設えられています。この押板も、古い形式です。
 床は一段上げた上段とはせず、天井も格天井ではなく次ノ間とひと続きの棹縁天井になっています。
 
 一方、北側の3室ですが、こちらは内向きのスペースになっています。
 東の室は羅城ノ間と呼ばれますが、付書院を持っています。縁の方に張り出して造られており、障子窓が設けられています。
 付書院の例を示しておきます。

付書院・違棚の例
 付書院、違棚の例(西本願寺対面所「鴻の間」)(『京都古建築』より)
 
 写真は西本願寺対面所ですが、上段の間になっており、右奥の出っ張ったところが付書院です。左が違棚。 

 観智院客殿は、付書院の反対側に帳台構(ちょうだいがまえ)が設けらえれています。帳台とは、寝殿造で用いられた仮設的な寝台ですが、帳台構は特に寝室への入口に設けられた引き戸を指します。4枚構成の襖で、真ん中の2枚が開きます。寝室を「納戸(なんど)」とも呼ぶので、納戸構とも言います。

帳台構の例
 帳台構の例(二条城二の丸御殿)(『京都古建築』より)

 これは二条城二の丸御殿黒書院の写真ですが、上段の間に見えるのが帳台構です。4面のうち、3面だけが見えていて、写真左の2面(房が付いている)が開きます。
 観智院客殿のものは、このような房もなく、絵柄も地味なもの(楼閣山水図)です。

 帳台構の向うは、中の間。現在は大きく改造されています。元々は壁に囲まれた閉鎖的な部屋で、天井も低く、寝室として用いられていたと考えられます。寝殿造でいう「塗籠(ぬりごめ)」という部屋に相当します。
 帳台構も、寝室への出入口という本来的なあり方が残っているといえるでしょう。

 その中の間の先には使者の間が続き、さらに北西に玄関が設けられています。実際には、専らこの玄関から入る形になっています。

 観智院客殿は、南が公的な応接の場、北が私的な居住の場という区別が観察されるうえ、寝殿造の要素も垣間見える興味深い建物です。早い時期の書院造を示す遺構として国宝に指定されており、一度は見ておきたい建物です。

 


 東寺 観智院客殿(国宝)

 所在 京都市南区九条町
 拝観 春・秋の特別公開のみ(有料)
 交通 近鉄電車東寺駅から徒歩約10分



 【参考文献】
 『東寺観智院の歴史と美術』東寺(教王護国寺)宝物館、2003年
 『東寺の建造物』東寺(教王護国寺)宝物殿、1995年
 『日本の美術 75 書院造』至文堂、1972年
 岩井武俊編『日本古建築菁華』便利堂コロタイプ印刷社、1919年
 藤原義一『京阪沿線の古建築』京滋探遊会、1936年
 藤原義一『京都古建築』桑名文星堂、1944年

 

絵馬堂が意外におもしろい!(5) - 鳥辺山妙見堂 -

洛東




鳥辺山妙見堂絵馬堂


 懸造の特異な絵馬堂

 清水寺にほど近い鳥辺山妙見堂は、前回紹介したように、清水寺と同じような懸造(舞台造)の絵馬堂があります。

 鳥辺野妙見堂

 花洛名勝図会より妙見堂
 「花洛名勝図会」(1862年)に見える絵馬堂
 
鳥辺山妙見堂絵馬堂

 絵馬堂は、入母屋造、桁行三間、梁間二間という小ぶりのものです。ただ、懸造になっているところが絵馬堂としては珍しいですね。
 
 この絵馬堂と、隣接する本堂には、多数の絵馬が奉納されています。


 妙見堂本堂の絵馬

 まず、本堂から。

鳥辺山妙見堂絵馬堂

鳥辺山妙見堂絵馬堂

 “絵馬”らしく、馬の2題。上の絵馬は、うっすら「癸亥」の干支がうかがえ、どうも寛保3年(1743)のもののようです。駈ける2頭の馬を浮き彫りにした作品です。本堂正面に奉献されています。
 下は、貴人騎馬図、文政7年(1824)の奉納で、本堂の左側面に掲げられています。

鳥辺山妙見堂絵馬堂

 本堂の裏側にも、いくつかの絵馬があります。
 こちらは中国の文人らしく描かれ、李白のように思えます。

 また、明治天皇の和歌(「御製(ぎょせい)」)も。昭和13年(1938)奉納。「支那事変漢口陥落之日」「祈願東亜平定」とあり、当時国中を沸かせた中国・漢口への侵攻(武漢三鎮占領、1938年10月)を記念した額です。
 「敷島の大和心のををしさは 事ある時ぞ現はれにける」「いつくしみあまねかりせばもろこしの 野に伏す虎もなつかざらめや」の2首が記されています。前者は日露戦争時に明治天皇が詠んだ歌で、“非常時”に具現する大和心の強さを示したもの。後者は「もろこし(唐土)」の野の虎も慈悲の心でなつく、という意です。
 明治天皇の御製集は、戦前では広く流布していたので、これらの歌も多くの人が知っているものでした。

 鳥辺山妙見堂絵馬堂


 絵馬堂の絵馬

鳥辺山妙見堂絵馬堂


 続いて絵馬堂に掲げられた絵馬です。

鳥辺山妙見堂絵馬堂

 唐子遊戯図。天保13年(1842)奉納。囲碁、書、絵画などで戯れる唐子たちを描いています。

鳥辺山妙見堂絵馬堂

鳥辺山妙見堂絵馬堂

 次も同じ天保13年に奉納された絵馬です。馬ですが、立体の細工になっています。細工人は柳熊治。
 このような馬像は各所の絵馬堂で見掛けますが、朽ちている作も多く、こちらも顔が欠落しています。願主は、万寿寺通のかもじや・さの。

鳥辺山妙見堂絵馬堂

 もうひとつ馬です。

鳥辺山妙見堂絵馬堂

 少しさかのぼって天保5年(1834)のもので、「一世一代 岡田種」と奉納者の名があります。ただし、連名で18名の名前が列記されています。その名は「○角」「登龍」「鬼王」など通常の人名ではありません。岡田種が女性名であることからしても、これらは花街の人達の名前ではないでしょうか。


 祇園新地の信仰を集める

鳥辺山妙見堂絵馬堂

 こちらの絵馬は、ずっとくだって大正6年(1917)奉献ですが、「願主 祇園新地 阪口かの子」となっています。祇園の、今でいうお茶屋さんの女将が奉納したものでしょう。
 この妙見さんが花街の信仰を集めていたことは、本堂前の古札箱からもうかがえます。

鳥辺野妙見堂

 祇園のお茶屋と芸妓の名前が連記されています。

鳥辺山妙見堂
  古札箱。右端に「祇園新地」とあり、茶屋名と芸妓名が記される

鳥辺山妙見堂
  側面

 側面には、お茶屋の名前が。四条花見小路角にある著名な一力(万亭)をはじめ、三枡屋、京井筒や、萬屋、井津や、祇井筒とあがっています。花街の人たちに信仰されていた証です。
 近世以降になると、現世利益を祈願する対象として、妙見さんなどの流行神(仏)が信心を集めました。例えば、以前取り上げた建仁寺の塔頭・禅居庵の摩利支天も、そのひとつで、花街の女性たちに崇拝されていました。 詳しくは、⇒ <イノシシの摩利支天堂は、ずっと篤い信仰を集めている>

 絵馬のひとつひとつから、人々の信仰のさまが読み取れます。


  鳥辺野妙見堂




 鳥辺山妙見堂

 所在 京都市東山区清水
 拝観 境内自由
 交通 市バス五条坂から、徒歩約10分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1862年



清水寺の南にある鳥辺山妙見堂は、隠れた名所

洛東




鳥辺野妙見堂


 鳥辺野を歩く

 鳥辺野(とりべの)、鳥辺山といえば、かつては京都を代表する葬送地で、兼好法師「徒然草」第七段の「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ」という一節でも知られます。

 東山五条の交差点から、清水寺に向かう五条坂を上らず、大谷本廟(西大谷)に沿って坂を上って行くと鳥辺野(鳥辺山)です。

鳥辺野

 前方に墓地が見えてきます。

鳥辺野

 緩慢に広がる傾斜地に無数の墓石が立っています。
 坂の右が墓地、左は樒(しきみ)を売る店や寺院が並んでいます。

 しばらく行くと、石鳥居が現れます。

 鳥辺野妙見堂

 鳥居の額には「妙見堂」、石灯籠には「妙見宮」、そして門標には「鳥辺山妙見大菩薩」と記されています。


 鳥辺山の妙見堂

 境内に入ると、「鳥辺山」と山号を記した手水鉢。

鳥辺野妙見堂


 さらに、備前焼の狛犬を左右に据えた鳥居があり(冒頭の写真)、本堂へと至ります。

鳥辺野妙見堂

 妻入りの入母屋造、一重裳階(もこし)付きのお堂です。

鳥辺野妙見堂

 向拝に付いた手挟(たばさみ)や象鼻です。手挟は、よくある雲の意匠ですが、江戸後期らしく図案的な印象です。
 この本堂は、大きな裳階といい、細部意匠といい、江戸後期らしい雰囲気を漂わせていて、庶民の信心の場としてふさわしい感じがします。 

 上部に懸けられた扁額には「北辰殿」とあります。妙見さんの信仰は北辰信仰、つまり北極星(北辰)の神格化されたものが妙見菩薩なのです。関西では、能勢妙見がとても有名。大阪府豊能郡・妙見山の山上にあるのですが、篤い信仰を集めています。

能勢妙見 能勢妙見
  能勢妙見(大阪府)

 鳥辺山の妙見堂には、こんな額も奉納されています。

 鳥辺野妙見堂

 京都・勝光寺講の奉献した竪額ですが、「能勢山妙見宮」と記されています。勝光寺は、下京区にある日蓮宗の寺院とのことですが、その信者さん達が講を作って能勢妙見にお詣りしていたのでしょう。いつのものか分かりませんが、なかなか立派な額で冨田正太郎ほか16名の男性の名が連記されています。能勢妙見も日蓮宗ですが、日蓮宗のお寺にはよく妙見さんが祀られています。

 この妙見さんのことは、平凡社の日本歴史地名大系『京都市の地名』などにも登場せず、よく分かりませんでした。ところが先日、幕末の文久2年(1862)に出された「花洛名勝図会」を見ていると、このお堂が大きく取り上げられているのに気付きました。

 花洛名勝図会より妙見堂
  「花洛名勝図会」七

 松川半山の描いた妙見堂の全景。
 本堂や鳥居、狛犬の雰囲気など、現状と同じです。ただ、道路に面した鳥居など、入って行き方が異なります。
 鳥居の左には「霊亀石」などという珍なるものもあって……

 鳥辺野妙見堂

 今も残されているそうです。


 「花洛名勝図会」の記事

 参考のため、「花洛名勝図会」の記事を引用しておきましょう。

 妙見堂 同所[通妙寺]東にあり。本尊妙見宮を安ず。通妙寺別所なり。近年追々に修造なり。舞台、絵馬舎、茶所、休息所等、備れり。霊応またいちじるしとて、午の日の群参ハいふもさらなり。平日詣人の閑断なく、題目を唱ふる声、鼓木の音、遠近に響けり

 絵に描かれたような建物が近年修築されている上、霊験あらたかだとして、妙見さんの縁日「午(うま)の日」はもとより、ふだんも間断なく参詣者が押し寄せ、日蓮宗なので題目(南無妙法蓮華経)を唱えている、というのです。
 幕末の現世利益的な信仰のさまが上手く書き記されています。

 絵の上には歌が掲げられています。
 「鳥辺野の妙見宮に通夜しけるかた/夜もすがらねぐらさだめて鳥辺のの 星のめぐミや誰いのらなん/正種」
 ここで「通夜」とありますが、この堂に“お籠り”(参籠)したということですね。こういうところにも、篤い信心のありようがうかがえ、興味深く思います。 
 

 舞台造の絵馬堂

 その中に「絵馬舎」というのがありました。実は半山の絵にも、本堂の左手に「絵馬堂」として描かれています。

 花洛名勝図会より妙見堂

 驚くべきことに、懸造(舞台造)の立派な絵馬堂なのです。
 絵には、舞台の上に4、5人の人がたたずみ、掲げられた絵馬を見ているさまが描かれています。

 さらに驚くべきことは、この絵馬堂が現存することです。

 鳥辺野妙見堂

 確かに絵と同じ懸造。

鳥辺野妙見堂
  絵馬堂

鳥辺野妙見堂
  絵馬堂からの眺望

 そして、ここには今も多数の絵馬が掲げられているのですが、それについては回を改めて紹介することにしましょう。




 鳥辺山妙見堂

 所在 京都市東山区清水
 拝観 境内自由
 交通 市バス五条坂から、徒歩約10分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1862年
 『新訂徒然草』岩波文庫、1985年


三十三間堂は、かつて極彩色と丹塗りに輝いていた

洛東




三十三間堂


 発見された極彩色の文様

 三十三間堂を訪れて堂内を進むと、上部の梁をライトアップしている箇所があります。
 よく見ると、そのあたりに微かな彩色で文様が描かれていることがうかがえます。
 
 実は、昭和5年(1930)から実施された昭和の大修理の際、梁にある蓮形の鏡座(もとは装飾鏡が取り付けてあった)の下から鮮やかな文様が現れたのでした。

『京都古建築』より三十三間堂
  丸印が鏡座のひとつ(『京都古建築』より)

 藤原義一『京都古建築』の口絵に紹介された文様の図です。

 『京都古建築』より三十三間堂 『京都古建築』より三十三間堂
  鏡座の下に描かれた文様(『京都古建築』より)

 左は牡丹でしょうか、右は五色の雲のようです。
 ここでは、藤原義一博士の文を引いておきましょう。

 昔は堂内一帯に、極彩色を以て装飾文様や絵画が描かれ、虹梁の下面には鏡を取りつけて、観音浄土にふさはしい善美をつくしてゐたが、今は多く剥落し或はすゝけ、鏡も毀れて、文様らしいものも見えず、鏡の取りつけてあつた蓮座のみが虹梁の下に残つてゐる。
 併し黒く煤けた棰[たるき]などをよく調べると、一部に文様の描かれてゐるのが微かに認められ、また虹梁下面の蓮座を外すと、その下には美しい極彩色の絵画が色も鮮やかに残つてゐるのである。それ等の絵画には、牡丹があり、蓮があり、雲や飛天があり、宝相花[ほうそうげ]様の花もあり、蓮華にも散蓮華や美事に咲いた蓮華があり、葉を描いたものもある。一般に写実的な絵画であるが、中には多少図案化したところもあり、装飾画の描かれた頃の堂内の美観がしのばれる。(『京都古建築』237ページ)


 落ち着いた文章の中にも、その目で文様を見た藤原博士の興奮が伝わってくるようです。

 『三十三間堂』には、どのような文様が描かれていたか、詳細に報告されています。

 *柱:宝相華唐草文、菩薩像など
 *飛貫・頭貫・長押:宝相華唐草文、繧繝の線条文など
 *斗栱:繧繝の線条文など
 *虹梁:宝相華唐草文、天人、蓮華、牡丹花など
 *蟇股:瑞雲など
 *垂木:蓮華菱文など
 *間斗束:線条文など
 *支輪・折上組入天井:蓮華文など

 宝相華唐草文や蓮華文などはもちろん、菩薩や天人まで描かれていたとは驚きです。


 外観も丹塗りだった

三十三間堂


 堂内が浄土を表す極彩色に彩られていた三十三間堂ですが、その外観も実は「丹(に)塗り」でした。
 このことは、各種の洛中洛外図屏風など、カラーで描かれた絵からうかがえます。柱や長押など木の部分は赤い彩色で、連子窓は緑色に塗られていました。

 鎌倉時代(1266年)に再建された三十三間堂は、その後何度か修理を受けていますが、豊臣秀吉による天正の大修理の際、外観の塗り直しが大規模になされたようで、その後まで相応に残っていたようです。

 明治初期、京都府によって行われた社寺調査でも、その事実は確認できます(「四百年前社寺建物取調書」)。
 三十三間堂を管理する妙法院が明治17年(1884)に報告したところによれば、「(前略)丹塗 [割注]堂内垂木等彩色アリト雖トモ年古ク明瞭ナラス」と記されており、添付された淡彩画にも外観は赤っぽく描かれていて、明治の初めでも丹塗りであったことが分かります。

 それ以後の色の剥落過程は詳らかではありませんが、現在でもお堂の外に朱色の塗装が観察できます。東面、西面とも、南側に顕著です。

三十三間堂

 組物や間斗束(けんとづか)の周辺によく残っています。

三十三間堂
  組物(出組)の周辺

三十三間堂
  間斗束

 よく見ると、垂木の側面にも丹塗りが認められます。

三十三間堂

 ここでは色が正確に再現できないのですが、クローズアップを示しておきます。

三十三間堂

 一方、軒裏や垂木の木口などは白く彩色されていたようです。

三十三間堂

 白い彩色は、正面の向拝に付けられた蟇股などにも残っています。この向拝は慶安の修理(1649年~)で改修されていますので、江戸時代にも塗装が加えられていたことが想像されます。

 今では黒っぽく、古色蒼然とした三十三間堂ですが、名残りの塗装から往時の華やかさを想像することも愉しいでしょう。




 三十三間堂(蓮華王院)

 所在:京都市東山区三十三間堂廻り町
 拝観:大人600円ほか  
 交通:京阪七条駅より徒歩約5分



 【参考文献】
 藤原義一『京都古建築』桑名文星堂、1944年
 『三十三間堂』三十三間堂奉賛会、1961年
 『国宝 三十三間堂』妙法院門跡、2009年
 「四百年前社寺建物取調書」京都府立総合資料館蔵
 北野信彦・窪寺茂「三十三間堂の外観塗装材料である赤色顔料に関する調査」、「保存科学」48号(2008年度)所収


江戸時代から観光客に人気だった三十三間堂の「通し矢」

洛東




三十三間堂


 江戸時代の通し矢ブーム

 三十三間堂といえば、今日でも1月中旬に行われる「通し矢」が有名です。
 現在は、新成人らが60m先にある的を射る大会になっていますが、江戸時代のブームは様相が異なっていました。
 三十三間堂の西縁に座って、南から北へ向かって矢を射通す“つわもの”たちの腕比べでした。

 三十三間堂
  南の端から向うの端まで射通す

 詳しくは、以前書いた記事をどうぞ。 ⇒ <三十三間堂の正月行事「通し矢」、昔と今はどう違う?>


 「花洛名勝図会」の通し矢の絵

 文久2年(1862)に上梓された木村明啓・川喜多真彦撰「花洛名勝図会 東山之部」は、幕末に刊行された代表的な京都案内書のひとつです。「東山之部」とあるように、当初は洛陽之部や北山之部など、京都全域をカヴァーするべく企画されましたが、結局「東山之部」しか出版されませんでした。寺社の詳しい鳥瞰図や催事等をクローズアップした絵柄に見るべきところがあります。

 三十三間堂も、付近の鳥瞰図は「都名所図会」(1780年)を踏襲しているのですが、ここに紹介する絵柄は、なかなか興味深いものです。

「花洛名勝図会」より三十三間堂
 「花洛名勝図会」巻7

 題して「三十三間堂後堂[うしろどう]射前[いまえ]之所」。
 三十三間堂の西縁が描かれていて、遠近からやってきた参詣者が物珍しそうに観光しています。折しも、右手から数人の武士たちが現れました。縁の角にいる黒い羽織の侍は、柱に巻かれた黒い「鎧(よろい)板」を触っています。これが、通し矢の矢をガードする防御鉄板でした。

 三十三間堂通し矢

 現在も残る鎧板です。矢の当たった穴が開いていますね。

 ガードをしないと、この通り。

三十三間堂

 西縁の中央北側あたりですが、上部の組物に刺さった矢の痕跡が残されています(たぶん昭和の修理の時、ここだけ取り換えずに「記念」として残したのでしょうか)。

 絵に戻ると、後方の連れ二人は、上の方を指さしています。これは、長押の上に掲げられた額を見ているのです。多数の額は、ここで通し矢を行った武者たちが、自分の成績などを記して奉納したものです。絵を見ると、例えば角の上に掲出された額には「千発之内通箭[とおしや]五百口」と書かれています。的中率50%ですね。
 これらの額は、今では堂内に収納されているものもあります。
 ひとつ、おもしろい写真を紹介しましょう。

『京都古建築』より三十三間堂
 『京都古建築』より

 昭和19年(1944)に出された藤原義一『京都古建築』に収められた写真です。西縁を写していますが、縁にずらりと額が並べられています。撮影時期は不明ですが、おそらくは昭和5年から9年(1930-34)にかけて実施された修理工事の際、上から降ろされていたものでしょう。いかに多数の額が掲出されていたかが想像できます。

 
 「惣一」を争った男たち

 江戸時代の通し矢は、尾張藩と紀州藩の対決が凄まじく、射通した数のナンバーワン「惣一(そういち)」を競い合いました。「総一」とも書き、「天下一」などとも言いました。
 寛文9年(1669)、尾張の星野勘左衛門は、10,542本のうち8,000本を射通し、惣一となりました。余力はあったけれど、あえて後の人のために8,000に止めたといいます。
 対する紀州勢は、貞享3年(1686)、前髪の少年、和佐大八郎が挑戦し、13,053本中、8,133本を通し、レコードを更新しました。この時、星野勘左衛門も観戦していましたが、若い大八郎を思いやって、記録を達成させるために彼の左手を小刀で突いて血を出させて射させると、たちまち調子が良くなってレコードを出したと伝えます。
 江戸のライバル物語です。

 それから約180年後に刊行された「花洛名勝図会」巻8は、二人が奉納した絵馬を模写して掲載しています。

  「花洛名勝図会」より三十三間堂
  「花洛名勝図会」巻8より。上が和佐大八郎、下が星野勘左衛門

 いま三十三間堂に展示してある実際の絵馬と比べると、この模写がいかにリアルかが分かります。矢の数や日付なども克明に書き写してあります。
 幕末でも、通し矢に対する関心が高かった証でしょう。

 「花洛名勝図会」は、大八郎のライバル・星野勘左衛門のその後をこう記しています。

 この星野、永く世に在らば又々惣一を射べきに、惜いかな、それより程もなく世を去りぬれば、度々大矢数張行の人はあれども、これを射越すほどの精兵なし。

 ライバル物語は、星野の死によって、あっけなく幕切れとなったのでした。


 三十三間堂




 三十三間堂(蓮華王院)

 所在:京都市東山区三十三間堂廻り町
 拝観:大人600円ほか  
 交通:京阪七条駅より徒歩約5分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1862年
 藤原義一『京都古建築』桑名文星堂、1944年


【新聞から】京都にも鍾乳洞があった!? -質志鍾乳洞-





質志鍾乳洞


  「スリル満点、洞窟探検
  京丹波・質志鐘乳洞公園で春祭り」
  京都 2013年5月5日付


 洞窟や鍾乳洞といえば、山深いところにあるものですね。
 余り深山のイメージがない京都にも、鍾乳洞があることをご存知でしょうか?

 丹波地方の京丹波町(旧瑞穂町)にある質志(しずし)鐘乳洞。

 京都府内で唯一の鍾乳洞です。
 京都市内からは、国道9号線を北上し、京丹波町の和田の交差点を右折。しばらく行ったところにあります。そんなに山深くもありません。

 クルマで走っていると、路傍に突如看板が現れます。

質志鍾乳洞

 「歓迎 質志鐘乳洞公園」の文字。ほぼクルマでしか行けない場所なので、駐車場もあります。

 クルマを停めて歩いて行くと、のどかな風景。キャンプ場みたいな雰囲気です(実際に野外活動もできます)。

質志鍾乳洞

 その公園の中に、こんな小屋?ふうの入口が……

  質志鍾乳洞

 これが京都府唯一の鍾乳洞・質志鐘乳洞の入口です!

 ちょっと人工的すぎかな?

 しかし、中はとてもワイルドです。

  質志鍾乳洞 質志鍾乳洞


 金属製のハシゴを後ろ向きに降りて行きます。落下防止の囲いが付いているのが怖いです。
 「出口はありません」という注意書きも、なんとなく恐さを増幅します。

  質志鍾乳洞

 鍾乳洞というイメージよりは狭いですが、露出した鍾乳石が観察できます。

  質志鍾乳洞

 この質志鐘乳洞、昭和2年(1927)に発見されたといいます。
 古老の話によると、発見当時、この鍾乳洞がどこまで続いているのかを探るため、犬と鶏を放したそうです。すると、犬は途中で戻ってきましたが、鶏は3km先の大原神社の下の洞穴に出て、大きな声で鳴いたそうです。
 「出口はありません」という看板とは裏腹に、当時は出口があったのでしょうか。

 その後、名を知られるようになり、昭和7年(1932)に出版された鉄道省『日本案内記 近畿篇上』(博文館)にも紹介されています。

 【質志鍾乳洞】
[綾部]駅の東南12粁[km]、三宮村質志にあり、自動車の便がある、洞は四洞に分れ延長120米[m]、鍾乳石及石筍多く、黄金柱と称さるは最大周2米、高さ5米に及んで居る。


 いつもながら、簡にして要を得た説明です。

 5月5日付の京都新聞は、次のように報じています。

 質志鍾乳洞は1927(昭和2)年に発見され、長さは約55メートルある。温度は年中8~12度に保たれており、来園者は少し肌寒さを感じながら、時折コウモリが飛ぶ洞内を奥へと進んでいった。
 鍾乳洞の深さは約25メートル。難所の一つである垂直の階段では、水滴で足元が滑りやすく、手すりにつかまって恐る恐る上り下りする人もいた。


 というように、下りのハシゴはスリル満点? です。

 京丹波町は、以前にも下粟野の観音堂(重要文化財)を紹介しました。 ⇒ <和知の「大御堂」 -下粟野観音堂>

 自然と、それに寄り添って生きる人々の文化が豊かな地域です。
 質志鍾乳洞も、暑い夏に訪ねると、ひんやりすること請け合いです。




 
 質志鍾乳洞(京丹波町指定天然記念物)

 所在 京都府船井郡京丹波町質志大崩
 見学 大人510円ほか(4月~11月は毎日、12月と3月は土日祝のみ、1月と2月は閉園
 交通 国道9号線・和田交差点から国道173号線へ、約10km


明治末・大正時代の建築「京都府立図書館」「京都商業会議所」の平たいフォルムをどう評価する?

建築




京都府立図書館


 写真帖『京都』で見つけた1枚

 先日、『京都』と題する写真帖を購入しました。

 『京都』扉
  『京都』扉

 昭和4年(1929)2月に京都市役所が刊行したもので、京都の官公署、社寺、名所など90枚の写真と解説で構成されています。
 そもそも、なぜ昭和4年に発行したのかは、よく分かりません。前年の秋には昭和天皇即位礼が挙行され、それに合わせて出すというのなら理解できるのですが、何らかの事情で遅れたのでしょうか。それとも、この年の4月に京都市の区の再編成が行われましたから、その“記念”なのでしょうか。

 収録された写真の多くは、京都写真聯盟に属する写真家たちが撮影したもので、よくある「公」の写真帖に比べてソフトなカットが数多く見られます。ただ、そんなに珍しい写真は含まれていない感じです。

 その中で、気になったのがこの1枚。

京都商工会議所(『京都』より)
  『京都』(1929)より

 見慣れないこの建物は、いったい何なのか。


 京都商工会議所の沿革と事務所の新築

 もちろんキャプションが付いていて「京都商工会議所」と記されています。現在も烏丸通夷川上ルにありますね。
 京都商工会議所は、明治15年(1882)10月、旧「京都商工会議所」として設立されました。初代会頭は、実業家の高木文平が就き、役員には実業家で衆議院議員をも務める浜岡光哲や、会津出身で新島八重の兄としても知られる山本覚馬らがいました。
 明治24年(1891)に京都商業会議所と改称したあと、昭和3年(1928)に京都商工会議所と称し、現在に至っています。

 写真の建物は、大正3年(1914)に建築された京都商業会議所の建物です(大正4年ともいわれる)。商業会議所の事務所が置かれたほか、商品見本陳列室や図書室なども設置していたといいます。

 この写真を見た時、すぐに「武田五一やな」と直観しました。
 こういう“平べったい”フォルムは、武田五一らしいのですね。

 調べてみると、やはり設計者は彼でした。当時、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)の教授。のちに京都帝大教授になり、京都の建築界に大きな影響を与えます。


 武田五一のセセッション

 武田五一の建築は数多いのですが、京都で親しまれたものといえば、私も昔からよく利用している京都府立図書館があります。明治42年(1909)の竣工で、現在はファサード保存となっています。

京都府立図書館

京都府立図書館

 セセッション(ゼツェッション、分離派)の影響を受けていて、意匠が幾何学的になっています。とりわけ、平たく、薄っぺらい印象が付きまといます。ファサード保存のせいもあるのでしょうが、ぺったりとしていますね。
 アーチの用い方や屋根の雰囲気など、京都商業会議所と似通った部分がありますが、やはり平面的な印象が共通しています。

 府立図書館と同時期のものとして、岐阜市の名和昆虫研究所記念昆虫館(特別昆虫標本室、明治40年=1907)があります。切妻の屋根を架けていますが、窓の処理なども含めて、フラットな印象は否めません。

名和昆虫記念館

 こちらは、隣接する名和昆虫博物館(大正8年=1919)。

名和昆虫記念館

 昆虫碑も武田の設計です。

 名和昆虫記念館

 時代は下って昭和3年(1928)、「御大典」の年、三条通に建てられた大阪毎日新聞京都支局。
 現在の1928ビル。

大阪毎日新聞京都支局

 そして、最晩年の京都電燈の本社ビル(現・関西電力京都支店)。昭和12年(1937)です。

旧京都電燈本社

 昭和のものはさすがに違いますけれど、明治から大正のものはセセッションらしい平たい面構えを見せています。この平面的な造形を、さてどう評価するのか?

 私には少し物足りないところがあって、武田五一の図案家的なセンスが建物を平面的(図案的)にしてしまっているのでは、という印象論を持ったりします。

 武田五一は、京都の近代建築にとっては重要な建築家ですので、改めてじっくり考えてみたいと思います。




 京都府立図書館

 所在 京都市左京区岡崎成勝寺町
 見学 外観自由 内部は図書館となっています。ご留意ください
 交通 地下鉄東山駅から徒歩約10分



 【参考文献】
 『京都』京都市役所、1929年
 石田潤一郎「生き続ける建築3 武田五一」INAX REPORT NO.169 所収