03 | 2013/04 | 05
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
MENU

NEW ARRIVAL

PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

【新聞から】建て替えられる? 京都市庁舎





「約10年間で段階的に耐震改修・建て替え・新設」
市民しんぶん 2013年5月1日付


京都市庁舎


 京都市の広報誌「市民しんぶん」。

 大阪市の場合、「市政だより」といって<上から下へ>を表すタイトルですが、革新的伝統が強い京都は<自らの手で作る>新聞という位置付けで、同じ大都市でもネーミングが全然違います(内実はともかく…)。

 その「市民しんぶん」2013年5月号に、「市庁舎整備基本構想を策定」というお知らせが載りました。
 京都市役所といえば、長い間、市南部(京都駅より南側)への移転が議論されてきたわけですが、結局、現在地での整備に落ち着いたわけです。

 いったい、どう整備するのか? 図を見てください。

京都市庁舎の建替図
  「市民しんぶん」2013年5月号より

(1)昭和2年~6年(1927~31)に建築された本庁舎は、耐震補強して保存・活用する。
(2)昭和6年(1931)に建てられた西庁舎と昭和36年~49年(1961~74)に建設された北庁舎は、取り壊して建て替える。
(3)押小路通をはさんで北側の敷地に、分庁舎を新築する。

 大きくはこのような内容で、2022年までに整備を完了するということです。

 本庁舎とは、御池通に面した重々しい近代建築ですね。

京都市庁舎

 この庁舎は、昭和2年(1927)4月に建物の東側部分が完成し、続いて昭和6年(1931)8月に全館完成しました。

昭和初期の京都市庁舎(『京都名勝誌』)

 昭和3年(1928)刊の『京都名勝誌』(京都市役所)に掲載された市庁舎の写真です。
 当然、中央部と東半分しか建設されておらず、あたかも河原町通に面した東側面が正面のような趣を呈しています。

 竣工した庁舎は、鉄筋コンクリート造4階建(地下1階)で、「東洋趣味を加へたる近世式様式」(『京都名勝誌』)という、当時好まれたデザインでした。
 いわゆる“ネオ・ゴチック”ですが、細部は必ずしも西洋建築の約束事に捉われていません。

京都市庁舎

 塔屋のある中央部を見ても、アーチ窓の意匠や、筆のようなタレット、肘木に似た支えを持つ露台など、独特の意匠です。
 
 平面プランは、いわゆる「山」の字形です。
 役所のプランの変遷は、明治後期に「ロ」の字から「日」の字へと発展し、「日」の一部を省略した「山」の字形が生まれます。「山」の頂点には、議場が設けられています。

 設計は、京都市営繕課(中野進一)。武田五一が顧問として携わったといいます。

 昔から、なんだか重たい建物だなぁ、という印象を持っていました。装飾もくどい感じがしないでもありません。けれども、耐震補強をしてでも保存されるということは、喜ぶべきことでしょう。

 その一方で残念なのが、西庁舎の建て替えです。
 こちらも、竣工は昭和6年(1931)。4階部分は、戦後の増築になります。

京都市庁舎

 いわば本庁舎の附けたり建物なので、取り壊しということに決めたのでしょう。
 しかし、デザインや色彩は、右側の本庁舎に較べて、素軽く明るく、昭和初期らしい軽快な建物です。
 窓の上下に取り付けられた水平ラインが、時代の息吹きを感じさせます。

京都市庁舎

 壁面は、もちろんスクラッチ・タイル。昭和初期らしいです。茶褐色の濃い色ではなく、少し明るい色合いのもの。
 そして、その下部には、龍山石という黄色っぽく柔らかい素材を用いています。

京都市庁舎

 少し角ばった印象が玉にキズですけれど、とても好感が持てます。

 こんな建物を壊すことこそ、惜しいのです。

 本庁舎を「歴史的・文化的価値を有する」と評価するのなら、こちらも同じ。
 きっちり整備して、ちゃんと見せれば、実にいい味のある建物です。

 いつの時代も「日陰ものは割を食うのね」と思わせる話で、やるせない。
 建物に対する≪愛≫の欠如。

 さよならの時間まで、みんなで壁を撫でて、別れを惜しむべし、です。


スポンサーサイト

イギリス人女性と明治の「門徒宗」との邂逅 - イザベラ・バード『日本奥地紀行』(2)

京都本




  日本奥地紀行


 同志社女学校に滞在

 東洋文庫の『完訳 日本奥地紀行』全4巻の刊行を受けて、同書を紹介する2回目は、著者イザベラ・バードと浄土真宗との対話について見てみましょう。

 明治11年(1878)10月、神戸から京都にやってきたバード。
 「京都はだれもが好きな所である」と、京都を気に入った彼女が滞在したのは「二条さん屋敷」でした。ここは御所の北で、五摂家のひとつ二条家があったところです。当時は、その場所に同志社女学校が開かれていました。
 明治9年(1876)に始まった同志社の女子教育は、バードが来日した明治11年7月、今出川に新たな校舎を建築します。バードが滞在したのはそこでした。同校で教育に当たった宣教師A・J・スタークウェザーの名は、本書にも紹介されています。

 ちなみに、創立当初、この学校が「京都ホーム」と呼ばれていたことは、前回紹介した神戸の女学校(神戸女学院の前身)が通称「神戸ホーム」と言われていたことと符合して、興味深く思われます。
 バードが神戸の項で記した「ガールズ・ホーム」という呼称が、京都、神戸、大阪の女子寄宿学校に用いられていたのでしょう。

二条家跡
 二条家跡(現・同志社女子大学今出川キャンパス)


 イザベラ・バード、西本願寺に行く

 イザベラ・バードは、『日本奥地紀行』の第53報で「門徒宗」を取り上げます。彼女の関心を最もひいた宗派が浄土真宗だったのです。
 西本願寺を訪れたバードは、「京都の日本人には『英語を話す僧侶』として知られている」赤松連城と面会します。明治の宗門改革をリードした真宗僧侶です。

西本願寺
 西本願寺

 階段を上っていくと小さな部屋に出た。そこでは二人の僧侶が書きものをしていた。私はここでブーツを脱ぎ、[英語を話す僧侶]を待った。現れたその姿は私の期待を裏切るものだった。背丈がかろうじて五フィート[一五〇センチ]あるにすぎないだけでなく、顔もよくなかった。その上、非常にごわごわした毛髪が一インチ[二・五センチ]ほども伸びていたし、やはりごわごわした真っ黒の口髭と真っ黒でまばらな顎髭も生えていたのである。ただ、その額は整い眼は眼光鋭く輝いていた。(中略)赤松はとても紳士的で、礼をわきまえた人物だったし、表現力にあふれた英語を驚くほどうまくしゃべることができた。私から見ると、驚くほど率直な話しぶりだった。そして私をいくつもの堂宇に案内し、見るべきもののすべてを見せてくれた。私の訪問は三時間に及んだが、もっと長くいることができたらと思ったほどだった。それほどに赤松の考え方と会話には深い関心を覚えた。(92ページ)


 初対面の赤松連城の印象です。浄土真宗の僧侶なので頭は剃髪ではなく、ひげも蓄えていました。イギリスに留学していたためでしょう、英語はかなり達者だったようですね。
 
 バードは、書院や御影堂を案内されたあと、さらに「秀吉の夏の館」、すなわち飛雲閣に通されます。ここで、さまざまな宗教談義が繰り広げられるのでした。


 赤松連城の宗教観

 飛雲閣の中で、バードは赤松連城の宗教観を聞きました。ここでは、ふたりの「輪廻転生」についての対話を引いてみましょう。

 赤松氏は輪廻転生について大いに語った。そして、これが信仰の根本をなすものだと信じて疑いませんと明言した。そこで私は、清浄なる人は臨終にあって涅槃に入っていくのですか、これは西洋人には理解できない<無>という概念の同義語にすぎないように私には思えるのですが、と言った。すると氏は、「清浄なる人などどこにいるのでしょうか」と答えた。そこで私が、邪悪なままに死ぬ人は浄化されるまでの間は知恩院の<掛物>[「地蔵本願経変相図」]に描かれているような種々の拷問を受けるのですか、と尋ねた。すると氏は、「そんなことはありません。そのような人の霊は輪廻転生し、動物となって生まれ変わるのです」と答えた。そこで私は、そんなことになれば清浄になる見込みは完全になくなるのではありませんか、すべての教えとそのよい影響の届かないところに行ってしまうことになるのですから、と言ってみた。すると、「そんなことはありません。仏陀は他の動物に姿をお変えになって、そのような者がわかるように教えをお伝えになりますから。知恩院の[「地蔵本願経変相図」の]地獄の拷問がすべての終わりだと考えるものがたとえ一部にいたとしても、だれが[そのようなことを]確認できますか。永遠の時は長いのです」という返事が返ってきた。
(中略)
人間は陰鬱な過去を「長く」歩んできたし、陰鬱な未来をも「長く」歩んでいく--「虚しい姿」をなす苦を繰り返しつつ霊魂寂滅という終着点に至るというようにして。釈迦牟尼とその弟子たちは二千年以上にわたってそのように教えてきたし、[赤松という]最も開明的な宗派の最も進んだ僧侶、キリスト教や東洋と西洋の哲学を学んだ僧侶にしてさえこのように教え、最高の願いは「存在せぬこと」だとするのである。(98-99ページ)


 イギリス人の書いた書物の翻訳で、このように仏教思想を聞くと、仏教的思考に馴染みの深い私たちも、少々違和感を持ってしまうような気がします。
 つづいてバードは、自らの関心から、日本の宗教の現状について質問しました。

 私は日本の宗教の現状に関する氏の見解について尋ねた。すると氏は、とても興味深い会話を重ねたあとで、次のように要約した--「神道は儒教および仏教との接触によって若干潤色されてはいるものの、間違いなく、最も素朴な形態の自然崇拝です。宗教としては活力に欠けますし、政治の原動力としての力も落ちつつあります。活気があったことは一度もありません。仏教はかつては力がありましたが、今は弱体化しています。復興するかどうかはわかりませんが、清浄・輪廻転生と[霊魂の]不滅というその[仏教の]根幹をなす真理はなくなるはずがありません」と。また、私が、迷信を信じることは多少あるにしろ、日本人は最も無宗教的な国民だと見なすほかないように思われます、と言うと、「今はたしかにそうです」と答え、次のように続けた--「儒学は遠い昔に上流階級の人々の間に急速に普及しましたし、教養があり道理をわきまえた人々は霊魂の不滅を否定しました。そしてあなたがたが言うところの唯物論者になっていき、彼らの不信心が<平民>の中にも徐々に伝わっていくことによって、迷信は今なおたくさん伝存するものの、真の信仰は今の日本にはほとんど存在しません」と。(99-100ページ)


 明治初期、すでに「真の信仰」がほとんど存在しないと捉えられていたのは驚きともいえます。日本の人々が「唯物論者」になっていったという話は、現代に生きる我々にも通じる問題として、考えさせられますね。
 一方で、「活力に欠け」ていた神道が、このあと政治的に大きな意味を帯びてくることも、驚嘆すべきことといえるかも知れません。

 赤松連城は、キリスト教の見通しについて問われ、同志社英学校の若い人たちの熱心さを評価し、「おおぜいの人々が<疲れ切っている>」農村では「平易」なキリスト教が普及するかもしれないが、都市ではそうならないだろう、という考えを述べています。
 これは新島襄の見解と同じで、さらに日本人のよくない点についても、新島同様「嘘をつくことと規律を守らないこと」と答えているのは、やはり驚愕すべきことでしょう。

 イザベラ・バードは、このあと、長谷寺など大和を訪れ、さらに雨中を押して東へ進み、伊勢参宮を果たしています。そのほか関西各所へそそぐ眼は興味深いものがあります。

 金坂清則氏の詳しい注も参考になる『完訳 日本奥地紀行』をお薦めします。

 なお、このブログでも、バードと同じ英国人が明治後期に日本に来た記録(ハーバート・G・ポンティング『英国人写真家の見た明治日本 この世の楽園・日本』講談社学術文庫)を紹介していますので、あわせてご覧ください。 ⇒ <イギリス人が見た100年前の京都>、および <七宝家・並河靖之を訪ねたイギリス人>




 書 名:『完訳 日本奥地紀行 4 東京―関西-伊勢 日本の国政』
 著 者:イザベラ・バード
 訳注者:金坂清則
 出版社:平凡社(東洋文庫833)
 刊行年:2013年


明治初期、京都を訪れたイギリス人女性がいた - イザベラ・バード『日本奥地紀行』(1)

京都本




   日本奥地紀行


 稀有な女性旅行家、イザベラ・バード

 イザベラ・ルーシー・バード(1831-1904)。
 イギリス生まれのこの女性の名は、その著書『日本奥地紀行』とともに日本人の記憶に残っています。

 バードは、明治11年(1878)6月、来日し、東北や北海道という“人跡未踏”の地を巡り、その詳細な報告を『日本奥地紀行』に記しました。原題は、Unbeaten Tracks in Japan: An Account of Travels in the Interior, Inciuding Visits to the Yezo and the Shrines of Nikko and Ise といいます。「日本の未踏の地-蝦夷の先住民および日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告」がその直訳です。

 このタイトルから想像されるように、バードは日本の北の地域を旅行した稀有なイギリス人女性として知られていました。
 ところが実は、その著書には京都についての興味深い記述も含まれていたのです。


 金坂 完訳版の刊行

 私もよく知らなかったのですが、『日本奥地紀行』には、1880年にジョン・マレー社(ロンドン)から刊行された2巻本と、1885年にパトナムズ・サン社(ニューヨーク)から発行された簡略本の2種類が当初のものとして存在していました。
 これまで、平凡社・東洋文庫で翻訳されていた高梨健吉氏の訳書はパトナム社の簡略本をもとに訳出していました。これに対し、同じ東洋文庫から金坂清則 京大名誉教授がマレー社の2巻本をもとにした翻訳を出版されていましたが、2013年3月、その訳業が完成し、『完訳 日本奥地紀行』全4冊の完結となりました。
 第4巻は、副題を「東京-関西-伊勢 日本の国政」とするように、京都についての記述を含んでいます。これは、京都の歴史に興味を持つ人たちの必読書となるでしょう。


 神戸を訪れたバード

 金坂氏は、イザベラ・バードの旅の目的のひとつに<日本におけるキリスト教の普及(の可能性)を視察しリポートすること>をあげておられます。このことは、関西の旅の部分を見れば明瞭に感じ取ることができます。

 明治11年(1878)10月、東京を発ったバードは、神戸に到着します。

 ここは「アメリカン・ボード」の援助によって伝道活動の本部になっている。どういうわけか神戸というと人は開港場というよりも伝道の中心というように思ってしまう。私がここに来たのも、一つには伝道事業の進み具合を見るためだった。(65ページ)

 アメリカン・ボードの総主事がまことに親切にもこの地の宣教師たちへの推薦状を書いてくださっていたおかげで、私は実に手厚いもてなしを受けている。昨日の夕方は「女学校」へ軽い食事に連れていってもらった。ここは二七人の日本の少女のための寄宿学校で、実に魅力的な敷地に建つその建物は神戸随一の美しさである。アメリカン・ボードの三人の女性が一人の日本人の手助けを得てこの学校を運営している。少女たちは日本的な生活をしているものの、西洋音楽を学んでおり、上達しようと懸命になっている。三人[の女性]は流暢に日本語を話し、学校外での伝道活動にも頑張っている。神戸だけでなく遠くの村々でも伝道し、女性のための集会を開いているのである。(69ページ)


 アメリカン・ボードは、外国へのキリスト教伝道団体で、会衆派などの牧師たちによって組織されました。この団体が支援した主な学校が、同志社と神戸女学院でしたが、バードの報告にみえる「女学校」が神戸女学院の前身なのでした。つまり、明治8年(1875)、神戸・諏訪山のふもとにできた神戸ホームという寄宿学校です。バードの原文には、Girls Home となっているそうです。この学校が、のち神戸英和学院と改称し、さらに神戸女学院になったのでした。

 バードは、聖書の授業を見学し、女性たちが新約聖書に関する考えを述べているのを見ました。生徒たちは好奇心と快活さにあふれていて、バードからみれば「『聖書』が話題になっているとはとうてい思えないほどに笑いが起こった」そうです。
 そして、例えば「神の御子」という言葉を聞いた女性が、「その神の奥さんの名前は何というのですか」と率直に質問したことを書き留めています。


 バード、新島襄・八重夫妻と会う

 日を隔てて、バードは京都にも赴きました。そこで訪れたのは「キョウト・カレッジ」、すなわち同志社英学校です。

同志社大学
  現在の同志社大学 礼拝堂(重文)

 バードは、同志社創始期に教育にあたったデイヴィスやラーネッドを紹介し、また熊本バンドとの関係にも言及しています。
 そして、学生は実に熱心に勉強しているが、身なりは「大変むさ苦しい」と述べています。

 10月29日の夕方、バードは新島襄の住まいを訪問しました。「和風のすてきな家」と記されたその住居は、現在も御所の東に残る新島旧邸です。
 明治11年(1878)9月初め、つまりバードが訪れる1か月前に完成したばかりの新築でした。3方にベランダを回したコロニアルスタイルの2階屋でしたが、京都の大工の仕事になるということもあり、また襖や箱階段もあったりして、イギリス人の目から見ると、やはり「和風」の家と映ったのでしょう。

新島襄旧邸
  新島旧邸(京都市指定文化財)

 軽食はテーブルに用意されており、私たちは椅子に座った。テーブルの上にまことに美しくみごとな磁器がある点を除くと、外国の家庭で出される食事や茶と何ら変わらなかった。磁器には古薩摩もあったが、英国だったら戸棚にしまい込んでおく宝物のような立派なものだった。新島氏は<士族>[の出身]である。氏はアメリカで叙階された牧師で、このキョウト・カレッジ[同志社英学校]では窮理学[自然哲学]ほかを教えている。洋服を着ており、外国暮らしが長かったので着こなしが板についている。妻[八重]は女学校[同志社女学校]で裁縫を教えており、和服を着ている。氏の書斎は英国の学者のものとそっくりで、壁[の書架]はいくつもの分野を代表する英国版やアメリカ版の書物で埋まっている。(85-86ページ)

 氏は何よりも紳士的であり、その物腰には落ち着きと寛ぎと礼儀正しさがある。また温情にあふれた開明的キリスト教徒であると同時に、国を思う気持ちの非常に強い日本人でもある。そして国民の間に誠意が欠落し道徳が全般に堕落していることを憂えている。キリスト教の見通しに関しては一緒に活動しているアメリカ人[宣教師]たちほどには楽観視してはいない。都市部では広まっていく可能性が大変低く、農村部では学生への説教によってよい結果がもたらされるのではとの希望をもっている。私が氏にあなたの国の人々の最もよくない点は何ですかと尋ねたのに対しては、間髪入れず、「嘘をつくことと規律を守らないことです」と言い切った。好奇心をそそられる答えだった。キリスト教徒でない二人の政府高官に尋ねた時とまったく同じ答えだったからである。(87-88ページ)


 新島襄胸像
  新島襄胸像(同志社大学 ハリス理化学館にて)

 同志社の創設者・新島襄の印象です。
 「開明的キリスト教徒であると同時に、国を思う気持ちの非常に強い日本人でもある」という部分は、新島の素顔をよく捉えていると思います。
 最後の部分、日本人のよくないところは「嘘をつくことと規律を守らないこと」というところ。そののち、規律正しさを身につけていく国民の、そこに至る以前の姿が垣間見られるようで興味深く思います。

 京都を代表するキリスト者のひとりに会ったイザベラ・バードは、つづいて仏教徒と宗教観について意見を交わすことになります。それは、また次回。




 書 名:『完訳 日本奥地紀行 4 東京―関西-伊勢 日本の国政』
 著 者:イザベラ・バード
 訳注者:金坂清則
 出版社:平凡社(東洋文庫833)
 刊行年:2013年



西本願寺「飛雲閣」が見える場所





西本願寺飛雲閣(昭和3年)


 飛雲閣の特別公開

 先日(2013年4月13日~15日)、西本願寺で立教開宗記念法要が執り行われました。
 この法要では第24代・大谷光真門主が退任を表明されたこともあって、新聞などの報道で目にされた方もいらっしゃると思います。来年6月、35歳の光淳新門が後を継がれるそうです。私は真宗の門徒ではありませんが、自分よりかなり年若い新門が門主を継承されることに、やはり感慨を覚えます。

西本願寺

 その法要の折、ふだんは公開されていない堂宇がいくつか開かれましたので、拝見してきました。

 西本願寺

 公開されたのは、書院、経蔵、飛雲閣です。

西本願寺 書院

 経蔵に限りない興味を持っている私は、もちろん経蔵の内部公開が愉しみで出掛けたのですが、経蔵のことは再三書いていますので、ここでは見送っておきましょう。
 白書院もなかなか立派ですが、来られた皆さんのお目当ては、やはり国宝・飛雲閣のようでした。

 撮影禁止なので、冒頭には『京都名勝誌』(昭和3年)の挿図を掲げておきます。
 池に臨んで建てられた複雑な屋根を持つ三層楼。写真で見ると美しい気がしますし、実際に拝見すると奇異なる建物にも見えます。現在は、2層目の杉戸絵(三十六歌仙)が色鮮やかに復元されていて、それが殊更目を引きます。
 江戸時代から秀吉の聚楽第の遺構という説が伝わり、現在でも巷間そう言われることが多いのですが、もちろん確実視できるものではありません。建築史的にも否定的な意見が出されています。本願寺出版社が出している岡村喜史『西本願寺への誘い』にすら、考証した上で「秀吉が生前に破却した聚楽第の遺構が元和の火災[1617年]以降に本願寺に移築されたとする可能性は極めて低いであろう」と記されています。

西本願寺飛雲閣(昭和11年)
  飛雲閣 招賢殿(『京阪沿線の古建築』より)

 内部は非公開ですが、これは1層目の主室である招賢殿。写真は、框で高くなった7畳半の中段と、その奥2畳半の上段、さらに右手(北側)に3畳の上々段あり、明障子の入った花頭窓と付書院が見えています。
 全体に明障子を多く用い、池の光が反射して、内部は明るいことでしょう。襖などに雪柳図が描かれているので、柳の間とも呼ばれています。

 参考までに、藤原義一『京阪沿線の古建築』より、この建物の建築史的位置づけを引用しておきましょう。

 「飛雲閣は、桃山時代邸宅建築の一傾向を示すもので、既に鎌倉時代より建築界の中心が仏寺方面より住宅に移らんとし、早く室町時代には仏堂的邸宅とも云ふべき金閣・銀閣の出現あり、殊に金閣は三層楼としてはるか飛雲閣の先駆をなすものと云ひ得る。
 併し、飛雲閣は邸宅として既に完成の域に達したものであり、其外観に於ても種々独創的な意匠を行つてゐることも金閣の比ではない。即ち平面の変化に伴つて外観も変化に富み、屋根には反り屋根、波状形起[むく]り屋根あり、四注[寄棟のこと]、入母屋、唐破風あり、窓にも扉にも多種多様の意匠をこらし、時には蟇股・太瓶束・笈形等の彫刻を用ひてゐるが、全体として繊細な方柱に杮[こけら]の屋根が極めて軽快な釣合ひを保ち、初層の鴨居や第二層の手摺[てすり]の細い横線等の醸す軽い雰囲気は後世日本住宅の趨くところを暗示するかの如くである」 (『京阪沿線の古建築』)


 南から飛雲閣が見える

 ふだんは塀に隔てられて見ることができない飛雲閣。
 しかし、それは北側、つまり西本願寺側からの話で、南側からは見えるのです!

興正寺

 興正寺。真宗興正派の本山で、西本願寺の南に隣接しています。

 このお寺については、以前書いていますので、ご参照ください。 ⇒ <興正寺の経蔵が、デザイン&人間模様で、不思議と魅力的!>

興正寺

 この阿弥陀堂のあたりから北を見ると、間近に飛雲閣が見えるのです!

 写真掲載すると“覗き見”みたいなのでアップしませんが、冒頭写真の逆から見えるということですね。
 正面から見るに越したことはありませんが、せっかく来て見られないのも悔しいので、ぜひ興正寺さんにお詣りして、飛雲閣も眺めてみてください。



 西本願寺 飛雲閣(国宝)

 所在 京都市下京区堀川七条上る
 拝観 境内自由 飛雲閣は非公開(不定期に特別公開)
 交通 JR京都駅下車、徒歩約5分



 【参考文献】

 岡村喜史『西本願寺への誘い』本願寺出版社、2012年
 平井聖ほか『日本建築の鑑賞基礎知識』至文堂、1990年
 『京都名勝誌』京都市役所、1928年
 藤原義一『京阪沿線の古建築』京滋探遊会、1936年


門徒の寄付で建立された東本願寺の参拝接待所は、武田五一の設計





東本願寺


 お寺にある「休憩所」

 参拝者が多い大きなお寺には、休憩所があることが多いですね。この休憩所は、お茶を呈することから、昔は茶所と呼ばれていました。今でも、古い木造の茶所が現役で活躍しているところが多数あります。これについては、別の機会にじっくり書いてみたいと思います。

 今日は本願寺なのですが、西本願寺には古い茶所があり、「総合案内所」として現役で活躍しています。

西本願寺
  西本願寺 総合案内所(茶所)

 こちらでは、摂州接待講の皆さんがお茶の提供をなさっていて、誰でも無料でお茶がいただけます。

 東本願寺の場合、かつての茶所の位置に総合案内所があります。

東本願寺
  東本願寺 総合案内所

 ドアには「東本願寺お買い物広場」と大書されています。
 その名に恥じず、本願寺グッズが満載! 数珠や蝋燭のような伝統的な品々から、ロゴ入りのTシャツ、トートバッグといった現代モノまで、多種多様です。書籍類も充実していて、私などはそこで購入ですね。


 昭和初期にできた参拝接待所

 東本願寺の御影堂門を入って右手(北)には、古くは集会所(しゅうえしょ)がありました。明治以降、その場所に、門徒の志を受ける志納場(しのうじょう)が置かれました。

東本願寺平面図(大正11年)
  赤く囲ったところが志納場(『お寺まゐり』大正11年より)

 平面で見ると、建物の3方が少し突き出した造りです。

 昭和になって、この改築が計画されます。
 門徒の寄付により、京都帝大教授の武田五一設計で建築されたものです。

 以前購入した古書に、その内容を報じる新聞記事の切り抜きが挟み込まれていました。何新聞かは不明なのですが、昭和9年(1934)8月10日付の新聞です。

 十四間四面の大伽藍を建立
  東本願寺の志納場と法務局
   門徒の寄進廿[20]万円で

 東本願寺の大壇越岩田惣三郎氏の遺族諸氏が故人の供養のためとて十万円を東本願寺に寄進し、それを聞いた門徒の有力者三十氏が更に十万円を醵出[きょしゅつ]寄附したので、同本山では志納場と法務局を新築することに決し、まづ従来の志納場を取毀つてその後へ十万円を投じ、十四間四面の大伽藍を建立、写真のやうに殆ど外見はでき上つた。
 近ごろ防火が喧しくいはれるのでルンペンが縁の下へ入つて焚火などしない縁を基礎工事とスレスレにした所は伽藍建築に新機軸を出したものだといはれる。
 畳が三百畳敷けるので、正面に阿弥陀如来を安置し、その両脇に志納場と参拝部を設け、大部分は参詣者の無料休憩所として開設する。
 名前も『志納場』といふのはいかにも搾取機関のやうに聞こえるので参詣者休憩所といつたやうな名に改めるはずだし、殿舎拝観にも現在のやうに宗務所まで大廻りしなくてもこゝで受付けるやうにし、参詣者や団体旅行者に頗る便利になるはずである。
 なほひきつゞき現在の法務局を取毀つて新たに十万円を投じ法務局の建築に着手するが、これは両堂の裏になり、あまり他の伽藍との調和を必要とせず反対に防火の必要を痛感されてゐる。


 
 “『志納場』というのは、いかにも搾取機関のように聞こえるので、参詣者休憩所といったような名に改める”というのが、妙におかしく生々しいです。
 確かに、現在では参拝接待所となっています。

 また、“ルンペンが縁の下に入ってたき火などしないように、縁を基礎工事とスレスレにした”という話。確かに、こんな感じで……

 東本願寺

 基壇に密着して載っている造りで、縁の下がなくなっています。珍しいかも。

東本願寺

 こちらは、内部。

東本願寺

 写真の奥が志納場、手前が広い休憩スペースで、自販機なども設置されています。阿弥陀さんは、この左手に安置。東本願寺を開かれた教如上人に関する詳しいビデオも上映されていたりして、思わず見入ってしまいます。

 外観の細部を見ておくと、こんな雰囲気です。

 東本願寺
  花頭窓

 東本願寺
  ガラス入り菱格子

 全体の雰囲気としては、御殿風の抑えた意匠です。
 記事に「十四間四面」とあるのは、柱間のことではなく実際の長さが14間(約25m)あるということでしょう。

 現在は、この建物に隣接して真宗本廟視聴覚ホールが完成しています(設計・高松伸、1998年竣工)。
 東本願寺への参拝の際は、休憩を兼ねて訪ねてみるのもよいかも知れません。


 
 東本願寺 参拝接待所

 所在 京都市下京区烏丸七条上る
 拝観 自由
 交通 JR京都駅下車、徒歩約5分



 『真宗本廟 東本願寺』真宗大谷派宗務所出版部、2000年
 『お寺まゐり』博文館、1922年
 『京都名勝誌』京都市役所、1928年


東本願寺を火災から守る「本願寺水道」は、明治30年に通水した





東本願寺


 火災に悩まされる寺院

 古くから、寺院は落雷や大火で堂宇を失うことがしばしばありました。
 京都も歴史的には大火が多く、「方丈記」にも描かれた安元の大火、応仁の乱による焼亡、天文法華の乱、そして江戸中期の天明の大火、さらには幕末の禁門の変の「どんどん焼け」など、その度ごとに多くの寺院が焼かれました。

 西本願寺に行くと、立派なイチョウがありますが、俗に「水ふき銀杏」と呼ばれています。

西本願寺
  西本願寺「水ふき銀杏」
 
 『新撰京都名勝誌』には、「枝条繁鬱、四方に蟠延す、本寺回禄[火災]の厄あれば、此の樹、水気を噴飛して之を消すと称し、俗に水ふきの銀杏樹といふ」と記されています。
 火事になったら水を吹き出すとは、ちょっとした魔法のようですが、それだけ火災が深刻な事態だったことを物語っています。


 東本願寺の防火システムとは?

 一方、烏丸通に面した東本願寺は、江戸時代、4度にわたり火災に遭いました。

 ・天明8年(1788)
 ・文政6年(1823)
 ・安政5年(1858)
 ・元治元年(1864)

 江戸中期以降、頻繁に焼け、その度に再建されてきました。

 元治元年の大火(どんどん焼け)後の再建は、明治時代に入ってから着手され、御影堂と阿弥陀堂は明治13年(1880)にちょうな始め式が行われ、明治28年(1895)に竣工しました。その後も明治末頃までかけて、諸門や書院などの工事が続けられています。

 明治の再建の際、過去に学び、防火システムの導入が行われました。
 まず、明治15年(1882)に、防火用水を確保するために、京都御所から余水を引く工事が実施されました。東洞院通、烏丸通を通って東本願寺に至るルートでした。

 それに続き、より大規模な防火用水が計画されました。それは、琵琶湖疏水から引水するというプランです。

琵琶湖疏水
  琵琶湖疏水(九条山)

 南禅寺に程近い蹴上(けあげ)から取水し、三条通から、八坂神社、建仁寺、五条大橋などを経由して、渉成園(枳殻邸)を経て東本願寺に導くルートでした。この用水を「本願寺水道」と呼んでいます。

 ちなみに、京都御所へも蹴上から防火用水を引いています。これは「御所水道」と呼ばれ、明治45年(1912)の完成。上の写真に写っている煉瓦造の建物がポンプ室です(片山東熊設計)。
 

琵琶湖疏水
  蹴上の取水ポイント

 本願寺水道の設計は、琵琶湖疏水を実現した工学博士・田辺朔郎です。

 田辺朔郎像
  田辺朔郎銅像(蹴上)
 
 完成は、明治30年(1897)8月3日。
 蹴上から東本願寺まで、約4.6km。鴨川は、五条大橋に鉄管を抱き込ませて越えています。
 フランス製の鋳鉄管を用い、14万4303円の経費をかけて配管しました。14万円というと、現在でいうと数十億円にあたるでしょう。琵琶湖の水面と東本願寺の高低差は約48mあるそうで、この落差を利用して配水する仕組みです。
 このような方法(自然流下)は、当時は一般的でした。明治28年(1895)に通水した大阪市の上水道も、市内で最も高い大阪城本丸に配水池を設け、そこから市内へ水を落としていました。


  水圧で噴き出す水しぶき

 東本願寺に導水された水は、境内北の噴水池に溜められ、そこから御影堂、阿弥陀堂など各所に配水されました。
 水は、高い水圧によって噴出します。地面から噴き出すだけでなく、お堂の軒下からも雨のように水がそそぐ仕組みです(現在のドレンチャー)。噴出力は、当時のある文献には130尺(約40m)とあります(『新撰京都名勝誌』)。
 
 大正11年(1922)に刊行された鉄道省『お寺まゐり』には、このシステムが特記されています。

 「東本願寺は開創以来屡々[しばしば]火災に罹つたので、新堂再建と同時に火防の設備をした。即ち琵琶湖の疏水を、洛東三条蹴上げから引き、境内至る処に鉄管を敷設し、百五十有余の防火栓を備付け、本堂[阿弥陀堂]、大師堂[御影堂]、大門[御影堂門]等の搏風[破風]、屋根の四周に通じさせてゐる。故に若し一朝変があつた時全弁を開けば、迸水滾々として噴出し、巍然たる大伽藍も悉く龍吐の包む所となる」

 なんとも時代がかった表現ですが、的確にシステムを説明しています。防火栓が約150カ所もあったとは驚きです。

 今も山内を見回すと、

東本願寺

 こういう鉄の蓋があって、

 東本願寺

 たぶん、これが防火栓なのだと思います。

 昔の写真にも、

『京都名勝誌』より大谷派本願寺 『京都名勝誌』

 下端にある四角いものですね。

 ちなみに、現在は老朽化のため使われておらず(1979年に停止)、新しい放水銃が備えられています。

 東本願寺
  現代の放水銃
 

 憩いの水にも

 昭和54年(1979)に役割を終えた後も、周囲の堀の水や、御影堂門の前の蓮噴水には、この水が使われていたそうです。

東本願寺

東本願寺

東本願寺

 蓮噴水は、大正7年(1918)の完成で、建築家の武田五一が設計したものです。
 残念なことに、これらへの水の利用も、現在では中止されているそうです。

 最後に、今回見付けたおもしろいもの。

東本願寺

 阿弥陀堂門の南脇にあります。

 東本願寺

 「消防車車庫」

 扉の幅は、150cmくらいで、とてもクルマが通れるとは思えないのですが。昔のことだから、竜吐水でも入れていたのかな。
 防火意識の高さに感心しきりでした。


  西本願寺



 
 東本願寺

 所在 京都市下京区烏丸七条上る
 拝観 境内自由
 交通 JR京都駅下車、徒歩約5分



 『御影堂御修復のあゆみ』真宗大谷派宗務所、2012年
 『両堂再建』真宗大谷派宗務所出版部、1997年
 『お寺まゐり』博文館、1922年
 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年
 『京都名勝誌』京都市役所、1928年


【大学の窓】 京都で歴史を学ぶ大学生の出身地は?

大学の窓





 京都で歴史を学ぶ

 大学キャンパス

 4月になり、大学のキャンパスにも学生が戻ってきました。
 非常勤でうかがっている京都の『上京大学(仮称)』の歴史学の授業から、折々思ったことをコラム的に【大学の窓】として書いていきたいと思います。

 初回は、学生たちの出身地考です。

 上京大学(仮称)は、京都市の中心部、緑豊かな場所にあり、全国から学生が集まってきます。
 日本史専攻の1回生を対象としているこの授業では、毎年初回、学生に自己紹介してもらっています。その際、出身地を添えてもらうことが慣例です。
 73名の自己紹介は50分に及びましたが、出身地は北は北海道から南は熊本まで、バラエティーに富んでいました。その集計結果は、次の通りです。

【北海道・東北】3名
 北海道 1
 岩手  1
 福島  1
【関東・甲信越】11名
 群馬  1
 埼玉  1
 茨城  1
 千葉  1
 東京  1
 神奈川 1
 山梨  1
 新潟  1
 長野  2
 富山  1
【東海】11名
 静岡  2
 岐阜  2
 愛知  6
 三重  1
【関西】28名
 滋賀  2
 京都  6
 大阪  10
 奈良  2
 兵庫  8
【中国・四国】8名
 岡山  2
 広島  2
 山口  1
 香川  1
 愛媛  1
 高知  1
【九州】10名
 福岡  6
 大分  2
 長崎  1
 熊本  1
【海外】2名
 中国  1
 フランス 1

 32の都道府県と中国、フランス。中国は留学生、フランスは日本人の学生でした。

 1位・大阪(10)、2位・兵庫(8)、3位・京都、愛知、福岡(6)。

 毎年そうなのですが、地元京都より大阪が多いのですね。愛知、岐阜、静岡といった東海地方の出身者も意外に人数が多いです。近いからかな?
 東北と四国はいつも少ないのですが、今年は四国勢が3人と健闘。
 今年の関東は、各県1人ずつくらいで、ちょっと少なめ? 日本海側の出身者も少ないですね。

 やはり、関東・東北の高校生たちは、東京の大学に進学する人が多いのでしょう。私たちの頃は、京都にあこがれてやってくる東日本の友人も目立ったのですが、最近は関西圏と中京圏が中心になっています。

 自己紹介でおもしろかったのは、みんな自分の出身地を「田舎、田舎」と自虐ネタみたいに言うこと。
 ある学生などは、「みなさん知らないと思いますが、僕は『大分』というところの出身で」と言って、笑いを誘っていました。確かに、大分はのどかなところかも知れませんが、歴史・文化を見渡すと、温泉以外にも注目すべきところがたくさんありますよ。

 いよいよ新学期のスタートです!

  
 大学キャンパス

  

御所にもあった“お公家さん”的数え歌





京都御所蛤御門


 「丸竹夷」は有名な数え歌

 「マルタケエビスニ オシオイケ」という唄は、京都では子供でも知っている(知っていた?)愛唱歌で、有名な通りの名前を覚える数え歌です。
 漢字で書くと「丸竹夷二押御池、姉三六角蛸錦、四綾仏高松万五条」で、

  丸太町通
  竹屋町通
  夷川通
  二条通
  押小路通
  御池通
  姉小路通
  三条通
  六角通
  蛸薬師通
  錦小路通
  四条通
  綾小路通
  仏光寺通
  高辻通
  松原通
  万寿小路通
  五条通 

 と、たいそう長々しいのですが、これが一節で覚えられる魔法です。
 七五調ではなくて、八五調になっているのも面白いですね。
 タテ(南北)の通りを覚える唄もあり、そのほか子供の数え歌も多く、京都文化博物館に行くと音声ガイドで聴くことができます。


 公家邸を覚える数え歌

京都御所

 ところが、京都御所にも同様の数え歌があったとは、寡聞にして知りませんでした。

 勧修寺経雄という伯爵が、昭和5年(1930)に出版された『京都新百景』に、こんなことを書いています。


 私は御苑内を散歩し通行する度毎に散歩さして頂く、通らして頂くといふ感が起こる。しかし赤や紫の旗を先頭に京見物の案内者が昔この松林の所に八百八公卿[くげ]というて……とサモ病ひの数のやうに説明し出すとこれには実際ヒヤリとする。そんなに多くはなかつたがとにかく沢山の公卿がゐてなぜ王政復古が遅かつたかと思ふのである。これ等多くの邸宅をさすがに歌にして覚えさしたのも面白い。

  仙洞御所の南側西より
 長風や芝園池に梅桜池尻[いけがみ]交野妙法林丘
  大宮御門の中程より北の方へ
 萬里[まで]甘露[かんろ]櫛笥[くしげ]柳に園富小御下り御殿京極の宮
  猿辻より石薬師門の方へ
 一河や滋る中山藤波は御門を出でゝ樋口高倉

 (勧修寺経雄「京都御所を中心に」、『京都新百景』271~272ページ)


 今の京都御苑に数多の公家邸があって、その数は「八百八」(多いもののたとえ)と言われていた、それを勧修寺経雄は「こんなに大勢公家がいたら、王政復古の話し合いも議論百出でまとまらなかったのもうなずける」と感じたわけですね。

 数え歌ですが、さすがに難しいですね。
 まず、仙洞御所の南側に、西から東に向かって、次の公家邸が並んでいました。

  長谷(ながたに)、風早、芝山、園池、梅小路、桜井、池尻(いけがみ)、交野(かたの)

 これに加えて、妙法院宮の里坊、林丘寺宮の里坊と続きました。
 これらの公家は、家格でいうと五摂家、清華家、大臣家につぐ羽林家や名家で、大きな屋敷を構えた五摂家などとは異なり、こじんまりとした邸がずらっと並んでいる雰囲気でした。

 また、禁裏の東側(2筋目)には、南から北に向かって、

  萬里小路(までのこうじ)、甘露寺(かんろじ)、櫛笥(くしげ)、柳原、園、富小路

 と並び、御下り御殿(御里御殿)、さらに京極宮(桂宮)がありました。
 「御下り御殿」とは興味深い呼び名ですが、これは女官が月の障りの際に禁裏より下がっていた居所のことだそうです。

 禁裏の北、猿が辻から東に向けては、

  一乗院門跡、河鰭(かわばた)、滋野井、中山、藤波

 と並び、石薬師門を出て、樋口、高倉とつづいていました。

 このことを懐かしく紹介した勧修寺経雄は、もちろん勧修寺家の出身でした。貴族院議員も務め、当時は東京に住んでいたと思いますが、数え歌に自分の家が出てこないのは残念だったのでしょうか?


 「蛤御門」の由来

 冒頭の写真は、蛤御門(はまぐりごもん)です。京都御苑の西に開いています。この門は、元は「新在家門」と称していました。
 再び勧修寺経雄の随筆から。


 新在家門は天明の火事より通行が許されたので「焼けて口あく蛤」でそれから蛤御門といふさうだ。謎のやうだがこの御門を中心として起こつた戦ひが小規模であつたが結果は中々に大きく今日を致した序幕と見てよい。(同上、273~274ページ)


 御所を含め、市中が広く焼亡した天明の大火(1788年1月)の際、ふだんは閉鎖されていたこの門が開放されたことを述べています。「焼けて口あく蛤」とは、よく言ったものです。
 なお、「この御門を中心として起こつた戦ひ」とは、幕末の蛤御門の変(禁門の変)を指しています。

 先日も、大河ドラマで“蛤御門の変の大火は、応仁の乱以来で京を焼き尽くした”とナレーションしていましたが、実はその間にあった天明の大火が、江戸中期の京を焼亡させていたのです。

 いまでは往時をしのぶべくもない御所ですが、いにしえのありさまを想像するのも興味深いことでしょう。


京都御所


 ※前回の「祐の井」の記事を修正しましたので、その項もご参照ください。




 京都御苑・蛤御門

 所在 京都市上京区京都御苑
 見学 自由
 交通 地下鉄今出川駅または丸太町駅下車、徒歩



 【参考文献】
 勧修寺経雄「京都御所を中心に」(『京都新百景』新時代社、1930年 所収)
 『京都名勝誌』京都市、1928年



御所には、明治天皇ゆかりの「祐の井」が





京都御所


 京都御所という空間

 京都では「御所」で通っている京都御苑。
 歴史的にみれば、明治維新後に周りを現在のような石塁で囲まれ、その中も砂利と芝生の公園のようになっています。

京都御所

 けれども、維新前、一帯は禁裏の周囲に公家邸が立ち並ぶ屋敷町でした。


 公卿・中山家で生まれた明治天皇

 禁裏の北東側を「猿が辻」と呼んでいます。
 鬼門にあたるため、写真のように築地塀が凹まされています。

京都御所

 このさらに北東に、公卿・中山邸がありました。
 中山家は羽林家200石。幕末に、愛親(なるちか)、忠光など、動乱の中で名が知られる人物を出しています。天誅組で著名な忠光の父が、忠能(ただやす)でした。私は、院生の頃、授業で彼の日記を講読していたので、とても親しみのある人物です。日記を読んでいて印象に残ったのは、毎日の天気が必ず記されていたことと、各所からの到来物がやたら多かったことでしょうか。

 中山忠能は従一位にまでなった公卿ですが、なんといっても明治天皇の外祖父(母方の祖父)として有名でしょう。
 明治天皇は、孝明天皇の第二皇子ですが、母は天皇の典侍だった中山慶子(よしこ)、忠能の次女でした。
 「典侍」(てんじ、すけ)は、宮中の女官のひとつで、天皇のお側に仕える女性です。奥向きの女官の中では、一番上の位でした。そのため、摂家、清華家、大臣家につぐ羽林家や名家の子女が着きました。

 明治天皇は、その典侍だった慶子の実家である中山邸で、嘉永5年(1852)9月22日(新暦の11月3日)に誕生しました。その邸は猿が辻あたり、つまり禁裏の北東に建っていたのです。この辺は、石薬師通と呼ばれていて、中山邸の少し東に石薬師門が開かれていました。これらは、御所の北の方から見ると、今出川門を入って東に行ったあたりに位置します。


 今も残る祐の井

 下橋敬長の『幕末の宮廷』には、「御初湯[うぶゆ]井戸水のこと」として、次のように記されています。

 明治天皇様は石薬師門内中山家御邸内の井戸の水を以て御初湯を遊ばされ、よってこの井戸を「祐[サチ]の井」と申すのであります。天皇様の御幼名を祐宮[さちのみや]と称し奉るによるのであります。(『幕末の宮廷』335ページ)


京都御所

 今、現地に残る井戸には「祐井」と刻されています。

 『幕末の宮廷』には、明治天皇の皇后となった昭憲皇太后は、一条家の「県[あがた]の井戸」で産湯を使ったとも記されています。

 ところが、この話には異説があります。
 祐の井で明治天皇が産湯を使ったというのは、誤りというのです。
 『京都名勝誌』などによると、この井戸は明治天皇誕生の翌年(嘉永6年=1853)の夏頃に掘削されたものだといいます。その頃、日照りの時もこの井戸からだけは滾々と水が湧き出すので著名になり、いつの頃からか明治天皇産湯の井戸と誤伝されたと述べています。

 改めて『明治天皇紀』を調べてみました。
 
 明治天皇は嘉永5年(1852)9月22日の生れですが、外祖父である中山忠能は、賀茂川に架かる出町橋の北で産湯に用いる水を汲ませ、その水を邸内にあった井戸水に加えて用いました。
 そして、この井戸は「祐の井」とは別の井戸でした。

 嘉永6年(1853)8月、京都は日照り続きで、井戸水も枯れるものが多かったのですが、中山邸の井戸も枯渇してしまいます。忠能は、祐宮(明治天皇)の養育に支障が出ることを心配して、邸内に新たに井戸を掘削することを計画します。8月24日に掘り上がった井戸は、8尺(24cm)の湧水を湛え、とても清冽でした。忠能は大いに喜んで、これを祐宮の御用水にしたのです。
 このことは父である孝明天皇の耳にも達し、天皇より宮の名前にちなんで「祐井」の名を賜りました。忠能は、明治10年(1877)7月、井戸の側に碑を建てて、その経緯を記しました。

 産湯に使われたのは中山邸の古い井戸で、祐の井は翌年掘られたことが分かります。

 
 明治天皇は、その後、5歳まで中山邸で養育されました。9歳で立太子して睦仁と名付けられ、天皇としての人生を歩んでいくのです。

 ちなみに、京都から離れた兵庫県のことなのですが、慶子が明治天皇を出産するとき、中山寺(宝塚市)に安産祈願をしたことから、同寺は“明治天皇勅願所”、安産の寺としての信仰が広まったといわれます。
 中山慶子と中山寺。同じ「中山」で何か関係あるのかな? と思ったりするのですが、よく分かりません。

 京都御所に行かれた折、一度「祐の井」を訪ねてみてはいかがでしょうか。




 祐の井

 所在 京都市上京区京都御苑
 見学 自由
 交通 地下鉄今出川駅下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 下橋敬長『幕末の宮廷』平凡社(東洋文庫353)、1979年
 『京都名勝誌』京都市、1928年
 『明治天皇紀』第一、吉川弘文館、1968年


【新聞から】日本の名僧は誰?

人物




 「もっと知りたい日本の名僧」
  朝日(土曜版)beランキング 2013年3月30日付



 朝日新聞の土曜版「be」で毎週行っている読者アンケートによるランキング。
 今回は、なぜか日本の名僧ランキングでした。
 朝日新聞デジタル会員813人から回答を得たもので、「週刊朝日百科 仏教を歩く」や山折哲雄ほか編『日本の仏教を築いた名僧たち』(角川選書)を参考に選んだ歴史上の僧34人から選んでもらっています。
 お坊さんをランキングすること自体“どうかなぁ”と思われる方もあるかと思いますが、まぁそういう欄なので仕方ないということで。

 ランキングは、次の通りでした。

 1位 空海  443票
 2位 鑑真  292票
 3位 親鸞  273票
 4位 一休  229票
 5位 西行  190票
 6位 法然  178票
 7位 良寛  174票
 8位 最澄  166票
 9位 日蓮  162票
10位  雪舟  152票

 なお、11位から20位は、行基、道元、沢庵、空也、栄西、夢窓疎石、一遍、蓮如、重源、源信でした(重源と源信は同数)。

 堂々1位は、弘法大師、空海。得票数もダントツで、圧倒的人気です。
 2位は、朝日も「やや意外にも思える結果」とする鑑真。その使命感や意志力に関心が集まった模様。
 3位は、親鸞。やっぱり小説に取り上げられる数でも大人気ですものね、親鸞は。
 ぼくらアニメ世代は4位「一休さん」もお馴染み。とんちの名僧という印象でしょうか。

 私が意外だったのは、19位の重源。鎌倉時代に東大寺の再建を果たした僧ですが、ベスト20に入るとは。なかなか。
 このランキング、よく見ていくと、日本史の教科書に出てくる人物ばかりです。選択肢の34人が誰なのか不明なのですが、それがそもそも教科書に載っている僧だけだったのかも知れません。
 素直に考えれば、例えば円仁、円珍とか、叡尊とか、明恵、貞慶とか、あるいは日像とか日親とか、はたまた宗峰妙超、関山慧玄、隠元とか……。まあ、ランキングだから仕方ないのかも知れません。

 それにしても、教科書から逸脱すると面白い話もあるもので。
 例えば、2位の鑑真について、西山厚さんは『仏教発見!』(講談社現代新書)の中で、鑑真は完全ではないにせよ目が見えていたのではないか、という説を示しています。
 西山さんが着目したのは、天平勝宝6年(754)に東大寺の良弁宛に出した手紙(鑑真奉請経巻状)で、お経の借用を申し込む内容です。
 手紙の末尾にある「鑑真」という署名が行書体で何の思い入れもなく書かれているところや、間違った文字を上書きして自然に訂正しているところなど、他人の代筆でも全くの盲目の人の書でもないと判断されています。
 少し驚かされます。

 3位の親鸞。浄土真宗の開祖として、その名は小中学生でも知るところ。しかし、大正時代までは「親鸞は実在しない」といういう説が唱えられていたのです。
 というのも、親鸞は、公家の日記など同時代の史料にその名を現しておらず、明治時代には学会で親鸞非実在説が喧伝されていたのでした。
 この論争にピリオドを打ったのが、大正10年(1921)、西本願寺で発見された妻・恵心尼の書簡10通で、これにより親鸞非実在説が否定されたのでした。
 わずか90年前まで、親鸞の実在性がはっきりしていなかったとは、実に意外な話です。教科書に書かれている事柄より、実在・非実在論争の方に興味が湧いてしまいます。

 ちなみに、私が『日本の仏教を築いた名僧たち』掲載の58人で、これはと思ったのは良源。元三大師です。
 平安時代、10世紀の比叡山の僧で、いまでも比叡山横川(よかわ)に元三大師堂があります。
 本当は慈慧大師と諡号されたのですが、正月三日に亡くなったので「元三(がんさん)」とも言い、一般には「元三大師」で通っています。
 ひろく人々に親しまれ、豆大師や角大師の護符が有名。

 角大師

 以前、比叡山でいただいた角大師の護符。鬼だけれどユーモラスな表情です。

 あまりに美男子だったので、宮中に参内するときは豆粒みたいに小さくなって行った(女官に言い寄られないため)という伝承から豆大師の護符も生まれました。おかしいですね。
 そして、おみくじの元祖という話は、たいへん有名です。

 こんなふうに、高僧といっても、なかなか謎が多いものです。いろいろと調べて愉しんでみましょう。