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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

村松貞次郎ほか『近代和風建築』

京都本




  『近代和風建築』


 木造建築全盛の時代は?

 明治大正の京都府技師・亀岡末吉に注目するシリーズを3回目つづけてきました。
 彼の建築は一言でいえば「近代和風建築」。一般には聞き慣れないこの言葉を知ったのは、おそらく村松貞次郎・近江榮編『近代和風建築』だったのではないでしょうか。

 1988年に出版された『近代和風建築』は、東京、神奈川などの明治から昭和初期にかけての和風建築125件を調査、紹介した書物でした。
 そのまえがきに、村松貞次郎先生は次のように書いておられます。


「日本の伝統的木造建築の黄金時代は、いつのころだと思うか?」と建築史の講義に先立って学生たちに質問すると、さまざまな答えが返ってくる。
「薬師寺の東塔は凍れる音楽とまで言われる。白鳳時代かな」
「いや重源の東大寺再建、あの大仏様の設計思想はすばらしい。バイタリティーに溢れた鎌倉初期だ」
「なんてったって桂離宮。江戸のごく初期かな」
「時代的には重なるが、日光東照宮を採りたいね。桂を神格化していた近代主義時代には俗悪のお手本みたいに言われたが、いまはポスト・モダンの時代。こちらの方が株は上がてるよ」
 と、そうぞうしいことになってしまうが、こと和風の木造となると明治とか大正といった返事は一つもない。まったく問題外といった感じである。考えても見ないというのが本音のようだ。
「ところが、私は明治の半ばごろから昭和へかけてのころかな。もう少し限定すると明治12年に造営の儀が仰出された明治皇居の造営から、大正9年に鎮座祭が行われた明治神宮造営のころ。その余映が日中戦争に始まる戦時体制によってかき消された直前までも含めると、明治の半ばから昭和初年代までかな」と言うと、ビックリした顔付きで息をのむ。そして、まさか、という雰囲気が教室を支配する。先生、またからかってる。悪いクセだと言わんばかりだ。(『近代和風建築』6ページ)


 今でこそ「近代和風建築」という言葉が(少なくとも建築史の世界では)普及し、全国的に調査も行われていますが、25年ほど前はこんな状況だったわけです。

 同書ではすでに、近代和風が古社寺保存法(明治30年=1897)に代表される伝統建築への理解の進捗に影響を受けて発展し、寺社に限らず駅舎、劇場、銭湯など広範な建物に和風意匠が取り入れられたこと、明治から昭和に至るにつれて和風を強調する傾向が強まること、銘木を使ったり細工に凝るなど豪華さを演出することなど、その特徴を指摘しています。
 ただ、そこで取り上げられた建物は関東のものばかりだったので、関西に住む私たちは、少しピンとこないところがあったのでした。

 今でも一般の方々のあいだには「近代和風建築」という概念が浸透しているとは言えません。今回取り上げた近代和風建築も、“古い建物だから中世のものだろう”などと思われているのかも知れないのです。
 ところが、それも歴とした近代和風建築なのでした。

 木造建築=古い、という観点を外して見ると、いろいろな発見があるかも知れませんね。




 【参考文献】
 村松貞次郎・近江榮『近代和風建築』鹿島出版会、1988年



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亀岡末吉の2つの門は、光と影を意識している

建築




仁和寺勅使門


 華麗なる門の名手-東本願寺菊の門-

 シリーズ的に注目している亀岡末吉ですが、今回は2つの門を取り上げます。

 東本願寺菊の門と仁和寺勅使門です。
 どちらの寺院も火災からの復興事業で数多くの堂宇を再建したのですが、その中に門も含まれていました。

 東本願寺は、幕末の蛤御門の変(1864年)で伽藍を焼かれ、明治維新後、再建に着手します。東面して並ぶ御影堂と阿弥陀堂は、近代の巨大木造建築の代表格です。敷地の北東に開かれた菊の門は、明治44年(1911)に造営されました。

東本願寺菊の門
 東本願寺菊の門(登録文化財)

 扉に大きな菊文が付いているので、この名称があります。菊文は、かつて徳川家康が寄進したものだそうです。

東本願寺菊の門

 この門は、神野金之助と長男・富田重助が寄進したものです。
 武田五一の指導のもと、亀岡末吉が設計しました。棟梁は名古屋の鈴木幸右衛門という人で、部材は名古屋で加工されたそうです。

 見所は、やはり細部の彫刻でしょう。

東本願寺菊の門

 唐破風の下には多数の彫刻が…… 
 中央の蟇股。

東本願寺菊の門

 これは鬼なんでしょうか。牙をむいています。歯が金色なのが妙に恐ろしい。

東本願寺菊の門

 その下の左右の蟇股や金物は菊の文様です。しかし、細工は少し粗い気もします。

東本願寺菊の門

東本願寺菊の門

 妻の蟇股。これは牡丹でしょうか。

東本願寺菊の門

 とても素敵なのは、六葉の猪目(ハート形)に、色ガラスなのでしょうか、カラフルな彩りが見られるところ。ちょっと見かけない工夫ですね。

 しかし、なんといっても「亀岡式」らしいのは、扉の透かし彫りです。

東本願寺菊の門

 三連の花菱文。いつも用いられるデザインです。


 仁和寺勅使門

 東本願寺菊の門より僅かに遅れて造られた仁和寺勅使門。大正2年(1913)竣工です。
 菊の門は切妻造に軒唐破風を設けていましたが、こちらは入母屋造に軒唐破風を付けています。

仁和寺勅使門
 仁和寺勅使門(登録文化財)

 2011年に登録有形文化財となり、それを機に2012年末まで修理が行われていました。

 亀岡の設計で、施工は菊の門の鈴木幸右衛門の手代・杉岡倉松です。
 全体のフォルムは、国宝の西本願寺唐門に学んでいます。

 仁和寺勅使門

 屋根の下は、やはり彫刻で埋め尽くされています。

仁和寺勅使門

 上部には向い合う2羽の鳳凰。その間の大瓶束も装飾たっぷりです。

仁和寺勅使門

 虹梁の端にある渦巻きと若葉からなる絵様は、前回紹介した東福寺恩賜門のものと似通っていますね。

仁和寺勅使門

 こちらは六葉。菊の門とは異なったシャープな美しさをたたえています。

 最も見所なのは、やはり扉の周辺でしょう。

 仁和寺勅使門

 装飾満載。

仁和寺勅使門

 柔らかい花菱を中心に構成した透かし彫りは、向うからの光を通して、とても美しい。

 亀岡が“光”を意識していたことを感じさせるのは、次のような部分にもうかがえます。

仁和寺勅使門

 扉の左右にある連子窓。桟は極めて細いのですが、光を受けると……

 仁和寺勅使門

 見事なシルエットを創り出します。
 冬の午後4時頃に撮影したと思いますが、影が長く伸びて、細い連子をくっきりと映し出します。

 これを見ると、やはり亀岡末吉は特異なデザインセンスを持っていたのだと確信します。
 京都府で亀岡の部下だった岩﨑平太郎は、東本願寺菊の門について「桃山時代のルネーサンスで各部の彫刻はいわゆる亀岡式の雄渾な曲線美を以て極彩色を施し、目もまばゆいばかりであった」と評しています。確かに、亀岡の建築は「目もまばゆい」という形容がぴったりの装飾に満ち満ちています。

 「明治時代和風建築革新の先覚者としての努力は君が計画せし建築と共に、永く世人に記憶さるることであろう」とは関野貞の言葉ですが、今日も亀岡の建築を見られる私たちは幸福以外の何ものでもないのでしょう。




 東本願寺 菊の門(登録文化財)

 所在 京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町
 見学 境内自由
 交通 JR京都駅下車、徒歩約10分

 仁和寺 勅使門(登録文化財)

 所在 京都市右京区御室大内
 見学 境内自由 ただし御殿などは有料(大人500円ほか)
 交通 京福電車御室仁和寺下車、すぐ



 【参考文献】
 『京都市の近代化遺産』京都市市民文化局、2006年
 『京都府の近代和風建築』京都府教育委員会、2009年
 川島智生『近代奈良の建築家 岩崎平太郎の仕事』淡交社、2011年 


東福寺の恩賜門は、繊細な彫刻に満ちている

洛東




東福寺恩賜門


 明治14年の火災と再建事業

 明治14年(1881)12月、東福寺は火災に遭います。出火元の方丈はもちろん、仏殿、法堂、庫裡などが被災します。

東福寺焼失範囲
 明治14年の焼失範囲(イメージ) (原図は「都名所図会」)

 当時、東福寺では、山門(現存)の北に仏殿と法堂が並んでいました。ところが、この両堂を焼失してしまいます。その東北(図・左斜め上)にあった方丈と庫裏も焼けました。図で分かるように、お寺の中心部分を失ってしまったのです。

 再建事業は、こののち昭和9年(1934)の本堂(仏殿と法堂を兼ねる)落慶まで、半世紀余りを要することになりました。
 最初に竣工したのは方丈で明治23年(1890)のことでした。明治42年(1909)には方丈の南の門である恩賜門が、翌43年(1910)には庫裏が再建されます。

東福寺方丈
 方丈

東福寺方丈
 方丈の庭(重森三玲の作庭)

東福寺庫裏
 庫裏


 恩賜門の造営

 焼失の翌年、英照皇太后、昭憲皇后から、東福寺に堂宇再興のための賜金がありました。今回取り上げる方丈の門が「恩賜門」と呼ばれるのは、そのためです。
 ちなみに、『明治天皇紀』第5、明治15年(1882)4月17日条には、次のように記されています。

「京都東福寺堂宇再興の趣を聞召され、皇太后・皇后金五百円を賜ひ、其の資に充てしめたまふ、(中略)客年[昨年]十二月祝融の災に罹り、伽藍諸宇悉く焼失せるを以て此の賜あり」

 当時の500円というと、現在の貨幣価値だと数千万円くらいになるでしょうか。

東福寺恩賜門

 後ろに見える大きな屋根が方丈です。

 東福寺境内図
 昭和初期の東福寺境内図(『お寺まゐり』)
 赤印が恩賜門

 上図の赤い部分が恩賜門ですが、方丈の左にも別の唐門が造られています(明治24年竣工)。
 また、現在の拝観ルートは、右手の庫裏経由になっています。

東福寺恩賜門

 一般に方丈の建物は前面に広縁があり、その前に庭が設けられています。庭を挟んだ正面には、唐門が置かれることが多いのですが、この門は日常の出入りには用いられません。

 恩賜門は、明治42年(1909)に竣工しました。檜皮葺の向唐門で、少し背の高い印象があります。
 設計は、京都府技師・亀岡末吉です。

 亀岡については、前回取り上げましたので、こちらをご覧ください。 ⇒ <亀岡末吉の独自世界は、正法寺「遍照塔」からスタートした>


 「亀岡式」の華麗な装飾

東福寺恩賜門

 唐破風の下には、華やかな装飾の世界が広がっており、亀岡末吉の面目躍如で、兎毛通、大瓶束、蟇股など見所満載です(以下の写真は、おおむね南側から撮影していますが、必要に応じて北側からも撮影しています)。

東福寺恩賜門

 こちらは、大瓶束の右側の部分。門扉に大きく菊文がありますが、それに従って、この門には随所に菊の意匠が取り入れられています。こちらは、比較的写実的な趣きのある菊花と菊枝でしょう。

東福寺恩賜門
 (北側)

 クローズアップ。花びらや葉が動的に表現された見事な彫刻です。
 隙間なく空間を埋め尽くす手法は、桃山、江戸以来の常套手段とも言えますが、龍や獅子などでなく、植物文を用いるところに、この門の品性を感じさせます。

東福寺恩賜門

 その下にある虹梁の端部。渦巻文と若葉文を合わせたような複雑な絵様になっています。

東福寺恩賜門

 蟇股。こちらも菊唐草。端正な左右対称の図柄です。蟇股の上には花肘木が乗っており、その左右の端は若葉状となり、付け根は猪目? のような意匠を取っています。

東福寺恩賜門
 (中央)

東福寺恩賜門
 (右側)

 蟇股の下、頭貫と飛貫の間の透かし彫りです。藤でしょうか。花の部分や、唐草のように巻いたところが、とてもエレガンスです。そして、光を透かすと、この上もなく……

東福寺恩賜門
 (北側)

 よく見ると、左右対称ではないのですね。その意味は分かりませんが、芸が細かいです。

東福寺恩賜門

 柱上部の木鼻も掲げておきます。こちらも江戸時代のように象鼻や獏鼻にせず、渦巻、若葉の系統で洒落た仕上げ方でしょう。



 扉も、細かい意匠が満載!

東福寺恩賜門

 扉です。上下には、亀岡らしい透かし彫りがあります。
 そして、大きな菊文。ベースの部分は、吹寄せ菱格子に花菱をあしらったデザインです。

東福寺恩賜門

 これも亀岡的な雰囲気を示していますね。

 東福寺恩賜門

 この彫刻が、ちょっと超絶的。

 東福寺恩賜門

 これも菊ですが、結構彫りが深く、リアルそうでリアルでなくて……
 彫刻師も大変だったろうと、妙な感想も湧いてきます。

東福寺恩賜門

 扉下部の格狭間(こうざま)。とても扁平です。

 というように、上から下へと見てきました。

 これでもか、というように彫刻が施されています。
 江戸時代の建物も彫刻過多ですけれど、「亀岡式」はそれとは違っていますね。デザイン的には洗練されているし、左右対称の幾何学的な意匠です。また、切り紙のような透かし彫りは、光の効果を意識しています。
 亀岡末吉には門に秀作が多いのですが、余りに過剰なので、続きは次回にしましょう。




 東福寺 恩賜門

 所在 京都市東山区本町
 拝観 境内自由 方丈の拝観は大人400円ほか
 交通 JR・京阪電車東福寺駅下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『お寺まゐり』鉄道省、1932年
 『京都府の近代和風建築』京都府教育委員会、2009年
 『明治天皇紀』第5、吉川弘文館、1971年


亀岡末吉の独自世界は、正法寺「遍照塔」からスタートした

洛西




正法寺遍照塔


 神楽岡の亀岡末吉邸

 京都大学の東方、左京区の神楽岡は吉田山とも呼ばれ、近代になっても東麓には田畑が広がり、大文字山が望める風光明媚な土地でした。
 神楽岡の中腹を南北に走る神楽岡通が少し狭くなるところに、一軒の落ち着いた邸宅があります。

旧亀岡末吉邸(世界救済教黎明教会)

 この邸が、京都府技師・亀岡末吉(1865-1922)が設計した自邸でした。
 現在は、世界救済教黎明教会となっています(内部は非公開)。

 この自邸は、大正2年(1913)に新築されたもので、「絵巻物に見るような凝った建物」と言われ、巷間「吉田御殿」とも呼ばれたといいます。当時、あたりに民家は少なく、さびしい場所に建てられた“御殿”だったのでしょう。

 廣岡幸義氏の研究によると、東を向いた玄関を入ると四畳半1間があり、その先に中廊下が伸び、廊下の右手(北側)には書院を持つ六畳間や八畳間、十畳間が続いていました。北には縁が廻らされており、庭が広がっていました。室内には、修学院離宮や西本願寺などと同様の意匠が取り入れられ、亀岡の研究成果の一端を示しているようです。
 また川島智生氏の著書に掲載された欄間の写真を見ると、吹寄せ格子に二連の花菱文を組み合わせたもので、亀岡が手掛けた寺社建築に見られる好みをよく表しています。

 上の写真にある門も、修学院離宮などに見られる数寄屋風の門になっています。屋根は杮葺きとし、左右に木賊塀(とくさべい)という竹の塀を立てています。手の込んだもので、竹は1列ずつに上下を逆にして並べていきます。

 旧亀岡末吉邸(世界救済教黎明教会)
 旧亀岡邸の木賊塀

 細部の意匠にも気を使ったこの自邸には、亀岡末吉の研究成果が発揮されています。


 亀岡末吉の履歴

 亀岡末吉は、慶応元年(1865)に前橋藩士の子弟として生まれ、明治維新後は洋画を学び始めます。東京美術学校の絵画科に進んで日本画を習得し、明治27年(1894)に卒業しました。
 その後、内務省の古社寺調査に携わり、明治34年(1901)からは寺社の修理に従事しました。明治40年(1907)、京都府技師に着任し、平等院鳳凰堂の修理などを手掛けます。
 絵心があり、寺社建築の細部に通じているという経歴が、彼の建築設計にも生きてくるのです。

 亀岡は、明治40年に京都府に赴任後、寺社の設計も行い始めます。再び廣岡氏の研究などを参照に、彼の設計した建築や主な増築部のうち、京都に現存するものを列挙してみましょう。

明治41年(1908)
*忠魂堂(現・正法寺遍照塔、2008年移築)
明治42年(1909)
*東福寺 方丈 恩賜門
明治44年(1911)
*東本願寺 黒書院・白書院・菊の門ほか
明治44年~大正3年(1911-1914)
*仁和寺 霊明殿・宸殿・勅使門ほか
大正2年(1913)
*亀岡末吉邸(現・世界救世教黎明教会)
大正2年(1913)
*武徳殿 車寄・玉座【増築】
明治末~大正初期
*今宮神社 疫神社 幣殿・透塀

 自邸以外は、寺社建築です。東福寺、東本願寺、仁和寺、今宮神社など、幕末から明治時代に火災にあった寺社の再建に携わっていることがうかがえます。


 最初の設計「忠魂堂」

 亀岡末吉の最初の設計は、明治41年(1908)、京都・東山の高台寺の南に建立された忠魂堂でした。「忠魂」という語からも分かるように、日清・日露戦争の戦没者慰霊のために建てられたものです。

 2008年に、高台寺の境内整備によって、西京区の正法寺に移築されました。
 正法寺は、阪急・東向日駅からバスで約20分。大原野神社の向かいにあります。

正法寺

 境内に入って、少し進むと右側の駐車場内に忽然と立っています。

 正法寺遍照塔

 正法寺遍照塔
 正法寺遍照塔

 基壇上に建つ六角二重の建物。
 現在は地下室が造られ、仏さまが祀られています。

 正法寺遍照塔

 もとは、初層(下層)は柱だけが立つ吹き放しとなっていたのですが、現在はガラスがはめられています。御簾が吊るされているので内部はうかがえませんが、六角形の須弥壇があり厨子が安置されています。
 また、名称も「遍照塔」と変わりました。

DSC_0746_convert_20130320172300.jpg

 屋根の見上げです。

正法寺遍照塔

正法寺遍照塔

 垂木などの小口には、美しい金物が取り付けられています。花菱文の四隅に猪目をうがつ意匠で、亀岡らしいデザインです。

正法寺遍照塔

 上層の高欄まわりにも花菱文の金具が連続的に打たれており、たいへんにぎやかな印象を与えます。

正法寺遍照塔

 初層の蟇股。院政期から室町時代にかけての意匠を取り入れています。

正法寺遍照塔

 
 全体に、柱、組物、高欄など、古代建築の様式を学んで、それを具体化しています。清水一徳氏は、これを「復古主義仏堂建築」のひとつとして捉えています。

 のちに、「亀岡式」と呼ばれる独自のスタイルを築いていく亀岡末吉ですが、そのスタートは古典に学んだ復古的な建築でした。

 それでも屋根上の飾りは目を引きます。

 正法寺遍照塔

 露盤の上に宝相華(ほうそうげ)を重ねていき、その上に御光を付け、頂部には猛禽らしき鳥がとまっています。明治時代の二つの戦争を慰霊する塔であれば、これもトビ(金鵄)かと解釈するのも許されるかも知れません。

 亀岡末吉としては、まだまだ控えめと評される忠魂堂。このあと、さらに独自の世界を切り開いていきます。


 正法寺遍照塔




 正法寺 遍照塔(旧忠魂堂)

 所在 京都市西京区大原野南春日町
 拝観 境内自由
 交通 阪急電車東向日駅からバス、南春日町下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 廣岡幸義ほか「『亀岡式』の作品について 亀岡式作品研究その1」日本建築学会近畿支部研究報告集、2004年
 廣岡幸義「旧亀岡末吉邸について 亀岡式作品研究その4」日本建築学会大会学術講演梗概集(近畿)、2005年
 『京都府の近代和風建築』京都府教育委員会、2009年
 川島智生『近代奈良の建築家 岩崎平太郎の仕事』淡交社、2011年 
 清水一徳『京の近代仏堂 2.復古主義』京都市文化観光資源保護財団ウェブサイト



東寺小子房の勅使門から「近代和風」が見えてくる





東寺小子房勅使門


 勅使門はいつ出来たか?

 先に東寺小子房(こしぼう)について書きました。今回は、その勅使門を見てみたいと思います。

 東寺小子房は、昭和9年(1934)の建築で、東寺の中では新しい建築といえます。

 その東に建つ勅使門ですが、『東寺の建造物』によると、小子房が建築された際に、かつてあった場所から「南方に移動」したと記されています。とすれば、明治16年(1883)の客殿などの建設時に一緒に建てられたか、大正4年(1915)の同修理の際に出来たものの可能性があります。ただ、明治28年(1895)の「東寺境内一覧図」には、当所の門は切妻造の簡素な門に描かれています。
 ただ、『京都府の近代和風建築』では、形状、装飾などから、小子房と同時期に新築された可能性があると説いています(昭和9年築となります)。

 勅使門は、あとに述べる細部の意匠からみても、大正時代に造られたか、昭和9年頃に完成したか、いずれかと捉えることができそうです。


 華麗な装飾をまとう門

東寺小子房勅使門

 小子房勅使門は、檜皮葺の唐門で、東に向いて建てられています。
 全景写真では、この門の特徴はよく分かりませんが、近寄って見ると少し驚かされます。

東寺小子房勅使門

 扉です。
 皇族方が通られる時などに限り開く門らしく、大きな菊が透かし彫りされています。

東寺小子房勅使門

 近寄ってみると、大きな菊のまわりには、吹寄せの菱格子に、中心に菊らしき文様を付けています。
 切り絵のような細密さに瞠目です。

 また、扉の左右の柱にも彫刻があります。

 東寺小子房勅使門

 葡萄(ぶどう)唐草文。少しエキゾチックな趣きです。
 
東寺小子房勅使門

 こちらは扉の下部。若葉のような唐草文ですね。
 

 大瓶束と蟇股

 見上げると、上部も装飾に満ちています。
 大瓶束(たいへいづか)と蟇股(かえるまた)。

東寺小子房勅使門

 下の方が蟇股。菊の彫物ですが、花びらなどが細かく彫られていてリアルです。一方、唐草状になった茎と葉は図様化された趣きです。

 上が大瓶束。寸が短く、虹梁(水平の材)を噛んでいる部分(結綿)に、ハート形の猪目(いのめ)など細かな飾りが施されています。左右には唐草になったヒレがあり、ここにも猪目が見えますね。

 いずれも華美な装飾なのですが、大瓶束の短小なフォルムが目を引きます。

 実は、このような装飾はこの門の専売特許ではありません。
 少しさかのぼって、明治32年(1899)に竣工した旧武徳殿(京都市武道センター内)も似たような特徴を備えています。

武徳殿
 武徳殿(重文)の大瓶束と蟇股

 大瓶束の形、結綿の装飾、ヒレ、そして蟇股の植物文様。細かい意匠は異なっているのですが、濃厚に同じ雰囲気が漂っています。

 武徳殿
 旧武徳殿(重文、設計・松室重光)


 「近代和風建築」を見る

 武徳殿は、京都出身の建築家・松室重光が大日本武徳会から依頼され、その演武場として設計しました。明治32年当時、松室は京都府技師でした。
 上の全景写真は松室が設計した部分ですが、実は、クローズアップ写真の蟇股と大瓶束は背後の車寄に付いていて、その部分は、玉座とあわせて、大正2年(1913)に増築されたものです。

武徳殿
 武徳殿の増築部(背面、大正2年増築)

 松室は、すでに明治37年(1904)に京都を去っています。
 増築部は、当時の京都府技師だった亀岡末吉と同技手・安井楢次郎が手掛けたと考えられています。
 亀岡と安井は、京都府の社寺課に勤務し、寺社の修復などに当たっていた技術者でした。二人とも明治40年(1907)に府に入っています。大正2年時点で、同課の技術職の責任者は亀岡で、安井はその部下でした。

 明治後期から大正、そして昭和初期にかけて、京都の寺社建築には府の技師が大きく関与していました。

東寺小子房勅使門
 東寺小子房勅使門

 東寺小子房も、府技師だった安間立雄が設計しました。
 残念ながら勅使門の設計が、彼かどうかは判然としないのですが、その華麗な装飾を見ると、当時の府の技術者がかかわった可能性が濃いといえるでしょう。

 そして彼らこそ、京都の寺社建築に、これまでとは違った華やかな「近代和風」のスタイルを吹き込んでいった立役者でした。
 その中心人物が、亀岡末吉です。

 次回から、数回にわたって、亀岡末吉とその「近代和風建築」について振り返ってみましょう。




 東寺 小子房

 所在 京都市南区九条町
 拝観 境内自由  小子房勅使門は外観見学可
 交通 近鉄電車東寺駅から徒歩約5分

 旧武徳殿(重文)

 所在 京都市左京区聖護院円頓美町 京都市武道センター内
 見学 自由
 交通 京都市バス熊野神社前から徒歩約3分



 【参考文献】
 『東寺の建造物』東寺(教王護国寺)宝物殿、1995年
 『京都府の近代和風建築』京都府教育委員会、2009年
 川島智生『近代奈良の建築家 岩崎平太郎の仕事』淡交社、2011年 



きょうの散歩 - 東寺小子房 - 2013.3.14





 東寺小子房


 天気は余りよくなかったのですが、東寺に行ってきました。
 これまで入ったことのなかった小子房(こしぼう)。もともとは後宇多天皇の庵だそうです。

 東寺小子房


 現在の建物は、昭和9年(1934)の建築で、東寺の中では随分新しいものですね。

 庭は、小川治兵衛。

 東寺小子房

 向こうに国宝・蓮花門が望めるのも嬉しいです。

 東寺小子房

 実は、今日ここを訪れたのは、この房の勅使門を見るのが目的だったのですが、小子房も昭和の建物とはいえ、欄間や灯具など、細工が細かくて愉しく拝見できました。

 ここは、皇族・高僧などをお迎えする「迎賓館」的な建物だといいますが、6間あって方丈風の平面になっています。
 ただ、勅使門の内にある房の玄関には唐破風が付いており、よく目にする禅寺の方丈とは趣が異なります。

 東寺小子房

 塀越しで見えづらいですが、唐破風が分かると思います。

 室内も、方丈とはかなり違っており、欄間の彫刻などは非常に細やか、かつ華麗なものでした。襖絵は、堂本印象の筆になります。
 こちらは、唐破風の下にある欄間です。

 東寺小子房

 いわゆる筬欄間(おさらんま)。これなどは、落ち着いた方丈風なんですけれども。

 お目当ての勅使門については、回を改めて書いてみたいと思います。


 東寺小子房





 東寺 小子房

 所在 京都市南区九条町
 拝観 境内自由  小子房は特別公開時のみ
 交通 近鉄電車東寺駅から徒歩約5分



“大瓶束”といっても、なじみがないけれど……

建築




東福寺東司


 梁を下から支える「大瓶束」

 今回は、お寺の建物に見られる「大瓶束」を特集します!

 といっても、ほとんどなじみがない大瓶束。「たいへいづか」と読みます。

 建物の構造をみると、柱と柱の間には水平に梁がかかっており、その梁は少しカーブを描いて虹のような形をしているので虹梁(こうりょう)と呼ばれます。
 虹梁が上下に2つある場合(二重虹梁)、下の虹梁に立って上の虹梁を支える短い円柱(=束)が大瓶束です。
 また、虹梁に立って、その上の棟木を支えるのも大瓶束の役目です。

清水寺繋廊
 清水寺繋廊の大瓶束。轟門と本堂をつなぐ渡り廊下にある

 下の虹梁を噛んでいるような2つの円柱と、上の虹梁を噛んで棟木を支えている1つの円柱、これらが大瓶束です。

 こちらは、妙心寺の庫裏(くり)。承応2年(1653)の建築です。

妙心寺庫裡
 妙心寺庫裏(重文)

 ふつう庫裏は背が高いので、妻の壁には、横方向に桁や貫、縦方向に束などが露出しています。最上部に二重虹梁が見えています。

妙心寺庫裡

 先ほどの清水寺と同様、ここでも2つの虹梁を大瓶束が支え、その上にさらに1つの大瓶束が棟木を支えています。


 室町時代の大瓶束-時代によって意匠も変わる-

 大瓶束は、中世に大陸からもたらされた禅宗様や大仏様で用いられたパーツです。
 建築における他の部位と同じく、大瓶束も時代によってデザインが変わっていきます。

 こちらは、延文3年(1357)に建てられた普済寺仏殿。
 このお堂については、こちらに書きましたので、ご覧ください。 ⇒ <禅宗様の瀟洒な仏殿>

普済寺仏殿
 普済寺仏殿(重文、南丹市)

 典型的な方三間の禅宗様仏殿です。
 妻側に回ると大瓶束が見えます。

普済寺仏殿
 普済寺仏殿(重文)

 非常にシンプルな形です。大瓶束が虹梁を噛んでいる部分を「結綿(ゆいわた)」と呼びますが、その部分も刳っただけで装飾はありません。
 室町時代の姿を示す一例です。

 同じく室町時代前期の建築とされる東福寺の東司を見てみましょう。東司(とうす)とは便所のことです。

東福寺東司
 東福寺東司(重文)

 こちらも普済寺同様に、飾り気のない姿になっています。
 上部に丸い斗(ます)を付けて、上の虹梁を受けています。


 桃山時代から江戸時代へ

 東寺南大門
 東寺南大門(重文)

 東寺(教王護国寺)の南大門です。慶長6年(1601)のものです。この門は、もともとは三十三間堂の西門だったのですが、明治時代になって東寺に移築されました。
 桃山時代を代表する巨大な門のひとつです。
 大瓶束には少し彫刻が施され、下端部が左右に跳ね上がりをみせています。

妙心寺勅使門
 妙心寺勅使門(重文)

 花園の妙心寺勅使門。
 こちらも、下端に彫りがあって、あたかも蔐懸魚(かぶらげぎょ)のようになっています。

南禅寺勅使門
【参考】南禅寺勅使門(重文、1613年)の蔐懸魚
 
 【参考】の懸魚であげた南禅寺勅使門(寛永18年=1613)にも、当然、大瓶束は用いられています。

南禅寺勅使門
 南禅寺勅使門(重文)

 こんな感じで、やはり蔐懸魚ふうです。

 妙心寺のものも、南禅寺のものも、大瓶束の左右に蟇股(かえるまた)のような大きなヒレが付いています。これを笈形(おいがた)といいます。
 妙心寺のものは板蟇股を二つに割ったような形状です。一方、南禅寺のものは植物文様の彫刻になっており、手が込んでいます。桃山時代以後になると、このような笈形のついた大瓶束が多くなり、デザイン色を強めていきます。

 同じく南禅寺三門にある大瓶束。三門の昇り口である山廊に付いているものです。

 南禅寺三門
 南禅寺三門(重文、1628年)

 結綿の輪郭はほぼ同様ですが、より細かな彫りがなされていますね。
 上端や下端が、一般の柱と同様に「粽(ちまき)」といって細まっています。


 幕末の大瓶束

 文化元年(1804)築の行願寺(革堂)鐘楼の大瓶束です。

革堂鐘楼
 行願寺鐘楼

 随分と平面的になり、ぺったりとしたイメージです。笈形も含め、デザインはとても図式的になっています。

京都御所宜秋門
 京都御所宜秋門

 幕末、安政2年(1855)造営の御所の宜秋門です。一般公開の際、入口となる門。
 唐獅子牡丹ですね。左右の笈形には1匹ずつ獅子がおり、玉眼が付けられています。このぐらいになると、どの建物にも玉眼付きの獅子が好んで用いられます。

 大瓶束は、もともとは「瓶(かめ)」に似た形の束で、上からの力を支える部材として登場したのですけれど、時代がくだるにつれて、装飾の見せ場になっていきます。これは、蟇股などと同じ歩みをたどっているといえます。
 一般の方には名前も知られていない大瓶束ですが、愛着をもって眺めていくと、いろんなデザインがあって愉しめます。




 【参考文献】
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944年
 川勝政太郎『古建築入門講話』河原書店、1966年
 


寺社の屋根を飾る“懸魚”は、種類もデザインも豊富で見飽きない

建築




蓮華王院本堂(三十三間堂)懸魚


 京都の寺社の「懸魚特集」

 寺社を訪ねて、屋根の妻の△の頂点(破風の拝みの部分)を見ると、彫刻を施した板が取り付けられています。これが「懸魚(げぎょ)」です。
 本来は、棟木や桁(けた)の小口を風雨から守るためのガード板ですが、装飾的な意味合いを帯びてきて、さまざまなデザインがこらされるようになりました。

 ところが、近年の建築史の本を見ると、懸魚は構造に関係ないせいか、あまり説明されていません。「見方」本でも3、4種類あることが図示されているくらいです。
 けれども、ひとつひとつの懸魚を眺めてみると、実に個性的で、同じものは2つとありません。玄人的に見れば、デザインの優れているものと稚拙なものとがあるのでしょうが、私たちは暖かく見守っていきたいと思います。

 今回は、京都の寺社の懸魚特集です。


 古い懸魚は鎌倉時代

 敬愛する天沼俊一博士(1876-1947)は、戦前の建築史学の泰斗で、特に細部様式にうるさい先生でした。時に、細かすぎると言われるわけですが、写真が貴重な時代、多くの寺社建築の細部写真を撮影し、書物にまとめました。代表作は『日本建築史図録』全6巻ですが、私はコンパクトな『日本建築細部変遷小図録』を愛用しています。
 天沼博士は、細部の意匠に着目し、それを「編年」したわけです。編年とは、時代順に並べ直すことで、考古学で土器などを年代順に並べることでお馴染みです。
 建物も、細かい部分を観察することで古い新しいが分かる、というわけですね。

 それでは、懸魚(げぎょ)です。

東寺慶賀門懸魚
 東寺慶賀門(重文)

 現在残されている最も古い懸魚は、鎌倉時代のものです。
 懸魚は、小さな板ですから風食で朽ち果てることが多く、古いものが残りにくいのです。
 最も古い懸魚のひとつがこれです。東寺(教王護国寺)慶賀門の懸魚で、鎌倉前期のものです。

 他に類を見ないような縦長の変わった形です。本当の魚のような形をしていて、「懸魚」(魚をかける)という語が出来たのもうなずけます。
 板のセンターにヒョウタン形の穴が開いていますが、これは猪目(いのめ)と言います。通常、猪目はハート形ですが、ここはハートをダブルに重ねたもの=「ひょうたん猪目」で、しばしば見掛けます。
 天沼博士は「一見非常に変つてゐる様であるが、実は普通の懸魚の真ん中がとれたと見られるもので、これを『異形』としておくが、猪目の中に入れておいて差支のないもの」と評しています。
 朝鮮半島などで例がある大陸的な懸魚といえるでしょう。

 東寺の懸魚については、以前書きましたので、ご覧ください。 ⇒ <東寺の門は、懸魚が比類ない>

 同じく猪目懸魚をご紹介しましょう。三十三間堂(蓮華王院本堂)の懸魚です。
 
蓮華王院本堂(三十三間堂)懸魚
 蓮華王院本堂[三十三間堂](重文)

 典型的な猪目(いのめ)懸魚。ハート形の穴が開いています。中央上部の穴は、ひょうたん猪目です。

 現在の三十三間堂は、後白河上皇が建てたものが火災で焼け(建長元年=1249)、鎌倉時代の文永3年(1266)に建て直されたものです。 
 細部のプロ・天沼博士は、しかし、この懸魚を鎌倉時代のものとは判断しませんでした。三十三間堂は、文永年間に建築された後、室町時代(永享年間)、江戸前期(慶安年間)などに修理されています。博士の判断では、これは室町時代、つまり永享5年(1433)から行われた修理の際の作だという見立てです。永享の修理は大修理で、瓦だけでも8万枚も取り換えたのですから、腐食した懸魚を取り換えることもあったでしょう。


 桃山時代には種類も豊富に

 室町時代以降は、猪目懸魚以外のタイプも登場します。

南禅寺勅使門懸魚
 南禅寺勅使門(重文)

 これは桃山時代の建築、南禅寺の勅使門の懸魚です。「かぶら懸魚」というタイプ。カブラは「蔐」「鏑」「蕪」など、いろいろな字を当てます。野菜のカブラではなくて、鏑矢(かぶらや)の先についている音を鳴らす部品の形に似ているため、この名があります。
 下の方に「人」形の線が刻まれているのが特徴です。

 南禅寺勅使門は、御所から移築されたもので、もとは慶長18年(1613)に造られたもの。
 
 この門についても、以前書きましたので、ご参照ください。 ⇒ <御所の日御門を移築した南禅寺勅使門は、蟇股の細工が見どころ>

 この懸魚、上に六葉(ろくよう)という六角形の飾りが付いているほか、左右に「鰭(ひれ)」が伸びています。桃山くらいになりますと、このヒレがブームですね。このヒレは、よく見ると牡丹文のようで、ここらも桃山らしいセンスを発揮しています。

 この門と同じく、慶長18年(1613)の御所造営で作られ、のちに移築された門が大徳寺勅使門です。

大徳寺勅使門懸魚
 大徳寺勅使門(重文)

 こちらは「三花(みつはな)懸魚」です。かぶら懸魚などを3つ組み合わせたものです。
 御所の門だっただけに、懸魚の中央に菊文が彫られています。左右のヒレは、先ほど同様、細かい彫刻です。

 ちなみに、こちらも慶長の御所の建物でした。

仁和寺金堂懸魚
 仁和寺金堂(国宝)

 これは猪目懸魚ですが、輪郭がくっきりと縁取られており、新しさを感じさせます。

 「猪目懸魚」「かぶら(蔐)懸魚」「三花懸魚」が、いわば“三大懸魚”で、最もよく見掛けるものです。

伏見稲荷大社御茶屋懸魚
 伏見稲荷大社御茶屋(重文)【かぶら懸魚・桃山時代】

 これ以外には「梅鉢懸魚」なども見ることがあります。

南禅寺中門懸魚
 南禅寺中門

 南禅寺勅使門の脇にある中門の梅鉢懸魚。これも桃山時代のようです。五角形をしており、梅花をかたどった梅鉢(紋)に似ているので、この名があるのでしょう。

 桃山時代は装飾が華美になりますが、伏見城の大手門を移築したといわれる御香宮神社の表門です。

御香宮神社表門懸魚
 御香宮神社表門(重文)

 ごくふつうのかぶら懸魚ですが、その上に牡丹でしょうか、立体的な花が飛び出しています。なかなかのセンスですね。


 江戸時代以降の懸魚は変化する

 江戸時代になると、細部を少しずつ変えたものが現れます。

建仁寺法堂懸魚
 建仁寺法堂

 明和2年(1765)に建てられた建仁寺法堂です。三花懸魚ですが、カブラのひとつひとつがかなり変形しています。左右のヒレ(波形?)も、薄い感じがする透かし彫りです。明らかに、江戸以前にはなさそうなデザインです。

 さらにくだって、明治時代のものを1つ。

因幡堂(平等寺)本堂懸魚
 因幡堂(平等寺)本堂

 因幡堂で通っている平等寺の本堂です。明治19年(1886)に改築されたものです。
 これも三花懸魚ですが、もうカブラの形ではありません。ヒレは菊文です。これに類するものは、すでに江戸後期に現れており、天沼博士が紹介した黒谷・金戒光明寺山門(嘉永7年=1854)の懸魚は、この懸魚の先輩です。

 というわけで、懸魚1000年の歩み? を駆け足で振り返りました。
 ちなみに、今回は紹介しませんでしたが、神社の社殿にも懸魚が用いられているものがあります。

 特定の部位でも、時代によってずいぶんと変化するものです。天沼博士のひそみに倣って、たまには細部観察も愉しいかも知れません。




 【参考文献】
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944年
 川勝政太郎『古建築入門講話』河原書店、1966年
 


藤森神社の旗塚は、腰痛平癒の効能が…

伏見




藤森神社


 勝運の神さま・藤森神社

 藤森神社は、戦前の社格でいえば府社なので、その北にある官幣大社だった伏見稲荷に較べると、格は高くはありませんでした。しかし、もとは伏見稲荷の位置にあったともいわれ、このあたりの古社でした。

藤森神社


 伏見稲荷大社もなかなか興味深い神社なのですが、藤森神社もそれに負けていません。
 境内にある「蒙古塚」や「かえし石(力石)」などの遺跡、5月に行われる駈馬(かけうま)神事など、武威に関係する事柄が多く、付近には陸軍の第16師団もあったわけですから、現在も“勝運の神さま”として信仰を集めるのも理解できます。

 駈馬神事は「都名所図会」巻五によると、次のように説かれています

「例祭ハ五月五日にして、産子ハ武具を着して走馬する事ハ、光仁帝の御宇、天応元年[781]に異国の蒙古、日本へ攻来るよし聞へたれば、[桓武]天皇、第二の皇子・早良親王を大将軍として退治あるべきよし宣旨を賜る。親王、当社に祈誓して五月五日に出陣し給ふ。神威いちじるしく忽ち暴風大いに吹来り、蒙古の軍船波にたゞよひ、悉く亡びうせたり。此の吉例によりて毎歳軍陣の行粧をなし天下平安の祷[いのり]とし給ふ。当社を弓兵政所といふは此の謂れによるともいふ」

都名所図会より駈馬神事 「都名所図会」巻五


 8世紀の奥州平定に関する伝えに関連づけたものですが、なんとなく鎌倉時代の蒙古襲来とダブってしまって、変な記述になっています。
 ちなみに、蒙古塚については、「当社森の中に七ツありとぞ。今詳らかならず。夷賊退治の後、軍将の首をここに埋て、神威を現し給ふなり」としています。

藤森神社
 蒙古塚


 神功皇后の「旗塚」

 「都名所図会」の藤森社の図。

都名所図会より藤森社 「都名所図会」巻五

都名所図会より藤森社
 
 上のクローズアップを見ると、本殿の右上に木の生えた小さな塚が描かれており、「旗塚」と注記されています。
 これが神功皇后ゆかりの遺跡なのです。

 今宮神社
 神功皇后と武内宿禰 (今宮神社の絵馬より)

 神功皇后が、いわゆる「三韓征伐」の帰路、ここに立ち寄り、戦さの旗と兵器を埋めたのがこの塚だといいます。つまり、ここが藤森神社の起源だということですね。

 藤森神社

 現在の姿です。「神功皇后 御旗塚」の石標が立てられ、イチイ(イチイガシ)の切株に注連縄が掛けられています。
 ここでは、イチイの異名である「いちのき」に敬称を付けて「いちのきさん」と呼ばれているそうです。
 イチイ(櫟)は、常緑針葉樹で、樹高は20~30mに達する木です。

 「山城名勝誌」には、「当社神主宅後園ニ旗塚ト云有、毎歳十一月朔日[ついたち]注連ヲ引、同二日、神供ヲ献テ祭之」とあります。


 「いちのきさん」は、腰痛に効く!

 いま、この旗塚が信仰されているのは、お詣りすると腰痛が平癒するからだそうです!
 私も少し腰痛のきらいがあるので、これを知った時はうれしく、思わずお守りを求めてしまいました。

 藤森神社腰痛お守り
 「腰痛除け 平癒 御守」

 寺社参拝や歩きで出掛ける時に使うリュックに付けています。
 新撰組の近藤勇もお詣りしたとは、よく言われるところです。

 それにしても、なぜ腰痛平癒なのか?

 不勉強でよく分かりません。

 腰痛とは、いわゆるギックリ腰などの類ばかりと思っていましたが(私もその口)、古くはそれだけでもなかったらしいのです。立川昭二さんの『日本人の病歴』などを見ると、「疝気(せんき)」が腰痛をもたらしたと記されています。疝気とは、昔よく行われた、ある種の症状に対する総称で、下腹などの疼痛を指すものだったようです。内臓疾患などが冷えたりして腰の痛みを引き起すことがよくあったそうで、「せんき腰いたみ」という表現も使われたとか。
 前近代の日本人の病のひとつですね。

 こんな腰痛と旗との関係が何かあるように思うのですが、今のところ思い付きません。
 もう少し調べてみようと思います。
 



 藤森神社

 所在 京都市伏見区深草鳥居崎町
 拝観 境内自由
 交通 京阪電車墨染駅下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 立川昭二『日本人の病歴』中公新書449、1976年



御所の建物を移築した仁和寺は、金堂が最古の紫宸殿遺構

洛西




仁和寺


 「御室」という地名

 京都で“おむろ”というと「御室」、右京区の地名を指しています。「室」(むろ)に尊称の「御」の字をつけて御室としたわけです。つまり、偉い方の住まいという意味ですね。

仁和寺
 仁和寺山門

 その御室とは、この仁和寺(にんなじ)を意味します。
 仁和寺という名前も、光孝天皇の時代の元号「仁和」にちなんだものです。仁和は、西暦885年から889年までですから、平安時代ということになります。落慶は、仁和4年(888)、宇多天皇の時でした。宇多天皇は出家して住持となり、その後、門跡寺院として京都を代表する古刹のひとつになっています。

 桜の名所などとして、京都の人にも馴染み深いお寺だと思います。私の母が通った小学校は、北野天満宮の南にありましたが、そこは仁和小学校。仁和寺とは随分離れていますが、市街から仁和寺に至る「仁和寺街道」が通っていた場所だったからだと思います。
 

 御所の建物を移築

 京都の他の寺院と同じく、仁和寺も応仁・文明の乱で伽藍が焼失しました。
 江戸時代になり、仁和寺第21世の覚深法親王は、伽藍の再興を企てます。将軍・徳川家光の上洛にともなって21万両を与えられ、仁和寺は堂塔の再建に着手します。
 折しも、寛永年間(1624-45)に御所の建て替えがあり、いくつかの建物を下賜されることになりました。
 紫宸殿、清凉殿、常御殿、台所御門などが仁和寺に移されました。
 ちなみに、日御門は南禅寺へ、西側南御門は大徳寺に移築され、それぞれの勅使門になっています。それらについては、別に書きましたので、読んでみてください。

  ⇒ <御所の日御門を移築した南禅寺勅使門は、蟇股の細工が見どころ>
  ⇒ <御所の門を移築した大徳寺勅使門は、桃山の彫刻が美しい>

 このうち、現在残っているものは、紫宸殿(現・金堂)、清凉殿(現・御影堂)、台所御門(現・本坊表門)です。常御殿は宸殿にあてられていましたが、山内20数棟を焼いた明治20年(1887)の火災で失われてしまいました。現在の建物は、大正時代の再建です。

 現存する3棟、金堂、御影堂、本坊表門は、いずれも慶長の御所造営(慶長18年=1613)に際して建てられたもので、ちょうど400年前の建造物ということになります。

仁和寺
 御影堂(重文) 清凉殿の部材を用いて建築した

仁和寺
 本坊表門(重文) 


 400年前の紫宸殿遺構・金堂

 国宝・仁和寺金堂は、もとの紫宸殿です。現在の京都御所の紫宸殿は幕末に造営されたもので、仁和寺金堂が紫宸殿遺構としては最古のものとなります。

仁和寺

 もちろん、移築に際しては改築が行われました。同時代の史料にも、少し改めたところがあると記されています。最も目立つのは、屋根が檜皮葺から本瓦葺に変わったことでしょう。
 ただ、外観を見ると、正面の七間はすべて蔀戸(しとみど)がはめられていて、往時をしのばす雰囲気をたたえています。

仁和寺 蔀戸

 また、屋根の垂木を見ると……

仁和寺

 瓦の下に細長い角材が並んでいますが、これが垂木(たるき)です。軒の垂木は、多くの寺院建築では上下2段になっていることが通常で、これを二軒(ふたのき)と言います。2段の垂木のうち、下の方を地垂木(じだるき)、上の方を飛檐垂木(ひえんだるき)と呼びます。多くは、地垂木、飛檐垂木とも角材ですが、より丁寧なものは飛檐垂木に角材を、地垂木に丸材を用いることがあり、これを「地円飛角」と言ったりしています。
 このあたりのことは、宇治・平等院の回に書きましたので、ご覧ください。
 ⇒ <宇治の平等院にある隠れた見どころ(1)-観音堂->

 仁和寺金堂の垂木を見ると、2段ではなく3段になっています。これは三軒(みのき)と呼んでいます。あまり見掛けない凝った形式です。御所の紫宸殿では三軒を採用していたのでした。
 ちなみに、古い建築で三軒というと、興福寺の北円堂が知られています。

興福寺北円堂
 興福寺北円堂(国宝)

興福寺北円堂
 垂木が3段になる「三軒」。地垂木の小口は丸くなっている

 幕末の安政年間(1854-1859)に造られた現在の京都御所の紫宸殿は、こんな軒になっています。
 こちらも三軒ですね。

京都御所
 御所の紫宸殿の「三軒」


 規模や屋根も異なる

 下の写真が、現在の紫宸殿です。
 御所の建造は、寛政の造営で裏松光世(固禅)が考証して以来、古式ゆかしい造りになりました。最後の安政の造営でも寛政の形を引き継いでいます。

京都御所

 この紫宸殿について、よく言われるのが、屋根のボリュームが大きいということです。屋根がかなり立ち上がっており、古い時代のような素軽い雰囲気ではありません。そこが、如何にも江戸時代というスタイルです。
 この紫宸殿より250年ほど前の紫宸殿(つまり仁和寺金堂)の写真を改めて見てみましょう。

仁和寺

 撮影の角度が違うので、そのまま比較しづらいのですが、印象では、こちらが檜皮葺だったらもう少し屋根が軽い感じがすると思います。
 建物自体も桁行七間(ほぼ30m幅)です。京都御所の方は九間で庇(ひさし)もかなり深いので、相当大きく見えます。


 蔀戸など

 開口部の多くは、蔀戸(しとみど)になっています。

仁和寺

仁和寺
 蔀戸。上から下がっている金具に吊る

 前面は七間すべて蔀戸です。上の写真で分かるように、外に吊上げるようになっています。
 お堂の後ろ側も、四間は蔀戸になっているのですが、こちらは内側に吊上げるようになっています。側面は二間が蔀戸で、こちらも内に吊上げます。

仁和寺
 金堂背面

 側面や背面では、蔀戸を使わず板唐戸の開口部もあります。

仁和寺
 金堂側面

仁和寺
 板唐戸

 蔀戸は吊上げ式なので、簡単に開け閉めできません。そのため、法要などで出入りする際には、ドア状の板唐戸の方が都合がよかったのです。側面の板唐戸は内陣への出入り口に、背面中央の板唐戸は仏さまの背後(後戸)への出入り口になっています。
 この点は推測ですが、何枚かの板唐戸は仁和寺移築後に取り付けられたものかも知れません。

 ちなみに、金堂の外陣と内陣の境にも板唐戸が付いています。御所では、その部分は開放されていますから、こちらの扉も移築後に設置されたものです。

仁和寺 軒の菊文金物


 京都には御所の移築建築が数多くあります。京都御所の一般公開に先立って移築建築を見ておくことも参考になるかも知れません。




 仁和寺金堂(国宝)

 所在 京都市右京区御室大内
 拝観 境内自由(御殿の拝観は大人500円など) ※金堂内は特別公開時のみ拝観可
 交通 京福電鉄御室仁和寺下車、すぐ



 【参考文献】
 藤田勝也ほか編『日本建築史』昭和堂、1999年
 『重要文化財 12 建造物1』毎日新聞社、1973年
 『重要文化財総索引 建造物編』毎日新聞社、1975年
 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年
 

きょうの散歩 - 長泉寺 - 2013.2.28

洛西




 長泉寺

 今日は、いくつか用事があって、自転車で京都市内を走り回っていました。帰ってからマップで測ると、なんと約 32km! われながら驚きです。

 行き先のひとつは、御室の仁和寺でした。
 京都駅から、ずっと北上し、西に進み、仁和寺にたどり着いたのですが、その手前にある妙心寺の門前を通って西行すると、双ヶ岡に突き当たります。
 双ヶ岡に沿って北に走ると、双ヶ岡中学の先に小さなお寺があるのに気が付きました。

 長泉寺。

長泉寺

 ごくふつうのお寺なんですが、門前にこんな石標が立っているのです。

 長泉寺

 「兼好法師旧跡」

 そう、ここは兼好法師(吉田兼好)の墓所なのでした。

 兼好法師は、三つの丘が並ぶ双ヶ岡の“二ノ丘”の西麓に住んでいたといいます。長泉寺は、の一ノ丘の東麓にあります。

 長泉寺内には、兼好塚と歌碑があるそうですが、公開されていません。

 仁和寺は、双ヶ岡のすぐ北に位置しています。
 そのせいか「徒然草」には、第52段、第53段、第54段に、仁和寺の法師らの話が登場します。

 第52段では、仁和寺の法師が、石清水八幡宮に初めてお詣りに出掛ける話が記されています。
 老法師は、麓の寺社を参拝しただけで、男山には登らずに帰ってきました。仲間に「それにしても、みんな山に登っていたけれど何かあったのだろうか。自分は神さまにお詣りするのが本意だったので、山には登らずに帰ってきた」と話したそうです。
 石清水八幡宮は男山の山上にあることを知らなかったわけです。
 兼好法師は「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」と書いています。信仰でも観光でも、水先案内してくれる人がいると安心です。

 第53段は一転して、ある法師が酔った勢いで鼎(かなえ)をかぶったところ、抜けなくなって大騒ぎになる、という話です。
 どんなに引っ張っても、医者に見せても抜けません。最後に、耳鼻が切れても命を失うよりはいいじゃないか、という判断で、力任せに抜くと、耳と鼻はもげたけれども、鼎は抜けたのでした。
 なんとも、言葉を失う話ですね。兼好法師も、何も感想を書いていません……

 つづく第54段は、御室のかわいい稚児を誘い出して遊ぼうと工夫する法師たちの話。
 稚児を誘う前に、双ヶ岡に重箱を埋めておきました。あとで、うまく掘り出して、稚児を驚かして飲食しようという企みです。しかし、稚児を連れて行ってみると、いくら探しても重箱は見つかりません。どうやら、誰かに先に掘り出されてしまったようです。
 兼好法師は「あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり[よくないものだ]」と締めくくります。

 これを読むと、お坊さんも結構俗っぽいなぁ、という感想が湧いてきます。同時に、こんな話を書き留めた兼好法師という人物も、やっぱりなかなかやなぁ、とも感じます。
 そんなことを思いながら、長泉寺から仁和寺へと向かったのでした。仁和寺の話は、後日レポートしましょう。




 長泉寺

 所在 京都市右京区御室岡ノ裾町
 拝観 非公開
 交通 京福電鉄御室仁和寺から、徒歩約5分



 【参考文献】
 西尾稔ほか校注『新訂 徒然草』岩波文庫、1928年