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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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寺町・新京極を歩く(その5) - 阿弥陀寺 -





阿弥陀寺


 西園寺より南の寺々

 寺町通には、前回取り上げた西園寺より南に、かつては岩栖院、崇禅院、花開院、長福寺、普国寺、歓喜寺、安楽光院と、小規模な寺院がずらっと並んでいました。
 鶴山公園の北に現在も残る大歓喜寺は町名(歓喜寺町)にもなり、公園の南には慈福寺と光明寺が並び立っています。その南が、阿弥陀寺です。
 今回は、阿弥陀寺を取り上げてみることにしましょう。


 信長廟所の寺

阿弥陀寺

 
 阿弥陀寺は、天文年間(1532-55)に清玉上人が近江の坂本に開いた寺院です。清玉上人は、上立売大宮東に住んだともいいます。
 天正15年(1587)、秀吉の寺町形成に伴って、現在地に移転してきました。

 清玉上人は織田信長の帰依を受けていたという関係で、当寺には織田信長と子息・信忠の像が祀られています。

阿弥陀寺 本堂

 信長の廟所は、本能寺などにありますが、ここ阿弥陀寺にもあります。

 阿弥陀寺

 門前には「織田信長公本廟」の石標。
 墓所は、本堂左手の奥(東側)にあります。

阿弥陀寺

 墓所に入ったところに手水鉢がありますが、家紋の織田木瓜(おだもっこう=五つ木瓜)が刻まれています。

阿弥陀寺

 その正面に信長の墓石があります。


 信長の最期と清玉上人

阿弥陀寺

 檀上に2つの墓石が建てられています。
 右が信長、左が長男・信忠です。
 信長の墓石には「捴見院殿贈大相国一品泰巌大居士」と刻まれています。信忠の方には「大雲院殿三品羽林仙巌大居士」と刻してあります。
 背後の卒塔婆にある「天正十年六月二日」は本能寺の変が起こった日です。1582年のことで、子息の信忠は二条城で亡くなっています。

 阿弥陀寺に信長の遺骨が葬られた経緯は、「信長公阿弥陀寺由緒之記録」によると、次の通りです。

 本能寺の変が起こると、それを聞いた清玉上人は、僧ら20人ほどとともに本能寺に駆け付けました。表は軍勢で入り難かったので、裏の垣を破って寺内に入りました。
 しかしその時、本能寺には火が掛かり、信長も切腹した後でした。上人は力を落としますが、ふと見ると、後ろの藪の中で顔見知りの武士たち10人ほどが火をくべて何かを焼いています。上人が不思議に思って尋ねると、遺骸や首を敵に取られるなという信長の遺言で、死骸を抱いて脱出しようとしたが敵に囲まれて出ることもできず、仕方なくここで遺骸を火葬しているのだと言います。
 上人は、供養は自分たちが行おうと引き受け、御骨を衣に包んで寺に帰り、後日ひそかに葬礼を行い、墓を築いたということです。

 信長の右には、三男・信孝の墓があり、「高巌徳公大禅定門」と記されています。

 阿弥陀寺

 また背後には、信長の兄・信広(「大龍寺殿寛巌大居士」)の五輪塔もあります。

 阿弥陀寺


 森蘭丸の墓も

 信長の親族だけではなく、家臣の墓もあります。「信長公阿弥陀寺由緒之記録」には、112人の遺骸が葬られたと記しています。

 小姓として著名な森蘭丸も、ここに眠っています。

 阿弥陀寺

阿弥陀寺

 五輪塔ですが、そこに刻まれた文字は風化し、かろうじて「天正十年」「六月二日」という命日を刻んだ年月日が判読できます。

 新しい台石の側面には、「天正十年壬午六月/二日戦死于本能寺」と記されています。

 阿弥陀寺

 森蘭丸(成利)は、尾張の武将・森可成(よしなり)の三男でしたが、その弟に四男・坊丸(長隆)と五男・力丸がいました。この3人は、ともに本能寺で信長と運命を共にしました。それぞれ18歳、17歳、16歳だったといいます。「信長公記」には、「御殿の内にて討死の衆、森乱、森力、森坊、兄弟三人」と出てきます。

阿弥陀寺
 右から蘭丸、ひとつ置いて、坊丸、力丸の五輪塔

 三兄弟の五輪塔が並んでいます。

 こちらは「織田家臣 戦死惣霊塔」と刻されています。とても小さな五輪塔です。

DSC_0244_convert_20130225173756.jpg

 寺町通の各寺院を訪ねると、「掃苔」(コケをはく、墓参のこと)の趣が強くなってきます。




 阿弥陀寺

 所在 京都市上京区鶴山町
 拝観 境内自由 *6月2日のみ堂内拝観可(有料)
 交通 地下鉄今出川駅、京阪電車出町柳駅下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「信長公阿弥陀寺由緒之記録」(『改定史籍集覧』25所収)
 桑田忠親校訂『改訂信長公記』新人物往来社、1965年
 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年


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社号も変われば、社殿も変わる - 伏見稲荷大社 -

伏見




伏見稲荷大社

 いつから「伏見」稲荷?

 伏見稲荷大社は、京都を代表する歴史の古い神社ですが、初詣でも賑わい、毎年約270万人の参詣者(三が日)が訪れます。もちろん関西 №1です。

 いつも不思議に思うのは、この神社が「伏見」稲荷大社と言っているところ。

伏見稲荷大社
 鳥居脇に「伏見稲荷大社」の社号標が…

 地域でいうと、ここは深草で、伏見の市街からは随分離れています。京阪電車の最寄駅は「伏見稲荷」ですが、その隣は「深草」駅。ちなみに、明治12年(1879)からあるJRは、ただの「稲荷」駅です。
 調べてみると、京阪の「伏見稲荷」も、戦前は「稲荷」とか「稲荷神社前」と言っていたようです。

 伏見稲荷大社

 境内を見て回ると、いくつか「稲荷神社」と記された社号標が立っています。「官幣大社」の4文字が冠されています。
 これは、明治4年(1871)以降、官幣大社になっていた頃のもので、当時の社号は「稲荷神社」でした。ちなみに、江戸時代はというと、例えば「都名所図会」には「三之峰[みつのみね]稲荷社」「三の峰稲荷大明神のやしろ」と出てきます。

 戦後、官国幣社の制度がなくなったあと、多くの官幣大社では「○○大社」という社号に変えたわけですが、当社もそのひとつでした。その際に「伏見」の2文字も付け加えて「伏見稲荷大社」になったのです(1946年のこと)。なぜ「伏見」が付けられたのか寡聞にして知らないのですが、おそらく伏見区にあることや伏見の地名が著名だったので、それを冠したのでしょう。さすがに「深草稲荷」というのも様にならない気もしますし……

 いずれにせよ、約70年も経つと、誰も伏見稲荷という呼称に違和感を抱かなくなっています。


 社殿も変わる

 伏見稲荷も、京都の多くの寺社と同じく、応仁・文明の乱で灰燼に帰しました。しかし、復興に着手され、現在の本殿(重文)は、明応3年(1494)に再建が成っています。応仁の乱後とはいえ、室町時代の社殿は、京都の神社では古い部類です。

伏見稲荷大社
 本殿(重文)

 写真で分かるように、流造です。檜皮葺の五間社で、かなり幅の広い社殿となっています。これは、それまで上社、中社、下社という3殿とそれらの摂社2殿を合築(相殿)にしたため、大きくなったのでしょう。

 少し違った角度で撮った写真を見てみましょう。

伏見稲荷大社

 本殿の左側に、銅板葺、切妻造の大きな拝殿が付いています。これは内拝殿とも呼ばれる建物ですが、実はこれとは別に、もうひとつ拝殿があります。

伏見稲荷大社

 いわゆる外拝殿。本殿から石段を降りたところにあります。

 分かりにくいので、「都名所図会」(1780年)の図を見てみましょう。

都名所図会より稲荷社
 「都名所図会」より稲荷社(部分)

 左下にある建物が拝殿(現在の外拝殿)です。京都の神社でよく見掛ける舞殿のようになった建物です。
 妻入りの入母屋造になっていて、現状(平入りの入母屋造)とは異なっています。
 
 しかし、本殿の辺りも今と比べると随分違います。

都名所図会より稲荷社

 江戸時代。

 こちらが現在。

伏見稲荷大社

 江戸時代は、本殿の屋根に唐破風の向拝(こうはい)が直接取り付いていました。
 ところが現在は、唐破風の向拝と本殿の間に、内拝殿が挟まっているのです。

京都名勝詩より稲荷神社
 『京都名勝誌』(1928年)

 これは昭和3年(1928)の写真。唐破風が大きすぎて本殿が見えませんが、流れている屋根に直接くっつけてあります。
 ちなみに、この立派な向拝は、元禄7年(1694)に付加されたものです。


 元禄の大修理

 この唐破風が付けられた元禄7年、伏見稲荷では大規模な修築が行われました。幕府から修復料1525両、遷宮料米200石が出費され、本殿をはじめ、礼拝所(つまり唐破風の向拝)、若宮社(権殿)から、絵馬掛所、手水屋形に至るまで18の建物が修復されました。豊臣秀吉による天正年間以来の大修理です。

 このときあった建物で現存するものは多くはないのですが、「都名所図会」などにその威容をうかがうことができます。

 先ほどの内拝殿ですが、これは戦後の昭和36年(1961)に建造されたもので、本殿と向拝の間に挟み込んだものです。
 寺社は、参詣者が増えてくると、一般に向拝などを付け足していきます。この伏見稲荷でも、室町時代の流造の本殿に、元禄時代に向拝を付け加え、さらに戦後、内拝殿を増築したという変遷です。

 別の寺社の例としては……

摩利支天堂
 禅居庵 摩利支天堂

 これは建仁寺の塔頭・禅居庵の摩利支天堂ですが、幕末に拝所を増築して参拝スペースを増やしました。このような例は数多くあります。

 摩利支天堂については、こちら ⇒ <イノシシの摩利支天堂は、ずっと篤い信仰を集めている>

 伏見稲荷も、あれだけ参拝者が多いのですから、それぞれの時代に参拝スペースを広げる必要に迫られたのでしょう。

 神社の社号や建物にも、変遷あり。それを知るのも、また愉しいことです。


伏見稲荷大社 権殿(若宮)




 伏見稲荷大社

 所在 京都市伏見区深草藪之内町
 拝観 境内自由
 交通 JR稲荷駅下車、すぐ



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『京都名勝誌』1928年、京都市役所
 『京都御役所向大概覚書』清文堂出版、1973年



寺町・新京極を歩く(その4) - 西園寺 -





西園寺


 「西園寺」という名の寺院

 「西園寺」と聞くと、私もそうなのですが、人の名前だと思う方が大半だと思います。明治から昭和にかけての政治家・西園寺公望が余りにも有名なせいでしょうか。
 けれども、寺町通を歩いていると、天寧寺の南に「西園寺」という名の寺院があります。今回は、このお寺を探ってみましょう。

 なお、寺町通は西園寺から上京区に入ります。

西園寺
 
 山門を入ると、左手に地蔵堂があります。

西園寺 地蔵堂

 西園寺は親切なお寺で、お堂ごとに解説書きを置いてくださっているのですが、この地蔵堂はスイッチを押すと堂内にライトが点灯するようになっていて、槌留地蔵さんと地獄極楽図を描いた壁画を拝観できるようになっています。とても有り難い工夫です。

西園寺 本堂

西園寺

 本堂の扉には、西園寺家の家紋・三つ巴が彫られています。


 藤原公経という公卿

西園寺

 本堂に懸る「西園寺」の扁額。明治25年(1892)に西園寺公望が書いたものです。この西園寺という家は藤原氏で、藤原北家の流れをくみます。公家としては、摂家に次ぐ清華家で、家格は高いのです。
 「西園寺」という家名は、もちろん寺の名にちなんだものですが、公望の時代から700年ほど時を遡らなければなりません。
 
 この家には、鎌倉時代の初めに、公経(きんつね、1171-1244)という人物が出ました。彼によって、家運は隆盛に向かうことになります。
 公経は、将軍・源頼朝と姻戚関係にありました。頼朝の妹のムコだった一条能保の娘が、公経の妻でした。つまり、頼朝のメイが奥さんだったのですね。
 承久元年(1219)、三代将軍・実朝の没後、京都から迎え入れられた四代将軍・頼経は、この公経の孫でした。頼経の母が公経の娘で、彼は外祖父(母方の祖父)として頼経を預かって養育していたのでした。この頼経が、教科書に出てくる「摂家将軍」というもので、五摂家のひとつ九条家の出身です(父は九条道家)。

 ちょっとややこしいのですが、要は、京都の公家なのに鎌倉幕府寄りの人物なのです。そのために、「関東申次(もうしつぎ)」という、京都と鎌倉を結ぶパイプ役もやっていました。
 承久の乱(1221年)でも、幕府寄りのスタンスを取り、乱後、ますます力をつけ、太政大臣に昇進しました。

 彼は和歌も巧みで、「新古今和歌集」に114歌も採録されていて、「小倉百人一首」にも次の歌が収められています(96・入道前太政大臣)。

  花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり  

 新古今集や百人一首を編んだ藤原定家は、公経の義理の兄で、経済的には公経の庇護を受けていたといわれます。

西園寺

西園寺 開山堂

 西園寺の本堂脇にある開山堂。公経を祀っています。


 公経が開いた西園寺

 藤原公経は、その出世、その財力に、比類ないものがありました。
 かつて、中世史家の網野善彦氏は「西園寺家とその所領」という論文で、その荘園の分布を考察されています。網野氏ならではの視点、つまり海や川の交通に着目し、荘園の広がりを検証したものです。西園寺家の荘園は圧倒的に西国に多く、とりわけ北九州から瀬戸内海沿岸、伊予(現在の愛媛県)に数多く分布していることが分かりました。

 公経は、仁治3年(1242)、中国の宋に「唐船」を遣わし、10万貫の銅銭と、陶磁器などの貴重な物品の数々をもたらしました。とりわけ、物を言う鳥--オウムかインコでしょう--と水牛が話題を呼びました。
 西園寺家は、平清盛が開いた日宋貿易のルートを継承して、富を蓄積したのです。

 公経の贅沢さを物語るエピソードがあります。
 彼は、現在の大阪府の吹田(すいた)に山荘を持っていたのですが、寛喜3年(1231)、息子の実氏とともに山荘を訪れ、有馬温泉の湯を桶200杯分も運んで湯浴みしたといいます。
 各所に山荘を営み、その権勢は藤原定家に“平清盛を超えた”と言わせたほどですが(「明月記」)、その山荘の代表が「北山第」でした。

金閣寺 鹿苑寺(金閣)

 京都・北山にある山荘といえば、やはり金閣寺ですね。足利義満が応永4年(1397)から造営を行いました。実は、この地に義満以前に山荘を造っていたのが西園寺公経だったのです。

 承久2年(1220)11月、公経は神祇伯・仲資王(なかすけおう)が所有していた北山の家地、田畠山林を、自分が持っていた尾張国葉栗郡の松枝荘と交換します。
 その土地に営んだ豪華な山荘が北山第でした。土地を得て4年後の元仁元年(1224)12月、西園寺は完成し、諸賢を招いて落慶供養が行われたようです。西園寺には、本堂のほか、善積院、功徳蔵院、妙音堂、不動堂、宝蔵、五大堂、成就心院、法水院、化水院、無量光院などが建ち並びました。

 「増鏡」は、そのありさまをこう伝えます。

 今后の御父は、さきにもきこえつる右大臣実氏のおとど、その父、故・公経のおほきおとど[太政大臣]、そのかみ夢みたまへることありて、源氏の中将わらは病みまじなひ給し北山のほとりに、世に知らずゆゆしき御堂を建てて、名をば西園寺といふめり。
 この所は、伯三位仲資の領なりしを、尾張国松枝といふ庄にか替へ給ひてけり。もとは田畠などおほくてひたぶるに田舎めきたりしを、さらに打ち返し崩して艶ある園に造りなし、山のたたずまゐ木深く、池の心ゆたかにわたつ海をたたへ、嶺より落つる滝の響きも、げに涙もよほしぬべく、心ばせ深き所のさまなり。
 本堂は西園寺。本尊の如来まことに妙なる御姿、生身もかくやといつくしうあらはされ給へり。(中略)
 北の寝殿にぞ、おとど[公経]は住み給。めぐれる山の常盤木ども、いとふりたるに、なつかしきほどの若木の桜など植へわたすとて、おとどうそぶき給ひける。

  山ざくら峯にも尾にもうへをかん見ぬ世の春を人や忍ぶと

 かの法成寺をのみこそ、いみじきためしに世継もいひためれど、これはなを山の気色さへおもしろく、都はなれて眺望そひたれば、いはんかたなくめでたし。  (「増鏡」内野の雪)


 郊外の田畑を造営して、池や滝のある庭園を造り、数々のお堂を建てて、公経自らは寝殿に住んだといいます。その豪奢なさまは、藤原道長の法成寺に匹敵すると「増鏡」は伝えます。

 金閣寺の一画に残る池は、その名残ともいわれています。

金閣寺
 鹿苑寺の安民沢


 源氏物語の夢 
 
 「増鏡」にも「源氏の中将わらは病みまじなひ給し北山のほとりに」とあるように、公経は「源氏物語」に描かれた北山の別業を理想として、北山第を造ったのでした。
 「若紫」を繙くと、「わらわ病み」を患った光源氏が、北山にある「なにがし寺」を訪れる情景が描写されています。

 三月のつごもりなれば、京の花ざかりは、みな過ぎにけり。山の桜は、まださかりにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひも、おかしう見ゆれば、かかるありきも、ならひ給はず、所狭き御身にて、めずらしう思されけり。寺のさまも、いとあはれなり。峯たかく、深き岩の中にぞ、聖[ひじり]入り居たりける。  (「源氏物語」若紫)

 都を離れた長閑な風景です。
 西園寺公経は、同じ北山の場所に、この王朝物語を具現化したのでした。

 また、より踏み込んだ説では、公経より200年余り遡った藤原公季(きんすえ、957-1029)が、北山の神明(神名)という場所で、わらわ病みの祈祷をしたという話もあって、<公季のわらわ病み → 源氏物語のわらわ病み → 公経の西園寺>という流れも考えられるという推理もあります。

 そんな栄華を極めた西園寺公経でしたが、寛元2年(1244)8月29日、北山第で74年の生涯を閉じます。
 平経高の日記「平戸記」には、公経のことを「朝之蠧害、世之奸臣」と、ひどい評を記しています。「蠧」は「木くい虫」ということなので、朝政を食い散らす害虫、というくらいの意味なのでしょう。我がもの顔に権勢をふるった公経への嫌悪が見て取れます。

 西園寺は、その後、義満の金閣造営にともなって土地を譲り、室町頭に移りました。そして、秀吉の寺町造営の際(1590年)、現在地に移転しています。




 西園寺

 所在 京都市上京区寺町通鞍馬口下ル高徳寺町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄鞍馬口下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『網野善彦著作集』3、岩波書店、2008年
 本郷恵子『全集 日本の歴史 6 京・鎌倉ふたつの王権』小学館、2008年
 金文峰「『徒然草』における『源氏物語』の世界-第四十四段を中心に-」、「岡山大学大学院文化科学研究科紀要」13号、2002年
 『大日本史料』5-18
 『新訂増補国史大系』21下(増鏡ほか)
 『古典文学大系』14(源氏物語)


【新聞から】新京極シネラリーベ閉館






 「ファンら別れ惜しむ 『新京極シネラリーベ』
  閉館」 京都 2013年2月16日付



 新京極シネ・ラリーベ

 新京極最後の単館の映画館「新京極シネラリーベ」が、2月15日(金)夜、閉館しました。

 地元紙・京都新聞は次のように報じています。

 「映画のまちとして親しまれてきた新京極で、最後の単館系映画館「新京極シネラリーベ」(京都市中京区新京極通六角下ル)が15日夜の上映をもって閉館し、訪れたファンが別れを惜しんだ」

 ラストの上映は、40名ほどがご覧になったそうです。
 お客さんの声を紹介したあと、当川賢治支配人の「長らくのご支援に感謝申し上げたい」とのコメントを掲載しています。
 特段、閉館のセレモニーなどはなく、通常通りの閉館だったそうです。それでいいのだと私も思います。

 私が最後に訪れたのは、2月13日(水)の午後でした。ふだんより少し多い30名ほどの観客と一緒に「のぼうの城」を見ました。いつものように、館内の自販機でコカコーラを買って、それを飲みながら映画を見ました。水攻めにあった忍(おし)城が、武士も農民も力を合わせて、窮地をどう乗り越えていくかという物語でした。
 
 シネラリーベは、ビルの地下1階と3階にスクリーンがあったのですが、昨年、地下の劇場を閉められたので、心配していたのでした。
 赤いビロード張りのあの椅子にもう座れないのかと思うと、やはり残念です。

 記事などによると、シネラリーベは、明治末期創業の映画館「パテー館」がルーツ。昭和29年(1954)以降は「京極弥生座」となり、2006年に現在の名称に改称しました。現在のビルは、昭和47年(1972)にオープン。かつては2階に蝋人形館(!)もあったそうです。
 新京極の弥生座というと、僕らの思い出では成人映画の上映館というイメージで、その頃は行ったことがなかったのですが、シネラリーベとして一般作品を上映し始めた頃から、ちょくちょくお邪魔していました。

 ちなみに、開館時の「パテー」という名は、フランスの映画会社の名前です。戦前は、家庭用映画フィルムなども販売していて、それが9.5mmという特殊なフィルム(フィルムの中央にパーフォレーション=送り穴が開いている)だったのが珍しかったのです。ニワトリのトレードマークが印象的な会社。時代を感じさせます。

 13日に「のぼうの城」を見た帰り、六角の広場で、ふとこんなものを見たのでした。

 旧ピカデリー

 いまはダイエー・グルメシティになったビルの壁面。
 昔、ここには映画館「ピカデリー劇場」が入っていたのでした。

 未だに、壁面に松竹のマークと“Piccadilly”の文字が……。 今日まで全く気付きませんでした。
 ピカデリーが閉館してから随分経ちます。でも、壁に文字だけが残っていたとは! さすがに、切ない気持ちでした。

 新京極の映画館は、これでMOVIX京都1館だけになりました。



寺町・新京極を歩く(その3) - 天寧寺 -





天寧寺


 「額縁門」の寺・天寧寺

 鞍馬口通から南に伸びる寺町通。この先、通りの東側(賀茂川側)に寺院が並んでいます。

 その最初に現れるのが曹洞宗・天寧寺です。

天寧寺

 この門は、俗に「額縁門」と呼ばれ、門の中に比叡山が借景のように望めます。

天寧寺

 天気のよい日に訪れると、さぞかし美しいことでしょう。

 この景色に見とれ、つい直ぐに門内へ入ってしまうのですが、門の左に注目してみましょう。
 こんな石標が立っています。

 天寧寺

 「金森宗和公本塋」。「塋(えい)」はお墓のこと。時折「塋域」(墓域)などという言葉を目にします。江戸時代の茶人・金森宗和(かなもり そうわ、1584-1656)の墓所があることを示しています。
 金森宗和といえば、飛騨高山の出身で、茶道・宗和流の祖として知られます。
 大坂の陣のあと、父から勘当され、母とともに、元和4年(1618)頃、烏丸今出川上ルの御所八幡上半町に移り住みました。つまり、天寧寺の比較的近くということになります。

 2基の五輪塔が、母子のお墓です。

天寧寺

 右が宗和、左が母・室町殿です。

 天寧寺 金森宗和墓


 かなり磨滅しかけているものの、かろうじて刻字を読むことができます。宗和の方には、次のように記されています。

天寧寺

 「明暦二 丙申 年/地 甲堅院徳英宗和居士/十二月十六日」

 戒名とともに、明暦2年(1656)12月16日に亡くなったと記されています。命日については、「隔冥記」などには12月15日となっており、1日異なっています。


 高橋箒庵が建てた石標

 今回注目するのが、最初に登場した門前の石標です。その裏面には、こう記されています。

 天寧寺

 「寄附主 東京 高橋箒庵」

 建てたのは、高橋箒庵(そうあん)でした。
 高橋箒庵(義雄、1861-1937)は、益田鈍翁(孝)と並んで、近代を代表する数寄者です。東京では中心的な存在で、彼が催した茶会は『東都茶会記』などに記され、その交友関係は日記『萬象録』に書き留められています。また茶道具の売立てなどについて克明に記録した著書『近世道具移動史』があります。もとは新聞記者でしたが、途中、三井に勤務し、晩年は茶道に関する文筆に専念し、斯界の名器を探し求めました。

 茶の世界に生きた金森宗和と高橋箒庵。そんな二人が結びついても何の不思議もないのですが、それにしても、なぜ高橋箒庵はここにこの石標を建てたのでしょうか。
 具体的に知りたいと思いました。


 『大正名器鑑』と『昭和茶道記』

 そもそも、この石標はいつ建立されたのかが記されていません。年代という大切な手掛かりがないわけですが、それでも高橋箒庵には明治から昭和に至る茶会記(茶道記)があるので、それを調べてみることにしました。
 直観的に「昭和かな」と思い、『昭和茶道記』を調べてみます。 
 するとどうでしょう、昭和2年(1927)5月31日の項で、金森宗和墓のことが記されていたのです。

 高橋箒庵は、金森宗和が宇治の茶の木で刻んだ千利休像を所持していたそうです。1尺3寸(約40cm)程度の像ですが、大徳寺山門の像とほぼ同形で、底に宗和の直筆で名と書判が認めてあったといいます。
 箒庵は、この木像を安置するのにふさわしい場所を探し求め、宗和の墓のある天寧寺を思い付きました。

 かくて箒庵は天寧寺を訪ねるのですが、そこからの事情は彼の大著『大正名器鑑』とあわせて見ていきましょう。ちなみに『大正名器鑑』は全9編あり、蒐集家などが秘蔵する茶道の名器を集成した写真・史料集です。

 『大正名器鑑』によると、大正15年(1926)5月17日に閑を見付けて天寧寺に趣き、「先づ宗和の墓所を探れば、果して丈四尺許[ばかり]なる五輪石塔二基相並び居るを発見せり」。
 宗和の墓を「発見」!
 『昭和茶道記』では控えめに「今度余が発見したとは言わぬ」と書いていますが、忘れられた宗和の墓所を見出したのでした。むろん、その墓が天寧寺にあることは、箒庵が参照していた『茶人系伝全集』や『名人忌辰録』などにも掲載されていたようですから、全く未知だったのではありません。しかし、かなり忘れられていた存在だったのでしょう。


 野々村仁清「水仙」の茶碗

 墓参を済ませた箒庵は、住職に面会し、宗和の遺物がないかと問います。すると、野々村仁清の茶碗と二重切竹筒花入、そして宗和からの手紙を示されたといいます(これを見た日付については『茶道記』と『名器鑑』では異なっているように読めます)。
 天寧寺に宛てた手紙には、茶入、茶碗、茶杓、竹筒、水指をそれぞれ1つずつ持参すると記されていました。そのうち茶入と茶杓はすでになく、水指は京都国立博物館へ出品中だったそうです。けれども、箒庵は茶碗と竹筒花入を実見することができました。

 花入は宗和の作に紛れはないけれど、格別のものとも思えませんでした。しかし、茶碗は宗和好みで、野々村仁清に焼かせたものと思え、「作行精妙、意匠抜群の名品」と見受けられました。感動した箒庵は、これを『大正名器鑑』に収録します。

 この茶碗は、高さ3寸、口径4寸1分、白地蹴鞠形で、「水仙」という名の通り「如何にもサツパリとして高尚なる図様」で、胴に水仙が描かれています。まったく使用した痕跡がなく「今や窯より出でたらんが如くに新鮮」な品でした。
 『大正名器鑑』第9編の最末尾にこの茶碗は掲載されていて、その姿を写真で見ることができます。

 箒庵は『昭和茶道記』に、「宗和の菩提寺たる天寧寺に斯かる遺品遺書が現存してある以上は、当今の茶人は此不世出の大宗匠に向つて時々報恩供養を怠つてはなるまい」と記しています。
 この気持ちが、門前に石標を建てさせた理由であり、その熱意が仁清作の優れた茶碗を発見させたのでした。

 ちなみに、高橋箒庵が見出した「水仙」の茶碗は、2008年に「銹絵(さびえ)水仙文茶碗」として国の重要文化財に指定されました。
 文化庁のデータベースより、その解説を抜粋しておきます。

 仁清の作品は色絵が著名であるが同時に本作品のような銹絵などの作品でも優品を多数残している。本茶碗は仁清の茶碗によく見られる胴部を絞った優美な姿を示している。文様は水仙の意匠であるが、仁清独特の白濁釉(はくだくゆう)の下に白泥(はくでい)を置いて銹絵の濃淡で見事に描いたものである。技術的にも極めて優れた仁清の茶碗を代表する優品である。

 京都国立博物館のホームページもご参照ください(作品写真があります)。 ⇒ <京都国立博物館ホームページ>




 天寧寺

 所在 京都市北区寺町通鞍馬口下ル天寧寺門前町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄鞍馬口下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 高橋箒庵『大正名器鑑 第9編』大正名器鑑編纂所、1926年(復刻版 アテネ書房、1997年)
 高橋箒庵『昭和茶道記 一、二』淡交社、2002年
 谷晃校訂『茶湯古典叢書 四 金森宗和茶書』思文閣出版、1997年




寺町・新京極を歩く(その2) - 上善寺 -





上善寺


 秀吉による寺町の形成

 京都市街を南北に貫く寺町通。平安京の時代にさかのぼれば、ほぼ東京極(ひがしきょうごく)大路に相当します。つまり、平安京の東の端で、その向こうは鴨川が流れているというわけです。
 その後、豊臣秀吉は京都市街の改造に着手し、外周を御土居(土塁)で囲むとともに、寺院を寺町に集めました。その場所は、かつての東京極大路と、その西に築かれた御土居に挟まれた土地です。
 北は鞍馬口通から南は六条あたりまでの長大な区域に、多数の寺院が移転させられ、その数は100ほどにものぼります。距離は、約5km。他に類を見ない寺町の完成でした。
 移転は、天正19年(1591)頃までに終わりましたが、その多くは京都の町衆と密接な関係を持っていた浄土宗や日蓮宗、時宗の寺院でした。


 鞍馬口通の上善寺から

 今回、寺町通を歩くにあたって、最初に北端の鞍馬口通に向かってみましょう。

 寺町鞍馬口

 鞍馬口通から南を見たところ。ささやかに寺町通が始まっています。ちなみに、右の建物は銭湯です。 
 ここから南へ行くと、すぐさま寺が続く町並みが始まるのですが、まずは鞍馬口通に面したお寺からのぞいてみましょう。

 上善寺です。

上善寺 本堂

上善寺 山門

 上善寺は浄土宗の寺院です。開創は円仁にさかのぼると伝え、もとは天台宗の寺院でした。秀吉の時代に移転する前は千本今出川にあり、現在そこには後に再興された上善寺があります。
 秀吉の寺町計画の一番北に据えられたのが上善寺でした。ただ、建物などは当時のものはないようです。

 門前に立つと目に入るのが、大きな石標です。

 上善寺

 比較的新しく昭和2年(1927)に建てられたものなのですが、「第一番 六地蔵尊」と刻まれています。上善寺は浄土宗、本尊は阿弥陀さんなのですが、「六地蔵」とはいったい?


 京の六地蔵

 天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道を指す六道。そこで衆生を救済する地蔵菩薩は、それぞれにおられるので、六地蔵とも呼ばれます。
 京都で「六地蔵」というと、伏見区から宇治市にかけての地名・駅名「六地蔵」を思い出す方も多いのでは。そのあたりから話を説き起こしてみましょう。

 「平家物語」の異本のひとつ「源平盛衰記」には、「西光卒都婆事」として、平家物語にはない記事を載せています。そこには、

 「当初有難キ願ヲ発セリ。七道ノ辻コトニ、六体ノ地蔵菩薩ヲ造リ奉リ、卒都婆ノ上ニ道場ヲ構テ、大悲ノ尊像ヲ居奉リ、廻リ地蔵ト名テ、七箇所ニ安置シテ云(中略)加様ニ発願シテ造立安置ス。四宮河原、木幡ノ里、造道、西七条、蓮台野、ミソロ池、西坂本、是ナリ」

 ここには、院の近臣・西光(藤原師光)が、京都に出入りする七道の辻ごとに地蔵菩薩を造立し、道場を構え、「廻り地蔵」と名付けたと記されています。
 その場所が、次の7か所です。

  ・四宮(しのみや)河原
  ・木幡(こわた)の里
  ・造道(つくりみち)
  ・西七条
  ・蓮台野(れんだいの)
  ・ミゾロ池
  ・西坂本

 この地名については、のちに「山城名勝志」(1705)が注釈しています。
 四宮河原は「大津路、山科に在り」、木幡の里は「宇治路、六地蔵町に在り」、造道は「摂津路、上鳥羽に在り」、西七条は「丹波路、桂里に在り」、蓮台野は「長坂路、今絶えて常盤村像を拝す」、ミゾロ池は「鞍馬路」、西坂本は「竜華越、今この一所絶る」とあります。

 それぞれの場所が、京都から遠方に向かう行き口、いわゆる京の七口(多くの出入り口)にあったことが分かります。つまり“境”に当たる場所に、地蔵を祀ったというわけです。
 さらに、すでに18世紀初めには西坂本は廃絶し、蓮台野にあった地蔵も代わって常盤村のものを参るようになっていたと記されています。
 
 他方、「都名所図会」巻5(1780)「六地蔵」の項には、次のように記されています。

 「地蔵堂 大善寺と号す。浄土宗也。京道の角にあり。 本尊地蔵菩薩ハ仁寿二年[852年]、小野篁、冥土に趣き生身の地蔵尊を拝し、蘇りて後、一木を以て六体の地蔵尊をきざみ当寺に安置す。保元年中に、平清盛、西光法師に命じて都の入口毎に六角の堂をいとなみ、この尊像を配して安置す。今の地蔵巡り、これよりはじまる」

 ここでは、冥土から帰還した小野篁(たかむら)の説話を加え、篁が6体の地蔵を造って現在の大善寺(伏見区)に安置したとしています。そして、のちに西光が1体ずつを6か所に分置したと述べています。

 このように言い伝えはさまざまで、起源は定かではありません。それでも、江戸時代の前半には次の6か所が六地蔵として参拝の対象になっていたようです。

  1.御菩薩池地蔵(のち鞍馬口・上善寺)
  2.山科地蔵(四宮・徳林庵)
  3.伏見六地蔵(伏見・大善寺)
  4.鳥羽地蔵(上鳥羽・浄禅寺)
  5.桂地蔵(桂・地蔵堂)
  6.常盤地蔵(太秦・源光庵)

 おそらく北から時計回りに巡る順になっているのでしょう。

  
 御菩薩池(深泥池)の地蔵

 上善寺の話に戻りましょう。

上善寺
 上善寺地蔵堂

 現在、上善寺の地蔵堂には地蔵菩薩が祀られていますが、これも元は他の場所にありました。それが、御菩薩池(みどろがいけ)です。今では、深泥池と書くのが一般的になりましたが、北区上賀茂の東端にある貴重な水生植物群が生育する池沼です。
 
 深泥池を元は「御菩薩池」と書いたのも、地蔵菩薩に由来するのでしょうか。「都名所図会」巻6には、こうあります。

 「御菩薩池ハ幡枝[はたえだ]の南にありて傍に地蔵堂あり。平相国清盛の代、西光法師がいとなみしとぞ。六地蔵廻りの其一なり」

都名所図会より御菩薩池 
「都名所図会」より「御菩薩池」
左下に「地蔵堂」。遠くに「幡枝円通寺」が

 上の図にも「地蔵堂」として、方三間の宝形造のお堂が描かれています。その脇、池端の道が幡枝から市原、鞍馬方面に抜ける鞍馬街道です。つまり、このお地蔵さんは、鞍馬街道の口に当たる場所に祀られていたのでした。
 これが明治以降、上善寺に移されたのです。上善寺も鞍馬口通にあり、深泥池よりはかなり南ですが、出雲路橋を渡って真っ直ぐ北上すると深泥池に到達しますから、鞍馬への入口に当たるのは確かです。そういう縁で移転したのでしょうか。

上善寺 上善寺 上善寺
 各地蔵のお幡(左上・鞍馬口、右上・六地蔵、左下・上鳥羽)

 京都の年中行事をまとめた黒川道祐「日次紀事」(1676年)には、六地蔵巡りの習俗について、7月24日(旧暦)の条に、こう記しています。

 「六所地蔵詣 今日洛外六所地蔵詣、いわゆる賀茂御泥池[みどろがいけ]、或は云く菩薩池、山科、伏見、鳥羽、桂、太秦これ也。およそ一日六所の行程十里余也(後略)」

 17世紀後半には、すでに先に記した6か所になっていることが分かります。
 ちなみに、24日はお地蔵さんの縁日です。 

 冒頭に掲げた上善寺門前の石標(昭和2年)に刻まれた順番は「第一番」。上記の1~6の順番は、江戸時代初めから、およそ定まっていたのかも知れません。石標と同じ頃(昭和7年)に出版された濱中寛淳『京都「六地蔵巡り」の栞』も、この順番を取っています。

上善寺 上善寺にて

 現在では、六地蔵巡りは、地蔵盆の8月22日、23日に行われます。
 『京都「六地蔵巡り」の栞』には、その功徳として、除災火難、寿命長遠、女人平産、除碎諸病、福徳自在、五穀成就、諸神守護の7つをあげています。お地蔵さんは庶民を助ける仏さまとして、いつの時代にも人気がありますね。



 上善寺

 所在 京都市北区鞍馬口通寺町東入ル上善寺門前町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄鞍馬口駅下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『図集日本都市史』東京大学出版会、1993年
 「参考源平盛衰記」、『改定史籍集覧 編外三』(臨川書店、1984年)所収
 「山城名勝志」、」、『京都叢書』(京都叢書刊行会、1915年)所収
 「日次紀事」、『京都叢書』(京都叢書刊行会、1916年)所収
 濱中寛淳『京都「六地蔵巡り」の栞』龍門春秋会、1932年
 田中久夫ほか『近畿の民間信仰』明玄書房、1973年



寺町・新京極を歩く(その1)





裏寺町


 変貌する寺町・新京極

 2013年2月、新京極蛸薬師上ルにある映画館「新京極シネ・ラリーベ」が2月15日をもって閉館すると報じられました。かつて京都は映画の都であり、新京極・寺町・河原町界隈は多くの映画館が林立していましたが、単館の映画館がついに姿を消すことになります。シネコンを含む映画館自体でも、このあたりに残るのはMOVIX京都だけです。

新京極シネ・ラリーベ 
 新京極シネ・ラリーベ(2013年2月8日撮影)

 私の学生時代(1980年代)には、このあたりにも多くの映画館がありました。MOVIXの場所には、松竹系の松竹座とSY松竹。そこを下がると、ピカデリー、弥生座(現在のシネ・ラリーベ)、菊映などがあり、さらに裏寺町との間に、八千代館、美松映劇、京極東宝などがありました。
 もちろん、河原町周辺にも、京都宝塚劇場、スカラ座、京劇、東宝公楽などが点在していました。
 記憶で書いているので、劇場名など錯誤があるかも知れませんが、約30年前は映画といえば新京極・寺町・河原町に行くことを意味しました。

旧菊映
 旧ピカデリー(ビルの階上にあった)
 今はダイエー・グルメシティになっている

旧八千代座
 旧八千代館。かつては成人映画を上映

旧美松映劇
 旧美松映劇。今はショップ等に…

 2007年に八千代館が閉館したあと、建物を見て驚きました。ずいぶん立派な近代建築だったからです。往時は看板に覆われて外観がよく見えなかったのですが、皮肉なことに、閉館して本来の姿を現したのでした。


 梶井基次郎「檸檬」の町

 大正14年(1925)に発表された梶井基次郎の「檸檬」は、主人公が丸善にレモンを置いて爆発するのを夢想するという、京都を舞台にした作品です。そのレモンを買った果物屋が寺町二条角に、丸善が寺町三条西入にあったのです。
 果物店「八百卯」は、今は店を閉ざしています。

旧八百卯 
 旧八百卯(角のビル)

 「檸檬」は、寺町通をこう描いています。

寺町通はいつたいに賑やかな通りで-と言つて感じは東京や大阪よりはずつと澄んでゐるが-飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出てゐる。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。

 寺町通は、今とは少し異なって、「賑やかな通り」でショーウィンドーの光が流れ出している明るい街路でした。
 それとは対照的に、レモンの「爆弾」を仕掛けた主人公が歩いていく先は、「活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩つてゐる京極」と描かれています。
 
 作家の高野澄氏は、「檸檬」の舞台はなぜ寺町通なのかを考察して、ここが当時、京都のメインストリートだったことを指摘しています。高野氏は、現在にぎわっている河原町通が寺町通を圧倒するようになったのは戦後のことで、大正14年の主人公が寺町通に惹き付けられたのは自然なことだと述べています。


 大正・昭和の雰囲気

 大正4年(1915)刊の『新撰京都名勝誌』は、新京極を次のように紹介しています。

この処は京洛第一なる繁華街熱閙の場にして、演劇、活動写真、浄瑠璃、軍談、落語の各興行場より、酒楼、肉舗、珈琲店、球戯場等前後相望み、各種の商舗また櫛比整列して、遊人填咽、昼夜喧闘雑踏を極む。今劇場其の他を掲ぐれば、劇場は京都座、明治座、夷谷座、活動写真は帝国館、歌舞伎座、朝日倶楽部、パテー館、中央館、八千代座、富士館、天活倶楽部、落語其の他は蘆辺館、笑福亭、第一勢国館、第二勢国館等とし、東京の浅草奥山、大阪の千日前と互に繁華を競ふ。

新撰京都名勝誌より新京極
 『新撰京都名勝誌』(1915)より「新京極」

 ここにあげられた劇場、映画館、寄席だけでも15館にのぼり、他にも小さな施設があったことでしょう。まさに京都随一の繁華街です。東京の浅草、大阪の千日前という<見世物・寄席系統>の興行街として、新京極も繁昌したのでした。
 
 しかし、昭和になると少し情勢が変わってきます。昭和3年(1928)刊の『京都名勝誌』(大正4年版の改訂版)から引用します。

こゝは京都市中最も繁華熱閙の地区にして、演劇・活動写真・浄瑠璃・落語等の興行場を始め、酒楼[バー]・珈琲店[カフエー]・洋食店・飯舗・球戯場等各種雑貨店化粧品店などと参差櫛比し、遊覧の客その間を填咽し昼夜雑沓す。昨昭和二年 河原町通 に電車軌道敷設せられ、随つてこゝに近代式店舗出現し、四条通と相須つて、多少新京極の繁華を減殺したらんも、今なほ肩摩肱撃人の山・衣帽の波を作りて雑沓す。

 昭和の初め、河原町通に市電が開通したため、人々の流れに変化が生まれつつあることを指摘しています。原文では「河原町通」が太字になっていて、そのインパクトが感じられます。


 寺町通と新京極の歴史を振り返る

寺町通
 寺町通。右の建物は古書肆・竹苞楼

 平安京の東京極大路に端を発する寺町通と、明治初期に開発された新京極。
 その歴史には大きな落差がありますが、寺と繁華街が共存する“聖と俗”を包含する二つの通りについて、北から南へ、数回にわたり報告していきたいと思います。
 寺町と新京極を歩き、その歴史を振り返ることは、失われゆく“キネマの都”に対するオマージュになることでしょう。




 【参考文献】
 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年
 『京都名勝誌』京都市役所、1928年
 梶井基次郎「檸檬」1925年
 高野澄『文学でめぐる京都』岩波ジュニア新書、1995年



絵馬堂が意外におもしろい!(4) - 今宮神社 -





今宮神社


 紫野の今宮神社

 私は、高校3年間、今宮神社のそばの学校に通っていました。通学の行き帰りに見ていた朱色の楼門は、眼の奥に焼き付いています。

今宮神社

 けれども、境内の様子は余り記憶にありません。記憶にあるのは、東門前に向かい合って2軒ある「あぶり餅」店だけです。高校生ですから、その程度だったのでしょう。
 今回取り上げる絵馬堂なども、まったく覚えておらず恥ずかしい限りですが、少し観察してみましょう。


 京都の古い絵馬堂

 これまで3回にわたり、京都の絵馬堂を紹介しました。内容は、こちら ⇒ その1その2その3

 これまでは、上御霊神社、北野天満宮、御香宮神社を取り上げました。
 京都市内の古い絵馬堂(絵馬所)といえば、上記の北野天満宮があげられます。現在の絵馬所は、元禄13年から14年(1700-1701)の天満宮修築の際の建物です。しかし、もともとは慶長13年(1608)に豊臣秀頼により絵馬堂が造営されたといいます(『京都の絵馬』)。もっとも「京都御役所向大概覚書」によると正保3年(1646)の社殿修復時には絵馬堂は確認されないので、途中で失われていたのかも知れません。
 『京都の絵馬』掲載の年表によると、古い絵馬堂の建設は次のようになっています。

 慶長13年(1608)   北野神社
 正徳年間(1711-16) 藤森神社
 宝暦 5年(1755)   御香宮神社
             御霊神社
 宝暦年間(1751-63) 安井金比羅宮
 寛政 3年(1791)   今宮神社
 寛政 9年(1797)   伏見稲荷大社

 北野天満宮は飛び抜けて古いとしても、多くの神社では18世紀に絵馬堂が建立されたことが分かります。今宮神社も、そのひとつだったわけです。

今宮神社

今宮神社

 側面からは撮りづらいのですが、北面から写してみました。
 桁行六間、梁間二間、入母屋造桟瓦葺の建物です。北野天満宮などと同じ規模で、大きな絵馬堂といえます。
 「都名所図会」(1780)を見てみましょう。

今宮神社

今宮神社

 本殿の左方に「画馬殿」が描かれています。絵は、桁行三間、梁間はおそらく二間になっています。「都名所図会」は安永9年(1780)刊ですから、寛政の今宮神社絵馬堂より早く描かれていることになります。すると、この「画馬殿」は寛政の建物の前身なのでしょうか? このあたりは少し考えてみる必要がありそうです。


 海北派の絵馬

 この絵馬堂に懸っている絵馬を見てみましょう。今回注目するのは、次の絵馬です。

今宮神社

 少し退色しているものの大画面の絵馬です。
 中央の人物を拡大してみましょう。

今宮神社


 左は女性、右はいかめしい顔をした男性。どちらも甲冑をまとっているようです。
 実はこの人物、神話上の存在ですが、神功皇后と武内宿祢なのです。いわゆる「三韓征伐」の絵柄になっています。特に、武内宿祢の表情と甲冑が巧みに描かれています。
 神功皇后が手に長い棒状のものを持っていますが、これは釣竿で、肥前国松浦で鮎釣りをして勝敗を占っている場面(もちろん勝つという結果)です。祇園祭の占出山(鮎釣山)と同じモチーフになっています。

 神功皇后の説話は人口に膾炙していたらしく、それを取り上げた絵馬は全国的にも数多く見られるようです。一般には、皇后に仕えた武内宿祢とセットで描かれ、船に乗って戦闘している絵柄もあります。また、武内宿祢だけを画く絵馬もあります。これらは、武運長久の祈願であり、航海安全の祈願でもあるのでしょう。
 
 では、この絵馬、いつ誰によって描かれたのでしょうか。

 今宮神社

 絵馬の右端に、「寛政十年戊午秋七月吉祥日 海北友徳斎謹図」とあり、「照道」の印。奉納者の「沖田氏/木村氏/中嶋氏/木戸氏/渤海氏」の名が記されています。
 寛政10年、つまり1798年に描かれた絵。絵師は、海北友徳。

 海北(かいほう)という苗字は、桃山時代の絵師・海北友松でお馴染みですね。
 海北派の系図を見てみると、

  友松-友雪-友竹・(友賢)-友泉-忠馬-友三-友徳-友樵

 と続いていきます。
 友徳は、友松の6代後ということになります。宝暦12年(1762)の生れ、弘化4年(1847)没。海北家は、京都の禁裏御用だったので、友徳も寛政の御所造営(1790)に際して、小御所東廂の障壁画・朝賀図を描いたそうです。もちろん、友松の頃の勢いはなく、筆法も狩野派のそれを取り入れていったとみられます。

 いまひとつ、今宮神社に伝わる彼の絵馬を見ておきましょう。

今宮神社

 竜頭の船が一隻、海原に浮かんでおり、右手に一人の翁が釣をしています。この翁、実は住吉明神で、船の舳先に乗る人物は、白楽天です。よく見ると、顔も中国風に描かれています。謡曲「白楽天」の一節を絵画化した作品です(「謡曲白楽天図」)。寛政9年(1797)に描かれたもので、「海北斎宮亮」と友徳を示す落款があります。 

 江戸時代、京都で絵馬をよく描いた絵師は、狩野、長谷川、海北、別所の4家だったといわれます。海北派も、友松以来の障壁画の技術をもって大画面の絵馬を描いたのでしょう。
 2代目の海北友雪は、清水寺に伝わる「頼政射怪獣図(鵺[ぬえ]退治図)」(1635年)や「田村麻呂夷賊退治図」(1657年)といった巨大な絵馬を描きました。また、その門人の友賢は八坂神社に「仁田四郎猪退治図」(1702年)を残しています。ふだん目にする機会のない作品ですが、現在まで伝わる大作もあるわけです。
 今宮神社には、「曳馬図」も残されています。これは、海北友竹が描いた図が風雨により傷んだので、友徳が補筆した作品だともいわれます。弘化3年(1846)のことですから、友徳が没する前年です。

 絵馬堂の上を見上げて絵馬を観察するのは、なかなかしんどいのですが、時には時間をとってじっくり絵馬を眺めるのも愉しいものです。



 今宮神社




 今宮神社

 所在 京都市北区紫竹今宮町
 拝観 境内自由
 交通 京都市バス今宮神社前下車、すぐ



 【参考文献】
 『京都の絵馬』京都府立総合資料館、1980年
 『近世の京都画壇-画家と作品-』京都市文化観光局、1992年
 河田貞『日本の美術 92 絵馬』至文堂、1974年
 岩井宏実『絵馬』法政大学出版局、1974年



京都の西国三十三所(8) -革堂 その2 -





革堂


 行円上人の事蹟

 西国三十三所第19番札所・革堂(行願寺)は、平安時代の僧・行円を開基としています。
 よく知られたことですが、行円は出家する前、狩りで仔を宿した鹿を射てしまい、その鹿革を常に身に着けていたことから「革聖」「革上人」と呼ばれた、という話があります。
 革衣を身に着けるという点では、空也などと同じで、「梁塵秘抄」にある「聖の好む物、木の節・鹿角[わさづの]・鹿の皮、蓑笠・錫杖・木欒子[もくれんじ]、火打笥・岩屋の苔の衣」と見える通り、修験者の一般的な姿でもありました。
 
 革堂 革堂の碑に彫られた行円上人

 もともと西国三十三所は、山林修行する聖と深い関係にあるので、行円が開いた寺がそのひとつに選ばれているのもうなずけるところです。
 密教美術や仏像研究の大家・佐和隆研氏の『西国巡礼』(現代教養文庫)を繙くと、驚くことに「行円上人の革衣」のモノクロ写真が掲載されています。箱に入れられた硬そうな革片です。佐和氏は「それは上人の遺徳を偲ぶ材料として、古くから大切にされてきたものであろう」と記されています。


 革堂の御詠歌は

 山門を入ると、本堂手前に手水舎があります。

革堂

 手水鉢です。
 前面に「十七日/十八日/詠歌講」と記されています。17日、18日というのは観音さまの縁日を示していて、当寺の御本尊は千手観音菩薩です。おそらくは、毎月の観音さまの縁日に御詠歌をあげる講があり、それがここにある詠歌講だったのでしょう。

 ご存知のように、西国三十三所の札所には、それぞれに御詠歌があります。昔は花山法皇が作ったと伝えられていて、私も先年、中山寺(24番札所)を訪ねた際、門前の花山法皇の碑に「御詠歌の元祖」と刻まれているのを見ました。
 もちろん、本当は一人ですべて作ったというものではないのでしょうが、遅くとも江戸時代には定まったものがあったのでしょう。

 革堂
 本堂に掲げられた額。御詠歌を書く
 「花を見て/今ハのぞミも/かうだうの
  にわのちくさも/さかりなるらん」  

 これが革堂の御詠歌です。

 「花を見て今は望みも革堂の 庭の千草も盛りなるらん」

 まったく余談ですが、私はこの御詠歌を見ると、いつもアイルランド民謡の「庭の千草」を想起してしまいます。なにか御詠歌としては、ずいぶん洒落た文句だと思えます。
 写真の額は、明治23年(1890)2月に西光組により奉納されたものです。

革堂


 銅製の御詠歌の額

 革堂も、他の札所と同じく、奉納額が所狭しと懸けられています。

革堂

 この額は、昭和13年(1938)のものですが、京都の寺社では時折り見かける中村美工堂製のものです。奉納者は京都三三会。三十三所をお詣りする会という意味でしょうけれど、200人近い名前が記されていて圧巻です。ここにもやはり御詠歌です。

 なかでも目に付くのが、本堂の真正面に掲げられたこの扁額です。

革堂

革堂
 提灯の真上に懸けられている

 青銅製の額で、御詠歌が鋳出されています。
 額の面をよく見ると、別々に鋳た15枚の銅板をつなぎ合わせてベースを作っていることが分かります。そのベース上に、別に作った文字を張り付けているようです。なかなか丁寧な仕事です。

 御詠歌の後には、奉納者の氏名「西本政治郎」が記されています。
 これだけ立派な額を納めるのだから、よほど信心深い人なのだろうと想像したりするのでした。

 ところが、お堂の辺りを見ていて、もうひとつ気付きました。


 獅子が乗った香炉も!

革堂

 とても立派な青銅製の香炉があります。
 上には口を開いた獅子が乗っています。

革堂

 かなりリアルな造形。さらに……

革堂

 脚の部分。いわゆる獅噛(しかみ)というやつでしょうか、獅子の顔が付いていますけれど、足と直結していて少し滑稽な感じがします。
 でも、とてもいい仕事ですね。

革堂

 詠歌講中と書いてあります。
 そして、奉納者はというと……

 革堂

 これも西本政治郎なのでした。明治40年(1907)10月の奉納です。
 それにしても、この西本政治郎、いったい誰なのか?


 西本政治郎とは?

 西本政治郎は誰なのか。調べてみました。

 まず、貴重な人名録でもある電話帳。大正15年(1926)の『京都電話番号簿』。
 ここには「西本政次郎」として「寺町、松原下 神仏用金物商」とありました。

 さかのぼって、明治43年(1910)の人名録『第十五版 日本紳士録』。
 ここにも「西本政次郎」として「宮殿用金物商、下京区寺町松原南入ル六」とあります。

 そして『大阪市京都市神戸市名古屋市 商工業者資産録』(明治34年=1901)には、
「西本政次郎 下、寺町松原下ル 金物 神輿類 卸小売」とあり、「嘉永四年九月生」と記されていました。

 これらの資料から、西本政治郎は、京都市下京区の寺町松原下ルで、金物商を営んでいたことが分かります。それも、寺社や宮殿の金物製造・販売を主とし、神輿(みこし)も販売していたようです。
 生年は、ペリーが来航する前々年の嘉永4年(1851)。革堂の香炉を奉納したときには、56歳になっていたことになります。

 ちなみに、原史料は見ていないのですが、東京勧業博覧会(明治40年=1907)に銅製の鹿を出品したという話があるそうです。そうすると、革堂の香炉は、博覧会終了後まもなく奉納したことになります。

 西本政治郎は、革堂の信者でありながら、自らが寺社に金物を納める仕事だったため、そのなりわいを生かして青銅製の扁額や香炉を製造して奉納したのでしょう。それもうなずける優れた奉納品です。
 石造業者などは、いくつもの寺社等で同じ名前を見掛けるケースもありますが、金物についても同様のことがあるわけですね。
 革堂は庶民の信仰の場。細かく観察していくと、いろいろな発見があります。

 革堂 手水舎




 革堂(行願寺)

 所在 京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町
 拝観 境内自由
 交通 京阪電車丸太町駅より徒歩約10分



 【参考文献】
 西国札所会編・佐和隆研著『西国巡礼 三十三所観音めぐり』現代教養文庫、1970年
 『新訂 梁塵秘抄』岩波文庫、1941年
 『京都電話番号簿』京都中央電話局、1926年
 『明治大正昭和 京都人名録』日本図書センター、1989年
 『都道府県別資産家地主総覧 京都編1』日本図書センター、1991年