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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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京都の西国三十三所(7) - 革堂 その1 -





革堂


 革堂は「一条」に?

 西国三十三所の第19番札所、行願寺。一般には「革堂(こうどう)」という呼び名で通っていますね。
 西国三十三所の中でも、こぢんまりとしたお寺で、いい雰囲気を醸し出しています。

 寺町通に面した山門の左脇に、石標が立っています。

 革堂

 正面には「西国十九番札所」と書いてあるのですが、側面には下のように刻まれています。

 革堂

 「一条かうだう(革堂)」。

 革堂を訪れたことがある方には分かるように、その所在地は中京区の寺町竹屋町です。竹屋町通が寺町通に突き当たったところに、西を向いて建っています。
 竹屋町通は丸太町通の1本南です。
 一方、一条通は今出川通を南へ下がったところ、京都御所の西側になります。区も上京区で、直線距離にすると1.5kmは離れています。

 なぜ、「一条」なのか?


 隣には風呂屋も

 もうお分かりのように、革堂はかつては一条にあったのです。
 『京都市の地名』(平凡社)によると、はじめは一条小川新町にあり「一条北辺堂」とも呼ばれていたそうです。この一条北辺堂は、少なくとも10世紀末には存在していたようです。
 一条通の北ですから、ここは京外になり、寺院も数多くあったところです。すぐそばには、今は百万辺にある知恩寺や新京極にある誓願寺もあって、応仁の乱などでは、革堂とこれらの寺院が一緒に焼けたといいます。

 洛中洛外図屏風(上杉本)には、「かうだう」と記された革堂も登場します。入母屋造で向拝があり、周囲に縁をめぐらせた大きな建物です。その隣には、「ふろ」と書かれた一条風呂という施設がありました。これは蒸し風呂で、湯女にあかすりをしてもらっている場面が描かれています。
 革堂は、上京の町堂として、町衆の拠点となっていた寺ですが、その隣に憩いの場である風呂があるのも、たいへんおもしろく感じます。

 この一条の革堂ですが、豊臣秀吉の京都改造に伴って、天正18年(1590)、寺町荒神口(御所の東側)に移転しました。さらに、江戸時代の宝永5年(1708)に火災で焼け、現在地に移転しています。


 革堂の故地を訪ねる

 そこで、もともとあったという小川通一条上がるの故地を訪ねてみました。

 革堂町

 付近は、革堂があった痕跡もなく、ごくふつうの町並みです。
 ところが……

 革堂町

 町名は、革堂町。
 少し感動しますね。

 革堂町

 その西には、革堂西町もあります。
 他に、革堂仲之町など、名前を残す町があります。

 革堂は上京の町堂として、下京の六角堂などと同様に、京の町衆の結集点ともなっていました。
 そのことから、かつては上京の一条小川にあったことを知ることにも意味があるでしょう。




 革堂町(革堂の故地)

 *所在 京都市上京区小川通一条上ル
 *見学 特に痕跡はなく、一般の町並みのみ
 *交通 地下鉄今出川駅より、徒歩約5分



 【参考文献】
 『京都市の地名』日本歴史地名大系27、平凡社、1979年
 佐藤和彦ほか編『図説京都ルネサンス』河出書房新社、1994年
 小澤弘ほか『図説上杉本洛中洛外図屏風を見る』河出書房新社、1994年



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妙心寺の経蔵は、輪蔵もあって興味が尽きない(その2)

洛西




妙心寺経蔵


 「都名所図会」では“涅槃堂”?

 「その1」でご紹介したように、妙心寺経蔵は大きな輪蔵があり、その検索システムを観察するだけで、わざわざ見に行く価値があります。
 今回は、まず建物の外観を見てみましょう。

妙心寺経蔵

 典型的な経蔵の建物です。
 経蔵は、屋根が宝形造になっているものが多く、つまりは平面がほぼ正方形になっています。
 寛文13年(1673)に建てられました。京都に残る経蔵は、意外なことに、ほぼすべて江戸時代のものです。
 古いものでは、本圀寺経蔵(重文・1607年)、知恩院経蔵(重文・1621年頃)、大徳寺経蔵(重文・1636年)、仁和寺経蔵(重文・1640年代)などがあって、いずれも宝形造で方一間または方三間、内部には輪蔵を備えています。

 妙心寺の経蔵は、寛文13年(1673)に建てられているので、当然、安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」にも登場します。巻6の妙心寺の図を拡大しました。

都名所図会より妙心寺

 宝形造で一重裳階付き、花頭窓が開けられているという特徴をよく捉えています。ところが、よく見ると「経蔵」ではなく「涅槃堂」と書かれていることに気付きます。これは、いったい……

 現在、妙心寺では別の場所に涅槃堂があります。これは納骨堂です。
 山田孝道『禅宗辞典』を引いてみると、「涅槃堂」が立項されていますが「延寿堂に同じ」となっています。そこで「延寿堂」を見ると「病僧療養の室を云ふ」とあります。「省行堂」ともいうとあります。経蔵とは、まったく性質が異なります。

 「都名所図会」の本文を読むと、「法堂ハ[仏殿の]北にあり、経蔵ハ東にあり」とあります。経蔵が仏殿の東方にあることが記されているのですから、この絵の建物は経蔵でよいと思われます。なぜ「涅槃堂」と書いたのか、単なる間違いなのか、よく分かりません。


 額は、伏見天皇の宸筆

 経蔵は西を向いて建っていて、入り口の上には「毘盧蔵」と書かれた竪額が掛けられています。

妙心寺経蔵


 「毘盧蔵(びるぞう)」。「毘盧」は毘盧遮那仏の略。毘盧蔵がどういう意味かは、これも難しいのですが、経蔵や輪蔵を意味するともいわれ、また大蔵経(一切経)を指すともいわれます(「毘盧大蔵」)。経蔵に額として掛ければ、どちらの意味でも通ることになります。

 額の裏面には、「正法山妙心寺経蔵額/伏見院勅筆/家原自仙寄附/元禄十丁丑歳正月十二日」と記されていて、この文字が伏見天皇の宸筆だということが分かります。
 ちなみに、元禄10年は1697年になります。また、この額を寄付した家原自仙は、京の茶人だそうです。

 伏見天皇(1265-1317)は、鎌倉時代の能筆の一人として著名でした。その書は伏見院流と呼ばれ、勅撰集を写した「筑後切」や「広沢切」は流麗な筆跡です。
 さらに興味が湧くのは、伏見天皇の息子たちです。その第三皇子は花園天皇、第六皇子は尊円親王です。尊円親王といえば、これまた書の名手で、青蓮院流の祖。それは江戸時代、御家流となって、書の規範として崇められます。一方、兄の花園天皇は、妙心寺が花園の地にあることからも分かるように、禅宗に傾倒して花園・萩原御所を関山慧玄に預けて妙心寺を開かせたのです。

 「毘盧蔵」の額は、経蔵が建ってから14年後の元禄時代に寄付されました。伏見天皇の没後380年も後のことです。ということは、この題字は妙心寺経蔵のために書かれたのではなく、別の機会に揮毫されたものになります(残念ながら何かは分かりません)。
 ではなぜ400年近く前の伏見天皇の書が選ばれたかといえば、それは花園天皇と尊円親王の父であったからでしょう。花園天皇本人の書でもよかったかも知れませんが、江戸時代に誰もが知っている御家流の元祖の父であった伏見天皇の宸筆は、元禄の感覚としては、よりふさわしいように思えます。

深草北陵(十二帝陵)
伏見天皇の墓所、深草北陵(十二帝陵)


 経典は苦心の筆写で

 この経蔵に収められた大蔵経は、肥前国諫早の人、香田真照(さねてる)の寄進をもとにそろえられました。しかし、その事業は意外な苦心に満ちていました。

 寛文8年(1668)、香田真照が妙心寺を訪れ、自分は数年かけて財を蓄え妙心寺に大蔵経ひとそろえを具備してほしいと思う、と寄付を申し出ました。その事業を託されたのは、龍華院を創始した僧・竺印祖門でした。
 大蔵経を新たに筆写するためには、その原本を探さなければなりません。竺印は、まず江戸・寛永寺の大蔵経を原本にしようと考えました。寛永寺には、天海版と呼ばれる木活字の大蔵経があります。しかし、実物を見てみると、木活字のせいなのか、文字が逆さまになっていたり横倒しになっている箇所が散見されました。これでは駄目だと思った竺印は、さらに原本を求め、建仁寺の大蔵経に思い当ります。建仁寺のものは、より信頼のおける高麗版でした。
 さっそく建仁寺に申し出たところ、「わが山の大蔵経は門外不出で、もし貴山の申し出を承諾すれば、後からも借用したいという申し出が来て困ることになる」と渋ります。そこで、「もしそういう場合があったなら、妙心寺の写本を提供することにします」と切り返し、建仁寺の承諾を得たのでした。
 さて、写本をはじめますが、1年経ってもなかなか作業は進みません。竺印は、1枚ごとの筆写に対して、筆墨代と供養料という手当を出すことで、作業をはかどらせました。また、紙も、より適した美濃紙を新たに漉かせたのです。
 さまざまな苦労がありましたが、寛文12年(1672)9月18日、作業は完了しました。借りた経典の表具を損じたものは、すべて取り換えて外題を書き、建仁寺に返したといい、また竺印の師・千山らが10月1日、建仁寺に礼を述べに赴いたそうです。

 建仁寺の大蔵経は、6,527巻、函数にして639函ありました。妙心寺のものは、巻を合わせた部分があるため、6,166巻となりました。


 大坂の豪商・淀屋の寄付で建立

 では、この大蔵経を収める建物は、どのようにして造られたのでしょうか。

妙心寺経蔵

 建物に残された棟札には、「施主 摂州大坂居住岡本重当[割注]仮名三郎右衛門/法名箇菴」と記されます。
 この岡本重当という人物は、大坂の豪商・淀屋の四代目(1634-1697)です。淀屋の姓は岡本、四代目も、二代目らと同じく号は个庵(こあん)でしたので、音が通じる「箇菴」と記載されています。

 淀屋といえば、五代目の広当のときに闕所(けっしょ、財産没収)となったことで知られています。その放蕩ぶりも取り沙汰されますが、実は四代目・重当も結構な放漫家でした。ガラス張りの天井を作って金魚を泳がせた話は余りに有名。金のふすまを作ったりもして、かなり散財したようです。

 その淀屋が寄進して、妙心寺の経蔵が造られたのでした。

 このとき、経蔵の建立と鐘楼の修復が一緒に行われました。その総経費は約81貫832匁でした。現在の費用にあえて換算すると、1億円から2億円くらいになると思われます。このうち淀屋が出したのは、3分1弱の25貫目らしいのです(『正法山誌』)。それでも莫大な金額です。

 「その1」で話題にした経典を入れる経函について、その経費をみておきましょう。いろいろな内訳があり、興味深いものです。

 ・経箱の代   2貫40目
 ・漆の代    978匁2分5厘
 ・朱の代    412匁8分
 ・塗師の作料、
  そのほか雑用 4貫623匁3分9厘
 ・経箱の塗代  1貫187匁
 ・経箱の内張  144匁
 ・経箱環の代  720目
 ・経箱文字の掘賃 90目
 ・経箱の図掘賃 29匁

 これが経函を作るための経費内訳です。だいたい200万円くらい掛かっています。函といっても、漆塗りで、内張りもして、引出しの環も付けて、千字文の字を彫って、さらに検索の板も彫るのですから、手間が掛かります。やはり塗物は値が張りますね。

 経蔵1棟建てるにも、さまざまな苦労があり、経費も掛かり、背景にはいろいろな人間模様がうかがえます。そう思って眺めると、この建物も一層重く感じられます。


 妙心寺経蔵




 妙心寺 経蔵(重要文化財)

 *所在 京都市右京区花園妙心寺町
 *拝観 境内自由 ただし経蔵は特別公開でのみ内部拝観可
 *交通 JR花園駅より、徒歩約3分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『重要文化財妙心寺法堂・経蔵修理工事報告書』京都府教育委員会、1976年
 無著道忠『正法山誌』思文閣、1975年(原著1935年)
 山田孝道『禅宗辞典』国書刊行会、1974年(原著1915年)
 渡邊忠司『町人の都 大坂物語』中公新書、1993年



妙心寺の経蔵は、輪蔵もあって興味が尽きない(その1)

洛西




妙心寺経蔵


 経蔵の中には輪蔵が

 花園の禅刹・妙心寺の経蔵は、ふだんは非公開です。「京の冬の旅」で特別公開されたので、堂内を拝観してきました。

妙心寺経蔵公開の看板
「京の冬の旅」非公開文化財特別公開

 看板の写真をアップで。

妙心寺経蔵公開の看板
 看板に掲載された妙心寺輪蔵

 私たちは余り意識しませんが、寺院では経典、とりわけ大蔵経(一切経)を所持していることは重要事項で、それを収める経蔵は大切な建物でした。

妙心寺経蔵
  妙心寺経蔵(重文)

 経蔵は、方一間、宝形造、一重裳階付きの建物です。寛永13年(1673)の建築で、重要文化財に指定されています。花頭窓が目立つ程度の、落ち着いた建物です。次に述べるように、輪蔵(りんぞう)を設置しているため、裳階付きの背の高い建物になっています。

 正面の扉を開けると、中には傅大士(ふだいし)が座っておられます(上の看板の写真参照)。傅大士は、輪蔵の創案者として、経蔵に祀られています。

 輪蔵とは、収納に便利な“回転式ラック”のことで、経典を収納する棚です。

 輪蔵については、このブログでも、知恩院や清凉寺のものを紹介してきました。
 記事は、こちらをご覧ください ⇒ <本堂は修復中でも、知恩院は経蔵がおもしろそう!>  ⇒ <嵯峨の清凉寺で“回せる”ものは?>

 ここでは、ふだんから公開されている清凉寺の輪蔵の写真をご覧ください。

清凉寺経蔵の輪蔵 清凉寺輪蔵

 下部の軸を中心に、時計方向に回ります。比較的シンプルなデザインですね。

 妙心寺の輪蔵は、もっと規模が大きくなります。
 建てた際の史料によれば、径1丈6尺2寸(約4m90cm)、高さ1丈7尺(約5m10cm)といいます(「妙心寺輪蔵建立之覚」)。
 

 経典の収納法

 輪蔵は八角形なので、8つの面があります。各面には、経典を入れた経函(きょうばこ、経櫃ともいう)が収納されています。
 1面あたり、タテ10段×ヨコ6列=60函並んでおり、その後ろにもタテ10段×ヨコ4列=40函あって、合計100函が収められています。これが8面なので、800函あることになります。
 経巻の数ですが、『正法山誌』所収の「殿堂略記」には6,527巻とあります。現在、お寺でもこの数字を取っているようです。ちなみに、同書第四巻所収の「書写大蔵」には6,166巻となっていて、函数も639函と少なめです。江戸時代から後、若干増加した経典があり現在の数になったのかも知れませんが、詳しく経緯は分かりません。
 いずれにせよ、平均すると1函あたり8~10巻ほど入っている計算になります。

 問題は、経典を取り出すとき、どうするか? 800函もあると、どのように検索するかが重要です。
 しかし、ここでは極めて明瞭なシステムが導入されています。

 まず、8面の1面ずつに名前を付けています。
 その名は、

  兌・乾・坎・艮・震・巽・離・坤

 の8字です。

 なんとなく分かると思いますが、いずれも方角を表す漢字です。ただし、「坎」のような特異な文字も含まれています。

  兌( ダ )………西
  乾(いぬい)………北西
  坎( カ ン )………北
  艮(うしとら)……北東
  震( シ ン )………東
  巽(たつみ)………東南
  離( リ )………南
  坤(ひつじさる)…南西

 「震」は音のシンが通じるので「辰」と同義で、ふつうは真東ではありません。ここでは、便宜的に東に当てているのでしょうか。
 
 さらに、この8つを外(60函)と内(40函)に区別し、「兌外」「兌内」のように名付け、16の区分を作っています。


 経函は「千字文」で配列

 このように各面を名付けたら、次は各函の名付けです。
 現代の感覚だと、№1~№800まで、数字を振っていけばよいようですが、かつてはそうではありませんでした。実際に経函を見ると、漢字が1文字ずつ記されています。

輪蔵の経函
  輪蔵の経函の例 (妙心寺ではありません)

 以前は、この文字が何を意味するか見当が付きませんでした。ところが、気付いたのです。

 それは「千字文」。

 千字文(せんじもん)。
 6世紀頃、中国で編纂された1000文字の漢字を集めたテキストの名前です。
 「天地玄黄 宇宙洪荒」から始まる1000字。4文字でひとつの句になっていて、全部で250句あります。

  天地玄黄 宇宙洪荒
  日月盈昃 辰宿列張
  寒来暑往 秋収冬蔵
  閏余成歳 律呂調陽

 という具合に続いていきます。単なる漢字の羅列ではなく、意味を持った韻文です。
 子供たちが漢字を覚えるためのテキストであり、また習字の手本ともなりました。 

岩波文庫『千字文』 岩波文庫『千字文』

 作ったのは、梁の周興嗣という人物です。
 製作のいきさつは、唐の『尚書故実』という書物に記されています(小川環樹ほか『千字文』から引用)。

 「梁の武帝は王子たちに書を習わせるため、王羲之(おうぎし)の筆蹟の中から重複しない文字一千字の模本を作らせたが、一字ずつ紙片であって、ばらばらで順序はなかった。武帝は周興嗣をよび出し、『これを韻文になるように考えてくれ』といった。そこで周興嗣は一晩かかって一千字を用いた整然たる韻文一篇を作り、武帝にたてまつったが、その苦心のため髪の毛がまっ白になった、という」

 王羲之は、古代中国の「書聖」とあがめられる書家。その文字を集めるだけでは覚えづらいので、意味のある成句を作ったというわけです。
 『日本書紀』には、応神天皇16年の条に、百済の和邇(王仁)が「論語」と「千字文」を伝えたという記事がみえます。年代はともかく、伝えるべき書目として「千字文」が選ばれたことに、その重要性がうかがえるでしょう。

 中国では、千字文は日本の「いろは歌」のように用いられ、物の勘定にも使われ始めました。小川環樹博士によると、文官任用試験の受験者の座席番号などに使われたそうです。そして、大蔵経でも宋版以来、千字文によって数えられてきたといいます。

 妙心寺の輪蔵で経函を見てみると、確かに千字文が打たれていることが分かります。
 そして、検索を便利にするために、入口の左右に千字文を書いた板を吊り下げ、索引としているのです。いにしえの中国では知識人で千字文を記憶していない人はいないと思いますが、江戸時代の日本では覚えていない人も多かったため索引の板を取り付けたのでしょうか。

 このようにして、例えば「兌外」では、「天」から52字目の「闕」までを割り振る、という具合に、検索可能にしていきました。ただし、「天」は「天 一」「天 二」と2函あり、多くの文字を2函の割り当てにしています。


 経典自身にも千字文を付ける

 大蔵経は、版によって巻数が異なっているものの、およそ5000~6000巻程度あると思いますが、その1巻ずつにも千字文が振られています。
 印刷された経典名(巻の最初と最後にある)の下に「天」とか「地」とかの文字を記すのです。これは、その経典が収められている函を示す記号で、千字文函号というそうです。上に述べたように、1文字で複数函割り当てる場合もあるので、<文字+漢数字>の組み合わせになります(「天 一」「天 二」のように)。
 残念ながら、私は函の中を見たことがありません。しかしおそらくは、経典を帙(ちつ)と呼ばれるケースに入れてから、函に収納するのでしょう。帙にも、千字文函号が記されるようです。

紙製帙
  帙(ちつ)に収められた経典
  (『西大寺所蔵元版一切経調査報告書』より)

 帙に入れられた経典です。経典の小口の部分にも「対 三」などと書かれているのが分かりますね。

 『西大寺所蔵元版一切経調査報告書』によると、奈良の西大寺や、南禅寺、園城寺、増上寺などにある元版一切経には、570ほどの千字文函号が付されているそうです。

 妙心寺の経蔵に入る機会があれば、輪蔵の函に注目し、さらに入口脇に掛けられた索引の板を見てください。そこには、千字文の世界が広がっているはずです。




 妙心寺 経蔵(重要文化財)

 *所在 京都市右京区花園妙心寺町
 *拝観 境内自由 ただし経蔵は特別公開でのみ内部拝観可
 *交通 JR花園駅より、徒歩約3分



 【参考文献】
 『重要文化財妙心寺法堂・経蔵修理工事報告書』京都府教育委員会、1976年
 無著道忠『正法山誌』思文閣、1975年(原著1935年)
 小川環樹・木田章義注解『千字文』岩波文庫、1997年
 大島正二『漢字伝来』岩波新書、2006年
 『西大寺所蔵元版一切経調査報告書』奈良県教育委員会、1998年



お寺にある記号は、なにを意味する?

洛東




六波羅蜜寺


 六波羅蜜寺の本堂は、室町時代の建築

 空也上人像で有名な六波羅蜜寺。宝物殿には、運慶作の地蔵菩薩坐像や、「かつら掛け地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩立像など重要文化財が多数並んでいます。とりわけ、空也上人立像をはじめ、平清盛や仏師・運慶、湛慶の姿と伝えられる像など、鎌倉時代の肖像彫刻に目を奪われます。

六波羅蜜寺
  六波羅蜜寺本堂(重文)

 しかし、気軽にお詣りできる本堂も、実は重要文化財なのです。それも、かなり古い。
 六波羅蜜寺本堂は、貞治2年(1363)の建築です。これは京都ではかなり古く、市街中心部(というと曖昧ですが)では、千本釈迦堂と通称される大報恩寺本堂(1227年)や三十三間堂(1266年)などにつぐ古さ、というイメージです。
 もちろん、周辺部では、醍醐寺五重塔(952年)が断然古く、ほかにも同薬師堂(1124年)や、大原・三千院にある往生極楽院阿弥陀堂(1148年)、赤堂と呼ばれる広隆寺講堂(1165年)など、平安時代の建物が残っています。
 ただ、中心部では応仁・文明の乱の戦火により多くの寺社が焼失したので、案外古い建物は少ないのです。六波羅蜜寺は鴨東(鴨川の東)の地にあり、14世紀の本堂を今に伝えています。


 蟇股に梵字発見!

 この本堂、横から見ると、ひさし状に突き出している向拝(こうはい)があります。

六波羅蜜寺

 この向拝は、当初からのものではなく、天正年間に付け加えられたものといいます。装飾の細部を見ても、桃山時代の趣きです。
 向拝は三間で、各間の虹梁上に彩色された蟇股(かえるまた)が乗せられています。

六波羅蜜寺 蟇股(左=南)

六波羅蜜寺 蟇股(右=北)

 左は菊、右は牡丹の彫り物ですね。
 では、センターはどうなっているのか?

六波羅蜜寺 蟇股(中央)

 こちらは蓮(ハス)になっていて、お寺で用いられるモチーフとしては至ってポピュラーです。ところが、中央の蓮花の上に青い円形のものが乗っているのが見えます。クローズアップしてみましょう。

六波羅蜜寺

 円の中に、金の記号が……

 実は、これが梵字(ぼんじ)なのです。

 梵字は、サンスクリット(梵語)を表記するための文字です。紀元前からインドで用いられていて、これで書かれていたお経もあるわけです。
 日本へは仏教、経典とともに東漸してきました。現在は日常ではお目にかからないサンスクリットですが、これに由来する言葉はたくさんあるのだそうです。
 有名なのは「塔婆(とうば)」。stupa から来ています。「檀那(だんな)」。贈り物を意味する dana に由来。
 いろいろあるのですが、私が驚いたのは「瓦(かわら)」。もともとサンスクリットの kapala だったとか。皿の意味なんだそうです。確かに、瓦は皿に似ているといえなくもない……

 私たちが、時折見かける梵字は、文章ではなく、たった1文字であるケースが多いですね。これは、その1文字で仏さまの名前を示していて(便利!)、「種子(しゅじ)」とか「種子字」「種字」と呼ばれています。
 
 つまり、この蟇股にある記号は、仏さまを表す種子だったのです。

 では、写真の種子は、どんな仏さまを表しているのか?
 
 この字は「キャ」という字で、十一面観音を示しています。
 そう、六波羅蜜寺の本尊は、秘仏の十一面観音でした。 秘仏開帳については、こちら ⇒ <六波羅蜜寺の御開帳>

 お堂の真正面に、ここに祀っている仏さまの種類を表示しているというわけです。現代人のわれわれには、ほとんど分からないのが残念ですが。

 ちなみに、聖観音は「サ」、馬頭観音は「ウーン」などと決まっています(フォントがないので、ごめんなさい)。


 では、これは?


三十三間堂

三十三間堂 三十三間堂(国宝)

 三十三間堂(蓮華王院本堂)です。
 屋根のトップに鬼瓦が付いてます。

三十三間堂

 クローズアップ。

   三十三間堂

 よく見ると、丸の中の梵字が、六波羅蜜寺同様、蓮花に乗っているのが分かります。
 文字そのものは、先ほどより複雑な形ですね。
 このくらいになると、調べるのも若干苦労。といっても、知人のYさんが以前開いた展覧会の図録『神秘の文字』を見れば、すぐに分かります。

 答えは、千手観音でした。
 それはそうですよね。三十三間堂に祀られているのは、大勢の千手観音なのですから。
 このお堂は鎌倉時代の再建ですが、鬼瓦は室町時代か江戸時代の修理の際のものではないでしょうか。

 この字は「キリーク」といいます。ただ、キリークは、千手観音のほかに如意輪観音の意味もあるし、阿弥陀如来を表していることもあるそうです。Yさんによると「尊名比定には注意を要する」ということになります。 

 このように、建物の蟇股や瓦に種子を付けて仏さまを表すことは、特別に珍しいことではなく、時折見かけます。双眼鏡と種字一覧表が必携ですが、有名寺院にもあるようなので、こんな観点から参拝してみるのもおもしろいかも知れません。




 六波羅蜜寺

 *所在 京都市東山区五条通大和大路上る東
 *拝観 境内自由  宝物館は大人600円ほか
 *交通 京阪電車清水五条より、徒歩7分

 三十三間堂(蓮華王院本堂)

 *所在:京都市東山区三十三間堂廻り町
 *拝観:一般600円、高校・中学生400円、小学生300円
 *交通:京阪七条駅より、徒歩約5分



 【参考文献】
 『特別展 神秘の文字』滋賀県立琵琶湖文化館、2000年



妙心寺の浴室は「明智風呂」

洛西




妙心寺浴室


 七堂伽藍のひとつ<浴室>

 禅宗の七堂伽藍というと、三門・仏殿・法堂・僧堂・庫院(庫裏)・東司(便所)・浴室の7つです。中軸線上、およびその左右に配置されます。
 東司(西浄ともいう)は、僧侶が起居する場ともなる僧堂に接しておかれ、およそその反対側に浴室が建てられていました。浴室は宣明とも呼ばれ、文字通りお風呂です。

 禅宗寺院では、日々の常住坐臥すべてが修行。トイレに行くのもお風呂に入るのも修行でした。もちろん、用の足し方、風呂の使い方にも規則があり、定められた道具を用いて定められた順序で行いました。


 浴室の外観をみると

妙心寺

 妙心寺は、七堂伽藍が比較的よく残されている禅宗寺院ですが、現在見られるものは桃山時代から江戸時代にかけて再建されたものです。仏殿と法堂もそろっていますが、仏殿は文政10年(1827)、法堂は明暦2年(1656)で、かなり大ぶりな建物に映ります。

妙心寺仏殿・法堂
  仏殿と法堂(ともに重文)

 今回の話題は、重要文化財の浴室です。三門の右手(東)にあります。

妙心寺浴室

 桁行五間で、梁間は正面五間、背面三間。切妻造、妻入りの建物で、入口の上には唐破風が付けられています。
 後に述べるように、もとは天正15年(1587)に建立されたものですが、現在の建物は明暦2年(1656)築。法堂などと同じ年です。

妙心寺浴室 唐破風

妙心寺浴室 懸魚と蟇股

妙心寺浴室 蟇股

 ここでおもしろいのは、蟇股の彫刻です。これが何の模様なのか、とても難しいですね。渦巻くものは、一見すると菊のようにも見えますが、拡大してみると、どうも雲らしい。下には波もあります。波に雲。ところが、天沼俊一博士の説明を読むと、中央左にワシ爪(3本爪)のようなものがあって、それが“龍の脚”なのだそうです! 言われてみないと分かりませんが、「龍が昇天する所」を彫ったものと推測されています。
 そこまでこらなくても! という意匠で、感心してしまいます。

妙心寺浴室

妙心寺浴室 煙出し

 浴室ですので、屋根には蒸気を出すための煙出しが付いています。この浴室の場合、棟上に大きな煙出しが設けられています。このように屋根をうがって出す形もあれば、建物の背面の壁から出す場合もあります。下の写真は、相国寺の浴室ですが、背面に煙出しがあります。

相国寺浴室 相国寺浴室

 湿気対策に、しっかりと漆喰が塗られています。珍しいタイプかも知れません。


 お風呂の内部は?

 室内に入るとどうなっているのでしょうか。
 平面図を掲げておきます。

妙心寺浴室
  典拠:大場修『風呂のはなし』鹿島出版会

 図の右が入り口です。入り口を入って、網掛けの部分が土間になっています。ここは入浴する際、順番待ちをするスペースで、支度をするところ。また土間の正面には跋陀婆羅(ばっだばら)菩薩が祀られています。
 そこから段を上がると、板敷のスペースになっています。ゆるい傾斜が付いていて、使った湯水が中央の溝に流れるように工夫されています。
 そして、浴室中央にある、ほぼ正方形の区画が風呂屋形。蒸し風呂です。唐破風のある小部屋で、下の潜り戸から入ります。中ほどの戸は蒸気を抜くもの、上方には採光のための戸があります。
 後方はカマドがある区画。蒸気を出すものと、湯を沸かす釜2口があります。水は外の井戸から引いてきます。
 左上の畳敷きのスペースは、住持などが入る際に使う脱衣・休憩室といいます。

 ここは蒸気風呂、現代風にいえばサウナだったわけですが、桶に湯を汲んで身体を流すことはやっていたようです。ただ湯船はないので、つかるわけにはいきません。
 もちろん、身体を洗う作法もあり、なかなか窮屈そうですね。
 
 内部は、毎日拝観を受け付けています。
 京都の禅寺の浴室の中でも旧状をよく伝えるもので、いつでも見られるのが魅力です。

妙心寺鐘楼 浴鐘楼

 なお、浴室の左隣(北)にある鐘楼は、かつてはお風呂が準備できたとき(「開浴」)に合図として鳴らされていた浴鐘楼で、春日局の寄進になります。いまの鐘楼は、戦後焼失後に再建されたものです。


 「明智風呂」のいわれ

 この浴室は、いつの頃からか「明智風呂」と呼ばれています。もちろん、明智光秀ゆかりの風呂です。
 『増補妙心寺史』によれば、本能寺の変で織田信長を討った後の光秀の行動は、およそ次のように記されています(要約)。

 6月2日のたそがれ、光秀の軍勢は勝鬨をあげて妙心寺に引き上げた。長年の宿怨を晴らした光秀は心置くこともないので自害しようと仏殿に礼拝し、辞世をしたためた。このとき、妙心寺の僧が光秀の気持ちを悟り、自刃を戒めた。

 光秀没後5年の天正15年(1587)、塔頭である太嶺院の僧・密宗が光秀の菩提を弔うために、この浴室を建てたといいます。密宗は、光秀の叔父にあたる人物です。
 このような建立の経緯から、ここは僧侶たちの入浴の場としてだけでなく、光秀を供養する場として長く用いられていました。

 明智光秀は余り人気の高い武将ではないようですが、彼にまつわる伝説を史跡で目にするたび、少しずつ同情の念が強まるのでした。




 妙心寺 浴室(重要文化財)

 *所在 京都市右京区花園妙心寺町
 *拝観 浴室・法堂 大人500円ほか
 *交通 JR花園駅より、徒歩約3分



 【参考文献】
 大場 修『風呂のはなし』鹿島出版会、1986年
 川上孤山『増補 妙心寺史』思文閣、1975年
 木村静雄『妙心寺-650年の歩み』小学館、1984年
 芳賀幸四郎ほか『京の禅寺』淡交社、1960年
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944年
  



光秀ゆかりの「明智門」は、ほかの門とともに移動した

洛東




南禅寺金地院明智門


 南禅寺金地院の「明智門」

 南禅寺の塔頭のひとつ金地院。歴史の教科書にも出てくる金地院崇伝(以心崇伝)の寺としても知られています。

 金地院を訪ねて、拝観窓口から左に進むと、小ぶりな唐門があります。これが、明智門です。

南禅寺金地院明智門
 明智門

南禅寺金地院明智門
 明智門懸魚

南禅寺金地院明智門
 明智門大瓶束

 この門は、よく知られているように、大徳寺から移築されたものです。
 18世紀後半の大徳寺の様子を捉えた「都名所図会」(1780年)。

都名所図会より大徳寺

 センターライン上に、勅使門、山門、仏殿、法堂と並んでいます。法堂の右手には方丈があるのですが、その門が明智門でした。

都名所図会より大徳寺明智門

 赤い矢印のある門が、明智門。その名の通り、明智光秀ゆかりの門です。

 光秀は、天正10年(1582)6月2日、本能寺で織田信長を討ちます。その後、豊臣秀吉らの反抗に会い、6月13日、自身も果てるのですが、その間に五山や大徳寺などに銀を寄進しています。大徳寺には、銀子100枚を寄進しました(『大日本古文書』のうち大徳寺文書)。明智門は、光秀の冥福を祈るために、その銀を用いて方丈の南門として建てられたと伝えられます(『龍宝山外志』)。
 光秀の冥福云々については、よく考えねばならないと思いますが、「明智門」の名はここに由来します。

 ちなみに、「都名所図会」にも「方丈門ハ明知[ママ]光秀寄進なりといふ」と記されていますので、江戸時代の人達もよく知っている話だったのでしょう。


 金地院の門は……
 
 江戸時代、大徳寺にあった明智門ですが、明治になって南禅寺金地院に移築されました。以下に述べる事情から、明治10年代のことと考えられます。

 まず大徳寺ですが、金地院に明智門を譲った後、その位置に山内にあった「日暮門」を移築します。日暮門は、聚楽第の遺構と考えられる国宝の唐門です。以前紹介しましたので、詳しくはこちらをどうぞ ⇒ ≪国宝・大徳寺唐門は、聚楽第の遺構≫

 では、金地院側はどうだったのか。
 明智門が移築される前、そこには何があったのか?

 実は、別の門があったのです。

豊国神社唐門 豊国神社唐門

 この門、京都国立博物館の北にある豊国神社の唐門(国宝)です。京都の門のなかでも、西本願寺の唐門などと並んで華麗な門のひとつですね。この唐門が、明智門の前に金地院にあったのです。

豊国神社唐門 豊国神社唐門

 入母屋造の四脚門で、前後に唐破風を付けた大きな門。明智門とはスケールが違います。金地院側としては相当スケールダウンした印象です。
 豊国神社唐門は、もともとは伏見城の門と伝えられます。ということは、およそ1590年代(文禄・慶長頃)の城門だと考えらえるでしょう。実は、金地院の本堂(方丈)も伏見城遺構と伝えられていますから、ここには伏見城から複数の建物が移築されていた可能性があるわけです。
 
 ところが明治維新後、東山・阿弥陀峰に祀られていた豊国大明神が山麓に境内を賜り鎮座することになったのです。これが豊国神社で、明治11年(1878)に起工し、明治13年(1880)に竣成しました。その神門とするため、金地院の門が豊国神社に移築されたのです。たしかに、伏見城の遺構であれば秀吉を祀る神社の門としてはふさわしいといえますね。
 門を豊国神社に譲った金地院は、大徳寺から小さな明智門を移築したというわけです。


 まとめると、

 【豊国神社唐門】国宝
(桃山時代)伏見城に建立[伝] → (江戸時代)金地院に移築 →
(明治初期)豊国神社に移築……現在に至る

 【明智門】
(桃山時代)大徳寺方丈に建立 → (江戸時代)大徳寺方丈に →
(明治時代)金地院に移築……現在に至る

 【大徳寺唐門】国宝
(桃山時代)聚楽第に建立 → (江戸時代)大徳寺に移築 → 
(明治初期)大徳寺方丈に移築……現在に至る

 どうでしょうか。
 3つの門が微妙に絡み合いながら、玉突きのように動いています。
 光秀ゆかりの明智門は、豊国神社が創建されたことが引き金になって、大徳寺から金地院に移築されたのでした。
 日本の木造建築は、ばらしたり組み立てたりが自在ですから、何度も移築することができ、このような奇妙な現象も生じるのですね。
 それぞれの譲渡、融通の詳細は、さらに考えてみないといけないようです。

南禅寺金地院明智門
内側からみた南禅寺金地院「明智門」




 南禅寺金地院

 *所在 京都市左京区南禅寺福地町
 *拝観 大人400円ほか
 *交通 地下鉄蹴上駅下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『国宝重要文化財 大徳寺唐門勅使門 修理工事報告書』京都府教育庁、2003年
 『京都市の地名』日本歴史地名大系27、平凡社、1979年



南禅寺に横たわる“石”を探れば……

洛東




南禅寺


 度重なる火災に悩まされた南禅寺

 “五山の上”として知られる禅刹・南禅寺。その創建は13世紀末までさかのぼり、南北朝時代には五山の第一に、室町時代の至徳3年(1386)には五山の上に位置付けられました。しかし、現在私たちが見る南禅寺の伽藍は、その頃のものとは大きく異なっています。なぜなら、度重なる火災により伽藍の焼失と再建が繰り返されたからです。

 明徳4年(1393)8月に、仏殿・法堂をはじめ全山が焼失。しかし間もなく再建し、旧観に復します。ところが、文安4年(1447)4月、塔頭の竜興庵から火が出、仏殿・法堂・三門など主要伽藍を失いました。残ったのは僅かに風呂だけだったといいます。その後、仏殿を再興しますが、応仁文明の乱で主要伽藍は灰燼に帰しました(1467年)。
 京都に大打撃を与えた応仁文明の乱ですが、南禅寺の再建も時間を要し、慶長11年(1606)に法堂が完成、5年後には御所の殿舎を拝領して方丈を再建。寛永5年(1628)には藤堂高虎により三門が寄進されました。

都名所図会より南禅寺

 これは「都名所図会」(1780年)にみる江戸中期の南禅寺の中心部分。
 絵の右端の門が勅使門(この門については、こちら ⇒ <御所の日御門を移築した南禅寺勅使門は……>)、少し松並木があって三門があり、その左に法堂、さらに方丈が続いています。
 いま南禅寺に行くと、およそこのような景観にお目にかかれるでしょう。でも実は、いくつか違う点があるのですが……


 建て直された法堂

南禅寺 法堂

 まず、法堂です。一重裳階付きで、だいたい「都名所図会」に似た雰囲気です。先にふれたように、江戸時代の法堂は慶長11年に再建されたもので、「都名所図会」に描かれているのも、このお堂です。『新撰京都名勝誌』(1915年)によると、天井には狩野山雪による龍図が描かれ、本尊・釈迦如来、脇侍・文殊菩薩、普賢菩薩、金剛力士、その他に亀山法皇の位牌などを安置していたといいます。

 ところが、この法堂は明治28年(1895)、火災で焼失してしまったのです。再建は14年後の明治42年(1909)。これが現在私たちが見る法堂で、確かに真新しい雰囲気のする造りです。


 三門から見おろすと広場が……

南禅寺 三門

 南禅寺三門です。ふだんから上層を拝観することができます。
 上から見おろすと、こんな風景が。

南禅寺

 奥に法堂が見えていますが、その手前には松が生えたガランとした空間が広がっています。先ほどの「都名所図会」では、三門と法堂が間近にありましたが、実際にはそこそこ離れているのですね。ここが注意のポイントです。

南禅寺

 三門を入って歩き始めると、こんな光景。よく見ると、参道の奥の方が坂になっています。

南禅寺

 実は、法堂の手前は盛土のような高まりになっています。ここを丁寧に見ると、こんなものが見つかります。

南禅寺

 2つの石。上面が平らになっていて、いかにも礎石という感じです。
 逆側にも……

南禅寺

 この計4つに加えて、法堂側にも左右に1つずつあります。
 この石、さらにいくつかあるのか、元の位置から動いているのか、やや分かりづらいのですが、礎石であることは確かなようです。
 実は、かつてここにもお堂があったのですね。


 禅宗寺院の伽藍配置

 京都五山をはじめ大きな禅刹の伽藍配置は、勅使門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に並ぶスタイルです。京都でも、南禅寺、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、大徳寺、妙心寺などがこの形になっています。
 ところが実際に訪れてみると、仏殿と法堂がそろっているところは少ないのです。
 仏さま(釈迦如来など)を祀る仏殿と、住持などが説法を行う法堂は、禅宗寺院でも最も重要な建物です。一方、寺院では火災が多いものですから、焼失後の再建時、財政事情などで仏殿と法堂を2つとも建て直せないことが多々ありました。この場合、両者を兼用する1つのお堂が建てられたのです。

 現在、かつての京都五山で仏殿と法堂がそろっている寺院はありません。五山以外では、大徳寺や妙心寺に両堂が残っています。江戸時代の創建ですが、宇治の萬福寺もそろっています。萬福寺には、仏殿(大雄宝殿)や法堂などの伽藍をつなぐ回廊が残されていて、往時の禅寺の雰囲気をよく伝えています。

 南禅寺も、15世紀の火事で焼けるまで、仏殿と法堂があったのですが(仏殿は2つもあったといいます)、その後、2つがそろって再建されることはありませんでした。
 先ほどの礎石が置かれていた空地は、かつて仏殿があったスペースだったのです。

 現在の禅宗寺院は、広々とした空地を持つお寺が多いのですが、かつては七堂伽藍が建ち並び、それを回廊が結ぶという稠密な空間でした。昔の建物群をイメージしながら訪ねてみると、少し違った禅寺像がわくかも知れません。


南禅寺





 南禅寺

 *所在 京都市左京区南禅寺福地町
 *拝観 境内自由 (三門・方丈等は有料)
 *交通 地下鉄蹴上駅下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年
 『京都の五山寺院-その歴史と系譜-』京都市文化市民局、2009年



三十三間堂の正月行事「通し矢」、昔と今はどう違う?

洛東




三十三間堂通し矢


 正月の恒例行事「通し矢」

 毎年お正月、成人の日ころに行われる三十三間堂の通し矢。2013年は1月13日(日)に行われます。

三十三間堂通し矢

 この通し矢、現在では看板にもあるように「大的大会」と呼ばれていて、京都府弓道連盟と三十三間堂を管理している妙法院門跡の主催事業です。弓を射るのを場内アナウンスでは「奉射」と言っていますから仏事の面もあるのですが、歴とした弓道の全国大会です。
 振袖姿の若い女性が射ることで有名ですが、これは新成人女子の部。新成人男子の部もあり、一般の部もあります。朝の8時頃から始めるようですが、延々2000人くらい射るので、午後3時か4時頃までかかります。寒さの中で全部見学するのは至難の業。

 競技は遠的というもので、60m離れた大きな的を射ます。三十三間堂の西側でやるのですが、お堂の中央やや北から南に向けて射ます。三十三間堂は、南北の長さ(桁行)が約120mありますから、その半分の距離です。

三十三間堂通し矢
 *競技写真は全て2012年1月15日の模様

 射場の北側に集合です。

三十三間堂通し矢

三十三間堂通し矢

 12人横に並んで、一斉に射ます(実際には揃いません)。1人2本矢を持っていて、所要時間は2分ほどでしょうか。2射で何本当たったかを競います。
 
三十三間堂通し矢

三十三間堂通し矢

 的をめがけて射るのですが、競技ですから、もちろん審判が判定します。上の審判写真は女子の部のため、軒並み「×」。的に届かない人も多く、1本当たれば上出来です。2本当たると決勝進出ですが、女子の場合、2012年の例では10人ほどの難関でした。

 見学者は、射場の西側から見ることができます。無料ですので、ぜひどうぞ!


 通し矢は江戸時代に大ブレイク

三十三間堂通し矢(都名所図会)

 この絵は、おなじみの「都名所図会」に描かれた三十三間堂ですが、当然のように通し矢の場面となっています。
 場面のタイトルは「大矢数のてい(体)」。「大矢数(おおやかず)」をやっている様子、くらいの意味です。
 大矢数というと、国文学に詳しい方なら西鶴を思い出されることでしょう。長時間、休みなく俳句を作り続けることを「矢数俳句」などと言い、「大矢数」とも言いました。この呼び名は、一昼夜休まずにたくさん射る通し矢から拝借したネーミングなのです。

 お堂の手前には矢来(柵)が設けられ、見物人が群集しています。「見物さんじき(桟敷)」と記された小屋掛けもあって、今と似ていますね。
 ところが、現在と大きく異なる点があります。まず、射手はお堂の西縁の上に座っています。そして、南の端から北に向けて矢を放っています。絵の左隅に丸印を書いた板が見えますが、これが的なのでしょう。すると、距離も120mほどあるということになります。

 つまり、

 (1)南から北に射た
 (2)縁の上に座って射た
 (3)種目によっては、現在の倍の約120m射た
 (4)的に当てるというより、射通す(距離を射る)ことが目標だった

 などの点が、大きな違いです。

 江戸時代、一昼夜に何本射通すかを競う「大矢数」は人気の超絶競技でしたが、最高記録は8,133本! 毎分9本射通した勘定になる物凄さです。貞享3年(1686)に、紀州の和佐大八郎という若者が成し遂げた記録です。的中率は約6割。縁に座り、上に庇(ひさし)が掛かるという制約の中で遠的をやるわけですから、すごいの一言です。当時は、尾張藩と紀州藩の技比べが過熱していました。
 記録を出した大八郎の奉納額は、今も三十三間堂内に残されていて、見ることができます。


 お堂に当たる矢は……

三十三間堂通し矢

 通し矢が行われた三十三間堂の西縁です。
 当時は、お堂側を向いて縁に座り、まっすぐに射通さねばなりませんでした。右に逸れるとお堂に当たってしまいますし、距離を出すために高く射すぎると上の庇(ひさし)に当たってしまいます。直線的に100m以上射るには、かなりの剛腕が必要でした。
 そのため失敗は数知れず、その失敗対策、つまり建物をガードする必要が生じました。
 それが、下の写真です。

三十三間堂通し矢

 丸く出っ張った柱の部分に鉄板が巻かれています。これを「鎧(よろい)板」などと呼んでいます。
 慶安2年(1649)の修理の際に付けられました。

三十三間堂通し矢 三十三間堂通し矢
(左)刺さった矢の跡が残る (右)南半分だけ取り付けられている

 写真で分かるように、鎧板は南半分だけに付けられています。南から北へ射たためです。
 それでも鉄板に多数の穴が空いていますから、かなり強力な矢だったようです。

三十三間堂通し矢

 こちらは、庇の下にある組物。ここにもガードの鎧板が張られています。
 往時は、これらのプロテクターを掻い潜って多数の矢が刺さったようで、お堂の中には矢が無数に刺さった古材が展示されていて圧巻です。

 三十三間堂も、通し矢という観点で眺めてみると、また愉しいものです。


 三十三間堂通し矢




 三十三間堂(蓮華王院)

 *所在:京都市東山区三十三間堂廻り町
 *拝観:1月中旬の「楊枝のお加持・大的大会」当日は無料 ※平常は一般600円ほか  
 *交通:京阪七条駅より徒歩約5分



 【参考文献】

 「都名所図会」1780年
 『国宝 三十三間堂』妙法院門跡、2009年
 



北野天満宮の十二支の石灯籠は、珍しい逸品





北野天満宮灯籠


 天神さんに初詣

 近年は、縁あって毎年、北野天満宮へ初詣に行っています。もともと“天神さん”へは、母方が近所にあった関係で、子供の頃からよくお詣りしていました。毎月25日の縁日には、たくさんの露店が出て、子供心に楽しかったことを覚えています。

北野天満宮
北野天満宮

 
 十二支の石灯籠が……

 正月や縁日は露店がびっしり立ち並んでいるので、参道の鳥居や灯籠、牛の像などを詳しく見ることができません。ところが、今年はたまたま、一の鳥居の脇に大きな石灯籠が立っているのが目に入りました。

北野天満宮灯籠

北野天満宮灯籠 一の鳥居脇の石灯籠

 年末年始には、この石灯籠に看板がくくりつけられているので、側面から写真を撮っています。
 この灯籠、少々変わっていて、火袋(ほぶくろ)の下にある中台に変わった浮彫りがあります(矢印の部分)。

北野天満宮灯籠

 灯籠は六角形なので、中台は6面あります。その各面に十二支の浮彫りがあるのです。
 1面に2つずつ、計12の動物です。ひと通りご紹介しましょう。

北野天満宮灯籠 子、丑(南)
北野天満宮灯籠 寅、卯(南西)
北野天満宮灯籠 辰、巳(北西)
北野天満宮灯籠 午、未(北)
北野天満宮灯籠 申、酉(北東)
北野天満宮灯籠 戌、亥(南東)

 配置は、南面が子丑で、時計回りに、寅卯、辰巳、北面が午未、さらに申酉、戌亥となっています。
 ふつう、十二支で方位を表す場合、北=子とし、東=卯、南=午などとなるのですが、ここではそれとは関係なく、南から順番に並べています。戦前には、寺社や名所旧跡に方位を示す石標などを設けることがありましたが、これはそういうものとも無関係のようです。

北野天満宮灯籠

 今年のえとの巳。とぐろを巻いたお決まりのポーズです。子、卯、申、酉、戌は、つがいや親子で彫られています。サルは毛づくろいしている様子。辰だけ顔のアップで驚かされます。
 
 十二支を意匠に取り入れた灯籠もあまり見かけませんが、そう古いものとも思われません。よく見ると、下のように刻まれていました。

 北野天満宮灯籠

 「昭和七年十二月」とあります。つまり、1932年。比較的新しいものでした。他に「石積幷ニ/建方奉納/麻田初太郎」と刻まれています。これは石工の名前でしょうか。
 「あぶない!たおれます」の札の下に、何年に再建したと記されているようなのですが、下が見えないので不明。戦後のようで、「施工 柴田石材株式会社」のところだけ読めます。灯籠自体をよく見ると、火袋の一部は新しい石材のようですから、再建時に直したのでしょうか。
 昭和7年当時の願主は、東面に記してありました。

 北野天満宮灯籠

 「千年講」。この講についてはよく分かりません。看板の下をのぞいても、他には何も刻字されていませんでした。昭和7年も暮れに建てられたので、翌8年は酉年です。そのことと何か関係があるのか、これも不明です。
 十二支を刻んだ石灯籠は、まったくないものではないようですが、ほとんど見かけない珍しいものでしょう。

 京都の寺社を歩いていると、思わぬものに出会いますが、この灯籠についてはもう少し考えないといけないようです。




 北野天満宮

 *所在:京都市上京区馬喰町
 *拝観:境内自由
 *交通:市バス北野天満宮前下車、すぐ
 


初詣で皇服茶 - 六波羅蜜寺 -

洛東




六波羅蜜寺初詣


 都七福神・弁天さんの稲穂授与

 京都で初詣といえば、伏見稲荷大社、八坂神社、北野天満宮、平安神宮などが大勢の参拝者を集めますが、私は縁あって六波羅蜜寺や北野天満宮にお詣りしています。今回は、六波羅蜜寺について。

 京都には、都七福神というものがあって、ゑびす神社や松ヶ崎大黒天などがそうなのですが、弁天さんには六波羅蜜寺があてられています。境内に古くから(少なくとも江戸時代には)弁天社があるためです。

六波羅蜜寺初詣

 「弁財天吉祥稲穂授与」とあるように、三が日にお詣りした人には稲穂が授与されます。

六波羅蜜寺初詣

 こんな感じなのですが、さらにえべっさんの福笹のように縁起物を付けることもできます。

六波羅蜜寺初詣  六波羅蜜寺初詣


 左の方はベーシックに熊手と金の俵、右の方は扇でしょうか、ちょっと珍しいです。他にも瓢箪とか宝船とか、いろいろあります。
 この稲穂の授与がいつ始まったか私は不案内ですが、昔の弁天社は小祠だったようで、いつの間にか発展したようです。


 皇服茶の授与も

六波羅蜜寺初詣

 善男善女でにぎわう六波羅蜜寺ですが、正月三が日の行事といえば、やはり皇服茶(おうぶくちゃ)の授与でしょう。昨年(2012年)、境内を少し改修された関係でしょうか、お茶をいただくスペースが奥の方にもできて、広々としていました。

六波羅蜜寺初詣

 こちらが皇服茶です。

六波羅蜜寺初詣 皇服茶

 元旦にくんだ若水で沸かしたお茶で、結び昆布と小梅干が入っています。なんとも言えない味わいですね。もちろん昆布と梅干も食べられます。小さなお守りが付いていて、昨年のものを返納して新しいものをいただきます。

六波羅蜜寺初詣 返納されたお守り

 梅干の種を持ち帰るとよいという話もあって、よく見ると種を返しておられる方もいますね。
 この皇服茶には由緒があります。戦前に発行された鉄道省『お寺まゐり』には、寺伝として次のように記されています。


 寺伝によれば村上天皇の天暦五年(紀元1611年)京畿に悪疫が流行し、死屍累々たる有様を現出したので、空也上人は痛くこれを憐まれ、自ら十一面観音を刻んで洛中を牽巡り、観音に供した典茶を疫人に与へて全快させた。
 偶々村上天皇御悩あり、其茶を得て御平癒になつた。そこで上人は霊験あらたかなるを思つて当寺を創建されたのである。
 皇室では村上天皇以来毎年元旦には此茶を召し服される例となつた。所謂王服茶がこれである。


 空也上人が、天暦5年(951)、京に疫病が流行すると十一面観音像を造立して、鴨東の地に西光寺を開創し、また鴨川原で大般若経を供養したという話はよく知られているところです。上の伝えは、そこにお茶の話をミックスしたような伝承となっています。天皇が服したので“「王」服茶”(「皇」服茶)なのですね。

 ここでひとつ引っかかるのは、茶を飲んだのが村上天皇というところ。村上天皇は醍醐天皇の皇子ですが、実は空也上人も醍醐天皇の皇子であるとの伝承が当時からあったのです。もしかすると、二人は兄弟? という大胆な想像も…… そうしたらお兄さん(勝手に想像)が弟をお茶で救った! などという妄想も広がってきます。

 まあ、冗談はさておき、この話は江戸時代にも流布していて、「都名所図会」巻之二にも記されています(送り仮名、句読点は適宜補いました)。


 村上帝御宇、天暦五年に疫癘時行(はやり)て死するもの数しらず。空也上人これを憐み給ひ、十一面観音の像を作りて車に乗せ、洛中を自身牽きありき給ふ。是当寺本尊也。
 観音に供ずる典茶を疫人にあたへ給へば一同に平癒す。村上帝これを聞こして吉例とし、毎歳元三に服し給ふ。万民今に此例を行ふて名を王服と号し、年中の疫を免るゝとなり。


 先ほどの『お寺まゐり』とほぼ同じですが、こちらは村上天皇自身が病気になったのではなく、病に利くという噂を耳にして毎年元旦に飲むようになった、という話です。「都名所図会」から『お寺まゐり』まで約140年、少しくらいは話の筋が変わって当然です。バリエーションもできるでしょう。

 いずれにしても、古くは、このような皇服茶にまつわる物語が信じられていたわけです。
 少し考えていて気付くことは、10世紀にお茶をどんどん供したというのが、時代的に少しどうかということ。もちろん、それ以前に唐より茶が輸入されているわけですが、果たして村上天皇が茶を喫したのかどうか? 
 しかしおもしろいのは、ここでお茶が「薬」のように考えられていることです。そうすると、この逸話も案外中世くらいまでさかのぼるもので、何かいわれのある話だったりするかも、と想像がふくらみます。

 今年は、そんなことを考えながら、六波羅蜜寺の皇服茶をいただきました。
 皇服茶は、毎年元旦から1月3日まで授与されます。


 六波羅蜜寺初詣





 六波羅蜜寺

 *所在 京都市東山区五条通大和大路上る東
 *拝観 境内自由  宝物館は大人600円ほか
 *交通 京阪電車清水五条下車、徒歩7分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『お寺まゐり』鉄道省、1922年