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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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“小楠公の首塚 ” とは?

洛西




宝筐院


 「太平記」で著名な父子

 嵯峨・清凉寺の山門の前に立つと、門の左に何本かの石碑があることに気が付きます。
 その中の1本がこれです。

宝筐院

 「つきあたり 小楠公御首塚の寺」と刻まれています。昭和13年(1938)に建てられたものです。
 「御首塚」とは何やら不気味なのですが、とりあえず行ってみましょう。

宝筐院

宝筐院

 門前の石標には「小楠公菩提寺 宝篋院」と記されていますが、正しくは「宝筐院」としています。
 紅葉の名所としても知られているのですが、「小楠公」の首塚がある寺としても著名なのです。
 かつて「楠公(なんこう)」といえば南北朝時代の武将・楠木正成を指し、「小楠公」といえばその子・楠木正行(まさつら)を指しました。後醍醐天皇(南朝)方についた親子は、戦前の歴史観では忠孝の模範として喧伝されました。もちろん、戦後の歴史観の中では埋没してしまった人物ともいえます。

 この親子を有名にしたのが「桜井の別れ」でした。最後の合戦に赴く正成は、桜井(大阪府島本町)で、供をしていた11歳の正行を河内の地に返すのでした。この涙の別離が「桜井の別れ」です。「太平記」には、こうあります(長いので、飛ばしてくださいね)。


 楠正成、これを最後と思ひ定めたりければ、嫡子正行が十一歳にて父が供したりけるを、桜井の宿より河内へ帰し遣はすとて、泣く泣く庭訓を遺しけるは、「獅子は子を産んで三日を経る時、万仞の石壁より母これを投ぐるに、その獅子の機分あれば、教へざるに中より身を翻して、死する事を得ずといへり。況んや汝はすでに十歳に余れり。一言耳に留まらば、我が戒に違ふ事なかれ。今度の合戦天下の安否と思ふ間、今生にて汝が顔を見ん事、これを限りと思ふなり。正成討死すと聞かば、天下は必ず将軍の代となるべしと心得べし。しかりといへども、一旦身命を資けんがために、多年の忠烈を失ひて、降参不義の行迹を致す事あるべからず。一族若党の一人も死に残つてあらん程は、金剛山に引き籠り、敵寄せ来たらば、命を兵刃に墜し、名を後代に遺すべし。これをぞ汝が孝行と思ふべし」と、涙を拭つて申し含め、主上より給はりたる菊作りの刀を記念に見よとて取らせつつ、各東西に別れにけり。その消息を見ける武士ども皆感涙をぞ流しける。 (「太平記」巻十六)


 父・正成は湊川の戦いで敗死し、子・正行も貞和4年(1348)に四条畷の戦いで高師直と戦って敗れ、弟の正時と刺し違えて没します。
 寺伝によると、宝筐院の前身である善入寺を中興した黙庵禅師が、正行の首級を同寺に葬ったといいます。いま宝筐院の本堂には、近代の画とは思われますが、「黙庵禅師と楠木正行」「四条畷合戦の図」という2面の絵が掛けられています。


 並ぶ二人の塚

宝筐院

宝筐院

 奥に進み、塋域に入ると、二つの石塔が並んでいます。
 右の五輪塔が楠木正行のお墓です。では、左の塔は誰のものかというと、足利義詮の墓なのです。義詮は尊氏の子息で北朝方なわけですが、黙庵から正行の話を聞き、そばに葬るように依頼したと寺伝にあります。
 のち、当寺は義詮の院号にちなみ、宝筐院と改められたそうです。

 『新撰京都名勝誌』(1915)には、「小楠公首冢」を次のように紹介しています。


 清凉寺の西一町許(ばかり)の竹林中にあり、高さ八尺(約240cm)許の石卵塔にして、楠木正行の首級を埋む。其の傍に宝篋院塔あり、足利義詮の墳墓となす。生前の怨敵こゝに墓田を共にす、一奇といふべし。(後略)


 南朝と北朝に分かれて戦った武将。
 「生前の怨敵」という言葉に重みがあります。


 宝筐院 二つ引両紋と菊水紋

 両家の家紋も並んでいます。


 墓域の復興

 のち荒廃していた墓域を復興したのは、京都府知事・北垣国道でした。

宝筐院

 これは、明治24年(1891)2月に北垣が建立した「欽忠碑」です。

宝筐院

 1行目に北垣国道の名が、2行目に宝筐院の名が見えます。
 北垣の日記「塵海」には、欠落部分もあるせいか、宝筐院のことはほんの僅かしか出てきません。
 現在のように、復興されたのは大正6年(1917)のことだといいます。

宝筐院 墓前の灯籠「精忠」

宝筐院 墓前の灯籠「碎徳」

 楠木正行の「忠」と足利義詮の「徳」。
 戦前の人たちの彼らに対する思いは、この2語にこもっているように思います。




 宝筐院

 *所在 京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町
 *拝観 大人400円ほか
 *交通 JR山陰線嵯峨嵐山駅下車、徒歩約15分



 【参考文献】

 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年



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