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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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蛇を助けて富者になった男の話 - 今昔物語集 -

京都本




 今昔物語集


 へびは「へみ」?

 院政期の説話集「今昔物語集」を読んでいると、へびの話が大変多く登場します。
 有名な南山城・蟹満寺の縁起(へびが娘を嫁に取ろうとするが、恩返しのカニにやられてしまう)や、へびの干物を魚だとだまして売る女の話など、さまざまです。私個人は、後者の話が昔から忘れられず、今昔物語集のへびというと、余り気持ちいい感じがしませんでした。
 今回は、巳年ということで、それを払拭する意味でも、よいへびの話をしましょう。

 その前に「蛇」の読み方について。
 岩波文庫や古典文学大系には、漢字に読み仮名が振られています。もちろん昔の本には振り仮名は基本的にはなく、諸本のうち最も古い鈴鹿本(国宝、京大蔵)にも読み仮名はありません。現在の活字本の読み仮名は校訂者が付けたものなのです。
 手もとの岩波文庫には、「蛇」に「へみ」というルビが振られています。

  へみ?

 いつも読むたびに軽い違和感とオモシロ感が同居していました。今回、せっかくの巳年ですので、調べてみました。
 『岩波古語辞典』には、次のように記されています。

 
 へみ【蛇】 ヘビの古称。「四つの-五つの鬼(もの)の集まれる」<仏足石歌>。「蛇、倍美(へみ)、一云久知奈波、日本紀私記云、乎呂知、毒虫也」<和名抄> (後略)


 そして「へび」の項には「『へみ』の転」とあって、「へみ」が古い呼び方だと記しています。

 『日本国語大辞典』は、「へみ」の語源説を掲載。


 (1)ハヘムシ(延虫)の約[大言海]
 (2)フセムシの反[名語記]
 (3)ハヒムシ(這虫)の義[名語通]
 (4)ハヒ(匍)の義[言元梯]
 (5)ハムの義か[日本釈名]
 (6)ヘビの訛り[加賀なまり]


 はう虫だから「へみ」なのか? ちなみに(1)の大槻文彦『大言海』を見ると、


 へみ(名) 〔延虫[ハヘムシ]ノ約(白虫、しらみノ類)、転ジテへびトナル、(黍[キミ]、きび、夷[エミシ]、えびすト同趣)長虫[ナガムシ]ノ名モアリ〕 虫ノ名。今、へび(蛇)ト云フ。(中略)クチナハ。略シテ、み。


 とあります。なるほど、「へみ」だから略して「み」(巳)か……
 語源説は、なかなか難しいです。

 今昔物語集は平安時代後期ですが、ずっとくだって、ローマ字のヘボン式で知られるJ.C.ヘボンが明治9年(1886)に上梓した『和英語林集成』を開いてみました。すると、そこにも……


 Hemi ヘミ i.q. hebi.


 つまり、「ヘミ ヘビに同じ」。明治初期まで「へみ」という言い方が残っていたのですね。


 へびを助けた男

 そんなわけで、まだ「へみ」と言っていた平安時代ですが、わかりづらいので、ここでは「蛇」で行きましょうか。
 今昔物語集の巻第16は、観音菩薩の霊験譚が集められています。その中の第15が「観音に仕りし人、竜宮に行きて富を得たる語[こと]」です。さっそく筋をたどってみましょう。


 昔、京に年若い男がいた。貧しかったが毎月十八日の観音さまへのお詣りは欠かさなかった。
 ある年の九月十八日、寺参りをしていると、南山科のあたりで、五十歳位の男に出会った。杖の先に何やら懸けているのでよく見ると、一尺ほどの斑の小さな蛇だった。
 若い男が「その蛇をどうするのか」と尋ねると、男は「必要があって取ったのだ」と言う。「何の必要があるのだ」と再び聞くと、「自分は“如意”という孫の手を作っているが、それに使う牛角を伸ばすのに小蛇の油が要るのだ」と答える。
 若い男が「自分の衣を与えるから蛇を譲ってほしい」と言うと、着ていた綿入れと交換に蛇をくれ、「あそこの小池にいた蛇だ」と告げて立ち去った。
 蛇をもらった男は、その蛇を池に放してやった。

 二、三町ばかり歩いていると、綺麗な衣を着た若い女に出会った。こんな山深くで、と不思議に思ったが、女は「私はあなたの優しい心にお礼がしたくて参ったのです」と言う。実はこの女、先ほどの蛇だった。
 女は、父母も礼を言いたいのでと、むりやり男を連れて行こうとする。男はためらったが、池のほとりまで来てしまった。女は「しばらく目を閉じていてください」と言い、再び男が目を開けると、そこには都にもないほどの見事な門や宮殿が広がっていた。

 「ここは極楽か」と思うほどに、六十歳位の老人が現れた。老人が語るには「世の中の親で子を可愛く思わない者はない。今日の昼、末娘が池の辺りで遊びたいというので、制したけれども聞かないから遊ばせているうちに、人に捕らわれて死ぬところだった。そこに、あなたが通りがかって命を助けてくれたのだ。とても嬉しく思うので、御礼を申し上げたい」。
 男は、これが蛇の親かと思った。そのあと、主の老人はうまい食べ物を沢山出してくれた。
 老人は、「自分は竜王である。そこにある箱を差し上げる」と言った。開けてみると、厚さ三寸もある黄金の餅がひとつ入っている。老人はこれを半分に割り、半分を箱に入れ、半分を男に渡した。この餅を大切に端から使っていけば、一生のあいだ生活に困ることはない、というのだ。
 男が帰ると言うと、娘が送ってくれた。娘は重ねて礼を言うと、かき消すようにいなくなった。

 家に帰った男は、家人から何日も不在だったことを教えられた。そのあとは、ひそかにこの餅を割りながら用を足していくと、暮らしに困ることはなく、ついには富人になった。餅は使っても使っても、また元のように戻った。男は、いよいよ観音への信仰を篤くしたという。


 蛇を助けて富者となった男の話です。
 どこかで聞いたような、けれども楽しいストーリーに心ひかれます。


 放生ということ

 物語としては、いちおう観音信仰の大切さを諭すものと考えられますが、それ以上に強く感じるのは、生き物を助けて放してやるという行為が強調されていることです。
 次の巻第十七には、虎の子の金を払って亀を助けたおかげで、冥途から帰還できた男の話が載っています。これも地蔵信仰の尊さを諭すものですが、亀というところが、蛇以上に「放生(会)」という行為を連想させます。 

 今回、この話を思い出したのは、お寺にある放生池のことを考えていたからです。お寺にある仏像や建築は多くの人達の関心をひくけれど、池のことは余り興味を持たれません。けれども、多くのお寺には池があります。たとえば京都の禅寺の多くには池があり、その多くは総門と三門の間に設けられているわけですが、これを放生池と呼ぶ寺院(妙心寺、天龍寺など)と、そうでない寺院があるようです。そして、そもそもこの池は放生(会)のための場なのかという疑問もわいてくるのですが、私には少し難しいので置いておきましょう。

 いずれにせよ、院政期には、庶民生活に組み込んで生き物を助け放すという物語が自然にできたわけで、このことには感心させられます。
 
 今昔物語集には、若くして死んだ女の子が蛇に化身して、生前愛していた庭の木の下に現れる話もあります(巻第十三・第四十三「女子、死にて蛇の身を受け、法花を説くを聞きて得脱せる語」)。今日よりずいぶんと、へびが身近だったような気もします。
 巳年に、へびの物語を少し繙いてみましょうか。


放生池(萬福寺) 放生池





 書 名:今昔物語集 本朝部(上)
 出版社:岩波書店(岩波文庫)
 刊行年:2001年 



 【参考文献】
 大野晋ほか編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年
 大槻文彦『新編 大言海』冨山房、1982年 
 『日本国語大辞典』小学館、1972年
 J.C.ヘボン『和英語林集成』講談社学術文庫、1980年



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萬福寺の聯と額は、京都人の憧れの的

宇治




都名所図会・萬福寺


 「都名所図会」の特異な項目

 近世京都のヴィジュアルガイドとして誰もが知っている「都名所図会」(1780年刊)。
 数多くの挿絵は見ているだけで楽しいのですが、そんな中で少し変わった項目があります。宇治の黄檗山萬福寺。「都名所図会」は、こう説明し始めます(句読点は適宜補いました)。


 黄檗山萬福寺ハ五箇庄ノ南にあり。開山隠元和尚は大明福州福清の人にして、姓ハ林氏、諱[いみな]ハ隆琦、字[あざな]ハ隠元なり。本朝、承応三年[1654]に東渡し、万治二年[1659]、公命によつて山城国宇治郡大和田の勝地を賜り、寛文元年[1661]九月より伽藍を草創し、精舎の経営多くハ異風を模し、名[なづけ]て黄檗といふ。同十三年[1673]四月二日、後水尾上皇より大光普照国師の号を賜ふ。


 と、ここまではごく普通の書きぶりです。しかし、ここから次が違うのです。

都名所図会・萬福寺

 右のページの6行目から、がらっと調子が変わり、何やら四角い枠囲みの文字が頻出します。「都名所図会」の他の箇所にない特異な構成です。

 その冒頭の部分。

都名所図会・萬福寺

 「漢門 惣門をいふ 【第一義】 漢門の額なり。高泉の筆。【宗綱済道重恢郭】【聖主賢臣悉仰尊】 漢門の柱の聯なり。高泉の筆」

 枠囲みの文字は、額や聯[れん]の文字で、枠は額や聯の形をそのまま写し取ったものなのです。
 「聯」とは聞きなれない言葉ですが、建物の柱や壁の左右に一対で掛けられる板で、含蓄のある禅語などが書かれています。
 上の7文字×2行の聯は、「隠元隆琦禅師は、臨済義玄禅師が中国で開かれた臨済禅の教えを、ここ日本の黄檗山萬福寺で再び広く大きく唱えられ、その教えを聴かれた天皇をはじめ臣下の人たちは誰れもが心の底から仰ぎ尊んだ」(中尾文雄訳)という意味です。

萬福寺
 「漢門」と記されている萬福寺総門(重文)


萬福寺
 左右の柱に、縦長の板が取り付けられている。これが「聯」

萬福寺

 高泉が書いた「第一義」の額です。この額には有名なエピソードがあって、一所懸命に書く高泉に対し、見ていた弟子が何度もダメ出しをしたので、高泉は何十回と書き直しを余儀なくされたそうです。そして、弟子がトイレに立った隙に書いた一枚が、弟子にもOKをもらえて、ここに掛かっているのだそうです。禅の高僧といえども、なかなか大変……


 重要文化財の額と聯

 萬福寺の額や聯は、その建築同様に、重要文化財に指定されています。額40面、聯44対、榜牌13面、それらの下書き14幅です。
 「都名所図会」には、たいへん多くの額・聯が収載されていますが、数えてみると、額が19面、聯が11対(つまり22枚)に過ぎず、実際の半分も収録していないことが分かります。さすがに、スペースの都合もあったのでしょう、最後のあたりはこんな調子になります。

都名所図会・萬福寺

 「【通玄】 開山堂の門の額なり。隠元の筆。 【開山堂】 同堂の額。木庵の筆。聯これを略す」

 なんと、聯はあるけれど省略する、というのです。

萬福寺
 開山堂(重文) 額のほかに聯が掛けられている

 スペースの都合もあるし、読まされる方も、さすがに見開き一杯が精一杯かも知れません。


 黄檗の名僧たちは、書の達人

 この細かい項目を読んでいくと、多くの人名が出てきます。

 高泉[こうせん]、隠元[いんげん]、木庵[もくあん]、千呆[せんがい]、即非[そくひ]、費隠[ひいん]、大鵬[たいほう]らです。
 彼らは、中国から来日した僧で、即非如一を除いて萬福寺の住持を務めました。隠元隆琦は初代、木庵性瑫は二代、高泉性潡は五代、千呆性侒は六代、大鵬正鯤は十五代と十八代です。
 なかでも、隠元、木庵、即非は「黄檗三筆」とも称される能筆でした。彼らの書は、豪放かつ伸びやかで、御家流に飽き飽きしていた? 日本の文化人の目にはとても新鮮に映ったのです。

萬福寺

 これは、通玄門に掛かる「通玄」の書。隠元によるものですが、太くて丸みを帯びた字は、ちょっと大胆不敵で、とらわれない印象を与えますね。

萬福寺

 三門です。額の「萬福寺」は開山・隠元の手になります。これは一山を代表する雄渾の書。
 聯は、木庵のもの。

萬福寺

 三門の上層にも、隠元による山号の額が掛けられています。

 こちらは、即非。

萬福寺

 天王殿の背面に掲げられていて、「威徳荘厳」とあります。わりと、かっちり書いていますね。

 こちらは、木庵。

萬福寺

 お釈迦さまを意味する「萬徳尊」。大雄宝殿の背面に掛けられています。これは、なかなか雄大な字で感心します。

 最後は、千呆。

萬福寺

 「栴檀林[せんだんりん]」と書かれた額。三門の内側にあります。
 いずれも堂々たるもので、明末の書風がうかがえます。


 京都人の中国への憧憬

 ここで最初に戻って、なぜ「都名所図会」にこのような額や聯が延々と掲載されたかについて考えておきましょう。

 これはひとえに、当時の京都の人達の中国文化への憧れに由来すると思われます。古代、中世、近世と、中国は文化の先進地で、日本人はそれに憧憬を抱き、輸入してきました。江戸時代、長崎の出島が西洋文化の窓口であったように、宇治の萬福寺は中国につながる扉だったのです。
 17世紀前半の中国は、王朝交代に揺れていました。1644年に明が滅亡し、清王朝が成立します。その中で、明から日本へ「亡命」して来る人達もいました。長崎や宇治の萬福寺に来た僧侶たちもそうでした。
 萬福寺には、彼らが持ち来った多様な文化事象があふれました。大陸の精進料理である普茶料理、売茶翁により広められた煎茶、黄檗様と呼ばれる建築様式、范道生による異国風の仏像、中国語による読経や梵唄、木魚など中国風の仏具等々。これらのすべてが日本文化に浸透したわけではありませんが、文化的刺激を与えたことは間違いありません。書も、そのひとつだったのです。

 近世京都人の中国への憧憬、言い換えれば中国趣味(シノワズリー)が「都名所図会」にこんな特異なページを作らせてしまったのです。


萬福寺 魚梆



 萬福寺

 *所在 宇治市五ケ庄三番割
 *交通 JR・京阪電車黄檗駅より、徒歩約5分
 *拝観 大人500円ほか



 【参考文献】

 「都名所図会」1780年
 中尾文雄『黄檗山の聯と額』黄檗宗務本院、1990年
 田中優子『江戸はネットワーク』平凡社、1993年
 九州国立博物館『特別展 黄檗 京都宇治・萬福寺の名宝と禅の新風』西日本新聞社、2011年



聚楽第跡の石垣発掘は、秀吉の栄華を彷彿させる





聚楽第跡発掘現場


 年の瀬の現地説明会

 2012年12月22日付の各紙朝刊は、「聚楽第石垣 東西に32メートル」(京都)、「豪奢『聚楽第』石垣」(毎日)などと、聚楽第跡の発掘で石垣が出土したニュースを報じました。地元の京都新聞は一面の扱いです。

京都新聞2012年12月22日付 京都新聞(2012年12月22日付朝刊)

 その現地説明会が12月24日にあったので、早速行ってきました。軽く千人を超える見学者があったようで、関心の高さがうかがえます。
 調査地は、上京区上長者町裏門東入る須浜町の京都府警施設の用地で、中立売通智恵光院を下ったところになります。

 聚楽第(じゅらくだい)は、関白となった豊臣秀吉が、かつて大内裏のあった内野に造った邸宅で、堀と石垣を廻らした城郭でした。天正14年(1586)から翌年にかけて造営され、天正16年(1588)には後陽成天皇が行幸するなど、秀吉の権力の象徴となりました。その3年後には、関白の座と聚楽第を甥の秀次に譲ります。しかし、秀頼誕生後の文禄4年(1595)には秀次を追放して切腹させ、聚楽第も破却されたといわれています。
 
 これまでの研究で、聚楽第は内郭と外郭からなる広大な城郭で、内郭は本丸、北之丸、西之丸、南二之丸から構成されていたことが分かっています。特に本丸は、南北約400m、東西約300m(現在のほぼ一条通-下長者町通、大宮通-裏門通にあたる)、四方を堀に囲まれていました。
 今回発掘が行われたのは、本丸の南堀の北面あたりで、本丸のセンターラインから少し西の部分です。


 見事な石の列が出土!

聚楽第跡発掘現場

 出土した石垣の全貌です。左が北。東西に約32mにわたって延びています。
 石(花崗岩)は3、4段残っており、最大の高さは2.3mでしたが、上部は破壊されているので本来の高さは分かりません。傾斜角は約55度だそうです。
 注目されるのは、石の露出している面(写真では右側面=南側面)が、ピシッとそろっていることです。実に見事に直列させています。

聚楽第跡発掘現場

 ところが、この写真でも分かるように、ここに使われている石は全て加工していない自然石ばかりなのです。平らに加工した石をそろえて並べるのは容易ですが、自然石の平たい面をそろえて直線を造るのは、独特の技術が必要です。現代人には計り知れない“石を視る目”を感じさせます。

 聚楽第跡発掘現場

 また、石の内側(写真では右側)には、細かい小石が詰められています。これはクリ石(栗石)と称されるもので、石垣の裏込めです。大きな石と地山との間に詰め込んで、安定をはかっています。

聚楽第跡出土栗石

 栗石。およそ、こぶし大くらいの石でした。

聚楽第跡発掘現場

聚楽第跡発掘現場

 石垣の東の端です。西から東に行くにつれ、石が大きくなっていくことが指摘されています。これは、この調査地点のさらに東が、本丸の中軸線にあたり、門が置かれていたと想定されるからです。門の左右には、やはり大きな石を配して豪華に見せるのでしょう。
 

聚楽第のセンターラインは日暮通

 聚楽第本丸のセンターラインは、現在の日暮(ひぐらし)通の僅かに西です。
 聚楽第は、秀吉の怒りによって、ことごとく破壊されたと言われていて(今回の発掘では、完璧にまで破壊し尽されたとは言い切れないようですが)、後世、付近では跡形はないとされてきました。
 ただ、聚楽第をしのぶよすがとして、数々の地名が残されています。今回の調査地は「須浜町」で、なにやら庭園の須浜を思わせます。また、旧正親小学校東側の街路は「裏門通」と呼ばれていますが、これは聚楽第の裏門の意味だといいます。「東堀町」は本丸の東堀跡にほぼ相当しますし、「北小大門町」「黒門通」なども名残りの地名でしょう。
 中軸線上の町名が「日暮通」になったのは、聚楽第にあった「日暮門」に関係あると考えられます。

 京都で日暮門といえば、第一に西本願寺の唐門を想起します。

西本願寺唐門
  西本願寺唐門(国宝)

 この門は、秀吉は秀吉でも伏見城の遺構とされています。
 いまひとつは、この門。

日本古建築菁華より大徳寺唐門 
  大徳寺唐門(国宝)[『日本古建築菁華』上より]

 大徳寺の唐門です。こちらも日暮門と呼ばれており、これは「都名所図会」を見ても分かりますね。

都名所図会より大徳寺ひぐらし門
  「日くらしの門」とある(「都名所図会」)

 この門については、別の回に取り上げたのでご覧ください。 ⇒ <国宝・大徳寺唐門は、聚楽第の遺構>

 大徳寺唐門は、聚楽第遺構であることがほぼ確実視されています。そして別称も「日暮門」。では、これが問題の日暮門であるかというと、どうもそう簡単にはいかないようなのです。
 近世の地誌「山州名跡志」(1711年刊)には聚楽第の日暮門について「此門後ニ高松殿ノ曠門トナス。承応二年【1653】六月二十三日ニ炎上ス」とあります。高松殿というのは、後陽成天皇の皇子・好仁親王の邸を指すと考えられ、この記載を信じれば、17世紀半ばの火災で焼失してしまった、ということになります。

 「日暮門」という呼称は、一般名詞ですから(日光陽明門もそう呼んだりします)、いろいろな門に付けられても不思議ではありません。
 研究によると、聚楽第の日暮門の幅は大徳寺唐門の幅より大きかったとも考えられていて、いくら呼び名が同じでも、大徳寺の門をすぐさま聚楽第日暮門とはいえないようなのです。


 聚楽第の実像が浮かび上がる成果

 今回の発掘調査は、聚楽第の大規模な遺構が確認されたということで、たいへん貴重です。出来得るならば、京都府の英断でこの石垣遺構が現地保存されることを望みたいものです。

聚楽第跡碑(正親小学校前)

 調査地に程近い旧正親(せいしん)小学校。北東角に「此附近 聚楽第址」の碑が建てられています。私の父は、その昔この小学校に通っていたので、今回の発見は私にとっても感慨深いものがあります。研究の更なる深化をまちたいものです。




 聚楽第跡調査地

 *所在 京都市上京区上長者町裏門東入る須浜町
 *見学 現在は非公開
 *交通 市バス智恵光院中立売より、徒歩約5分



 【参考文献】
 「聚楽第跡 現地説明会資料・2」京都府埋蔵文化財調査研究センター、2012
 京都市埋蔵文化財研究所監修『京都 秀吉の時代~つちの中から~』ユニプラン、2010年
 「都名所図会」1780年
 岩井武俊『日本古建築菁華 上』便利堂コロタイプ印刷所、1919年



御所の日御門を移築した南禅寺勅使門は、蟇股の細工が見どころ

洛東




南禅寺勅使門


 開かない門

 みなさんは、南禅寺に入るとき、どの門から入るでしょうか?
 ふつうは中門ですよね。

南禅寺勅使門

 この右側の門です。
 写真をよく見ると、左にも門がありますね。これが今回取り上げる勅使門です。

南禅寺勅使門

 湯豆腐店などがある参道を歩き、中門に近づくと、左手に近年改築された南禅寺会館と駐車場があります。かまわず駐車場の中に入って東を見ると、この光景になります。奥に、勅使門が見えています。
 石橋が架かっていて、その左右は池なのです。

南禅寺勅使門

 この蓮池、「拳龍池」といいます。
 京都の主な禅寺では、ふつう勅使門・総門と大きな三門の間に池があります。ところが、南禅寺では勅使門・中門の手前に池があります。理由はよく分かりませんが、これは変わっていますね。もしかすると、南禅寺の惣門は、ここから西方(現在は500m以上西)にあるので、ここが惣門と三門の間ということなのでしょうか……

 このあたりまでは、一般の観光客は来られません。確かに、勅使門は閉ざされていて通れないため、誰も来ないのでしょう。しかし、重要文化財に指定されている格調高い門なのです。


 御所の門を移築

 別の回で、御所の門を移築した大徳寺勅使門について紹介しました。
 
 記事は、こちら! ⇒ <御所の門を移築した大徳寺勅使門は、桃山の彫刻が美しい>

 天正19年(1591)以降、幕末まで9回造替された御所ですが、天正19年、慶長18年(1613)、寛永19年(1642)は火災による建て替えではなかったため、旧建物が各所に下賜されました。
 南禅寺の勅使門は、慶長18年に造られた御所の日御門(ひのごもん)が、寛永18年(1641)に下賜されたものです。

南禅寺勅使門
  南禅寺勅使門(重文)

 このことについては、記録的にも明らかで、たとえば勅使門の棟札には次のように記されています。

 「禁中日御門拝領 寛永第十八歳舎 辛己 九月如意珠日建立 住持比丘元良誌焉」

 棟札の「元良」とは、南禅寺274世、塔頭・金地院の最岳元良のこと。彼が記した「金地目録」にも、京都所司代・板倉重宗らに仲立ちを依頼し、御所の門を拝領したことが書き留められています。
 
 日御門は、内裏を囲む築地塀に東向きに開く門で、幕末の安政の造営以降は「建春門」と呼ばれています。かつては切妻造の四脚門でしたが、寛政の造営からは切妻の屋根に軒唐破風を付けた華麗な門になりました。

 現在の建春門は、安政2年(1855)竣工です。大きな軒唐破風が付いています。

京都御所建春門
  京都御所の建春門


 細かい彫刻に注目!

 南禅寺の勅使門は、慶長18年築というだけあって、桃山時代の建築らしい華やかな装飾が施されています。

南禅寺勅使門

 まず、ちょっと驚くのは頭貫の木鼻です。

南禅寺勅使門

 おそらくは、渦を巻く二つの牡丹が刻まれており、上部には小さな蕾もあります。類例では、二条城二の丸御殿の唐門にも同様の牡丹文があり、桃山時代らしい意匠です。ある種モダンな斬新さをたたえていて、現代にも通用するようなデザイン感覚です。

 妻飾を見てみましょう。

南禅寺勅使門

 蔐懸魚(かぶらげぎょ)ですが、左右に延びたヒレはやはり牡丹文のようです。なかなか均整が取れていて美しいですね。蔐懸魚もまた桃山時代の特徴を表しています。

南禅寺勅使門

 大瓶束(たいへいづか)。下端の結綿が意匠的になっており、これも二条城の唐門と類似しています。

南禅寺勅使門

 飾金具には菊文を押していて、御所らしく煌びやかです。


 蟇股は動物で満載!!

 次に、見どころである蟇股(かえるまた)。見上げると、こんな感じになっています。

南禅寺勅使門

南禅寺勅使門

 これは、冠木上の中央にある龍の彫物。躍動感のある、なかなかの力作です。この門の蟇股の中でも頭抜けています。

 繋虹梁の蟇股にも彫刻があります。

南禅寺勅使門

南禅寺勅使門

 上は孔雀。下は、鳥の種類は分かりかねるのですが、ひな鳥に餌をやっているところ。背景は牡丹文です。しかし、この鳥、クジャクなのかキジなのかハトなのか、むずかしいですねぇ。尾も長いし、右の羽根を拡げた孔雀と対だと考えれば、これは雌の孔雀かな?
 龍に比べると、かなり写実で劣っていて物足りません。

南禅寺勅使門

南禅寺勅使門

 これは、ともに麒麟。頭が大きめで、やや拙い感じにも……
 桃山から江戸時代にもなると、彫刻もあらゆる意匠で彫ってきます。ちなみに、各蟇股の見返し(裏面)は別の意匠になっていて、表裏で二度楽しめます。

 南禅寺というと、“絶景かなぁ”で有名な三門に注目が集まるのですが、ぜひ勅使門にも足を運んでみて、細かい彫刻に目をこらしてみてください。


南禅寺勅使門




 南禅寺 勅使門(重文)

 *所在 京都市左京区南禅寺福地町
 *拝観 境内自由 (三門・方丈等は有料)
 *交通 地下鉄蹴上駅下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『重要文化財南禅寺三門並びに勅使門修理工事報告書』京都府教育委員会、1982年
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944年


ひと口に「伽藍配置」というけれど…… - 本法寺ほか -





本法寺


 教科書で「伽藍配置」とよく聞くが……

 「伽藍(がらん)配置」とは、<寺院における建物の配置>のことです(『建築学用語辞典』)。古代寺院の建物配置に用いられることが多く、学校の「日本史」の教科書でも、古代の文化史で登場します。
 そこでは、塔や金堂、講堂がどういうふうに並んでいるかで、飛鳥寺式、四天王寺式、法隆寺式、薬師寺式、東大寺式など、代表的寺院のパターンに分類されます。
 日本史の教科書では、伽藍配置の話は古代で終わり、私も記憶がはっきりしないのですが、中世の禅宗の部分などでは伽藍配置の話は出て来なかったようにも思います。

 伽藍配置を建物の配置と捉えるなら、中世だって近世だって近代だって、あるはず。たとえば、藤田勝也ほか編『日本建築史』には、「伽藍構成」の項を立てて、1.飛鳥・奈良仏教の伽藍、2.平安密教の伽藍、3.浄土教伽藍、4.中世の密教寺院と禅宗伽藍、5.浄土宗と浄土真宗、日蓮宗の伽藍 と、江戸時代まで取り上げています。


 江戸時代の浄土真宗の伽藍配置

 今回は、ビジュアルな「都名所図会」(1870年)を使って、京都における浄土真宗と日蓮宗の伽藍配置を見てみましょう。

都名所図会より西本願寺
 西本願寺

 浄土真宗では、西本願寺(浄土真宗本願寺派)、東本願寺(真宗大谷派)とも、阿弥陀堂と御影堂(ごえいどう)が左右に並ぶ構成を取っています。よく知られているように、西本願寺では右が阿弥陀堂、左が御影堂ですが、東本願寺では左右反対になっています。
 上の図でよくわかるように、西本願寺では、右に「阿弥陀堂」があり、左に大きな「本堂」(御影堂)があります。そして、それぞれのお堂には正面に門があります。門の様式も異なっていて、阿弥陀堂が切妻造に軒唐破風を付けた華やかな門、御影堂は入母屋造の大ぶりの門になっています。
 阿弥陀堂は宝暦10年(1760)、御影堂は寛永13年(1636)の建築で、この「都名所図会」に描かれたものが今日まで伝えられています。

都名所図会より東本願寺
 東本願寺

 東本願寺は、右に「本堂」(御影堂)、左に「阿弥陀堂」という構成。立派な御影堂には重層の「大門」付き、阿弥陀堂には軒唐破風付きの平唐門が構えられています。ここに描かれている堂宇は焼亡し、現在の両堂は明治28年(1895)に竣工したものです。

 東西本願寺ともに、阿弥陀堂は名前の通り阿弥陀如来を祀るお堂。いまでは阿弥陀堂と呼ばれていますが、本堂などと呼ばれたこともあり、少しややこしいのです。御影堂は、「都名所図会」には「本堂」と記されていますが、一般には祖師堂や大師堂というべき建物で、宗祖・親鸞上人の御像を安置しています。

 絵からわかるように、門とお堂の間に、広大な空地が拡がっています。例えば、西本願寺の御影堂は、外陣が441畳、1,200名以上が入れ、阿弥陀堂の外陣は285畳、800名以上が参拝できます。堂前のスペースも、これら大勢の参詣者に対応して設けられたものです。
 京都市内では、同じ浄土真宗の興正寺や仏光寺も、このようなスタイルを取っています。


 日蓮宗の伽藍配置は

 これに対して、日蓮宗の伽藍配置はどうなっているのか、上京区にある本法寺を例に見てみましょう。

都名所図会より本法寺
 本法寺

 画面左上の大きな建物が本堂、その右斜め下の屋根が二重に見える建物が「祖師堂」(開山堂)です。そして、本堂下方には多宝塔が見えます。
 建物が本願寺のように横並びにはならず、L形になるように配置されています。
 この本堂と開山堂前の広いスペースが“参拝者だまり”になっているのです。

本法寺
 本法寺本堂  桁行七間、梁間七間、正面・背面に向拝を付けた大きな本堂。文化3年(1806)頃築

本法寺
 本法寺開山堂  祖堂と拝堂の複合建築で、拝堂は二重の屋根。寛政8年(1796)頃築

本法寺
 本法寺多宝塔

本法寺
 本法寺鐘楼・経蔵 

 建物自体は天明の大火(1788)後に再建されたものです。その外観は、本堂は和様に、開山堂は禅宗様にと、使い分けられています(細部はそうでもないのですが)。江戸時代の日蓮宗では、こういうケースも多かったといいます。

 本法寺のような建物の配置は、日蓮宗にしばしばみられるパターンで、妙顕寺や本圀寺などもそうでした。

都名所図会より本圀寺
 本圀寺

 本圀寺(ほんこくじ)は、堀川六条あたり、つまり西本願寺の北に広大な寺地を持っていた日蓮宗寺院でしたが、戦後荒廃し、山科区に移転しました。
 このお寺も天明の大火で焼けたので、「都名所図会」にはそれ以前の伽藍が描かれています。本法寺と同じく、本堂(南面)と祖師堂(西面)がL形に配置され、その前が大きな広場になっています。
 火災後は、祖師堂は再建されたのですが、本堂は再建されないままだったそうです。

 ひと口に「伽藍配置」といっても、時代によって宗派によって、スタイルは異なります。寺の立地、宗派の儀式、参拝者の動向など、いろんな要因で変わっていくようで、興味がわいてきますね。




 本法寺

 *所在 京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町
 *拝観 境内自由(庭園等は有料)
 *交通 市バス堀川寺之内下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 『建物の見方・しらべ方 江戸時代の寺院と神社』ぎょうせい、1994年
 藤田勝也ほか編『日本建築史』昭和堂、1999年
 『建築学用語辞典』岩波書店、1993年



「活断層」の提唱につながった奥丹後地震の郷村断層





郷村断層


 昭和2年の大震災

 昭和2年(1927)3月7日、午後6時27分、京都府北部を震度6の激烈な揺れが襲いました。奥丹後(北丹後)大地震です。
 震源は京都府竹野郡(現在の京丹後市網野町)の郷村で、マグニチュード7.4の地震でした。

 この年は、3月といっても寒さが厳しく1mもの残雪があり、家庭では暖を取っていた上に、夕食の時間帯であったことも重なって、揺れのあと各所で火災が起こりました。倒壊した木造家屋は次々と燃え上がり、峰山町や網野町を中心に、2,925名もの人たちが亡くなり、負傷者7,806名、全壊家屋は12,584棟、焼失家屋は8,287棟など、甚大な被害が出ました。特に峰山町では、実に家屋の9割以上が全壊・全焼し、住民の1/4が亡くなるという惨事となりました。


 保存された3つの断層

 京都市内で生まれ育った私も、小学生の頃から、この地震について知っていました。それは、「郷村断層」という言葉とともに知っていたのです。

郷村断層
  郷村断層のうち小池断層

 郷村(ごうむら)断層。
 郷村は、断層ができた場所の地名です。
 奥丹後地震には2つの断層があって、郷村断層と山田断層がそれにあたります。そのうち、将来の研究材料とするため保存された場所が3か所あります。郷村断層のうちの小池断層、樋口断層、生野内断層です。
 上の写真は、小池断層です。国の天然記念物に指定されているので、このような石標が立っています。

 下は、小池断層の案内板に掲出されている当時の写真です。

郷村断層

 人が立っているところは道路なのですが、手前と大きくずれていることがわかります。左右方向に約3m、垂直方向には約80cmのずれが生じたそうです。完全に道路が食い違っているところに、地震の力の大きさが実感できます。このずれた道を保存して、下の写真のように「起点」と「転位」の2本の石標を立て、水平のずれ幅を示しています。

郷村断層
  約3mの幅で動いた

 他の断層は、風化を防ぐために覆い屋をかけて保存されています。

郷村断層

 樋口断層です。ガラス張りをのぞくと、

郷村断層

 このように断層が残されています。樋口断層は、上下方向では60cm動いたそうです。


 「活断層」は、ここから生まれた

 郷村断層は、日本海に面した網野町浅茂川から、郷村、峰山を経て、大宮町の口大野に至る18kmの断層です。活断層は、1000年間の平均変位量で、AAからCまでの等級付けがなされています。郷村断層は、そのうちのC級なのだそうです。

 しかし地震研究史の上では、郷村断層は大きな意義を持っています。それは、現在さかんに使われる「活断層」という概念が、この断層をきっかけに定義されたからです。
 東京帝国大学の多田文男は、奥丹後地震後、雑誌「地理学評論」(1927)に、「活断層の二種類」という論文を寄せ、冒頭で次のように述べています。


 極めて近き時代迄地殻運動を繰返した断層であり、今後も尚活動す可き可能性の大なる断層を活断層と云ふ。


 これが現在でも通用している活断層の定義です。ちなみに、「極めて近き時代」というのは、あくまで地質学的な時間感覚で、数十万年から数百万年という単位だそうです。

 昭和4年(1929)12月、郷村断層は国の天然記念物に指定されました。時を同じくして、峰山の小高い丘の上には丹後震災記念館(京都府有形文化財)が建設されました。また、記念館の脇をはじめ、各所に記念碑が建立されています。
 この頃は、関東大震災(1923)や、兵庫県の豊岡、城崎などに大被害を与えた北但馬地震(1925)など、大地震が頻発していました。人びとは、それを忘れないために、さまざまな形見を残したのです。関東大震災でも、昭和5年(1930)に震災記念堂(墨田区)が建てられています。

 昭和7年(1942)刊の旅行案内書『日本案内記 近畿篇 上』は、郷村断層を詳細に紹介し、その意義を次のように述べています。


 従来地震に際し断層を生じたことはその例が稀ではない。しかし明かに花崗岩を切断して滑面を生じ、且地層運動のため生じた条線を印したことは未だないから、天然記念物として指定されたのである。
 (一)と(三)[樋口断層と生野内断層]は保存のため、家屋を設けてこれを覆ひ、(二)[小池断層]は石柱を建てゝ滑面、条線、転位を明かにしてある。


 峰山の震災記念館は、学生時代に一度訪ねたのですが、当時はひっそりと静まり返っていました。いま、改めて訪ねてみたい気がしています。




 郷村断層(天然記念物)

 *所在 京都府京丹後市網野町郷、高橋、生野内
 *見学 自由
 *交通 北近畿タンゴ鉄道網野駅下車、丹後海陸交通バス間人線で高橋下車、徒歩



 【参考文献】
 『日本案内記 近畿篇 上』博文館、1942年
 「地理学評論」第3巻下、1927年
 『網野町誌』上、網野町役場、1992年 



御所の門を移築した大徳寺勅使門は、桃山の彫刻が美しい





大徳寺勅使門


 近世の京都御所造営

 京都御所というと、平安京の昔から今の位置にあるように錯覚されがちですが、かつての内裏はもっと西、現在の千本通に近い場所にありました。
 南北朝時代、里内裏だった土御門東洞院殿が皇居に定められて以来、そこが御所となりました。
 もちろん、建物もたびたび改築されてきました。あるときは火事による焼失で、あるときは時の権力者による新築などで。近世だけでも、次のように頻繁に造替が行われました。

 天正19年(1591)
 慶長18年(1613)
 寛永19年(1642)
 承応 4年(1655)
 寛文 2年(1662)
 延宝 3年(1675)
 宝永 6年(1709)
 寛政 2年(1790)
 安政 2年(1855)

 天正は豊臣秀吉による造営、慶長は徳川家康、寛永は徳川幕府による造営でした。しかし、承応以後は、火災による焼失で新築されたものです。
 そこで、私たちの興味をひくのが、天正・慶長・寛永の御所の建物が寺社などに下賜されて残されていることです。

 たとえば、この建物。

仁和寺金堂
 
 仁和寺金堂(国宝)です。桁行七間、梁間五間、入母屋造の堂々たる建築ですが、これは慶長18年(1613)に造営された御所の紫宸殿でした。木造建築は、ばらして運べば、また組み立てられますから、このように移築できます。
 仁和寺では、他にも御影堂が慶長の清涼殿を移したものとされています。
 また、南禅寺方丈は天正19年の内裏の建物ですし、同じく南禅寺勅使門は慶長18年の内裏の門でした。このように、京都の各所に御所の旧建物が移築されて、現存しているのです。

 そして、今回取り上げる大徳寺の勅使門(重文)。

大徳寺勅使門

 こちらも、仁和寺金堂や南禅寺勅使門と同様、慶長18年の御所の門を寛永の造替に先立って移築したものです。大徳寺の記録には、寛永17年(1640)に下賜されたと記されています。
 2002年まで行われていた修理工事で、この勅使門から「御内裏西之かわ 南ノ門」とか「西かわ南御門」といった墨書が確認されて、御所の西側の塀に開かれた南門だということが裏付けられました。


 勅使門の位置

 大徳寺勅使門は、総門を入って西に進んだところに建っています。京都の禅宗寺院では、総門と勅使門を別々に造るのがふつうで、両者が左右に並んでいる場合もあります。ここでは、直角の関係になっています。
 勅使門の先には池があり、さらに三門、仏殿、法堂と一直線に並びます。大徳寺も、このパターンをとっています。

都名所図会のうち大徳寺
  「都名所図会」巻六、大徳寺

 この図の左下に見えるのが勅使門です。ちなみに、左上の門は「日暮門」とも称された唐門、右上の大きな楼門は三門です。唐門については、こちらの記事をご参照ください。 ⇒ <国宝・大徳寺の唐門は、聚楽第の遺構>

 少しおもしろいのですけれど、上の図のうち、三門は自前で建てたものですが、勅使門や唐門は他所からもらってきたものなのですね。

都名所図会のうち大徳寺
 「都名所図会」巻六、大徳寺(勅使門)

 「都名所図会」(1870年)に描かれた勅使門は、実物よりちょっと貧弱に見えます。けれども、切妻の屋根に唐破風を付け、左右に袖壁があるところなどは、きちんと画いていますね。左手にある立派な松は今はないようですから、枯れたのでしょうか。


 多彩な彫刻が目を引く門

大徳寺勅使門
  勅使門の軒唐破風

 桃山の建築だけあって、細部はなかなかこっています。

大徳寺勅使門

 軒唐破風の細部。上から、懸魚(げぎょ)、大瓶束(たいへいづか)、蟇股(かえるまた)と並びます。懸魚の左右には鰭(ひれ)の飾りが付いています。これは菊なのでしょうか、花の模様です。よく見ると、中央にも菊文が入っていて、元御所の門らしいですね。
 大瓶束にも、左右に笈形というヒレが付いています。この花は牡丹でしょうから、牡丹唐草、桃山時代の特徴を示す笈形で、華やかですね。

  【上の写真の拡大です】
大徳寺勅使門


 懸魚など

大徳寺勅使門
  妻側(西面)

大徳寺勅使門

大徳寺勅使門

 妻に付く懸魚は三花懸魚です。これも中央に菊文が付けられています。
 藤原義一先生の評を引用しておきましょう。


 主として唐様手法に成り、随所に大小彫刻を充填し、殊に太瓶束の両脇を飾る笈形の唐草彫刻は見事である。
 軒唐破風が大きくて屋根が重厚なのが、普通ならば不均合と感じられるところであるが、此の場合には柱、枓栱、虹梁、太瓶束等の構成する気宇に雄大さがあり、其間に充たされた彫刻もこれに相応する力強いものであるので、屋根の重圧を優に支へ、門全体として一種の壮重さを現はしてゐる。
 桃山式華麗な彫刻を多く用ひ乍ら、華麗さよりも壮重さを多く現はしてゐるところに此門の特徴があり、次に記す唐門と比較すれば此性質が一層はつきり感じられる筈である。(『京阪沿線の古建築』)


 なるほど、屋根と彫刻とのバランスですね。たしかに、大ぶりの軒唐破風に負けないくらい彫刻がぎっしりです。

大徳寺勅使門
  木鼻

 勅使門などというものは、どちらのお寺でも地味で目立たない存在ですが、なかなか立派なものが多いのです。この門も、京都の四脚門の中で自慢できる逸品ではないでしょうか。


大徳寺




 大徳寺

 *所在 京都市北区紫野大徳寺町
 *拝観 境内自由  ※塔頭などは別途
 *交通 市バス大徳寺前下車、すぐ



 【参考文献】
 『国宝重要文化財 大徳寺唐門勅使門修理工事報告書』京都府、2003年
 「都名所図会」(1870年)
 藤原義一『京阪沿線の古建築』京滋探遊会、1936年
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944年
 三好和義『京都の御所と離宮1 京都御所』朝日新聞出版、2010年



東寺の門は、懸魚が比類ない





東寺慶賀門


 東寺には門が多い

 東寺(教王護国寺)は四周を塀に囲まれており、南側や北側は堀まであります。当然、中に入るためには門を潜らねばなりません。主な門だけでも、南大門、東大門、慶賀門、蓮花門、北大門があり、北大門からずっと北方には北総門があります。
「不開門」とも言われる東大門、明治時代に移築されてきた南大門、曳屋で動かされていた北総門など、おもしろい話題に事欠かないのですが、今回はそれ以外の門についての特集(?)です!


  今回は「懸魚」!

 「懸魚」。なかなか読めない漢字ですが、「げぎょ」と読みます。

懸魚(三十三間堂)
  三十三間堂の懸魚

 屋根にハート形の飾りのようなのが3つぶらさがっています。これが懸魚。
 細かく言うと、センターの少し大きめのものを懸魚(本懸魚)、両サイドのものを降懸魚(くだりげぎょ)、あるいは桁隠し(けたかくし)と呼んだりします。
 いずれも、棟木や桁など、材木の小口を隠す役割を持っています。材の保護や美装化に役立つわけです。

 この懸魚、古建築を見るときに、蟇股(かえるまた)と並んで、よく目に付く飾りです。
 いろいろと観察していくと、そのデザインが多種多様なのに気付きます。
 写真の三十三間堂(蓮華王院本堂・鎌倉時代)の懸魚は、猪目(いのめ)懸魚といって、ポピュラーなもののひとつ。現代風にいえば、ハート形の穴が開いている懸魚です。三十三間堂のものは、ちょっといびつなハートで、おまけに中央のものはハート2つ重ねの「ひょうたん猪目」になっています。

懸魚(三十三間堂南大門)
  三十三間堂南大門の懸魚

 同じ三十三間堂でも、桃山時代の南大門の懸魚は違います。三花懸魚(みつはなげぎょ)といって、こちらもトランプ風にいうと、スペードを3つ取り付けたような形状です。

 このような猪目懸魚や三花懸魚は、よく見掛けるものですが、今回登場する東寺の門は、ずいぶん珍しい懸魚を付けています。


 ほんとの魚に近い? 懸魚

東寺慶賀門

 東寺の慶賀門です。敷地の北東にあり、南大門と並んでお馴染みの門ですね。
 こちらの懸魚が、これです!

東寺慶賀門

 うーん、タテ長ですねぇ。見ようによっては、ほんものの魚に近い形というか、下端が尾びれみたいになっています。まぁ「懸魚」というくらいですから、魚っぽくって当然といえば当然!?
 よく見ると、開いている穴は「ひょうたん猪目」になっています。

 古いアップの写真を掲載します。

東寺慶賀門
  藤原義一『京阪沿線の古建築』より

 しかし、東寺の門は、この懸魚が多いのです。

東寺蓮花門
  蓮花門(出典同じ)

東寺北大門
  北大門(出典同じ)

 慶賀門と蓮花門は似ているけれど、北大門は少し幅広です。いずれも鎌倉時代前期の門ですが、なかでも慶賀門の懸魚が最も古式なのだそうです。『東寺の建造物』によると、朝鮮半島や長崎・興福寺境内の旧唐人屋敷などで類例を見る程度の珍しいものといい、大陸から渡ってきたデザインなのですね。
 天沼俊一博士は、冷静に、猪目懸魚の一種としてよい、とされています。

東寺蓮花門
  蓮花門

東寺北大門
  北大門

 どの門も似通った外観で懸魚も似ていますが、よく見ると微妙な違いがあるものです。
 こんなところも、古寺の建物を見る愉しみですね。




 東寺(教王護国寺)

 *所在 京都市南区九条町
 *拝観 境内自由 (五重塔などを除く)
 *交通 近鉄電車東寺下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 藤原義一『京阪沿線の古建築』京滋探遊会、1936年
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944年
 『東寺の建造物-古建築からのメッセージ』東寺(教王護国寺)、1995年



小説家が近代建築を語ると…… - 万城目学・門井慶喜『ぼくらの近代建築デラックス!』

京都本




ぼくらの近代建築デラックス


 京都で学んだ2作家が、近代建築をぶらっと探訪

 このブログでは、まだ近代建築は取り上げていないのですが、私自身は好きで、長いあいだ見てきました。いつ書こうかと思っていた矢先、大学の同門である小説家・門井慶喜氏が、万城目学氏との共著『ぼくらの近代建築デラックス!』を上梓されたので、まずそれを紹介してみることにしました。

 もとは雑誌「オール読物」に2010年4月号から断続的に掲載されていたものです。
 私も初回から拝読し、応援していました。

ぼくらの近代建築デラックス 「オール読物」2010年8月号

 ミステリ作家の門井氏も、「鴨川ホルモー」「プリンセス・トヨトミ」の万城目氏も、ともに京都の大学出身。初回の大阪編につづき、2回目は京都編になりました。

 「京都散歩」の章では、こんな建物が取り上げられています。

  進々堂
  京都大学時計台
  同志社女子大学ジェームズ館
  さらさ西陣(旧藤ノ森湯)
  龍谷大学本館
  梅小路蒸気機関車館
  九条山浄水場ポンプ室
  1928ビル
  日本生命京都三条ビル
  京都文化博物館別館

 バリエーションに富んだ10棟です。特に、梅小路の蒸気機関車庫なんて、渋いですね。
 万城目氏は京都大学、門井氏は同志社大学出身なので、京大と同女大と、京大の北にある喫茶店・進々堂も入っています。進々堂は外壁のタイルも素敵だし、やっぱり室内の雰囲気がいいですね。


 万城目  僕の第一印象は、シンガポールのラッフルズホテルみたいだな、と。本館を挟む南北の棟の二階に据えられたバルコニーが、回廊のように続いていくのが、いかにもラッフルズホテル風。(龍谷大学本館、52ページ)

 門 井  僕、実際ここに来て建物を見るまでは、銭湯って完全な和風の木造建築だし、この近代建築対談で紹介していいのか、少々疑問を抱いていたんです。でもこうして美味しいコーヒーをいただいているうちに、ひょっとしたら京都の近代建築を真に代表しているのはこれかもしれない、と考えが逆転した。(さらさ西陣=旧藤ノ森湯、50ページ)


 ふたりは近代建築の専門家ではないので、話は自由に飛んでいき、自らの思い出とイメージを語っていきます。


 1928ビル ?

 実は、この本を手に取るまで、三条通にあるあのビルが「1928ビル」という名前であるのをよく知りませんでした。
 元の毎日新聞京都支局の建物です。戦前風にいうと、大阪毎日新聞=「大毎」の支局です。

旧毎日新聞京都支局

 ずいぶん以前に、建築家の若林広幸氏が改装されて、レストランなどが入るビルになりました。毎日の支局は、河原町丸太町上るに移転しました。門井さんと万城目さんはお若いので、支局時代をご存知ないようですが、私の学生の頃はもちろん支局でした(笑) 外壁の色も、もっと地味な目立たない建物でしたね。
 この建物のことは、いつか詳しく書きたいのですが、昭和3年、つまり1928年に竣工しました(設計・武田五一)。この年の秋に、京都では昭和天皇の即位礼が行われました。おそらく、このビルはそれに合わせて新築されたのだと思います。当時の支局長は、私が興味を持っている岩井武俊。
 御大典、御大典と盛り上がっている京都の街に、こんな建物をデザインする武田五一もすごいのですが、失われゆく京都の景観を憂いていた岩井は、このビルをどう眺めたことでしょうか。興味が尽きません。

 本書でも指摘されている「大毎」のマークは、いまも残されています。星が「大」をかたどり、丸の中が「毎」になっているんですね。

旧毎日新聞京都支局

 帯に「マキメのボケ VS カドイの薀蓄」となっていて、なるほど、そういう中身で(笑)、楽しめます。
 登場する建築家の中では、綿業会館などを設計した渡辺節が高く評価されていて、ちょっと目を引きます。シブいです。
 京阪神と東京、横浜の私的建築案内、といった書物。ぜひ一読を!




 書 名:『ぼくらの近代建築デラックス!』
 著 者:万城目学、門井慶喜
 出版社:文藝春秋
 刊行年:2012年11月



“小楠公の首塚 ” とは?

洛西




宝筐院


 「太平記」で著名な父子

 嵯峨・清凉寺の山門の前に立つと、門の左に何本かの石碑があることに気が付きます。
 その中の1本がこれです。

宝筐院

 「つきあたり 小楠公御首塚の寺」と刻まれています。昭和13年(1938)に建てられたものです。
 「御首塚」とは何やら不気味なのですが、とりあえず行ってみましょう。

宝筐院

宝筐院

 門前の石標には「小楠公菩提寺 宝篋院」と記されていますが、正しくは「宝筐院」としています。
 紅葉の名所としても知られているのですが、「小楠公」の首塚がある寺としても著名なのです。
 かつて「楠公(なんこう)」といえば南北朝時代の武将・楠木正成を指し、「小楠公」といえばその子・楠木正行(まさつら)を指しました。後醍醐天皇(南朝)方についた親子は、戦前の歴史観では忠孝の模範として喧伝されました。もちろん、戦後の歴史観の中では埋没してしまった人物ともいえます。

 この親子を有名にしたのが「桜井の別れ」でした。最後の合戦に赴く正成は、桜井(大阪府島本町)で、供をしていた11歳の正行を河内の地に返すのでした。この涙の別離が「桜井の別れ」です。「太平記」には、こうあります(長いので、飛ばしてくださいね)。


 楠正成、これを最後と思ひ定めたりければ、嫡子正行が十一歳にて父が供したりけるを、桜井の宿より河内へ帰し遣はすとて、泣く泣く庭訓を遺しけるは、「獅子は子を産んで三日を経る時、万仞の石壁より母これを投ぐるに、その獅子の機分あれば、教へざるに中より身を翻して、死する事を得ずといへり。況んや汝はすでに十歳に余れり。一言耳に留まらば、我が戒に違ふ事なかれ。今度の合戦天下の安否と思ふ間、今生にて汝が顔を見ん事、これを限りと思ふなり。正成討死すと聞かば、天下は必ず将軍の代となるべしと心得べし。しかりといへども、一旦身命を資けんがために、多年の忠烈を失ひて、降参不義の行迹を致す事あるべからず。一族若党の一人も死に残つてあらん程は、金剛山に引き籠り、敵寄せ来たらば、命を兵刃に墜し、名を後代に遺すべし。これをぞ汝が孝行と思ふべし」と、涙を拭つて申し含め、主上より給はりたる菊作りの刀を記念に見よとて取らせつつ、各東西に別れにけり。その消息を見ける武士ども皆感涙をぞ流しける。 (「太平記」巻十六)


 父・正成は湊川の戦いで敗死し、子・正行も貞和4年(1348)に四条畷の戦いで高師直と戦って敗れ、弟の正時と刺し違えて没します。
 寺伝によると、宝筐院の前身である善入寺を中興した黙庵禅師が、正行の首級を同寺に葬ったといいます。いま宝筐院の本堂には、近代の画とは思われますが、「黙庵禅師と楠木正行」「四条畷合戦の図」という2面の絵が掛けられています。


 並ぶ二人の塚

宝筐院

宝筐院

 奥に進み、塋域に入ると、二つの石塔が並んでいます。
 右の五輪塔が楠木正行のお墓です。では、左の塔は誰のものかというと、足利義詮の墓なのです。義詮は尊氏の子息で北朝方なわけですが、黙庵から正行の話を聞き、そばに葬るように依頼したと寺伝にあります。
 のち、当寺は義詮の院号にちなみ、宝筐院と改められたそうです。

 『新撰京都名勝誌』(1915)には、「小楠公首冢」を次のように紹介しています。


 清凉寺の西一町許(ばかり)の竹林中にあり、高さ八尺(約240cm)許の石卵塔にして、楠木正行の首級を埋む。其の傍に宝篋院塔あり、足利義詮の墳墓となす。生前の怨敵こゝに墓田を共にす、一奇といふべし。(後略)


 南朝と北朝に分かれて戦った武将。
 「生前の怨敵」という言葉に重みがあります。


 宝筐院 二つ引両紋と菊水紋

 両家の家紋も並んでいます。


 墓域の復興

 のち荒廃していた墓域を復興したのは、京都府知事・北垣国道でした。

宝筐院

 これは、明治24年(1891)2月に北垣が建立した「欽忠碑」です。

宝筐院

 1行目に北垣国道の名が、2行目に宝筐院の名が見えます。
 北垣の日記「塵海」には、欠落部分もあるせいか、宝筐院のことはほんの僅かしか出てきません。
 現在のように、復興されたのは大正6年(1917)のことだといいます。

宝筐院 墓前の灯籠「精忠」

宝筐院 墓前の灯籠「碎徳」

 楠木正行の「忠」と足利義詮の「徳」。
 戦前の人たちの彼らに対する思いは、この2語にこもっているように思います。




 宝筐院

 *所在 京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町
 *拝観 大人400円ほか
 *交通 JR山陰線嵯峨嵐山駅下車、徒歩約15分



 【参考文献】

 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年



【新聞から】 ひらがなを書いた土器の発見






 “最古級”のひらがな  各紙2012年11月29日付

主要紙一面


 11月29日の各紙朝刊の一面に、「最古のひらがな」(読売)、「9世紀 最古級平仮名」(毎日)、「最古級ひらがな 土器に」(朝日)などの見出しが躍りました。社会面に解説を載せる社も多く、ニュースヴァリューとしての高さが感じられます。

 以下、毎日新聞(榊原雅晴記者)の記事から引用します。


 右大臣も務めた平安時代前期の有力貴族、藤原良相[よしみ](813~67)の邸宅跡(京都市中京区)から、最古級の平仮名が大量に書かれた9世紀後半の土器が見つかった。京都市埋蔵文化財研究所が28日発表した。平仮名はこれまで、9世紀中ごろから古今和歌集が編さんされた頃(905年)に完成したとされてきたが、わずかな資料しかなく、今回の発見は成立過程の空白を埋める画期的なものという。


 読売新聞は、「庭の池(20m四方)に張り出した「釣殿」とみられる建物跡の周囲から、9世紀半ばから後半にかけての特徴を持つ皿や高坏など墨書土器の破片約90点が見つかり、うち20点で計約150文字の平仮名が書かれているのを確認した」と伝えています。

 発掘は、昨年、JR二条駅近くの「佛教大学二条西キャンパス」の建設に先立ち行われました。
 この場所は、平安時代(9世紀なかば)に右大臣を務めた公卿・藤原良相(よしみ)の邸宅跡と考えられるところでした。良相は、藤原冬嗣の子息で、藤原良房の弟ですから、トップクラスの公卿です。邸は「西京三条第(てい)」「西京第」、あるいは「百花亭」とも呼ばれ、右京三条一坊六町という地点にあったとされています。今回の発掘で、「三条院釣殿高坏」と墨書された土器などが見つかり、この場所が良相邸であったことが確からしいと考えられるに至りました。

 発掘によって、邸内に、南北28m×東西18m、中の島を持った大きな池があったことがわかりました。その西岸には、池に突き出すような形の建物があったことがうかがえ、これが記事に見える「釣殿」というわけです。
 良相は右大臣まで昇りつめたのですが、応天門の変(866年)で「失脚」し、翌年没します。そのあと、この邸宅がどうなったかは不明といいます。池の遺構の西岸からは、土器はもとより、輸入陶磁器、緑釉陶器、硯、碁石、櫛、軸端(掛軸の一部)、銭貨などが見つかり、なかには仏器と考えられるものもあったそうで、総量はコンテナ200箱分に及びました。
 ふつうは庭の池に大量の器物を捨てたりしませんから、この遺物は邸内にあった品々が一度に廃棄されたことを推測させます。つまり、良相の没後、この邸がにわかに閉鎖された可能性を思わせます。
 エリートで右大臣という高い地位にいた良相は、文人肌だったといわれています。兄・良房との争いで実質上その地位を追われ、失意のうちに亡くなったとは、高位の貴族も楽ではありません。

 良相の娘・多美子は、時の天皇・清和天皇の女御になっていました。そのため、貞観8年(866)、天皇はこの邸に行幸し、花見の宴が行われたのでした(伊勢物語にいう「三条の大行幸」)。さぞかし桜も美しく、池の眺めもよい庭園だったのでしょう。

 今回のニュースは「ひらがな」の発見でしたが、平安貴族の優雅と悲哀に思いを致す報道でもありました。
 

 *発掘の内容は、京都市埋蔵文化財研究所ほか「平安京右京三条一坊六町(第3調査区)現地説明会資料」(2011年12月10日)によりました。