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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

国宝・大徳寺唐門は、聚楽第の遺構





大徳寺唐門


 もう少し近寄って見たい大徳寺

 京都の禅刹の代表的存在、大徳寺は紫野にあります。私は、大徳寺の隣というか中にある高校に通っていたので、このあたりが懐かしい……というより、あまりに昔のことで懐かしさも通り過ぎているくらい。高校時代は全然関心がなかったので、立派な七堂伽藍や塔頭もほとんど記憶にありません。

 いま改めて大徳寺に行ってみると、国宝・重文の優れた建築が数多くあるのに、その多くが柵に囲まれて近くで見られないというフラストレーション的様相を呈しています。今回取り上げる唐門(国宝)も、方丈の特別拝観では内側から見られるものの、かなり遠目で、誰もが見たいと思う彫刻はほとんど見えません。修行の場ということは重々承知していながらも、社会との距離の取り方が「独特」であると慨嘆してしまいます。


 唐門は、元は勅使門の西に

 冒頭の写真は、『京都名勝誌』(1928年)掲載のものです。右側の切妻造、軒唐破風を付けた門が唐門です。当時の言い方をすれば「特別保護建造物」。そのせいでしょうか、門前に柵を作って堅く閉ざしています。
 後方に見える瓦葺の大屋根は、方丈(国宝)です。寛永12年(1635)の建築で、開山大燈国師(宗峰妙超)の塔所である雲門庵を中心に構成されています。
 その左手(写真には写っていません)が、庫裡。炊事場+寺務所です。なかなか迫力もあり、禅寺の日常をイメージできるリアルな空間です。

 唐門は、その方丈の正面入口として建っています。
 しかし、明治中期までは、この位置には別の門がありました。「明智門」と言い、当寺に寄進した明智光秀が本能寺の変で没したことを弔うために造られた門といいます。明智門は、明治19年(1886)、南禅寺の金地院に譲渡され(現存)、その場所に唐門が移築されたのです。
 唐門の元あった位置は、勅使門の西側あたりでした。

大徳寺勅使門 勅使門(重文)

 この写真の左奥あたりになります。
 慶長の棟札によると、越後の武将・村上周防守頼勝が天叔宗眼(129世住持)に寄進したもので、慶長8年(1603)、塔頭・興臨院の総門とされたといいます。

大徳寺唐門旧位置図

 この地図の赤丸の部分、いまの興臨院・瑞峯院・大慈院へ入っていく小道の入口付近です。
 「都名所図会」にもこの位置に描かれ、「日くらしの門」と唐門の別称(日暮門)が記載されています。


 装飾の豊かさに驚嘆!

 現在、一般の拝観では唐門の優れた彫刻を子細に見ることは叶いません。それでも、錺(かざり)金具の丁寧さ、贅沢さには驚かされます。
 垂木の先端には、一々「八双金物」が付けてあり、その金物に鋲や菊文の錺りが打ってあります。また、破風や軒先にも菊文や五三桐文がふんだんに打ってあります。これらを見ているだけでも、他の門を超越した豊饒さがうかがえます。

 彫刻は、方丈の縁から眺めると、冠木に彫られた獅子(唐獅子牡丹)など限られたものしか見えません。ここでは、まず藤原義一『京阪沿線の古建築』(1936年)掲載写真で2点紹介しましょう。

大徳寺唐門

 これは、妻(東側)にある麒麟(雲に麒麟)です。現地では、方丈の縁の東端に座れば、かろうじて麒麟のお尻だけ見えます(笑)

大徳寺唐門

 反対側(西側)の妻には、鯉の滝登り。結構有名だけれど、方丈からは見えません。厚さ3寸(約9cm)の一枚板から彫り出したものです。
 キリンもコイも、ちょっぴり“へたうま”感もありますが、実際には彩色が施されています。

 さらに、天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』(1944年)より。

大徳寺唐門

 正面の頭貫にある鯉です。写真の左端(木鼻)には鯉の頭を、右方には鯉の尾と波を彫っています。せっかくですから、天沼博士のコメントを引用しておきましょう(適宜改行)。

 大徳寺は有名な大燈国師の開基で、嘗ては五山の上位であったし、恐らく知らない人はあるまい。その多くの建築のうちの方丈の前にある唐門の木鼻は「魚」なので名高い。此門は秀吉造営の聚楽第の遺構と伝へ、随所に豪華な彫刻を充填してゐる。
 今ここに図示したのは正面控柱上頭貫の木鼻で、37[図版番号]に見る通り「波に魚」である。頭貫には全体に波をほり、粽付の円い控柱に挿込まれてゐる辺に魚の尾を薄肉に刻み、木鼻としては同じ魚の頭に波を少し添えてある。だから頭は謂はゆる丸彫で、尾の方は頭貫の側面に極めて薄肉彫にしてある。
 魚が泳いでゐるうち木に挟まれ、抜け出さうとして全力を込めて胸鰭を動かし、尾を左右に振つて踠[もが]いてゐる様に見えなくもない様だが、夫は見方がよくないので、洵[まこと]に奇想天外の意匠、平凡なる工人の企及し得ざるところ。 (天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』375ページより)

 天沼博士は、まじめなのか不まじめなのか、よくわかりません。
 魚が泳いでいるうちに木に挟まれ、抜け出そうとしてムナビレを動かして、尾を振ってもがいているように見えなくもない……なんて、「それは見方がよくない」とフォローしたって、博士がそう見えたに決まっています。ここらにも、この門の“へたうま”が見て取れて愉しいものです。

大徳寺唐門
大正時代の唐門(『日本古建築菁華』上冊、1919年より)


 修理で見つかった「聚楽第」の証拠とは……

 唐門は、2003年まで修理工事を行っていました。これまで聚楽第の遺構と言い伝えられてきましたが、物証があったわけではありません。ところが修理工事で、ひとつの発見があったのです。

 それは、西側の妻の破風に打ってあった菊文の金具です。この金具の釘を外した下から「天正」の刻銘が発見されたのです。
 天正(1573-1592)は年号を示しており、聚楽第は天正14年・15年に造営されていますから、唐門が聚楽第の門である可能性が高まってきました。
 また、墨書から、完成した当初は南向きに建っていたこともわかりました。

 ひとつの刻銘によって、解明が近付いてきた歴史の謎。ますます興味が尽きません。


銘酒聚楽第 銘酒「聚楽第」(佐々木酒造)




 大徳寺

 *所在 京都市北区紫野大徳寺町
 *拝観 境内自由  ※塔頭などは別途。唐門は特別拝観で(有料)
 *交通 市バス大徳寺前下車、すぐ



 【参考文献】
 『国宝重要文化財 大徳寺唐門勅使門修理工事報告書』京都府、2003年
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)
 岩井武俊編『日本古建築菁華』上冊、便利堂コロタイプ印刷所、1919年
 『京都名勝誌』京都市役所、1928年
 藤原義一『京阪沿線の古建築』京滋探遊会、1936年
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944年



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日蓮宗の妙覚寺は、聚楽第の裏門を移築したという





妙覚寺大門


 日蓮宗がひろまった中世京都

 京都は平安京の頃からつづく寺院もある反面、室町時代以降は日蓮宗の勢いが増していきます。

 鎌倉時代末に、日像上人が京都に日蓮宗の教線を伸ばし、下京の酒屋・柳屋仲興の邸内に一宇を建てたのが、妙法蓮華寺。のちの妙蓮寺につながるお寺です。その後、妙顕寺が開かれ、続々と日蓮宗の寺院が造立されます。天文年間には、洛中法華二十一か寺と呼ばれるほど、市中に日蓮宗の寺院が増えたのです。

妙蓮寺
妙蓮寺には「華洛最初 日像菩薩脱履道場」の石標(左)が

 日像上人ゆかりの3つの寺を特に「三具足山」と呼んでいて、どれも「具足山」という山号です。妙顕寺、妙覚寺、立本寺の3か寺です。


 妙覚寺の山門は“聚楽第の裏門”

 妙覚寺は、日実上人によって開かれ、彼に帰依していた小野妙覚の四条大宮の邸内に造られました。のち二条衣棚に移り、天文法華の乱を経て、秀吉の都市改造に伴って現在地に移転しました。
 江戸時代の様子は「都名所図会」にも図示されているのですが、天明の大火(1788年)によりほとんどの建物は焼亡してしまいました。ところが、表門は焼け残ったようで、古い構えを伝えています。
 この門、「都名所図会」には、広い境内の端に描かれていて、その内側には立派な楼門がそびえています。つまり、この門はいわゆる総門にあたる門といえるでしょう。
 『新撰京都名勝誌』(1915年)には、「表門 東向、もと聚楽第の裏門といひ伝へ、寛文三年今の処に移る」とあります。聚楽第は秀吉の造営で天正15年(1587)に竣工していますが、文禄4年(1595)に秀次を自害させ、その邸宅であった聚楽第を取り壊します(蛇足ですが、聚楽第の石垣が2012年10月に発掘されています)。
 寛文3年といえば1663年です。聚楽第が壊されてから70年近く後に移築されたことになります。

妙覚寺大門

妙覚寺大門

 表側からは立派な桜の木があって見えづらいので、内側からも撮ってみました。
 屋根は切妻、柱は角柱で、門の形式としては薬医門になります。薬医門は、棟のある建物の中心に柱が立たない形の門。そのため、内側に控柱を付けます。

妙覚寺大門

 真横から見ると、本柱の立っている塀のラインが、建物のセンターからずれていることがよくわかりますね。
 薬医門は、城門によく用いられた門で、大坂城より豪壮だといわれた聚楽第に用いられたのも理解できます。
 下の薬医門は、伏見城の大手門を移築した御香宮神社の表門です(重要文化財)。こちらは三間一戸の大ぶりの薬医門です。

御香宮神社表門 御香宮神社表門

 妙覚寺の門には、両脇に潜門が付いています。

妙覚寺大門

 聚楽第の頃は、平素はこれを潜って入ったのでしょう。

妙覚寺大門

 棟の上の空間は、伏兵を潜ますためのものだと言い伝えられています。
 この門、聚楽第の遺構と伝えられていますが、確証はありません。西本願寺飛雲閣、大徳寺唐門なども同様の伝えがあり、大徳寺唐門については聚楽第の遺構であるとの考え方が強まっています。
 妙覚寺大門は、京都府の指定文化財となっています。




 妙覚寺

 *所在 京都市上京区下清蔵口町
 *拝観 境内自由
 *交通 地下鉄鞍馬口駅より、徒歩約10分



 【参考文献】
 『新撰京都名勝誌』京都市役所、1915年
 『アサヒ写真ブック54 日本の門』朝日新聞社、1957年
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)



11月22日は、広隆寺で御火焚&聖徳太子忌日法要

洛西




広隆寺御火焚祭


 聖徳太子の忌日法要

 11月22日、太秦(うずまさ)の広隆寺では、御火焚祭が行われます。

広隆寺
 広隆寺仁王門

広隆寺御火焚祭

 写真にもあるように「聖徳太子御火焚祭」で、この日が太子の忌日であり、その法要もあわせて行われるということです。
 聖徳太子は、「上宮聖徳法王帝説」などでは推古30年(622)2月22日に亡くなったとされていて、異説としては「日本書紀」が推古29年2月5日としています。現在では前者がとられていて、月命日は22日。大阪の四天王寺などでは、毎月22日が縁日になっていますね。
 広隆寺では、11月22日に忌日法要が執り行われます。

広隆寺御火焚祭

 午後1時から、上宮王院太子殿(本堂)にて法要が執行され、引き続き1時半すぎから護摩供、つまり御火焚祭が行われます。

広隆寺御火焚祭
 上宮王院太子殿(本堂)

広隆寺御火焚祭

 僧侶らが本堂に入られます。
 堂内には、200人くらいは参拝者が座っており、まず般若心経が読誦されます。そのあと、大般若経の転読が行われます。大般若経は600巻ありますが、それを読み上げるのではなく、折本になっているお経をバラバラとめくる動作をすることで、読んだ代わりにします。これが「転読」です。
 ここで拝見した手順は、経机の上に帙(ちつ)に十巻程ずつ入った経典を取り出し、バンバンと大きな音を立てて机に叩き付けてから、経典の巻次などを唱えて、バラバラと転読する、というスタイル。なぜ、お経を叩くのかは、不勉強で分かりません。
 10人ですので、一人60巻ずつ転読するはずですが、あとでこそっと確認したら、40巻ずつでした…… ちょっと省略があったのかも知れませんが、不明です。

 およそ10分ほどで転読も済んで、僧侶らが出て行かれると、ご本尊の聖徳太子立像を拝ませていただきます(毎年11月22日のみの開帳)。太子自刻といわれる33歳のお姿です。確かに若く見え、旧一万円札でお馴染みの雰囲気とは全く違います。お顔もわりとはっきりしています。
 この像は、元永3年(1120)に造られたもので、立派な唐破風の付いた宮殿の中におられます。着衣は、歴代天皇が即位礼などで着した黄櫨染(こうろぜん)の袍(ほう=上衣)を賜るのだといいます。ということは、いま着ておられるのは今上天皇のものだということになりますね。
 小さく見えるのですが、ほぼ等身大ということなのでしょうか。
 
広隆寺

 ちなみに、このお堂は、上から見ると、下が正面の「凸」形になっています。後方の飛び出した部分に宮殿が設えられており、聖徳太子像が安置されています。
 上の写真では、右側が礼拝する空間、左側が像を安置する空間です。分かりづらいですが、右の部分は御所のような寝殿風で、左の部分は江戸時代によく見られる禅宗様の造り。まったく異なったスタイルの建物を一体にしてまとめています。享保15年(1730)の建築です。


 煙が上がる御火焚祭

 御火焚祭は、一転して勇壮ともいえる迫力でした。

広隆寺御火焚祭

広隆寺御火焚祭

 御火焚きは、旧暦11月に行われる祭事です。場所によっては、ふいご祭りとして鍛冶屋の信仰になっているものもありますね。
 京都では伏見稲荷をはじめ、各所で御火焚きが行われます。もともとは、冬至を迎える時期に太陽の力を回復する営み、いわば「一陽来復」の祭事でしょう。
 広隆寺は真言宗ですので、山伏が来られて護摩供を行います。山伏さんも、さすがに熱そうでした。

広隆寺御火焚祭

 ずいぶん昔、学生の頃でしたか、この寺を訪れて当時の清瀧智弘貫主にお話をうかがったことがありました。そのころ智弘さんは、「古都税」問題でいつもテレビなどで怒っておられたので、怖い方かと思ってドキドキして訪ねたのですが、お会いすると優しい方で、ほっとしたのを覚えています。
 そんなことを懐かしく思い出しました。


広隆寺




 広隆寺

 *所在 京都市右京区太秦蜂岡町
 *拝観 境内自由  霊宝殿は大人700円ほか
      ※本堂の聖徳太子像は毎年11月22日のみ開帳
 *交通 京福電鉄太秦広隆寺駅、下車すぐ



 【参考文献】
 林豊『聖徳太子ゆかりの寺を歩く』JTBパブリッシング、2007年
 


堀川には素敵な石橋が架かっている





堀川の橋


 水が流れる堀川

 私が子供の頃、堀川には水が流れておらず、暗渠でした。それが近年は整備がされて、小川が流れるようになり、遊歩道になった川底を歩けます。

 一条堀川には、伝説に彩られた「戻橋」が架かっていますが、現在の橋は平成7年(1995)に架け替えられたもので、橋としては余り興趣がわきません。
 それに対して、1本下流に架かっている中立売橋は、地味だけれど、とても興味深い石橋で一見の価値があります。

堀川の橋

堀川の橋

 石の擬宝珠がついた高欄。親柱には「堀川第一橋」と刻まれています。擬宝珠のてっぺんにも、菊形の飾りが彫り出されています。

堀川の橋

堀川の橋

 高欄も、控えめながら、きっちりデザインされています。

 ちなみに、道路面は石畳になっていますが、これは高度成長期にはアスファルトで覆われていたそうです。現在は、そのアスファルトをはがして、往時の石敷きを見せています。なかなか粋な計らいだと思います。


 明治6年に架けられた中立売橋

 この中立売橋は、明治6年(1873)に架橋されました。すでに140年も経っています! 親柱には、このように刻されています。

堀川の橋

 「京都府知事 長谷信篤/京都府参事 槙村正直/建築主任 京都府十二等出仕 中村孝行」

 長谷信篤(ながたにのぶあつ)は、京都府の初代知事です。慶応4年(1868)から明治8年(1875)まで在任しました。長谷のもとで参事を務めていた槙村正直(まきむらまさなお)は、二代府知事で、新京極を開いた人として知られています。工事を担当したのは中村孝行という技師のようですが、この人についてはよく分かりません。もちろん、石の加工や積み上げなどは石工による仕事でしょう。

 中立売通は禁裏(御所)から西に延びる通りです。寛永3年(1626)、後水尾天皇が二条城に行幸するという一大イベントに際して、幕府は中立売橋を架橋したといいます。
 江戸時代、幕府が管理・修繕を行う橋を「公儀橋」といいました。京都には、およそ100ほどの公儀橋があり、江戸には160~170程度、一方、大坂には12橋しかありませんでした。大坂は、町人が担う「町橋」が大多数だったのです。
 堀川では、この中立売橋や後で紹介する下立売橋が公儀橋でした。格式が高く、高欄があり擬宝珠を付けていたと「京都坊目誌」は記しています。

 小ぶりではありますが、半円のアーチをえがく石橋は、江戸時代から引き継がれた技術力の確かさを示しています。

堀川の橋


 なぞの煉瓦積みも……

堀川の橋

 この橋を南側から眺めてみると、このように水道管がたくさん見えます。
 なかでも、最も橋寄りにある水管橋は立派な造りです。

堀川の橋

 この基台は煉瓦造です。

堀川の橋 煉瓦壁(1)

 その下流にも、煉瓦壁が続きます。

堀川の橋 煉瓦壁(2)

 少し不審というか、無用な気がする擁壁です。

 実は、この壁、むかし市街電車(京都電気鉄道)が走っていた時代の橋台だったのです。

 写真の「煉瓦壁(1)」が市電が単線だった時代のもの、「煉瓦壁(2)」が複線になってからのものだそうです。それにしても「煉瓦壁(1)」の方は、幅が2m強くらいしかなくて、当時の市電も車幅が狭かったのだなぁと驚きます。
 明治28年(1895)9月、堀川の東側の通りの下立売-中立売間に市電が開通しました。5年後には、北野天満宮近くの下ノ森まで路線が延びました。おそらく、そのとき川を渡るために市電専用の橋が架けられたのでしょう。不確かですが、堀川に沿って北行してきた電車は、当然“直角”に曲がって橋を渡るわけにはいきませんから、転車台があったという話もあります。
 

 下立売にも石造アーチ橋が

 さらに、川底の遊歩道を歩いて行くと、下立売橋があります。

堀川の橋

 完全に架け替えられているようにも見えますが、実は橋の下に明治の遺構が眠っているのです!

堀川の橋

 石造のアーチがよく見えます。
 こちらは、中立売橋の翌年の明治7年(1874)に架けられました。「堀川第二橋」といいます。古くは、第一橋を「鶴橋」、第二橋を「亀橋」と呼んだともいいます。


 さらに伏見街道にも……

 この種の石橋は、ほかにも東山区・伏見区の本町通~伏見街道にも架けらえていました。一之橋、二之橋、三之橋、四之橋と北から順に、異なる川に架けられています。
 東山区の一橋小学校には、今は取り外された一之橋の高欄が保存されています。
 二之橋は、現在も現地に残されています。JR・京阪の東福寺駅の南側のガード下です。

伏見街道の橋

伏見街道の橋

 「伏水街道 第二橋」と読めますね。擬宝珠の形などは、中立売橋に似ています。川はなくなったので、地元の方たちが記念として保存されたものです。

 こちらは、第三橋。
 高欄に雷文が付けられていて、中立売橋の意匠と共通性が感じられます。

伏見街道の橋

伏見街道の橋

 擬宝珠の刻銘を見ると、こちらにも長谷信篤と槙村正直の名前があり、技師は木村某となっています。

 四之橋は、いわゆる直違橋(すじかいばし)で、川に斜めに架かっている橋です。伏見区の町名にもなっていて、藤森神社の北の方ですね。

 このように、京都市内にも明治初期の優れた橋梁が残されています。全国的には、長崎・熊本・鹿児島などが“石橋王国”で、もっと規模の大きな幕末の名橋が多数あります。しかし、百万都市の道路橋で明治初期のものが現役で使用されている例は、なかなか貴重といえるでしょう。
 いつまでも、現地で、現役で働いてくれることを期待したいものです。


堀川の橋 下立売橋の夕景




 中立売橋(堀川第一橋)

 *所在 京都市上京区東橋詰町ほか
 *見学 自由
 *交通 市バス堀川中立売下車、すぐ



 【参考文献】

 「京都坊目誌」1915年(『新修京都叢書 20』臨川書店、1970年)



イノシシの摩利支天堂は、ずっと篤い信仰を集めている

洛東




摩利支天堂の猪石像


 建仁寺の塔頭・禅居庵

 四条大和大路を下がると、西側にゑびす神社があり、その斜め向かいに禅居庵があります。今は「ぜんきょあん」と読んでいますが、江戸時代の史料などには「ぜんこあん」「ぜんごあん」とするものも多いようです。
 京都五山のひとつ、建仁寺の塔頭です。
 中国・福州から来日し、同寺の住持も務めた清拙正澄の退隠所として元弘年間(1331-1334年)に開かれました。敷地の東側に本坊があり、西側に摩利支天堂があります。自由に参詣できるのは摩利支天堂だけなので、今回のテーマも摩利支天堂にしましょう。


 唐門は明治初期に建てられた

 摩利支天堂は、南と西の2か所に門を開いています。
 しかし、幕末の史料、たとえば「新撰花洛名勝図会」(元治元年=1864)を見てみると、西側の大和大路沿いは石垣で、南側(当時は建仁寺境内だった)だけに門が設けられています。その門も、四脚門のような簡素な門だったようです。
 大和大路に門が開かれたのは明治時代のようで、南側の門が改築されたのも明治初期のことです。

摩利支天堂唐門 南門

摩利支天堂 西門

 写真上の南門は、唐門(平入りの平唐門)で、そこに重ねて唐破風を付けています。幕末・明治らしい意匠で、当時の人達の好みをよく表しています。

摩利支天堂唐門 唐門の彫刻

 こういった型にとらわれない自由奔放な波の彫刻も、時代を感じさせますね。


 摩利支天堂は室町後期の禅宗建築

摩利支天堂

 摩利支天堂です。二階建にも見えますが、一重裳階(もこし)付きの建物です。
 織田信長の父・信秀が天文16年(1547)に建てたとされます。

摩利支天堂

 上層は詰組。このあたりは室町後期のまま。裳階の部分は、享保13年(1728)に修理されているそうです。元禄、享保、安政、明治と何度も修理したり手を入れたりしています。

摩利支天堂

 このお堂には、清拙禅師が将来したという摩利支天像が安置されています。江戸時代にもよく知られていたようで、7、8寸の小さな像で、泥土で造られていると言われました。そして、摩利支天らしく7頭のイノシシに乗っているというのです。
 京都の人達に篤く信仰されていて、「恒に詣人多く、朝暮の香煙間断なし」というさまでした(「京都坊目誌」)。
 そのため、参拝するスペースを整備することも必要です。写真のように、お堂の前に突き出す拝所を接続しています。ここで、お線香やお蝋燭をあげたり、参拝したりできます。この部分は、幕末の安政3年(1856)にできたそうです。
 建物の竣工は室町後期(16世紀半ば)ですが、このように改変を受けながら現在の形が出来上がっています。


 イノシシがいっぱい!

 拝所の唐破風の部分には彫り物が見られます。その中央には……

摩利支天堂

 こんなイノシシが!
 松にイノシシ。目は玉眼。リアルとも滑稽ともとれる幕末の造形です。

 冒頭の写真も摩利支天堂の左右にあるイノシシ石像ですが、境内にいくつもイノシシ像が見られます。
 摩利支天の乗り物はイノシシですから、それも当然? でしょうか。

 実は、先ほどの「新撰花洛名勝図会」を見てみると、境内にイノシシ像は特に見られず、お堂の左右にも普通の石灯籠が立っています。
 いつから、こんなにイノシシが増えたのか? やはり、明治以降なのでしょうか。

 さらに、拝所にはこんな額もありました。

摩利支天堂いのしし額

 一瞬、何が描いてあるか分かりませんが、よく見ると数百匹のイノシシが !! 
 右上の方向に猪突猛進している…… ちょっと怖いですね。

摩利支天堂いのしし額
 
 このイノシシ画、いつ誰が奉納したのか?

摩利支天堂いのしし額

 明治21年(1888)9月、下京区・平居町の鈴木りつらが奉懸したものです。
 額縁には、鈴木りつのほか、竹治郎、りう、はつ、と3人の名前が書いてあります。

 ここで少し考えたのです。
 この4人の関係は、どういうものだろうか、と。

 おそらく全員が鈴木姓。ということは、上に書いてある「りつ」がお母さんで、息子が「竹治郎」、その妻が「りう」、その娘が「はつ」という見立てです。
 でも、この想像に確証はありません。


 「鈴木りつ」とは誰か?

 実は、摩利支天堂には、もうひとつ興味深いものが奉納されています。

摩利支天堂灯籠

 西門の左右に立っている石灯籠。胴部分の刻銘により、明治30年(1897)3月に建てられたことが分かります。そして、奉納者は……

摩利支天堂灯籠台座

 鈴木りつと、その家族なのです。
 ここには、「七条新地 平居町/鈴木りつ/鈴木竹次郎/同 りう/同 はつ/同 りせ/同 うた」、及び別姓の4人の名が記されています。

 いったい彼女らは、誰なのか?

 まず住所です。
 七条新地、そして平居町まで記されていますので、地名辞書などで容易に分かります。平居町は、河原町通の五条通を下がったあたりです。ここは江戸時代から、五条橋下などといって遊所でした。明治5年(1872)の「京都府下遊廓由緒」によると、七条新地の出稼地だったことが分かります。
 明治以降、南の六条、七条辺の遊所と一体化し、七条新地と呼称されます。
 京都の年配の方なら「五条楽園」という呼び名をご存知だと思いますが、ここがそうなのです。

 とすれば、鈴木りつの家も、七条新地の平居町で明治中期に「貸座敷」を営んでいたのではと想像がつきます。つまり、芸娼妓を置いてお客を取る家ですね。
 鈴木りつの名前は、明治・大正の人名録や商工名鑑などでも調べられませんでした。果ては電話帳(電話番号簿)まで調べましたが不明です。
 最後に、明治28年(1895)刊の「京都土産」という書物にたどりつきました。京都のさまざまを見立て番付で表した一書ですが、なかに「遊廓一覧」というものがあり、次のように記されていました。

 「○七条新地 / 貸座敷 百二十九軒 / 芸妓 二十三人 / 娼妓四百二十一人 / 屋形 十五軒 / 著名貸座敷 / 友月楼 鈴木 柴田楼 勢国楼」

 この「鈴木」が、鈴木りつの家なのではないでしょうか。

 電話番号簿を見ていて分かったのですが、貸座敷の主は女性がほとんどです。つまり、鈴木りつが貸座敷「鈴木」の経営者なのでしょう。
 りつ以下、6人の鈴木姓の人達。私の推理では、彼女らはもちろん家族で、りつが母、息子(娘)夫婦が竹次郎(竹治郎)とりう、その娘がはつ、りせ、うたの3人です。額を納めた明治21年から石灯籠を建てた明治30年までの9年間に、りせ、うたの2人が生まれたのです。


 粋筋も信心する摩利支天

 窪田修佐「京都繁昌記」(明治29年=1896)は、「美人」という項を立てて、京都の花柳界を紹介。そのなかに、こんな詩が載せられています(原漢文)。

  夜禅の袢纏 軽く肩に掛け
  駒屣 石に触れて音は戞然
  大和橋畔 朝湯の戻り
  歩を移して摩利支天に詣す

 そして「蓋(けだ)し舞妓の開運出世を建仁寺に祈るを謂ふなり」と記しています。
 
 むずかしい漢詩の意味は、およそ、

 夜の業をあけて袢纏を肩に掛けて歩くと、駒下駄が石に音を鳴らす。
 大和橋のほとり朝風呂の帰り道、歩を進めて摩利支天に詣る。

 くらいの意味で、要は、夜の仕事を終えた芸妓が朝湯の帰りに建仁寺の摩利支天堂にお参りする、という意味です。
 摩利支天は、戦国武将に信仰されていたように、勝運祈願もあったのですが、また開運・出世を願う人達の願掛けもありました。花柳界の信仰が篤いのは京都だけでなく、江戸(徳大寺)などでも同じだったようです。

 貸座敷を営む鈴木りつもまた、芸娼妓たちと同じように、商売の繁昌を願って、この摩利支天にイノシシ額や石灯籠を奉納したのでしょうか。それとも、名を連ねた家族の安穏と幸福を願って、奉納を行ったのでしょうか。




 禅居庵(摩利支天堂)

 *所在 京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町
 *拝観 境内自由
 *交通 京阪電車祇園四条下車、徒歩10分



 【参考文献】
 「新撰花洛名勝図会 東山之部」1864年(日本国際文化研究センター ウェブサイト)
 「京都府下遊廓由緒」1872年(『新撰京都叢書 10』臨川書店、1985年)
 「京都繁昌記」1896年(同上)
 「京都坊目誌」1915年(『新修京都叢書 20』臨川書店、1970年)
 「京都の文化財 第14集」京都府教育委員会、1997年
 『日本の近世社寺建築調査報告書集成4 近畿地方の近世社寺建築2 京都(1)』東洋書林、2002年

 


きょうの散歩 - 六波羅蜜寺のご開帳 - 2012.11.13

洛東




六波羅蜜寺ポスター


 辰年に限りご開帳される六波羅蜜寺のご本尊・十一面観世音菩薩。
 お昼からお詣りに行ってきました。

六波羅蜜寺

 ご開帳にあわせ、多くの善男善女がお詣りに来られています。

 今日は午後1時から、内陣参拝がありました。
 六波羅蜜寺の本堂は、ふだんは外陣から参拝する形ですが、内陣に入って間近で観音さまが拝めます。ただし「拝観」ではないので、仏さまの目の前に行って見られる、というスタイルではなく、内陣に一歩入ったところでお焼香をするのです。
 焼香後、観音さまの左手に結わえてある五色の紐を持たせていただき、結縁します。お詣り前、若いお坊さんが何度も何度も「参拝後には法具に結わえてある紐を持ってお願いするように」と繰り返されていたのが、ちょっと微笑ましかったです。

 この十一面観音立像は平安時代、天暦5年(951)頃の作で、国宝に指定されています。258cm、割合に大きな半丈六の仏さまで、空也上人(903-972)が発願された像と考えてよいものです。多くの参詣者(年配の方が多い)とともに観音さまの前に座っていると、これが「国宝」という感覚はせず、やはり信仰の対象だと思われるのです。

 ご開帳は、12月5日まで行われています。


六波羅蜜寺
 



 六波羅蜜寺

 *所在 京都市東山区五条通大和大路上る東
 *拝観 境内自由  宝物館は大人600円ほか
 *交通 京阪電車清水五条下車、徒歩7分



本堂は修復中でも、知恩院は経蔵がおもしろそう!

洛東




知恩院経蔵


 重要文化財の経蔵

 知恩院の経蔵の柱を支えている<礎盤>です。

 知恩院には、本堂の右手に重要文化財の経蔵があります。はっとするような、整った建物です。
 屋根は宝形造で、一重裳階付き。禅宗様のスタイルで、四方を吹放しにしているところが珍しく感じます。
 じっくり見ても、あきません。特に吹放しのあたりの佇まいが、何とも言えないのです。

知恩院経蔵

 重要文化財の経蔵は全国に10棟以上ありますが、知恩院のは裳階の付いた大規模なもので(幅約14m)、元和7年(1621)頃の建築です。寛永10年(1633)の火災も免れ、山内では三門などと並び古い建物のひとつです。
 内部には、八角輪蔵があるうえ、天井や壁が極彩色の画で彩られています。2000年に修理も終えて、竣工時の鮮やかさが蘇えったといいます。
 けれども、ふだんは内部非公開。ところが先日、たまたま中を見る機会に恵まれました!

 知恩院経蔵


 お経を収納する「輪蔵」

 正面の扉を開けると、すぐ内側に、輪蔵(りんぞう)を発明したと伝えられる傅大士(ふだいし)像があります。
 傅大士は、なぜ輪蔵を作ったのか?
 もちろん、回転した方が経典を取り出しやすいということなのですが、違った理由もあるそうです。
 輪蔵を回すと、万巻の経典を読んだのと同じ功徳があるといいます。世の中には文字が読めない人が大勢います。その人達にも、経典の功徳を与えるために、回せる輪蔵を作ったと伝えられているのです。
 傅大士は、さぞかし思いやりの深い人だったのでしょう。

 仏教の聖典を集成した大蔵経(一切経)を収納する棚、輪蔵。八角形や六角形をしているものが多く、ほとんどが回転します。いわば“回転ラック”。
 今回見た知恩院の輪蔵は、やはり八角形で、全体が漆塗り。一部に彩色画もみられます。上部には屋根があって、それを支える組物は四手先の立派なもの。逆に収納部の下には、四天王などの小さな彫像が配置されています。
 肝心のお経を収納する引出し(経櫃=きょうびつ)は、1面につき、タテ12段×ヨコ5列=60函ありますが、実はその後ろの見えない部分にも12×3=36函あるそうで、計96函あります。これが8面あるので、全部で768函になります。経典は6000帖近くあり、1函あたり8帖程度入っている勘定になります(実際は不明ですが)。

 興味深いのは、この経櫃に書いてある漢字です。ふつう、「壱番」「弐番」と数字で番号を付けそうですが、そうではなかったのです。よく見ると「事」「善」「傳」「念」「悲」「資」「福」「空」「賢」「量」など、仏教っぽい漢字が書いてあります。つないで読むようでもなく、アトランダムにふっている気もするのですが、調べようがなくて、とりあえず謎です。
 でも、768の漢字があるのですから、文字選びも大変だったことでしょう。

 廻している様子も拝見しましたが、やはり軽そうでした。小さな取っ手を持ち、廻すようになっています。

 この輪蔵については、こちらもご参照ください(写真もあります) ⇒ 「佛大通信」表紙


 宋版一切経

 この輪蔵に納められているのは、宋版一切経(大蔵経)です。
 中国で印刷された一切経には、蜀版(北宋版)・宋版(南宋版)・元版・高麗版・明版など、各種あります。清凉寺釈迦如来像を中国から持ち帰った奝然が将来したのは蜀版、宇治の萬福寺で鉄眼禅師が開版した際、もとにしたのは明版でした。
 知恩院には、宋版一切経が5,969帖納められており、重要文化財に指定されています。江戸時代のはじめ、徳川家から寄進されたものですが、専門家の研究によって、もとは宗像大社(福岡県)に所蔵されていたものだとわかっています。
 どのようなものかは、こちらをご覧ください。 ⇒ 知恩院ホームページ

 私たち参詣者は、お寺が蔵する経典のことまで、なかなか気が回りませんが、お寺にとって経典は大事なもの。それを収納する経蔵は、大切な建物のひとつなのです。

 なお、清凉寺の経蔵・輪蔵については、こちら ⇒ <嵯峨の清凉寺で“回せる”ものは?> *輪蔵の写真があります


知恩院経蔵




 知恩院

 *所在 京都市東山区林下町
 *拝観 境内自由  庭園(友禅苑)拝観は大人300円など
 *交通 地下鉄東西線東山駅より、徒歩8分



 【参考文献】
 是澤恭三「知恩院蔵宋版一切経の伝来に就いて」(「南都佛教」35号、1975年)
 『重要文化財 知恩院経蔵保存修理工事報告書』総本山知恩院、2000年
 山田孝道『禅宗辞典』国書刊行会、1974年(原著1915年)
 「佛大通信」517号(2008年10月)


嵯峨・清凉寺の釈迦如来は奥深い (その2)

洛西




清凉寺の栴檀瑞像扁額


 嵯峨のお釈迦さん、江戸にくだる!

 お寺の経営は、いつの時代もたいへんです。とりわけ、立派な伽藍を持つ寺院は、火災後の新築はもちろんのこと、修繕だけでも莫大な経費がかかります。江戸時代の初めは、幕府の援助によって整備された寺院も多々ありますが、次第にそれもなくなり、諸寺は自らの才覚で金銭を集め、経営に腐心することになります。

 そのお金集めで、最も短期に多額を集めることができたのが「開帳」でした。
 開帳とは、秘仏の特別公開です。自分のお寺で厨子を開けて見せる「居開帳」と、京・大坂・江戸などの大都市へ仏さまを“出張”させて公開する「出開帳」がありました。
 
 今回は、嵯峨・清凉寺の釈迦如来像が、はるばる江戸に下って出開帳をしたという話題にスポットを当ててみましょう。


 江戸の出開帳

 比留間尚氏の研究によると、江戸では17世紀半ばから幕末までの200年余りのあいだに、1,500回以上の開帳が行われたそうです。そのうち、居開帳は824回、出開帳は741回だったといいます。
 その741回の出開帳、つまり地方からの出張のうち、最も多かったお寺はどこでしょうか?

 第1位は、成田山新勝寺の12回です。つづく第2位が、わが清凉寺で10回、第3位が下総の法華経寺(日蓮宗で鬼子母神で有名)の9回だったそうです。
 ちなみに、京都の寺社で他に多かったのは、北野の天神さんが6回、清水寺が5回(奥の院を含む)、本国寺5回、妙満寺・青蓮院・真如堂が各3回などとなっています。

 江戸っ子にとって楽しみな“出開帳ベスト4”は、信濃の善光寺如来、嵯峨の釈迦如来、成田山のお不動さん、そして身延山(久遠寺)の日蓮上人だったとか。
 清凉寺の釈迦如来は、回数も多く人気も高く、江戸でも誰もが知っている有名な存在だったのです。

清凉寺門標 「三国伝来 釈迦如来」 清凉寺仁王門前にて


 移動もひと苦労!

 清凉寺の釈迦如来の出開帳は、初回(元禄13年=1700、護国寺)を除いて、すべて本所の回向院で開催されました。回向院は、特定の宗派に属さない無縁仏を供養する寺院で、各宗派の開帳が行いやすい寺でした。盛り場である両国の広小路にも近く、出開帳の好適地です。のべ166回も出開帳が行われており、ダントツの回数を誇りました。

 清凉寺の出開帳の行われた年を、まとめておきましょう。

   1.元禄13年(1700)
   2.享保18年(1733)
   3.明和 7年(1770)
   4.天明 5年(1785)
   5.享和元年(1801)
   6.文化 7年(1810)
   7.文政 2年(1819)
   8.天保 7年(1836)
   9.嘉永元年(1848)
   10.万延元年(1860)

 なぜか、だいたいが夏の暑い時期(旧暦の6月~8月)に60日、あるいは80日、開催されています。「参詣も開帳仏も汗をかき」という川柳があるくらいです。

 さて、お釈迦さんが江戸に下るルートは、どのようだったのでしょうか。さそかし、東海道を一直線、あるいは船で、と思いきや、そこにも意外なアイデアが!

 ここでは享和元年(1801)のルートを見てみると……(以下は、海原亮氏の詳細な研究による)

清凉寺釈迦如来の江戸行ルート
  海原亮「嵯峨清凉寺釈尊の江戸出開帳と住友」より

 地図のように、京都を出発してから北陸を回り、信濃の善光寺を経て、八王子から神奈川、江戸へと入っています。その間、なんと2か月!
 途中で、お釈迦さまを開帳しながら進んだのです。確かに、ただ運ぶだけではもったいない、道筋でも喜捨を集めよう、というわけでしょう。

 ところが、進むうちに、だんだん6月15日から始まる江戸出開帳に間に合わなくなりそうな気配になってきます。近道(地図の予定ルート2)を取ろうとも考えたのですがうまく行かず、最後は多摩川が川止め !! 結局、江戸の回向院に入ったのは、開帳予定日の6月15日の夜でした!

 こんなにタイトな予定を組んでも、開帳しながら進むのですから、喜捨を集める熱意も、なかなかのものがあったようです。


 出開帳の収支報告

 回向院では、本堂で開帳するわけではなく、特別に「開帳場」という仮設建物を造って開帳しました。桁行が18間(実長、約32m)という、かなり大きな仮堂です。中にはお釈迦さまを据える須弥壇を置き、霊宝を公開する「霊宝場」も作りました。
 外には、2か所の手水場や3か所の焼香場を設け、最も肝心な寄付を受け付ける「奉加場」を4か所建設し、賽銭箱も作りました。
 また、参詣者に売る“グッズ”類も準備。お釈迦さまの由来を印刷した「縁起」や、お姿を刷った「御影」などを十分に用意して、副収入も確保します。

 こんなふうに、江戸出開帳は収入もたくさん見込めるのですが、支出も多く、その差引が利益となりました。
 では、利益はいったいいくらだったのか?

 享保18年(1733)の場合、およそ金2,500両もの利益が上がったといいます。現在の貨幣価値にしてどのくらいかは明確にはいえないわけですが、およそ数千万円から数億円と考えてよいでしょう。
 初回の元禄13年(1700)は金6,000両以上もあったといいますから、かなり目減りしているものの、結構優秀な成績です。
 19世紀になると、金700両~1,200両程度に減りますが、赤字になることはなかったようで、出開帳の効果が実感されます。
 出開帳の実務は、清凉寺の場合、同寺を菩提寺とした住友家が担当していました。お寺だけではなかなかこれだけの大仕事はできず、住友家の経済的・実務的な助力に依存していたわけです。

 海原亮氏の優れた論文を読みながら、ふと思ったことがあります。
 清凉寺本堂の前に、こんな天水桶があるのですが、

清凉寺

清凉寺

 台の石には「京都 大阪 銅鉄釘元問屋講中」と刻まれています。住友家といえば銅の精錬、輸出で財を成した家柄です。この台石は近代のものでしょうが、奉納した講も、もしかすると住友関係だったのでは? と想像したりするのでした。


清凉寺手水鉢 手水鉢




 清凉寺(嵯峨釈迦堂)

 *所在:京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町
 *拝観:境内自由 ※ただし、本堂400円、経蔵100円など
 *交通:市バス嵯峨釈迦堂前下車



 【参考文献】
 比留間尚「江戸の開帳」(『江戸町人の研究』2、吉川弘文館、1973年)
 海原 亮「嵯峨清凉寺釈尊の江戸出開帳と住友」(「住友史料館報」第36号、2005年)
 『[縮刷版]江戸学事典』弘文堂、1994年


嵯峨・清凉寺の釈迦如来は奥深い (その1)

洛西




清凉寺本堂


 三国伝来の釈迦如来像

 「都名所図会」(1780年刊)をみると、嵯峨の清凉寺の項は、次のように書き出されています。


 本尊ハ大聖釈迦牟尼仏の立像にして長五尺弐分、天竺・毘首羯磨天の作なり(中略)そもそもこの尊容は三国無双の霊仏にして釈尊在世にうつし奉りて生身の尊像なり


 江戸時代から、とても有名だった清凉寺の釈迦如来。嵯峨釈迦堂という通り名も、このご本尊に由来するのは言うまでもありません。
 上にも「三国無双」とありますが、この仏さまはインド・中国・日本と伝わってきたもの。

 お経には、次のような話が記されています。

 あるとき、お釈迦さまが忉利天におられる母・摩耶夫人に説法されるため、不在になった。優填王(うでんのう)たち信者は、それをさびしがって、仏師・毘首羯磨(びしゅかつま)に命じ、栴檀(せんだん)の木でお釈迦さま生き写しの像を作った。

 話の筋はお経によって異なりますが、およそこんなふうです。つまり、この像はお釈迦さまが生きているうちに造られた像であり、“最初の仏像”ということになります。
 いわゆる「優填王思慕像」というもので、のちにたいへん崇敬されてインドや中国でこれを模した像が多数造られました。

清凉寺の隠元の題額

 清凉寺の本堂には、宇治の萬福寺を開いた隠元禅師の額(万治2年=1659)が掛けられていますが、そこにも「栴檀瑞像」と記されていて、江戸時代の僧たちも、栴檀でできた得難い仏像と認識していたことがわかります。


 「五臓六腑」が入っていた!

 清凉寺のご本尊も、優填王思慕像を模した像のひとつです。
 東大寺の僧であった奝然(ちょうねん、938-1016)は、永観元年(983)、宋に渡ります。3年ほど宋にいるあいだ、五台山などの聖地を巡拝したのですが、揚州の開元寺に永らくあった優填王思慕像(当時、中国に複数あったうちの1つ)を模刻しました。その仏師は張延皎と張延襲の兄弟で、雍熙2年(985)の7月21日から8月18日にかけて台州で彫られたことが記録されています。1か月たらずで彫ったとは、かなりのスピードです。
 奝然は、翌年6月、この釈迦如来像や大蔵経などを持って宋を発ち、帰国します。寛和3年(987)、都に持ち帰り、蓮台寺に一時置かれたのち、愛宕山のふもと、いま清凉寺がある地に安置されることになります。
 つまり、清凉寺の釈迦如来像は中国製で、「三国伝来」といっても同一の像が3か国をめぐったのではないのですが、同じモチーフの像がインド ⇒ 中国 ⇒ 日本へと伝わったということなのです。

 この像を実際に見ると、日本で見慣れた仏像とは異なる雰囲気を感じます。
 ぴたっと正面を向いて、右手を挙げた施無畏印、左手を開いて下げた与願印。衣は両肩にかける通肩で、その着衣がぴったりと身体にフィットしていて、びっしりと襞が付いています。この衣の感じに圧倒されます。お顔は、割と素朴な印象です。
 桜の材で造られているそうですが、いちばん有名なのは、背中に穴が穿たれていて、その中にさまざまな納入品が入っていた、ということでしょう。その品々の中で、誰もが驚くのが「五臓」の模型です。
 その目録によると、胃・心・肝・膽・肺・肚・腎・腸・背皮などが収められています。綾や錦といった布製なのでソフトなものと思われます。いまは複製品を本堂や宝物館で見ることができます。こういったところが、「生身(しょうじん)」と言われる所以でもあるのでしょう。

清凉寺本堂 本堂には「釈迦生身如来」

 
 へその緒に託す思い

 けれども、もっと驚くべき品は、別のような気がしています。

 それは、小さな一枚の紙切れです。写真を見てもほとんど読めないのですが、こう書かれているそうです。

 表「承平八年正月廿四日の/ひつしの[  ]のときにむ」
 裏「まる[  ]とこ丸」

 承平8年は、938年です。その1月24日の未(ひつじ)の何とかの時に生まれた何とか丸(これは男児の名前)ということです。この紙片は、へその緒書きというもので、へその緒にゆわえてあった紙です。
 実は、同じ胎内に納められていた義蔵・奝然結縁手印状という文書に、奝然の生誕について記されており、そこには「天慶元年戊戌正月廿四日誕生、俗姓秦氏」とあります。承平8年は、5月に改元されて天慶元年になりました。つまり、へその緒書きにある生年月日は奝然のもので、納められたへその緒も彼のものということになります(昭和29年に納入品が発見されたとき、そのへその緒は朽ちたのか発見されませんでした)。

 奝然は入宋したとき46歳だったわけですが、それまで大事に自分のへその緒を所持しており、それを宋にも持って行って、製作した仏像の胎内に納めたということになります。

 私が不思議に思うのは、奝然はなぜ宋にへその緒を持参し、像に納めたのか、ということです。

 渡宋前から、製作する仏像の中に入れようと思っていたのでしょうか。
 おそらくそうではなく、残された記録からは奝然は宋にいるあいだに造像を思い立ったものと考えられます。

 一般に仏像の胎内には、仏舎利・経典・胎内仏・仏画・摺仏などが納められ、願文や結縁の人名を書いた文書なども納められます。奝然の釈迦如来像にも、結縁の人々の名が記した「繋念人交名帳」というものが納められています(おそらく現地で書いたもの)。
 奝然が自分の名を像の中に納めたいと思うのは当然として、さらにへその緒となると、それはどんな思いなのか。

 胎内に、遺骨や遺髪などを納入することは少なくありません。そこで想起するのは、例えば父母の遺骨を入れる例です。西大寺の興正菩薩坐像は、叡尊(興正菩薩)の生前に造られた寿像で、両親の遺骨が納められています。このことは、叡尊が遺骨を所持しており、その菩提を弔うために納入したと想像されます。

 へその緒は、子と母を結んでいたものです。
 奝然が入宋するとき、母は存命でした。奝然は年老いた母を置いて宋に渡ることに悩みます。大海を越えて入宋することは二度と母に会えず、孝行を果たせないことになるかも知れません。相談した奝然に対して、老母は宋に行くことを勧めます。奝然は涙し「我が母はこれ人世の母ならず、これ善縁の母なり」と思い至るのでした。
 願文に記されたこの話を知ると、おそらく奝然は母への思いを抱いて、へその緒を懐に入れて海を渡ったのだと想像され、また結縁のため母と自分を結んでいたへその緒を釈迦如来像の中に納めたのだと感じられます。

 もちろん、真実は奝然その人しか知る由もありませんが、ひとつの釈迦如来像からさまざまな想いがわき起こってきます。
 

清凉寺手水鉢





 清凉寺(嵯峨釈迦堂)

 *所在:京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町
 *拝観:境内自由 ※ただし、本堂400円、経蔵100円など
 *交通:市バス嵯峨釈迦堂前下車



 【参考文献】
 奥 健夫「日本の美術 513 清凉寺釈迦如来像」至文堂、2009年
 倉田文作編「日本の美術 7 像内納入品」至文堂、1973年
 『古寺巡礼 京都 39 清凉寺』淡交社、2009年
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)


嵯峨の清凉寺で “回せる” ものは?

洛西




清凉寺仁王門


 見どころ満載の「嵯峨の釈迦堂」

 大報恩寺というより「千本釈迦堂」と呼んだ方が通りがいいように、清凉寺というより「嵯峨釈迦堂」と言う方がいいのかも知れない、清凉寺。
 その名の通り、ご本尊は釈迦如来立像。有名なこの像については、次回ふれる予定ですが、今日は違う見どころをご紹介しましょう。

 この建物です。

清凉寺経蔵

清凉寺経蔵
  仏の説法を意味する「転法輪」の額

 一切経蔵。一切経(大蔵経)を収める建物で、江戸中期の建築とされています。
 経蔵は、お寺にとって重要な建物のひとつで、古代の寺院では鐘楼と左右に並び立つ配置でした。宝形造が多くて、この経蔵も方三間の宝形造です。江戸時代のものは、やはり禅宗様のスタイルが一般的です。

 これは仁和寺の経蔵です。江戸前期(1640年代)のもので、重要文化財に指定されています。

仁和寺経蔵

 なかなか瀟洒な建物ですね。こちらも方三間の宝形造です。

 これは知恩院の経蔵。

知恩院経蔵

 こちらも重要文化財。元和7年(1621)頃に建てられました。屋根は裳階が付いていて一段と立派です。


 回る輪蔵

 これらの経蔵は、平面が四角くなっていて、なかに「輪蔵」を備えています。

清凉寺経蔵
  清凉寺の輪蔵

 輪蔵(転輪蔵)は経典を入れる収納棚です。八角形や六角形が多く、回転式ラックになっているものも多々ありますが、奈良の長谷寺のように回らないタイプもあります。清凉寺のものは六角形で、写真でわかるように、参詣者が実際に回すことができるのです!
 これは貴重 !! 経蔵は入れないところが多いのですが、中に入れる上に、自分で回せるとは…… 功徳が積めます。
 ただし、回し料100円(大人)必要です。といっても、万巻の大蔵経を転読した功徳があるわけですから、安すぎます。
 回してみると、はじめは重いのですが、いったん回り始めると案外かる~く回転します。

清凉寺経蔵

 細部も、逆蓮(ぎゃくれん、さかばす)柱と握蓮などが可愛いらしく、極彩色で目を楽しませます。

清凉寺経蔵

 外に向かって、傅(ふ)大士(善慧大士)が祀られています。中国6世紀の人。輪蔵の創始者とされていて、いわば大蔵経の守り神として尊崇されているのですね。やさしい表情をしておられます。

 大蔵経は、仏教の聖典全集というべきものですから、仏教を学ぶための必需品です。
 実は、清凉寺は大蔵経にゆかりの深いお寺で、平安時代、ここを開こうとした奝然(ちょうねん)は、宋に渡って北宋版大蔵経を持ち帰ったのです。全部で5,048巻あったといわれています。
 いま備えられているのは明版だそうですが、なにか奝然さんの思いが継承されているかのようです。
 
 回してみたときはそこまで考えなかったのですが、釈迦如来だけではない清凉寺の奥深いところを感じたのでした。 


清凉寺奝然上人墓 奝然上人墓(清凉寺)




 清凉寺(嵯峨釈迦堂)

 *所在:京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町
 *拝観:境内自由 ※ただし、経蔵100円、本堂400円など
 *交通:市バス嵯峨釈迦堂前下車



 【参考文献】
 渡辺照宏『お経の話』岩波新書、1967年
 濱島正士『寺社建築の鑑賞基礎知識』至文堂、1992年