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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

京都の西国三十三所(6) - 三室戸寺 その3 -

宇治




三室戸寺本堂



 「講」でお参り

 かつて、寺社への参拝は「講」を組んで行うことが多かったのです。最も著名なものは、お伊勢参りの伊勢講ですが、会費(旅費)を積み立てて、毎年代表者がお参りに行く(代参)スタイルをとることが一般的でした。

 西国三十三所の信仰にも、講があります。たとえば、第二十六番・中山寺へ行くと、境内の玉垣や石碑などに数多くの講名が刻まれています。傘講、元蝋燭講、永代講、安産講など無数の講が組織され、大きな講には「支部」もあったりして、とても盛んだったのです。
 中山寺の講は大阪のものが多かったようで、大阪からは5~6里(20~24km)程の距離ですから、代参という大仰な形をとらず、みんなでお参り(総参り、惣参り)したのでしょう。

 ここ三室戸寺でも、同じように講による信仰がありました。

三室戸寺

 お寺への入口の手前(駐車場の脇)に、このような石碑が立っています。石碑の中央には、「観世音出現渕」と書いてあります。これは、三室戸寺の観音さんが川の淵から取り上げられたという縁起にちなんだものです。
 その左には、「いわま/石山/ちか道」と、十二番・十三番の道案内があります。
 そして、右には、「大阪 三室講」と刻まれています。
 明治25年(1892)の建碑ですが、遠く離れた大阪に三室戸観音を信心する講があったことがわかります。

 石段を上って本堂前に至ると、手水舎があります。

三室戸寺

 これは手水鉢。上の水盤は蓮弁の形をしていますが、胴の部分に「大阪福寿講」と刻まれています。昭和に入ってからのものですが、こちらも大阪の講が奉納したものです。


 額を奉納する

三室戸寺本堂

 本堂へお参りして上を見ると、多くの額が奉献されているのが目に付きます。
 そのなかに、再び「大阪福寿講」の額を見ることができます。

三室戸寺

 時期ははっきりしないのですが、明治時代くらいでしょうか、講で納めた額が掛けられています。
 額には、次のように書かれています。


      大阪福寿講     講元 加茂屋禎七
    
  奉納 千手観世音菩薩    世話人 銭谷与平治
                    (ほか15名)

                世話元 奴 定吉
                    播磨屋嘉蔵
                    京屋彌兵衛
  
 金文字で記された立派な額です。講元の加茂屋禎七は、いわばこの講の代表者であり、世話人の16名がこの額を奉納する事業の実際のお世話した人達なのでしょう。世話元は、この額をお寺に奉納する際の仲立ちをした人達でしょうか。
 福寿講のメンバーが何名かは定かではありませんが、おそらくは数百名もいて、大阪でお金を集めて額を作り、こうして奉献したものでしょう。

三室戸寺おみくじ奉納額

 おみくじを奉納した人達もいました。
 額は「御鬮[みくじ]奉納」と題され、明治34年(1901)10月、大阪の森本伝兵衛を発起人として、86名が出資しておみくじを作り、奉納したのでした。女性も6名います。特に講名は記されていませんが、講の一種と捉えてよいでしょう。
 この額は、おみくじを奉納した印に掲げたものです。


 ご開帳にあわせて奉納

 ところで、三室戸寺の御本尊千手観音像は秘仏です。先頃2009年に御開帳がありましたが(花山院千年忌に各寺で開帳)、その前は84年さかのぼった大正14年(1925)でした。
 三室戸寺のホームページに過去の詳しい開帳記録が掲載されています。
  *ホームページは、こちら ⇒ 三室戸寺ホームページ
 
 それによると、記録上わかる範囲で、次の年に御開帳があったそうです。

  延徳元年(1489年)
  慶長16年(1610年)
  寛永16年(1639年)
  万治 2年(1659年)
  元禄 2年(1689年)
  正徳 4年(1717年)
  享保 5年(1720年)
  元文元年(1736年)
  寛延元年(1748年)
  宝暦元年(1751年)
  明和元年(1764年)
  明和 6年(1769年)
  安永元年(1772年)
  天明元年(1781年)
  文政元年(1818年)
  安政 3年(1856年)
  明治22年(1889年)
  大正14年(1925年)
  平成21年(2009年)

 18世紀には頻繁に御開帳が行われていますが(9回)、これは天皇即位の際に御開帳されていたためのようで、年表的にみると、桜町・桃園・後桜町・後桃園・光格・仁孝天皇の即位後に行われている様子がうかがえます。

三室戸寺御詠歌

 この額、三室戸寺の御詠歌「夜もすがら月を三室戸わけゆけば 宇治の川瀬に立つは白波」が記されているのですが、よく見ると額の下端に「開帳紀念」と書いてあります。
 右端には「大正拾四[14]年四月調」とあり、大正14年(1925)の御開帳にあわせて奉献されたものだとわかります。
 大阪朝日講と、これも大阪の講で、講元は永田吉松、世話係が鵜鷹春夫ほか4名、そして尼講として乾ふさほか9名の名前があります。なかには、鵜鷹春夫の妻でしょうか、鵜鷹まつという名も見えます。尼講は、今でいうと「女性部」ということになるでしょう。額を作った額師は、穂積誠進と記されています。

 御詠歌の額を奉納して掲げることは西国三十三所の札所ではよく行われますが、これは明治22年(1889)から36年ぶりの御開帳での奉納です。納めた人達も、明治の開帳のときは子供だったかも知れません。三室戸寺ホームページには御開帳時の写真が掲載されていますが、現在のように蓮池もなかったようで、本堂前に立錐の余地がないほど善男善女が詰め掛けています。

 ≪ いま自分は御開帳にやって来たけれども、明治の御開帳のときは亡くなった父母がこの観音さまを信心していたのだなぁ ≫ という感慨を抱いた人もいたかも知れません。
 そんな想像をしながら、額に記された一人ひとりの名前を見ていると、ひとつのことを永らく守り続ける尊さと、信心することの有り難さが伝わってきます。




 三室戸寺

 *所在 宇治市菟道滋賀谷
 *拝観 大人500円ほか (宝物殿は毎月17日公開、300円)
 *交通 京阪宇治線三室戸駅より、徒歩約15分



 【参考文献】
 浅野清編『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』中央公論美術出版、1990年




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京都の西国三十三所(5) - 三室戸寺 その2 -

宇治




三室戸寺本堂



 裳階(もこし)のついた本堂

 西国三十三所霊場寺院の札所(本堂など)は、思いのほか新しいものが多く、大半は江戸時代の建築です。
 最も古い建物は、石山寺の本堂で、これは突出して古く、永長元年(1096)、平安時代ですね。次に古いものが、六波羅蜜寺本堂で、貞治2年(1362)と室町時代です。さらに、長命寺本堂(大永4年=1524)、青岸渡寺本堂(天正18年=1590)とつづき、ここまでが16世紀以前です。

六波羅蜜寺本堂
 六波羅蜜寺本堂(重要文化財)

 17世紀初頭のものに、中山寺本堂(慶長8年=1603)と竹生島の宝厳寺(同前)があり、一乗寺(寛永5年=1628)、京都の清水寺(寛永10年1633)、大和の長谷寺(慶安3年=1650)などがあります。
 石山寺・清水寺・長谷寺は国宝、他は中山寺を除いて重要文化財に指定されています(中山寺は兵庫県指定)。

三室戸寺本堂
 三室戸寺本堂

 今回取り上げている三室戸寺の本堂は、文化14年(1817)頃の竣工とみられます。
 屋根が二つ重なっていますが二階建てではなく、下の方は裳階(もこし)で、大きな庇ともいうべきものです。

 三室戸寺本堂

 三室戸寺は本山修験宗(天台系)なのですが、本堂は禅宗様のスタイルを取っています。屋根を二つ重ねているのもそうですし、上の写真にあるように上層の組物は詰組(つめぐみ)といって、密に備えられているのもそうです。

三室戸寺本堂組物

 また、組物のカーブに角がない(矢印)のも禅宗様の特徴です。
 
 そして、とりわけ目に付くのは、正面の向拝についた軒唐破風でしょう。
 下の写真でいうと、上方の三角形に出ているのが「千鳥破風」、下方のカーブを描いて出っ張っているのが「唐破風」です。

北野天満宮本殿
 千鳥破風と唐破風(北野天満宮本殿 慶長12年[1607] 国宝)

 破風を付けると、にぎやかな感じが際立ちます。

 このお堂ができる前、三室戸寺の本堂は入母屋造(妻入り)、桁行五間、建物の前に舞台を持つスタイルでした。今でも、本堂の前は崖になっていますが、そこに舞台を懸けていたのです(「三室戸寺中古図」)。つまり、西国三十三所でいえば、石山寺や清水寺、長谷寺と同じパターンだったということです。

長谷寺本堂
 長谷寺本堂(国宝)

 写真の長谷寺本堂は、前に礼堂が付いている巨大なお堂ですが、三室戸寺はここまで大きくないにせよ、似た雰囲気を持っていたことでしょう。
 それが江戸後期に建て替えられたのですが、屋根を重ね唐破風を付ける全く違うデザインになってしまいました。いったい、なぜなんでしょうか?


 江戸時代好みのデザイン

 それには、このお堂が建てられた時代と関係があると思われます。
 西国三十三所の札所のうち、18世紀後半~幕末に建てられたものは、次の通りです。

 (2) 紀三井寺   宝暦9年(1759)
 (5) 葛井寺    安永3年(1774)
 (28)成相寺   安永3年(1774)
 (23)勝尾寺   安永4年(1775)
 (7) 岡 寺    文化2年(1805)
 (10)三室戸寺  文化14年(1817)
 (19)革 堂   文化12年(1815)
 (4) 施福寺    安政年間(1854-1859)

 調べてみると、過半数の札所が屋根に破風を備えているのです(カッコ内は屋根の形状)。

  紀三井寺…千鳥破風・唐破風(入母屋造平入り)
  成相寺……千鳥破風・唐破風(入母屋造平入り)
  岡 寺……唐破風(入母屋造妻入り)
  三室戸寺…唐破風(入母屋造平入り、裳階付き)
  革 堂……千鳥破風・唐破風(入母屋造平入り)

 8カ寺のうち裳階を付けて重層風にしたのは三室戸寺だけですが、破風を持つお堂は5カ寺もあり、千鳥破風と唐破風を重ねて付けているものが3つもあります。
 例えば、革堂(行願寺)は、こんなふうです。

革堂(行願寺)本堂
 革堂(行願寺)

 江戸後期になると、正面から見た姿を華やかにし、お堂を大きく見せるために、破風を多用していきます。これは明治8年(1875)に竣工した六角堂(礼堂)も同様です。
 三室戸寺のように唐破風の背後に入母屋の屋根が重なっていると、その部分に視線が注がれます。いわば“フォーカスポイント”になるわけで、唐破風を中心として、そこから裳階に沿って視線が外方向へ流れていくという、建物を雄大に見せる工夫がなされています。
 この本堂の先代の堂は、桁行が九間もあったといい(現在は五間)、それを縮小せざるを得なくなったために、視覚的には大きく感じさせる設計にしたのでしょう。


 細部の意匠も凝っている

三室戸寺本堂

 桃山時代から江戸時代の建築は一般的にそうですが、細部の意匠も手が込んでいます。場合によっては、クドいというか、しつこいというか、やりすぎ感のあるケースもありますね。
 上の写真は、唐破風の中の意匠です。まず、下の蟇股(かえるまた)に龍の彫物が付いていますね。蟇股はシンプルな形から、時代がくだるにつれて派手々々しくなってきます。この左右の蟇股には、獅子が彫ってあります。
 その上の大瓶束(たいへいづか)の左右(笈形という部分)には、菊でしょうか、なかなか手の込んだな花の文様が彫られています。

三室戸寺本堂

 これは、向拝に付いている手挟(たばさみ)。これは菊なのか牡丹なのか、いわゆる籠彫りで、桃山・江戸時代の手挟にはよく見られる細工です。

三室戸寺本堂

 さらに、空に延びていく、こういう雲の彫刻もあって、意匠的には盛り沢山。

 奈良の古寺などに慣れた方からすると、こういったゴテゴテした意匠は勘弁してほしい、という感想になるのでしょう。けれども、江戸後期の人達は、こんな装飾過剰とも思えるお堂を喜んでいたわけです。
 冷静に表現すれば、「密度の濃い」建築ということなのでしょうが、私はむしろ「ゴテゴテ盛り込んだ」俗っぽい建物と表現した方がいいように感じます。当時の文学(例えば黄表紙や滑稽本、人情本)を読んでも分かりますが、サービス精神が旺盛なのですね。だから、いろんなものを盛り込んでしまう。でも、それが楽しい。そんな気分です。

 ということで、三室戸寺はもう1回くらい続けようと思います。




 三室戸寺

 *所在 宇治市菟道滋賀谷
 *拝観 大人500円ほか (宝物殿は毎月17日公開、300円)
 *交通 京阪宇治線三室戸駅より、徒歩約15分



 【参考文献】
 浅野清編『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』中央公論美術出版、1990年
  鈴木充編「日本の美術201 江戸建築」至文堂、1983年
  熊本達哉「日本の美術530 近世の寺社建築-庶民信仰とその建築-」ぎょうせい、2010年


【新聞から】 通し矢禁止の古文書発見

洛東





「三十三間堂の通し矢、秀吉治世に禁止令」 京都2012年10月19日付

 三十三間堂(蓮華王院)というと、通し矢が有名です。現在では「大的大会」と称して、お正月に新成人の男女が弓を射る行事として知られていますね。

三十三間堂の通し矢

 寺伝では、天正年間(1573-1592)に今熊野観音寺の別当が行ったところ、たちまち流行したとも伝えられています。江戸時代に盛んに行われ、慶長11年(1606)以降の記録「矢数帳」も残されています。
 紀州と尾張の強者たちの対抗など、その記録の話題には事欠きません。慶安の修理では、お堂に矢が刺さるのを防ぐため、西庇の下の柱などに金属製のガード板(鎧板)が付けられました。

三十三間堂

三十三間堂 鎧板

 ちなみに、江戸時代は、現在の大的大会とは射る方向が逆で、西庇の縁に座って、南から北へ向けて射ていました。庇の下で射るから難しかったし、建物にも刺さったのです。

 京都新聞の記事は、古文書が発見され、豊臣秀吉の頃、流行する通し矢の禁令がたびたび出ていた、というものです。

 記事は、「古文書は、秀吉の家臣で京都所司代を務めた前田玄以が、三十三間堂を管理する妙法院(東山区)に宛てた書状。長岡京市の旧家で保存されていたのを同市教委の馬部隆弘文化財技師が分析し、前田玄以の花押などから本物と判定した。前田玄以が書状に用いた肩書から文禄5(1596)年に書かれたと推定されるという。/書状は「於三十三間弓射申之由承候」との書き出しで始まり、弓矢を射るのをすでに禁じているが、それでも射る者があれば通報するよう求めている。「連々御法度」という下りから、繰り返し禁止したことがうかがえる」としています。

 慶安の修理(1651年竣工)のとき鎧板でガードしたわけですが、その半世紀あまり前から大流行だったとは、柱や壁など、矢が刺さってボロボロだったのでは!? と心配になりますね。




京都の西国三十三所(4) - 三室戸寺 その1 -

宇治




三室戸寺本堂


 巡礼道を歩いて

 西国三十三所の第九番札所は、大和の興福寺南円堂ですが、続く十番は山城に入り、宇治の三室戸寺になります。
 三室戸寺は、美しい花の寺としても知られ、また景勝地・宇治にある古寺としても多くの参拝者を集めています。

三室戸寺への道

 黄檗山萬福寺のある北の方から三室戸寺へ向かって歩くと、今でも古い巡礼道の名残が感じられます。
 上の写真は、旧大鳳寺村あたりの道。ゆるく曲がりくねった道の脇に、宇治茶を製する茶師の家が並んでいます。幕末の史料によると、大鳳寺村には梅林・宮林・森江などの茶師があり、御通茶師の家柄でした。このあたりは宇治の中心(宇治橋西詰あたり)からすると「郊外」だったのですが、それでも茶師の家が何軒かあったのです。
 路傍には古い道しるべも立てられ、いにしえの旅を知るよすがともなっています。

三室戸寺への道標
「右 ミむろみち」と刻まれた道標

 三室戸寺を訪れる際、クルマを使えば便利なのですが、少しだけ歩いてみてはどうでしょうか?
 たとえば、JR・京阪電車「黄檗」駅で降り、萬福寺などを拝観してから、巡礼道を歩きます。およそ30分~40分の道のりで三室戸寺に到着。のどかな旅を満喫できることでしょう。



 昔は“三十三番”だった? 三室戸寺

 西国三十三所巡礼がいつ始まったかを考えてみると、確実なところでは、三井寺(園城寺)の僧・覚忠(1118-1177)による巡拝があげられます。
 覚忠は、関白・藤原忠通の子で、天台座主と三井寺長吏を務め、公卿の九条兼実や天台座主の慈円の兄弟(異母兄)でした。つまり、家柄も僧侶としても極めて格の高い人物でした。
 三井寺の高僧伝である「寺門高僧記」巻6に載せられた彼の伝記には、その末尾に「応保元年(1161)正月、三十三所巡礼、すなわちこれを記す」として、巡礼した寺々が記載されています。
 その順序は、このシリーズ(1)に掲載しておきましたが、一番の那智山から始めて、三十三番の三室戸山で終わるという順序です。
 現在の順序は、のちに盛んになった東国の人達に便利なルートになっています。それ以前、畿内の人々は別の順番で回っていたのでした。

 覚忠は、応保元年に加え、もう一度巡礼したという考え方もあるのですが(岡田希雄氏)、ここでは勅撰集の「千載集」にとられた彼の和歌を紹介しておきましょう。2首あります。


  三十三所観音、拝み奉らんとて、ところどころ詣りける時、美濃の谷汲にて油の出づるを見て、詠み侍りける

    世を照らす仏のしるしありければ まだともし火も消えぬなりけり

  あなう観音を見奉りて

    見るままに涙ぞ落つる限りなき 命にかはる姿と思へば

 
 前者は、谷汲観音(現在の岐阜県・華厳寺)に覚忠が訪れていたことを示しています。「あなう観音」は「穴太観音」かも知れませんが、いずれにせよ彼が広範に観音霊場を巡って、修行し、仏に感得したさまがうかがえます。
  

 次に、「寺門高僧記」覚忠伝に、三室戸寺がどのように記載されているかをみておきましょう。


  卅三番。山城国御室戸山。御堂七間南向。本尊一尺千手。願主宝道聖人。羅惹院僧正。三井寺末寺。


 ここには「羅惹院僧正。三井寺末寺」とあります。「羅惹院」は三井寺にあった院で、その住持を務めた僧は隆明(りゅうみょう)でした。隆明は、学識も験力も優れた僧で、のち三室戸に入り、三室戸寺を中興したとされています。11世紀後半から12世紀初頭にかけての人物で、覚忠の先輩にあたります。
 隆明にひかれて、三室戸寺には多くの僧たちが集まったようで、覚忠も康治2年(1143)頃には三室戸にいたようです。
 このように、三室戸寺と三井寺(寺門)とは強いつながりを持っており、僧の行き来もありました。覚忠が三室戸寺を三十三所巡礼の結願所に選んだのも、もっともだと思われます。

 次回は、この寺を参詣した人々について考えてみましょう。


三室戸寺へ




 三室戸寺

 *所在 宇治市菟道滋賀谷
 *拝観 大人500円ほか (宝物殿は毎月17日公開、300円)
 *交通 京阪宇治線三室戸駅より、徒歩約15分



 【参考文献】
 岡田希雄「西国三十三所観音巡拝攷続貂」1~6(「歴史と地理」21-4,5,6、22-3,4,6 所収)
 速水侑『観音信仰』塙選書、1970年
 「寺門高僧記」(『続群書類従』28上 釈家部 所収)
 「尊卑分脈」(『国史大系』58 所収)
 『国歌大観』1 角川書店、1983年



華僑のお盆行事 - 宇治・萬福寺の普度勝会 -

宇治




普度勝会


 勇壮な獅子踊り!

 宇治の萬福寺に行く予定の日、たまたま「普度勝会」というものをやっていると聞き、楽しみに訪ねました。
 華僑のみなさんのお盆行事と聞いていたのですが、予想外に賑やかで盛り上がっていました。


普度勝会獅子踊り

 三日続きで行われる普度勝会(ふどしょうえ)。最終日の午後には、獅子踊りが披露されていました!
 シンバルのようなチャッパや太鼓の伴奏で、中国風の獅子2頭が勇ましく踊ります。

普度勝会獅子踊り

普度勝会獅子踊り

普度勝会獅子踊り

 こんなふうに伸び上がっていくのが、すごくて拍手喝采です!
 最後は爆竹を鳴らして、耳をつんざく轟音でフィナーレ !!


 紙の家「冥宅」と地獄絵図!

 お盆の行事ですので、亡くなった方やご先祖への供養の意味があります。
 あの世でも困らないように、こんな立派な家を作ってあげます。

普度勝会冥宅

普度勝会冥宅

 ちゃんとした2階建てで、いくつも部屋がありますね。この家を「冥宅」と呼ぶそうですが、紙で作られています。
 せっかく作ったのに、最終日のおしまいには燃やしてしまうらしい!

 そして、こちらは……

普度勝会地獄十王殿

普度勝会地獄十王殿


 地獄十王殿! 
 
 地獄の冥官が何やら読み上げている前で、責め苦にあっている人達が !!
 泣き叫ぶ人を持ち上げて針の山に突き落す、釜ゆでにする、刃物でギロチン、逆さ漬け、などなど!
 これを見たら、悪いことできませんね、ほんと……

 曽士才さんによると、地獄十王殿とは、「死者が通らねばならない関所としての十王殿と各殿の王や各殿管轄下の地獄の様子を、絵と人形を使って立体的に描いたもの」。
 おもしろいのは、中国にも「地獄の沙汰も金次第」という諺があるそうで、路銀を持たせて旅立たせるとか。いずこも同じ、ですねぇ。

 その前には、お供えが置いてあります。
 「十錦菜」というそうで、お椀の中にビーフンが入っていて、その上にシイタケとかキクラゲとかカボチャとかゴボウとか、いろんなおかずが載せてあります。
  これは施餓鬼(せがき)の意味があるそうです。

普度勝会お供え

 再び曽さんによると、普度勝会はあらゆるものを普く済度するという意味で、中国の福州では「ポールン(普度)」と言うそうです。現在、日本国内では、神戸の関帝廟、長崎の崇福寺、そしてここ宇治の萬福寺で行われていて、萬福寺では昭和2年(1927)に始められたといいます。

 日本のお盆と比べると、色彩豊かで賑やかな普度勝会。異国情緒があふれていても、先祖や家族を思う心情は同じですね。


普度勝会




 萬福寺の普度勝会

 *毎年10月中旬の3日間行われる

 萬福寺

 *所在 宇治市五ケ庄三番割
 *交通 JR・京阪電車黄檗駅より、徒歩約5分
 *拝観 大人500円ほか



 【参考文献】
 曽士才「在日華僑の伝える盆行事」(『仏教行事歳時記 8月 万燈』第一法規出版、1989年 所収)



扉はどっちに開いてる? (その2)

宇治




萬福寺開山堂


 扉が内開きの寺院は…

 【その1】で、寺院の建物は、門や蔵を除けば、ほとんど扉が外開きだと述べました。
 ところが、ほとんどの扉が内開きのお寺があるのです!
 
 それが、宇治にある黄檗山萬福寺です。

 萬福寺を訪ねて、お堂の扉に注目すると、どれも内開きなのに気付きます。

萬福寺天王殿

 これは、三門を入って最初に目にする建物、天王殿です。
 格子の柵のような半扉は外に開いていますが、メインの扉は見えません。つまり、内側に開いているのです。

萬福寺天王殿

 天王殿の後ろ側です。まったく同じですね。

萬福寺大雄宝殿

萬福寺大雄宝殿


 仏殿にあたる大雄宝殿(だいおうほうでん)です。こちらも、この桃戸は外開きなのですが、大きな扉は内開きです。
 内部を見てみると……

萬福寺大雄宝殿

 両折(もろおり)の桟唐戸ですが、扉の下に藁座(わらざ)が見えています。内側に開くようになっていますね。
 

 大陸の建築は、内開き

萬福寺総門

 これは総門を内側から見たところですが、門ですので当然内開きになっています。
 このように、萬福寺の建物は基本的にみんな内開きです。

 萬福寺は、隠元禅師によって、幕府より宇治の大和田村に寺地を得て、寛文元年(1661)に創建された寺院です。隠元禅師は、中国・福建省にある黄檗山萬福寺(宇治の萬福寺の名前の元で「古黄檗」とも称される)の住持でしたので、宇治の萬福寺もすべての面において中国風になっています。
 伽藍配置や建物の様式・細部も、明(ミン)の寺院の影響を受けていて、日本離れした趣きを呈しています。牌楼(パイロウ)風の門、卍崩しや襷(たすき)の勾欄、宝珠とマカラを載せた屋根、湾曲した材を連ねた黄檗天井など、その特徴は枚挙に遑がありません。けれども、日本建築との大きな相違は、この内開きの扉ではないでしょうか。中国や朝鮮半島の寺院は、基本的には内開きなのだといいます。
 雨の多い日本の風土に備えるという意味では、外開きの扉が好適だとも思えます。あえていえば、萬福寺の仏堂は、正面一間通しを吹き放しにしているものが多く(つまり軒の出が深くなる)、雨風には強いのかも知れません。しかし、やはり中国で慣れ親しんだ扉の様式が、来日した僧たちにフィットしたのだといえるでしょう。

萬福寺斎堂  斎堂

 ただ改めて扉が閉まっているさまを見ると、建物がぴっちりしていて心地よいですね。
 萬福寺の建物は、どれも皆すがすがしい印象を与えるのですが、こんなところにもその秘密が潜んでいるのかも知れません。


萬福寺開山堂 通玄門から見た開山堂




 萬福寺

 *所在 宇治市五ケ庄三番割
 *交通 JR・京阪電車黄檗駅より、徒歩約5分
 *拝観 大人500円ほか



 【参考文献】
 山下秀樹ほか「古代建築における扉の構造と意匠」(『奈良文化財研究所紀要2007』所収)



扉はどっちに開いてる? (その1)

建築




三十三間堂


 ちょっと気になる扉の開き方

 あなたの家の玄関扉は、内開きですか、それとも外開きでしょうか?

 お寺に行くと、門・本堂・塔など、建物には必ず出入り口が付いています。そこには、開き戸や引き戸や、場合によっては蔀戸(しとみど)などが付いています。こういうことは、割と目に付くもので、記憶に残ります。
 けれども、開き戸の場合、それが内側に開くのか、外側に開くのかは、案外覚えていません。ひとに聞いてみても、記憶は曖昧なようです。
 そこで、今回は、開き戸の開き方を2回にわたって考えてみましょう。


 多くの扉は<外>に開く

三十三間堂 三十三間堂

 写真は、三十三間堂です。一間ずつ開き戸が付いていて、外側に開いています。冒頭の写真は、そのクローズアップです。

妙心寺仏殿

 こちらは、花園にある妙心寺の仏殿です。扉をアップで見ますと、下の写真の通りです。

妙心寺仏殿

 これは折れ曲がった開き戸で、「両折」(もろおり)というタイプ。禅宗様によくある「桟唐戸」(さんからど)という種類なので、「両折桟唐戸」と呼んでいます。これも二つ折りになりながら、外に開いています。扉の軸の上下に、出っ張った材(赤丸)が付いていますが、これが扉を取り付ける「藁座」(わらざ)です。

 このように、お寺の建物の扉のほとんどは、外開きなのです。
 けれども、いくつか例外もあります。


 門はどっちに開く?

 ところが、門は違うのです。これは妙心寺の三門。

妙心寺三門

 とても美しい門ですが、扉の細部を見ると……

妙心寺三門

 このように、扉の内側に藁座(黄色い部分)が付いています。扉は、藁座を取り付けた側にしか開きませんので、この扉は内開きになります。

仁和寺二王門

 こちらは、御室の仁和寺の二王門です。
 これも内開きになっています。

仁和寺二王門

 寺院の門は、基本的には内開きになっています。
 では、他に、内開きの建物はあるのでしょうか?

 こちらをご覧ください。

東寺宝蔵
  東寺宝蔵(藤原義一『京阪沿線の古建築』より) 

 古い写真で見えにくいのですが、東寺の宝蔵です。平安時代後期の校倉造の建築です。珍しく扉が開いている写真で、よく見ると開いている扉と閉まっている扉の二重扉になっているのが分かります。つまり、外扉は外開きに、内扉は内開きになっています。
 実は、蔵も内開きの扉を持つ建物なのです。

 奈良文化財研究所が古代建築の扉を調査したところ、蔵については、法隆寺経蔵・綱封蔵、唐招提寺経蔵・宝蔵、東大寺本坊経庫・勧進所経庫・法華堂経庫など、すべて内開きだったそうです。
 同所の研究では、門や蔵など防犯上の機能が求められる建物は内開きにしたと考えられています。
 なぜ内開きだと防犯によいのか。それは扉の軸を取り付ける部分が内側にあると、外からは扉を外せないからです。逆に外側に取り付けていると、外から外せます。先ほどの藁座の写真を見ていただいても(時代は新しくなりますが)、内側に取り付けていると侵入者は外せませんね。

東本願寺台所門
  東本願寺内事門(台所門) 内開きの門扉の例
 

 外開きの利点は…

 門や蔵は内開きでしたが、それ以外の建物のほとんどは外開きです。
 外開きは、どんな点で有利なのでしょうか? その理由として、内部空間を広く利用できることや、風雨に強いことがあげられます。確かに、強い風が吹いてきた場合、内開きですと開いてしまうおそれがあります。
 扉を外開きにすると、扉の内側が見えるため、内側もある程度きれいに仕上げる必要があり、経費も手間もかかります。造る側には負担ですが、手を抜くわけにもいきません。このあたりについては別の話になるので、また機会があればお話しましょう。

 次回【その2】では、門でも蔵でもないのに内開きの建物がある! ことについて、ご紹介します。




 【参考文献】
 藤原義一『京阪沿線の古建築』1936年、京滋探遊会
 山下秀樹ほか「古代建築における扉の構造と意匠」(『奈良文化財研究所紀要2007』所収)
 『東寺の建造物-古建築からのメッセージ』1995年、東寺宝物館



興正寺の経蔵が、デザイン&人間模様で、不思議と魅力的!





興正寺経蔵


 西本願寺の<南>に興正寺あり

 京都の人でも「興正寺」と聞いてピンとくる人は少ないでしょう。いまは観光寺院ではないし、あまり宣伝もされていないようで…… しかし、ロケーションは西本願寺の南側と、とても便利な場所。実際に訪ねてみると、欧米のツーリストがたくさん来ています。西本願寺に較べると敷地も狭い、ということになりますが、それだけで見ると立派な伽藍です。
 「都名所図会」(1780年)にも、西本願寺と東本願寺に挟まれて登場していて、大きな本堂や対面所などが描かれています。真宗寺院なのに本堂はひとつなのですが、これは「一つ御堂」と呼ばれ、『お寺まゐり』などを見ると「日光の本廟、知恩院の山門と共に、日本三建築と称された程であつた」と記されています。
 明治9年(1876)に西本願寺から分かれ、現在は真宗興正派の本山です。

 ということで、今回は興正寺にスポットを当ててみましょう!

興正寺三門  三門

興正寺御影堂  御影堂


 経蔵がおもしろそう!

 堀川通から三門を入ってぐるっと見渡すと、御影堂と阿弥陀堂が南北に並び、左手に鐘楼、右手に経蔵があるという配置です。阿弥陀堂の前には、阿弥陀堂門があります。また御影堂の裏手には表対面所・奥対面所などがあります。浄土真宗の寺院に共通する伽藍配置がうかがえます。
 興正寺の建物の多くは、明治35年(1902)11月の火災で焼けてしまいました。このとき無事で、伽藍で一番古い建物が鐘楼です。

興正寺鐘楼

 安永3年(1774)のもので、袴腰のついた楼造の鐘楼です。
 御影堂(明治45年竣工)や阿弥陀堂(大正4年竣工)は火災後の再建になります。
 そんな中で、ひときわ異彩を放っているのが、この建物!

興正寺経蔵

 経蔵です。こちらでは法宝蔵とも呼ばれていましたが、要は経典を収めておく蔵のことです。嘉永元年(1848)に建てられました。この建設にまつわる人間模様がなかなか興味深いのですが、まずは建物自体から見て行きましょう!

興正寺経蔵

 正面から見たところ。初層が土蔵造になっていて、二層目とのコントラストが何ともいえません。屋根は、経蔵によくある宝形造ですが、唐破風を付けています。しかも、初層の入口のひさしも唐破風になっていて、くどいくらい正面性を強調しています。この“しつこさ”は幕末っぽくていいですね。微妙な屋根の反りも心地いいです。

興正寺経蔵

 唐破風の上には、宝珠を弄ぶ龍の瓦が載っていたりして、遊び心いっぱいですね。

興正寺経蔵

 横から見たところ。初層の窓の形や刳り形も特異です。なかでもクローズアップしたいのが、高欄(欄干)です。石積みの段上に、花崗岩の高欄が廻らしてあります。

興正寺経蔵

 こんな感じですね。私が注目しているのが、手前の親柱の頭に付いている造形。

興正寺経蔵

 鋳造です。何の形か分かりますか?

 実はこれ、蓮(ハス)なのです。それも逆さまにした……

 蓮は仏教とゆかりの深い植物。お寺の蓮池でもよく見かけますね。泥の中に美しい花を咲かせます。
 高欄の親柱には擬宝珠(ぎぼし)を付ける例が多いのですが、禅宗様ではこのような逆さまの蓮を付けます。これを「逆蓮」(さかばす、ぎゃくれん。逆蓮柱)と呼んでいます。大陸から禅宗様とともに入ってきた意匠ですから、古代の建築には見られないそうです。
 この経蔵の逆蓮は、造形としてはリアルだけれども実際の蓮とは掛け離れた意匠です。そして、逆蓮としても珍しいデザインです。

 よく見るタイプは、こんな感じでしょうか。

逆蓮柱(萬福寺三門) 萬福寺三門の逆蓮柱

 宇治の萬福寺の三門にある逆蓮柱。ちょっと四角形ですけれど、ポピュラーな形です。素直に見ると、蓮というより、ナスビの頭みたいですね(笑)
 この逆蓮のモチーフ、日本のみならず海外にも見られます。中村達太郎博士は、ペルセポリスの柱頭や古代インドの建築にも用いられていると指摘されています。エジプトなどにも蓮の柱頭はあって、植物ゆえ建築意匠にもよく取り入れられているようです。

 さらには……

興正寺経蔵

 高欄の鉾木(写真の上端に見える円柱状の石材)を支える石ですが、これも蓮モチーフの一種で、一般に「握蓮」(にぎりはす)といわれるものです。これも、よくある握蓮とは異なるデザインで、あまり蓮らしくないかも知れません。

 逆蓮柱と握蓮までは普通ですが、まだ蓮が見られます。

興正寺経蔵

 石階の脇の高欄に……

興正寺経蔵

 よく見ると、蓮でしょう。葉と実みたいですね。ここまで蓮にしてくると、ちょっと敬意を表したくなります。幕末らしい、デザインへのこだわりに拍手!


 新朔平門院と孝明天皇

 デザイン面を見たあとは、この経蔵にまつわる人間模様について記しておきましょう。
 嘉永元年(1848)建立ですが、懸けられた「法宝蔵」の額は、孝明天皇から賜った勅額といいます。揮毫は、幕末の能書家として知られる近衛忠凞(ただひろ)。孝明天皇の書の先生でもありますから、当代を代表する書家といってもよいでしょう。
 では、なぜ天皇の勅額がこの寺院の経蔵に掲げられているのでしょうか?

 当時、興正寺の門主は27世・本寂(ほんじゃく)でした。本寂上人は、のち西本願寺から離れ真宗興正派をおこした人で、幕末の動乱期を乗り切ったリーダーでした。
 彼は出家しましたけれど、もとは五摂家の一つ鷹司家の出身で、鷹司政通の次男です。ちなみに、三男は仏光寺の25世・教応で、兄弟で真宗の大寺院の門主を務めていたことになります。父・政通は30人以上きょうだいがいますが(その父は鷹司政凞)、その中に仁孝天皇の女御・新皇嘉門院(繋子)がいました。しかし、彼女は難産のために若くして落命します。それに代わって天皇の女御となったのが妹の祺子(新朔平門院)でした。
 彼女が養子としたのが統仁親王で(実母は新待賢門院)、弘化3年(1846)に仁孝天皇が没すると、孝明天皇となります。興正寺の本寂上人と新朔平門院は、おい・おばの関係で、孝明天皇と興正寺は深いつながりがあったのです。
 ところが、弘化4年(1847)10月、新朔平門院は亡くなります。翌年、本寂上人が造営していた経蔵が竣工しますが、彼女の遺志により、孝明天皇の勅額を賜ることになったのです。
 
 経蔵に勅額とは珍しいですが、このようないきさつがあったのでした。

 興正寺、なかなか興味深いです。京都駅からも近いので、一度訪ねてみてください。


ハス(三室戸寺)  ハス




 興正寺

 *所在 京都市下京区堀川通七条上ル
 *拝観 境内自由
 *交通 JR京都駅より、徒歩約10分、市バス七条堀川下車、すぐ



 【参考文献】
 『お寺まゐり』鉄道省、1922年
 中村達太郎『日本建築辞彙[新訂]』中央公論美術出版、2011年
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』1944年、星野書店
 森岡清美「真宗興正派の成立」(「日本常民文化紀要9」所収)




西本願寺の門、門、門!






西本願寺大玄関門


 西本願寺の<南>をさぐる

 西本願寺というと、御影堂・阿弥陀堂や門は東向きに建てられ、堀川通に入り口を開いています。そのため、多くの参詣者・観光客も堀川通から入って、その付近を見て帰ってしまいます。
 ところが、実は境内の<南>の方にも面白いものがいくつもありますので、ちょっと拝見してみましょう。

 境内図は、こちらをクリック! ⇒ ≪本願寺境内図≫

 西本願寺の南側の細い通りは北小路通と呼ばれています。「都名所図会」には「築地長辻」と記されています。長い築地塀が続いていますから、うまいネーミングといえます。
 この通りの堀川通側には北小路門があります。それをくぐって西へ進むと、有名な国宝の唐門があります。

西本願寺唐門
 西本願寺 唐門(北側より望む)


 大玄関門

 実は、今回の注目はこの唐門ではなく、その付近にある門なのです。まずは、唐門の西隣にあるこの門です。

 西本願寺大玄関門

 大玄関門です。一見した印象として、とてもお寺の門とは思えませんね。どちらかといえば、大名屋敷の門のようです。
 この門は薬医門といって、門の内側に控柱が立っているものです。

西本願寺大玄関門

 これは内側(北側)から見たところですが、ここに見えている左右の四角い柱が控柱です。薬医門は実用的な門で、他に城門などにも用いられました。
 下の写真は、伏見城の大手門を移築した御香宮神社の表門(重要文化財)です。内側から見たところで、控柱が立つ三間一戸の薬医門です。

御香宮神社
 御香宮神社 表門(元和8年=1622年)

 さらに大玄関門を大名屋敷のように見せるのは、門の左右に付けられた番所でしょう。唐破風を載せた重厚な番所で、十万石以上など格式の高い大名家にしか用いられなかった門です。江戸にあった加賀藩(前田家)上屋敷の御守殿門(いわゆる東大の「赤門」)は唐破風の両番所を持つ薬医門として有名ですね。

西本願寺大玄関門
 大玄関門の番所

西本願寺大玄関門
 番所を内側から見る

 大玄関門の番所を内側から見たところです。番人の詰所ですから、出入りのための引戸があり、格子の付いた窓もあります。
 弘化4年(1847)に造られました。門内には、大玄関があります(下の写真)。

西本願寺大玄関
 大玄関


 台所門

 大玄関門のさらに西にあるのが、台所門です。

西本願寺台所門

 長屋門ですが、関西人には珍しく映る「なまこ壁」を使っています。こちらも番所があるのですが、出窓の庇(ひさし)は片流れで、ぐっと簡素なスタイルです。

西本願寺台所門

 内側から見たところ。番所は、いま本当に警備員さんの詰所になっています。内側も、なまこ壁ですね。番所の左右のスペースは納屋などに用いられたようです。
 江戸の大名屋敷には、この門のような形式のものもありました。たとえば、桜田門外にあった彦根藩(井伊家)上屋敷は、このようななまこ壁の長屋門で、門の両側に番所の出窓があって、台所門とほぼ同じスタイルでした。

 ところで、この台所門、なぜこのような名前なのでしょうか? 「都名所図会」を見ると、「大仲居 [台所をいふ。元伏見城にありしをここにうつす。入り口の唐破風に大黒天の像あり。三ツの俵を踏む]」とあります。つまり、この門内は西本願寺の中での裏方の空間になっていたのでした。真宗寺院には「中居」というセクションがあって「台所の経理を管理するなど、対内的な諸雑務を担当した」といいます(「戦国期真宗御坊の空間構造」)。調理するところとしての台所と経理部門とが置かれた空間が、ここでいう「大仲居」でしょう。その入り口にあたるのが、台所門なのです。

 先ほどの大玄関門は、現在は賓客の来訪時などにのみ使用されるそうですが、台所門はふだんから出入りできます。この奥が本願寺中央幼稚園になっているからです(幼稚園建物は旧寺務所)。


 中雀門

西本願寺中雀門

 こちらは平唐門の中雀門です。戸の透かし彫りなどが美しいですね。
 この門の中は、黒書院・白書院・対面所などがある一画になっています。

西本願寺浪の間玄関
 浪の間玄関


 今回見てきた門は、一般の参詣空間と切り離された場所に造られた門です。唐門、大玄関門、台所門と、格や用途は違うものの、ずらっと並んでいる姿は壮観です。西本願寺の隆盛ぶりを物語る建物群ですね。
 だから、西本願寺は南側がおもしろい! といえるわけです。

 最後に、ひとつ。

西本願寺

 馬つなぎ。大玄関門の南側にあります。以前、清水寺にも重文の馬駐があることを書きましたが、西本願寺にもありました。やはり、来客の「ガレージ」が必要なことは、今も昔も変わりありません。




 西本願寺

 *所在 京都市下京区堀川通花屋町下ル
 *拝観 境内自由
 *交通 JR京都駅より、徒歩約15分。市バス西本願寺前下車すぐ



 【参考文献】
 岡村喜史『西本願寺への誘い』本願寺出版社、2012年
 藤田 実「戦国期真宗御坊の空間構造-大坂本願寺を中心に-」(『真宗教団の構造と地域社会』清文堂出版、2005年)
 『アサヒ写真ブック54 日本の門』1957年、朝日新聞社
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)




京都の西国三十三所(3) - 六角堂 その2 -





六角堂


 親鸞上人の夢

 六角堂(頂法寺)について、とても大切なことは、ここで日本の宗教史上に残る重要な出来事が起こったことでした。
 それは、親鸞上人が見た夢です。

 29歳の時、親鸞は比叡山を降りて、六角堂で百日間の参籠を行います。その95日目のことでした。夢の中に救世観音が現れ、次のように述べたのでした。

「あなたが前世の因縁によって女犯したとしても、私が女性の姿に変わって交わりを受けましょう。一生の間よく仕え、臨終の際には極楽へ導きましょう」

 救世観音は、「これは自分の誓願であり、すべての人に説き聞かせなさい」と言ったといいます。
 女犯(妻帯)の罪に苦悩していた親鸞は、これにより悟りを得、法然のもとに馳せ参じました。これが後に浄土真宗が開かれるきっかけとなったのです。
 この夢に現れた救世観音は、聖徳太子の化身といわれています。六角堂は、四天王寺の用材を求めて当地を訪れた聖徳太子が創建したとされていて、古くは本尊の如意輪観音も聖徳太子であると考えられていました。

 この話には、2、3の興味深い点があります。
 ひとつは、参籠の最中に夢を見て啓示を得たということ。
 いまひとつは、籠ったお堂が六角形だったということ。
 三つめは、六角堂を創建したのが聖徳太子だということです。

六角堂 六角堂の太子堂


 「今昔物語集」の男が見た夢

 王朝文学や古記録には、当時の貴族らが盛んに寺院に籠ったことが記されています。観音霊場として名高い長谷寺、石山寺、清水寺などは、その代表格です。
 平安時代末に成立した「今昔物語集」には、さまざまな仏の霊験譚が収められています。そのうち、巻16には観音菩薩の霊験が集められています。
 その第28話には、昔話などで誰もが知っている「わらしべ長者」の話が記されていますが、これは貧しい青侍が長谷寺に参籠してその夢告に従ったところ、長者になったという物語です。

 そして第32話には、六角堂の霊験譚が登場します。こんな話です。

 日頃、六角堂にお参りしていた男が、大晦日の夜、一条戻橋で恐ろしい鬼たちの行列に遭遇し、捕まって唾を吐きかけられた。すると、自分の姿が透明人間のように見えなくなってしまい、家に帰って妻子に会っても、自分の姿は見えず声も聞こえないらしいのだった。
 どうしようもなくなった男は、六角堂に参籠して「観音さま、私を助けてください」と祈った。14日ばかり過ぎた暁の夢に、貴い僧が現れてこう言った。
 「朝になったらここを出て、最初に出会った者の言うことに従いなさい」
 外に出ると、一人の牛飼い童がおり、「私と一緒に来なさい」と言う。
 ついていくと大きな門のある家に着いた。中に入ると、姫君が病で床に伏しており、行者が加持祈祷をしている。それは不動明王の火界の呪だったが、その火が男の着物に燃え移ってしまった。すると、男の姿はたちまち見えるようになった。
 その拍子に姫君の病も直ってしまった。家人は不審に思ったけれど、男を許して帰した。 (「隠形の男、六角堂の観音の助けに依りて身を顕はせる語」)

 平素から信心の篤い者が、六角堂で夢告を得て救われるという霊験譚です。出会った人に従うべし、というのはよくあるパターンで、第33話の清水寺の話にも、参籠の帰りに語りかけてきた男の言うことに従え、という逸話が出てきます。

 かつて、お堂に籠ることは単にお祈りするというのではなく、そこで眠って夢を見、お告げを得ることでした。
 宗教学者の植島啓司氏は、聖地とは夢を見る場所であると述べています。聖地で、籠る=眠る=夢を見る、ということが、人々にとって大きな意味を持ったのでした。日本を代表する夢告の場所は、奈良の長谷寺でした。西郷信綱氏は、長谷寺は夢を授ける聖所であり、人々は夢を授けてもらうために長谷寺に詣でた、と指摘しています。

六角堂


 六角堂と夢殿

 いにしえ、六角堂を創建したのは聖徳太子だといわれています。もうお分かりだと思いますが、法隆寺にある八角形の建物は夢殿と呼ばれています。太子は(現在のものとは違うものの)よく「夢殿」に籠り、夢を見たとされています。
 このことからすれば、親鸞上人から市井の男に至るまで、人々が夢を見た六角堂も「夢殿」と考えることができるでしょう。特異な六角形や八角形の丸いお堂(円堂)は、通常の四角い堂宇と異なり、特別な聖所だとみなすことができます。

 政治、富、出世、病気、結婚、出産、戦い……。世のあらゆることが夢告の対象となり、人々はそれを得るために参籠したのです。
 中世の今様を集めた『梁塵秘抄』には、「験仏の尊きは、東の立山、美濃なる谷汲、彦根寺、志賀、長谷、石山、清水、都に真近き六角堂」とあります。六角堂は、長谷寺・石山寺・清水寺などとともに霊験あらたかな寺院とされていました。それは、六角堂が聖徳太子ゆかりの寺であり、夢告が得られる場所ということと無関係ではないのです。

 最後に、「その1」で取り上げた“六角でない六角堂”の話です。
 上記に述べた意味からすると、六角堂はやはり六角形でなければ意味がない、とも考えられます。しかしまた、夢の持つ力が失われた時代(少なくとも中世末から近世はそうでしょう)には、六角堂はもう六角形でなくてもよかった、ということもいえます。
 どちらが正しいのか、もう少し考えてみたいですね。

六角堂 献灯の貼り紙
 



 頂法寺(六角堂)

 *所在:京都市中京区六角通東洞院西入る堂之前町
 *拝観:境内自由
 *交通:地下鉄烏丸御池駅より、徒歩約3分



 【参考文献】
 西郷信綱『古代人と夢』平凡社ライブラリー、1993年
 五来 重『西国巡礼の寺』角川ソフィア文庫、2008年
 植島啓司『聖地の想像力』集英社新書、2000年
 『今昔物語集 本朝部(上)』岩波文庫、2001年
 『新訂梁塵秘抄』岩波文庫、1933年