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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

京都の西国三十三所(2) - 六角堂 その1 -





六角堂


 洛中の町堂

 京都の西国三十三所札所のうち、市街地の真ん中に建っているものといえば、六角堂と革堂です。
 この2寺は三十三所という観点をはずしてみても、京都の町衆に信仰され、その結節点となってきた重要な寺院です。革堂(こうどう、行願寺)は、現在は寺町二条にありますが、もとは一条小川にありました。六角堂の位置は創建より移動していないとされ、烏丸六角東入にあります。2つのお寺は、革堂が北、六角堂が南という関係です。これを京都の町(中世)と関連づけてみると、革堂は「上京」(かみぎょう)という地域の人々の拠り所となる寺(町堂)であり、六角堂は「下京」(しもぎょう)の町堂でした。いまは2寺ともこぢんまりとしたお寺ですが、京都の歴史の中では大変重要な存在だったのです。

 六角堂は、紫雲山頂法寺といいますが、古くから六角堂と言い慣わされてきました。確認できる資料として、藤原道長の「御堂関白記」寛仁元年(1071)3月11日条に「六角小路」という通り名で「六角」の語が登場し、同時期の「小右記」にも「六角堂」という名が見られます。これらから、遅くとも11世紀後半には六角堂という呼び名があり、その名のもとになる六角形の建物があったのでしょう。


 参拝空間の礼堂

 六角堂は、幕末、元治の大火(1864年)で焼けたあと、明治10年(1877)に建て直されたものです。お堂は、やや複雑な形になっています。門をくぐって正面に見えている部分は礼堂(らいどう)で、本堂とは別の棟です。礼堂は、本堂(正堂)の前に設けられた参拝のための空間です。六角堂の場合、桁行三間、梁間二間、入母屋造になっていて、本堂にぴったりと接合されています。側面から見ると、屋根が食い込んでいるような感じになっています。

六角堂
 礼堂 床は石敷き(四半敷)で、三方は吹き放しの開放的空間

六角堂
 礼堂の側面(東側)

六角堂
 2つの堂の屋根が重なっている
 
 六角堂の参拝は礼堂で行われ、本堂に入ることができません。つまり、中に入れない六角の堂と、切り離された参拝空間から構成されていることに気付きます。おそらく、このことは六角堂の建物の成り立ちと関係しているとも思われます。
 六角堂は、歴史上、20数回も焼けたとされていて、お堂は常に建て替えられていました。しかし、現在見るような形になるのは江戸時代の17世紀のことと考えられています。


 六角ではなかった? 六角堂

 では、江戸時代までの六角堂はどのような形だったのでしょうか?

 平安時代末の「寺門高僧記」にある「三十三所巡礼記」(1161年)には、六角堂の建物は「九間南向」とあって、現在のように礼堂があるふうには書かれていないそうです。
 また、京都市街を描いた「洛中洛外図屏風」を見ると、六角堂はごく普通の寄棟造の建物に描かれています。たとえば、上杉家本(1574年)では、寄棟造瓦葺で、桁行は五間のようにも見えます(右隻第四扇)。町田家本(1525-31年頃)では、寄棟造瓦葺、桁行三間、梁間三間のお堂です(右隻第三扇)。時代がくだる舟木家本(1615年頃)には、桁行三間、梁間が二間ほどの寄棟造瓦葺に描かれており、堂内に僧侶がいます(左隻第三扇)。いずれにせよ、いまの六角形の建物とは全く違います。

 では、六角形のお堂はどこに行ったのでしょうか。

 ひとつの考え方としては、かつては六角堂だったが、度重なる焼亡により、ある時点から普通の建物に建て替えられていた、という考え方。
 もうひとつは、六角のお堂は<覆い屋>の中にあったとする考え方です。
 同じ西国三十三所の粉河寺(和歌山県)に、六角の厨子(ずし、仏さまを収める)が建物内にあったケースがあるそうです。つまり、大きな建物の中に小さな建物を入れる形です。中尊寺の金色堂などでお馴染みの形ですね。そうなると「六角堂」とはいっても、さほど大きくない厨子のようなものだったと考えられます。
 ちょっと意外ですが、古記録や「洛中洛外図」などの絵画資料を検討すると、そういう考え方もできるということです。どちらかというと、こちらの説の方が愉しそうですね。

 
六角堂
 明治10年にできた現在の六角堂。隣接するビルから見下ろせる

 「都名所図会」(1780年)には、現在と同じように、六角形の本堂に礼堂がくっつく形が描かれていますから、覆い屋はなくなっています。おそらく江戸時代初め頃の火災で焼けて、改築する際に六角堂を大きくし、礼堂を付けたのでしょう。しかし、六角のお堂は仏さまを祀る“厨子”ですから参拝者は入れず、外の礼堂から参拝するスタイルになっているとも思われます。

 六角堂については、ほかにも重要な事柄がありますので、それは次回に紹介しましょう。



 頂法寺(六角堂)

 *所在:京都市中京区六角通東洞院西入る堂之前町
 *拝観:境内自由
 *交通:地下鉄烏丸御池駅より、徒歩約3分



 【参考文献】
 浅野清編『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』中央公論美術出版、1990年
 小澤弘ほか『図説 上杉本洛中洛外図屏風を見る』河出書房新社、1994年
 『洛中洛外図大観』小学館、1987年
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)




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絵馬堂が意外におもしろい!(3) - 御香宮神社 -

伏見




御香宮神社


 “京都三大絵馬堂”のひとつ

 もし仮に「京都三大絵馬堂」を選ぶとすれば、規模や歴史性、絵馬の内容などからみて、北野天満宮、八坂神社、そしてこの御香宮神社になるでしょう。
 桁行四間、梁間二間、切妻造の建物で、宝暦5年(1755)に出来たものです。安永9年(1780)刊の「都名所図会」にも本殿・拝殿の右に絵馬堂が描かれていますが、絵では桁行三間、梁間二間、入母屋造の建物が「画馬堂」となっています。想像をたくましくすれば、むしろその脇に並立している「竈殿」が桁行三間、梁間二間、切妻造に描かれているので、こちらの方が後に絵馬堂になったのかも知れません。

 絵馬はかつては百面以上も奉懸されていたといいます。いまでも新旧さまざまな絵馬が見られます。

御香宮神社

御香宮神社

 たとえば、これなどは祭神の神功皇后を描いたものとも思われます。また近くに師団があったせいか、明治以降の軍事的な絵馬も見受けられます。


 算額とは?

 そんな中で、少し変わり種の絵馬があります。

御香宮神社

 文字はほとんど消えかけていて、判読できません。ただ、画面上部に丸がいくつも描かれているのがわかります。
 実は、これ「算額」というものなのです。江戸時代、日本独自に発展した数学=和算の問題を記したものです。

 江戸時代の和算ブームの立役者は、寛永4年(1627)に吉田光由が著した数学書「塵劫記(じんごうき)」です。これは、やさしい数学の教科書で、江戸時代のベストセラーのひとつでした。何度か改版しましたが、寛永18年(1641)の版では、巻末に解答の示されていない問題(遺題といいます)が12問掲載されていました。しばらくして、この問題の解答を自著に載せた数学者が現れたのですが、彼もまた新しい問題を掲載したのです。こんなふうに、次から次に問題を出したり解いたりするブームが起こったのでした。これを「遺題継承」といいます。数学史では、この遺題継承が和算の急速な発展に貢献したといわれています。
 算額には、問題と解答の両方を書くものもありましたが、問題だけを掲げるものもあって、これはまさに遺題継承というわけです。みんなが神社に奉納された算額を見て問題を解き、その答えも算額の形にして奉納したのでした。


 御香宮の算額は、どんな問題?

 さて、これからが今日の一番むずかしいところです(笑) 私は文系人間で数学はからきしダメなのですが……

御香宮神社

 たとえば、写真の右端の白い円。これがひとつの問題です。円の左上方が四角く欠けていますが、ここに長方形が画いてあり、その中に「天」という円と「地」という円が入っています。
 さて、問題です。大きな円の直径が13寸、長方形のタテが3寸、ヨコが4寸だったとき、「天」の円と「地」の円の直径は、それぞれいくらでしょう?

算額の問題 『近畿の算額』より
※この図の「天」と「地」は逆に印刷されていると思われます。大きい円を「天」と考えてください
 
 算額には、このあとに解法が記されています。残念ですが、私にはむずかしくて、とても説明できません。ただ、答えだけはわかるので書いておきます。解法は数学が得意な方に聞いてみてください。

 答え:「天」の円の直径は2寸4分、「地」の円の直径は1寸6分

  ※『近畿の算額』から引用した上図は「天」と「地」が逆と思われ、大きい円を「天」、小さい円を「地」としています。

 この算額には7つの図が画かれていて、それが幾何学の問題になっているのです。円の直径を解く問題が多いようです。
 一般に算額には、内接円に関する問題や三平方の定理を使う問題などが頻出しているみたいですね。もちろん幾何以外に代数の問題もありました。

 なお、この算額は、西岡天極斎と西岡菊斎が文久3年(1863)9月に奉納したものです。かすかに表題の「日下開算西岡流/算題」という文字が読めます。いまでは僅かに読める程度ですが、西岡流の門人112名の名前が列記されているそうで(野々山省吾氏の調査)、伏見近辺の弟子が多いのは当然ですが、離れた近江の門人が数多く含まれているのが目に付きます。

御香宮神社
 絵馬堂全景

御香宮神社
 葡萄文様の蟇股が美しい(北側の妻)


 復元された算額

 この絵馬堂には、復元算額も掲げられています(日本数学史学会近畿支部の製作、1975年)。

御香宮神社

 天和3年(1683)に山本宗信という人が御香宮に算額を奉納したらしいのです。らしい、というのは、現物は残っておらず、長谷川鄰完という人がその解答を八坂神社に奉懸していることからわかるのです。長谷川の算額は、元禄4年(1691)のもので重要文化財に指定されています。

御香宮神社

 少し見づらいですが、こんな問題でした。
 
 数学史学者たちの調査により、全国に1000面近い算額が残されていることがわかっています。京都でも、北野天満宮、八坂神社、安井金比羅宮、長岡天満宮、丹後の智恩寺など、多くの寺社に算額がありますが、貴重な文化財のために収蔵されていて見られないものもあります。

 数学がお好きな方は、算額や和算の本はたくさん出版されていますので、ぜひチャレンジしてみてください! 苦手な私は、このくらいにしておきます(笑)


御香宮神社 御香水




 御香宮神社

 *所在:京都市伏見区御香宮門前町
 *拝観:境内自由
 *交通:近鉄電車桃山御陵前駅より、徒歩約3分、京阪電車伏見桃山駅より、徒歩約5分



 【参考文献】
 近畿数学史学会『近畿の算額 数学の絵馬を訪ねて』大阪教育図書、1992年
 小寺 裕『だから楽しい江戸の算額』研成社、2007年
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)


京都の西国三十三所(1)

寺院




革堂


 現在と違った札所の順番

 関西を中心にひろがる33か所の観音霊場を巡る<西国三十三所巡礼>。
 その歴史は古く、札所の各寺院を巡ると「徳道上人」とか「花山法皇」とか古い名前がたくさん出てきます。それがいつの時代なのか、なかなかピンと来ませんね。
 徳道上人や花山法皇の巡拝は現実には行われていないと思われますが、では実際に西国三十三所が巡拝されたのがいつ頃かというと、12世紀頃と考えられます。三井寺の「寺門高僧記」などに記されている三井寺の行尊(1055年-1135年)、あるいは覚忠(1118年-1177年)が行ったとされていて、特に覚忠による巡拝(応保元年=1161年)が確からしいと考えられています。
 その頃は、現在の一番・青岸渡寺~三十三番・華厳寺という順序ではありませんでした。行尊が150日かけて回ったという巡拝は、奈良の長谷寺から始まり宇治の三室戸寺で終わっています。一方、覚忠は那智から始めて三室戸寺まで、75日で巡拝しています。三室戸寺は三井寺の末寺(寺門派)であったので、彼らがここで巡拝を終えるのも道理があるといえるでしょう。(覚忠のルートは末尾にまとめています)

 この時代、つまり平安時代の巡礼は、五来重氏の平易な言葉を借りれば「プロの巡礼」でした。行尊や覚忠らも修験者ですから、プロの「聖(ひじり)」です。一般の民衆が巡礼するようになるのは、ずっと後の時代、室町時代頃になります。

 そんなことで、西国三十三所の観音霊場は、平安時代末頃(院政期)の修験者の修行場や居所と関係がありました。上醍醐寺(十一番)、善峰寺(二十番)、中山寺(二十四番)、清水寺(播磨、二十五番)、円教寺(二十七番)、成相寺(二十八番)、宝巌寺(竹生島、三十番)など、修験者ゆかりの地がたくさんみられます。また、今熊野観音寺(十五番)、六波羅蜜寺(十七番)、六角堂(十八番)、革堂(十九番)など京都市中の寺院は、修験者が街に出て布教を行った基点です。
 覚忠なども、山林修行した修験者ですから、霊場を経巡るなかで、それを結んだ三十三所巡礼がなされたのでしょう。

 ちなみに、現在の那智から美濃・谷汲というルートは、東国からの巡礼者(伊勢詣りから始める)の便宜に叶っているルートです。「西国」三十三所という名称も<関東から見た西国>という意味合いです。


 京都の11か寺

 このことからいえば、現在、京都府内にある11の札所(番外を除く)のほとんどは、修験の霊場、あるいは市街地に置かれた基点のようなものとみることができます。もっとも清水寺のように、それ以前から京の貴顕に信仰されていた観音の霊地もあります(大和の長谷寺、近江の石山寺などもこのケースです)。
 念のため、京都の11か寺をあげておきましょう。

  十 番  三室戸寺
  十一番  上醍醐寺
  十五番  今熊野観音寺
  十六番  清水寺
  十七番  六波羅蜜寺
  十八番  六角堂(頂法寺)
  十九番  革 堂(行願寺)
  二十番  善峰寺
  二十一番 穴太寺
  二十八番 成相寺
  二十九番 松尾寺

 現在のように府県の区画はなく、道に従ってゆくので、京都の間に滋賀県や兵庫県が挟まっています。

 ということで、回を改めて、この11か寺を巡り訪ねてみましょう。
 そこには、庶民の信仰が息づいています。


三室戸寺




 【参考】覚忠が行った巡拝の順序(1161年)

 1.那智山
 2.金剛宝寺
 3.粉河寺
 4.南法華寺
 5.龍蓋寺
 6.長谷寺
 7.南円堂
 8.施福寺
 9.剛林寺
 10.総持寺
 11.勝尾寺
 12.仲山寺
 13.清水寺
 14.法華寺
 15.書写山
 16.成相寺
 17.松尾寺
 18.竹生島
 19.谷汲山
 20.観音正寺
 21.長命寺
 22.三井寺南院如意輪堂
 23.石山寺
 24.岩間寺
 25.上醍醐
 26.東山観音寺
 27.六波羅蜜寺
 28.清水寺
 29.六角堂
 30.行願寺
 31.善峰寺
 32.菩提寺(穴憂寺)
 33.御室戸寺




 【参考文献】
  速水 侑『観音信仰』塙書房(塙選書)、1970年
  佐和隆研『西国巡礼 三十三所観音めぐり』社会思想社(現代教養文庫)、1970年
  五来 重『西国巡礼の寺』角川文庫、2008年(原著1995年)



きょうの散歩 - 夷川ダムと北垣国道像 - 2012.9.20

洛東





夷川ダム


 岡崎公園から西に向いて疏水が流れています。流れに沿って東大路を越えたところに、大きな池のような場所があります。ここが夷川ダムです。

夷川ダム 夷川ダム

 私の父は子供の頃、「踏水会」という水泳学校に入っていて、ここでよく泳いだそうです。戦前のこととは思いますが、のんびりしていたんですね。踏水会は今もありますけれど、その沿革を調べてみると、明治29年(1896)に大日本武徳会遊泳部として始まったそうですから、この場所は武徳殿(現・京都市武道センター)のすぐ西で、好都合な場所だったのでしょう。

 向う岸に銅像が建っています。

北垣国道像

 北垣国道という京都府知事を務めた人物の銅像です。
 北垣は、天保7年(1836)、但馬国養父郡(現在の養父市)に生まれ、明治維新後は官吏として実力をつけ、明治14年(1881)に京都府知事に着任しました。その任期は11年半に及び、その間に琵琶湖疏水の実現(明治23年竣工)など京都の近代化に貢献しています。
 夷川ダムには発電所が設けられていますが、これは大正時代に完成したものです。この場所は、彼の銅像が建つのにふさわしいところといえるでしょう。

 銅像は明治35年(1902)に建立されましたが、戦時中の金属供出で一旦失われました。疏水百周年の平成2年(1990)に再建されたそうです。台座は当時のものといいます。

 明治時代の知事像が、子供の水泳をじっと眺めているさまを想像すると、なんとなく微笑ましくなりますね。

北垣国道像 北垣国道像

戦前の北垣国道像 戦前の北垣国道像


戦前の北垣国道像 
『京都名勝誌』掲載の北垣国道像(上の写真は部分拡大)
「石壇の高さ一丈四尺・銅盤の高さ一尺・銅像の高さ一丈、毅然たる厳容の中に温乎たる風丯を存し、左手に疏水測量地図を持てる貌、長へに市民景仰の的たるべし」とある




 夷川ダム

 *所在:京都市左京区聖護院
 *見学:自由
 *交通:京阪電車丸太町駅より、徒歩約5分
 


 【参考文献】
 『京都名勝誌』京都市役所、1928年
 塵海研究会編『北垣国道日記「塵海」』思文閣出版、2010年
 



七宝家・並河靖之を訪ねたイギリス人 - ポンティング『英国人写真家の見た明治日本』(2)

洛東




並河靖之記念館


 英国人写真家、並河靖之を訪ねる

 社寺を訪れたポンティングは、京都の工芸家にも関心を示しました。金工、陶工などに続いて、最もページを割いて記述したのが、七宝焼の工房です。彼が訪ねた七宝家が、並河靖之でした。
 並河は、弘化2年(1845)、京都に生まれ、11歳で並河家の養子となります。時代は明治となり、並河は七宝の道に入り、明治6年(1973)に、最初の作品、直径6寸(約18cm)ばかりの「鳳凰文食籠」を作り上げました。以後、大正12年(1923)に工房を閉じるまで、日本を代表する七宝家として斯界をリードしました。明治29年(1896)には、帝室技芸員にも選ばれています。

白川
 並河邸に程近い白川の流れ

 人力車に乗ったポンティングは、粟田口の静かな横町にある仕舞屋の前に降り立ちます。それが、並河の自宅であり工房でした。

並河靖之記念館
 明治27年(1894)竣工の並河邸(登録有形文化財)

 いま、記念館となったその邸を訪れると、京町家らしい表家造(おもてやづくり)の建物だと分かります。

 庭をちらりと横手に見て案内されたのは、純然たる日本間であったが、ただその一隅に大きな戸棚と優美な中国風の黒檀のテーブルが置いてあった。
 この部屋で並河氏と初めて会ったのだが彼は落ち着いた話し方をする物腰の丁寧な人物で、その洗練された古風な顔立ちは、芸術家特有の優しい感受性と豊かな性格を表していた。(中略)彼は英語を話さなかったが、義弟の通訳にすべてを任せており、一緒にお茶を飲むよう勧めてくれた。(96-97ページ)

 
並河靖之記念館

 並河邸には、庭に面して開けた2室があり、手前の方の一室には今も絨毯の上に丸いテーブルと4脚のソファーが置かれています。ポンティングが通された部屋も、おそらくここだったのでしょう。
 ポンティングは、並河の紳士然とした風貌を紹介しながら、外国人への対応にも慣れていると述べています。明治27年(1894)に新築された並河邸は、外国人客の訪問にも適したように建築されたといい、鴨居を高くし、縁にはガラス障子をめぐらせています。

 並河氏は芸術家であると同時に実務家でもあった。私がお茶を啜っている間に、彼は手近の戸棚から数個の箱を選び始めていた。一ダースほどの箱を選び出すと、それを私の前のテーブルに置いて、早速その一つを開いた。そして、その中から黄色い薄手の綿布にくるんだ包みを取り出した。包みを開くと、もう一枚同じような布の包みがあり、それを開くとさらにもう一つ絹でくるんだ包みがあった。彼は絹の布を開いて、一個の七宝を私に見せてくれたが、それはデザインにおいても色調においてもきわめて優れたもので、私が今までに見た最高の品物でさえ、それに比べると未熟な作品としか思えなかった。彼は次々と箱を開いて、鮮やかな珠玉のような美術品を目の前に並べたとき、私は紛れもない名匠の前にいるのだということを、自ずと悟ったのである。というのは、その作品はいずれも正真正銘の傑作揃いだったからである。(98ページ)

 英国人写真家は、赤、緑、群青、紫など色とりどりで、美しい模様に飾られた「小さな壺や小箱」を見ました。それらはおそらく、小花瓶や香炉や香合や煙草入れだったのでしょう。今、記念館で見るそれらの品は、鮮やかな発色を保っており、藤、菊、秋草などの草花文から、鳳凰や近江八景のようなエキゾチックな絵柄まで、微細な文様を呈していて愛らしく、如何にも西洋人好みの品々です。
 藤の意匠の花瓶などを見ると、大阪の陶画工・藪明山の細密な薩摩焼を彷彿とさせ、これらが外国人向けの作品だと分かります。
 ポンティングは、並河の工房も見学します。

並河靖之記念館
 屋根瓦に「並」印が

 私が見たのは、長さが二十フィートくらいの塵一つない部屋で、床には畳が敷いてあり、その上に置いたいくつかの小さな机の上で、十人の職人が仕事をしていたが、自分の仕事に熱中していたので、我々が入っていっても、ほんの一瞬目を上げただけだった。その近くにいた二人の職人は一生懸命に擦ったり磨いたりしていた。
 これが並河氏の工房に働く人々の全員であった。この部屋で七宝の制作過程を、焼き付けを除いて全部見ることができた。
 職人はそれぞれが小さい優美な花瓶や綺麗な壺に向かって仕事をしていたが、優雅な形をしたそれらの品物の上に、ゆっくり着実に美しい模様が描かれ、色付けされていくのであった。ある机の上では、青銅の花瓶に装飾的な模様を描いているところであったが、それは手本を写しているのではなく、職人が自分の頭の中にある模様を小さな筆と墨で、直接花瓶に描いているのであった。他の机の上では、職人がほんのわずかな幅に平らに延ばした金の針金を小さく切っていた。その小さな金線を、模様の細かい部分の形に合わせて注意深く曲げて、模様の線の上に液状の接着剤をほんの少しつけて接着するのである。もう一つの机では、金線の模様がちょうど出来上がったところだった。下地になる銀の花瓶の表面に、浮き出した金の線が美しく細工されていた。並河氏の作品は、模様の美しさとともに、単色の下地に光沢があり清澄であることで名声を得ていた。だから、この金の飾りは表面のごく一部を覆っているだけであった。その意匠は、桜の小枝が一、二本とその間に小鳥が舞っている構図であった。模様はそれだけで、後はエナメルを入れるばかりになったこの状態でも、十分美しく見えた。というのは、小鳥の小さな翼や胸の羽一枚一枚が細かく細工され、桜の花弁や萼[がく]や花芯の一つ一つが色のエナメルを塗るために金の網目細工で丁寧に区切られていたからである。七宝[クロアゾネ]の名はこの間仕切り[クロアゾン]に由来する。(104-105ページ)



 ポンティングの制作工程を見る目は、確かで丁寧です。並河が行っていた技法は「有線七宝」というもので、銅などの素地に下絵を描いたあと、釉薬が混じり合うのを防ぐために「線」を張っていくのです。この線は、金や銀で出来た極めて細いリボンのようなもので、それを立てて張ります。その「間仕切り」された区画に釉薬を差していくのです。
 釉薬を差したあと、焼成にかけ、また釉薬を差して焼成する、という作業を繰り返します。この繰り返しは、通常3回以上も行われるそうで、ポンティングの記述では「最後の仕上げをする前に、7回これを繰り返す」と書かれています。焼成に使われる窯は、並河工房の場合、煉瓦を組み合わせただけの非常に小さなもので、そこで1つずつ丁寧に焼いていきます。ポンティングによると、この「一番重要な仕事」は並河自身が行っていたということです。
 そして最後の焼成の後は、研磨にかけて仕上げます。この作業は大変で「時によっては何週間も磨かねばならない」といいます。

 七宝の仕事は分業になっており、並河はデザインや焼成を手掛けるとともに、全体の監督者でした。英国人写真家が「現代における日本の最高の七宝師」というように、無線七宝で知られた東京の濤川(なみかわ)惣助と並び立つ存在だったのでした。


 小川治兵衛の庭園で

並河靖之記念館

 並河邸の庭は、著名な作庭家・小川治兵衛(七代)の手になるものです。中の島を持つ池には、鯉が悠然と泳いでいます。

並河靖之記念館

 家は池の上に突出して建っていたが、この家の主人が縁側に出てくると、池の表面がまるで突風が吹いたように波立った。それは池の方々から黒や斑や金色の大きな鯉が、跳ねたりぶつかり合ったりして水を泡立てながら、文字どおり主人の足の下に急いで集まってきたからであった。彼が一握りの麩(ふ)を投げ与えると、鯉は鼻先を水に突き出して、狂ったように騒いで賑やかに物音を立てながら、おいしい餌をむさぼり食うのであった。(中略)
 正面の小さな島の背の低い松の木陰に、一匹の亀がじっと我々を見つめていた。私が餌を投げてやっても、それは動かなかった。もう一度投げてみたが、全く動く気配がなかった。
 「どうして餌を食べないのですか?」と私が聞くと、並河氏は笑って「食べられないのですよ。あの亀はブロンズですから」と答えた。(102-103ページ)


 上の写真の縁側のガラス障子を開けて、並河達は餌をやったのでした。そして、

並河靖之記念館

 中の島には、今でも“動かない亀”が一匹います。
 いま並河邸を訪れると、この落ち着いた庭と美しい七宝の数々に心がなごみます。


満足稲荷の鳥居
 満足稲荷神社の鳥居

 並河靖之七宝記念館を辞して、西へ行った東山三条上るに満足稲荷神社があります。その鳥居は大正3年(1914)に奉献されたものですが、裏面には奉納者の氏名が刻んであり、そのなかに並河靖之や小川治兵衛の名があるのでした。並河はここの氏子だったのでしょうか。

満足稲荷の鳥居
 右端に「並河靖之」とある




 書 名:『英国人写真家が見た明治日本 この世の楽園・日本』
 著 者:H.G.ポンティング
 訳 者:長岡祥三
 出版社:講談社(講談社学術文庫1710)
 刊行年:2005年



 並河靖之七宝記念館

 *所在:京都市東山区三条通北裏白川筋東入堀池町
 *見学:大人600円ほか(月・木曜日休館、夏季・冬季休館あり)
 *交通:地下鉄東山駅より、徒歩約3分

 建物・七宝資料は登録有形文化財、庭園は京都市指定名勝



 【参考文献】
 『並河靖之七宝記念館 館蔵品図録 七宝』同館、2010年



絵馬堂が意外におもしろい!(2) - 北野天満宮 -






北野天満宮絵馬


 大きな絵馬堂

 絵馬堂の規模はさまざまですが、時折とても大きなものに出会います。たとえば、八坂神社の絵馬堂。

八坂神社

 桁行七間、梁間二間、入母屋造の長い建物です。外には大ぶりの絵馬が多数掛けてあるのが見えますが、中は柵があり入れません。建築は、見た感じは江戸時代のものと思われ、「京都御役所向大概覚書」にも、正保3年(1646)の社殿等修復の時には絵馬堂はなかったようですから、それ以後に建てたと考えられます。
 絵馬は著名な絵師の描いたものが多数奉納されているといいます。池大雅「蘭亭園」、海北友松「仁田忠常斬猪」、狩野探幽「梶原花箙」、そして元禄4年(1691)に長谷川鄰完が奉納した算額(重要文化財)などがあります。

 八坂神社と同じくらいの規模の絵馬堂が、これです。

北野天満宮

 北野天満宮絵馬所。
 こちらは、いつ建てたかはっきり分かっていて、元禄13年(1700)から14年(1701)に行われた天満宮の修理の際の建物です。「京都御役所向大概覚書」にも、「絵馬掛所 桁行拾間/梁ま三間」とあります。ここの間数は実際の長さで、約18m×5.4mということになります。ちなみに、柱間でいうと、桁行六間、梁間二間です(のちに西南部分を増築しています)。
 「都名所図会」(1780)にも「絵馬堂」として登場していて、現在地よりも中門(三光門)寄り西側の位置に、南北に長く建てられていました。のちに移築されたのですね。

 この絵馬所が完成する前にも、先代の絵馬所がありました。天満宮の記録によると、元禄11年(1698)に御文庫・絵馬堂・愛染堂の修理が計画されましたが、絵馬堂の修理だけは認められませんでした(『北野天満宮史料 宮仕記録 続二』元禄11年3月6日条)。そして、元禄14年(1701)4月の「宮仕(みやじ)記録」によると、「このたび『掛所』を新造するので、正殿[本殿]はもちろん末社・諸堂にも絵馬を掛けることは禁じる」と定められたといいます。
 天満宮の記録を読んでいると、現在の絵馬所ができるまでは、結構本殿などにも絵馬を奉納していたことがわかります。それを新絵馬所に集約したわけですね。


 何の絵馬だろう?

北野天満宮

北野天満宮

 内外には、多くの絵馬が掲げられています。私の母方はこの近所なのですが、親戚の名前が大勢書かれている絵馬もあって、思わず微笑みます。大きな額もかなりありますね。
 これらのうち、慶長13年(1608)に制作された長谷川等伯筆「昌俊弁慶相騎図」(重要文化財)などの絵馬は、宝物殿で保管されています。

北野天満宮

 これは源平の合戦を描いたものらしく、社僧である宮仕の能悦が奉納したもの。野々村信武(通正)により元禄4年(1691)11月に描かれたと記されています。
 「宮仕記録」によると、元禄4年12月に、「9日、能悦坊より、大絵馬を掛けられるので、足場の道具[はしごのようなもの?]を松梅院で借りられた」と書かれています。この「大絵馬」が今掛かっている写真の絵馬になるのでしょう。
 
 さて、ひときわ目立つのが、この絵馬です。

北野天満宮

 強力の山伏が法力で船を投げ飛ばしている。脇には若侍が一人。この構図を見て直観的に想起するのは、やはり「牛若丸と弁慶」ですね。
 ところが、調べてみると違うのでした。


 阿新の物語

 絵の若者は「阿新」、「くまわか」といいます。南北朝時代の人で、公家・日野資朝の子です。
 父の資朝は後醍醐天皇に取り立てられましたが、天皇の討幕計画の露見により、自らも佐渡へ流されました(いわゆる正中の変)。子の阿新は、父に会うため佐渡に向かいますが、守護・本間入道は面会を許さず、逆に資朝を斬ってしまいます。父の敵討ちを誓った阿新は、本間の屋敷に潜入しますが、敵は不在で果たせず、代わりに父を斬った入道の嫡子・本間三郎を討ちます。
 しかし、阿新は追っ手に迫られ危機一髪。かろうじて逃れ、湊へ向かう途中、年老いた山伏と出会います。ちょうど一艘の船が湊を出ようとしており、山伏は法力で逆風を起こして船を湊へ引き戻します。阿新は、無事に乗船して越後に脱出するのでした。

 これが「太平記」などに見える阿新の物語です。彼は、のちに日野邦光(国光)と名乗り、父と同じく後醍醐天皇に仕えたそうです。
 
 お分かりでしょう。絵に描かれた場面は、佐渡を脱出する阿新と山伏(大膳坊ともいう)を画いたもの。すでに出帆した船を法力で引き戻す山伏を力強く描いています。

 画面をよく見ると、「延享四歳 丁卯 正月」とありますので、1747年の制作です。絵師については「光政画」とあるように見えます。宮仕の能也の奉納です。
 
 ところで、なぜこのような絵馬が奉納されたのでしょうか。江戸時代になると、太平記読みによって「太平記」の物語が人口に膾炙し、また阿新の話は謡曲「壇風」として知られていました(阿新は梅若、山伏は帥の阿闍梨(そつのあじゃり)となっています)。現在の私たちは、この物語をほとんど知らないのですが、江戸時代の人達にとっては割合ポピュラーだったともいえるでしょう。
 神社では謡(うたい)が奉納されることが多々あったので、この絵馬も奉納謡にかかわって掛けられたものとも推測できるでしょう。

 絵馬ひとつとっても、いろんな物語が秘められていて愉しいですね。
 
 それにしても、現代人と近世の人々との大きな文化のギャップ。「太平記」や謡曲といってもピンと来ない現代っ子の私は、少し反省させられたのでした。



 北野天満宮絵馬所

 *所在:京都市上京区馬喰町
 *拝観:境内自由
 *交通:市バス北野天満宮前下車、すぐ



 【参考文献】
 『北野天満宮史料 宮仕記録 続一・二』北野天満宮、2006~07年
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)
 『京都御役所向大概覚書』清文堂出版、1973年
 『日本の古典を読む16 太平記』小学館、2008年
 高原美忠『八坂神社』学生社、1972年




絵馬堂が意外におもしろい!(1) - 上御霊神社 -





上御霊神社


 リアルな競走馬の絵も

 神社に行くと、絵馬を奉納した絵馬堂(絵馬所・絵馬舎・絵馬殿)がありますね。
 いまは休憩スペースになっていたりして様変わりしていますが、いまだに古い絵馬を掲げているところも多いですし、変わった絵馬が見られるところも。

 たとえば、藤森神社。

藤森神社の絵馬

 実にリアルな競走馬の絵馬がいくつも掛けられています。さすがに「勝運と馬の神社」と自称するだけのことはあります。5月の藤森祭の駈馬信神事も勇壮ですよね。

 上御霊神社 上御霊神社

 さて、上御霊神社にやってきました。ここにも絵馬所があります。

上御霊神社

 こちらも地元の方の休憩所のようになっていますが、内外に数多くの絵馬が掛けられています。たとえば、このような騎馬武者像。

上御霊神社

 江戸時代のものもありますが、退色が激しく、絵柄も見えづらい状態です。
 明治以降、戦後までのものでは、奉納謡の額が多いですね。

 絵馬堂がおもしろいのは、何百年という歴史の蓄積が「絵馬」というモノによって具体的に目に見えること。古い絵馬から真新しい扁額まで、区別なく掛けられているところが愉しいのです。
 ですから、一枚一枚に脈略がありません。こんなのもあれば、あんなのもある、という感じ。この上御霊神社で異色に見えたのは、この一枚でした。

上御霊神社

上御霊神社

 甲冑を身にまとい、弓を持った古代の武人。さて、誰なのか?

 額をよく見ると、「紀元二千六百年記念」「昭和十五年六月 愛国婦人会室町分会」とあります。愛国婦人会は、国防婦人会とならぶ戦時期の女性銃後団体。室町は、このあたりの地区を指しています。
 そして紀元二千六百年は、ご承知の通り、起点が神武天皇の即位ですから、絵柄からみてこれは「神武東征」の図。人物はもちろん神武天皇ということになります。

 下の絵は、明治30年(1897)刊行『畝傍山』の表紙。中央が神武天皇で、弓の先に金鵄が留まっています。

「畝傍山」

 さて、絵馬ですが、見るからに近代の歴史画という趣きで、甲冑や装束、持ち物は考証されているようでもあります。手に持っているのは、須恵器の杯でしょうか。
 気になるのは、誰が描いたかということ。頼りになるのは落款ですが……

上御霊神社

 なんとか気力で読んでみると…… 上の印には「加藤」とあり、下は文字面でいえば「頴泉」(えいせん)と読めます。

 果たして、調べてみると、加藤頴泉という画家が京都にいました。名前は修というそうなので、上の印の左側は「修」なのでしょう。残念ながら事績はよく分からないのですが、しっかりした絵を画かれていますから、当時は名の通った人だったのかも知れません。

 ちなみに、額は寺町高辻(下京区)の「中村美工堂」製と記してあります。こちらは、現在も営業されており、ウェブサイトもあります。

 紀元二千六百年に画かれた絵。皇国史観そのものを表しているようでもあり、それが神社の絵馬所に奉納されるのも時代性を表しています。この絵馬所で、この一枚だけが際立っていて、とりわけ「加藤頴泉」という画家のことが気に掛かって仕方ありません。また少し調べてみましょう。



 御霊神社(上御霊神社)絵馬所

 *所在:京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町
 *拝観:境内自由
 *交通:地下鉄鞍馬口駅より、徒歩約3分



 【参考文献】
 大和田建樹『日本歴史譚 第二編 畝傍山』博文館、1897年




【新聞から】 文化財の修復に悩む寺社

寺院





「京都の寺社 改修に苦悩」日経2012年9月1日付

改修に入る平等院鳳凰堂
 改修に入る平等院鳳凰堂


 この9月3日から、平等院が改修期間に入りました。それにあわせて、日本経済新聞が改修の資金不足に悩む寺社の実情をレポートしています(京都支局長・瀬崎孝 氏)

 記事によると、現在修復中の主な寺社は、次の通りです。

 ・上賀茂神社(若宮神社)
 ・下鴨神社(橋殿)
 ・金戒光明寺(山門)
 ・知恩院(御影堂)
 ・建仁寺(方丈)
 ・清水寺(朝倉堂・子安塔)
 ・東本願寺(阿弥陀堂)
 ・東寺(東大門)
 ・萬福寺(松隠堂)

 私も、この1年間に上記の寺社を訪れていますが、修理中の囲いや覆いがかかっていましたね。他に、先日レポートしたように、仁和寺の勅使門なども修理工事をしています。

知恩院御影堂 知恩院御影堂

東寺東大門 東寺東大門

 記事は、「檀家や氏子が減った影響で、寺社経営はますます厳しくなっている」という後藤由美子氏(京都古文化保存協会)のコメントを紹介。また、墓地経営や旅行会社に働きかけるなど収入アップに努力する寺院の例をあげています。しかし、「補助金で費用の半分をカバーできても、残りを調達するメドが立たない」と改修自体を先送りにするケースもある、としています。

 なかなか深刻な状況です。文化財建造物の修理には、解体修理・半解体修理・屋根葺き替え・塗装工事などがあります。では、それにいくらくらいの金額がかかるのでしょうか?
 一例として、昭和61年(1986)から平成3年(1991)にかけて実施された知恩院三門(国宝)の半解体修理について紹介します。

 総工費  7億5722万9650円

 その出資の内訳は、

 国庫補助       4億1240万5000円
 京都府補助        1623万円
 京都市補助        1800万円
 所有者(知恩院)他  3億1059万4650円

 でした。20年前でこの金額です。

 最近の事例はどうでしょうか。最大規模の木造建築のひとつ、西本願寺御影堂の半解体修理は平成20年(2008)に竣工しましたが、総事業費は55億7150万円だったそうです。そのうち、国庫補助は33億4283万7000円でした。
 一般に、国の補助は半額ほど、それに加え都道府県・市町村の補助もありますが、所有者の負担は莫大になります。知恩院や西本願寺は信者さんも全国に多数おられるわけですが、それでも資金集めは大変です。

 西本願寺御影堂の修理の際には、「ありがたや親鸞さまの傘となり」というフレーズのもと、多くの方から寄付を募ったそうです。葺き替えた瓦の枚数だけでも、11万5千枚になったといいます。

 日本の文化財建造物の保護は、明治30年(1897)の古社寺保存法から本格的に開始され、100年余りで2000棟を超える修理工事に国庫補助金が投入されました。しかし、修理の必要な建物は多く、近年は近代の建造物も対象になり、負担は増大しています。

 指定文化財は、基本的には取り壊しされるという心配はないものの、このような問題を抱えています。修理に対する社会的関心を高める意味で、信者さん以外にも広く寄付を募るなど、社会的なアピールが必要なのではないでしょうか。



宇治の平等院にある隠れた見どころ(2) - 羅漢堂 -

宇治





浄土院羅漢堂


 禅宗様の建築

 平等院の境内には、天台宗の最勝院と浄土宗の浄土院という2つの寺院があります。今回は、浄土院にあるひとつのお堂を取り上げてみましょう。
 羅漢堂という建物です。鳳凰堂や観音堂など和様の名建築がある平等院で、これだけは異彩を放つ禅宗様です。時代はぐっと下り、江戸時代前期の建築。棟札によると、寛永17年(1640)とのことで、当地の茶師・星野道斎らが施主となっています。

 全体像は、以前取り上げた普済寺にある仏殿と同様、典型的な禅宗様です。

普済寺仏殿
【参考】普済寺仏殿(南丹市園部)

 見渡しますと、屋根は入母屋造本瓦葺、組物は出三斗で、普済寺のように組物ぎっしりの詰組ではありません。その下、中央には虹梁に大瓶束を立て、欄間は菱格子。扉は桟唐戸、窓は花頭窓ですね。
 全体のイメージは普済寺仏殿と似ていますが、細部はかなり異なっています。

浄土院羅漢堂
 組物と大瓶束

浄土院羅漢堂
 菱格子欄間と花頭窓

 禅宗様ですので、柱は上部が細くなる「粽(ちまき)」ですし、足もとには礎盤があります。

浄土院羅漢堂
 礎盤

 柱の真下の丸く加工した石を礎盤と呼んでいます。
 ところが中村達太郎博士は、かつて、通常の呼び方を否定して、<これは礎盤ではなく沓石(くついし)であり、その下の石が礎盤なのだ>と述べています(『日本建築辞彙』)。主張の根拠は定かでないのですが、いまふつうには一番下の石を礎石とか根石と呼んでいます。
 でも、中村博士のこういうこだわり、私は好きです。

 いずれにせよ、柱の上下にも禅宗様の特徴が表れています。


 十六羅漢を祀る

 堂内を見ますと、多くの仏さまが安置されています。真ん中におられるのは釈迦如来ですが、冠や瓔珞を付けている宝冠釈迦如来坐像です。そして、脇には十六羅漢像などが配されています。
 宝冠釈迦如来は、あまり見かけない仏さまです。冠や首飾り(瓔珞=ようらく)を着けておられますから一見すると観音さまのようですが、十六羅漢と一緒ということからもお釈迦さまだとわかります。
 宝冠釈迦如来と十六羅漢の組み合わせは、京都でいうと東福寺三門と同じ形ですね。東福寺三門の上層に上がってみると、幅広い室内にずらっと十六羅漢像が安置されており壮観です。

 羅漢は悟りを開いた高僧を指しますが、釈迦入滅に際して正法を伝えられた者ということで、禅宗では敬われ画像が数多く残されています。人数も、十六羅漢、十八羅漢、五百羅漢などがあり、残された図像にも東福寺の五百羅漢図(明兆筆)や萬福寺の十八羅漢像(范道生作)などがよく知られています。

 東福寺の三門内は、梁や天井が極彩色に彩られており、息を呑むような美しさです。この浄土院羅漢堂も同様に、室内が彩られています。柱や組物などには文様が描かれていますが、鏡天井には龍図が、そして須弥壇には蓮池や唐獅子が描写されています。特に龍図は退色も少なく、くっきりと姿を見せています。
 ふだんは堂内には入れないのですが(開いた扉から拝観できます)、なかなか愉しいお堂ですので、一度のぞいてみてください。



 浄土院羅漢堂(宇治市指定文化財)

 *所在:宇治市宇治蓮華(平等院内)
 *拝観:有料 (2012年9月3日~2014年3月31日に限り、大人300円ほか)
 *交通:京阪電車宇治駅より、徒歩約10分



 【参考文献】
 中村達太郎『日本建築辞彙[新訂]』中央公論美術出版、2011年(原著1906年)
 石田茂作『仏教美術の基本』東京美術、1967年
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)








宇治の平等院にある隠れた見どころ(1) - 観音堂 -

宇治





平等院観音堂


 鳳凰堂だけではない平等院の愉しさ

 2012年9月3日から、国宝の平等院鳳凰堂が屋根瓦の葺き替えや柱の塗装などの修理に入ります。それに伴い、堂内の拝観が停止になり、外観も足場等に覆われて見られなくなるそうです。

平等院鳳凰堂 鳳凰堂と百日紅

 残念なことですが、これをきっかけに鳳凰堂以外の文化財に目を向けてみるのもよいかも知れません。
 そこで、今回は2回にわたり見逃しがちなお堂を紹介しましょう。
 第1回は、観音堂です。


 「釣殿観音」ともいわれた堂

 藤原頼通は、父・道長の別業を受け継いで、永承7年(1052)、寺としました。これが平等院のはじまりで、翌年、阿弥陀堂(鳳凰堂)が建築されます。永承7年に建築されたのは、宇治川に釣殿を突き出したお堂で、大日如来などを祀っていたといいます。これがもともとの本堂というわけですが、それが現在の観音堂の位置にあったといわれています。
 観音堂は「釣殿観音」とか単に「釣殿」とも呼ばれていたようで、「都名所図会」にも「釣殿観音堂」として紹介され、陽成院が建てた宇治院の釣台があったところと記しています。
 もっとも、いまに残る観音堂は当初のものではなく、鎌倉時代前期の建築と考えられています。

平等院観音堂
 側面(北側)

 観音堂は、桁行七間、梁間四間、寄棟造の比較的大きなお堂です。
 正面はすべて開口部で、中央三間が開戸、左右二間ずつが引戸になっています。側面は扉と連子窓が付いています。

平等院観音堂

 組物は大斗肘木で、中備は間斗束と簡素です。

平等院観音堂

 垂木ですが、断面をよく見ると、下の方(地垂木)は楕円、上の方(飛檐垂木)は四角になっています。いわゆる「地円飛角」というもので、より古風な形式です。これは、先にあった鳳凰堂にならったとも考えられています。ただし、鳳凰堂の地垂木は楕円でなく正円に近い形です(写真下)。

平等院鳳凰堂
 鳳凰堂の垂木

 このような特徴が鎌倉時代よりは古い形式だとして、建築年代については難しい問題でもありました。
 かつて建築史家の藤原義一は、「即ち全体として平安様式濃厚な建築であるが(中略)若し平安時代としても極く末期、即ち鎌倉初期とあまり変らぬ時代となり、鎌倉の始め頃に鳳凰堂などの影響を受けたとすればかゝる様式の建築も有り得るわけである」と述べています(『京阪沿線の古建築』)。
 現在では鎌倉時代前期の建築と考えられ、鳳凰堂とならぶ和様の建物として、重要文化財に指定されています。


 仏さまは鳳翔館に

 この堂の本尊は、十一面観音立像です。須弥壇上の厨子に祀られていました。厨子の前には御前立ちの蓮華手菩薩立像がおられます。また、脇侍は地蔵菩薩立像と不動明王立像です。

 このうち、十一面観音立像と地蔵菩薩立像は、平等院のミュージアム<鳳翔館>で拝観することができます。十一面観音立像(重要文化財)は11世紀の作で、一木造、背の高い印象を受ける像で、軽く腰をひねっています。衣には截金の文様が見られますが、これは後世に付されたものといいます。
 地蔵菩薩立像(宇治市指定文化財)は、須弥壇の向かって左におられた仏さまで、10世紀の一木造。像の上体が大きく右にゆがんでいますが、これは元の木材、すなわち霊木の形状を生かして彫ったためと考えられています。

 江戸時代には、このお堂の脇(北側)に大門があり、平等院の入口となっていました。つまり、昔の人はまず、ここの仏さまを拝んでから鳳凰堂に参ったわけです。そう思うと、仏さまの重みもいっそう増す気がします。



 平等院観音堂(重要文化財)

 *所在:宇治市宇治蓮華
 *拝観:有料 (2012年9月3日~2014年3月31日に限り、大人300円ほか)
 *交通:京阪電車宇治駅より、徒歩約10分



 【参考文献】
 藤原義一『京阪沿線の古建築』京滋探遊会、1936年
 五味文彦『日本の中世を歩く―遺跡を訪ね、史料を読む』岩波新書1180、2009年 
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)