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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

きょうの散歩 - 仁和寺 - 2012.8.29

洛西





仁和寺

 思い立って、仁和寺に行きました。
 自転車で40分。晴れたり曇ったりでしたが、汗びっしょりでいい運動になります。

 おなじみの二王門を見ながら、山内へ。
 今日のお目当ては何かというと、勅使門。大正時代の建築で、府の技師だった亀岡末吉の設計ですが、透かし彫りなどの装飾が細かくて、それをじっくり見たいな、という希望。

 ところが……

仁和寺

 修理中でした(笑)
 11月か年末頃まで続くそうです。仕方ないです、文化財保護なので。
 ちなみに、この建物は国宝・重文揃いの仁和寺の中でも登録文化財なのですが(2011年10月登録)、そういうものまで修理するのはよいことですね。価値の高い建築だと思います。

 今日は、そのほかにも発見があったので、門が見られなくても満足です。
 勅使門は、修理が完成したら見に行きたいと思います。



 仁和寺

 *所在:京都市右京区御室大内
 *拝観:自由 ※御殿等は有料
 *交通:市バス御室仁和寺前下車、すぐ



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清水寺の中の神社 - 清水寺鎮守堂 -

洛東





清水寺鎮守堂


 有名寺院の「通」な見どころ

 清水寺といえば、京都で最も旅行者を集めている寺院です。
 “清水の舞台”として知られる国宝の本堂をはじめ、見どころ満載です。しかし、舞台や地主神社、音羽の滝を中心に拝観され、他の箇所は余り見ない方が多いようです。

 今回は、ちょっと通な見どころを紹介しましょう。

清水寺

 清水坂を上っていくと、まず目に飛び込んでくるのが仁王門。右は、西門と三重塔です。
 ふつう、みなさんは仁王門をくぐって進むのですが、くぐる前に左側を見てください。

清水寺馬駐

 比較的きれいな、こんな建物があります。
 これが「馬駐」という施設で、重要文化財に指定されています。桁行五間、梁間二間、切妻造、本瓦葺の建物です。こちらでは「うまとどめ(馬留)」と読んでいますが、「うまつなぎ(馬繋)」でも同じ意味です。
 その用途は名前の通り、“馬の駐車場”。「都名所図会」にも描かれており、「車やどり馬とゞめ」と注記されています。
 このような施設は、馬や牛車による貴人の参詣が多い寺社では、ふつうに設けられていました。たとえば、東寺には北総門の脇に馬駐のスペースがあったことが知られています。江戸時代後期、わざわざ門を南に動かしてスペースを設けたようですが、屋根のある建物ではなく、杭を打った程度のエリアだったようです。
 また、奈良ですが、このような建物もあります。

春日大社車舎

 春日大社の車舎(くるまやどり・くるまや)。牛車のガレージです。すでに平安時代から設置されていたそうですが、この建物は寛永9年(1632)築だそうです(清水寺本堂とほぼ同時期ですね)。桁行五間、梁間三間、流造の建物で、重要文化財になっています。妻側に壁があるだけ、あとは吹き放ちの開放的な造りですね。

 馬を飼っておく厩(うまや)の遺構は各地にありますが、こういう“参拝者用駐車場”を探してみるのも、おもしろそうです。


 春日造の建物

 明治維新後の神仏分離以前は、神社と寺院が共存しているのはふつうの姿でした。
 ご存知のように、現在でも清水寺に隣接して地主神社があり、多くの参拝者を集めています。かつての地主権現ですが、このほかにも、弁財天社など山内にいくつかの神社があり、鳥居も立っていたのです。
 そのなかで、いま参拝できるのが、こちらです。

清水寺鎮守堂

 「鎮守堂」と呼ばれている社殿で、三重塔や鐘楼の左下方(中興堂の脇)にあります。この建物、見るからに神社ですね。神仏分離後に「お堂」にされたのですが、かつては春日社とされていました。その位置は、現在よりも西方で、仁王門の北側にありました。「都名所図会」にも「春日社」と記されています。

 享保年間にまとめられた「京都御役所向大概覚書」にも、「春日社 表五尺五寸 奥行九尺五寸 鳥居有」と出てきます。

清水寺鎮守堂

 写真でわかるように、春日造の社殿です。千木や鰹木はないのですが、切妻に向拝が付けられた形になっていますね。

清水寺鎮守堂 側面

清水寺鎮守堂 木鼻

 木鼻(写真下)は竜頭になっているのか、ある程度、時代が下った建築という雰囲気です。
 では、いつ頃に造られたのでしょうか。

 清水寺は応仁の乱で焼かれ、その後、堂宇は復興されます。ところが、江戸時代の寛永6年(1629)9月10日の白昼、成就院より出火し、本堂をはじめとする多くの建物が焼け尽されました。しかし、西の方にあったいくつかの建物は焼け残っています。
 再び「京都御役所向大概覚書」を見ますと、「鐘撞堂・西門・春日社・馬留は焼失致さず」と記されています(西門は仁王門のことを指すと解釈できます)。そして「ご修復仰せ付けられ候」とあります。焼けなかったけれど、他の再建とともに修理したのでしょう。これによるならば、春日社は応仁の乱後の建物(室町時代後期)であると考えられます。
 ただし、文化庁の国指定文化財等データベースには「寛永頃」となっていて、これは寛永の大火後の再建という意味です。何らかの根拠があるのかも知れないのですが、私は今のところ把握できていません。


 春日社は摩利支天?

 ところで、京都府立総合資料館に「四百年前社寺建物取調書」という史料が所蔵されています。ウェブ上でも閲覧できます。
 明治15年(1882)頃の京都府内の社寺の古建築(主に当時から400年前以前の建物)を、各社寺が府に報告したものです。ここに清水寺も出てきます。
 そこには、応仁の乱後に再建された建物で、明治17年(1884)当時、残されていた建物が書き上げられています。次の4つです。

 ・二王門
 ・摩利支天堂
 ・鐘楼
 ・馬駐

 この4つは、先ほどの「大概覚書」と一致するのでしょうか? やはり「摩利支天堂」というのが不明ですね。しかし摩利支天堂の項には、「但 梁行五尺五寸 桁行一間三尺五寸」とあります。この寸法は、「大概覚書」の春日社にある「表五尺五寸 奥行九尺五寸」と一致します(9尺は1間3寸と同じ)。また、現状の社殿の規模とも合致するように思われます。
 すると、この摩利支天堂=春日社となります。
 おそらく、明治の神仏分離後、春日社は神社では都合が悪いので、摩利支天堂に名前を変えたのでしょう。そして、少なくとも明治時代中頃にはそう呼ばれていた、ということです。

 さらに興味深いのは、「四百年前社寺建物取調書」には「檜造極彩色 屋根檜皮葺」と書かれていることです。
 「極彩色」!
 いまは白木なのに、当時は現在の西門・三重塔・鐘楼などと同様に、色とりどりに塗装されていたのです。かなりイメージが違いますね。

 どうでしょうか。小さな建物ですが、いろいろと謎が多いですね。
 まだまだ調べてみたいと思います。



 清水寺鎮守堂(重要文化財)

 *所在:京都市東山区清水
 *拝観:自由 ※清水寺有料拝観エリア外です
 *交通:市バス五条坂下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「都名所図会」(『新修京都叢書』6、臨川書店、1967年)
 『京都御役所向大概覚書』清文堂出版、1973年
 「四百年前社寺建物取調書」京都府立総合資料館所蔵
 『清水寺史』2、清水寺、1997年
 横山正幸『京都清水寺さんけいまんだら』清水寺、2008年
 『東寺の建造物-古建築からのメッセージ-』東寺(教王護国寺)宝物館、1995年



瀟洒な禅宗様の仏殿 - 普済寺 -






普済寺


 丹波国船井郡の古寺

 丹波国の南の方、「南丹」と呼ばれる地域は、かつては亀山藩と園部藩が主に支配していました。亀山は現在の亀岡のこと。園部は、いまは南丹市になっています。
 今回訪れたのは船井郡に属する地域で、この郡の多くは園部藩領でしたが、普済寺のある若森村は亀山藩領でした。普済寺が曹洞宗になったのは、寛永11年(1634)、近江の膳所から転封された菅沼定芳により改宗されたためといいます。

 私の祖父は船井郡の出身で、わが家は曹洞宗です。南丹の地は足利氏ゆかりの武家の土地柄ですので禅宗が多かったのですが、特に園部藩は曹洞宗を普及させたので、園部藩領では圧倒的に曹洞宗が大勢を占めています。
 京都市内では曹洞宗の寺院は少数ですが、このあたりの歴史を知ると、わが家が曹洞宗になっていることもうなずけます。


 反った屋根

普済寺

 南丹市園部町の若森集落。稲穂の海。
 国道372号から離れて、村の旧道を進むと、府立農芸高校へ上がる道があります。そこを折れると、すぐに小さな門が見えてきます。

普済寺

 普済寺の本堂はこの門の向かい側の石段を登って行くのですが、重要文化財の仏殿は門内の低くなったところに建っており、おおむね東を向いています。
 桁行三間、梁間三間で、実長は5.75m四方といいますから、写真で見る通りのこぢんまりとした建物です。なんともいえない全体の姿に心を奪われるのですが、入母屋造の屋根の反りにも目が向きます。

普済寺

 軒裏にのぞく垂木も、端に向かって放射状に広がる扇垂木です。これは禅宗様独特の美しさを醸し出します。

 いまひとつの反りが、棟の反り。棟瓦が弓型にかなり反っています。

普済寺

 これについて、かつて天沼俊一博士は、「『大棟』は反りの過ぎてゐるといふよりは、寧ろ反らし過ぎてゐる様で」と述べており(『日本建築』)、昭和7年(1932)の修理による影響と推測されています。そのあたりのことは調べてみないとよくわかりませんが、天沼博士の感覚では行き過ぎと感じたのでしょう。
 ちなみに、大正時代中頃のこの建物の写真をあげておきます。

大正時代の普済寺仏殿

 大正11年(1922)刊『日本古建築菁華』下冊に掲載された写真です。
 当時は、茅葺で棟にも瓦は置かれていません。やはり屋根は、修理の際、当初の形に戻すという意味で、かなり変更されたということでしょう。


 禅宗様の仏殿

普済寺

 近寄って眺めてみると、まず軒下の組物がぎっしりと詰まっています。これを詰組といい、禅宗様の特徴です。和様ですと、組物と組物の間に蟇股とか間斗束などが入るのですが、これは異なります。
 さらに、その下には波形の連子がはまっています。これを弓欄間などと呼びます。その下には、尖った花頭窓。正面と背面、両側面に1か所ずつ付いた扉は桟唐戸です。いずれも禅宗様らしい形になっていますね。

普済寺 側面(妻側)

普済寺 組物の詳細(二手先)

 この仏殿は観音堂とも呼ばれ、南北朝時代の延文2年(1357)に建てられています。
 典型的な禅宗様の仏殿として、大正4年(1915)に国宝(旧国宝)に指定され、昭和7年(1932)に解体修理されました。
 この地域の文化の高さを思わせる瀟洒な建物で、とても好感が持てます。ぜひ一度、ご覧になってみてください。



 普済寺仏殿(重要文化財)

 *所在:京都府南丹市園部町若森庄気谷
 *拝観:自由(堂内不可)
 *駐車場:あり(無料)



 【参考文献】
 『京都の社寺建築(乙訓・北桑・南丹編)』京都府文化財保護基金、1980年
 天沼俊一『日本建築』弘文堂書房、1942年
 岩井武俊『日本古建築菁華 下冊』便利堂コロタイプ印刷所、1922年
 山岸常人『塔と仏堂の旅 寺院建築から歴史を読む』朝日選書772、2005年



イギリス人が見た100年前の京都 - ポンティング『英国人写真家の見た明治日本』(1)

京都本





英国人写真家の見た明治日本


 南極探検した写真家

 1910年から12年にかけて行われたスコット大佐の第二次南極探検に随行し、記録写真を撮り、映画「スコットの南極探検隊」を撮影したハーバート・ジョージ・ポンティング(1870-1935)。
 世界を股にかけた写真家だった彼が、探検の直前にイギリスで出版した書物が本書で、原題は In Lotus-Land Japan と名付けられています。ロータスランドというのは、ロータス(はす)を食べる人達が住む国のことで、はすを食べると気持ち良くなって全てを忘れて夢見心地になるという、ギリシアの伝説に登場する国、いわば桃源郷です。ポンティングにとって、日本とはそれほど心地よい国だったのでしょう。
 ポンティングは、明治34年(1901)頃から39年(1906)頃までの間、何度か来日し、その思い出をまとめ写真を収録したのが本書です。

 この訳書は、現在では講談社学術文庫(長岡祥三訳)で手軽に読むことができます。


 温和で親切な日本人

 ポンティングが「最も優美で心を奪われる都」と紹介するのが京都です。
 始めて京都駅に降り立ち、人力車で都ホテルに向かうポンティング。しばらく進むと、彼の眼を喜ばす光景が現れました。

 その通りではどの店も骨董屋のように見えたが、群衆が大勢群がっているので、車夫が進むのに苦労するほどであった。ちょうどその近くの寺で、大きなお祭りが催されている最中だったのだ。大通りには何百という屋台が立ち並んで、あらゆる種類の品物を売っていた。屋台をもっていない商人もかなりいて、地面に品物を並べて売っていた。
 (中略)
 これほど大勢の人で混雑して、そのうえ乗り物まで通るような道路わきで、優美で壊れやすいこんな品物を、屋台に並べたり、地面の上にさえ並べたりできるのは、日本人が生来温和な国民だという証拠である。もし英国で我が同胞にこれほどの信頼が寄せられたとしたら、その結果がどうなるか考えるだけでも身震いがする。
 後で分かったことだが、その時の車夫は、私が初めて京都へ来たことを見抜き、特別に少しばかり回り道をして、新来者に綺麗な見世物を見せて喜ばせようと、わざわざ混む大通りを通ってくれたのであった。ロンドンで馬車の馭者が賃金をもらうお礼に、これほど濃やかな心遣いを見せることが考えられるだろうか? これと同じようなちょっとした親切と思いやりを、日本で旅行した三年の間に、何度となく経験したことが懐かしく想い出される。(40-41ページ)

 日本人のやさしい心に触れ、ポンティングは日本びいきになっていくのでした。


 夜の清水寺

 蹴上の都ホテルに泊まった彼は、夕刻、間近にある知恩院の「大きな鐘の深い音」を聴きます。撞かれてから音が静まるまで、たっぷり1分もかかる鐘の音を。
 そして、高さ10フィート8インチ[約3.3m]、直径9フィート[約2.8m]、重さ74トンと、鐘の巨大さを紹介し、数十人の男達が鐘を撞くさまを珍しそうに描写しています。

知恩院の大鐘
 現在の知恩院の大鐘楼 (重要文化財)

 興味深いのは、清水寺を訪れるくだりです。
 清水寺の参道や建物や仏像、そして夕日が沈む美しさに魅せられたポンティングは、夜の清水寺訪問を試みます。

 しかし、月夜の清水寺はなお一層美しい。ある満月の晩に、日本の友人とその小さい娘、お君さんを説き伏せて、一緒に寺へ行ったことがある。日本人は夜こういう場所に行くことを好まない。というのは、彼らは想像力が強く迷信深いので、超自然的なことを信じている人が多いからである。
 (中略)
 二つ目の門の入り口のところに、こわい顔をした龍の口から銀色の水がほとばしり出ているが、そこで友人がこれ以上進まないで、ここで月見を楽しもうと遠慮がちに提案した。しかし、私は全部見ようと決心していたので、もっと先へ進むことを主張した。暗い入り口に入ると、床の軋む音が壁や天井に無数に反響した。お君さんは恐ろしさで爪先立って歩いていたが、彼女の小さな頭の中は、きっと知っているかぎりのたくさんの化け物やおとぎ話で一杯だったのだろう。
 (中略)
 辺りの木よりはるかに高く張り出した舞台の上に立って、「芸術家の都」のまたたく灯を見ていると、月の光が雲を銀色に縁取り、周りの欄干や厚く葺いた切り妻屋根の上に、柔らかな光と移ろいやすい影を投げかけていた。下の方にある小さな滝の優しい水音と、こおろぎの鳴き声のほかには、夜のしじまを破る物音は何一つ聞こえなかった。そのうち突然に一羽の夜鳴鶯(ナイチンゲール)がすぐ近くの梢で鳴き始めた。小さな喉から流れるメロディーは、トレモロを交えたすばらしい狂想曲(ラプソディー)で、一羽が鳴きやむと近くの木から新たな囀りが始まった。こうして代わる代わるに鳴く鳥の声で、古い寺とあたりの森は華やかな音楽で一杯になった。小さなお君さんはこの思いがけない出来事に大喜びして、手を叩いて叫んだ。「鳥が皆で歌い合っているのよ。なんてすてきなのでしょう。ここへ来てほんとうによかったわ」(51-53ページ)

 詩的な音の風景です。とても美しく囀るので、ナイチンゲールは欧州では大変好まれた鳥でした。
 幾つかはわかりませんが、目に見えぬお化けにおののく「小さなお君さん」が、恋の歌を唄うナイチンゲールに大喜びしたとは、本当に素敵な情景ですね。

 それにしても、明治時代は夜間でも清水寺に立ち入れたとは。いまは夏の夜間拝観くらいですが、こういう大らかさもいいものです。

清水寺
 現在の清水寺。参詣者が絶えない


 三十三間堂の観音像

 ポンティングは、清水寺に続いて三十三間堂を取り上げます。ここは、彼に言わせれば「聖なる寺院というよりも大きな納屋のような感じ」ということです。
 いまも拝観することができる千体千手観音像について、彼の証言に耳を傾けてみましょう。

 ひな段式の段に並んだこれらの鍍金の観音像は、金ぴかで雑多な寄せ集めである。その密集した列は百ヤードの長さで大部隊を構成しており、広い建物の端から端までを占めている。像の大部分は非常に古いもので、絶えず修理されている。広い本殿の裏側に工房があって、一人の木彫り職人が坐っている。彼の一生の仕事は、森の木のように立ち並んだ聖像から、枝が落ちるように絶えず壊れて落ちる腕や手を、彫ったり直したりすることなのだ。何故なら観音はたくさんの手を持つ神で、一ダースより少ない手を持つ像はほとんどないからだ。我々が像の前を進んでゆくと、鼠が床を走り廻り、像の群れの中に隠れてしまった。建物の裏手まで来ると、坐っていた老僧に呼び止められ、見物料として喜捨を求められた。(56ページ)

 20世紀初頭の三十三間堂の光景。
 ポンティングは本数を数えなかったようですが、三十三間堂の千手観音立像には、それぞれ42本の手が付いています。すると堂内の手の総数も万単位! になるわけで、確かにポロポロとはずれてくるのも致し方なかったのかも知れません。そして、それを裏の工房で直しているのが驚き。さらに、修理代なのでしょうか、見物料の志納を迫られたのもおもしろいですね。

 ある日、この寺の中で急に角を曲がると、一人の外国人の旅行者が誰も見ていないと思って、観音像の手をわざと一本折ってポケットに入れるのを目撃した。何の役にも立たない記念品の蒐集欲から、野蛮な行為をする人が時々いるのは不思議なことだ。(56ページ)

 このあと、旅館の備品を盗む不心得な外国人旅行者のことを紹介し、「このような盗みが犯されれば、外国人が疑いの目を持って見られることがあっても、驚くには当たらない」と述べています。
 いま三十三間堂では、像に近づけないように遠くに柵が設けられていますが、昔はそうではなかったようです。江戸時代(慶安年間)の修理で仏像の前には金剛柵が作られたそうですが、のちにはその前を通していたような気もします。また他の史料には、観音像の手には無数の数珠が掛けられていた、とも記されています(北尾鐐之助『新京都散歩』創元社、昭和15年)。それもひとつの信仰の形ですが、腕を折られては観音さまもたまりません。



 書 名:『英国人写真家が見た明治日本 この世の楽園・日本』
 著 者:H.G.ポンティング
 訳 者:長岡祥三
 出版社:講談社(講談社学術文庫1710)
 刊行年:2005年



三十三間堂の謎の石 - 長大な本堂の四隅に石が…

寺院





三十三間堂


 見どころが多い三十三間堂

 東山七条にある三十三間堂(蓮華王院)は、ツーリストに人気のお寺で、その長い本堂(約120m)と千体千手観音立像で有名です。
 私も好きでよく訪ねるのですが、その度毎に新しい発見があり、とても愉しいお寺です。拝観料は600円ですが、毎回その値打ちはあるなぁと実感しています。

 その見どころは、大きく分けて、

  (1)長大な本堂
  (2)観音菩薩と二十八部衆の仏像
  (3)通し矢の逸話
  (4)後白河法皇による造営と豊臣氏による改変とその後

 といったところでしょうか。
 今回は、本堂にまつわる謎を1つ探ってみましょう。


 何のための石?

 この写真は三十三間堂の南側面(妻側)です。

三十三間堂

 ちょっと赤ペンで囲ってみましたが、基壇の部分の四隅にこんな石があります。

三十三間堂

 他の石より根深い大石で、上部に少し細工がしてあります。

三十三間堂

 ぽちっと“おへそ”加工です。

 さて、これは何のための石なのだろう?


 昔の写真で…

 京都や奈良のお寺によく行かれる方なら、こんな石をご覧になったことがあるでしょう。
 そう、礎石ですね。柱の下に置かれる石です。

礎石

 これは、京都帝大の天沼俊一先生の著書『日本建築細部変遷小図録』に掲載された山城国分寺の礎石です。同じように、中央に突起部が見られます。

 では、三十三間堂の礎石は何のために置かれたのでしょうか?

三十三間堂

 ヒントは、この部分。少し反った軒。あの礎石の真上にあります。

 答えは、次の写真でわかります。
 大正8年(1919)に刊行された『日本古建築菁華』上冊に掲載された、大正時代前半の三十三間堂の写真です(北の妻側を撮っています)。

大正時代の三十三間堂

 そうなのです。礎石から軒に向かって立つ柱。この柱を支えていた名残が、この礎石だったのです。

 日本の寺院建築の多くは、屋根が本瓦葺きになっています。三十三間堂は、最も長大な屋根を持っていますから瓦の枚数も尋常ではありません。室町時代の永享年間(1429~41)に修理が行われたのですが、そのときの瓦へのへら書きによると、葺かれていた総枚数は16万枚! だったといいます。
 そういうウェイトのこともあり、軒は垂れ下がってくる傾向にあります。そのため、支柱を立てるなどの方法で重さを支える必要がありました。この支柱はおそらく江戸時代に立てられたと思われ、明治以降も残されていました。
 はずされたのは、昭和5年(1930)から始まる大修理の際です。

 三十三間堂の名誉のために付け加えれば、このような支柱による軒の補強は当寺だけの特例ではありません。たとえば、次の写真をご覧ください。

大正時代の三十三間堂

 東大寺の南大門です。これも『日本古建築菁華』上冊に掲載された写真です。三十三間堂以上に補強されています。昭和4年(1929)の解体修理でこの支柱群もはずされますが、それ以前は倒壊しそうな危うさだったそうです。
 寺院の堂宇は、数百年、場合によっては千年以上もつものですが、ところによっては江戸時代頃にはかなり荒廃していた建物もありました。明治以降、文化財保護行政が進むなかで根本的かつ近代的な修理が実施され、現在私達が見るような美しい姿になったのです。
 



 蓮華王院本堂(三十三間堂) (国宝)

 *所在:京都市東山区三十三間堂廻り町
 *拝観:一般600円、高校・中学生400円、小学生300円
 *交通:京阪七条駅より徒歩約5分



 【参考文献】
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944年
 岩井武俊『日本古建築菁華 上冊』 便利堂コロタイプ印刷所、1919年
 村上訒一「日本の美術 525 文化財建造物の保存と修理の歩み」2010年



和知の「大御堂」 - 下粟野観音堂






下粟野観音堂


 丹波というところ

 丹波は私の父祖の在所で、船井郡のSという村ですが、訪れたのはただの一度切り、縁があるようでありません。
 そのあたりは日本海側と太平洋側の分水嶺に当たるところで、かつて米山俊直氏に「小盆地宇宙」と評されたように、小さな町や村がぽつりぽつりと浮かぶ、そんな土地柄でした。

 しかし今では、京都縦貫道が通じたおかげで、京都市内から丹波インター-須知(しゅうち)のこと-まで30分で行けます。須知からさらに奥に入ると、和知(わち)に至ります。ここは現在、京丹波町というそうです。
 本当に自然の豊かな山間の村。こんなところに重要文化財のお堂があるといわれても、すぐには信じられません。



 「大御堂」

 下粟野は、由良川の支流、上和知川を遡った山合いの集落。ウッディパルわちという施設があります。

下粟野集落

 写真の奥に見える小高い山を少し上ったところに、重要文化財に指定された観音堂があります。
 地元では「大御堂」と呼ばれてきたお堂で、その名称は、このあたりに多く見られる村堂に比べて一際規模が大きいことに由来するのでしょう。桁行五間、梁間五間、ほぼ正方形をしています。和知の他の村堂が方三間なので、この方五間は際立ちます。
 寄棟造の屋根は、鉄板で仮葺きされていますが、中は茅葺になっています。
 山の斜面を整地して建てたらしい、さほど広くない場所に押し入れられた感じにも見えます。

 建立年代は、かつては江戸時代とも考えられていました。昭和55年(1980)に刊行された『京都の社寺建築(乙訓・北桑・南丹編)』には、「江戸時代後期頃の建立かと思われる」との見立てが示されています。現在では、室町時代後期、棟札にみえる文明6年(1474)か、十字型木製車の刻銘にみえる天文8年(1539)あたりかと考えられていて、近世・近代に建てられたものが多い和知の村堂の中でも、突出して古い建物です。


 落書を見る

 村の人々によって維持され、特定の宗派には属さないが、信仰や寄り合いの場となっていた村堂。藤木久志氏のいう中世の「惣堂(そうどう)」と同様です。
 藤木氏は、惣堂に書かれた落書から、お堂に立ち寄った人々の生の声を拾い出しました(『中世民衆の世界-村の生活と掟』)。私もそれに倣って、下粟野観音堂の堂内で、墨書による書き付けを探してみます。

下粟野観音堂

 一番目立つのは、これ。もちろん落書ではなく、厨子の新調を示す墨書です。

「時弘化三午八月吉祥日/寿命山明隆寺御厨子幷仏壇再造/化主 地蔵院全瑞代誌焉」

 つまり、弘化3年(1846)8月に厨子と仏壇を造り直したことを、その裏側の板壁に記しています。当時、このお堂は明隆寺の管理下にありました。

下粟野観音堂

 振り返ると、柱にこんな墨書が。

「吉兵衛/寄進」

 おそらくは、この柱を寄進した人の名なのでしょう。室町時代のものなのか、それとも後に差し替えた柱なのか…

 さて、堂内には落書がたくさんあります。
 たとえば、寄り合いに集う人達が書いたのでしょう、「火の用心」というものがいくつかありました。

下粟野観音堂

 それ以外にも、十分には判読できないのですが和歌もありますし、定番の住所氏名もあります。

下粟野観音堂

 内陣の脇に「京都府/船井郡」云々と書かれています。

 しかし管理者としては、落書禁止にしたいのは、いつも同じ。先ほどの柱の脇の扉には、こう書かれています。

下粟野観音堂

「らく書かたく無用/月日 明隆寺/役者」

 落書お断り、という意味ですね。
 でも、そのすぐ脇に、

「一筆啓上仕候(つかまつりそうろう)」とあるのには、苦笑です。


 集いの場として

下粟野観音堂

 このあたりの村堂には炉を切ってあるものが多いそうです。下粟野の観音堂も、内陣の左方、つまり脇陣の部分に炉が切られ、建具を入れれば一間になる空間があります。よく見ると、柱や天井は煤けて真っ黒!

下粟野観音堂

 寒い冬、ここで縄を編んだりしながら、皆でよもやま話をしたのでしょうか。
 地域によっては、若者が集まる若衆宿といったものもありますが、こちらのお堂もそのような役割を果たしていたのでしょう。
 下粟野の観音堂は、そばにある阿上三所神社とともに、地域の人々の信仰の場となり、また集いの場ともなっていたのです。
 
下粟野観音堂
 東側面 現状では建具は外されており、四周に縁が廻らされる



 下粟野観音堂(重要文化財)

 *所在:京都府船井郡京丹波町下粟野
 *拝観:自由(堂内も可、無料) ・本尊の木造観音立像は秘仏
 *駐車場:観音堂の下に数台スペースあり(無料)
 *すぐそばには、阿上三所(あじょうさんしょ)神社もある

 阿上三所神社
 阿上三所神社(下粟野)


 【参考文献】
 熊本達哉「日本の美術 530 近世の寺社建築-庶民信仰とその建築」2010年
 熊本達哉「丹波地方における「堂」について-「村堂」に関する基礎的考察」日本建築学会大会学術講演梗概集、1995年 
 森雄一「惣堂・村堂の存在形態-京都府和知町の事例を通じて-」日本建築学会計画系論文集573号、2003年
 藤木久志『中世民衆の世界-村の生活と掟』岩波新書、2010年
 『京都府の社寺建築(乙訓・北桑・南丹編)』京都府文化財保護基金、1980年


京の町家・長江家住宅 - 表屋造の商家






長江家住宅


 火事の町 
                                                                   
 私が子供の頃、京都は火事が少ない町だと教えられていました。
 百万都市であるにもかかわらず、年に百にも満たない件数で、それは京都の人達にとってひとつの誇りになっていました。しかし、そういった防火の意識は、おそらくは何度も繰り返されてきた大火事の教訓ではなかったのでしょうか。

 18世紀以降も、享保15年(1730)の西陣焼け、天明8年(1788)の大火、そして幕末には元治の大火(1864)が起こり、その度毎に町は焼き払われました。
 京の町家というと、さぞかし古くから、と思われる向きもありますが、幕末の元治の大火によってその多くが焼亡したのですから、いま私達が見る町家のほとんどは明治以降のものということができます。



 表屋造

 幕末に著された『守貞謾稿』には、上方の住居の諸々が詳しく記されています。喜田川守貞は、間口が10間以上の大きな住居を「巨戸(きょこ)」と呼び、「巨戸は表と奥と二棟に建つるなり」といいます。これは分かりやすい説明で、表の店の部分と奥の住まいの部分が別棟になっていることを指しています。言葉で書かれても分かりづらいですが、写真や図で見れば一目瞭然でしょう。

清水猛商店

 これは、大阪の船場にある清水猛商店。左の3階建の建物は洋風で新しいが店の部分、右の2階建が住まいに当たります。この建物は間口は狭いですが『守貞謾稿』のいう形式を取っています。
 このような建て方の住居を「表屋造(おもてやづくり)」と呼びます。京阪では、よく見られる造りです。通りに面した部分が店舗、その奥に別棟の住まい、さらに庭を挟んで一番奥に蔵が建つ形を取ります。今回取り上げた長江家住宅も、そのひとつです。


 鉾町の商家

 長江家住宅は、近世以来の呉服商で下京区船鉾町にあります。この家も元治の大火で焼け、その後建て直されました。

長江家住宅

 この写真を見ると、右と左、別々の建物がひとつながりになっているのが分かるでしょう。右が北棟で慶応4年(1868)に建てられました。一方、左側は随分遅れて明治40年(1907)に建て増されたものです。北棟は、写真に写っている部分のみで表屋造ではなく、南棟が表屋造になっています。
 格子戸を開け、南棟の中に入ってみましょう。そこは土間、いわゆる「通り庭」になっており、右の座敷は店の部分になります。表の棟はこの部分だけで、進むと一旦外に出(いまは仮に屋根が掛かっている)、右を向くと玄関、ここが片流れの屋根を掛けた一棟となっており、玄関の間です。
 土間は真っ直ぐ奥へ続いており、暖簾をくぐると台所。壁に沿って、井戸・流し・竈(かまど)・戸棚が順に置かれています。流しは「はしり(走り)」と言い、竈は「へっつい」と言います。喜田川守貞は、竈口が3つある「三つへっつい」を紹介していますが、当家も三つへっついを据えています。

 私の母は戦前の生れですが、台所のことをやはり「はしり」と呼んでいました。別に鉾町の出でも何でもないのですが、京都の人は自然にそう言ったのです。子供の頃、「下駄隠し」の歌の一節を「柱の下のねずみが」と歌っていましたが、近年それが「はしりの下」であることを知って、大きく肯かされたのです。

 台所の右手の部屋は食事をする場になっています。それに続く部屋が奥の間で、灌木や石灯籠がある庭が望めます。
 庭を見ながら渡り廊下を伝っていくと、最も遅く(大正4年)に造られた化粧部屋とタイルが張られた風呂場があり、それに続いて蔵2棟が並んでいます。右の蔵は明治8年(1875)、左の新蔵は明治40年(1907)のものだそうです。右の蔵につながるように縁を回した瀟洒な離れ座敷が建ち(明治40年築)、あたかも庭が小宇宙のように眺められます。

 長江家は慶応年間から、敷地を買い足し、北棟、蔵、南棟・離れ座敷・新蔵、化粧部屋・風呂場と、大正期まで建て増しを行い、現在の形となりました。その変遷にも興味がわきますね。

 虫籠窓と格子の外観の中に、静謐で奥深い空間が広がっています。

虫籠窓 虫籠窓(むしこまど)



 長江家住宅(京都市指定文化財)

 *所在:京都市下京区新町通仏光寺上る船鉾町
 *見学:祇園祭の時期などに一般公開(有料)
 *交通:地下鉄四条より徒歩約5分 



 【参考文献】
 『京の住まい-地域の文化財としての民家-』京都市文化市民局文化部文化財保護課、1998年
 喜田川守貞『近世風俗志』岩波文庫、1996年
 日向進『近世京都の町・町家・町家大工』思文閣出版、1998年