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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

京都駅は、観光客にとってガッカリすると言われるけれど……





京都駅前


 期待外れ ! ? 京都駅の印象は 

 インターネットニュース<東洋経済ONLINE>を読んでいたら、「外国人ガッカリ! 日本の鉄道「期待外れ」10選」(野田 隆 氏)という記事が載っていました。
 日本に観光に来て鉄道を利用したら、こういう点が不便だった、こういうところにガッカリした、というポイントをまとめたものです。

 そのひとつに、『日本的な感じがしない駅舎』というのがありました。

 せっかく日本に来たのだから、日本的な駅舎であれば、外国人は気に入るであろう。純和風でなく和洋折衷であっても、風格のある駅舎なら満足するのではないだろうか。

 ところが、今の京都駅は、東京や大阪ならともかく、古都の玄関としてあまりにも街のイメージとかけ離れていて評判がいま一つである。

 国際的保養地の軽井沢駅も特色がないし、少し前までのJR長野駅も評判が芳しくなかった。幸い長野駅は、庇を設けて、現代的ではあるものの風格のある造りになって、面目を取り戻したのは朗報であろう。(東洋経済ONLINE) 


 現在の京都駅は、1997年に完成しました。歴代で言うと、4代目に当たります。

 余談ですが、この前、京都駅の歴史を調べている学生たちと話しているとき、“ いまの京都駅、いつできたの?” と聞くと、“1997年” と答えるものですから、私はビックリしたのです。もうかれこれ20年も経っているのですね。私の頭の中では、ついこのあいだ出来た、という印象なのでした。

 現在の京都駅
  原広司設計の京都駅ビル

 当時、大々的なコンペ(設計競技)が行われ、話題を呼びました。
 とりわけ、黒川紀章氏が提案した巨大羅城門のようなデザインは、物議をかもしました。
 採用された原広司氏の案も、比較的低層な造りながらも、そのデザインからシンボリックなイメージがないため、物足りないとも言われたように思います。
 まあ、「古都の玄関口」に造る駅舎ですから、どんな案でも賛否両論あるでしょう。

 京都駅構内
  中央改札付近

 さすがに20年近く使っていると、この駅も慣れてきたというべきか、私自身は何も感じなくなってきました。
 改めて写真に撮ってみると、大きな吹き抜けなどがあって、空港みたいやなぁ、と思ったりするくらいです。

 東洋経済ONLINEが言うような「純和風」や「和洋折衷」の駅舎なら、梅小路に保存されている旧二条駅(山陰本線)の駅舎みたいなものになるのでしょうか。
 あるいは、冬季五輪前の長野駅のような、鉄筋コンクリート造だけれど破風をもったデザインのようなものになるのでしょうか。

 もちろん、京都駅ほどの規模になれば、和風の駅舎にするのは至難の業でしょう。それはないものねだりというものです。
 仮にそういう注文を受けたとして、満足いく回答を出せる建築家は村野藤吾くらいしかいないと思いますが、すでに1984年に没しています。

 バス乗り場


 駅前も不評? 

 「哲学者の都市案内」という副題を持った鷲田清一『京都の平熱』にも、このように書かれています。

 京都駅に降り立って、まずはいやでも目に入るのが京都タワーだ。見たくなくても目に入る。京都駅の入り口、東本願寺を背にしているというので、蝋燭を「モダン」に象ったらしいが、この巨大なキッチュ、京都を訪れたひとをひどくとまどわせる。中には温泉があり、展望台があって、どこかの田舎町に降り立ったという気分にはなっても、「みやび」とはほど遠い。「建都千二百年」の京都駅大改築の国際コンペのときも、このタワーが見えない設計だったら、どんな駅舎のデザインでもよいとのたまったひとがいたくらいだ。

 「そうだ 京都、行こう。」という口車に乗せられてやってきたものの、最初の光景がこれでは話にならない。古都は、「みやび」は、どこにある? これが、宗教と芸術と学問の都の玄関か? 学生、町衆、京おんな、職人の町と言われながら、どこにいる? 接客、「着倒れ」、古本文化、どこにある? さすがの京都人も、ここに立ったら、「京都って、おたくらがおもたはるようなものやおまへんえ。まだなんにもわかったあらへん……」とうそぶく気にはなれない。けれども不思議なもので、京都市民は新幹線で東京から戻ってきて、東山のトンネルを出て、鴨川が、そして夜空に浮かぶこの京都タワーが目に入ってくると、「ああ、帰ってきた」とほっとする。いや、ほっとするようになってしまったのである。じっさい、この「京都タワー」を歌詞に入れた小学校校歌が現にいくつもあるそうな。(14ページ) 


 京都タワー 京都タワー

 こう言う鷲田氏は、別のところでも「京都の顔の一つが、京都タワーであり、いまの軍艦のような京都駅であるということに、多くのひとたちは潜在的な違和感をもっている」(223ページ)と書きながら、自分は京都駅は大好きである、と言います。「大階段」のような、何をすると決められたのではない、都市の隙間があるというのです。

 大階段 大階段


 現代の駅は 4代目

 現在の京都駅ビルは、京都駅舎としては4代目です。

 京都に鉄道が通ったのは明治10年(1877)。
 大正4年(1915)10月には、京都御所で行われた大正天皇即位礼に合せて、2代目駅舎が完成しました。

 私が持っている戦前の書物には、この2代目駅舎の写真が登場します。

 京都駅
  2代目京都駅(『日本地理大系』7 より)

 駅前広場が広々としています。

 設計は、大阪で活躍した建築家・渡辺節。
 そう、先ほど名前が出た村野藤吾が、若き日に所属していた事務所の主宰者です。まったくの妄想ですが、村野藤吾が4代目京都駅を造っていたら、その意味でもおもしろかったですね。

 京都駅
  渡辺節が設計した2代目京都駅(『京都』より)

 この駅舎も、さほど象徴性が高い建物ではありません。
 もちろん、和風でも和洋折衷でもありません。すでに大正時代ですからね。

 そして、戦後、2代目駅舎が焼失したのち、昭和27年(1952)に建設されたのが3代目駅舎。こちらも、地味な駅でした。
 写真がないのが残念ですが、取り立てて特徴のない駅舎だったのです。

 京都駅付近
  昭和34年(1959)頃の京都駅(『日本地理風俗大系』7 より)

 この駅は、私も使っていました。
 何かごちゃごちゃした印象がある、昔の地方の駅という雰囲気でした。そのため、外観についての記憶も余りありません。

 昭和39年(1964)に東海道新幹線が開通しましたが、新幹線ホームは駅の南側(八条口側)に新たに造られたので、北側は大きく変化しなかったのでしょう。
 
 そして、約40年使われたのち、改築されたのです。

 京都駅が「古都」らしくない、と言えば、その通り。
 歴史的に考えれば、京都駅は京都の町の中心部から離れた “町はずれ” に造られたものです。だから、京都らしくなくても仕方がないと言えば言えます。
 そして、何をもって古都らしい、京都らしいというのかも、ずいぶん難しい問題です。最近京都では、ラグジュアリーな施設に竹を植えたりするのをよく見掛けますが、あれが京都らしいのでしょうか? 
 
 海外ツーリストであふれ返る京都駅では、駅ビルのデザインよりも、これから始まる京都旅行の案内を親切にしていく方が大切かも知れませんね。

 
  京都駅に移ったタワー

 


 京都駅

 所在  京都市下京区東塩小路町
 見学  自由
 交通  JR「京都」下車



 【参考文献】
 『日本地理大系』7、改造社、1929年
 『京都』京都市役所、1929年
 『日本地理風俗大系』7、誠文堂新光社、1959年
 鷲田清一『京都の平熱』講談社、2007年


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数多くの絵馬が奉納された世継地蔵に、庶民の願いをみる





世継地蔵


 富小路通五条下ルの上徳寺

 京都の中心街を北から南へとつなぐ富小路通(とみのこうじどおり)は、五条通に至ると、進路をやや西に振ります。
 そのため、まっすぐでは見えるはずのない京都タワーが、真正面に見えるようになります。

 富小路通

 この不思議な光景に魅かれて通りを進んでいくと、あたりが寺町であることに気付きます。
 このあたりは下寺町(しもてらまち)と言うそうで、三条や四条あたりの寺町通と同様、豊臣秀吉の施策により寺院が集められたそうです。
 お寺のひとつに、上徳寺があります。

 上徳寺山門

 特に変わったところもない門構えですが、門札に “おや”という思いが……

  上徳寺表札

 「世継地蔵 上徳寺」と書いてあります。

 世継(よつぎ)地蔵という文句にひかれて、思わず山内へ。

 上徳寺本堂
  上徳寺 本堂

 本堂を拝し、左奥へ進んでいくと、なんとなく雰囲気が……

 上徳寺山内

 右には手水舎があり、敷いてある石畳みに沿って進んでいくと、お堂があります。


 子を授ける世継地蔵

 世継地蔵
  地蔵堂

 世継地蔵を祀る地蔵堂です。
 明治4年(1871)の建立だそうです。

 礼拝して驚くのは、お堂のまわりに無数の絵馬が懸けられていることです。

 絵馬掛所

 よだれ掛け絵馬

 よだれ掛け絵馬というらしく、赤ちゃんのよだれ掛けとともに奉納されています。
 これは、子を授けてくださいという祈願なのです。
 絵馬自体には、ほおずきの絵が描かれていますね。

 絵馬

 これだけでも、多くの方から信仰されていることが分かります。
 さらに、お堂の上を見てみると、額や古い絵馬が懸けられていました。


 明治時代の絵馬

 こちらは、御詠歌の額です。

 御詠歌額

 「ありがたや めぐみふかきを千代かけて 家の世つぎをまもるみほとけ」と書いてあります。

 御詠歌も、家を継ぐ “お世継ぎ” を願う気持ちが表れています。
 
 そして、古い絵馬も。

 絵馬

 ひとつずつ見ていくと、明治時代の絵馬が多いことが分かります。

 絵馬は、現在では願い事をする際に願文を書いて奉納します。しかし、もともとは願い事が成就した暁に神仏に奉納することが多かったのです。

 絵馬・何某

 これは明治11年(1878)11月に奉納された絵馬ですが、額の上部に「御礼」と記されています。
 このようなことは、絵馬の絵柄を見ていくと、よく理解できます。

 絵馬・奉納者不詳

 時期が不詳ですが、授かった赤ん坊を抱いた夫婦が御礼参りに来ているさまを描いています。

 絵馬・菱田

 これは、明治29年(1896)に菱田菊松が奉納したものですが、こちらも赤ん坊を抱いた夫婦です。

 絵馬・千代女

 明治34年(1901)の絵馬。お堂の前に敷かれた畳に座る幼女。
 絵馬によれば、4歳の千代女という子どもです。これはどういうことでしょうか、誕生し成長した本人が御礼を述べているのでしょうか。
 ちなみに、現在でもお堂の前には祈願する人のために畳が敷いてあります。


 お堂の裏には投入口が…
 
 お堂の裏に回ってみます。
 すると、ポストの口のようなものが開いています。

 投入口

 説明によると、これは地蔵尊の近くに開けられた文入れ口で、所願や謝恩を便箋に書いて、地蔵尊の名を3回唱えて入れるとのことです。
 また、便箋の右にはノートも備え付けてあり、祈願者の切実な思いが綴られていて胸を打ちます。


 かつては、おみくじも

 さらに側面に回ると、ここにはかつておみくじが設置されていたようでした。

 御籤授与

 くじを引く場所の上には、番号ごとにお告げを記した額が掲げられています。
 例えば、大吉(五)には「千代かけて捨てぬ誓ひを頼む人 心の底のあら頼もしや」といった文句が書かれています。

 御籤扁額

 この額は、慶応元年(1865)5月に奉納されたもので、施主は堺屋米とあります。
 私が気になったのは、その左、額縁に書かれた「鈴木りう」という名前でした。

 御籤扁額額縁

 確かに、聞き覚えのある名前。
 これは、建仁寺にある摩利支天・禅居庵に奉納された灯籠や額に刻まれていた名前ではないか……

 その灯籠などは、鈴木りつという七条新地・平居町の女性が奉納したものでした。おそらく鈴木りつは、新地の貸座敷の女将だっただろうと考えていて、それに連なる一族の名前に鈴木りうもあったのです。
 当時私は、りうは、りつの娘ないしは嫁と想像していました。

 しかし、禅居庵の奉納額は明治21年(1888)のもの、灯籠はずっと新しい明治30年(1897)のものでした。
 ということは、当地の額は幕末ですから、りつよりも、りうの方が年上ということになりそうです。
 つまり、りうは、りつの母だったのか?

 ちなみに、この上徳寺のある場所から七条新地・平居町までは、目と鼻の先です。

 以前の記事は、こちら! ⇒ <イノシシの摩利支天堂は、ずっと篤い信仰を集めている>

 最後に意外な人名に出会い驚いたのですが、この世継地蔵、霊験あらたかなお地蔵さまと拝察しました。

 それにしても、子授けのご利益のあるお地蔵さんとは、珍しいのではないでしょうか?
 その理由を考えてみると、お地蔵さんは子供の守護をされる、ということがあります。
 仏典などにはそのようなことは記されていないそうですが、日本では「今昔物語集」のような仏教説話で、お地蔵さんは “小さな僧” に変じて登場されるという話が多いのです。それが変化して、子供と結び付いたとも考えられるようです。

 こういうことがさらに変わっていき、子供を授けてくれる、というご利益になったのかも知れませんね。




 上徳寺 世継地蔵

 所在  京都市下京区富小路通五条下ル本塩竈町
 拝観  自由
 交通  京阪電車「五条」下車、徒歩約5分
 


 【参考文献】
 速水侑『地蔵信仰』塙新書、1975


きょうの散歩 - 三条通から京都駅へ歩けば - 2016.10.16 -





麩屋町通


 にぎわう新京極、寺町、四条

 10月から11月にかけては、暑からず寒からず、街を歩くには絶好の季節ですね。

 京都の秋の観光というと、どうしても紅葉を見に行ってしまいがちですが、ごくふつうの町をぶらっと歩くのも一興に思えます。

 今日は、京都駅方面に用事が出来たので、そこまで歩いてみることにしました。
 スタートは、三条通。

 三条通から京都駅、つまり七条通の少し南(塩小路通)まで、まっすぐ行けば 2キロ半ほどの道程です。
 少し東西に歩いても、3キロばかり。
 意外に近いでしょう。

 三条通 三条通

 三条通も、河原町-寺町間のアーケードのところは、やはりにぎわっていますね。
 そこから、寺町通を下がって行くと、若い人や外国からの旅行者でごった返しています。京都は、アジアからの観光客も多いけれど、欧米の方もたくさん見掛けます。
 ツーリストは、やはり新京極、寺町、錦、四条といった目抜き通りを歩く方が多いのです。

 最近、寺町通は、新しいショップもたくさんオープンして、見ていてあきません。
 古い小さなネーム屋さん(「ネーム」というのは、背広などに入れる刺繍の名前)の隣に、新しく靴のリペア専門店が出来ていたり、長い歴史を持つ念珠店がオシャレに改装していたり。帽子店、靴店なども、若い人向きですね。

 安田念珠店 念珠店の看板 

 三条通から四条通までは、およそ500m。
 ちょうどよい長さで、2、3の店をひやかして、四条通に出ます。

 寺町通 寺町通の入口(四条通側)

 寺町四条の南西角にあるフジイダイマルを少しのぞいて、さて、どこに行こうか? と思案します。
 一筋西は御幸町(ごこまち)通、その次は麩屋町(ふやちょう)通。いずれも古風な通り名ですが、今日は麩屋町を下がって行くことにしました。


 ひっそりとした下京の町並み

 四条通から南、御幸町、麩屋町、富小路……といった街路は、車一台が通れば幅一杯の狭い道。いずれも一方通行です。
 そして、観光客には無用に思える “なにもない” ふつうの町なのです。
 でも、私には、このひっそり感が心地よく、折にふれて散歩します。

 麩屋町は、ふだん余り歩かない道のようで、見馴れぬ学校の建物があったりします。
 よく見ると、いまは学校歴史博物館になった旧開智小学校の西裏側なのでした。いつも御幸町通の正面をよく通るので、この裏側は記憶になく、立ち止まってしばし建物を見上げます。
 
 四条通から、綾小路、仏光寺と南へ下がり、高辻通は2車線あるこの辺では広い道で、交差点にも信号があります。
 次の松原通は、古くから五条大橋へ至る要路でしたが、いまは静か。松原麩屋町角には、石不動と通称される不動寺があります。

 さらに歩いて行くと、五条通が見えて来て、以前レポートしたこともある朝日神明宮を越えると、五条通です。
 
 五条麩屋町上ル 麩屋町通五条上ル

 この場所は、現在は下京区です。

 歴史的に言うと、下京(しもぎょう)は室町通を軸にして南北に延びる町でした。北は二条通あたりから、南は松原通あたりまで。祇園祭の山鉾を出す町が、ここに含まれています。戦国時代から江戸時代につづく、京都の中でも富裕な地区でした。

 ただし、今日歩いた麩屋町通は、下京の町の外(東方)でした。
 かつての下京は、およそ現在の烏丸通よりも西なので、いまにぎやかな新京極、寺町、御幸町、麩屋町……は、町の東のはずれだったのです。

 京都の繁華街のひとつに河原町通がありますが、ここは名前の通り、鴨川の河原だったわけです。豊臣秀吉が築いた御土居(おどい。京都の街を囲む土塁)は、ほぼ河原町通の位置にありました。
 もちろん、今日歩いたところも江戸時代には町になっていくのですが。

 そんなことを思いながら、幅員の広い五条通へ。
 麩屋町通は、ここで途切れ、仕方なしに西隣の富小路通を歩くことにしました。

 富小路の京都タワー

 富小路通からは、なぜか京都タワーが真正面に見えます。

 どうやら、五条通以南は通りが斜めに振っており、かなり西にあるはずの京都タワーが正面に来るようでした。
 これも、この辺が都市の西端にあたり、鴨川に沿って街路が斜めになっている影響です。

 この富小路で、興味深い場所に行き当たったのですが、それは次回に。

 


 麩屋町通

 所在  京都市下京区八文字町ほか
 見学  自由
 交通  阪急電車「河原町」下車、すぐ



 【参考文献】
 『京都の大路小路』小学館、2003年



戦後まもないモダン京都のお店たち - 雑誌「京都」の広告から -





ジャワ


 清新な都市の息吹き

 夏という季節は、私などにとっては、昭和の戦争について考える機会を与えてくれます。
 今年は、いわゆる「生前退位」の問題がクローズアップされたせいもあり、今上天皇に関する本をいくつか読んでいます。
 そうすると、私自身が過ごしてきた「昭和」という時代が、すでに過去になってしまったことを痛感させられます。おそらく、戦後復興期から高度成長期にかけては、もはや過去の深いところへ沈み込みつつあるような、そんな気がしています。

 たまたま部屋にあったその時期の雑誌「京都」(現「月刊京都」)をめくってみると、面白い絵がありました。

 四条通アーケード 四条通のアーケード完成

 これは昭和26年(1951)7月に発行された「京都」10号の挿絵です。
 記事は「御旅町専門百貨街 アーケード完成」というもの。「四条通 河原町から寺町まで」と付記されています。

 御旅町(おたびちょう)は、四条河原町から西、四条通の両側です。この「御旅」というのは、いわゆる御旅所(おたびしょ)の意味で、八坂神社の神輿(みこし)が渡られる御旅所がこの地域にあることが由来でしょう。

 記事は、「両側の歩道にアルミ天井を装置したアーケード完成。/晴雨によって開閉が自由になり、各柱間には美しい蛍光灯が輝き、京都の新しい名物がふえ」た、と書いています。
 アルミは、軽くて輝きを持ち、かつ錆びない、戦後の新しい雰囲気にマッチして、とても好まれた材料です。それが開閉するなんて、とてもモダンなアーケードだったわけです。

 この御旅町のアーケードを西に抜けると、寺町四条の南西角には藤井大丸があります。
 現在はファッションに特化したデパートとして独特の地位を築いていますね。

 その広告も「京都」には掲載されています。

 藤井大丸 藤井大丸

 これはなんと斬新なデザインなんでしょう。
 コーナーを丸く造り、ガラス窓を嵌めています。屋上左手には塔屋が突き出していて、アクセントになっています。1階は吹き抜けのピロティですね。昭和初期のインターナショナルスタイルのような雰囲気で、とてもモダンな印象ですね。 
 この建物の前にはアーケードはなく、歩道上には街灯「すずらん灯」が立っています。語弊があるのですが、現在よりもモダンでカッコよいと思います。


 モダン喫茶店

 京都というと、喫茶店が多い街としても知られています。
 四条河原町辺でいえば、私たちが学生の頃でも、フランソワとかソワレとか、クラシックな名店がありましたよね。
 「京都」の広告には、ソワレが出ていました。

 ソワレ ソワレ

 裸体のトルソ、柱時計、高坏に盛られた果物……
 時代を感じさせますねぇ。いまは閉店してしまったけれど、私も何度も行ったことがあります。
 「雰囲気を誇る」というフレーズが自信ありげですね。そういでば、ソファなんかも緋色のビロードでしたもの。

 このような喫茶店、いまクラシックだと言いましたけれど、同時にモダンだとも言いたくなるのですね。語義からすると正反対な気もするのですが、クラシックであることがモダンだと言える、そんな喫茶店がたくさんあったのです。

 ロータリー ロータリー

 木屋町三条下ルのロータリーという店。
 喫茶でお酒も出すみたいです。あぁ、「コーヒ」という表現が時代です。

 そして、今も健在のスマート珈琲店。

 スマート スマート

 寺町三条上ル。創業は昭和初期ということですが、ここには「新装開店」とあります。昭和25年(1950)10月号掲載なので、戦後に新しくやりかえられたのでしょう。
 それにしても、こういう広告のテイストがたまりませんね。

 ジャワ ジャワ

 欧風料理のグリル、と書いています。ジャワで欧風というのは矛盾する、などと言うのは野暮でしょう。
 下見板張りなのか、入りたくなる店構えです。


 和風の店

 いまある店、もうなくなった店。さまざまですが、京都らしい和風の店構えも登場しています。

  いろは いろは

 四条大橋西詰・いろは。
 はぁ、いまはないですかね。
 木造三階建。看板に「月桂冠」などとある、すきやき店。

 東華菜館 東華菜館

 おそらく、このいろはの近所になる東華菜館。こちらは健在。ヴォーリズの名建築。
「鴨涯第一の眺望」という文句が、やはりいいですねぇ。「鴨涯」なんて、いまは言いません。鴨涯(おうがい)は、鴨川のほとり(汀、水際)の漢語的表現。昔はよく使われました。

 松一 松一

 四条縄手(大和大路)南入、割烹松一。
 しっとりとした店構え。
 「入浴御自由」ですか。

 いつのまにか鴨川を渡っていましたね。
 渡りついでに、こちら。

 祇園ホテル 祇園ホテル

 祇園ホテルとあります。場所は、四条大橋東詰北入と書いてある。私の知っている祇園ホテル(現・アパホテル京都祇園)というと、祇園石段下ですね。昔は、こんなところだったのか。建物はロマネスク風で、柔らかい雰囲気。好ましいですね。

 戦後まもなく頃のお店の数々。
 こうして広告でたどるのも、なかなかおもしろそうです。




 四条通アーケード

 所在  京都市下京区御旅町
 見学  現在では架け替え
 交通  阪急電車「河原町」下車、すぐ



 【参考文献】
 「京都」白川書院、1950-51年 各号


不明門通をさらに北へ進むと……





不明門通仁丹町名板


 詰所のある東本願寺界隈

 前回につづき、不明門通(あけずどおり、あけずのもんどおり)を歩きます。

 楽しい念珠店のあった上珠数屋町通から北へ。
 歩いていると、町家から着物の女性が出て来られました。看板を見てみると……

 となみ詰所

 「となみ詰所」と書いてあります。
 「となみ」は、砺波なのでしょう。越中(富山県)の地名です。

 この詰所というもの、本願寺界隈にある旅宿です。もともとは、本願寺のご門徒が設けられた滞在所でした。
 江戸後期から幕末にかけて、東本願寺は4度も焼亡し、そのたびに堂宇の再建がなされました。この事業に、全国のご門徒が奉仕に参集され、滞在所となったのが詰所です。
 禁門の変で焼けた御影堂や阿弥陀堂は、明治28年(1895)に完成したので、その後、詰所は本山に参拝される方たちの宿となりました。現在では、一般の方も宿泊できます。

 明治中期には50軒近くあったという詰所も、いまでは5軒に。
 この砺波のほか、富山県、飛騨(岐阜)、伊香、東浅井(滋賀)です。

 そういえば、今年2月の京都新聞に、東浅井詰所の建て替え工事が完了したという記事がありました。前にあった昭和10年(1935)築の入母屋造、木造2階建を改築(4階建)したというものです。施設維持のため、詰所8室を確保したほかは、賃貸マンションにしたそうです。 
 滋賀県の旧東浅井郡には、真宗大谷派の寺院が163か寺もあって、もともとはそのご門徒が詰所に宿泊されていました。ところが、近年は湖北からも日帰りできるようになったため、一般の旅行者にも門戸を開放していたそうです(京都新聞2015年6月11日付、2016年2月7日付)。

 このあたりの事情は、境内にマンションを建設する神社の問題とも似て、いかに維持していくかという苦心がにじみでています。
 代表理事の方は「守っていくための変化」だと述べておられます(京都新聞)。

 こういう記事を見ていると、なんとなく泊まりたくなってきましたねぇ、詰所に。


 意外な老舗もある五条通以北

 となみ詰所からさらに進むと、東西の細い街路と交わっていきます。

 仁丹町名板

 「的場通不明門西入 下平野町」。

 クルマ1台ほどの幅のある的場通と交差します。

 的場通
  的場通

 ここで一番の驚きは、角のお宅が的場さんだったことでしょうか。
 こちらが通り名の由来? と思うと、ちょっとすごいですね。

 付近図
  矢印が的場通との交差点

 ここまで来ると、もう五条通が見えて来ます。

 五条通
  五条通

 横断できないので、一旦烏丸通の交差点を渡ります。
 さらに北上すると、マンションの一画に吉水稲荷神社がありました。

 吉水稲荷神社
  吉水稲荷神社

 私が気になったのは、その向いのお店でした。

不明門通

 普通の町家に看板が出ています。

 板前洋食弥生

 「板前洋食 彌生」

 別の看板には、

 板前洋食弥生
 
 「逸品欧風料理/独特 彌生弁当/板前洋食 彌生」

 この「板前洋食」という表現、すごく気になりますね。
 
 昔、河原町の映画館で、幕間のCMで「板前にぎり金兵衛」というのをよく見たんですね。これは、板前さんが握る寿司屋という意味でしょう。
 そうすると、板前洋食は、板前さんが作る洋食店ということですね。割烹と洋食の融合というか……

 看板が少々古びているので、てっきりお休みされている店かと思いましたが、帰宅後調べてみると、ちゃんと営業されていました。どうやら私が通ったのが午後2時頃だったので、ランチタイムが終わっていたらしい。営業中は、のれんを掛けられるようです。

 ここにも、ぜひ一度入ってみたくなりました(笑)


 そして、因幡堂へ
 
 その後も、不明門通を上がって行くと、松原通に至ります。
 真正面に、因幡堂(いなばどう)が見えて来ます。

 因幡堂前

 因幡堂は、平等寺とも言い、薬師如来を祀ります。
 平安京の昔からこの地にありました。平安京内には、東寺と西寺のほかは原則的に寺院は置かれませんでしたが、お堂は例外で、六角堂や革堂、因幡堂などは存在していたのです。

 ということは、不明門通よりも因幡堂の方が前からここにあったということでしょうか、因幡堂で不明門通は突き当りになっています。
 前回から保留にしていた「不明門」という名前の由来ですが、因幡堂の南門が常に閉ざされていたので、不明門の名が付けられたとも言われます(『京都坊目誌』)。

 因幡堂

 現在、因幡堂には門らしい門はありません。「都名所図会」(1790年)を見ると、南に門があり、門前に川が流れていますが、この門を閉じるとお寺に入れませんね……
 ちょっとこの由来説も、疑問が拭えません。

 ちなみに、「京羽二重」には「因幡堂つきぬけとをり」という名称も併記されており、他にも「薬師突抜」(薬師如来を祀ったため)という呼称もあったようです。不明門通という名前以外にも、このようなストレートな呼び方もあったのですね。


 通りは途切れるけれど……

 ということで、不明門通はここで終了。
 ものの本では、この通りは因幡堂のある松原通から七条通、あるいは塩小路通までなどと記載されています。
 ただ、因幡堂の裏に道があるのも事実。

 因幡堂横

 因幡堂の左へ回り込みます(地図の矢印)。

 付近図

 そこを北へ進んで右折すると、不明門通のつづき? のような道が。

 因幡堂裏

 これですね。
 
 ただ、この道も北にある高辻通で突き当りになります。
 ところが、高辻通から先も、狭い路地がつづいているのも事実。

 高辻通

 ここは、匂天神社(においてんじんしゃ)があり、この路地は匂天神町の町内です。
 路地は一旦突き当たって、カギの手に曲がり、さらにつづいています。

 匂天神町 「匂天神町」の文字が

 匂天神町

 味わい深い長屋のある路地ですが、片側はすでに駐車場になっています。
 この路地には名前があって、竹之辻子(たけのずし)と呼ばれているそうです。

 ここを抜ければ、仏光寺通へ。

 仏光寺通
  仏光寺通

 でも、目の前にはビルが聳え立っています。
 
 この北にも、実はまた路地があるのですが(上の地図の青矢印)、際限がないのでこの辺で。

 ところで、この不明門通、因幡堂の前の松原通で途切れているのですが、約1.2㎞も北方の姉小路通で再び始まっているのです。ただ、名前は車屋町通と変わっているのですが。
 これを見ると、この通りが豊臣時代に造られた新たな街路で、市街中心部の鉾町だけ新街路が出来なかったということをよく表しているようです。

 車屋町通は、また機会があれば歩いてみましょう。




 不明門通

 所在  京都市下京区烏丸通松原上る因幡堂町ほか
 見学  自由
 交通  地下鉄「四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年
 『京都の大路小路』小学館、2003年
 碓井小三郎『京都坊目誌』(『京都叢書』所収)
 足利健亮『中近世都市の歴史地理』地人書房、1984年