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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

都七名水と京都の井 - 芹根水つづき -





芹根水


 『京都民俗志』

 前回、西本願寺の南にある芹根水(せりねすい)を訪ねました。
 もっとも、訪ねたといっても、すでに堀川は暗渠になり、跡しかないのですが。

 そのとき、芹根水が京の七名水に数えられるということは聞いたのですが、こういうとき見ておくべき井上頼寿『京都民俗志』を見忘れていました。

 『京都民俗志』は、京都の史跡を調査してまとめた書物ですが、項目立ては、

   鳥居
   井
   石
   習俗
   植物
   動物
   洛中洛外 


 と、ちょっと変わっているのですね。

 とりわけ、「井」と「石」は充実しています。

 井は、○○井や○○水といった、いわゆる名水をまとめたもので、200近くも採録しています。


 都七名水

 そのなかに「都七名水」という項目があります。

 すなわち、

   中川井
   芹根水
   滋野井
   左女牛井
   古醒井
   六孫王社誕生水
   音羽滝 


 これらのなかには、すでに失われたものもあります。

 例えば、中川井は、寺町二条下ルの妙満寺にありました。現在の京都市役所の北側です。
 「都名所図会」を見ると、確かに中川井が描かれています。しかし、現在では、井戸どころか妙満寺自体も移転してしまい、失われてしまいました(ちなみに、同地では昨年発掘調査が行われました)。

 前回訪ねた芹根水は、次のように書かれています。

 芹根水 下京区堀川木津屋橋下る志水町に在る。

[堀川の]西岸に僅に井桁(いげた)の様なものゝ端が見え、芹根水の標石が立つてゐる。併(しか)しその碑も、狭い下り口を降りて見ねば解らなく、あたら名水の趾も今は濁水渦巻いて見るに堪へぬ有様である。

 大正三年の堀川改修の際は井筒も埋まり、月見の名所であつた同地もすつかり家が建て込んで全くつまらぬ地となつて仕舞つた。


 『京都民俗志』は、昭和8年(1933)の刊行です。
 大正3年(1914)の堀川の改修によって、井筒も埋もれてしまったといいます。碑は残っていたものの、名水の風情は失われていたようです。

 芹根水碑
  芹根水の碑

 大正3年といえば約百年前で、その頃の状況をうかがう資料としても貴重ですね。


 祇園祭に関する井

 この本には、200近い名水が取り上げられているのですが、ではどのようなものがあるのか? ちょっと紹介してみましょう。

 例えば、先月あった祇園祭に関するもの。

 現在もある烏丸通錦小路上ルの井戸を「祇園祭の神水」としてあげています。
 この井戸は、手洗水井(みたらしい)です。

 手洗水井
 手洗水井

 以前紹介しましたので、そちらもご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <猛暑に涼しい井戸の話、手洗水井>

 さらに、各鉾町にある井戸も紹介。
 「占出山の井」「役行者山の井」「菊水」です。

 会所のなかなどに、あるのですね。

 役行者山の井
  役行者山の井

 これ以外にも、市内各所の名水、井戸が紹介されていて、読んでいてあきません。
 京都には名水が多いことも、また驚きです。

 なお、前回掲載した地図のなかに「佛教大学」という校名がありました。
 これは、現在の佛教大学(北区、浄土宗系)ではなく、龍谷大学(浄土真宗系)の旧名称です。当時は、そう呼んでいたのですね。現・大宮キャンパスの位置に、そう書かれています。




 芹根水跡

 所在  京都市下京区木津屋橋通堀川西入下ル御方紺屋町
 見学  自由
 交通  JR「京都」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 井上頼寿『京都民俗志』岡書院、1933年


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きょうの散歩 - 都名所図会に現れる「芹根水」を訪ねて - 2017.7.30 -





芹根水跡


 西本願寺の南へ

 毎日、暑いですね。

 今日は、曇っていて暑さも少しましな気がしましたが、それでも最高気温は34℃を超えたそうです。
 私は、必要があって東本願寺と西本願寺の周辺を歩きました。ひととおり、用事が終わったので、付近を散歩することにしたのです。

 そうすると、西本願寺の南の方、安寧学区ということになりますが、そこに「芹根水」というものがあるのに気付きました。


 芹根水とは? 

 芹根水(せりねすい)といっても、一般には余り知られていないと思います。
 なぜ記憶していたかというと、「都名所図会」(1780年)巻2に、この絵が登場しているからです。

 「都名所図会」より月見橋と芹根水
  「都名所図会」より芹根水

 図には「芹根水ハ堀川生酢屋橋の南にあり」と記されています。
 生酢屋(きずや)橋は木津屋橋のことで、七条通より2本南の通りです。

 いま、この南、旧安寧小学校の西塀沿いに芹根水の碑があります。

 芹根水と旧安寧小学校
  旧安寧小学校

 近寄ると、こんな感じです。

 芹根水跡

 「芹根水」と大書された石碑は、宝暦年間(1751~64)に書家・松下烏石が建てたものといいます。
 烏石は、水が湧くところにも井筒を組んだそうです。
 ここまでやったのは、やはり名水として著名で、茶人などにも重宝されたからでしょう。

 芹根水碑 芹根水碑

 この碑が、そのまま「都名所図会」に描かれているのです。

 「都名所図会」より芹根水

 結構写実的に描いてあって、碑の下には石製の井桁も画かれています。
 石段で川面まで下りて、湧いて来る水を汲むようになっていたのですね。

 絵にある川は、堀川です。
 戦後暗渠になったので、姿を消し、この碑も現在地に移設されたそうです。

 堀川は、以前は堀川通に沿って流れていたわけで、この辺では西本願寺の前を南流していました。
 ところが、地図を見ると、堀川七条で西へ屈曲し、流れを変えていたことが分かります。

 地図の堀川

 明治44年(1911)の市街地図ですが、赤矢印の箇所でカギ形に折れています。そこから旧安寧小学校の西沿いに南下していたようです。
 
 現地で、この屈曲に気付いたのは、この道なんですね。

 堀川跡

 S字形にくねった遊歩道があるのですが、こういうのはだいたい川の跡なのです。
 地図では直角にカクカク曲がってますが、この道は緩いカーブになっています。
 このS字の下の辺りに「都名所図会」にある月見橋があり、その下流が芹根水だったのでしょう。

 一度見てみたかった芹根水に、意外なところで出会えました。
 



 芹根水跡

 所在  京都市下京区木津屋橋通堀川西入下ル御方紺屋町
 見学  自由
 交通  JR「京都」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年


祇園祭宵山と変わる街





白楽天山


 前祭の宵山へ

 祇園祭が、前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)に分かれて行われるようなって、今年(2017年)で4年目。
 高度成長期より以前の形に戻り、かつ “2度楽しめる” という利点もあって、慣れて来ると、このスタイルもいいよね、となります。

 占出山
  占出山

 今年、くじ取り式(7月2日)のニュースで驚いたのは、山のうち1番最初に巡行する「山一番」を引き当てたのが、占出山(うらでやま)だったことです。
 というのも、占出山は2014年にも山一番を引き当てていて、3年後にまた、というのは、かなりくじ運のいい人がおられるのですね!

  山一番 山一番を示す

 そう思いながら、各山の町内を歩いていると、こういうのが掲出されていますね。

 山三番

 「霰(あられ)天神山  山第参(3)番」とあり、八坂神社の印が押されています。これが “公文書” なんですね。

 こんなところも、ありました。

 京都市広報板

 市の広報板に貼ってる!
 芦刈山。微笑ましいです。


 町並みも変わる

 鉾町をぶらぶら歩いていると、町並みの変化も目に付きます。

 四条通室町下るにある鶏(にわとり)鉾。
 こちらは、東向いに京都産業会館があったのですが、取壊しになって「京都経済センター」(仮称)が建設される予定。完成は2019年で、そのため今は更地です。

  鶏鉾 鶏鉾 右側が更地

  経済センター予定地

 COCON KARASUMA(古今烏丸)の裏側が見えたりして(!)、おもしろいですね。

 四条通より南ではマンションやコンビニの建設も目に付きました。
 こちらは、白楽天山です。

 白楽天山 白楽天山

 昨年はどうだったか。いずれにせよ近年、道路の両側がマンションになって、山が挟まれる形になりました。
 西側の南は、昨年まで駐車場だったのですが、コンビニが開店していました。

 これ以外にも、ホテルや旅館の建設予定地も、いくつか見受けました。海外からの旅行者が増えている影響ですね。

 また、今年特に目立ったのが、マンションの敷地内などに見物の人が入れないようにするフェンスです。

 マンションのフェンス

 みんな入って来て居住者には迷惑ですし、マナーも悪かったりするのでしょうね。
 フェンスの形や色はさまざまで、上の白楽天山の写真では緑色、下はオレンジと黒のトラマーク。こういうのが増えました。

 人も町も祭りも生きているのだから、年々変化していきます。
 古いことを墨守するだけが善ではなく、かといって何もかも新しくするのも善ではなく…… ひとつひとつのことについて丁寧に考え、判断していくことが必要ですね。




 祇園祭 前祭

 所在  京都市中京区~下京区一帯
 交通  地下鉄「四条」下車、すぐ



京都駅は、観光客にとってガッカリすると言われるけれど……





京都駅前


 期待外れ ! ? 京都駅の印象は 

 インターネットニュース<東洋経済ONLINE>を読んでいたら、「外国人ガッカリ! 日本の鉄道「期待外れ」10選」(野田 隆 氏)という記事が載っていました。
 日本に観光に来て鉄道を利用したら、こういう点が不便だった、こういうところにガッカリした、というポイントをまとめたものです。

 そのひとつに、『日本的な感じがしない駅舎』というのがありました。

 せっかく日本に来たのだから、日本的な駅舎であれば、外国人は気に入るであろう。純和風でなく和洋折衷であっても、風格のある駅舎なら満足するのではないだろうか。

 ところが、今の京都駅は、東京や大阪ならともかく、古都の玄関としてあまりにも街のイメージとかけ離れていて評判がいま一つである。

 国際的保養地の軽井沢駅も特色がないし、少し前までのJR長野駅も評判が芳しくなかった。幸い長野駅は、庇を設けて、現代的ではあるものの風格のある造りになって、面目を取り戻したのは朗報であろう。(東洋経済ONLINE) 


 現在の京都駅は、1997年に完成しました。歴代で言うと、4代目に当たります。

 余談ですが、この前、京都駅の歴史を調べている学生たちと話しているとき、“ いまの京都駅、いつできたの?” と聞くと、“1997年” と答えるものですから、私はビックリしたのです。もうかれこれ20年も経っているのですね。私の頭の中では、ついこのあいだ出来た、という印象なのでした。

 現在の京都駅
  原広司設計の京都駅ビル

 当時、大々的なコンペ(設計競技)が行われ、話題を呼びました。
 とりわけ、黒川紀章氏が提案した巨大羅城門のようなデザインは、物議をかもしました。
 採用された原広司氏の案も、比較的低層な造りながらも、そのデザインからシンボリックなイメージがないため、物足りないとも言われたように思います。
 まあ、「古都の玄関口」に造る駅舎ですから、どんな案でも賛否両論あるでしょう。

 京都駅構内
  中央改札付近

 さすがに20年近く使っていると、この駅も慣れてきたというべきか、私自身は何も感じなくなってきました。
 改めて写真に撮ってみると、大きな吹き抜けなどがあって、空港みたいやなぁ、と思ったりするくらいです。

 東洋経済ONLINEが言うような「純和風」や「和洋折衷」の駅舎なら、梅小路に保存されている旧二条駅(山陰本線)の駅舎みたいなものになるのでしょうか。
 あるいは、冬季五輪前の長野駅のような、鉄筋コンクリート造だけれど破風をもったデザインのようなものになるのでしょうか。

 もちろん、京都駅ほどの規模になれば、和風の駅舎にするのは至難の業でしょう。それはないものねだりというものです。
 仮にそういう注文を受けたとして、満足いく回答を出せる建築家は村野藤吾くらいしかいないと思いますが、すでに1984年に没しています。

 バス乗り場


 駅前も不評? 

 「哲学者の都市案内」という副題を持った鷲田清一『京都の平熱』にも、このように書かれています。

 京都駅に降り立って、まずはいやでも目に入るのが京都タワーだ。見たくなくても目に入る。京都駅の入り口、東本願寺を背にしているというので、蝋燭を「モダン」に象ったらしいが、この巨大なキッチュ、京都を訪れたひとをひどくとまどわせる。中には温泉があり、展望台があって、どこかの田舎町に降り立ったという気分にはなっても、「みやび」とはほど遠い。「建都千二百年」の京都駅大改築の国際コンペのときも、このタワーが見えない設計だったら、どんな駅舎のデザインでもよいとのたまったひとがいたくらいだ。

 「そうだ 京都、行こう。」という口車に乗せられてやってきたものの、最初の光景がこれでは話にならない。古都は、「みやび」は、どこにある? これが、宗教と芸術と学問の都の玄関か? 学生、町衆、京おんな、職人の町と言われながら、どこにいる? 接客、「着倒れ」、古本文化、どこにある? さすがの京都人も、ここに立ったら、「京都って、おたくらがおもたはるようなものやおまへんえ。まだなんにもわかったあらへん……」とうそぶく気にはなれない。けれども不思議なもので、京都市民は新幹線で東京から戻ってきて、東山のトンネルを出て、鴨川が、そして夜空に浮かぶこの京都タワーが目に入ってくると、「ああ、帰ってきた」とほっとする。いや、ほっとするようになってしまったのである。じっさい、この「京都タワー」を歌詞に入れた小学校校歌が現にいくつもあるそうな。(14ページ) 


 京都タワー 京都タワー

 こう言う鷲田氏は、別のところでも「京都の顔の一つが、京都タワーであり、いまの軍艦のような京都駅であるということに、多くのひとたちは潜在的な違和感をもっている」(223ページ)と書きながら、自分は京都駅は大好きである、と言います。「大階段」のような、何をすると決められたのではない、都市の隙間があるというのです。

 大階段 大階段


 現代の駅は 4代目

 現在の京都駅ビルは、京都駅舎としては4代目です。

 京都に鉄道が通ったのは明治10年(1877)。
 大正4年(1915)10月には、京都御所で行われた大正天皇即位礼に合せて、2代目駅舎が完成しました。

 私が持っている戦前の書物には、この2代目駅舎の写真が登場します。

 京都駅
  2代目京都駅(『日本地理大系』7 より)

 駅前広場が広々としています。

 設計は、大阪で活躍した建築家・渡辺節。
 そう、先ほど名前が出た村野藤吾が、若き日に所属していた事務所の主宰者です。まったくの妄想ですが、村野藤吾が4代目京都駅を造っていたら、その意味でもおもしろかったですね。

 京都駅
  渡辺節が設計した2代目京都駅(『京都』より)

 この駅舎も、さほど象徴性が高い建物ではありません。
 もちろん、和風でも和洋折衷でもありません。すでに大正時代ですからね。

 そして、戦後、2代目駅舎が焼失したのち、昭和27年(1952)に建設されたのが3代目駅舎。こちらも、地味な駅でした。
 写真がないのが残念ですが、取り立てて特徴のない駅舎だったのです。

 京都駅付近
  昭和34年(1959)頃の京都駅(『日本地理風俗大系』7 より)

 この駅は、私も使っていました。
 何かごちゃごちゃした印象がある、昔の地方の駅という雰囲気でした。そのため、外観についての記憶も余りありません。

 昭和39年(1964)に東海道新幹線が開通しましたが、新幹線ホームは駅の南側(八条口側)に新たに造られたので、北側は大きく変化しなかったのでしょう。
 
 そして、約40年使われたのち、改築されたのです。

 京都駅が「古都」らしくない、と言えば、その通り。
 歴史的に考えれば、京都駅は京都の町の中心部から離れた “町はずれ” に造られたものです。だから、京都らしくなくても仕方がないと言えば言えます。
 そして、何をもって古都らしい、京都らしいというのかも、ずいぶん難しい問題です。最近京都では、ラグジュアリーな施設に竹を植えたりするのをよく見掛けますが、あれが京都らしいのでしょうか? 
 
 海外ツーリストであふれ返る京都駅では、駅ビルのデザインよりも、これから始まる京都旅行の案内を親切にしていく方が大切かも知れませんね。

 
  京都駅に移ったタワー

 


 京都駅

 所在  京都市下京区東塩小路町
 見学  自由
 交通  JR「京都」下車



 【参考文献】
 『日本地理大系』7、改造社、1929年
 『京都』京都市役所、1929年
 『日本地理風俗大系』7、誠文堂新光社、1959年
 鷲田清一『京都の平熱』講談社、2007年


数多くの絵馬が奉納された世継地蔵に、庶民の願いをみる





世継地蔵


 富小路通五条下ルの上徳寺

 京都の中心街を北から南へとつなぐ富小路通(とみのこうじどおり)は、五条通に至ると、進路をやや西に振ります。
 そのため、まっすぐでは見えるはずのない京都タワーが、真正面に見えるようになります。

 富小路通

 この不思議な光景に魅かれて通りを進んでいくと、あたりが寺町であることに気付きます。
 このあたりは下寺町(しもてらまち)と言うそうで、三条や四条あたりの寺町通と同様、豊臣秀吉の施策により寺院が集められたそうです。
 お寺のひとつに、上徳寺があります。

 上徳寺山門

 特に変わったところもない門構えですが、門札に “おや”という思いが……

  上徳寺表札

 「世継地蔵 上徳寺」と書いてあります。

 世継(よつぎ)地蔵という文句にひかれて、思わず山内へ。

 上徳寺本堂
  上徳寺 本堂

 本堂を拝し、左奥へ進んでいくと、なんとなく雰囲気が……

 上徳寺山内

 右には手水舎があり、敷いてある石畳みに沿って進んでいくと、お堂があります。


 子を授ける世継地蔵

 世継地蔵
  地蔵堂

 世継地蔵を祀る地蔵堂です。
 明治4年(1871)の建立だそうです。

 礼拝して驚くのは、お堂のまわりに無数の絵馬が懸けられていることです。

 絵馬掛所

 よだれ掛け絵馬

 よだれ掛け絵馬というらしく、赤ちゃんのよだれ掛けとともに奉納されています。
 これは、子を授けてくださいという祈願なのです。
 絵馬自体には、ほおずきの絵が描かれていますね。

 絵馬

 これだけでも、多くの方から信仰されていることが分かります。
 さらに、お堂の上を見てみると、額や古い絵馬が懸けられていました。


 明治時代の絵馬

 こちらは、御詠歌の額です。

 御詠歌額

 「ありがたや めぐみふかきを千代かけて 家の世つぎをまもるみほとけ」と書いてあります。

 御詠歌も、家を継ぐ “お世継ぎ” を願う気持ちが表れています。
 
 そして、古い絵馬も。

 絵馬

 ひとつずつ見ていくと、明治時代の絵馬が多いことが分かります。

 絵馬は、現在では願い事をする際に願文を書いて奉納します。しかし、もともとは願い事が成就した暁に神仏に奉納することが多かったのです。

 絵馬・何某

 これは明治11年(1878)11月に奉納された絵馬ですが、額の上部に「御礼」と記されています。
 このようなことは、絵馬の絵柄を見ていくと、よく理解できます。

 絵馬・奉納者不詳

 時期が不詳ですが、授かった赤ん坊を抱いた夫婦が御礼参りに来ているさまを描いています。

 絵馬・菱田

 これは、明治29年(1896)に菱田菊松が奉納したものですが、こちらも赤ん坊を抱いた夫婦です。

 絵馬・千代女

 明治34年(1901)の絵馬。お堂の前に敷かれた畳に座る幼女。
 絵馬によれば、4歳の千代女という子どもです。これはどういうことでしょうか、誕生し成長した本人が御礼を述べているのでしょうか。
 ちなみに、現在でもお堂の前には祈願する人のために畳が敷いてあります。


 お堂の裏には投入口が…
 
 お堂の裏に回ってみます。
 すると、ポストの口のようなものが開いています。

 投入口

 説明によると、これは地蔵尊の近くに開けられた文入れ口で、所願や謝恩を便箋に書いて、地蔵尊の名を3回唱えて入れるとのことです。
 また、便箋の右にはノートも備え付けてあり、祈願者の切実な思いが綴られていて胸を打ちます。


 かつては、おみくじも

 さらに側面に回ると、ここにはかつておみくじが設置されていたようでした。

 御籤授与

 くじを引く場所の上には、番号ごとにお告げを記した額が掲げられています。
 例えば、大吉(五)には「千代かけて捨てぬ誓ひを頼む人 心の底のあら頼もしや」といった文句が書かれています。

 御籤扁額

 この額は、慶応元年(1865)5月に奉納されたもので、施主は堺屋米とあります。
 私が気になったのは、その左、額縁に書かれた「鈴木りう」という名前でした。

 御籤扁額額縁

 確かに、聞き覚えのある名前。
 これは、建仁寺にある摩利支天・禅居庵に奉納された灯籠や額に刻まれていた名前ではないか……

 その灯籠などは、鈴木りつという七条新地・平居町の女性が奉納したものでした。おそらく鈴木りつは、新地の貸座敷の女将だっただろうと考えていて、それに連なる一族の名前に鈴木りうもあったのです。
 当時私は、りうは、りつの娘ないしは嫁と想像していました。

 しかし、禅居庵の奉納額は明治21年(1888)のもの、灯籠はずっと新しい明治30年(1897)のものでした。
 ということは、当地の額は幕末ですから、りつよりも、りうの方が年上ということになりそうです。
 つまり、りうは、りつの母だったのか?

 ちなみに、この上徳寺のある場所から七条新地・平居町までは、目と鼻の先です。

 以前の記事は、こちら! ⇒ <イノシシの摩利支天堂は、ずっと篤い信仰を集めている>

 最後に意外な人名に出会い驚いたのですが、この世継地蔵、霊験あらたかなお地蔵さまと拝察しました。

 それにしても、子授けのご利益のあるお地蔵さんとは、珍しいのではないでしょうか?
 その理由を考えてみると、お地蔵さんは子供の守護をされる、ということがあります。
 仏典などにはそのようなことは記されていないそうですが、日本では「今昔物語集」のような仏教説話で、お地蔵さんは “小さな僧” に変じて登場されるという話が多いのです。それが変化して、子供と結び付いたとも考えられるようです。

 こういうことがさらに変わっていき、子供を授けてくれる、というご利益になったのかも知れませんね。




 上徳寺 世継地蔵

 所在  京都市下京区富小路通五条下ル本塩竈町
 拝観  自由
 交通  京阪電車「五条」下車、徒歩約5分
 


 【参考文献】
 速水侑『地蔵信仰』塙新書、1975