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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

近代京都の遊楽空間をさぐる - 加藤政洋編『モダン京都 <遊楽>の空間文化誌』-

京都本




  モダン京都 加藤政洋編『モダン京都』ナカニシヤ出版


  遊所の研究 

 4月に入って2週間が経ちました。
 今年度は、いつもに増して慌ただしく過ごしています。

 大文字山と桜 大文字山と鴨川とサクラ

 そんななか、『京都モダン <遊楽>の空間文化誌』という新刊を手にしました。
 編著者は、加藤政洋氏。

 加藤さんは、立命館大学で人文地理学を研究されています。
 若い頃は(いまもお若いですが)、大阪を拠点に研究され、最初の著書『大阪のスラムと盛り場』という本をまとめられました。

  大阪のスラムと盛り場 『大阪のスラムと盛り場』創元社

 私は、その頃からお世話になり、勤務先で講演いただいたりしました。
 都市の盛り場のような空間への関心は、その後も持ち続けられ、とりわけ花街(かがい)について調査を深められました。
 それは、古くは遊廓とも重なりますし、大都市だけでなく、ローカルな場所にも小さなところがあったわけです。

 著書には、『花街』や『京の花街ものがたり』などがあります。

  花街 『花街』朝日選書

 京都の花街研究である『京の花街ものがたり』は、祇園や円山などについて研究されていて、このブログでも何度か引用させていただきました。

  京の花街ものがたり 『京の花街ものがたり』角川選書

 また、戦後の赤線(売春防止法以前に公然と売春が行われていた地域)についても、新書を刊行されています。

  敗戦と赤線 『敗戦と赤線』光文社新書


 気鋭の地理学者の最新刊
 
 加藤さんの研究は、地理学者らしくフィールドワークに支えられつつ、文献史料にも目配りをされています。
 私も、京都や大阪の遊所について、多くを学ばせてもらいました。

 今回、ナカニシヤ出版から刊行される『京都モダン』は、加藤さんとその教え子さんらしい若い方との共同執筆になっています。
 祇園をはじめとする花街や、席貸などについて十数本の論考が収められています。

 目次は、次の通り。

  序 章 文学の風景を歩く
  第一章 京の<宿>-≪上木屋町≫の文人たち
  第二章 席貸と文学のトポロジー
  第三章 鴨川畔の山紫水明-≪東三本木≫の文人たち
  第四章 花街周辺の宴席文化-山猫・配膳・雇仲居
  第五章 廓の景観と祭礼-≪島原≫の太夫道中をめぐって
  第六章 祇園祭のねりもの-≪祇園東≫芸妓衆の仮装行列
  第七章 鴨川納涼の空間文化史
  第八章 祇園はうれし酔ひざめの……-≪祇園新橋≫の強制疎開
  第九章 「風流懴法」のあとさき-≪真葛ケ原≫の京饌寮
  第十章 縁切りのトポスと「愛の空間」-安井金毘羅宮とその周辺
  第十一章 紙屋川の料理茶屋-≪平野≫と≪北野≫のはざまで
  終 章 <地>と<図>のあいだに  


 第二、第十章は住沢杏子さん、第六章は三浦実香さん、第七章は加藤千尋さんが執筆されています。

 吉井勇、高浜虚子、近松秋江など、京都に遊んだ文化人も多数登場、その著作から引用がなされています。その点、文学色も濃い一書ですね。
 これからじっくり読ませていただきますが、序章に記された編者の言葉を引いておきましょう。

 本書は、文学作品、地図・絵図、そして古写真などを材料にして、モダン京都における<遊楽>の風景を探訪しながら、都市空間の随所に埋もれた場所の意味と系譜を掘り起こす試みである。
「<宿>と<文学>のトポロジー」、「景観とスペクタクル」、「花街周辺の<遊楽>」という、三つの主題から構成され、いずれの章も京都を訪れた文人たちの足取りをたよりに、<遊楽>をめぐる場と連関する歴史空間へとわけいってゆく。(7ページ)


 前著『京の花街ものがたり』は江戸時代の記述も多々あったので、それと対にして読むと、より楽しめるでしょう。




 書 名  『モダン京都 <遊楽>の空間文化誌』
 編 者  加藤政洋
 刊行者  ナカニシヤ出版
 刊行年  2017年 



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こんな数え歌もあった - 梅棹さんに教わる京案内 -

京都本




戦前の二条城


 “丸竹夷” と お公家さんの数え歌

 この前、京都の街路名について書きました。

 京都の通りの名前というと、みなさん決まって “丸竹夷二押御池” という数え歌を思い出されるでしょう。

  丸 = 丸太町通
  竹 = 竹屋町通
  夷 = 夷川通
  二 = 二条通
  押 = 押小路通
  御池 = 御池通 ……

 といった具合です。

 こういった記憶のための数え歌は、昔はよく行われたものでした。
 このブログでも、以前、お公家さんの数え歌というのを紹介しています。

 それは、

 長風や芝園池に梅桜池尻交野妙法林丘
 
 萬里甘露櫛笥柳に園富小御下り御殿京極の宮

 一河や滋る中山藤波は御門を出でゝ樋口高倉


 とった超難解なもので、まぁ、詳しくは以前の記事をご参照ください。

  記事は、こちら! ⇒ <御所にもあった“お公家さん”的数え歌>

 何の歌かというと、お公家さんの邸の場所を覚える歌なのです。
 現在の京都御苑には、明治維新までは数多くの公家屋敷が立ち並んでいました。それを並んでいる順に歌ったのが、上の歌です。
 一般人には無用のものかも知れませんが、お公家さんにとっては必要不可欠な知識だったわけですね。


 ほかにもあった数え歌

 民族学者の梅棹忠夫(1920-2010)は京都の出身で、専門分野以外にも京都の本を出されています。
 その1冊が『梅棹忠夫の京都案内』。

  梅棹忠夫の京都案内 『梅棹忠夫の京都案内』角川ソフィア文庫 

 ここに、余り聞いたことがない数え歌が紹介されています。

  一条 戻橋
  二条 お城
  三条 みすや針
  四条 芝居
  五条 弁慶
  六条 坊んさん
  七条 停車場
  八条 すずや町
  九条 東寺  


 梅棹さんによると、通りと日本の歴史が結び付いていた京都では、「社会科」などというものがない時代、子供たちはこのような歌で歴史の勉強をしたというのです。

 「お城」(二条城)で大政奉還を学び、「坊んさん」で本願寺と真宗、親鸞聖人について知り、「東寺」で平安京と弘法大師について考える、といったことなのです。

 節をつけてうたいながら「お母ァはん、四条はなんで芝居や」ときけば、いまの南座から、中世の四条河原、阿国歌舞伎まで、場合によっては話がすすむ、という仕かけになっている。(149ページ) 

 例えば、三条の「みすや針」は今も残る老舗で、江戸時代にはみすや針と言えば知らぬもののない名物だったのです。
 丸竹夷とは少し違った歌なのですが、歴史のある京都らしい歌だとも言えるでしょう。

 梅棹さんは、これが変形したお手玉の数え歌も紹介しています。
 「ひとつ、ふたつ……」と数えているのですね。

  おしと
  おふた
  さんかん せいばつ
  よしのの さくら
  ごじょう べんけい
  ろくじょう ぼんさん
  ひっちょうの ていしゃば
  きっぷ かいまひょ
  なないろの とんがらし
  おかろ ございます
  おしと さくら さーくーらー 

 七色の唐辛子というのは、いうまでもなく、京名物のひとつ。清水坂に売っています。(150ページ)  


 「さんかん せいばつ(三韓征伐)」などというのは、時代です。
 それにしても、六条がやはり「坊んさん」なのは、それだけ東西本願寺の存在が大きかったからでしょう。

 七条を「ひっちょう」と言っているのは、古い発音。「ひちじょう」がさらに詰まった言い方です。
 京都では、「しち」は「ひち」になります。質屋の看板を「ひちや」と書くのは有名ですね(有名ですか?)

 梅棹さんは「このほか、ずいぶんたくさん京の唄があったのをおぼえています」と述べています。
 この本のページをめくっていくと、他にも歌が出て来ます。


 こんな意外な歌まで!

  一(いち)びりやがって
  二(に)くいやっちゃ
  三(し)ゃべりやがって
  四(し)りもせんと
  五(ご)てくさぬかすな
  六(ろく)でもないこと
  七(ひ)ねったろか
  八(は)ったろか
  九(く)そぼうず
  十(と)んでいけ  (189-190ページ) 


 これは、罵倒の数え歌! なんだそうです。
 
 口が悪い京都人らしい、というべきなのか?

 変な歌で締めくくりですが、昔の人は何でも歌で覚えた、というよい証しです。




 書 名  『梅棹忠夫の京都案内』
 著 者  梅棹忠夫
 刊行者  角川書店(角川ソフィア文庫)
 刊行年  2004年(原著1987年)



半世紀のうつろいを感じながら - 『カメラ京ある記』を読む(2)ー

京都本




青蓮院門跡


 粟田口の青蓮院

 前回紹介した『カメラ京ある記』。

 昭和30年代の京都風景をカメラで捉えたレポートです。
 朝日新聞京都支局編で、淡交新社から昭和34年(1959)と36年(1961)に正続で刊行されました。

 カメラ京ある記 『カメラ京ある記』正・続(淡交新社) 

 すでに半世紀余り前の書物です。
 その間に街や史跡も大きく変化しました。

 正編の29番目に「粟田口」という項があります。
 粟田口は、そうですね、平安神宮の南の方、と言えば分かりやすいでしょうか?

 かつては、三条大橋から始まる東海道の、京の町の出入口に当たるような場所でした。ゆるく長い坂道が続いており、沿道にあった料亭で歓迎や餞別の宴が開かれたのです。

 本書で取り上げるのは、青蓮院門跡。
 その冒頭。

 青蓮院 青蓮院

 夜、三条粟田口を青蓮院のほうに、ものすごいスピードで、スクーターがすっ飛んでいった。クスの木のこずえに、かん高い排気音だけが残っていた。
 ひっきりなしに通る車の流れ―。地べたに、食いつくようなうなりを立てる観光バス 乗用車のにぶい音、そんな流れを縫うようにして、アベックが、楽しげに語らいながら、ネオンの街へ下りていった。(64-65ページ) 


 『カメラ京ある記』の特徴は、新聞記者が書いたせいか、old & new というか、“古都” と “高度成長” する現代とを重ね合わせて捉えているところです。
 長屋門の前に、あの楠の大木がある門跡寺院を、スクーターの轟音から描き出すという離れ業です。

 でも、私には、この正直な書きっぷりが心地よく感じられます。

 青蓮院も、いつまでも格式張ってはいられなかった。代々、宮様が跡を継いでいた “門跡寺院” も、宮様が軍に籍を置かれるようになってからは、思うようにならなかったわけだ。
 とりわけ、戦後の荒れ方はひどく、一時は畳もスコップで捨てるまでにくさってしまった。
「一定のお客を引入れて接したい」と、五年ほど前観光寺院に踏み切った。昼と夜のひととき、お寺は観光客の応接にいとまがないくらいになった。
 今春、約五千平方メートルのバスプールも出来たおかげで、親鸞聖人の “植髪堂” は、その奥に押しやられてしまった。(65ページ) 


 江戸時代まで皇族方を受け入れてきた門跡寺院・青蓮院も、明治以降は皇族方が陸軍などの将校になられたため、経済的な後ろ盾を失った、と記しています。
 確かに、戦前の軍隊では「○○宮○○親王」が要職に就いているケースが多いですね。

 植髪堂
  植髪堂と駐車場  現在は舗装整備されている

 私が驚いたのは、植髪堂です。親鸞聖人の遺髪を祀るお堂です。
 この建物が、バス駐車場を作るため、「奥に押しやられてしまった」と書かれています!
 確かに、上の写真のように、寺内には広い駐車スペースがあり、その奥に植髪堂が建っています。

 植髪堂は、もとはウエスティン都ホテルの上あたりにあったはずですが、のちに三条神宮道に降りて来、最終的には青蓮院の寺内に落ち着きました。
 この記事を信じれば、昭和34年(1959)頃まで、もう少し道路寄りに建っていたことになります。

 記事では、この近くに住んだ陶芸家・楠部彌弌(くすべやいち)の「どこでもそうだが、観光観光と、すべてが、見るものから、見せられる風景に変っていくのですよ」という言葉を紹介しています。

 一般人とは無縁であった門跡寺院が、戦後「観光寺院」に転換したというところに、時代の変転を感じさせられます。


 尺貫法かメートル法か?

 東山七条の三十三間堂を取り上げたページでは、こんな逸話を紹介します。

  京都へ修学旅行に来た東京の女子高校生から、三十三間堂の寺務所へ抗議のハガキがとどいた。
「観音さまはいつの時代でも現代に生きて、私たちの苦悩を救って下さるはずなのに、あなたのところの案内係は、“お堂の長さが南北に六十四間五尺、奥行が九間三尺……” と説明も昔風の尺貫法でした。いまはメートル法になったことをご存じないのでしょうか」 きついおしかりだった。

 まさに一撃をくらった参拝部長、ご本山の妙法院へ出かけて、三崎門跡におうかがいを立ててみた。ところが、三十三間堂はお堂の長さが百二十メートル、奥行きが十七メートル、柱と柱の間が三・五メートルでは、どうしても実感が出てこない、ということになった。
 さてはいっそのこと「三十三間堂」の呼び名もメートル法に改めるかということで論議の花が咲いたということだ。(44ページ) 


 三十三間堂


 どこまでが本当で、どこからが誇張なのか? ちょっと掴みかねる話ではあります。

 女子高生が「観音さまはいつの時代でも現代に生きて、私たちの苦悩を救って下さる」などと発言することが、むしろ驚きです。そして、やっぱりメートル法は感じが出ないなぁ、と首をひねるお坊さんたちも昔気質ですね。

 ちょうどこの頃、三十三間堂でも東大門と回廊の建設工事をしていて、“観光化”していたのでしょう。お坊さんに「参拝部長」という肩書があることにも驚かされます。
 本書には、多い日には9,000人から1万人の「観光客」が押し寄せると記しています。

 社寺への観光的な参拝は昔からあったわけですが、戦後の昭和30年代に激しく進んだことがよく分かります。


 銅像も再建されて

 「三条大橋」の項目には、その交通の激しさ、路上での諸商売のありさまを語ったあと、このようなことに触れています。

 橋のたもとに、高山彦九郎の銅像があった。戦時中に供出されたが、近ごろ建て直そうという話がある。市長は「建てるなら美術品としても鑑賞にたえられるものを」と注文をつけた。いつ建てるのか、その後音さたがないそうだが……。ご時勢というものだろう。(25ページ)

 本書が刊行された2年後の昭和36年(1961)、高山彦九郎像は再建されました。

 高山彦九郎像 高山彦九郎像

 「その後音さたがない」「ご時勢というものだろう」と書いた記者は、戦後の民主化が進む中で、かつての尊皇家の像が復活するとは考えなかったのでしょう。
 世の中は、いつも意想外のことが起きるものです。

 この三条大橋界隈、改めて少し歩いてみたい気がしますね。
  



 書 名  『カメラ京ある記』『跡 続・カメラ京ある記』
 編 者  朝日新聞京都支局
 刊行者  淡交新社
 刊行年  1959年、1961年




50年前の京都の街は…… 『カメラ京ある記』を読む

京都本




木屋町


 朝日新聞のカメラルポ

 前回、『新編 随筆京都』という半世紀前に出版されたエッセイ集を読んでみました。

 今日は、同じ頃に刊行された写真ルポのページをめくってみましょう。
 タイトルは『カメラ京ある記』。そして『跡 続・カメラ京ある記』です。

 カメラ京ある記 『カメラ京ある記』正続(淡交新社) 

 朝日新聞京都支局編とあって、もとは同紙の京都版に連載されたものと言います。
 正編100、続編98の項目があり、著名人へのアンケートをもとに立項したそうなのですが、メインの写真や記事は支局員によるものです。
 記者とカメラマンが現場に行って写真を撮ったり、記事を書いたりしたわけで、「たのしい仕事だった」と木村庸太郎支局長のあとがきに記してあります。確かに、街を歩いて話を聞き、撮影するのは、とても楽しいですよね。よく分かります。

 刊行された時期は、正編が昭和34年(1959)、続編が2年後の昭和36年(1961)。
 前回の『新編 随筆京都』と同時代で、ようやく戦後復興も成り、京都の街にも賑わいが戻って来た頃だったのでしょう。


 変わる先斗町 

 私は年明けから、ふらっと木屋町、先斗町界隈を歩いて、ここにも少し道案内を書きました。
 それで関心もそちらに向き、『カメラ京ある記』にも、どう書かれているか気になります。

 正編の12番目に「先斗町」があります。

 先斗町(ポントちょう)は夜の町だ。昼間はどこか白白しいが、日が暮れると、町全体が夜のよそおいをこらして活気づく。(30ページ) 

 傘を差してすれ違えないほど狭い通りで、そこで傘を傾けながら芸妓さんと行き合うのも、このあたりの風情だと記します。

 ここでもやはり触れられるのは、街の変化。

 昭和の初めごろには、お茶屋は百五十軒もあったそうだが、年々減る一方で、いまは七十軒。べにがら格子の町並に、歯がぬけたようにバーや喫茶店がふえている。
 先斗町お茶屋組合長の谷口さださんは「お茶屋はもう古おす。新しいことを考えんとあきまへん」という。


 祇園が保守的なのに比べ、先斗町は新しいものを大胆に取り入れると記者は言います。
 毎年5月に先斗町歌舞練場で行われる鴨川をどりに、「パリのマロニエ」云々といった歌も飛び出すあたりが、ここらしいと指摘します。

  先斗町 先斗町

 この記事で目を引くのは、昭和の初めには150軒あったお茶屋が、約30年後の当時は半減している、ということです。
 京都市街のほとんどは戦災を免れていて、先斗町もそうですが、やはり終戦後の荒波で持ちこたえられないお茶屋も多かったのでしょうか。

 ちょっと軒数を調べようと思い探っていると、興味深い論文に行き当りました。
 松井大輔・岡井有佳「先斗町花街における茶屋の減少に伴う火災危険性の変化」というものです。
 この論文のテーマ設定は、意外ですが大変重要なものです。ただ、本題から外れるので、興味のある方は原著を読んでみてください。実際、昨年(2016年)も、先斗町の飲食店で火災が起きたのは記憶に新しいところです。
 
 論文によると、明治43年(1910)にはお茶屋は152軒あり、ピーク時の昭和初期には172軒(昭和5年=1930)まで増加しています。
 戦時下の昭和10年代も、140軒以上あります。

 戦中戦後のデータのない時期を経て、昭和28年(1953)になると、82軒に激減しています。
 先斗町は通りの両側にお茶屋が並んでいるのですが、戦前は西側に多かったのです。ところが、戦後は西側のお茶屋が数多く廃業しています。
 論文では、その理由を「第二次世界大戦中に地区中央部の一帯が建物疎開によって空地化し、当地にあったお茶屋が廃業したためと考えられる」としています。現在、先斗町を歩くと、ほぼ中程に公園(東)と駐輪場(西)がありますが、ここが建物疎開した場所です。
 それだけの理由ではないかも知れませんが、戦争を挟んで約60軒減少したわけです。

 その後、昭和30年代はおよそ70軒、40年代はおよそ60軒のお茶屋がありました。
 昭和60年代から平成の初めにかけては、40軒ほど。現在の平成20年代になると20軒余りまで減っています。2013年の時点では、26軒ということです。
 
 『カメラ京ある記』が出された頃は、まだ70数軒のお茶屋があり、飲食店はお茶屋の数よりも少なく、花街らしい風情が残っていたことが分かります。


 かつての木屋町は 

 木屋町もまた、昭和30年代は現在とは違った様相を呈していました。

  木屋町 木屋町

 木屋町を幾重にも切る細い路地には、色とりどりのネオンとバーの看板が、ひしめき合っている。五条署の話によると、このかいわいで、バー、キャバレーのたぐいは五百軒に近い。しかも年に百軒もふえているそうだ。(32ページ) 

 このバー、キャバレーの数500軒というのが、多いのか少ないのかよく分かりません。ただ、当時の京都としては随一の飲み屋街だったということでしょう。
 
 続編には、もう少し突っ込んで書いています。

 明治以前の木屋町通には川ぞいに材木置き場や薪炭納屋が並んでいた。三条小橋から四条小橋までの間にある西木屋町筋にも、材木がたくさん立てかけられ、先斗町の陰に隠れたさびれた町筋だったという。
 ところがここ数年のうちに、このあたりのネオンの数が木屋町通でいちばん多くなった。五条署の調べだと、去る三十四年末、五百四十九軒だった酒場の数が一年たらずに五百八十軒にふえている。(続編、185ページ) 


 昭和35年(1960)頃、木屋町界隈に580軒もの酒場があったと言います。
 この急増ぶりは、地元以外の資本も入って来た結果のようです。

 経営者は地の人ばかりではなく、関東弁でサービスする女給さんの数も多い。古い京都を知っている人たちは、この変わりっぷりを “ニューキョートの誕生” という言葉で表現する。
 過去の存在を無視し、京都的なものを否定した新しい場所が、とつぜん生まれたわけだ。


 正編には、ここらのキャバレーやバーには美人がいて、客をちやほやするものだから、男の方も「オレはもてたんだ、などと勘ちがいするものも現われる」と書いています。微笑ましいと言うべきでしょうか。

  看板


 閑古鳥のなく寺、流行る寺

 私が、この本の中で驚いたのは、「東福寺」のページでした。
 そこには、次のように記されています。

「きょうもまたカンコ鳥どすなあ…」 拝観料をとるおばあさんがぼやいていた。観光シーズンのさなかだというのに、名所通天橋の紅葉もやがて散ってしまおうというのに、広大な寺域はひっそり閑。
 都心の近くにありながら平日の観光客は四十人程度、京洛五山の一つに数えられる東福寺は、いまや観光から全く置き忘れられたかたちだ。
「珍しく観光バスが入って来たと思うたら、お客が公衆便所を使うとさっさと回れ右しはるのどすぇ」 おばあさんはお寺の宣伝不足を口惜がる。(127ページ)  


 紅葉のシーズン、平日の入山者がたったの40人とは…… いまの東福寺では考えられません。
 もっとも、いまでもオフシーズンは割りと静かで(私はそれが好きなのですが)、落ち着いたお寺なのが東福寺。それでも、40人とはケタが違うでしょう。

 通天橋
  賑わう現代の東福寺・通天橋

 この記事を読んで、私が感じたもうひとつのこと、それは昔の記者は自由に書くなぁ、ということでした。
 たった40人しか来ておらず、それを受付のおばあさんが嘆いている――いまだったら、いろいろ配慮してこういう記事は書けないのではないでしょうか。

 そう思ってページを繰っていくと、こんな記述もありました。

 昭和二十五年七月二日未明、北山鹿苑寺の舎利殿金閣は、その美しさに魅せられた一仏教学生の手で焼き払われた。
 (中略)
 “昭和の金閣” はその後五年、二千八百万円でまばゆく再建された。三万人もの拝観客が毎日のようにぞろぞろと列をつくって、金閣ブームをあおったのもそのころである。
 (中略)
 たそがれの鏡湖池は美しい。昔は金閣も池の中に浮かんでいたものだ。対岸は紅葉山という。もみじは少なくなったがここから優雅な金閣へのカメラアングルは見事だ。
 写真を撮りたいと案内人に申し出ると、お供えをと金千円ナリの撮影料を請求されて、とたんに幻想の夢はやぶれる。金閣の再建費などとっくに回収しただろうに-。一億円ほどたまれば金閣会館をたて室町文化の資料室や図書館なども作って社会事業に還元するそうだが… (85ページ)   


 歯に衣着せぬという感じで、ガンガン書きますねぇ。
 これも時代でしょうか。

 古い本を繙くと、いろんな意味で勉強になります。




 書 名  『カメラ京ある記』『跡 続・カメラ京ある記』
 編 者  朝日新聞京都支局
 刊行者  淡交新社
 刊行年  1959年、1961年



 【参考文献】
 松井大輔ほか「先斗町花街における茶屋の減少に伴う火災危険性の変化」(「歴史都市防災論文集」vol.8、2014年)



川勝政太郎「京都の街路の名」を読んで

京都本




通り名


 昔の随筆を読む

 いきなり脱線めきますが、最近 “ポスト・トゥルース” とか “フェイク・ニュース” というのが流行っていますよね。流行りというのは変ですけれども。
 自分の見解を述べる際には、客観的事実に基づいて発言するのは当然のこと。ところが、なかなかそうじゃないケースが多い昨今です。
 
 それとはまたずれるのですが、若い学生たちを見ていると、何かを調べるときに、だいたい今現在の参考文献を読んでくるわけですね。最たるものはインターネット情報ですし、書物でも2000年代になってからのものが多い。そんな傾向です。

 それとは逆に、私が薦めるのは、できるだけ古い参考文献を読もう、ということ。
 例えば、そのテーマについて、戦前の学者はどういうことを言っているのか、さらにさかのぼって明治時代はどうっだったのか、など。
 何も、最新の研究だけが優れているのではありません。その時代時代でさまざまな調査・研究がなされており、それを参照することはとても有意義なことです。

 特に、時代によって人が関心を持っていることは相当異なります。
 なので、違った時代の文献を読むと、自分が思いもよらない指摘に出会えることも多いのです。

 ということで、京都の話でも折にふれて古い書物を繙きます。
 今日は、昭和35年(1960)に出された『新編 随筆京都』を開いてみました。
 「新編」というタイトルの通り、『随筆京都』は戦前に出ているのですが、これはその戦後版というところ。京都本の老舗・白川書院から刊行されました。いまから半世紀以上前、私などの生まれる前の随筆集です。
 カバーに「日本の一流文人による文学的京都案内記」と宣伝文句があるところなど、時代を感じさせます。


 場所の示し方

  新編随筆京都 『新編 随筆京都』白川書院

 ここに、川勝政太郎氏の「京都の街路の名」というエッセイが載せられています。
 川勝政太郎と言えば、京都で著名な古美術研究家で、石造美術の研究などで知られています。

 この随筆は、こんな一節から始まります。

 京都の地理に不案内な人から「大宮へ行きたいのですが、どう行けばよいのですか」と言う風な質問を受けることがある。大宮と言えば或る地点を指すものだと思つているらしい。「大宮のどこへ行きたいのですか」と問い返すと相手は変な顔をする。大宮というのは京都の北から南へ貫通している街路の名だから、それだけでは目的地がはつきりしないのだと説明しなければならない。(88ページ) 
 
 こう述べて、京都では例えば「大宮三条」というふうに、南北の街路と東西の街路の交差点を指すことで地名を示すのだ、と言っています。

 このことは今日では京都以外の方にもよく知られていることでしょう。
 川勝氏によると、こういう表現は意外に古くて、すでに「平安時代の中頃、即ち藤原道長などが現われた頃」になると、高倉とか室町、油小路といった現在でも用いる街路名が登場し、タテヨコの路名の交差点によって地点を示す方法も起ってきたらしい、と言います。例えば、「大宮与三条」というふうな表現です。「与」は「と」ですから、“大宮と三条” という言い方です。案外古いのだなぁ、と思わせます。

 御幸町通


 通り名の覚え歌

 京都市内の地理を知るには従つて数多い縦横の街路を暗記する必要がある。何通の東が何通と言うことを覚えなければ、それこそ足も出せないことになる。以前、地方から京都の商店へ謂(い)わゆる丁稚奉公に来た少年が先(ま)ず課せられたことは、この街路名を覚えることであつた。(90ページ)

 これは大事な指摘なのです。
 私は、大阪でも同じことを聞いたことがあります。

 京都や大阪は、地方から奉公に上がる子供たちが多かったわけですが、彼らは、番頭さんなどから「どこそこまで、これ届けて来て」などと言い付けられたのです。
 地図など使わない頃、その場所は「○○町だ」と表現していたのでは、市街全部の町名を暗記しなければ用が足せません。
 このとき、例えば「その店は、四条室町や」というふうに言うと、四条通と室町通の交点へ行けばよいのです。実に合理的な指し示し方なのですが、通り名だけは最低限覚えなくてはなりません。

 京都も大阪も、市街地の街路には全て名前が付いています。こういうことは世界的にも珍しいのだと何かの本に書いてありましたが、本当かどうか、よく分かりません。
 いずれにせよ、京都の街路には、便宜のために通り名が付いています。
 そして、それを覚えるための歌が存在したのです(ちなみに、大阪にも同様の歌がありました)。

 [縦街] 丸竹夷二押御池、姉三六角蛸錦、四綾仏高松万五条。
 [横街] 寺御幸麩屋富柳場、高間ノ東ガ車屋町、烏両替室町ヤ、衣新釜西小川。

 これだけで北は丸太町から南は五条まで、東は寺町から西は小川までが記憶される。又この域内が明治頃までの京都の重要な地域であつたことがわかる。(90ページ) 


 そう、よく知られているこの歌は「京都の重要な地域」も示しているのですね。

 通り名マップ


 地名の読みぐせ

 そのあと、川勝氏は、これらの通り名には読みぐせがあると言い、親切にすべての通り名の読み方を掲出しています。
 これを読むと、随筆が書かれた半世紀前と今日とでも若干の変化があることに気付きます。

 まず、「姉小路」。
 これは「あねこうじ」ではなくて、「あねやこうじ」と「や」を入れて読んでいます。
 ところが、随筆では「あねがこうじ」と「が」になっていて、「俗に「あねやこうじ」」と書かれています。50年前は、少しばかり古風に「あねがこうじ」と言っていたわけです。

 次に、「松原」です。
 これは「まつばら」じゃないの、と思います。
 でも、川勝氏は「まつわら」と書いています。
 「まつわら」かぁ…… そう言っていたんですね。

 その南の「万寿寺」も、「まんじゅじ」ではなくて「まんじゅうじ」だとしています。
 これはたぶん(ちょっとずれますが)、伏見区の「中書島」を「ちゅうしょじま」ではなく「ちゅうしょうじま」という類ですね。この方が言いやすいわけです。

 続いて縦の通り。
 「御幸町」は、「ごこまち」で、「幸」を「こう」と言わないのですね。これは現在でもこうなっています。

 烏丸通の1本西にある「両替町」。
 これは「りょうがいまち」と、「りょうがい」と読むのが習慣だそうです。

 そして、「室町」。
 これはもちろん「むろまち」でよいのですが、「古い習慣では「もろまち」と言う」とされています。「もろまち」ですか。

 あとは、「釜座」が「かまんざ」とか、「小川」が「こがわ」だとかいうことで、後者は今では「おがわ」と言っているのでしょうか。

 こう見てくると、微妙な部分とは言え、現在とはいろいろ変わっていることが分かります。
 こんなことも、些細なことに思えますが、地元の人にとっては大事なことでしょう。
 いまの本だけ読んでいるとなかなかわからないことばかり。やはり、たまには古い本を読んでみるものですね。




 書 名  『新編 随筆京都』
 編 者  臼井喜之介
 刊行者  白川書院
 刊行年  昭和35年(1960)