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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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作家・水上勉の通った中学校は…… -『私版 京都図絵』-

京都本




  私版京都図絵 水上勉『私版 京都図絵』作品社


 水上勉という作家

 先日、古書市で水上勉の『私版 京都図絵』という本を求めました。

 水上勉(みなかみつとむ)は、戦後活躍した作家で、私の学生時分まではテレビなどでもよくお見掛けしました。
 福井県(越前)の生まれで、若くして京都・相国寺の塔頭で出家したことは著名です。
 それらにちなんだ作品も多く、直木賞を受賞した「雁の寺」や、同じく京都を舞台にした「五番町夕霧楼」、そして「越前竹人形」。他にも「はなれ瞽女おりん」「飢餓海峡」などの代表作があります。

 彼は、9歳で京都にやって来、立命館大学中退ということですので、少年時代から青年時代にかけて京都で過ごしました。京都を舞台にした作品、京都を取り上げた随筆も多く、京都ゆかりの作家といってよいでしょうね。

 映画化された作品も多いので、私もタイトルはよく知っていました。
 けれども、正直に言うと、なぜか読む機会にめぐまれず、これまで読んだことがありません。
 実際、いま書店に行って文庫本コーナーに立っても、水上勉の本は品切れ、欠品というものが多く、意外に読みづらいのが実状です。


 水上勉が通った学校

 履歴を見ると、水上勉は花園中学校(旧制)を卒業して、立命館大学に進んだとあります。
 花園中学は、現在の花園中学・高校で、妙心寺(右京区)のそばですね。

 でも、水上さんは中学時代の途中、花園中学に転校したので、もとは違う中学校に通っていました。
 それが、紫野中学です。
 本書に収められた随筆「今宮神社界隈」に詳しく述べられています。

 今宮神社 今宮神社

 大徳寺前の北大路通りに、まだ電車が通っていなくて、家をこわしたり、立ちのかせたりして、広い道路を工事中だったころ、私は烏丸上立売の相国寺から徒歩で建勲神社前の大宮通りから、北大路にきて、朱色の一の鳥居をくぐって、今宮神社に向かい、その途中の中学校へ通った。いま紫野高校のある場所だが、当時は「般若林」の後身で、「紫野中学」といい、相国寺、東福寺、大徳寺など京都臨済五山が徒弟教育のために設けた学校であった。校長は金閣寺住職の伊藤敬宗師、つづいて南禅寺管長の勝平大喜師だった。「坊主中学」と人もよんでいて、教員は皆僧衣姿で配属将校と体操の教師だけが軍服を着てきていた。僧の養成中学も、教練をやる軍国主義下のことである。(43ページ) 

 昭和10年(1935)頃の話です。
 北大路通から北に向かう今宮神社の参道があり(といっても普通の車道です)、そこに一の鳥居があります。
 そこから、神社の朱塗りの楼門が見え、その途中の左側に紫野中学が建っていました。

 古い京都市内の地図を見ると、このあたり、つまり船岡山や現在の北大路通より北は、地図の範囲外となっています。
 今宮神社も、意外に描かれていませんね。

 下の「京都市街全図」は昭和14年(1939)に発行されたもの。
 水上さんが中学を卒業した直後の様子で、この時期になると、北大路通の北側も地図に収まってきます。

 紫野付近図

 中央やや下に船岡山があり、その上の横の通りが北大路通。市電(赤線)が走っています。
 その真上にある「今宮神社」の下に「紫野中学」と朱書きされています。

 この地図では分かりませんが、今宮神社や紫野中学がある場所から西は、急傾斜になっています。
 紫野中学、つまり現在の紫野高校の校内には、きつい崖も残っているのです。


 校内の様子

 仏門立の学校だから、いまのような鉄筋ではない。今宮参道に面した左手の現存の校門と同じ場所に石柱が二本立ち、平屋の教室が瓦屋根をしずめて二棟あり、登下校道路をはさむようにして山に向っていた。正面に講堂(雨天体操場)。それだけが校舎で、孤蓬庵[こほうあん]の石畳道の境まで、南北に切妻をみせて建った本堂が一つ。この地にあった大光院が瑞源院の建物である。ここに寄宿舎と食堂があり、あとは講堂の上の山を切りくずして、赤土をローラーで踏みかためた校庭だった。当時は近くに家はなかったので、まるで山のてっぺんを広場にした感じで、森の向うに、孤蓬庵がまたさらに森を深くしてしずんでいた。(43-44ページ)  

 「講堂の上の山」とあるように、崖の上が校庭となっていたようです。別の箇所には、「そんな赤土の運動場をも、めぐっていた赤松山は、大半が伐りはらわれて、巨大な高校の体育館が建ってしまった」(49ページ)と、戦後、高等学校になってから体育館が建ったことが記されています。

 このあたりに現在も生えている樹木は、かつての山のなごりだったようです。


 転校前の思い出

 相国寺の瑞春院にいた水上さんは、等持院に移りました。
 しばらくは等持院から自転車で紫野中学に通ったのですが、通常、等持院の学僧は花園中学に通うことになっていました。そのため、水上さんも転校の手続きをすることになったのです。

 ただ、軍事教練の出席日数が足りなかったので、その担当であった小早川さんという特務曹長の家にお願いをしに出掛けたのでした。

 小早川特務曹長は、鼻の低い、平べったい顔をしたひとで、私たち一、二年の下級生には、とりわけきびしかったので、私たちは、体操と教練の時間は、いつもぴりぴりしていた。

(中略)

小早川特務曹長は、皮袋に入った剣を吊って、いかめしく、自転車にのって通勤してきていた。教師で自転車でくるのは曹長だけで、私とは、つまり自転車仲間だった。時に、門番の家の軒下で鉢あわせすると、
「こらっ」
と曹長は私のことをにらんだ。しょっちゅうずる休みするのを、そんなところで見つけたが幸いと、叱りつけるのである。(50-51ページ) 


 転校が決まって、体操と教練の落第点について、また使い込んで払えなくなった未納の月謝について、水上少年は小早川曹長にお願いに行ったのでした。

 今宮神社の裏の、あぶり餅やの前を通って、しばらくゆくと、小さな二階家の混む一角に出たが、小早川さんの家はこぢんまりとした平家で、表に男の子供があそんでいた。小早川さんの子らしかった。私は、しばらく、家の前にたたずんで、その子供の顔が小早川さんそっくりなのを見て、小早川さんに、こんな子がいることが不思議な気がした。特務曹長にも、子があって不思議はないが、その時は、そんな思いがふかく私をとらえたことをおぼえている。
 
 私が入ってゆくと、小早川さんが、だらしなく着物の前をはだけてきて、
「なんや」
 とつっけんどんにいった。私は、脅えながら、私の来た目的をはなした。

(中略)

「こんどの寺はどうや」
 小早川さんはきいた。
「はい、大勢小僧がいます」
 とこたえた。
「そんな大寺へいったのやから、これまでのように、休んでばかりやったらあかんな……」
 小早川さんはそういったあと、
「いずれ、お前さんのことでは、教員会議があってきまることやろ思うが……新しい学校へうつってきばって勉強するのやったら、考えてやらんでもないぞ」
 と不機嫌な顔をなごめ、
「きばってやれや」
 といった。玄関先での立ち話だった。私は、そういう時間を、この特務曹長の家でもてたことで満足し、小早川さんが、いくらかでも私の成績に、手ごころを加えてくれそうだと安心して、退去したのだ。子供が私を追いかけてきた。(53-54ページ) 


 水上さんは、小早川曹長のおかげもあったのか、無事花園中学へ転校できました。
 そして、紫野中学は、その翌年に廃校になったと書かれています。「資金を出していた大徳寺、相国寺、東福寺の三山に、その根気が失せたためだった」。

 私たちの馴染んだ校舎と本堂は、「淑女高等女学校」に買いとられて、戦争末期まで、そこに女学校があり、いまの市立紫野高校になったのは、たぶん、戦後のことだと思う。したがって、昔日の面影をたずねても、孤蓬庵よりのあの石畳の道わきにのこる土畳と、その山あとの大楠や松柏の根にわずかの名ごりがあるだけだ。(55ページ) 

 戦後、この場所には、新制の紫野高校が建ちました。
 現在では、水上さんの時代と異なり、たくさんの生徒が自転車通学しています。水上さんと小早川曹長が自転車を預けていた門番の家もなくなり、立派な自転車置き場が出来ています。




 書 名  『私版 京都図絵』
 著 者  水上 勉
 刊行者  作品社
 刊行年  1980年


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活動写真でにぎわった新京極の思い出 - 松田道雄『明治大正 京都追憶』その2 -

京都本




『新撰京都名勝誌』の新京極


 明治末から大正時代を回想 

 前回に引き続き、松田道雄さんの『明治大正 京都回想』から紹介します。

 松田さんは、明治41年(1908)茨城県の生まれで、生後まもなく京都に転居し、明治末から大正にかけての京都の様子を書き留めた --という話でしたね。


  明治大正京都追憶 松田道雄『明治大正 京都追憶』岩波書店

 最近、京都・大阪の芝居や活動写真に関心を持っている私としては、本書でもそのあたりの記述が気になりました。
 なかでも、「みどりさん」という女性についての松田氏の思い出に興味が湧いたのですね。


 みどりさんとの活動写真見物 

 『明治大正 京都追憶』で、みどりさんは次のように紹介されています。

 茨城県から出てきて同志社の女学校に行っていたみどりさんという娘が家に来るようになった。束髪のうしろをおさげにし、大きなリボンを髪にかぶせるようにつけ、胸高に袴をはいていた。大の活動写真好きで、あそびにくると私をつれて新京極に行った。

 活動写真館は男子席と女子席とに分けるように警察から命じられていたが、なにしろ暗いので女学生ひとりで行くのは物騒だった。幼児でも連れがあったほうがよかったのだろう。たよりない同伴者だが学校への申しわけにもなったのかもしれない。(53ページ) 


 みどりさんの苗字は書かれていません。
 たぶん、小さかった松田さんは「みどりさん、みどりさん」とだけ覚えていたのでしょう。
 茨城県から出てきたと書かれていますから、松田家の親戚か知人の娘さんだったのでしょうか。同志社女学校の生徒でした。
 松田家も医師の家庭ですが、当時娘さんを女学校に通わせる(それも茨城から)というのですから、みどりさんの実家もさぞ名家だったことでしょう。

 松田さんによると、当時、京都日出新聞に掲載された「京阪の女学生」という連載(明治42年)では、大阪ではリボン禁止、京都のある学校では、学校で小説を読むと譴責(けんせき)、新聞を読むと掃除当番をやらされたそうです(罰ですね)。
 そういう意味では、「活動写真を見るのを許していた同志社は自由だった」わけです。


 新京極へ

 日本の活動写真の歴史は、明治29、30年(1896-97)頃に始まります。
 明治末になると、歌舞伎などの芝居に匹敵する一大娯楽に台頭してきました。以下の引用で、活動写真を上映する館として歌舞伎座というのが出て来ます。
 
 歌舞伎座? 歌舞伎をやるんじゃないの? ということですよね。
 その名の通り、歌舞伎座はもともと歌舞伎を上演する劇場だったのですが、明治末に活動写真館に鞍替えしたのでした。それほど活動写真に勢いがあったという話です。

 明治の四十年代は活動写真がにわかにさかんになった時期にあたる。京都でも横田商会というのちの日活が、四十二年には南電気館と日本館と西陣電気館をやっていただけだったのが、四十五年には活動写真をやる館が、歌舞伎座、八千代館、みかど館、中央館、三友倶楽部、パテー館、北電気館、オペラ館、常設館、世界館にふえた。

 もっとも、どれも一巻程度の短編を七本立か八本立でやっているにすぎず、長尺の劇映画は日本ではまだつくっていなかった。一巻も十七場とか十八場とかいって、カット数が少なく、旧劇、新派劇のほかに外国の風景ものをやっていた。(53ページ) 



 大正初期の新京極(新撰京都名勝誌)
  大正初期の新京極 蛸薬師錦上ル 帝国館付近(『新撰京都名勝誌』)

 明治末、京都随一の繁華街である新京極では、「第二京極」という場所が開発されました。
 四条通から上がった東側、錦天満宮の裏手あたりです。
 ここに、松田さんも書いている八千代館や中央館、三友倶楽部などが出来たのでした。

 八千代館は数年前までやっていたので、ご記憶にある方も多いでしょう。
 また、北側の公園のところや、その東隣のスーパーホテルのところも上記の活動写真館で、戦前(さらに戦後も)このあたりは映画館街だったのです。

 旧八千代館(WEGO)
  第二京極の八千代館跡(現WEGO) 昭和初期の建物が残る

 みどりさんに最初につれていってもらったとき、ジャガタラ先生というのと、新馬鹿大将というのが出てきたのをおぼえている。どちらも西洋のドタバタ喜劇だった。それがどの館で、いつだったかわかると、そのときの私の年齢もわかるわけだ。

 日出新聞に劇場が出しものの広告「興行案内」を出すようになったのは、[明治]四十五年の三月からである。それまでは演芸担当の記者が劇評の形で、各劇場の出しものを「ゑんげい」欄に紹介していた。

 (中略)

 ジャガタラ先生と新馬鹿大将を同時に上映した館がないかとさがしていたら、とうとうみつかった。明治四十四年十二月十一日、パテー館で「滑稽ジャガタラ先生」「史劇大奸悪」「実写シシリー島の絶景」「史劇阿新丸」「悲劇浮草物語」「喜劇新馬鹿大将」「新派劇日本男子」の上映をはじめたと「ゑんげい」欄にかいてあった。

 みどりさんは学期末試験のすんだ十二月十五日ごろ私をつれだしたのだろう。とすると、私の映画遍歴は三歳二カ月からはじまったことになる。(54ページ) 


 3歳で見た映画のタイトルを覚えているのは驚異的、淀川長治並みの記憶力です。

 ……と、書いたところで、もしかすると淀川さんのこの辺の記憶ってどうなってるのだろう? と思いました。
 さっそく、『淀川長治自伝(上)』を見たところ、こんなことが書いてありました。淀川さんは、松田さんより1歳年下です。

 さて私が生まれたのは明治四十二年(一九〇九)の四月十日。(中略)父は今日にも子どもが生まれるという臨月の母をつれ四月九日の夜も活動写真を見にゆき、活動写真を見ているさいちゅうに母が産気づきあわてて帰ることになったのだが、父はいま見ている活動写真があまりにも面白く、「おまえ、さきにかえれ、わしはぜんぶ見てからかえる」と言ったそうである。

 (中略)

 その日はいったいどのような活動写真を上映していたのであろうかと、母にこれもずーっとあとで聞いてみたところ、西洋のにわか喜劇で『馬鹿大将』というのをやっていたと私に打ち明けた。呑気な話で、かかる腹で活動写真をよくも見物に出かけたものである。(中略)そのあくる日の朝の十時十五分に私は生まれたのだが、さてその『馬鹿大将』とはいったい何であろうか。どうやらこれはフランスの活動写真で『ドン・キホーテ』であったらしい。もっともこの十分くらいの劇映画のほかにも実写や何かと五本くらいを上映していたらしい。(25-26ページ) 


 なるほど、「馬鹿大将」というのが「ドン・キホーテ」。筈見恒夫氏もそう書いているので、間違いなさそうです。ということは、その2年後に公開されていた「新馬鹿大将」は、その続編なのでしょうか。

 昭和初期の新京極(京都)
  昭和初期の新京極 三条下ル松竹座前(『京都』)


 連続大活劇! 

 次に、みどりさんの名前が出て来るのは「三年生」という章です。
 ちょっと長くなるけれど、大正5、6年(1916-17)頃の思い出を引いてみましょう。

 そのころは連続大活劇の全盛の時代だった。大正五年に「拳骨」が今の菊水キネマの天活倶楽部で、大正六年には「鉄の爪」が今はなくなった帝国館で上映された。どちらもパール・ホワイト嬢が女主人公であった。

 (中略)

 連続ものの最初は大正四年に見た「ファントマ」だった。「拳骨」の前に「名金」「快漢ロロー」を一部見たし、「鉄の爪」につづいて「運命の指輪」「レッドサークル」をところどころ見たから、連続ものはあまり見逃していない。
 連続大活劇は子どもの観客を中心に発達した活動写真の一頂点で、それからあと成人向きの劇映画が出てくる。そうなると子どもの私にはおもしろくないし、家でもゆるしてくれなくなった。
 だが、連続大活劇のまえにも洋画の劇映画は、あるにはあった。
 大正のはじめの日出新聞をくってみると、みどりさんにつれていってもらった劇映画をひろいだせる。大正元年の「ナポレオン」も大正二年の「巌窟王」も歌舞伎座で見たし、大正三年の「クレオパトラ」は帝国館で見ている。
 こういう劇映画はどの映画史にも引用されているのを見ると、田舎から出てきた同志社女学生のみどりさんの眼力は抜群だった。私が三年生で連続大活劇にうつつをぬかしたのも、みどりさんの薫陶のたまものだ。(197-198ページ) 


 連続活劇は、この頃のブームで、同世代の映画評論家・双葉十三郎氏もその思い出を語っていますね(『ぼくの特急二十世紀』)。
 双葉氏によると、連続活劇は米語で「クリフ・ハンガー」(崖からぶら下がるヤツ)というそうです。なぜなら、断崖絶壁にぶら下がるシーンがやたら多いからだそうです(笑) 主人公が絶体絶命の窮地に陥る場面が多いのでしょう。

 松田さんが覚えているパール・ホワイトも、双葉氏の本に写真掲載されています。連続活劇のスター女優だったそうです。

 松田さんを映画の世界に誘ってくれた女学生みどりさん。
 でも、本書ではこの後みどりさんの名前は一度も出てきません。女学校を出て、どこかへ行ってしまったのでしょうか。

 大正座の女優劇の話や、活動写真の女弁士のことも大いに興味が湧くのですが、みどりさんのその後について、それ以上に知りたい私でした。




 書 名  『明治大正 京都追憶』
 著 者  松田道雄
 刊行者  岩波書店(同時代ライブラリー)
 刊行年  1995年(原著1975年)



 【参考文献】
 筈見恒夫『新版 映画五十年史』鱒書房、1947年
 淀川長治『淀川長治自伝(上)』中公文庫、1988年
 双葉十三郎『ぼくの特急二十世紀』文春新書、2008年
 

内側から見た百年前の京都 - 松田道雄『明治大正 京都追憶』 -

京都本




  明治大正京都追憶 松田道雄『明治大正 京都追憶』岩波書店


 恒例、春の古本まつり 

 5月の大型連休、京都では毎年恒例の古書市があります。
 場所は、岡崎公園のみやこメッセ(京都市勧業館)。

 みやこメッセ
  みやこメッセ

 主催の京都古書研究会は、今年で40周年。
 春の古書大即売会も、35回目を迎えたそうです。

 私の学生の頃は、まだ勧業館も古い建物(戦前のいわゆる近代建築)で、その2階への階段を上ったところにある広い会場で開催されていました。
 そこで買った古書から発想したテーマで、後年論文を書いたこともあります。
 そんな懐かしい思い出のある古書市です。

 もちろん、30年余り通っていると、最近ではもう1冊1冊並んでいる本をしっかり見ていくこともなく、大づかみに本の群を一瞥して探すようになってきました。
 どの古書店さんも、同じジャンルの本は固めて陳列されますから、そういう探し方でいけるのですね。
 それでも、気が付くと、すぐ2時間、3時間と経っています。

  春の古書大即売会

 毎回、およそ、こういう分野の本を探すか、という方針はあるのです。
 ただ今回は、見て回っているうちに、京都に関する随筆でも探そうか、という気になってきました。


 明治・大正の回想

 そのなかで目に留まったのが、松田道雄『明治大正 京都追憶』です。

 松田道雄さんというと、京都の小児科医で、『私は赤ちゃん』や『育児の百科』など育児書の著者として有名ですね。そのせいで、私はこれまで読んだことはありませんでした。
 しかし、著作リストを見ると、京都に関する本も何冊か出しておられます。
 本書は、『花洛―京都追憶』というタイトルで、昭和50年(1975)に岩波新書の1冊として刊行されたものです。

 もとは京都新聞に連載され、それを岩波新書として刊行しました。しかし、著者によると「花洛」という言葉は多くの京都ファンには知られていないものでした。そのため、新書としては多くの人には迎え入れられなかったようですが、20年後、改題して同時代ライブラリーとして日の目を見たのでした。

 松田さんは明治41年(1908)茨城県生まれで、生後6か月で京都に越してきました。そのため、本書には明治末頃から大正時代にかけての京都の町の様子が克明に記されています。

 松田家は、茨城から聖護院(左京区)に移って来、すぐに東丸太町の仲小路に転居しました。

 東丸太町
  東丸太町  写真中央が教会

 鴨川に架かる丸太町橋を渡り、少し東へ行ったところ、教会の南側へ入ったところだったそうです。

 鴨川の東だったこのあたりの丸太町通が、拡げられたのは大正元年(1912)だったといいます。

 丸太町通に電車を通すので、北側に道をひろげはじめたのは、大正元年である。
 丸太町通がせまかったころを見ているはずだが、思い出せない。丸太町橋の東詰に、熊野神社の鳥居があったといわれると、知っているような気もする。熊野さんと聞いて思い出すのは神殿でなく、高い木のしげった森である。梢にたくさんの鳥がとまって鳴いていたのをおぼえている。

 熊野さんから東は、田んぼがつづいて、先のほうにお辰稲荷の森が見えた。この辺の記憶があるのは、父が学生のとき下宿していた鹿ケ谷の農家によく行ったからである。

 お辰稲荷の森をすぎると、岡崎町の人家が見え、そこに池があり、池のそばに岡崎神社があった。神社から東北にまがっていくと、鹿ケ谷の農家の集落が大文字山の麓に見えてくるのだった。(42ページ)  


 丸太町橋付近
  丸太町橋から東(熊野神社方面)を望む

 熊野神社は、現在では、丸太町通と東大路の交差点の北西にあります。
 かつて、その鳥居が丸太町橋の東詰にあったのは、松田さんが書いておられる通りです。いまでは想像できないですね。

 それ以上に想像不能なのは、熊野神社からさらに東を眺めると、お辰稲荷神社が見えたということです。お辰稲荷は、現在の武道センター(かつての武徳殿)の北東ですね。

 明治末の東丸太町付近
  左の青丸が丸太町橋、右がお辰稲荷(京都市街地図、明治44年)

 これは明治末の東丸太町付近です。
 丸太町通は、まだ拡幅前で、市電も二条通を走っていました。

 大学病院の南に丸太町通があり、その南に「絹糸紡績」と書かれた大きな工場があります。松田さんの家の東側でした。
 子供心にも、「高くて長い塀」があり「繭(まゆ)を煮る異様なにおいが私たちを遠ざけた」と回想されています。

 丸太町橋が木造からコンクリートにかわったのは大正二年の八月だ。市電を通すためである。
 少しあとに市電全通のお祝いの催しが円山公園であった。これをおぼえているのは、母とショーちゃんとで夕涼みに円山に行ったところ、祝賀の提灯をもらったのがうれしかったからである。 

 (中略)

 電車がついて丸太町はにわかに賑やかになった。(75-76ページ) 

 
 大正初期の東丸太町付近
  大正2年の東丸太町付近(京都市街全図)

 地図を見ると、現在の東大路のところまで丸太町通が拡幅されています。
 赤線の市電は、熊野神社前で南に折れています。

 通りの南の絹糸紡績は鐘紡に合併されました。
 そのさらに南には、琵琶湖疏水の夷川ダムが水をたたえています。

 私もふらっと、夷川ダムを訪ねてみました。
 とても、のんびりしたいいところですね。

 夷川ダム
  夷川ダム

 私の父など、昔ここで水泳していたそうです、踏水会(とうすいかい)に入って。
 写真の右奥に、踏水会の古い建物が写っていますね。


(この項、つづく)




 書 名  『明治大正 京都追憶』
 著 者  松田道雄
 刊行者  岩波書店(同時代ライブラリー)
 刊行年  1995年(原著1975年)


近代京都の遊楽空間をさぐる - 加藤政洋編『モダン京都 <遊楽>の空間文化誌』-

京都本




  モダン京都 加藤政洋編『モダン京都』ナカニシヤ出版


  遊所の研究 

 4月に入って2週間が経ちました。
 今年度は、いつもに増して慌ただしく過ごしています。

 大文字山と桜 大文字山と鴨川とサクラ

 そんななか、『京都モダン <遊楽>の空間文化誌』という新刊を手にしました。
 編著者は、加藤政洋氏。

 加藤さんは、立命館大学で人文地理学を研究されています。
 若い頃は(いまもお若いですが)、大阪を拠点に研究され、最初の著書『大阪のスラムと盛り場』という本をまとめられました。

  大阪のスラムと盛り場 『大阪のスラムと盛り場』創元社

 私は、その頃からお世話になり、勤務先で講演いただいたりしました。
 都市の盛り場のような空間への関心は、その後も持ち続けられ、とりわけ花街(かがい)について調査を深められました。
 それは、古くは遊廓とも重なりますし、大都市だけでなく、ローカルな場所にも小さなところがあったわけです。

 著書には、『花街』や『京の花街ものがたり』などがあります。

  花街 『花街』朝日選書

 京都の花街研究である『京の花街ものがたり』は、祇園や円山などについて研究されていて、このブログでも何度か引用させていただきました。

  京の花街ものがたり 『京の花街ものがたり』角川選書

 また、戦後の赤線(売春防止法以前に公然と売春が行われていた地域)についても、新書を刊行されています。

  敗戦と赤線 『敗戦と赤線』光文社新書


 気鋭の地理学者の最新刊
 
 加藤さんの研究は、地理学者らしくフィールドワークに支えられつつ、文献史料にも目配りをされています。
 私も、京都や大阪の遊所について、多くを学ばせてもらいました。

 今回、ナカニシヤ出版から刊行される『京都モダン』は、加藤さんとその教え子さんらしい若い方との共同執筆になっています。
 祇園をはじめとする花街や、席貸などについて十数本の論考が収められています。

 目次は、次の通り。

  序 章 文学の風景を歩く
  第一章 京の<宿>-≪上木屋町≫の文人たち
  第二章 席貸と文学のトポロジー
  第三章 鴨川畔の山紫水明-≪東三本木≫の文人たち
  第四章 花街周辺の宴席文化-山猫・配膳・雇仲居
  第五章 廓の景観と祭礼-≪島原≫の太夫道中をめぐって
  第六章 祇園祭のねりもの-≪祇園東≫芸妓衆の仮装行列
  第七章 鴨川納涼の空間文化史
  第八章 祇園はうれし酔ひざめの……-≪祇園新橋≫の強制疎開
  第九章 「風流懴法」のあとさき-≪真葛ケ原≫の京饌寮
  第十章 縁切りのトポスと「愛の空間」-安井金毘羅宮とその周辺
  第十一章 紙屋川の料理茶屋-≪平野≫と≪北野≫のはざまで
  終 章 <地>と<図>のあいだに  


 第二、第十章は住沢杏子さん、第六章は三浦実香さん、第七章は加藤千尋さんが執筆されています。

 吉井勇、高浜虚子、近松秋江など、京都に遊んだ文化人も多数登場、その著作から引用がなされています。その点、文学色も濃い一書ですね。
 これからじっくり読ませていただきますが、序章に記された編者の言葉を引いておきましょう。

 本書は、文学作品、地図・絵図、そして古写真などを材料にして、モダン京都における<遊楽>の風景を探訪しながら、都市空間の随所に埋もれた場所の意味と系譜を掘り起こす試みである。
「<宿>と<文学>のトポロジー」、「景観とスペクタクル」、「花街周辺の<遊楽>」という、三つの主題から構成され、いずれの章も京都を訪れた文人たちの足取りをたよりに、<遊楽>をめぐる場と連関する歴史空間へとわけいってゆく。(7ページ)


 前著『京の花街ものがたり』は江戸時代の記述も多々あったので、それと対にして読むと、より楽しめるでしょう。




 書 名  『モダン京都 <遊楽>の空間文化誌』
 編 者  加藤政洋
 刊行者  ナカニシヤ出版
 刊行年  2017年 



こんな数え歌もあった - 梅棹さんに教わる京案内 -

京都本




戦前の二条城


 “丸竹夷” と お公家さんの数え歌

 この前、京都の街路名について書きました。

 京都の通りの名前というと、みなさん決まって “丸竹夷二押御池” という数え歌を思い出されるでしょう。

  丸 = 丸太町通
  竹 = 竹屋町通
  夷 = 夷川通
  二 = 二条通
  押 = 押小路通
  御池 = 御池通 ……

 といった具合です。

 こういった記憶のための数え歌は、昔はよく行われたものでした。
 このブログでも、以前、お公家さんの数え歌というのを紹介しています。

 それは、

 長風や芝園池に梅桜池尻交野妙法林丘
 
 萬里甘露櫛笥柳に園富小御下り御殿京極の宮

 一河や滋る中山藤波は御門を出でゝ樋口高倉


 とった超難解なもので、まぁ、詳しくは以前の記事をご参照ください。

  記事は、こちら! ⇒ <御所にもあった“お公家さん”的数え歌>

 何の歌かというと、お公家さんの邸の場所を覚える歌なのです。
 現在の京都御苑には、明治維新までは数多くの公家屋敷が立ち並んでいました。それを並んでいる順に歌ったのが、上の歌です。
 一般人には無用のものかも知れませんが、お公家さんにとっては必要不可欠な知識だったわけですね。


 ほかにもあった数え歌

 民族学者の梅棹忠夫(1920-2010)は京都の出身で、専門分野以外にも京都の本を出されています。
 その1冊が『梅棹忠夫の京都案内』。

  梅棹忠夫の京都案内 『梅棹忠夫の京都案内』角川ソフィア文庫 

 ここに、余り聞いたことがない数え歌が紹介されています。

  一条 戻橋
  二条 お城
  三条 みすや針
  四条 芝居
  五条 弁慶
  六条 坊んさん
  七条 停車場
  八条 すずや町
  九条 東寺  


 梅棹さんによると、通りと日本の歴史が結び付いていた京都では、「社会科」などというものがない時代、子供たちはこのような歌で歴史の勉強をしたというのです。

 「お城」(二条城)で大政奉還を学び、「坊んさん」で本願寺と真宗、親鸞聖人について知り、「東寺」で平安京と弘法大師について考える、といったことなのです。

 節をつけてうたいながら「お母ァはん、四条はなんで芝居や」ときけば、いまの南座から、中世の四条河原、阿国歌舞伎まで、場合によっては話がすすむ、という仕かけになっている。(149ページ) 

 例えば、三条の「みすや針」は今も残る老舗で、江戸時代にはみすや針と言えば知らぬもののない名物だったのです。
 丸竹夷とは少し違った歌なのですが、歴史のある京都らしい歌だとも言えるでしょう。

 梅棹さんは、これが変形したお手玉の数え歌も紹介しています。
 「ひとつ、ふたつ……」と数えているのですね。

  おしと
  おふた
  さんかん せいばつ
  よしのの さくら
  ごじょう べんけい
  ろくじょう ぼんさん
  ひっちょうの ていしゃば
  きっぷ かいまひょ
  なないろの とんがらし
  おかろ ございます
  おしと さくら さーくーらー 

 七色の唐辛子というのは、いうまでもなく、京名物のひとつ。清水坂に売っています。(150ページ)  


 「さんかん せいばつ(三韓征伐)」などというのは、時代です。
 それにしても、六条がやはり「坊んさん」なのは、それだけ東西本願寺の存在が大きかったからでしょう。

 七条を「ひっちょう」と言っているのは、古い発音。「ひちじょう」がさらに詰まった言い方です。
 京都では、「しち」は「ひち」になります。質屋の看板を「ひちや」と書くのは有名ですね(有名ですか?)

 梅棹さんは「このほか、ずいぶんたくさん京の唄があったのをおぼえています」と述べています。
 この本のページをめくっていくと、他にも歌が出て来ます。


 こんな意外な歌まで!

  一(いち)びりやがって
  二(に)くいやっちゃ
  三(し)ゃべりやがって
  四(し)りもせんと
  五(ご)てくさぬかすな
  六(ろく)でもないこと
  七(ひ)ねったろか
  八(は)ったろか
  九(く)そぼうず
  十(と)んでいけ  (189-190ページ) 


 これは、罵倒の数え歌! なんだそうです。
 
 口が悪い京都人らしい、というべきなのか?

 変な歌で締めくくりですが、昔の人は何でも歌で覚えた、というよい証しです。




 書 名  『梅棹忠夫の京都案内』
 著 者  梅棹忠夫
 刊行者  角川書店(角川ソフィア文庫)
 刊行年  2004年(原著1987年)