歴史ある山里 前回に引き続き、八瀬(左京区)訪問記をお届けします。
約50名の学生と一緒に訪ねた洛北の山里・八瀬(やせ)。
その名の通り、曲折して瀬や淵をたくさん作りながら流れる高野川に沿って、古い集落が拡がります。

八瀬天満宮
集合後、まず八瀬天満宮へ。
京都市歴史資料館の方から、説明をうかがいます。
八瀬の歴史は古く、平安時代から近代に至るまで、文書によってその歴史がたどれる稀有な集落だといいます。
この天満宮の背後は山なのですが、ずっと登って行くと比叡山に至ります。つまり、比叡山西麓の村里で、そのようなつながりを古くから持っていました。
近代史のなかでは、天皇の駕輿丁(かよちょう)、つまり天皇が乗る輿(こし)をかつぐ仕事を担った人々として、宮中に奉仕したことでも知られます。特に、その任をもって天皇の葬儀に参加することは著名になりました。
奇習・かまぶろ
天満宮をあとにして、次に訪ねたのは「かまぶろ」です!
かまぶろって、なんだ?
と思われるでしょう。
一種の蒸し風呂、つまり昔のサウナだと考えてもらえばよいかと思います。漢字で書くと、竈風呂ですね。

高野川に沿った場所に、料理旅館ふるさとがあります。

ふるさと前で説明を聞く
ここには、現在でも入れる! かまぶろがあり、そして館外には復元した昔のかまぶろも設置されています。
今回は授業の見学会、しかも50人なので入浴するわけにもいかず(笑)、外の復元物を見せてもらいました。

川側から見る
ふるさとの庭に設置されたかまぶろ。
覆い屋のなかに、なんと言うのがいいでしょうか、“土まんじゅう”のようなものがあります。

八瀬のかまぶろ
ライトで照らしながら、内部をのぞいてみると……

寝転んで、3~4人は入れるスペースが拡がっています。
下は土間ですが、おそらく往時は、むしろやわらを敷いて寝たのでしょう。
私は、以前、別府の鉄輪温泉で、蒸し風呂に入ったことがあります。
小さな入口から中に入ります。八瀬よりは広くて10人くらいは入れたと思いますが、寝転んで蒸されます。時間は10分なのですが、サウナが苦手な私は、8分で出てしまい、その意気地のなさを係の女性に笑われてしましました(苦笑)
ふるさとの復元かまぶろですが、歴史資料館の方によると、明治28年(1895)の第四回内国勧業博覧会の際に製作されたものだということです。
「都名所図会」にも紹介
八瀬のかまぶろは、「都名所図会」(1780年)にも紹介されています。

「都名所図会」より「八瀬竈風呂」

拡大図を見ると、かまの床は石敷きのようで、熱くなった石に柄杓で水をかけて、水蒸気を発生させているようです。
石の上には、むしろみたいなものを敷いていて、その上に寝るのですね。
おそらく土製のかまが2基並んでいますが、その上に茅葺きの屋根が葺かれているところが、おもしろいですね。
右手の建物は休憩所になっていて、男性が寝転んでタバコを吸っています。
「都名所図会」によれば、当時八瀬には7、8軒のかまぶろがあったようです。もっとも、八瀬だけではなく他所にもあったということです。
次の写真は、昭和4年(1929)に刊行された『日本地理大系』に掲載された写真です。
昭和初期にこれが使われていたかどうか、すでに引退していたようにも思われますが、貴重な記録です。

京都近郊の山里・八瀬は、江戸時代の京の人たちからすれば、異文化がある土地だったのでしょう。
かまぶろや里人の風俗も、都とは違った鄙(ひな)の習俗として捉えられたのだと思います。
赦免地踊りの灯籠
かまぶろ見学したあとは、地元の方に、赦免地(しゃめんち)踊りの説明をしていただきました。
紙で作った灯籠を頭上に乗せて踊る珍しい行事です。

赦免地踊りの灯籠

紙の窓に絵が付いているのですが、これがすべて切り絵なのです!
頭の上に乗せるのも驚きですが、細工のこまかさにも目を見張ります。学生たちも、とても興味深く拝見していました。
資料館や地元の方にお世話になった見学会。
歴史の実地にふれるという授業は、学生たちに刺激を与えたようでした。
八瀬かまぶろ
所在 京都市左京区八瀬近衛町 ふるさと内
見学 自由
交通 京都バス「ふるさと前」下車、徒歩約3分
【参考文献】
「都名所図会」1780年
『日本地理大系 近畿』改造社、1929年
学生と一緒に見学会 八瀬(やせ)というと、京都の郊外・洛北にあり、豊かな自然のなかで長い歴史を育んできた山里です。
「都名所図会」(1780年)にも、八瀬の里は取り上げられており、都会とは異なった風俗が描かれています。

「都名所図会」に描かれた八瀬の里人
これは八瀬の人々が、都へ薪(たきぎ)や柴を売りに行く様子です。
馬に追わせたり、肩に担ったりしていますが、なかでも著名なのが頭の上に載せる “頭上運搬” でした。
いわゆる「おはらめ」で、八瀬の場合は小原女と書き、この奥の大原の女性たちには大原女の文字を使うそうです。
今回は、出講している大学の授業で、毎年恒例の見学会があり、学生たちと八瀬を訪れました。
当日は、あいにくの雨模様でしたが、八瀬の歴史に触れ、また景観に接して、おおいに勉強になりました。
さっそく出掛けてみましょう。
八瀬比叡山口駅から
八瀬に行くには、市内各所から京都バスを利用するのが便利ですが、電車で行くとなると、叡山電鉄を利用することになります。

始発の出町柳駅から八瀬比叡山口駅へ向かいます。
八瀬比叡山口は、かつては八瀬遊園という駅名で、小さな遊園地がありました。古い駅舎も往時のまま残されています。

八瀬比叡山口駅
ここから、今日の集合場所である八瀬小学校までは、2km余り。
国道367号線から、左折して旧道へ入ります。

道路標示には、大原まで 7kmとあって、すでに京都市街から離れた場所であることが感じられます。
川沿いの道を進みます。
川は、高野川。
八瀬という村名も、集落の中を流れるこの川の瀬が、たくさんあったことから来ているのでしょう。

一方で、川は蛇行しており、至るところに淵があったようで、バス停にも神子ケ渕とか甲ケ渕といった名前が残っています。

高野川の淵
天気が良く、時間があれば、こういうところで川に降りてみたいですね。
今日は、先を急ぎます。
八瀬の集落
一度、国道と交差しながら、旧道はつづきます。
民家の古そうで……

屋根の拝みに懸魚(げぎょ)のある立派な旧家もあり、

連棟になった蔵もあります。
絵になる風景ですね。
昔を知る人によると、このあたりの民家もかつては茅葺きがあったということですが、いまでは失われてしまいました。
私は、こういった民家を見ると『京郊民家譜』という書名などを思い出します。大正から昭和初めの頃、日本では「民家」という存在が発見され、記録と研究が進みました。京都では、洛北や洛西などの民家が、民俗学の貴重な対象として捉えられ、記録されます。
ことに八瀬では、特殊な風習もあって、そのことも言及されますが、それは後編で。
ここから、少し進むと集落の北端に至り、天満宮の鳥居が見えて来ます。

八瀬天満宮
天満宮を過ぎれば、旧道は国道と合流し、眼前には八瀬小学校が。

約50名の1回生たちとともに、見学会が開始されます。
(この項、つづく)
八瀬
所在 京都市左京区八瀬秋元町ほか
見学 八瀬天満宮などは自由
交通 叡山電鉄「八瀬比叡山口」下車、徒歩約30分
京都バス「ふるさと前」下車、徒歩すぐ
【参考文献】
「都名所図会」1780年
下鴨神社で開催 恒例の下鴨納涼古本まつり(京都古書研究会主催)が、今年(2017年)も行われました。
40足らずの古書店が出店していて、関西最大級の古本市ですね。見て回るには、何時間もかかります。
今年は、初日(8月11日)に行ってきました!

祝日だったせいもあるのか、テレビ局の取材がいっぱい来てましたねぇ。
また、来場者もとても多かったと思います。
古本さがし
昔と比べ、古書をさがしてまわる時間は短くなりましたね。
体力、気力の減退 !? ということもあるでしょうし、要領よくなったともいえるでしょう。それでも、3時間以上はかかります。
今回目についた珍しいものは、武田珂代子『東京裁判における通訳』(みすず書房)。
先日、NHKでドキュメントドラマ「東京裁判」の再放送を見たあと、通訳者・近藤正臣氏の本を読んでいたら、東京裁判の通訳に関する研究も最近行われている、と書かれていました。そんなとき、この本が並んでいるのを見つけたので、思わず手に取ってしまいました。
一方、最近は、上方(京都・大阪)の芝居や芸能に関する本があると、目ぼしいものは求めるようにしています。
今回は、三田純市(純一)さんの著書を2冊。
『上方芸能』三一書房、1971年
『遥かなり道頓堀』九藝出版、1978年
『遥かなり道頓堀』九藝出版
さらに、三田氏のご実家にもゆかりのある歌舞伎役者・實川延若(二代目)の芸談、
山口廣一『延若芸話』誠光社、1946年
も、あわせて求めました。
いま、お芝居を見に行こうと思うと、チケットぴあ なんかを使って簡単に予約が取れますね。
ところが、昔の芝居見物では、席の手配や番付(プログラム)、弁当、みやげの用意、休憩の段取りなど、観劇全般の世話をする芝居茶屋が存在しました。
現在、大相撲でみられる相撲茶屋のようなものです。
京都にも大坂にも、そして江戸にもありました。
今日の話の都合上、大阪のことを言っておきますと、江戸時代の大坂・道頓堀には50、60軒ほどの芝居茶屋があったようです。
しかし、近代になって観劇システムの変化もあり、大正から昭和初期には十数軒にまで減っていました。
三田純市さんは、この道頓堀の芝居茶屋の生まれでした。
角座という劇場の向いにあった稲照(いなてる)という芝居茶屋の息子さんです。
三田さんのおばあさんのテル(照)さんが、中座脇にあった稲竹から暖簾わけして、大正5年(1916)に開業されたといいます。
当時、道頓堀の通りの浜側(川の方)には、紙幸、稲照、柴田、高砂、近安、堺利三、堺重、松川、三亀、大儀、兵忠、大佐、大彌 といった芝居茶屋がありました(大正9年=1920頃)。
すでに13軒にまで減っています。
芝居茶屋、戦前の歌舞伎…
『遥かなり道頓堀』は、二代目 實川延若と、道頓堀、そして芝居茶屋の明治・大正・昭和を描き出したものです。物語仕立てですね。
一方、『上方芸能』は、「≪観る側≫の履歴書」という副題がついた随筆集。三田さんが観た芸能を中心に、回想と評論がないまぜになって記述されています。
『上方芸能』三一書房
おばあさんのテルさんと芝居茶屋のお茶子さんたちの話は、興味が尽きません。
三田さんが子供の頃の話です。
ニュースはもっぱら耳で聞いた。
家では祖母が新聞係りで、毎朝丹念に新聞を読んだあと、帳場に坐って、女中たちにその日の新聞記事の解説をする。
といっても、芝居茶屋の女将が国際情勢を論じるはずもなく、主として三面記事だが、それを女中たちは、芝居へ運ぶ座布団や茶箱、煙草盆などの用意をしながら聞くのである。
新聞を読むほどの暇が女中たちになかったせいもあるが、もうひとつ、字を知らない女中もいたからであろう。
習うより慣れろというのはほんとうで、その女中は、字の形で、客の名前を覚えて、それぞれの預り物に名札をまちがえずにつけた。それと、もっとおどろくべきことには、歌舞伎の狂言名が読めたのである。あのややこしい勘亭流が、字を知らない人間に読めるということは不思議以外のなにものでもないが、彼女の読み方は多少変わっていて、たとえば「色彩間刈豆」と書いてあるのを見て「かさね」と読み「艶容女舞衣」と書いてあると「さかや」と呼んだ。まず、狂言の略称を覚え、それに字の形をあてはめて覚えたのにちがいない。(35-36ページ)
昔は字の読めない人が大勢いたわけですが、読めなくても読める、というのはスゴイですね。
「色彩間刈豆」は「いろもようちょっとかりまめ」という外題(タイトル)なのですが、通称は「累(かさね)」です。また「艶容女舞衣」は「はですがたおんなまいぎぬ」ですが、下巻の「酒屋」が人気で上演されます。
勘亭流ののたくった書体の外題をパッと見で視認するのは、ある意味プロの技ですね。
「観る側」と「演じる側」と
本書の副題は「≪観る側≫の履歴書」。
私の関心からいうと、芝居の歴史は、演じる側の歴史であるとともに、観る側、つまり観客の歴史でもありました。
この本には、落語や漫才をめぐって、三田さんの「観る側」に着目する視点が披瀝されています。
私がニュースを教わったというその漫才のニュース性、といってオーバーであれば、その今日性あるいは日常性は、客席に語りかけるという漫才の話法そのものにある。
漫才とは、AとBとの対話を客に聞かせるということではなく、AとBとが対話することによって、その対話に客を捲き込み、それによって客に語りかけることなのだ。
そして、この客に語りかけるということは落語の手法でもある。
(中略)
商売人が、
「おこしやす。まあ、お上がり……ところでどうだす、このごろは」
というところからはじめる挨拶も、落語家が高座にあがって、
「毎度ようこそのお運びで有難うさんでございます」
と振り出すマクラも、じつはともに探りなのだということができる。
このような探りによって、落語家はその日の客の好みや傾向を知り、その客に合わせたネタを運んでゆく。そして、その間も、表情でギャグで客に絶えず語りかけ、ときには客を突っぱなしたように客観的に演ずることがあっても、それは演出のうえからそうなるだけのことで、意識においては最後まで客に語りかけているのである。(46-47ページ)
お客さんに “探り” を入れながら、その日の高座を始めていく、観客を強く意識した芸のあり方です。
これに関して、たとえば「ぼやき漫才」の都家文雄・静代について、「そのころは、完全に“ぼやき漫才”というジャンルを確立していた文雄は、悲憤慷慨、のっけから客席に世上のアラを語りかける」(64ページ)
都家文雄、私は見たことがないのですが、この人は人生幸朗の師匠なのだそうです。
人生幸朗のぼやき漫才なら、見たことがありますよね。
その漫才は、いつも「まぁ、みなさん、聞いてください」で始まります。
これも、客席に語りかける探りでしょう。このひと言で聞いている私たちも、舞台に立っている人生師匠の話を一緒に聞いている気分になるわけです。
歌舞伎役者の芸談でも…
『延若芸話』誠光社
三田さんのおじいさんが子供の頃から世話をしたという二代目延若の芸談にも、「芝居をする人、させる人」として、こんな話が記されています(適宜改行しました)。
活動写真は人物も背景も一枚の影絵で映るのですから、舞台と客席が判つきり分れてゐますが、芝居は生身の役者と生身のお客とが鼻と鼻を突き合せてゐるわけですから、舞台と客席とが一種特別な気分に包まれてしまひます。またさうした気分に包まれないと、いゝ芝居は出来てまゐりません。
早い話が、「先代萩」御殿で政岡が鶴千代と千松を使つて、一生懸命で愁嘆場をやつてゐるのに、お客様が誰一人泣いてもゐないで、あくびばかりしてゐては芝居になりません。お客が泣かうと笑はうと、役者は勝手に芝居だけしてゐればよい、さういふわけのものではありません。そこが活動写真と違ふところで、芝居ではお客様の気持がそのまゝ舞台へ伝つてまゐります。
私が政岡をやつてゐる。お客さまが、あちらでもこちらでも泣いてくれる。白いハンカチーフを出して眼頭を拭いてゐて下さる。それを舞台から見てゐると、政岡の私もツイそれに釣り込まれて本当に泣けて来る。かうならねば、決していゝ芝居は出来ません。
即ち役者が客を泣かせ、そして客がまた逆に役者を泣かせるのです。いひかへますと、この場合、客は芝居を見てゐるのではなく、客が役者に芝居をさせてゐるわけでございます。(113-114ページ)
こういう考え方は、上方らしいなぁと思わせると同時に、過ぎ去った時代のお芝居の話とも感じられます。
延若の話で分かりやすいのは、活動写真(映画)との比較でしょう。
映画は撮り終わったものを観客に見せているのだけれど、芝居はナマで上演され、舞台と客席の雰囲気のなかで行われました。
いまの歌舞伎や文楽は「鑑賞」するものになってしまいましたが、昔の芝居は、現在のプロ野球観戦とかライブとかと同じ感覚だったと思えばいいでしょう。
それにしても、「客が役者に芝居をさせている」というのは、いいですね。
半面、芝居がつまらないと、お客は平気で舞台に尻を向けて、弁当を食っておしゃべりするわけです。すると役者はくやしくなって、大きな声で派手な芸をして振り向かせようとする。こう風景も、古い時代にはあったのですね。
三田さんは、昭和20年(1945)の大阪大空襲で亡くなった女形・中村魁車(かいしゃ)にふれたあと、こんなことを述べておられます。
そして、魁車が亡くなり、さらに数十年、私はようやく、大劇場の歌舞伎に疑問をいだくようになる。
観光歌舞伎、とでもいうべき、豪華な配役のわりには、どことなく薄手な、ということは主役ひとりだけに頼りすぎた歌舞伎が、どう考えても、歌舞伎本来の姿とは思えなくなったのである。
同時に、小芝居といえば、大阪なら松島の八千代座、東京でなら本所の寿座、ぐらいしか見ていない自分自身の経験を悔やむようになった。
こう思いはじめると、大劇場の、きれいごとにすぎる、大和絵のような舞台装置も気に入らない。子どものころに嗅いだニカワの匂いがしないのである。
歌舞伎の舞台とは、もっと毒々しく濃厚な、無名の画工の手になる刷りのわるい錦絵のようなものではなかったろうか。
私が子どものころに見た歌舞伎の舞台は、たしかにそうだったし、そして、その舞台を追想してみると、魁車という役者が、ビタリ、そこに納まることに私は気がついた。
大劇場の観光歌舞伎では、観客が俳優に慕いよる。
ニカワの匂いのする舞台では、役者が観客に慕いよる。
魁車は、その死の前月に、おなじ弁天座で『忠臣蔵』の半通しを演じている。
どういうわけだか、この舞台を私は見ていないのが、いまに残念である。(132-133ページ)
「大劇場の観光歌舞伎では、観客が俳優に慕いよる。ニカワの匂いのする舞台では、役者が観客に慕いよる」。
芝居をどう考えるか、興味深い問題です。
下鴨納涼古本まつり
会場 下鴨神社(左京区)
日程 毎年8月中旬
交通 京阪「出町柳」下車、徒歩約5分
4月28日に閲覧スペースもオープン 京都のことを調べるときには、いつも京都府立総合資料館に行っていました。
学生の頃から30年ばかりお世話になっていたのですが、昨年9月、施設がリニューアルされるために閉館しました。
リニューアル後は、北山通に面した場所から、京都コンサートホールを挟んだ南側に移るということで、オープンは今年の春頃と聞いていました。

京都府立総合資料館
新しい建物は、京都府立大学と共同の施設となりました。
1階部分は昨年暮れにオープンしていましたが、私が利用しそうな閲覧室(2階)は遅れて供用されることになっていました。
何月何日オープンかを知らぬまま5月となり、ある日、“もしかしたら、もう開館しているかも” と思って調べてみると、すでに大型連休前の4月28日にグランドオープンしていたのでした。
現代的な建築

新しい建物は、南北に長く、下鴨中通に沿っています。
北側には京都コンサートホール、南側には京都府立大学が建っています。この場所は、オールドな私のなかでは “府立大学の農場” として記憶されています。かつて農場が拡がっていた場所なのです。

正面入り口です。
ひさしやガラス面の多い素軽い建物という印象。

施設の名称は「京都府立京都学・歴彩館(れきさいかん)」になりました。
初めてなので建物探検。
裏側(西側)にも回ってみました。

まだまだ整備中のようですね。
右の建物は、府立大学の稲盛記念会館です。

この角度から見ると全貌がよく分かります。
地上4階建、地下は2階あるそうです。ただ、一般利用できるのは1階と2階のみで、3・4階は府立大学文学部、地階は収蔵庫になっているそうです。
1階は交流フロア

私たちが行けるスペースは、上図の部分です。
ここから先、館内は撮影NGですので、写真はありません。
1階の自動ドアを入ると、左が展示室、右が学習室(自習室)や事務室です。正面奥の方に、小ホールや京都学ラウンジ、同研究室などがあり、大ホールもあります。
展示室は、1室のみの構成。長手の片側の壁だけに壁ケースがあります。あとは移動式のケース。仕切り壁も設置できるようになっています。ちょっと展示するには手頃なスペースといえるでしょう。
学習室は、以前の総合資料館のような大机ではなく、1人ずつに仕切りの付いた机です。この辺も現代風ですね。
小ホールは、周囲がガラスなので内部が見えるのですが、100席ほどある縦長の部屋です。
大ホールは入っていないので詳細は分かりませんが、484席あるそうで、かなり広いですね。通常の講演会などをやるには少し広すぎる気もしますが、府立大の1学年が全員入れるキャパシティーということでしょうか?
これらの1階が「交流フロア」になっています。

京都学ラウンジを外から見る 奥は府立大学
閲覧室に行ってみる
いよいよ2階の閲覧室に上がってみます。2階は「探究フロア」とネーミングされています。
入り口には、持出し防止のBDSがありました。
南側には、府立大学の図書館スペースが拡がっており、私たちも自由に利用できます。大学図書館なので、開架書架にもそこそこ専門書が並んでいます。書棚は、まだ余裕がありそうですね。
利用カードを作ってもらえば、府民なら貸し出しもできるそうです。
私が訪ねた日は、こちらのエリアは比較的すいていました。
2階の北側には、閲覧席が並んでいます。70~80席あるようです。
こちらは、結構混んでいました。学生さんが多そうですね。
そして、東側の一画が京都資料総合閲覧室です。
背の低い開架書架が並び、ディスプレイのある情報検索コーナーもあります。
開架図書は、ほぼ以前と同じですが、行政関係の資料は開架になっていないようですね。また、京都府の行政文書などは以前は別室での閲覧でしたが、今回は同じ部屋で閲覧するようになっています。
この辺の閲覧席は極めて少ないので、外のスペースでの閲覧が想定されているのでしょう。学生が多い日などは、少し混み合いそうです。
最近私が、新聞を調べるためによく利用させてもらっていたマイクロフィルムの閲覧ですが、マイクロリーダーは3台ありました。
よく見ると、機械は前と同じようなんですね!
確かに、いまさら新しいマイクロリーダーは買わないですよね、デジタル時代だし…… でも、プリンタは一部新しくなったような。そして、明確に椅子は新しくなりました(笑) 前は、古い回転椅子だったのです。
ちなみに、翌週、マイクロフィルムの閲覧に出掛けました。
当たり前ですが、前と変わらぬ雰囲気で調査でき、その点は安心感がありますね。
マクロフィルムを入れてくれるプラスチックのカゴも、以前と同じでした(笑)

南には京都府立大学が隣接
開館時間も長く
サービス面で大きく変わったのは、開館時間。
平日は、9時から21時となりました。総合資料館時代は、16時30分閉館だったのです。夜も使えるようになったわけで、私は余り使わない気がしますが、学生さんには便利でしょうね。
土日は、9時から17時。こちらは30分長くなったことになります。
また、クルマの駐車ですが、総合資料館は無料でした。雨の日はクルマで行っていたので、とても便利でした。
今回は、パンフレットによると、駐車場は1時間300円ということで、長時間利用する私にはちょっと無理ですかね……
新しくなった京都府立京都学・歴彩館。
しばらく使っているうちに、慣れてくることでしょう。
これから、10年、20年と長い付き合いになるのですから、早く愛着がわくような感じに持っていきたいと思っています。
京都府立京都学・歴彩館
所在 京都市左京区下鴨半木町
利用 無料(祝日、第2水曜、年末年始など休み)
交通 地下鉄「北山」下車、徒歩約4分