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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

松ヶ崎街道と遊歩道になった狐坂





遊歩道の狐坂


 京都北郊の古い農村

 松ヶ崎(まつがさき)というと、京都の地名のなかでも少しローカル。
 知る人も余りいないかも知れません。

 左京区に属し、地下鉄「松ヶ崎」駅も出来ています(北山駅と宝ヶ池駅の間です)。
 大文字五山の送り火のうち、「妙法」のある場所として著名かも知れませんが、観光地とは言えません。

 京都北郊図
  「大京都市街地図」昭和14年(1939)

 これは、昭和初期の松ヶ崎付近の地図です。左が北になります。
 右下隅に下鴨神社があり、地図中を斜めに流れる川が高野川です。ちなみに、高野川とX字状に交差しているカーブした水路は疏水(そすい)になります。
 左端の縦方向のミドリが「妙法」のある丘(西山・東山)。丘の中央にある池が宝ヶ池(たからがいけ)。
 この丘を含む麓一帯が、松ヶ崎なのです。
 
 古い地名ですが、中世には氷室もあったらしく、風流な歌も詠まれています。

 夏の日もすずしかりけり松か崎
    これや氷室のわたりなるらん  藤原顕季 

 
 また、妙法があることから分かるように、この村は法華宗(日蓮宗)が普及した地域でした。いまも題目踊りが伝わっています。


 水路のある旧街道 

 この地区を東西に通る道が通称・松ヶ崎街道です。

 松ヶ崎街道
  松ヶ崎街道

 いまでは、この道の南側に、4車線の北山通が通っていますので、ひっそりとした生活道路になっています。
 その北山通は、私の学生時代に延伸されたものなので、およそ30年前に出来たことになります。
 私が初めて、この松ヶ崎街道を通ったのは(記憶の限りでは)小学校6年生の頃で、友人らと担任の先生の家をさがすべく “探検” に行ったときのことでした。
 現在でも、当時の雰囲気が保たれていますが、家屋はずいぶん建て替わったような気がします。

 それでも、木造の家や蔵が残り、道の片側には水路が流れていて、風情のある旧街道です。

 松ヶ崎街道の水路

 高野川に架かる松ヶ崎橋の西方から、宝ヶ池通まで、古い街道は約1.5km。ふらっと散歩するにはいい距離です。


 ヘアピンカーブだった狐坂

 新宮神社
  新宮神社

 集落にある寺社では、松ヶ崎大黒天や涌泉寺が有名ですが、産土神の新宮神社もあります。
 松ヶ崎街道の北側なのですが、この神社の前を左に上っていくと、砂利道になり、こんなところに出られます。

 狐坂のヘアピンカーブ

 ちょっとしたヘアピンカーブでしょう(笑)

 これが、狐坂(きつねざか)なんです。

 私も子供の頃からよく登りました ーー ただしクルマに乗ってですけれど。

 この坂上にはトンネルがあり、それを抜けると岩倉方面に通じます。つまり、狐坂は、京都市街の北山通と北郊の岩倉などとを結ぶ坂のひとつだったわけです。

 松ヶ崎付近図

 左下方に「宝池」とあるのが宝ヶ池。その下を通る道が狐坂で、地図では「狐子坂」と書いていますね。これで読みは「きつねざか」です。S字カーブのさまがよく分かります。

 狐坂
  狐坂

 こういうふうに急カーブしていて、かつてはちょっとした難所でした。クルマもまあまあ渋滞したりして、不便といえば不便だったかも。

 それが近年、バイパスの陸橋が出来たのです。

 狐坂の新旧
  左が旧道(狐坂)、右が陸橋

 陸橋は2006年完成ということで、もう10年余りになります。
 狐坂の方は、遊歩道になってクルマは通れなくなりました。のどかな散歩道といったところでしょう。

 坂上には、宝ヶ池があります。

 宝ヶ池
  宝ヶ池

 池の向こうに比叡山。左奥の白い建物は、京都国際会館です。
 貸しボートもありますよ。

 ほんと、のんびりしたところですね。

 観光でわざわざ来るほどではないけれど、グランドプリンスホテル(宝ヶ池)やアピカルイン(松ヶ崎)といった宿泊施設もあるので、ちょっと外れたところに泊まって郊外散歩、というにはいい気がするのですが、いかがでしょうか。




 狐坂

 所在  京都市左京区松ヶ崎狐坂
 見学  自由
 交通  地下鉄「松ヶ崎」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『京都市の地名』1979年、平凡社


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鴨長明が隠棲した方丈の庵とは





方丈の庵


 復元された鴨長明の草庵

 下鴨神社を訪れる人が、最近増えているように思います。
 特に、海外の方が多いですね。

 下鴨神社
  下鴨神社

 ほとんどの参拝者は、南側(出町柳駅方面)から来られます。そのため、まず摂社の河合神社にお詣りされることが多いようです。
 河合神社は、下鴨神社の第一摂社で、玉依姫命が祭神となっています。そのため、近年では美人祈願のようなフレーズがそこここに見られますね。

 河合神社
  河合神社

 ここに、少し変わった建物が復元されています。

 方丈の庵

 柴垣をめぐらした苫屋。
 誰が住んだのかと思いますが、これが有名な「方丈記」の舞台。つまり、鴨長明が住んだ庵なのです。

 京の南郊・日野(法界寺のある辺り)の山に隠棲した長明。
 春は藤の花、夏はほととぎす、秋はひぐらし、冬は雪、といった自然に囲まれた山の暮らし。山守りの子供と山菜や木の実を拾って楽しむ日々。優雅とも言える隠遁生活です。

 長明の庵がなぜここに復元されているかというと、彼の父親が下鴨神社の禰宜(ねぎ。神官)だったからです。長明は、その次男で、うまくいけばここの神官になっていた人でした。宮中とのつながりもあって、幼くして従五位下を叙され、順風満帆の人生を歩むかと思いきや、早くに父を亡くし、横やりが入って神社への就職は立ち消えに。20歳台から不遇の人生を送ることになりました。

 長明の人生すごろくは、下鴨神社の社家の息子というエリートとして生まれ、和歌や音楽など教養も身に着けたが、ふとしたことから人生の道を転げ落ち、最後は郊外の草庵に隠れ住んで、60余年の生涯を閉じた、というわけなのです。そんな彼だからこそ、無常を感じて「方丈記」を残したのでしょうか。


 庵の内部

 方丈の庵

 「方丈記」には、彼が住む庵の様子についても、詳しく記されています。

 いま、日野山の奥に、跡をかくしてのち、東に三尺余りの庇[ひさし]をさして、柴折りくぶるよすがとす。
 南、竹の簀子[すのこ]を敷き、その西に閼伽棚[あかだな]をつくり、北によせて障子を隔てて阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかき、前に法華経をおけり。
 東のきはに蕨[わらび]のほどろを敷きて、夜の床とす。
 西南に竹の吊棚を構へて、黒き皮籠[かわご]三合をおけり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物を入れたり。かたはらに、琴・琵琶おのおの一張をたつ。いはゆる、をり琴・つぎ琵琶これなり。仮の庵のありやう、かくのごとし。 


 「仮の庵」なんて言っているのですが、結構しっかりした設えですよね。
 上の写真は南側を撮ったものです。右手(東)に庇が伸びているのが分かるでしょう。

 東側に回って撮った写真がこちらです。

 方丈の庵内部

 舞良戸のような引き戸が開いており、内部がうかがえます。
 中央に炉が切ってあるようですが、これは「方丈記」には書いてありません。
 その向こうに衝立てが置いてあって、衝立ての右に経机があり、円座が置いてあります。壁には「絵像」が掛けてありますね。
 机の手前が(見えていませんが)寝るスペースでしょう。

 衝立ての左側は隠れて見えませんが、吊り棚があって書物が収納されており、そばには琴や琵琶が置いてあったはずです。

 短い文章なのですが、結構きっちりと自分の部屋の間取りを書いているので、容易に復元できます。
 方丈というと、1丈四方の部屋という意味ですから、約3m四方。現代風に言うと、四畳半一間というか、1Kというか、そんなイメージでしょうか。

 いずれにせよ、間取りとか山での過ごし方とか、ワイルドライフ? を詳しく述べていて、それなりに自己顕示欲が感じられ、無常観のある、枯れたおじいさんという雰囲気でもなさそうです(勝手な感想です)。
 「方丈記」を書いたとき、長明は50歳台後半だったそうで、当時としては老人なのですが、なんか持ってそうですね、この人は。無常観という “隠れ蓑” の下で何かがうごめいている感じがする……(すみません、イメージです)。
 
 それにしても、冬に見る方丈の庵は寒々として寂しいです。
 ここに独りで住むのは、現代人にはやはり無理かも知れません。




 鴨長明の復元方丈の庵 (河合神社)

 所在  京都市左京区下鴨泉川町(下鴨神社境内)
 見学  自由
 交通  京阪電車「出町柳」下車、徒歩約5分

 【参考文献】
 西尾實校注『日本古典文学大系 方丈記 徒然草』岩波書店、1957年
 武田友宏編『方丈記(全)』角川ソフィア文庫、2007年



下鴨神社の糺の森から発掘された祭祀遺構





祭祀遺構復元


 下鴨神社と糺の森

 先日から何度か上賀茂神社(賀茂別雷神社)についてレポートしていますが、今回は下鴨神社です。

 下鴨神社の正式名称は、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)です。
 「御祖(みおや)」という名の通り、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命のお母さんの玉依姫命(たまよりひめのみこと)と、おじいさんの賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の2座を祀っています。

 下鴨神社
  下鴨神社 楼門

 昔、下鴨神社に隣接する予備校に通っていたので、このあたりはちょくちょく散歩しました。当時に比べると、境内もよく整備されてきたと思います。
 下鴨神社が鎮座する場所は、賀茂川と高野川の合流点の北側で、緑豊かな糺の森(ただすのもり)の中にあります。
 京阪電車の出町柳駅から参拝すると、糺の森の中の参道を歩いて行くことになります。

 糺の森
  糺の森

 参道を歩いていると、奈良の小川、瀬見の小川、泉川といった流れが目に入ります。
 下鴨神社は水にゆかりの深い神社ですね。本殿の東方には、御手洗祭で知られる井上社(御手洗社)もあります。

 井上社
  井上社(御手洗社)


 復元された石敷遺構

 そんな糺の森の参道脇に、このようなナゾの空間があります。

 祭祀遺構復元

 なんとなく石をばらまいたようなスペースです。
 参道の東側にあります。

 実は、ここ、古代から続いた祭祀遺構を復元したものなのです。
 糺の森の整備を進める中で、境内の何か所もの地点で発掘調査が行われました。
 そのうち、地面に石を敷き詰めた遺構が発掘されたのです。

 祭祀遺構復元

 写真の上が北です。
 上端に、かつては奈良の小川が流れていました。奥の方は見えづらいのですが、その川べりに、水に関する祭祀を行う場所(祭壇)が設けられていたのです。すでに平安時代後期にはあったようです。
 また、写真下方の石敷きは、そのそばを流れていた泉川に面した祭祀の場であったと考えられます。
 
 いずれも、川原石を敷き詰めて儀式の場所にしています。
 写真上方左あたりでは、穴を掘って石を詰めたような祭祀遺構も多数見つかっています。石を立てて置いた遺構も出ています。 

 報告書では、次のようにまとめています。

 古代より無社殿神と呼ばれる、社殿を持たない自然神をまつる水辺の祭場が、糺ノ森の中に点在している。今日でも、方形の清浄地の四隅に御幣を立てたり、灯明をあげるなどして四隅の神々を祀り、その中央に神降ろしのためのイワクラ(穴を掘り、その中に小石を詰め込む)をつくり、お供えをしてお祀りをしている。現在まで続くこれらの祭祀の様子を今回の遺構のあり方は、よく示していると考えられる。(「史跡賀茂御祖神社境内」) 

 泉川
  現在の泉川


 舩島の遺構

 石敷遺構の北には、舩島という祭祀の場がありました。
 こちらも調査され、整備が行われました。

 舩島

 少し丘のように高まった船の形をした小島です。

 舩島平面図
  舩島平面図(案内板より)

 丘の下に祭祀で用いられた井戸も復元されています。
 古記録によると、この井戸を用いて雨乞いの祭祀が行われていたことが分かると言います。

 神社と言えば社殿=建物があるイメージも強いのですが、それとは異なる祭祀の形が見られます。
 参道脇の目立たない場所ですが、足を運んでみる価値はありそうですね。




 下鴨神社(賀茂御祖神社)

 所在  京都市左京区下鴨泉川町
 拝観  自由
 交通  京阪電車「出町柳」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報「史跡賀茂御祖神社境内」同所、2004年
 『糺の森整備報告書』賀茂御祖神社、2010年


上賀茂神社の特別参拝で気付いた、ちょっとしたこと ー 神話について ー





ならの小川と石橋


 特別参拝でのご由緒の説明

 先日、上賀茂神社(賀茂別雷神社)に参拝した話の続きです。

 その日は、団体で特別参拝させていただきました。
 これは、ふだん参拝する中門よりさらに内側へ入らせていただき、本殿・権殿に近いところで参拝させていただけるものです。
 もっとも、本殿の前にある祝詞屋の手前から拝むので、本殿と権殿は下半分が垣間見えるくらいでした。

 参拝前、神社の方から15分くらいでしょうか、上賀茂神社についてのご説明があります。
 正式名称のことから、ご由緒、ご社殿などについての丁寧なお話です。

 そのなかで、おやっ、と思ったことがありました。
 それは、ご祭神に関する話でした。

 上賀茂神社の祭神は、賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)です。神社の正式名にもなっていますね。
 この神さまのお母さんが、玉依日売命(たまよりひめのみこと)です(漢字はいろんな字の当て方があります)。

 ある日、玉依日売命が川で遊んでいると、丹塗り矢(にぬりや)が川上から流れて来た。
 それを持ち帰って、床に挿し置いておいたら、男の子を授かった。

 という誕生神話があります。


 山城国風土記の賀茂伝説

 簡単に言うと、寝所に流れて来た矢を置いといたら、男の子が生まれた、という話なのです。
 あるいは、端的に言うと、矢は男性の象徴で、そのおかげで子供が出来た、ということですね。

 この神話は、「山城国風土記」逸文に記されているものです。あとで、少し詳しくみます。

 参拝の説明で、おやっと思った点は、この部分。
 神官の方は、丹塗り矢は天から降って来たと説明され、さらにお父さんは天津神(あまつかみ)だとおっしゃっいました。

 部屋の長押の上には、川を流れて来る矢を受ける玉依日売命の絵も掲げられています。どういうことかなと思いました。
 参拝の際に頂戴したパンフレットをよく見てみました。ここにも、同じ絵が掲載されているのですが、説明文には「上流より天降りし丹塗矢が流れて来た」と書いてあります。
 なるほど。流れて来た矢は、天から降って来たのか、と。

 さらに、後段には、別雷神が「我が父は天津神なり」と言った、と記されています。

 ならの小川

 「山城国風土記」逸文は、次のようになっています。

 玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃ち(すなわち)取りて、床の辺に挿し置き、遂に孕みて男子を生みき。

 簡潔に、こう記されています。

 一方、自分の父の名を問われた別雷神が、それを答える場面は、こうです。

 人と成る時に至りて、外祖父、建角身命、(中略)子と語らひて言(の)りたまひしく、「汝の父と思はん人に此(こ)の酒を飲ましめよ」とのりたまへば、即て(やがて)酒杯を挙げて、天に向きて祭らむと為(おも)ひ、屋の甍を分け穿ちて天に升(のぼ)りき。
 乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命と号く(なづく)。謂はゆる丹塗矢は、乙訓(おとくに)の郡の社に坐(いま)せる火雷神(ほのいかつちのかみ)なり。


 男児(のちの別雷神)が成人して、母方の祖父・賀茂建角身命(かものたけつのみのみこと)ら大勢と祝いの酒を飲んでいた。
 そのとき、祖父が「あなたのお父さんと思う人に酒を飲ませてみなさい」と言うと、男児は屋根を突き破って、天に上った。
 外祖父の名にちなんで「賀茂別雷命」と名付けたのだが、例の丹塗り矢は乙訓郡の神社にいる火雷神のことである。

 というような伝説です。
 「山城国風土記」逸文には、丹塗り矢=お父さんは、乙訓郡の火雷神だとしています(異説に大山咋命とするものがある)。

 古事記などの神話では、天上の高天原(たかまがはら)にいる神さまが天津神です。
 別雷神が天の上ったということで、父上が天津神という考え方なのかと思います。

 このあたり、岡田精司氏が分かりやすく説明しておられます。

 新しくつくった御殿の天井をうちやぶって、盃をもって父神のいる天にのぼっていったというのです。これはふつうの人間わざではない、神のすることであって、しかも雷神の子であるが故です。なぜなら、天にのぼったということで雷の子であることが分かるのです。
 この頃は一般に、天なる神は雷神であると考えられていたようです。いわゆる高天原というのを想定していた宮廷神話の世界と、民衆の神話は大きなちがいがありました。(『京の社』46ページ) 

 
 ここで言われている宮廷神話というのは、もちろん古事記などのこと、民衆の神話とは風土記のようなものを指しています。

 神話の世界ですから、いろいろ解釈できます。
 私が興味深かったのは、伝説というのはこういうふうに出来ていくのか、というのが感じられたこと。
 ちょっと愉しかったです。


  藤木神社 藤木神社




 上賀茂神社(賀茂別雷神社)

 所在  京都市北区上賀茂本山
 拝観  境内自由 特別参拝は500円
 交通  市バス「上賀茂神社前」下車、すぐ



 【参考文献】
 『日本古典文学大系 風土記』岩波書店、1958年
 『日本古典文学全集 風土記』小学館、1997年
 岡田精司ほか『京の社』人文書院、1985年
 志賀剛『式内社の研究』3、雄山閣、1977年
 谷川健一編『日本の神々』5、白水社、1986年
 柳田国男「玉依姫考」(『定本柳田国男全集』9 「妹の力」所収)


上賀茂神社は、ならの小川の東エリアが渋いかも





奈良神社


 上賀茂神社と下鴨神社 

 このところ、2度ばかり上賀茂神社と下鴨神社に行ったのですね。
 誰もが思うのは、下鴨神社はすごくにぎわっている、ということでしょう。
 
 私は、上賀茂神社を子供時代の通学路とし、そこで遊びもしてきたので、どうしても上賀茂神社に肩入れしてしまうんです(笑)

 確かに、上賀茂神社も、このたび機会があって特別参拝させていただいたのですが、順番待ちするくらい大勢の参拝者が来ておられました。結婚式も、いつもやってる。
 でも、ちょっとすいてるかなぁ……
 やっぱり、交通手段がバスになるというのが、人が少なめの理由? と思ったりもします。


 東エリアが渋くていいかな? 

 上賀茂神社(賀茂別雷神社)は、一の鳥居を入ると両側に広い芝生が拡がっています。
 右手の芝生の東には、ならの小川が流れています。
 石橋があって、渡って行けます。

 ならの小川

 この東エリア(仮称)が、行く人は少ないけれど、なんとなく見どころがあるのでは、と思うのです。
 地図で言うと、赤枠で囲ったところですね(屋外の看板撮影で見づらくて恐縮です)。

 境内図


 なが~い社殿も

 石橋を渡り、鳥居をくぐってすぐにあるのが、摂社・奈良神社。

 奈良神社
  奈良神社

 檜皮葺(ひわだぶき)の美しい流造(ながれづくり)の本殿です。

 奈良神社は、本社の神饌を司る神さまを祭神としていると言います。神饌(しんせん)とは、神さまに供える食べ物のことです。
 そのため、この横にある建物は……

 北神饌所

 北神饌所(庁屋)。重要文化財に指定されています。
 古くは、神饌を調進していた建物です。東西に長く、桁行は13間もあります!
 これだけ長い建物は、あまり見られないでしょう。貴重です。
 今では柵があり近づけないけど、昔はなかったですね。

 このように奈良神社と北神饌所が並んでいます。
 奈良神社の拝殿は、北神饌所にくっつく形になっています。

 北神饌所

 北神饌所は梁間2間なのですが、その北1間分に拝殿が張り付いている感じですね。
 これもおもしろい形で珍しいと思います。

 かつては、他に御水井舎や酒殿などもあったそうで、このあたりは、当社の神饌調進エリアだったわけです。


 校倉もある 

 その南には、こんな建物もあります。

 校倉

 校倉(あぜくら)です。
 正倉院で有名な校倉造になっている蔵です。

 京都で校倉を見られるところも少ないですが、これは江戸時代の校倉です。

 また、北神饌所の北側には、摂社の賀茂山口神社があります。
 南に拝殿があり、北に本殿があります。

 賀茂山口神社拝殿
  賀茂山口神社 拝殿

 賀茂山口神社
  同 本殿

 舞殿ふうの拝殿に流造の本殿という賀茂社らしいスタイルですね。

 この付近には、いにしえには神宮寺もあり、神仏習合時代の様子がうかがえたようです。

 上賀茂神社の社殿は、中心のエリアでも、本殿と権殿を除けば、おおむね寛永5年(1628)造営時のものが残されています。この時期、中世に荒廃していた当社が幕府の援助によって再興されたわけで、江戸時代前期の文化財が拝見できる神社です。
 



 上賀茂神社(賀茂別雷神社)

 所在  京都市北区上賀茂本山
 拝観  境内自由
 交通  市バス「上賀茂神社前」下車、すぐ



 【参考文献】
 『上賀茂のもり・やしろ・まつり』思文閣出版、2006年
 『京都古社寺辞典』吉川弘文館、2010年