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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

下鴨納涼古本まつり、三田純市氏と上方の芝居





下鴨納涼古本まつり


 下鴨神社で開催

 恒例の下鴨納涼古本まつり(京都古書研究会主催)が、今年(2017年)も行われました。
 40足らずの古書店が出店していて、関西最大級の古本市ですね。見て回るには、何時間もかかります。

 今年は、初日(8月11日)に行ってきました!

 古本まつり

 祝日だったせいもあるのか、テレビ局の取材がいっぱい来てましたねぇ。
 また、来場者もとても多かったと思います。


 古本さがし

 昔と比べ、古書をさがしてまわる時間は短くなりましたね。
 体力、気力の減退 !? ということもあるでしょうし、要領よくなったともいえるでしょう。それでも、3時間以上はかかります。

 今回目についた珍しいものは、武田珂代子『東京裁判における通訳』(みすず書房)。
 先日、NHKでドキュメントドラマ「東京裁判」の再放送を見たあと、通訳者・近藤正臣氏の本を読んでいたら、東京裁判の通訳に関する研究も最近行われている、と書かれていました。そんなとき、この本が並んでいるのを見つけたので、思わず手に取ってしまいました。

 一方、最近は、上方(京都・大阪)の芝居や芸能に関する本があると、目ぼしいものは求めるようにしています。
 今回は、三田純市(純一)さんの著書を2冊。

  『上方芸能』三一書房、1971年
  『遥かなり道頓堀』九藝出版、1978年 


  遥かなり道頓堀 『遥かなり道頓堀』九藝出版

 さらに、三田氏のご実家にもゆかりのある歌舞伎役者・實川延若(二代目)の芸談、

 山口廣一『延若芸話』誠光社、1946年

 も、あわせて求めました。

 いま、お芝居を見に行こうと思うと、チケットぴあ なんかを使って簡単に予約が取れますね。
 ところが、昔の芝居見物では、席の手配や番付(プログラム)、弁当、みやげの用意、休憩の段取りなど、観劇全般の世話をする芝居茶屋が存在しました。
 現在、大相撲でみられる相撲茶屋のようなものです。

 京都にも大坂にも、そして江戸にもありました。
 今日の話の都合上、大阪のことを言っておきますと、江戸時代の大坂・道頓堀には50、60軒ほどの芝居茶屋があったようです。
 しかし、近代になって観劇システムの変化もあり、大正から昭和初期には十数軒にまで減っていました。

 三田純市さんは、この道頓堀の芝居茶屋の生まれでした。
 角座という劇場の向いにあった稲照(いなてる)という芝居茶屋の息子さんです。
 三田さんのおばあさんのテル(照)さんが、中座脇にあった稲竹から暖簾わけして、大正5年(1916)に開業されたといいます。

 当時、道頓堀の通りの浜側(川の方)には、紙幸、稲照、柴田、高砂、近安、堺利三、堺重、松川、三亀、大儀、兵忠、大佐、大彌 といった芝居茶屋がありました(大正9年=1920頃)。
 すでに13軒にまで減っています。


 芝居茶屋、戦前の歌舞伎…

 『遥かなり道頓堀』は、二代目 實川延若と、道頓堀、そして芝居茶屋の明治・大正・昭和を描き出したものです。物語仕立てですね。
 一方、『上方芸能』は、「≪観る側≫の履歴書」という副題がついた随筆集。三田さんが観た芸能を中心に、回想と評論がないまぜになって記述されています。

  上方芸能 『上方芸能』三一書房

 おばあさんのテルさんと芝居茶屋のお茶子さんたちの話は、興味が尽きません。
 三田さんが子供の頃の話です。

 ニュースはもっぱら耳で聞いた。
 家では祖母が新聞係りで、毎朝丹念に新聞を読んだあと、帳場に坐って、女中たちにその日の新聞記事の解説をする。
 といっても、芝居茶屋の女将が国際情勢を論じるはずもなく、主として三面記事だが、それを女中たちは、芝居へ運ぶ座布団や茶箱、煙草盆などの用意をしながら聞くのである。
 
 新聞を読むほどの暇が女中たちになかったせいもあるが、もうひとつ、字を知らない女中もいたからであろう。
 習うより慣れろというのはほんとうで、その女中は、字の形で、客の名前を覚えて、それぞれの預り物に名札をまちがえずにつけた。それと、もっとおどろくべきことには、歌舞伎の狂言名が読めたのである。あのややこしい勘亭流が、字を知らない人間に読めるということは不思議以外のなにものでもないが、彼女の読み方は多少変わっていて、たとえば「色彩間刈豆」と書いてあるのを見て「かさね」と読み「艶容女舞衣」と書いてあると「さかや」と呼んだ。まず、狂言の略称を覚え、それに字の形をあてはめて覚えたのにちがいない。(35-36ページ) 

 
 昔は字の読めない人が大勢いたわけですが、読めなくても読める、というのはスゴイですね。
 「色彩間刈豆」は「いろもようちょっとかりまめ」という外題(タイトル)なのですが、通称は「累(かさね)」です。また「艶容女舞衣」は「はですがたおんなまいぎぬ」ですが、下巻の「酒屋」が人気で上演されます。

 勘亭流ののたくった書体の外題をパッと見で視認するのは、ある意味プロの技ですね。


「観る側」と「演じる側」と

 本書の副題は「≪観る側≫の履歴書」。

 私の関心からいうと、芝居の歴史は、演じる側の歴史であるとともに、観る側、つまり観客の歴史でもありました。
 この本には、落語や漫才をめぐって、三田さんの「観る側」に着目する視点が披瀝されています。

 私がニュースを教わったというその漫才のニュース性、といってオーバーであれば、その今日性あるいは日常性は、客席に語りかけるという漫才の話法そのものにある。
 漫才とは、AとBとの対話を客に聞かせるということではなく、AとBとが対話することによって、その対話に客を捲き込み、それによって客に語りかけることなのだ。
 そして、この客に語りかけるということは落語の手法でもある。
 (中略)
 商売人が、
「おこしやす。まあ、お上がり……ところでどうだす、このごろは」
 というところからはじめる挨拶も、落語家が高座にあがって、
「毎度ようこそのお運びで有難うさんでございます」
 と振り出すマクラも、じつはともに探りなのだということができる。
 
 このような探りによって、落語家はその日の客の好みや傾向を知り、その客に合わせたネタを運んでゆく。そして、その間も、表情でギャグで客に絶えず語りかけ、ときには客を突っぱなしたように客観的に演ずることがあっても、それは演出のうえからそうなるだけのことで、意識においては最後まで客に語りかけているのである。(46-47ページ) 


 お客さんに “探り” を入れながら、その日の高座を始めていく、観客を強く意識した芸のあり方です。
 
 これに関して、たとえば「ぼやき漫才」の都家文雄・静代について、「そのころは、完全に“ぼやき漫才”というジャンルを確立していた文雄は、悲憤慷慨、のっけから客席に世上のアラを語りかける」(64ページ) 

 都家文雄、私は見たことがないのですが、この人は人生幸朗の師匠なのだそうです。
 人生幸朗のぼやき漫才なら、見たことがありますよね。

 その漫才は、いつも「まぁ、みなさん、聞いてください」で始まります。
 これも、客席に語りかける探りでしょう。このひと言で聞いている私たちも、舞台に立っている人生師匠の話を一緒に聞いている気分になるわけです。


 歌舞伎役者の芸談でも…

  延若芸話 『延若芸話』誠光社 

 三田さんのおじいさんが子供の頃から世話をしたという二代目延若の芸談にも、「芝居をする人、させる人」として、こんな話が記されています(適宜改行しました)。

 活動写真は人物も背景も一枚の影絵で映るのですから、舞台と客席が判つきり分れてゐますが、芝居は生身の役者と生身のお客とが鼻と鼻を突き合せてゐるわけですから、舞台と客席とが一種特別な気分に包まれてしまひます。またさうした気分に包まれないと、いゝ芝居は出来てまゐりません。

 早い話が、「先代萩」御殿で政岡が鶴千代と千松を使つて、一生懸命で愁嘆場をやつてゐるのに、お客様が誰一人泣いてもゐないで、あくびばかりしてゐては芝居になりません。お客が泣かうと笑はうと、役者は勝手に芝居だけしてゐればよい、さういふわけのものではありません。そこが活動写真と違ふところで、芝居ではお客様の気持がそのまゝ舞台へ伝つてまゐります。

 私が政岡をやつてゐる。お客さまが、あちらでもこちらでも泣いてくれる。白いハンカチーフを出して眼頭を拭いてゐて下さる。それを舞台から見てゐると、政岡の私もツイそれに釣り込まれて本当に泣けて来る。かうならねば、決していゝ芝居は出来ません。
 即ち役者が客を泣かせ、そして客がまた逆に役者を泣かせるのです。いひかへますと、この場合、客は芝居を見てゐるのではなく、客が役者に芝居をさせてゐるわけでございます。(113-114ページ) 


 こういう考え方は、上方らしいなぁと思わせると同時に、過ぎ去った時代のお芝居の話とも感じられます。

 延若の話で分かりやすいのは、活動写真(映画)との比較でしょう。
 映画は撮り終わったものを観客に見せているのだけれど、芝居はナマで上演され、舞台と客席の雰囲気のなかで行われました。
 いまの歌舞伎や文楽は「鑑賞」するものになってしまいましたが、昔の芝居は、現在のプロ野球観戦とかライブとかと同じ感覚だったと思えばいいでしょう。

 それにしても、「客が役者に芝居をさせている」というのは、いいですね。
 半面、芝居がつまらないと、お客は平気で舞台に尻を向けて、弁当を食っておしゃべりするわけです。すると役者はくやしくなって、大きな声で派手な芸をして振り向かせようとする。こう風景も、古い時代にはあったのですね。

 三田さんは、昭和20年(1945)の大阪大空襲で亡くなった女形・中村魁車(かいしゃ)にふれたあと、こんなことを述べておられます。

 そして、魁車が亡くなり、さらに数十年、私はようやく、大劇場の歌舞伎に疑問をいだくようになる。
 観光歌舞伎、とでもいうべき、豪華な配役のわりには、どことなく薄手な、ということは主役ひとりだけに頼りすぎた歌舞伎が、どう考えても、歌舞伎本来の姿とは思えなくなったのである。

 同時に、小芝居といえば、大阪なら松島の八千代座、東京でなら本所の寿座、ぐらいしか見ていない自分自身の経験を悔やむようになった。

 こう思いはじめると、大劇場の、きれいごとにすぎる、大和絵のような舞台装置も気に入らない。子どものころに嗅いだニカワの匂いがしないのである。
 歌舞伎の舞台とは、もっと毒々しく濃厚な、無名の画工の手になる刷りのわるい錦絵のようなものではなかったろうか。
 私が子どものころに見た歌舞伎の舞台は、たしかにそうだったし、そして、その舞台を追想してみると、魁車という役者が、ビタリ、そこに納まることに私は気がついた。

 大劇場の観光歌舞伎では、観客が俳優に慕いよる。
 ニカワの匂いのする舞台では、役者が観客に慕いよる。

 魁車は、その死の前月に、おなじ弁天座で『忠臣蔵』の半通しを演じている。
 どういうわけだか、この舞台を私は見ていないのが、いまに残念である。(132-133ページ) 


 「大劇場の観光歌舞伎では、観客が俳優に慕いよる。ニカワの匂いのする舞台では、役者が観客に慕いよる」。

 芝居をどう考えるか、興味深い問題です。




 下鴨納涼古本まつり

 会場  下鴨神社(左京区)
 日程  毎年8月中旬
 交通  京阪「出町柳」下車、徒歩約5分


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グランドオープンした京都府立京都学・歴彩館に行ってみた





京都府立京都学・歴彩館


 4月28日に閲覧スペースもオープン

 京都のことを調べるときには、いつも京都府立総合資料館に行っていました。
 学生の頃から30年ばかりお世話になっていたのですが、昨年9月、施設がリニューアルされるために閉館しました。
 リニューアル後は、北山通に面した場所から、京都コンサートホールを挟んだ南側に移るということで、オープンは今年の春頃と聞いていました。

 京都府立総合資料館
  京都府立総合資料館

 新しい建物は、京都府立大学と共同の施設となりました。
 1階部分は昨年暮れにオープンしていましたが、私が利用しそうな閲覧室(2階)は遅れて供用されることになっていました。
 
 何月何日オープンかを知らぬまま5月となり、ある日、“もしかしたら、もう開館しているかも” と思って調べてみると、すでに大型連休前の4月28日にグランドオープンしていたのでした。


 現代的な建築 

 下鴨中通と歴彩館
  
 新しい建物は、南北に長く、下鴨中通に沿っています。
 北側には京都コンサートホール、南側には京都府立大学が建っています。この場所は、オールドな私のなかでは “府立大学の農場” として記憶されています。かつて農場が拡がっていた場所なのです。

 歴彩館東面

 正面入り口です。
 ひさしやガラス面の多い素軽い建物という印象。

 歴彩館横断幕

 施設の名称は「京都府立京都学・歴彩館(れきさいかん)」になりました。

 初めてなので建物探検。
 裏側(西側)にも回ってみました。

 歴彩館と稲盛記念会館
 
 まだまだ整備中のようですね。
 右の建物は、府立大学の稲盛記念会館です。

 歴彩館西面

 この角度から見ると全貌がよく分かります。
 地上4階建、地下は2階あるそうです。ただ、一般利用できるのは1階と2階のみで、3・4階は府立大学文学部、地階は収蔵庫になっているそうです。


 1階は交流フロア 

 平面図

 私たちが行けるスペースは、上図の部分です。
 ここから先、館内は撮影NGですので、写真はありません。

 1階の自動ドアを入ると、左が展示室、右が学習室(自習室)や事務室です。正面奥の方に、小ホールや京都学ラウンジ、同研究室などがあり、大ホールもあります。

 展示室は、1室のみの構成。長手の片側の壁だけに壁ケースがあります。あとは移動式のケース。仕切り壁も設置できるようになっています。ちょっと展示するには手頃なスペースといえるでしょう。
 
 学習室は、以前の総合資料館のような大机ではなく、1人ずつに仕切りの付いた机です。この辺も現代風ですね。

 小ホールは、周囲がガラスなので内部が見えるのですが、100席ほどある縦長の部屋です。
 大ホールは入っていないので詳細は分かりませんが、484席あるそうで、かなり広いですね。通常の講演会などをやるには少し広すぎる気もしますが、府立大の1学年が全員入れるキャパシティーということでしょうか?

 これらの1階が「交流フロア」になっています。

 歴彩館西南面
  京都学ラウンジを外から見る  奥は府立大学


 閲覧室に行ってみる

 いよいよ2階の閲覧室に上がってみます。2階は「探究フロア」とネーミングされています。
 入り口には、持出し防止のBDSがありました。

 南側には、府立大学の図書館スペースが拡がっており、私たちも自由に利用できます。大学図書館なので、開架書架にもそこそこ専門書が並んでいます。書棚は、まだ余裕がありそうですね。
 利用カードを作ってもらえば、府民なら貸し出しもできるそうです。
 私が訪ねた日は、こちらのエリアは比較的すいていました。

 2階の北側には、閲覧席が並んでいます。70~80席あるようです。
 こちらは、結構混んでいました。学生さんが多そうですね。

 そして、東側の一画が京都資料総合閲覧室です。
 背の低い開架書架が並び、ディスプレイのある情報検索コーナーもあります。
 開架図書は、ほぼ以前と同じですが、行政関係の資料は開架になっていないようですね。また、京都府の行政文書などは以前は別室での閲覧でしたが、今回は同じ部屋で閲覧するようになっています。
 この辺の閲覧席は極めて少ないので、外のスペースでの閲覧が想定されているのでしょう。学生が多い日などは、少し混み合いそうです。

 最近私が、新聞を調べるためによく利用させてもらっていたマイクロフィルムの閲覧ですが、マイクロリーダーは3台ありました。
 よく見ると、機械は前と同じようなんですね!
 確かに、いまさら新しいマイクロリーダーは買わないですよね、デジタル時代だし…… でも、プリンタは一部新しくなったような。そして、明確に椅子は新しくなりました(笑) 前は、古い回転椅子だったのです。

 ちなみに、翌週、マイクロフィルムの閲覧に出掛けました。
 当たり前ですが、前と変わらぬ雰囲気で調査でき、その点は安心感がありますね。
 マクロフィルムを入れてくれるプラスチックのカゴも、以前と同じでした(笑)

 京都府立大学
  南には京都府立大学が隣接


 開館時間も長く

 サービス面で大きく変わったのは、開館時間。
 平日は、9時から21時となりました。総合資料館時代は、16時30分閉館だったのです。夜も使えるようになったわけで、私は余り使わない気がしますが、学生さんには便利でしょうね。
 土日は、9時から17時。こちらは30分長くなったことになります。

 また、クルマの駐車ですが、総合資料館は無料でした。雨の日はクルマで行っていたので、とても便利でした。
 今回は、パンフレットによると、駐車場は1時間300円ということで、長時間利用する私にはちょっと無理ですかね…… 

 新しくなった京都府立京都学・歴彩館。
 しばらく使っているうちに、慣れてくることでしょう。
 これから、10年、20年と長い付き合いになるのですから、早く愛着がわくような感じに持っていきたいと思っています。




 京都府立京都学・歴彩館

 所在  京都市左京区下鴨半木町
 利用  無料(祝日、第2水曜、年末年始など休み)
 交通  地下鉄「北山」下車、徒歩約4分



松ヶ崎街道と遊歩道になった狐坂





遊歩道の狐坂


 京都北郊の古い農村

 松ヶ崎(まつがさき)というと、京都の地名のなかでも少しローカル。
 知る人も余りいないかも知れません。

 左京区に属し、地下鉄「松ヶ崎」駅も出来ています(北山駅と宝ヶ池駅の間です)。
 大文字五山の送り火のうち、「妙法」のある場所として著名かも知れませんが、観光地とは言えません。

 京都北郊図
  「大京都市街地図」昭和14年(1939)

 これは、昭和初期の松ヶ崎付近の地図です。左が北になります。
 右下隅に下鴨神社があり、地図中を斜めに流れる川が高野川です。ちなみに、高野川とX字状に交差しているカーブした水路は疏水(そすい)になります。
 左端の縦方向のミドリが「妙法」のある丘(西山・東山)。丘の中央にある池が宝ヶ池(たからがいけ)。
 この丘を含む麓一帯が、松ヶ崎なのです。
 
 古い地名ですが、中世には氷室もあったらしく、風流な歌も詠まれています。

 夏の日もすずしかりけり松か崎
    これや氷室のわたりなるらん  藤原顕季 

 
 また、妙法があることから分かるように、この村は法華宗(日蓮宗)が普及した地域でした。いまも題目踊りが伝わっています。


 水路のある旧街道 

 この地区を東西に通る道が通称・松ヶ崎街道です。

 松ヶ崎街道
  松ヶ崎街道

 いまでは、この道の南側に、4車線の北山通が通っていますので、ひっそりとした生活道路になっています。
 その北山通は、私の学生時代に延伸されたものなので、およそ30年前に出来たことになります。
 私が初めて、この松ヶ崎街道を通ったのは(記憶の限りでは)小学校6年生の頃で、友人らと担任の先生の家をさがすべく “探検” に行ったときのことでした。
 現在でも、当時の雰囲気が保たれていますが、家屋はずいぶん建て替わったような気がします。

 それでも、木造の家や蔵が残り、道の片側には水路が流れていて、風情のある旧街道です。

 松ヶ崎街道の水路

 高野川に架かる松ヶ崎橋の西方から、宝ヶ池通まで、古い街道は約1.5km。ふらっと散歩するにはいい距離です。


 ヘアピンカーブだった狐坂

 新宮神社
  新宮神社

 集落にある寺社では、松ヶ崎大黒天や涌泉寺が有名ですが、産土神の新宮神社もあります。
 松ヶ崎街道の北側なのですが、この神社の前を左に上っていくと、砂利道になり、こんなところに出られます。

 狐坂のヘアピンカーブ

 ちょっとしたヘアピンカーブでしょう(笑)

 これが、狐坂(きつねざか)なんです。

 私も子供の頃からよく登りました ーー ただしクルマに乗ってですけれど。

 この坂上にはトンネルがあり、それを抜けると岩倉方面に通じます。つまり、狐坂は、京都市街の北山通と北郊の岩倉などとを結ぶ坂のひとつだったわけです。

 松ヶ崎付近図

 左下方に「宝池」とあるのが宝ヶ池。その下を通る道が狐坂で、地図では「狐子坂」と書いていますね。これで読みは「きつねざか」です。S字カーブのさまがよく分かります。

 狐坂
  狐坂

 こういうふうに急カーブしていて、かつてはちょっとした難所でした。クルマもまあまあ渋滞したりして、不便といえば不便だったかも。

 それが近年、バイパスの陸橋が出来たのです。

 狐坂の新旧
  左が旧道(狐坂)、右が陸橋

 陸橋は2006年完成ということで、もう10年余りになります。
 狐坂の方は、遊歩道になってクルマは通れなくなりました。のどかな散歩道といったところでしょう。

 坂上には、宝ヶ池があります。

 宝ヶ池
  宝ヶ池

 池の向こうに比叡山。左奥の白い建物は、京都国際会館です。
 貸しボートもありますよ。

 ほんと、のんびりしたところですね。

 観光でわざわざ来るほどではないけれど、グランドプリンスホテル(宝ヶ池)やアピカルイン(松ヶ崎)といった宿泊施設もあるので、ちょっと外れたところに泊まって郊外散歩、というにはいい気がするのですが、いかがでしょうか。




 狐坂

 所在  京都市左京区松ヶ崎狐坂
 見学  自由
 交通  地下鉄「松ヶ崎」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『京都市の地名』1979年、平凡社


鴨長明が隠棲した方丈の庵とは





方丈の庵


 復元された鴨長明の草庵

 下鴨神社を訪れる人が、最近増えているように思います。
 特に、海外の方が多いですね。

 下鴨神社
  下鴨神社

 ほとんどの参拝者は、南側(出町柳駅方面)から来られます。そのため、まず摂社の河合神社にお詣りされることが多いようです。
 河合神社は、下鴨神社の第一摂社で、玉依姫命が祭神となっています。そのため、近年では美人祈願のようなフレーズがそこここに見られますね。

 河合神社
  河合神社

 ここに、少し変わった建物が復元されています。

 方丈の庵

 柴垣をめぐらした苫屋。
 誰が住んだのかと思いますが、これが有名な「方丈記」の舞台。つまり、鴨長明が住んだ庵なのです。

 京の南郊・日野(法界寺のある辺り)の山に隠棲した長明。
 春は藤の花、夏はほととぎす、秋はひぐらし、冬は雪、といった自然に囲まれた山の暮らし。山守りの子供と山菜や木の実を拾って楽しむ日々。優雅とも言える隠遁生活です。

 長明の庵がなぜここに復元されているかというと、彼の父親が下鴨神社の禰宜(ねぎ。神官)だったからです。長明は、その次男で、うまくいけばここの神官になっていた人でした。宮中とのつながりもあって、幼くして従五位下を叙され、順風満帆の人生を歩むかと思いきや、早くに父を亡くし、横やりが入って神社への就職は立ち消えに。20歳台から不遇の人生を送ることになりました。

 長明の人生すごろくは、下鴨神社の社家の息子というエリートとして生まれ、和歌や音楽など教養も身に着けたが、ふとしたことから人生の道を転げ落ち、最後は郊外の草庵に隠れ住んで、60余年の生涯を閉じた、というわけなのです。そんな彼だからこそ、無常を感じて「方丈記」を残したのでしょうか。


 庵の内部

 方丈の庵

 「方丈記」には、彼が住む庵の様子についても、詳しく記されています。

 いま、日野山の奥に、跡をかくしてのち、東に三尺余りの庇[ひさし]をさして、柴折りくぶるよすがとす。
 南、竹の簀子[すのこ]を敷き、その西に閼伽棚[あかだな]をつくり、北によせて障子を隔てて阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかき、前に法華経をおけり。
 東のきはに蕨[わらび]のほどろを敷きて、夜の床とす。
 西南に竹の吊棚を構へて、黒き皮籠[かわご]三合をおけり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物を入れたり。かたはらに、琴・琵琶おのおの一張をたつ。いはゆる、をり琴・つぎ琵琶これなり。仮の庵のありやう、かくのごとし。 


 「仮の庵」なんて言っているのですが、結構しっかりした設えですよね。
 上の写真は南側を撮ったものです。右手(東)に庇が伸びているのが分かるでしょう。

 東側に回って撮った写真がこちらです。

 方丈の庵内部

 舞良戸のような引き戸が開いており、内部がうかがえます。
 中央に炉が切ってあるようですが、これは「方丈記」には書いてありません。
 その向こうに衝立てが置いてあって、衝立ての右に経机があり、円座が置いてあります。壁には「絵像」が掛けてありますね。
 机の手前が(見えていませんが)寝るスペースでしょう。

 衝立ての左側は隠れて見えませんが、吊り棚があって書物が収納されており、そばには琴や琵琶が置いてあったはずです。

 短い文章なのですが、結構きっちりと自分の部屋の間取りを書いているので、容易に復元できます。
 方丈というと、1丈四方の部屋という意味ですから、約3m四方。現代風に言うと、四畳半一間というか、1Kというか、そんなイメージでしょうか。

 いずれにせよ、間取りとか山での過ごし方とか、ワイルドライフ? を詳しく述べていて、それなりに自己顕示欲が感じられ、無常観のある、枯れたおじいさんという雰囲気でもなさそうです(勝手な感想です)。
 「方丈記」を書いたとき、長明は50歳台後半だったそうで、当時としては老人なのですが、なんか持ってそうですね、この人は。無常観という “隠れ蓑” の下で何かがうごめいている感じがする……(すみません、イメージです)。
 
 それにしても、冬に見る方丈の庵は寒々として寂しいです。
 ここに独りで住むのは、現代人にはやはり無理かも知れません。




 鴨長明の復元方丈の庵 (河合神社)

 所在  京都市左京区下鴨泉川町(下鴨神社境内)
 見学  自由
 交通  京阪電車「出町柳」下車、徒歩約5分

 【参考文献】
 西尾實校注『日本古典文学大系 方丈記 徒然草』岩波書店、1957年
 武田友宏編『方丈記(全)』角川ソフィア文庫、2007年



下鴨神社の糺の森から発掘された祭祀遺構





祭祀遺構復元


 下鴨神社と糺の森

 先日から何度か上賀茂神社(賀茂別雷神社)についてレポートしていますが、今回は下鴨神社です。

 下鴨神社の正式名称は、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)です。
 「御祖(みおや)」という名の通り、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命のお母さんの玉依姫命(たまよりひめのみこと)と、おじいさんの賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の2座を祀っています。

 下鴨神社
  下鴨神社 楼門

 昔、下鴨神社に隣接する予備校に通っていたので、このあたりはちょくちょく散歩しました。当時に比べると、境内もよく整備されてきたと思います。
 下鴨神社が鎮座する場所は、賀茂川と高野川の合流点の北側で、緑豊かな糺の森(ただすのもり)の中にあります。
 京阪電車の出町柳駅から参拝すると、糺の森の中の参道を歩いて行くことになります。

 糺の森
  糺の森

 参道を歩いていると、奈良の小川、瀬見の小川、泉川といった流れが目に入ります。
 下鴨神社は水にゆかりの深い神社ですね。本殿の東方には、御手洗祭で知られる井上社(御手洗社)もあります。

 井上社
  井上社(御手洗社)


 復元された石敷遺構

 そんな糺の森の参道脇に、このようなナゾの空間があります。

 祭祀遺構復元

 なんとなく石をばらまいたようなスペースです。
 参道の東側にあります。

 実は、ここ、古代から続いた祭祀遺構を復元したものなのです。
 糺の森の整備を進める中で、境内の何か所もの地点で発掘調査が行われました。
 そのうち、地面に石を敷き詰めた遺構が発掘されたのです。

 祭祀遺構復元

 写真の上が北です。
 上端に、かつては奈良の小川が流れていました。奥の方は見えづらいのですが、その川べりに、水に関する祭祀を行う場所(祭壇)が設けられていたのです。すでに平安時代後期にはあったようです。
 また、写真下方の石敷きは、そのそばを流れていた泉川に面した祭祀の場であったと考えられます。
 
 いずれも、川原石を敷き詰めて儀式の場所にしています。
 写真上方左あたりでは、穴を掘って石を詰めたような祭祀遺構も多数見つかっています。石を立てて置いた遺構も出ています。 

 報告書では、次のようにまとめています。

 古代より無社殿神と呼ばれる、社殿を持たない自然神をまつる水辺の祭場が、糺ノ森の中に点在している。今日でも、方形の清浄地の四隅に御幣を立てたり、灯明をあげるなどして四隅の神々を祀り、その中央に神降ろしのためのイワクラ(穴を掘り、その中に小石を詰め込む)をつくり、お供えをしてお祀りをしている。現在まで続くこれらの祭祀の様子を今回の遺構のあり方は、よく示していると考えられる。(「史跡賀茂御祖神社境内」) 

 泉川
  現在の泉川


 舩島の遺構

 石敷遺構の北には、舩島という祭祀の場がありました。
 こちらも調査され、整備が行われました。

 舩島

 少し丘のように高まった船の形をした小島です。

 舩島平面図
  舩島平面図(案内板より)

 丘の下に祭祀で用いられた井戸も復元されています。
 古記録によると、この井戸を用いて雨乞いの祭祀が行われていたことが分かると言います。

 神社と言えば社殿=建物があるイメージも強いのですが、それとは異なる祭祀の形が見られます。
 参道脇の目立たない場所ですが、足を運んでみる価値はありそうですね。




 下鴨神社(賀茂御祖神社)

 所在  京都市左京区下鴨泉川町
 拝観  自由
 交通  京阪電車「出町柳」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報「史跡賀茂御祖神社境内」同所、2004年
 『糺の森整備報告書』賀茂御祖神社、2010年