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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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鴨長明が隠棲した方丈の庵とは





方丈の庵


 復元された鴨長明の草庵

 下鴨神社を訪れる人が、最近増えているように思います。
 特に、海外の方が多いですね。

 下鴨神社
  下鴨神社

 ほとんどの参拝者は、南側(出町柳駅方面)から来られます。そのため、まず摂社の河合神社にお詣りされることが多いようです。
 河合神社は、下鴨神社の第一摂社で、玉依姫命が祭神となっています。そのため、近年では美人祈願のようなフレーズがそこここに見られますね。

 河合神社
  河合神社

 ここに、少し変わった建物が復元されています。

 方丈の庵

 柴垣をめぐらした苫屋。
 誰が住んだのかと思いますが、これが有名な「方丈記」の舞台。つまり、鴨長明が住んだ庵なのです。

 京の南郊・日野(法界寺のある辺り)の山に隠棲した長明。
 春は藤の花、夏はほととぎす、秋はひぐらし、冬は雪、といった自然に囲まれた山の暮らし。山守りの子供と山菜や木の実を拾って楽しむ日々。優雅とも言える隠遁生活です。

 長明の庵がなぜここに復元されているかというと、彼の父親が下鴨神社の禰宜(ねぎ。神官)だったからです。長明は、その次男で、うまくいけばここの神官になっていた人でした。宮中とのつながりもあって、幼くして従五位下を叙され、順風満帆の人生を歩むかと思いきや、早くに父を亡くし、横やりが入って神社への就職は立ち消えに。20歳台から不遇の人生を送ることになりました。

 長明の人生すごろくは、下鴨神社の社家の息子というエリートとして生まれ、和歌や音楽など教養も身に着けたが、ふとしたことから人生の道を転げ落ち、最後は郊外の草庵に隠れ住んで、60余年の生涯を閉じた、というわけなのです。そんな彼だからこそ、無常を感じて「方丈記」を残したのでしょうか。


 庵の内部

 方丈の庵

 「方丈記」には、彼が住む庵の様子についても、詳しく記されています。

 いま、日野山の奥に、跡をかくしてのち、東に三尺余りの庇[ひさし]をさして、柴折りくぶるよすがとす。
 南、竹の簀子[すのこ]を敷き、その西に閼伽棚[あかだな]をつくり、北によせて障子を隔てて阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかき、前に法華経をおけり。
 東のきはに蕨[わらび]のほどろを敷きて、夜の床とす。
 西南に竹の吊棚を構へて、黒き皮籠[かわご]三合をおけり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物を入れたり。かたはらに、琴・琵琶おのおの一張をたつ。いはゆる、をり琴・つぎ琵琶これなり。仮の庵のありやう、かくのごとし。 


 「仮の庵」なんて言っているのですが、結構しっかりした設えですよね。
 上の写真は南側を撮ったものです。右手(東)に庇が伸びているのが分かるでしょう。

 東側に回って撮った写真がこちらです。

 方丈の庵内部

 舞良戸のような引き戸が開いており、内部がうかがえます。
 中央に炉が切ってあるようですが、これは「方丈記」には書いてありません。
 その向こうに衝立てが置いてあって、衝立ての右に経机があり、円座が置いてあります。壁には「絵像」が掛けてありますね。
 机の手前が(見えていませんが)寝るスペースでしょう。

 衝立ての左側は隠れて見えませんが、吊り棚があって書物が収納されており、そばには琴や琵琶が置いてあったはずです。

 短い文章なのですが、結構きっちりと自分の部屋の間取りを書いているので、容易に復元できます。
 方丈というと、1丈四方の部屋という意味ですから、約3m四方。現代風に言うと、四畳半一間というか、1Kというか、そんなイメージでしょうか。

 いずれにせよ、間取りとか山での過ごし方とか、ワイルドライフ? を詳しく述べていて、それなりに自己顕示欲が感じられ、無常観のある、枯れたおじいさんという雰囲気でもなさそうです(勝手な感想です)。
 「方丈記」を書いたとき、長明は50歳台後半だったそうで、当時としては老人なのですが、なんか持ってそうですね、この人は。無常観という “隠れ蓑” の下で何かがうごめいている感じがする……(すみません、イメージです)。
 
 それにしても、冬に見る方丈の庵は寒々として寂しいです。
 ここに独りで住むのは、現代人にはやはり無理かも知れません。




 鴨長明の復元方丈の庵 (河合神社)

 所在  京都市左京区下鴨泉川町(下鴨神社境内)
 見学  自由
 交通  京阪電車「出町柳」下車、徒歩約5分

 【参考文献】
 西尾實校注『日本古典文学大系 方丈記 徒然草』岩波書店、1957年
 武田友宏編『方丈記(全)』角川ソフィア文庫、2007年



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下鴨神社の糺の森から発掘された祭祀遺構





祭祀遺構復元


 下鴨神社と糺の森

 先日から何度か上賀茂神社(賀茂別雷神社)についてレポートしていますが、今回は下鴨神社です。

 下鴨神社の正式名称は、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)です。
 「御祖(みおや)」という名の通り、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命のお母さんの玉依姫命(たまよりひめのみこと)と、おじいさんの賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の2座を祀っています。

 下鴨神社
  下鴨神社 楼門

 昔、下鴨神社に隣接する予備校に通っていたので、このあたりはちょくちょく散歩しました。当時に比べると、境内もよく整備されてきたと思います。
 下鴨神社が鎮座する場所は、賀茂川と高野川の合流点の北側で、緑豊かな糺の森(ただすのもり)の中にあります。
 京阪電車の出町柳駅から参拝すると、糺の森の中の参道を歩いて行くことになります。

 糺の森
  糺の森

 参道を歩いていると、奈良の小川、瀬見の小川、泉川といった流れが目に入ります。
 下鴨神社は水にゆかりの深い神社ですね。本殿の東方には、御手洗祭で知られる井上社(御手洗社)もあります。

 井上社
  井上社(御手洗社)


 復元された石敷遺構

 そんな糺の森の参道脇に、このようなナゾの空間があります。

 祭祀遺構復元

 なんとなく石をばらまいたようなスペースです。
 参道の東側にあります。

 実は、ここ、古代から続いた祭祀遺構を復元したものなのです。
 糺の森の整備を進める中で、境内の何か所もの地点で発掘調査が行われました。
 そのうち、地面に石を敷き詰めた遺構が発掘されたのです。

 祭祀遺構復元

 写真の上が北です。
 上端に、かつては奈良の小川が流れていました。奥の方は見えづらいのですが、その川べりに、水に関する祭祀を行う場所(祭壇)が設けられていたのです。すでに平安時代後期にはあったようです。
 また、写真下方の石敷きは、そのそばを流れていた泉川に面した祭祀の場であったと考えられます。
 
 いずれも、川原石を敷き詰めて儀式の場所にしています。
 写真上方左あたりでは、穴を掘って石を詰めたような祭祀遺構も多数見つかっています。石を立てて置いた遺構も出ています。 

 報告書では、次のようにまとめています。

 古代より無社殿神と呼ばれる、社殿を持たない自然神をまつる水辺の祭場が、糺ノ森の中に点在している。今日でも、方形の清浄地の四隅に御幣を立てたり、灯明をあげるなどして四隅の神々を祀り、その中央に神降ろしのためのイワクラ(穴を掘り、その中に小石を詰め込む)をつくり、お供えをしてお祀りをしている。現在まで続くこれらの祭祀の様子を今回の遺構のあり方は、よく示していると考えられる。(「史跡賀茂御祖神社境内」) 

 泉川
  現在の泉川


 舩島の遺構

 石敷遺構の北には、舩島という祭祀の場がありました。
 こちらも調査され、整備が行われました。

 舩島

 少し丘のように高まった船の形をした小島です。

 舩島平面図
  舩島平面図(案内板より)

 丘の下に祭祀で用いられた井戸も復元されています。
 古記録によると、この井戸を用いて雨乞いの祭祀が行われていたことが分かると言います。

 神社と言えば社殿=建物があるイメージも強いのですが、それとは異なる祭祀の形が見られます。
 参道脇の目立たない場所ですが、足を運んでみる価値はありそうですね。




 下鴨神社(賀茂御祖神社)

 所在  京都市左京区下鴨泉川町
 拝観  自由
 交通  京阪電車「出町柳」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報「史跡賀茂御祖神社境内」同所、2004年
 『糺の森整備報告書』賀茂御祖神社、2010年


上賀茂神社の特別参拝で気付いた、ちょっとしたこと ー 神話について ー





ならの小川と石橋


 特別参拝でのご由緒の説明

 先日、上賀茂神社(賀茂別雷神社)に参拝した話の続きです。

 その日は、団体で特別参拝させていただきました。
 これは、ふだん参拝する中門よりさらに内側へ入らせていただき、本殿・権殿に近いところで参拝させていただけるものです。
 もっとも、本殿の前にある祝詞屋の手前から拝むので、本殿と権殿は下半分が垣間見えるくらいでした。

 参拝前、神社の方から15分くらいでしょうか、上賀茂神社についてのご説明があります。
 正式名称のことから、ご由緒、ご社殿などについての丁寧なお話です。

 そのなかで、おやっ、と思ったことがありました。
 それは、ご祭神に関する話でした。

 上賀茂神社の祭神は、賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)です。神社の正式名にもなっていますね。
 この神さまのお母さんが、玉依日売命(たまよりひめのみこと)です(漢字はいろんな字の当て方があります)。

 ある日、玉依日売命が川で遊んでいると、丹塗り矢(にぬりや)が川上から流れて来た。
 それを持ち帰って、床に挿し置いておいたら、男の子を授かった。

 という誕生神話があります。


 山城国風土記の賀茂伝説

 簡単に言うと、寝所に流れて来た矢を置いといたら、男の子が生まれた、という話なのです。
 あるいは、端的に言うと、矢は男性の象徴で、そのおかげで子供が出来た、ということですね。

 この神話は、「山城国風土記」逸文に記されているものです。あとで、少し詳しくみます。

 参拝の説明で、おやっと思った点は、この部分。
 神官の方は、丹塗り矢は天から降って来たと説明され、さらにお父さんは天津神(あまつかみ)だとおっしゃっいました。

 部屋の長押の上には、川を流れて来る矢を受ける玉依日売命の絵も掲げられています。どういうことかなと思いました。
 参拝の際に頂戴したパンフレットをよく見てみました。ここにも、同じ絵が掲載されているのですが、説明文には「上流より天降りし丹塗矢が流れて来た」と書いてあります。
 なるほど。流れて来た矢は、天から降って来たのか、と。

 さらに、後段には、別雷神が「我が父は天津神なり」と言った、と記されています。

 ならの小川

 「山城国風土記」逸文は、次のようになっています。

 玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃ち(すなわち)取りて、床の辺に挿し置き、遂に孕みて男子を生みき。

 簡潔に、こう記されています。

 一方、自分の父の名を問われた別雷神が、それを答える場面は、こうです。

 人と成る時に至りて、外祖父、建角身命、(中略)子と語らひて言(の)りたまひしく、「汝の父と思はん人に此(こ)の酒を飲ましめよ」とのりたまへば、即て(やがて)酒杯を挙げて、天に向きて祭らむと為(おも)ひ、屋の甍を分け穿ちて天に升(のぼ)りき。
 乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命と号く(なづく)。謂はゆる丹塗矢は、乙訓(おとくに)の郡の社に坐(いま)せる火雷神(ほのいかつちのかみ)なり。


 男児(のちの別雷神)が成人して、母方の祖父・賀茂建角身命(かものたけつのみのみこと)ら大勢と祝いの酒を飲んでいた。
 そのとき、祖父が「あなたのお父さんと思う人に酒を飲ませてみなさい」と言うと、男児は屋根を突き破って、天に上った。
 外祖父の名にちなんで「賀茂別雷命」と名付けたのだが、例の丹塗り矢は乙訓郡の神社にいる火雷神のことである。

 というような伝説です。
 「山城国風土記」逸文には、丹塗り矢=お父さんは、乙訓郡の火雷神だとしています(異説に大山咋命とするものがある)。

 古事記などの神話では、天上の高天原(たかまがはら)にいる神さまが天津神です。
 別雷神が天の上ったということで、父上が天津神という考え方なのかと思います。

 このあたり、岡田精司氏が分かりやすく説明しておられます。

 新しくつくった御殿の天井をうちやぶって、盃をもって父神のいる天にのぼっていったというのです。これはふつうの人間わざではない、神のすることであって、しかも雷神の子であるが故です。なぜなら、天にのぼったということで雷の子であることが分かるのです。
 この頃は一般に、天なる神は雷神であると考えられていたようです。いわゆる高天原というのを想定していた宮廷神話の世界と、民衆の神話は大きなちがいがありました。(『京の社』46ページ) 

 
 ここで言われている宮廷神話というのは、もちろん古事記などのこと、民衆の神話とは風土記のようなものを指しています。

 神話の世界ですから、いろいろ解釈できます。
 私が興味深かったのは、伝説というのはこういうふうに出来ていくのか、というのが感じられたこと。
 ちょっと愉しかったです。


  藤木神社 藤木神社




 上賀茂神社(賀茂別雷神社)

 所在  京都市北区上賀茂本山
 拝観  境内自由 特別参拝は500円
 交通  市バス「上賀茂神社前」下車、すぐ



 【参考文献】
 『日本古典文学大系 風土記』岩波書店、1958年
 『日本古典文学全集 風土記』小学館、1997年
 岡田精司ほか『京の社』人文書院、1985年
 志賀剛『式内社の研究』3、雄山閣、1977年
 谷川健一編『日本の神々』5、白水社、1986年
 柳田国男「玉依姫考」(『定本柳田国男全集』9 「妹の力」所収)


上賀茂神社は、ならの小川の東エリアが渋いかも





奈良神社


 上賀茂神社と下鴨神社 

 このところ、2度ばかり上賀茂神社と下鴨神社に行ったのですね。
 誰もが思うのは、下鴨神社はすごくにぎわっている、ということでしょう。
 
 私は、上賀茂神社を子供時代の通学路とし、そこで遊びもしてきたので、どうしても上賀茂神社に肩入れしてしまうんです(笑)

 確かに、上賀茂神社も、このたび機会があって特別参拝させていただいたのですが、順番待ちするくらい大勢の参拝者が来ておられました。結婚式も、いつもやってる。
 でも、ちょっとすいてるかなぁ……
 やっぱり、交通手段がバスになるというのが、人が少なめの理由? と思ったりもします。


 東エリアが渋くていいかな? 

 上賀茂神社(賀茂別雷神社)は、一の鳥居を入ると両側に広い芝生が拡がっています。
 右手の芝生の東には、ならの小川が流れています。
 石橋があって、渡って行けます。

 ならの小川

 この東エリア(仮称)が、行く人は少ないけれど、なんとなく見どころがあるのでは、と思うのです。
 地図で言うと、赤枠で囲ったところですね(屋外の看板撮影で見づらくて恐縮です)。

 境内図


 なが~い社殿も

 石橋を渡り、鳥居をくぐってすぐにあるのが、摂社・奈良神社。

 奈良神社
  奈良神社

 檜皮葺(ひわだぶき)の美しい流造(ながれづくり)の本殿です。

 奈良神社は、本社の神饌を司る神さまを祭神としていると言います。神饌(しんせん)とは、神さまに供える食べ物のことです。
 そのため、この横にある建物は……

 北神饌所

 北神饌所(庁屋)。重要文化財に指定されています。
 古くは、神饌を調進していた建物です。東西に長く、桁行は13間もあります!
 これだけ長い建物は、あまり見られないでしょう。貴重です。
 今では柵があり近づけないけど、昔はなかったですね。

 このように奈良神社と北神饌所が並んでいます。
 奈良神社の拝殿は、北神饌所にくっつく形になっています。

 北神饌所

 北神饌所は梁間2間なのですが、その北1間分に拝殿が張り付いている感じですね。
 これもおもしろい形で珍しいと思います。

 かつては、他に御水井舎や酒殿などもあったそうで、このあたりは、当社の神饌調進エリアだったわけです。


 校倉もある 

 その南には、こんな建物もあります。

 校倉

 校倉(あぜくら)です。
 正倉院で有名な校倉造になっている蔵です。

 京都で校倉を見られるところも少ないですが、これは江戸時代の校倉です。

 また、北神饌所の北側には、摂社の賀茂山口神社があります。
 南に拝殿があり、北に本殿があります。

 賀茂山口神社拝殿
  賀茂山口神社 拝殿

 賀茂山口神社
  同 本殿

 舞殿ふうの拝殿に流造の本殿という賀茂社らしいスタイルですね。

 この付近には、いにしえには神宮寺もあり、神仏習合時代の様子がうかがえたようです。

 上賀茂神社の社殿は、中心のエリアでも、本殿と権殿を除けば、おおむね寛永5年(1628)造営時のものが残されています。この時期、中世に荒廃していた当社が幕府の援助によって再興されたわけで、江戸時代前期の文化財が拝見できる神社です。
 



 上賀茂神社(賀茂別雷神社)

 所在  京都市北区上賀茂本山
 拝観  境内自由
 交通  市バス「上賀茂神社前」下車、すぐ



 【参考文献】
 『上賀茂のもり・やしろ・まつり』思文閣出版、2006年
 『京都古社寺辞典』吉川弘文館、2010年 
 

由緒ある古社、懐かしい上賀茂神社を訪ねて





上賀茂神社楼門



 ゆっくり2時間滞在

 この写真、何の写真か分かりますか?

 ならの小川

 紅葉が美しい頃に撮影しました(2016年11月末日)。
 これは、私が子供の頃の通学路の写真です(笑)

 小学校の6年間、この石橋を渡って、毎日通学していたのです。
 今でこそ、きれいな紅葉だなぁ、と思いますが、当時はどう思っていたことやら。

 ここは、上賀茂神社。
 下鴨神社と並ぶ古社で、正式には賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)と言います。

 平安遷都より遥かに古い、大変なご由緒があるわけですが、私たち小学生にとっては、この広大な神社の境内はパラダイスで、特に帰り道は格好の遊び場となりました。

 今回、用事があったので、久しぶりにじっくり境内を歩いてきました。 
 懐かしさに身をゆだねていると、2時間ばかりが過ぎていました。


 芝生、公園、奈良の小川… 

 上の写真に流れている川は、ならの小川と言います。奈良や楢の字を当てています。
 御手洗川(みたらしがわ)とも呼ばれていますね。

  風そよぐならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける

 百人一首にも収められた藤原家隆の歌が詠まれた場所です。
 みそぎ(禊ぎ)は、夏越の祓(なごしのはらえ)を指しているので、6月末日のこと。今でも茅の輪くぐりを行います。
 翌日からは7月で、旧暦なので秋の始まりです。
 秋風が吹いてきたけれど、みそぎだけが夏の名残りを示している、という歌です。

 子供心に、この歌は聞き覚えていました。もちろん、意味は知りませんでしたが。

 ならの小川
  ならの小川(御手洗川)

 この川沿い(写真の右外)を歩いて、行き帰りするのです。

 ならの小川の西には、広々とした芝生が拡がっていました。

 芝生

 ここも、楽しい場所でした。
 ただし、神社としては運動禁止の場所で、ボール遊びや走り回るのはダメ。
 そういう行為に及ぶと、

 「しばぁふのうえでぇ~……」

 と、マイクのアナウンスが鳴り渡って、制止されてしまいます。懐かしい思い出ですね。

 本当は、5月5日の競馬(くらべうま)の神事の際、馬場になるところです。
 一の鳥居の西側がスタート地点で、北へ2頭を合せて駈けていきます。馬場の北端は、俗に「ウマセンバ」と呼ばれていました。競馬のダートコースのような感じ。おそらくは、馬戦場の意味だったのでしょう。

 そのさらに西は、バスの操車場と児童公園がありました。

 バス操車場
  市バス操車場

 昔より狭くなりました。
 かつては、上賀茂神社前発の市バスがたくさんあったのです。現在では、系統数は減っているようです。
 余談ですが、ここは操車場であって、正式な車庫ではありません。
 記憶では、昭和40年代後半までは、車庫は上堀川にあり、それがのち西賀茂に移ったのです。私の小学校時代でした。

 公園跡

 こちらは、公園の跡。
 いまでは駐車場になってしまった……

 ここは、日常的にも遊びましたが、葵祭などのときに、露店が出るスペースだったのです。広いからたくさんの店があって、仲間でいろいろ見て回るんですね。安い串カツを食べたりとか、当てもんをしたりとか。
 昔は、北の方にも広い森があって、よく遊んだけど、そこもいつの間にか伐採されてしまいました。やむを得ないかも知れないけれど、さびしいです。


 社務所の思い出

 公園の北の方には、社務所があります。

 社務所
  社務所

 建物自体は、子供のときと変わっていない気がします。でも、正面の入り口に加えて、左側からも入れるようになりましたね。

 その左側の部分に、昔、水道の蛇口があったのです。
 蛇口には、ひもで鉄のカップ--といっても、ずいぶんベコベコになったものーーが掛けてあり、私たち小学生は学校帰りにそこで水を飲ませてもらっていたのでした。もちろん、誰に断るでもなく、勝手に飲んでいたのです。

 どうなっているかなと見に行ってみると、もう蛇口もカップもなかったけど、ホースをつなぐ水道栓は残されていました。
 なんとなく、ホッとしました。

 今回よく分かったのは、人の記憶というのは頭の中にあるのだけれど、多くは場所に結びついており、その場所が大きな意味を持っているということです。
 たとえ40年経って少しばかり変化していても、大枠さえ残っていればいろいろなことを思い出す手掛かりになります。
 そういう場所が、自分のふるさとにあるということは、幸せなことだと思わざるを得ません。

 バス停等

 ここはバス停(右)と、やきもち屋さん、すぐき屋さんなどの店舗(左)です。
 このバス停で、どれだけバスを待ったことか。
 特に、母とここでバスを待ち、一緒に母の実家へ行っていたことなど、思い出は尽きません。いまでも、京産大生などが利用しているようですね。

 今日は、郷愁にかられて繰り言を綴ってみました。
 次回は、少し社殿などを見ていきたいと思います。


  ならの小川と石橋


 (この項、つづく)




 賀茂別雷神社(上賀茂神社)

 所在  京都市北区上賀茂本山
 拝観  境内自由
 交通  市バス「上賀茂神社前」下車、すぐ



 【参考文献】
 岡田精司ほか『京の社』人文書院、1985年