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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

【新聞から】“京都丹波高原”が国定公園指定へ





美山


 観光ルート、利用調整 準備急ピッチ
 京都丹波高原国定公園
 京都 2016年3月3日付


 「京都丹波高原国定公園」が新たに指定されることが、2016年2月23日、答申されました。
 それをうけて、京都新聞では、指定後に向けての課題整理が行われています。

 今回、国定公園になる地域は、南北に長い京都府の真ん中あたり。
 日本海にそそぐ由良川水系と太平洋側に向かう桂川水系の分水嶺にあたる地域です。緑豊かな山間部で、芦生の原生林や八丁平湿原など特徴的な自然が残されています。
 山村で暮らす人々の生活、文化も維持され、美山の茅葺き民家群や、久多の花笠踊りなどが伝えられてきました。

 公園の範囲は、南丹市美山町を中心とし、綾部市や京丹波町の一部、および現在では京都市内になりますが、右京区京北(旧京北町)や左京区の久多、花背、広河原などの約6万9000ヘクタールです。

 いつもの話で恐縮ですが、私の父祖の出身はこの付近の旧船井郡日吉町(現・南丹市)です。残念ながら、その場所は今回の指定範囲には入っていないのですが、ずっと以前から近くにゴルフ場なども開発されていましたので、致し方ないですね。
 いずれにせよ、この分水嶺の地域にゆかりと関心のある私としては、今回の国定公園指定は慶賀すべきことだと思われます。

 もちろん、京都新聞に書かれているように、不安な点もいろいろとあります。
 例えば、私も先月訪れた際に経験したのですが、アクセスがよくないのです。
 美山の茅葺きの里方面に向かうには、JR山陰線の最寄り駅(園部や日吉)から1時間ほどバスに揺られる必要があります。私は日吉駅から行ったのですが、バスの本数が少ない上に、途中で乗換え! するというアクセスです。個人的には、たまに行くのだから不便だとは思わないのですが、観光振興の面からみれば課題になるのかも知れません。

 また、熊野古道が世界遺産になった後にも問題になった観光過多によるオーバーユースの問題。記事にも指摘されているように、自然環境の保護と利用のバランスをどう取るのか、とても難しい問題です。
 その絡みで、どのように観光客に楽しんでもらうかも課題。
 森の京都美山推進会議では、(1)回遊システムづくり、(2)宿泊商品づくり、(3)道の駅づくり、(4)ビジターセンターの各部会で、観光メニューを検討しているそうです。

 先日訪問した折に思ったことがあるのです。
 JR園部駅を列車が出て、次の小さな駅に停車しました。誰ひとり降りない「船岡」という無人駅。車窓から景色を見ると、実にナチュラルな自然の景観が広がっていました。それを見た私は、“茅葺き民家を見に行くより、ここで降りて歩いた方がおもしろそう” と直感的に思ったのです。
 調べてみると、この駅は1日の乗降客数も50人位らしい。ほとんど地元の人しか利用していない、というか地元の人も余り利用していない。こういう駅を基点に、地形図を片手に歩いてみると、実に愉しい旅が出来そうです。
 以前、和知(わち。もう少し北の方)で、地図を見ながらぶらりと歩いたことがありましたが、とてもおもしろかったですよね。確か、鹿が出てきたような記憶も……
 
 観光開発はもちろん大事だけれど、訪れる私たちは、もっと自由に、自分なりの旅を創り出せればいいですね。
 

  美山の銀杏


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茅葺きの里・美山を歩く





美山


 民家の「発見」

 京都は、古くから都として栄えてきた土地柄なので、あまり「鄙(ひな)びた」イメージはないでしょう。
 けれども、実際には周辺の農山村とのつながりによって、蔬菜や薪炭、材木などを得てきました。
 郊外の村々、例えば北白川であれ大原であれ高尾であれ、昔は徒歩でも日帰り圏内でした。
 学生の頃、滋賀県の仰木(おうぎ)という集落、これは京都からみると山の向こう側、比叡山の北東にある集落ですが、そこで聴いた話。仰木は、私たちのイメージでは京都とは別世界という感じで、遠く離れているのですが、地元の方によると、昔は歩いて日帰りで京都にものを売りに行っていたというのです。少々意外でしたが、峠道を大原の方へ越えて行けば、案外京都にも近いのでした。
 そんなことで、都鄙(とひ)という言葉がありますけれども、都と鄙(ひな=田舎)は密接に結び付いていたのです。

 大正時代になると、民俗学的な関心により、「民家」というものが発見されます。
 まぁ、地元の人は「昔から住んでたよ」という話ですが、都会の人々にとっては、その頃、田舎にある鄙びた家々が新たに関心の中に浮かび上がってきたわけです。
 全国区では、民俗学者・柳田国男や今和次郎(こん・わじろう)らの活動(白茅会)が著名ですが、京都でも藤田元春(第三高等学校教授)や岩井武俊(大阪毎日新聞記者)らが郊外の民家について記録・研究を行いました。藤田元春は美山の出身なのだそうですが、『日本民家史』という体系的な研究書があります。また、岩井武俊は『京郊民家譜』(正続)という写真記録を刊行しました。


 雪のない冬の茅葺きの里

 2月の寒い日、JR山陰本線・日吉駅からバスに乗り、途中で乗換えまでして、美山を訪れました。
 ここは、京都府南丹(なんたん)市ですが、かつては丹波国北桑田郡でした。現在でも「市」というイメージはまったくなく、いわゆる中山間地域に当ります。
 最も茅葺き民家が集中しており、重要伝統的建造物群保存地区となっているのが「北」という集落です。
 茅葺き屋根の家々が38棟も残っていて、壮観ですね。

 美山
  美山「茅葺きの里」北集落

 美山

 集落は、南に由良川(美山川)が流れ、北に山を背負った地形。集落内は緩やかな傾斜地になっています。
 川側に田んぼが拡がり、山側に住居が点在しています。

 美山
  知井八幡神社から西を望む

 今年(2016年)は暖冬で、当地でも余り雪は降らず、私が訪れた日も4日前に降った雪が融けてきたところでした。

 美山


 北山型の民家

 ここに来ると、おのずと絵画的な写真が撮れてしまいます。

 美山

 とても牧歌的です。

 ところで、ひと口に茅葺き民家と言っても、いろいろなタイプがあります。
 まず、屋根の形を見てみましょう。
 
 白川郷や五箇山で有名な「合掌造」は、切妻(きりづま)造。
 ここ美山の民家は、入母屋(いりもや)造です。

 美山
  入母屋造の屋根

 雪が積もる地域らしく、屋根の傾斜は急です。
 棟の上には、千木(ちぎ。斜めのX型の材)と雪割り(水平の材)を載せています。下の写真でよく分かりますね。

美山

 美山の民家は、もともとは妻入りでした。この写真で言うと、左の面に入口がある形です。

 また、家の中の間取りは、4間(4部屋)なのですが、右側に2間、左側に2間が並んでいます。
 ふつう4間でしたら「田」の字形に配置しそうなものですが、ここの場合、右の列と左の列が少し食い違っているところに特徴があります。

 こういう特徴をひとことで言えば、「入母屋造・妻入りで、食い違いの四間取り」ということになります。
 このタイプを「北山型」と呼んでいます。

 例えば、重文指定されている石田家住宅(美山町樫原)では、家に入ると、まず「にわ」(土間)があり、その先に囲炉裏のある「だいどこ」があって、奥に「へや」があります。へやは寝室ですね。
 右側の列には、まず「まや」(馬屋)があり、だいどこの横に「しもんで」、そして仏壇・床の間がある座敷「おもて」があります。両室の外は「えんげ」(縁側)です。

 この構成は、北集落にある民家・美山民俗資料館で実際に見られます。
 民俗資料館は、焼失した茅葺き民家を再建したものですが、この特徴がよく表れています。

 その他、土間を高く上げる「上げにわ」や、壁を板壁にするなどの特徴があります。
 北山型の民家は、丹波の東北部から若狭(福井県)に拡がっている形式だそうです。これらの地域は山間で、杣(そま)の人々が暮らす住まいでした。


 茅葺き屋根

 集落を歩いていると、こんなものに出会います。

 美山
  カヤタテ

 将来、屋根に葺くためのカヤを干しているところ。カヤタテというそうです。
 川の向こうには、カヤバといって、まとめて立てているところもあります。

 美山
  カヤバ

 茅葺き屋根は、25年から30年で葺き替えるそうです。
 手で触れてみると、案外弾力性もあります。

 美山
  茅葺き

 維持管理も大変そうですが、各戸がよく守られています。
 集落を歩いていると、こんなものが目につきます。

 美山

 消火に用いる放水銃。
 入母屋造の形をしているのが、かわいらしいです。

 防火も含め、集落の景観維持に尽力されている様子がうかがわれます。


  美山




 茅葺きの里・美山 北集落 (重要伝統的建造物群保存地区)

 所在  京都府南丹市美山町北
 見学  自由(美山民俗資料館は有料)
 交通  JR山陰本線「日吉」「園部」下車、バス



 【参考文献】
 『京都府の民家 調査報告 第7冊』京都府教育委員会、1975年
 『日本民家語彙集解』日外アソシエーツ、1985年


【新聞から】京都にも鍾乳洞があった!? -質志鍾乳洞-





質志鍾乳洞


  「スリル満点、洞窟探検
  京丹波・質志鐘乳洞公園で春祭り」
  京都 2013年5月5日付


 洞窟や鍾乳洞といえば、山深いところにあるものですね。
 余り深山のイメージがない京都にも、鍾乳洞があることをご存知でしょうか?

 丹波地方の京丹波町(旧瑞穂町)にある質志(しずし)鐘乳洞。

 京都府内で唯一の鍾乳洞です。
 京都市内からは、国道9号線を北上し、京丹波町の和田の交差点を右折。しばらく行ったところにあります。そんなに山深くもありません。

 クルマで走っていると、路傍に突如看板が現れます。

質志鍾乳洞

 「歓迎 質志鐘乳洞公園」の文字。ほぼクルマでしか行けない場所なので、駐車場もあります。

 クルマを停めて歩いて行くと、のどかな風景。キャンプ場みたいな雰囲気です(実際に野外活動もできます)。

質志鍾乳洞

 その公園の中に、こんな小屋?ふうの入口が……

  質志鍾乳洞

 これが京都府唯一の鍾乳洞・質志鐘乳洞の入口です!

 ちょっと人工的すぎかな?

 しかし、中はとてもワイルドです。

  質志鍾乳洞 質志鍾乳洞


 金属製のハシゴを後ろ向きに降りて行きます。落下防止の囲いが付いているのが怖いです。
 「出口はありません」という注意書きも、なんとなく恐さを増幅します。

  質志鍾乳洞

 鍾乳洞というイメージよりは狭いですが、露出した鍾乳石が観察できます。

  質志鍾乳洞

 この質志鐘乳洞、昭和2年(1927)に発見されたといいます。
 古老の話によると、発見当時、この鍾乳洞がどこまで続いているのかを探るため、犬と鶏を放したそうです。すると、犬は途中で戻ってきましたが、鶏は3km先の大原神社の下の洞穴に出て、大きな声で鳴いたそうです。
 「出口はありません」という看板とは裏腹に、当時は出口があったのでしょうか。

 その後、名を知られるようになり、昭和7年(1932)に出版された鉄道省『日本案内記 近畿篇上』(博文館)にも紹介されています。

 【質志鍾乳洞】
[綾部]駅の東南12粁[km]、三宮村質志にあり、自動車の便がある、洞は四洞に分れ延長120米[m]、鍾乳石及石筍多く、黄金柱と称さるは最大周2米、高さ5米に及んで居る。


 いつもながら、簡にして要を得た説明です。

 5月5日付の京都新聞は、次のように報じています。

 質志鍾乳洞は1927(昭和2)年に発見され、長さは約55メートルある。温度は年中8~12度に保たれており、来園者は少し肌寒さを感じながら、時折コウモリが飛ぶ洞内を奥へと進んでいった。
 鍾乳洞の深さは約25メートル。難所の一つである垂直の階段では、水滴で足元が滑りやすく、手すりにつかまって恐る恐る上り下りする人もいた。


 というように、下りのハシゴはスリル満点? です。

 京丹波町は、以前にも下粟野の観音堂(重要文化財)を紹介しました。 ⇒ <和知の「大御堂」 -下粟野観音堂>

 自然と、それに寄り添って生きる人々の文化が豊かな地域です。
 質志鍾乳洞も、暑い夏に訪ねると、ひんやりすること請け合いです。




 
 質志鍾乳洞(京丹波町指定天然記念物)

 所在 京都府船井郡京丹波町質志大崩
 見学 大人510円ほか(4月~11月は毎日、12月と3月は土日祝のみ、1月と2月は閉園
 交通 国道9号線・和田交差点から国道173号線へ、約10km


「活断層」の提唱につながった奥丹後地震の郷村断層





郷村断層


 昭和2年の大震災

 昭和2年(1927)3月7日、午後6時27分、京都府北部を震度6の激烈な揺れが襲いました。奥丹後(北丹後)大地震です。
 震源は京都府竹野郡(現在の京丹後市網野町)の郷村で、マグニチュード7.4の地震でした。

 この年は、3月といっても寒さが厳しく1mもの残雪があり、家庭では暖を取っていた上に、夕食の時間帯であったことも重なって、揺れのあと各所で火災が起こりました。倒壊した木造家屋は次々と燃え上がり、峰山町や網野町を中心に、2,925名もの人たちが亡くなり、負傷者7,806名、全壊家屋は12,584棟、焼失家屋は8,287棟など、甚大な被害が出ました。特に峰山町では、実に家屋の9割以上が全壊・全焼し、住民の1/4が亡くなるという惨事となりました。


 保存された3つの断層

 京都市内で生まれ育った私も、小学生の頃から、この地震について知っていました。それは、「郷村断層」という言葉とともに知っていたのです。

郷村断層
  郷村断層のうち小池断層

 郷村(ごうむら)断層。
 郷村は、断層ができた場所の地名です。
 奥丹後地震には2つの断層があって、郷村断層と山田断層がそれにあたります。そのうち、将来の研究材料とするため保存された場所が3か所あります。郷村断層のうちの小池断層、樋口断層、生野内断層です。
 上の写真は、小池断層です。国の天然記念物に指定されているので、このような石標が立っています。

 下は、小池断層の案内板に掲出されている当時の写真です。

郷村断層

 人が立っているところは道路なのですが、手前と大きくずれていることがわかります。左右方向に約3m、垂直方向には約80cmのずれが生じたそうです。完全に道路が食い違っているところに、地震の力の大きさが実感できます。このずれた道を保存して、下の写真のように「起点」と「転位」の2本の石標を立て、水平のずれ幅を示しています。

郷村断層
  約3mの幅で動いた

 他の断層は、風化を防ぐために覆い屋をかけて保存されています。

郷村断層

 樋口断層です。ガラス張りをのぞくと、

郷村断層

 このように断層が残されています。樋口断層は、上下方向では60cm動いたそうです。


 「活断層」は、ここから生まれた

 郷村断層は、日本海に面した網野町浅茂川から、郷村、峰山を経て、大宮町の口大野に至る18kmの断層です。活断層は、1000年間の平均変位量で、AAからCまでの等級付けがなされています。郷村断層は、そのうちのC級なのだそうです。

 しかし地震研究史の上では、郷村断層は大きな意義を持っています。それは、現在さかんに使われる「活断層」という概念が、この断層をきっかけに定義されたからです。
 東京帝国大学の多田文男は、奥丹後地震後、雑誌「地理学評論」(1927)に、「活断層の二種類」という論文を寄せ、冒頭で次のように述べています。


 極めて近き時代迄地殻運動を繰返した断層であり、今後も尚活動す可き可能性の大なる断層を活断層と云ふ。


 これが現在でも通用している活断層の定義です。ちなみに、「極めて近き時代」というのは、あくまで地質学的な時間感覚で、数十万年から数百万年という単位だそうです。

 昭和4年(1929)12月、郷村断層は国の天然記念物に指定されました。時を同じくして、峰山の小高い丘の上には丹後震災記念館(京都府有形文化財)が建設されました。また、記念館の脇をはじめ、各所に記念碑が建立されています。
 この頃は、関東大震災(1923)や、兵庫県の豊岡、城崎などに大被害を与えた北但馬地震(1925)など、大地震が頻発していました。人びとは、それを忘れないために、さまざまな形見を残したのです。関東大震災でも、昭和5年(1930)に震災記念堂(墨田区)が建てられています。

 昭和7年(1942)刊の旅行案内書『日本案内記 近畿篇 上』は、郷村断層を詳細に紹介し、その意義を次のように述べています。


 従来地震に際し断層を生じたことはその例が稀ではない。しかし明かに花崗岩を切断して滑面を生じ、且地層運動のため生じた条線を印したことは未だないから、天然記念物として指定されたのである。
 (一)と(三)[樋口断層と生野内断層]は保存のため、家屋を設けてこれを覆ひ、(二)[小池断層]は石柱を建てゝ滑面、条線、転位を明かにしてある。


 峰山の震災記念館は、学生時代に一度訪ねたのですが、当時はひっそりと静まり返っていました。いま、改めて訪ねてみたい気がしています。




 郷村断層(天然記念物)

 *所在 京都府京丹後市網野町郷、高橋、生野内
 *見学 自由
 *交通 北近畿タンゴ鉄道網野駅下車、丹後海陸交通バス間人線で高橋下車、徒歩



 【参考文献】
 『日本案内記 近畿篇 上』博文館、1942年
 「地理学評論」第3巻下、1927年
 『網野町誌』上、網野町役場、1992年 



瀟洒な禅宗様の仏殿 - 普済寺 -






普済寺


 丹波国船井郡の古寺

 丹波国の南の方、「南丹」と呼ばれる地域は、かつては亀山藩と園部藩が主に支配していました。亀山は現在の亀岡のこと。園部は、いまは南丹市になっています。
 今回訪れたのは船井郡に属する地域で、この郡の多くは園部藩領でしたが、普済寺のある若森村は亀山藩領でした。普済寺が曹洞宗になったのは、寛永11年(1634)、近江の膳所から転封された菅沼定芳により改宗されたためといいます。

 私の祖父は船井郡の出身で、わが家は曹洞宗です。南丹の地は足利氏ゆかりの武家の土地柄ですので禅宗が多かったのですが、特に園部藩は曹洞宗を普及させたので、園部藩領では圧倒的に曹洞宗が大勢を占めています。
 京都市内では曹洞宗の寺院は少数ですが、このあたりの歴史を知ると、わが家が曹洞宗になっていることもうなずけます。


 反った屋根

普済寺

 南丹市園部町の若森集落。稲穂の海。
 国道372号から離れて、村の旧道を進むと、府立農芸高校へ上がる道があります。そこを折れると、すぐに小さな門が見えてきます。

普済寺

 普済寺の本堂はこの門の向かい側の石段を登って行くのですが、重要文化財の仏殿は門内の低くなったところに建っており、おおむね東を向いています。
 桁行三間、梁間三間で、実長は5.75m四方といいますから、写真で見る通りのこぢんまりとした建物です。なんともいえない全体の姿に心を奪われるのですが、入母屋造の屋根の反りにも目が向きます。

普済寺

 軒裏にのぞく垂木も、端に向かって放射状に広がる扇垂木です。これは禅宗様独特の美しさを醸し出します。

 いまひとつの反りが、棟の反り。棟瓦が弓型にかなり反っています。

普済寺

 これについて、かつて天沼俊一博士は、「『大棟』は反りの過ぎてゐるといふよりは、寧ろ反らし過ぎてゐる様で」と述べており(『日本建築』)、昭和7年(1932)の修理による影響と推測されています。そのあたりのことは調べてみないとよくわかりませんが、天沼博士の感覚では行き過ぎと感じたのでしょう。
 ちなみに、大正時代中頃のこの建物の写真をあげておきます。

大正時代の普済寺仏殿

 大正11年(1922)刊『日本古建築菁華』下冊に掲載された写真です。
 当時は、茅葺で棟にも瓦は置かれていません。やはり屋根は、修理の際、当初の形に戻すという意味で、かなり変更されたということでしょう。


 禅宗様の仏殿

普済寺

 近寄って眺めてみると、まず軒下の組物がぎっしりと詰まっています。これを詰組といい、禅宗様の特徴です。和様ですと、組物と組物の間に蟇股とか間斗束などが入るのですが、これは異なります。
 さらに、その下には波形の連子がはまっています。これを弓欄間などと呼びます。その下には、尖った花頭窓。正面と背面、両側面に1か所ずつ付いた扉は桟唐戸です。いずれも禅宗様らしい形になっていますね。

普済寺 側面(妻側)

普済寺 組物の詳細(二手先)

 この仏殿は観音堂とも呼ばれ、南北朝時代の延文2年(1357)に建てられています。
 典型的な禅宗様の仏殿として、大正4年(1915)に国宝(旧国宝)に指定され、昭和7年(1932)に解体修理されました。
 この地域の文化の高さを思わせる瀟洒な建物で、とても好感が持てます。ぜひ一度、ご覧になってみてください。



 普済寺仏殿(重要文化財)

 *所在:京都府南丹市園部町若森庄気谷
 *拝観:自由(堂内不可)
 *駐車場:あり(無料)



 【参考文献】
 『京都の社寺建築(乙訓・北桑・南丹編)』京都府文化財保護基金、1980年
 天沼俊一『日本建築』弘文堂書房、1942年
 岩井武俊『日本古建築菁華 下冊』便利堂コロタイプ印刷所、1922年
 山岸常人『塔と仏堂の旅 寺院建築から歴史を読む』朝日選書772、2005年