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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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1万円札の肖像にも納得 ! ? 福澤諭吉の先見の明に驚く! - 『学問のすすめ』を読んでみた -

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  学問のすすめ・講談社学術文庫版 福沢諭吉『学問のすゝめ』伊藤正雄校注、講談社学術文庫


 『学問のすゝめ』の原文を読む

 前回、案内本に導かれて、内容をつかんだ福澤諭吉『学問のすゝめ』(1872年~76年刊)。

 ちょっとおもしろそう! という気分になったので、原典を読んでみることにしました。

 『学問のすゝめ』には、岩波文庫版や講談社学術文庫版などがあり、手軽に読めます。
 また、現代語に訳したものとして、伊藤正雄氏の訳(岩波現代文庫版)や齋藤孝氏の訳(ちくま新書版)などがあります。

 現代語に訳すほど難解な文体でもないのですが、まったく注釈がないと読みづらいのも事実。
 そこで、今回は注釈の充実している講談社学術文庫版で読んでみました。伊藤正雄氏の校注です。


 人は、みな平等

 旧幕府の時代には、士民[武士とそれ以外の人々]の区別はなはだしく、士族はみだりに権威を振ひ、百姓・町人を取り扱ふこと目の下の罪人のごとくし、あるいは切り捨て御免などの法あり。
 (中略)
 百姓・町人は由縁(ゆかり)もなき士族へ平身低頭し、外にありては路(みち)を避け、内にありては席を譲り、はなはだしきは自分の家に飼ひたる馬にも乗られぬほどの不便を受けたるは、けしからぬことならずや。
 
 右は士族と平民と一人づつ相対したる不公平なれども、政府と人民との間柄に至りては、なほこれよりも見苦しきことあり。
 (中略)
 そもそも政府と人民との間柄は、(中略)ただ強弱の有様を異にするのみにて、権理[権利]の異同[ちがい]あるの理なし。百姓は米を作りて人を養ひ、町人は物を売買して世の便利を達す。これはすなはち百姓・町人の商売なり。政府は法令を設けて、悪人を制し、善人を保護す。これはすなはち政府の商売なり。
 (中略)
 双方すでにその職分を尽くして、約束を違(たが)ふることなき上は、さらになんらの申し分もあるべからず。おのおのその権理通義を逞(たくま)しうして、少しも妨げをなすの理なし。 (第二編) 
 ※[ ]内は引用者が補いました。

 福澤は、こう述べた上で、江戸時代は「御上(おかみ)」と言って、武士は、道中の宿代は踏み倒すは、人足に代金を払わないどころか逆に酒代を巻き上げるは、さらには年貢を増額し、御用金を言い付けるなど、ひどいことだった、と言っています。
 御上は、百姓・町人に対して ”「御恩」があるから、それに報いよ” と言うが、それなら百姓・町人だって “年貢を取られるのは厄介なことだ” と言えるんじゃないか、と述べています。

 これが明治6年(1873)に書かれているのは、ちょっと驚きですね。ふつう、幕府が倒れて僅か数年で、こういうことはなかなか言えないのではないでしょうか。

 伊藤正雄氏の解説によると、福澤は米国の学者ウェーランドの『修身論』に強い影響を受けたということです。
 そこに記された「神の目から見れば、人間はすべて平等であり、基本的人権には上下の差別がない」という記述ーー相互対等の観念(reciprocity)というそうですが、これに感化されました。

 福澤は、“江戸時代みたいな悪い考え方が起こったのは、人はみな平等という趣旨を踏まえず、人を貧富とか強弱で判断していたからだ” というふうに解釈しています。
 「ゆゑに人たる者は、常に同位同等の趣意を忘るべからず。人間世界に最も大切なることなり」として、「西洋の言葉にてこれを「レシプロシチ」または「エクウヲリチ」といふ」と言っています。
 まさにここに、reciprocity と equality が登場するのです。

 似たようなことは、男女平等についても言っています。男尊女卑の傾向は、男は力が強くて女は弱い、という状態を捉えて、女は男に従うべきだと履き違えている、と考えます。
 「畢竟[つまるところ]男子は強く、婦人は弱しといふところより、腕の力を本(もと)にして男女上下の名分を立てたる教へなるべし」と喝破しています。

 福澤の話を聞いていると、現代人よりもむしろ進歩的だなぁ、と思わせる側面もあり、また140年も前にこういう思想を堂々と述べていることが驚異的にも思えてきます。


 官に頼る風潮を叱る

 『学問のすゝめ』が書かれたのは明治初期です。いわゆる文明開化を推し進めるのも国、つまり「官」の仕事でした。
 福澤は、官尊民卑を批判し、官民対等の立場を取ります。

 しかるにこの学校・兵備は、政府の学校・兵備なり。鉄道・電信も政府の鉄道・電信なり。石室[石造や煉瓦造の建物]・鉄橋も政府の石室・鉄橋なり。
(中略)
 人みないはん、「政府はただに力あるのみならず、兼ねてまた智あり。わが輩の遠く及ぶところにあらず。政府は雲上にありて国を司り、わが輩は下に居てこれに依頼するのみ。国を患(うれ)ふるは上(かみ)の任なり。下賤の関はるところにあらず」と。 (第五編)

 
 このような政府の力をみて、人々は「一段の気力を失ひ、文明の精神は次第に衰」えると憂いています。民心が委縮するというわけです。

 そして、興味深いことを指摘します。
 それは、一国の文明は、政府から起るのでもなく「小民」から起るのでもない、その中間から起るのだ、ということです。
 この「中間」のことを

  「ミッヅル・カラッス」

 つまり、middle-class というわけです。

 実例として、「蒸気機関はワットの発明なり。鉄道はステフェンソンの工夫なり。はじめて経済の定則を論じ、商売の法を一変したるはアダム・スミスの功なり。この諸大家は、いはゆる「ミッヅル・カラッス」なる者にて、国の執政にあらず、また力役の小民にあらず。まさに国人の中等に位し、智力をもつて一世を指揮したる者なり」と述べるのです。

 ここに、福澤が期待する「学問」を身に付けた国民の像がよく表れているのではないでしょうか。


 若者への期待

 福澤は、生活に汲々として学問の途からドロップアウトすることをよしとしません。

 「およそ世の事物、これを得るに易きものは貴からず。物の貴き所以(ゆえん)は、これを得るの手段難(かた)ければなり」として、学問を成就するには、それなりの苦労が伴うと強調しています(第十編)。苦労して身につけたからこそ、価値があるというわけです。
 当時の「洋学生」のように、3年ほど勉強をして官員になる風潮を苦々しく思っていたようです。

 だからこそ、生計を立てて生きて行くことは(現実問題として)大事だとしながらも、本人のためにも天下のためにも、大いに学問すべきだと主張します。

 学問に入らば大いに学問すべし。農たらば大農となれ。商たらば大商となれ。学者小安[小さな安定]に安んずるなかれ。
 粗衣粗食、寒暑を憚らず、米も搗(つ)くべし、薪(まき)も割るべし。学問は米を搗きながらもできるものなり。
 人間の食物は西洋料理に限らず。麦飯を食ひ、味噌汁を啜り、もつて文明の事を学ぶべきなり。 (第十編) 


 「学問は米を搗きながらもできる」との言葉は、身に沁みます。


 人望を得る方法

 『学問のすゝめ』の最後、第十七編で、福澤は “人望を得ることが大切だ” と述べています。
 そして、その方法として、3つのアドバイスを与えてくれます。

 ひとつめは、言葉を巧みに操って、弁舌を磨くことです。
 先に、第十二編でも「演説(スピイチ)」を勧めた福澤でしたが、ここでも改めて弁論の大切さ繰り返しています。
 
 ふたつめは、意外なことに、顔色・容貌を快活にすべきことをあげています。
 まずは、第一印象で損をしないこと。そして、他人が近付きやすい快活さを持つことが肝要だというのです。
 顔色や容貌は、家の門のようなもので、門口がきれいであれば人も近づいて来るだろう、と言っています。

 これが三つめの、交際を活発にするのがよい、という点につながってきます。
 それもいろいろなところで、友を増やしていくのがいいと述べています。

 「人にして人を毛嫌いするなかれ」

 これが『学問のすゝめ』最後のひと言。
 好き嫌いなく、ジャンルも超えて、多くの人と付き合って行こう--ポジティブな福澤らしい「すすめ」です。

 福澤諭吉『学問のすゝめ』。
 実際に読んでみると、イメージしていたものとは随分異なっていて、ずいぶん平易に書いたなぁ、という印象です。近代西欧で培われた思想を咀嚼しつつ紹介するのですが、文章は庶民にも分かるよう、たとえ話をふんだんに盛り込んで、相当くだけたものになっています。サムライだった福澤が、まさに裃(かみしも)を脱いで、やさしく人々に語りかけた書物と言えるでしょう。

 一読して、ここで説かれた思想が、今日の私たちの社会を形作っていったことがよく分かります。さすがに、1万円札の肖像に選ばれたのもむべなるかな、という感じです。
 そして、若者を鼓舞しつづける福澤の言葉は、21世紀に読んでも新鮮な響きがあるのでした。




 書 名 『学問のすゝめ』
 著 者  福澤諭吉
 校注者  伊藤正雄
 刊行者  講談社(学術文庫)
 刊行年  2006年


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「学問のすすめ」の真意とは? - 齋藤 孝『福沢諭吉 学問のすゝめ』ー

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  学問のすすめ 齋藤孝『福沢諭吉 学問のすゝめ』NHK出版


 NHK「100分de名著」ブックス

 書店に行くと、いろんな棚を隈なく見るのは職業病かも知れません。なぜか、NHKテキストの棚もよく見るところのひとつです。
 テレビ番組を書籍化したものもあり、その中に<NHK「100分de名著」ブックス>というのがあります。
 専門家が25分×4回で、古今東西の名著を紹介するものです。かなり書籍化されているようで、『ドラッカー マネジメント』、『兼好法師 徒然草』、『サン=テグジュペリ 星の王子さま』、『夏目漱石 こころ』など、もう20数冊出ているようです。

 一昨日、手に取ったのは『福沢諭吉 学問のすゝめ』。教育学者の齋藤孝さんが解説されています。
 なぜ福澤諭吉に目が留まったかと言えば、先日ある講座で話した本山彦一という人物が、明治の初め、福澤に師事し、その影響を受けたからでした。


 京都の学校に感激した福澤諭吉

 福澤は、慶應義塾の創設者ですし、中津藩(現在の大分県)の武家の出身だし、あまり関西に関係しそうにありません。
 しかし実際には、生まれは大坂の中之島、つまり中津藩の蔵屋敷で誕生しましたし、20歳台前半には大坂・適塾で学んでいました。大阪人とは言えないまでも、大阪とはゆかりがあったわけです。

 京都にも来ています。
 すぐに思い出すのは、福澤が京都の学校を視察したレポート「京都学校の記」です。

 これは、明治5年(1972)5月、京都を訪れた福澤が、京都の小中学校を事細かく調べた記録です。
 そこには、京都には64の学区があり(実際には65区)、7~8歳から13~14歳の者が貧富の別にかかわらず教育を受けられること、手習(筆道)や読書、数学を学んでいること、中学校では英語などの語学も教えていること、学校の費用は半分は官費だがもう半分は学区に出させていること、明治5年4月の小中学生の数は1万5千人余りで、男女比は10:8であること、などが記されています。

 詳しくは、以前の記事をご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <今では国際マンガミュージアムになった旧龍池小学校は、学区の人たちの誇りを凝縮>

 「京都学校の記」の結びに、福澤は次のように記しています。

 民間に学校を設けて人民を教育せんとするは、余輩、積年の宿志なりしに、今、京都に来り、はじめてその実際を見るを得たるは、その悦(よろこび)、あたかも故郷に帰りて知己朋友に逢ふが如し。おおよそ世間の人、この学校を見て感ぜざる者は、報国の心なき人といふべきなり。

 彼が京都の学校を見たのは、明治5年5月。
 そして、「学問のすゝめ」初編が刊行されたのが、同じ年の2月。
 「学問のすゝめ」は17編もあって明治9年まで出し続けられるのですが、最初に出版された直後に京都に来、すぐれた学校教育を見て感嘆しているのです。福澤が教育の重要性を認識していたことが、よく理解できます。


 意外に読まれていない? 名著
 
 齋藤孝さんの『福沢諭吉 学問のすゝめ』は、最初にこのように述べています(適宜改行しています)。

(前略) この本はどんな内容だと思いますか? と若い人などに聞いてみると、次のような答えが返ってきます。

 もっとも多いのは、「人間の平等を説いた本」です。おそらく、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という、あまりにも有名な冒頭の文章からの連想でしょう。

 二番目に多いのは「学問をすすめた本」です。タイトルそのまんまです。そのどちらも間違いではないのですが、福沢のいちばん言いたかったことからははずれています。

(中略) 福沢は人間の平等を説いたわけではありません、そうではなく、人間は学問をするかしないかによって大きく差が付つく。だから、みんな頑張って学問に精を出せーー、と言ったのです。 (15ページ) 


 おもしろいですね。

 「学問のすゝめ」原文では、その冒頭は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」と書いています。

 これは、

(世には)「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。

 という意味です。
 最後に「といへり」とあるところがミソなのです。

 カギカッコ内の文は、福澤がアメリカの独立宣言の一部を意訳したものだ、ということです。
 確かに、独立宣言(1776年)を見ると、「すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ」と記載されています。「すべての人間は生まれながらにして平等」とか「創造主」というのを「人の上に人を造らず」とか「天」とか意訳したのでしょうか。

 齋藤さんが尋ねた若い人たちは、「天は人の上に…」を福澤自身の言葉と思って、平等を説いた本、と考えたのでしょう。

 でも、実際はこの後に、世の中には「かしこき人」も「おろかなる人」も「貧しき」も「富める」も「貴人」も「下人」もいて、雲泥の違いがあるが、それはどういうこっちゃ! と言っています。
 そして、その答えとして「学問の力」のあるなしの差であると言い、天が決めたものではないのだ、と喝破するのです。

 おぉ、だから “学問のすすめ” なのかぁ、となるわけですね!

 講談社学術文庫版「学問のすすめ」 『学問のすゝめ』講談社学術文庫


 学問って何だ!

 では、福澤が言う「学問」って、何なのでしょうか?

 学問とは、ただむづかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学をいふにあらず。(初編)

 なるほど、難しい字を知っていたり、難解な文章が読めたといって自慢していたらアカン、と。
 他のところでは、いくら「古事記」を暗唱したって、今日の米の相場を知らなかったら、実生活の学問には弱いヤツだ、と指摘しています。
 あるいは、ノコギリやカナヅチの名前を知っていたって、実際に家を建てられない人間は大工とは言えないだろう、とも言っています。

 こういったヤカラは「飯を食ふ字引」だ! と言い切るのです。

 飯を食う字引、って、すごい比喩ですね。
 まあ、難しい字句をもてあそんでばかりいて、実際に役立つ学問は何も知らない、ということなのでしょう。

 福澤は、実学がおすすめだったわけです。


 演説の重要性

 齋藤氏の導きによって「学問のすゝめ」を読んでいくと、“スピーチの効用” というのが出て来ます。

 演説とは英語にて「スピイチ」といひ、大勢の人を会して説を述べ、席上にてわが思ふところを人に伝ふるの法なり。わが国には古(いにしえ)よりその法あるを聞かず。(第12編)

 原文では、お寺の説法はこの類だろうとしつつ、西洋では議会でも学会でも会社でも市民の会合でも、十数名が集まれば、会の趣旨を述べたり、持論を述べたりするのだ、と紹介しています。

 英語の speech を「演説」(ないしは「演舌」)と訳したのは、福澤だと言われています。

 それにしても、明治になるまで、日本に演説がなかったとは意外です。人前で堂々と自分の意見を述べるということは、いつの時代にもありそうなものですが。

 さらに私がおもしろいと思ったのは、次の一節です。

しかるに学問の道において、談話・演説の大切なるはすでに明白にして、今日これを実に行なふ者なきは何ぞや。学者の懶惰(らんだ)といふべし。

人間の事には内外両様の別ありて、両(ふたつ)ながらこれを勉めざるべからず。今の学者は内の一方に身を委(まか)して、外の務めを知らざる者多し。これを思はざるべからず。
私に沈深なるは淵のごとく、人に接して活発なるは飛鳥(ひちょう)のごとく、その密なるや内なきがごとく、その豪大なるや外なきがごとくして、はじめて真の学者と称すべきなり。(同前)


 ここでいう「談話」は、ディスカッション(議論)を指すそうです。

 学問で、演説や議論が大切なのは明白なのに、誰も行わないのは学者の怠慢である、と厳しく責めています。
 内に向かう沈思黙考のベクトルと、“他人に伝えよう” という外に向かう活発な精神が、ともに必要だと説くのです。

 齋藤氏によると、福澤が求めた「活発な」人材とは、性格のことではなく「社会的人格」としての活発さだと言います。

 社会の中で自分の考えをはっきりと表明し、人とコミュニケーションを取り、ディスカッションをする。また多くの人の意見を聞いて、自分の考えにフィードバックする。そんな社会的活発さを求めたのです。(83ページ)

 150年近く経った現在でも通用する指摘でしょう。
 「学問のすゝめ」には、いまも耳を傾けるべき卓見がちりばめられています。

 「学問のすゝめ」を原文で読んでみようと思った方は(まぁ、それは私ですが…)、講談社学術文庫版『学問のすゝめ』(伊藤正雄校注)を読んでみるのもいいかも知れませんね。




 書 名  『福沢諭吉 学問のすゝめ』
 著 者  齋藤 孝
 刊行者  NHK出版
 刊行年  2012年



吉本せいの生涯をモデルにした山崎豊子「花のれん」は、明治・大正の興行界をリアルに描き出す

人物




  花のれん 山崎豊子『花のれん』新潮文庫


 山崎豊子の直木賞受賞作

 作家・山崎豊子といえば、現在もテレビドラマでやっている「沈まぬ太陽」や、大学病院の内幕をえぐり、田宮二郎の映画・ドラマでも話題になった「白い巨塔」をはじめ、「華麗なる一族」「不毛地帯」「二つの祖国」など、ほとんどの作品が映像化されていることで知られています。イメージとしては、“社会派” の作家で、長編が多いなぁ、という印象です。

 山崎豊子は、大正13年(1924)に大阪・船場の昆布商に生まれ、学校を出たあとは毎日新聞に勤務していました。
 つまり根っからの大阪人で、最初の頃書かれた小説は大阪ものです。デビュー作は生家をモデルにした「暖簾」で、市川雷蔵が主演して話題になった「ぼんち」も代表作なのですが、今回紹介するのは「花のれん」です。

 山崎豊子は「花のれん」で直木賞を受賞して、作家専業になりました。昭和33年(1958)のことです。
 この小説は、吉本興業の礎を築いた吉本せいをモデルにしていると言われています。
 主人公は「河島多加」となっていて、その夫は「吉三郎」ですが、それぞれ、せいと夫・吉本吉兵衛(吉次郎、通称・泰三)に当たるわけです。

 実際の吉本家は、もとは本町橋(現・大阪市中央区)で荒物問屋を営んでいましたが、小説では呉服屋という設定になり、夫・吉三郎の芸人道楽で商売が苦境に陥り、多加が節季の支払いに汲々としている場面から作品はスタートします。
 しかし、いくら頑張っても商売は順調にはゆかず、吉三郎は遊びにうつつをぬかすばかり。
 ここで、多加は「それやったら、いっそのこと、毎日、芸人さんと一緒に居て商売になる寄席しはったらどうだす」と吉三郎にけしかけます。
 まさに “逆転の発想” なのですが、この小説の全編にわたって、こんな多加のアイデアマンぶり、才気煥発なところが強調されます。

 大阪天満宮の裏手の寄席を手に入れたところからスタートして、やがて松島にも、もう1席の寄席を経営することになります。


 リアルな下足の扱い

 そんなころ、多加の寄席でちょっとしたトラブルが起きました。
 当時、寄席や劇場は、草履・下駄などの履物を脱いで観覧していました。そのため、脱いだ履物(下足=げそく)は入り口で預かっていたのでした。

「表の下足で、お客さんに粗相がでけまして」
 聞くなり、小走りに表方へ出てみると、大島紬の対を重ね、黒の繻子足袋(しゅすたび)を履いた男客が、むっつり押し黙っている。
「すんまへん、只今、席主と相談致しまして堪忍して戴きますよって、ちょっとお待ちを―」
 しきりにもみ手をして、権やんが吃り、吃り、詫びを入れている。男客は下足場一杯に立ち塞がるように突ったって、インバネスの下で両腕を組んだまま、権やんの顔を見ている。大きな声で、怒鳴り散らさないだけに、ことが難しい。多加は、横合いから足袋のままで土間へ飛び下りるなり、
「席主でござりますが、お気の悪いことになりまして、えらいすんまへん」
 敷台に頭をこすりつけた。
「あんたが、ここの席主ですか」
 初めて口をきいた。重味のある声だった。
「正月早々に足もとを取られるのは縁起の悪いもんで」
「へえ、ほんまに申しわけおまへん、すぐさまお気のすみますようにお足もとを揃えさして戴きまっさかい、ちょっとお憩みしておくれやす」  (五) 


 そのあと、多加は人力車に飛び乗って、履物屋で1円30銭もする桐台の高級下駄を買い、お客に差出し、急場をしのいだのでした。
 大正初めの話、一流の寄席の木戸銭が20銭の時代。1円30銭といえば、現在の1万円くらいの感覚でしょう。

 ぞうり


 ところで、この下足の扱い、具体的にはどのように行っていたのでしょうか?

 「花のれん」には、このように描かれています。

(前略)多加は、すぐ紋付の袂を身八口(みやつくち)にはさみ込み、褄を裾短かにつまみあげて、土間に下り、自分も客の下足を取った。
「へえ、毎度おおきに、あんさんのお履物は三十八番さん!」
 客の脱いだ履物を受け取って、合札(あいふだ)を渡す。下駄は、鼻緒をすげた表側同士の上合せ、靴は底合せにして、下足札のついた紐でくるっと、廻しにしてくくる。この場合、下足紐は履物を吊る掛釘にかかるだけのワサ分を残して結ぶことと、履物を掛釘に吊った時すぽっと脱け落ちぬよう、履物の中程をうまい工合にくくり込むことが下足取りのコツだった。 (五)


 私がまず感心したのは、下駄など鼻緒のある履物は、鼻緒同士を合わせてくくり、靴は底を合わせてくくる、ということです。
 確かに、鼻緒にひもを掛けると、鼻緒が傷んでしまうので、それを防ぐ工夫なのでしょう。

 そして、もっと驚いたのが、くくった履物にワサ(輪っか)を作って、壁などに打ったクギに引っ掛ける、ということでした。
 
 これまで、漠然と抱いていたイメージでは、下足は下足箱(下駄箱)に入れて収納しておくのでは、というもの。
 みなさんも、お寺などの拝観に行かれると、入口に大きな棚のような下足箱があるでしょう。あのイメージだったのです。

 ところが、クギに掛ける(吊るす)という……
 なんだか虚を突かれた思いでした。

 それで、事典を調べてみました。
 ちゃんと「下足」という項目があり、次のように書かれています(加太こうじ氏による)。

 客などが座敷へあがるためにぬいだ履物を下足という。
 江戸時代から芝居小屋、料亭、寄席、遊郭、集会所、催物場などが、下足番を置いて客の履物をあずかって下足札をわたした。旅館も客の履物をあずかるが、昔の旅客はわらじ履きだったので下足札はわたさなかった。それゆえ旅館では下足とはいわない。

 明治末から東京にデパートが開店したが、初期には店内に緋もうせんやじゅうたんなどを敷きつめて、客の履物をあずかってスリッパあるいは上草履(うわぞうり)に履き替えさせて下足札をわたしたこともある。1923年の関東大震災以後は履物を履いたままはいれるほうが便利なので、下足番を置くところは少なくなった。

 下足札は10cm×5cmぐらいの長方形の板で番号などが書いてあった。
 すし屋でイカの足をゲソというのは下足からきた符丁である。
 花柳界では下足とはいわないで、<おみあし>といった。(平凡社『大百科事典』)
 

 下足札の大きさについては、「花のれん」にも、札が足りなくなったので慌てて2寸×1寸(約6cm×3cm)の木札を作ったとありますから、そのくらいの大きさだったのでしょう。

 いつから下足預かり制から土足OKになったのか、これはよく言及される点ですね。
 劇場などでも、大正時代になると、席まで自分で履物を持ち込むところも登場します。

 ところが、預かった履物をどのように管理するのかは、なかなか分かりません。
 江戸時代でも、明治以降でも、百人単位の大人数が集まる機会はいろいろとあったでしょうけれど、履物をどのように管理していたのか、とても気になるところです。
 この小説の記述がほんとうなら、ちょっと疑問が解消したと言えるでしょう。

 キムラ 寺町・キムラの下足番


 法善寺横丁の「お茶子」

 その後、多加は法善寺横丁へ進出します。
 ここは道頓堀の南側に位置し、水掛け不動や「夫婦善哉」があることで知られている横丁です。格の高い寄席(紅梅亭と金沢亭)がありました。

 どうしても法善寺に寄席を持ちたかった多加は、金沢亭の買収をもくろみ、交渉の末、手に入れます。
 小説では「花菱亭」、史実では「南地 花月」というのがこれに当たるそうです。

 ここでも多加は策を弄し、ライバル紅梅亭に出ている落語家を獲得するために、まず紅梅亭のお茶子を籠絡するのでした。

 お茶子とは、客の世話をする女性スタッフです。
 牧村史陽編『大阪ことば事典』には、「劇場で、客の送迎接待や、その他の芝居における一切の雑用をする女の称」とあり、「また寄席では、高座の装置・小道具などの出し入れや、楽屋で芸人の世話をする女の人のことをいう」ともあります。

 このあたりの事情、とりわけお茶子を取り仕切る「お茶子頭」について、「花のれん」には次のように描かれています。

 寄席のお茶子頭は、ちょうど料理屋やお茶屋の仲居頭のようなものだった。お茶屋で仲居頭の裁量一つで、座敷の良し悪しや芸者の顔ぶれが定まるように、寄席でもお茶子頭の裁量で出番や楽屋内での人気が定まり、特に御贔屓筋の受けが違って来る。上客を桟敷に案内しながら、旦那はん、次の番替り(十五日毎に替る)からは文団治師匠が出はりますねん、どうぞその節は御贔屓にと、念を入れて貰って置くと、人気が違って来る。それに古顔で年増のお茶子頭なら、師匠達のうだつの上らない駈出し時代に、ちょいとした借りもある。それだけに、一口に寄席のお茶子ぐらいがと云い切ってしまえぬことがあった。 (七)

 小説では、「お政」という、紅梅亭から引き抜かれたお茶子頭が個性を発揮しています。
 策略家の多加は、まずお政に好きなお酒を飲ませて味方にし、それを伝手に落語家の大師匠をくどいて、花菱亭の舞台に上げたのでした。

 お茶子は、桟敷客などの上客から心付けをもらうので、お茶子頭ほどになると1日に10円ほども稼いだと言います。今でいうと、1~2万円ほどの額になります。

 このような「古きよき時代」があったのですが、劇場が椅子席になり、近代化していくと、下足預かりも必要なくなり、お茶子の出番も減っていきます。

 大阪歌舞伎座 大阪歌舞伎座(番付より)

 昭和7年(1932)に新築開業した千日前の大阪歌舞伎座は、鉄筋コンクリート造7階建(地下1階)、3,000席を擁する近代的な劇場でした。
 その開業時の番付を見るとおもしろいことが書かれています。

 「御履物は、靴、草履が御便利です」とあり、「地階にお履物をお預りする用意がございますが、場内はなるべく靴、草履がご便利です」と記してあります。
 ここで預かってくれる「お履物」は、下駄を指していると思われます。
 以前は博物館などでも、下駄から履き替えるスリッパを置いているところがありました。下駄は、カランコロンと床に響いてうるさいのです。
 そのため、靴や草履を履いてもらい、下足預かりを極力やめるようにしました。

 また、お茶子ならぬ「案内人」については、次のように記されています。
 「案内人へ御祝儀のお心付は堅く御辞退申上げます。総て案内人には(番号)が付けてありますから不行届の点は御面倒ながら事務室までお知らせ願ひ上げます」。

 どうも今と変わらないなぁ、と思わされます。
 昭和の初め頃、興行界でも「大衆化」が進んで、現在に続くシステムが出来上がっていったのでした。

 作品では、お茶子頭のお政について、このように締めくくっています。

 多加は(中略)下駄や靴のままで入れるようになった高麗橋の三越を見て、寄席も下足なしにしなければと気付いた。昔ながらの寄席気分を味わう通の客の多い法善寺の花菱亭を除き、あとの寄席は桟敷だけを残して全部、椅子席にし、お茶子の案内や下足なしで気軽に入れるようにした。これを機会(しお)に、四十を過ぎても甲斐性無しの亭主と別れられず、急に白髪の増えたお茶子頭のお政は、
「椅子席の寄席ができるようでは、お茶子の先も見えてるわ」
 と、祝儀を蓄め込んだ金で、小料理屋の権利を買った。千日前の播重の近くに開く店のために、多加は、金一封二千円を祝い、屋号を、『花衣』と、付けてやった。 (十二)





 書 名 「花のれん」
 著 者  山崎豊子
 刊行者  新潮文庫
 刊行年  1961年(原著1958年)



女義太夫のアイドル・竹本綾之助は美少女?、それとも美少年 ! ?

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  星と輝き花と咲き 松井今朝子『星と輝き花と咲き』 講談社文庫


 女義太夫の世界にひたる

 大型連休中は、お出かけの方も多いことでしょう。
 私は、仕事柄、どちらかというと出勤の方が多いので、行き帰りの電車の中で読書にふける、というのがレジャーになっています(笑)

 しかし、おもしろい本を見付けたのですね。小説です。

 松井今朝子さんの『星と輝き花と咲き』(講談社文庫)。

 松井さんは、京都・祇園のお生まれだそうで、早稲田の大学院から松竹に入社され、のち武智鉄二に師事されたという、歌舞伎の世界のいいところを歩いて来られた方。ぴあの歌舞伎本は著名ですし、お芝居の普及に力を注がれていますよね。小説家としても時代小説を中心にたくさんの著書があり、『吉原手引草』で直木賞を受賞。
 その松井今朝子さんが、竹本綾之助という女性の人生を描いた小説が『星と輝き花と咲き』(2010年)です。

 竹本綾之助(たけもと あやのすけ)。

 といっても、いまは忘れられた存在です。
 彼女は、明治の初め、大阪で生まれ、幼少より義太夫節に天賦の才を認められ、東京に行って大活躍。今でいう “追っかけ” のファンがいっぱいできた「元祖アイドル」なのです。
 
 義太夫節というと、文楽(人形浄瑠璃)で聴ける語りものですよね。
 裃(かみしも)をつけた太夫(たゆう)さんと、三味線を弾く人がコンビになって、いろんなストーリーや登場人物のセリフを聴かせてくれます。
 義太夫節(以下、義太夫)は、大阪が発祥で、昔はふつうのおじさんなんかが稽古して、素人名人会みたいなものも盛んに行われていたほど、好まれていた芸能です。
 プロの太夫も、基本は男性なのですが、それを女性がやる場合、特に「女義太夫」とか「娘義太夫」と言いました。

 この女義太夫は、江戸時代から、江戸でも盛んに行われていました。はやりすぎて禁止になったりもするのですが、明治時代になると、大阪の竹本東玉や名古屋の竹本京枝らが東京に出て、ブームとなりました。
 もちろん、ファンは女性が語るから聴きたいという、ちょっとやらしい気持ちもあったんだと思います。だから、逆に言うと、少々軽蔑されていた芸能でもあって、「タレ義太」なんて馬鹿にされたものです。「タレ」は、人形浄瑠璃業界で「女」を指す言葉なんだそうです。大阪では、「あほたれ」など、「○○たれ」というと蔑称になるんですが、そこから来ているのかも知れません。

 その明治の東京の女義太夫界に、忽然と現れたスターが竹本綾之助だったのです。
 

 綾之助の美声と美貌

 小説の中で、綾之助は「ぼん」「坊や」、つまり男の子みたいで、いつも男の子に間違われると描かれています。
 彼女の写真はたくさん残っているので、その顔だちはよく分かります(インターネットでも検索できます)。
 面長で、目は切れ長、あまり男の子という感じもしませんけれど、表情はきりっと締まっているので、髪型や衣装次第ではそう見えるのかも知れません。なにせ10歳そこそこの話です。

 綾之助は、明治8年(1875)生まれですが、12歳でデビューしています。いくら昔と言っても早熟です。

 明治大正の民衆娯楽 倉田喜弘『明治大正の民衆娯楽』岩波新書

 私の本棚に学生時代から並んでいる倉田喜弘さんの『明治大正の民衆娯楽』には、当時の評判記に書かれた綾之助評が紹介されています(句読点を変更し、濁点を加えています)。

 声自在に出でゝ至りて通り善く、節わだかまりなくまはりて、密(こま)かに行渡たり、怜悧(りこう)に語りこなして、仲々に貫目あり。別けて詞(ことば)巧み。(160ページ)

 綾之助の声は、とっても通りがよくて、その上げ下げも自在だったのでしょう。つまり、美声の持ち主でした。
 もっとも、大阪の義太夫界では、美声よりも味わいのある声の方が好まれる傾向があります。むしろ、「濁り」がある方がよいという見方もあります。
 このあたりのことを松井さんは作品の中で、こう書いています。

「いやいや、あっしゃ坊ちゃんの巡礼唄に心底しびれちまった。ちゃんと腹の底から出した義太夫節の声で、ああいう花のある甲声(かんごえ)が聞かせられるのは、さしずめ越路太夫か、この坊ちゃんくらいですよ」

 天下の越路太夫と比べられてはさすがにお勝の顔も面映ゆげだが、一瞬そこに何やらハッと気づいたような表情が浮かんだ。

「なるほど、そういうことだっか。太夫の名人はほかにいくらもあるのに、なんで越路さんだけが東京でそこまで受けるんか、あてはずっとふしぎに思てましたが、きっと東京のお人は高い声がお好みなんやろ。千歳座で見た菊五郎はんの踊りでも、清元たらいう地方(じかた)がえらい甲高い声でおました」 (59ページ)


 もちろん、綾之助は評判記に「容色絶倫、技芸絶妙」とあるくらいですから、義太夫が上手だったのはもちろんですが、通りのよい高い声に加え、美しい少女だということで人気が出たのは事実でしょう。

 長谷川時雨も、「わが竹本綾之助、その女(ひと)もその約束をもって、しかも天才麒麟児として、その上に美貌をもって生まれた」と書いています(『新編 近代美人伝』151ページ)。

 近代美人伝 長谷川時雨『新編 近代美人伝(上)』岩波文庫


 熱いファン “ドースル連”

 そんな綾之助ですから、ファンもめちゃくちゃ熱くて、追っかけがいたくらいでした。
 ファン層は、主に書生(学生)。
 彼らは「ドースル連(れん)」と呼ばれたのですが、その説明は、笹山敬輔さんの奇書?『幻の近代アイドル史』でみておきましょう。

 明治から大正にかけて、娘義太夫にハマったファンたちは、「ドースル連」と呼ばれていた。ドースル連は、「追っかけ連」と呼ばれることもあったように、自分の推しメンを追っかける熱心なファンのことである。
(中略)
 この名前は、曲のクライマックスで一斉に「ドースル、ドースル」と掛け声をかけたことに由来している。ここぞというところで声をあげるのだから、今のMIXやコールと同じであろう。
 なぜ「ドースル」という掛け声なのかを問うことにそれ程意味はない。(中略)自然発生的なものが定着していったのだろう。(23ページ)


 いやぁ、やっぱり、なぜ「ドースル」なのか、知りたいですよね(笑)
 
 ドースル以外にも、「ヨウヨウ」とか「トルルー」というのもあったとか……
 「トルルー」ってなに??

 幻の近代アイドル史 笹山敬輔『幻の近代アイドル史』彩流社

 当時のドースル連は、学校によって推しメンが分かれていたそうです。

 そうそう、私はこの「推(お)しメン」という言葉が分からなかったのです。
 調べてみると(笑)、イチ推しのメンバー、という意味だとか。

 それはともかく。
 「慶応は綾之助、明治は竹本小土佐、早稲田は竹本住之助であったという」(34ページ)

 学校ごとに違っているなんて、意外ですね。
 小土佐も住之助も、人気と実力を兼ね備えていました。ちなみに、俳人の高浜虚子は「われは小土佐に恋せり」と言うほど、彼女の大ファンだったそうです。

 ドースル連の若者たちは、綾之助の乗る人力車を追っかけて行ったり、新聞に投書して、さながら投書合戦の様相を帯びたりと、それは熱いものでした。
 笹山さんの本を読むと、ファン心理って昔も今も同じだなぁと、うならされます。

 そんな大ブームを巻き起こした綾之助ですが、人気が出るにつれ、意外な展開が待ち構えています。
 お話ししたいのはやまやまですが、それは読んでのお楽しみ!

 『星と輝き花と咲き』、ぜひ読んでみてください ! !




 書 名  『星と輝き花と咲き』
 著 者  松井今朝子
 出版社  講談社(講談社文庫)
 刊行年  2010年(文庫版は2013年)

この春も頑張る京都出身の力士たち - 大相撲大阪場所から -

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大相撲大阪場所


 満員御礼つづきの大相撲大阪場所

 ここのところ、また大相撲ブームになっていますね。
 3月になると、恒例の春場所(大阪場所)の見物に行きます。

 大相撲大阪場所

 この写真、幕内土俵入りの際に撮ったもの。
 「満員御礼」の垂れ幕が出ていますけれど、今日は正味の満員ですよ。いや、いつもは満員御礼と言いながらも結構空席が目立ったのですが、今年は本物。チケットも十五日すべて完売状態です。僅か5年前、この春場所が中止になったのが嘘のようですね。
 やはり多くの人に喜ばれ、興行が盛況になるのは結構なことです。

 ところで、相撲見物に行くとき、困るのがタイムテーブルが分かりづらいこと。
 朝から始まって、夕方6時に打出しになるわけですが、相撲協会のウェブサイトを見ても、ざっくり書いてあるだけで、詳しくは分かりません。
 そこで今回は、取組表と実際の時刻を参照しつつ、紹介してみましょう(時刻は、およその目安です)。

 前相撲    8時30分
 序ノ口    8時45分
 序二段    9時
 三段目   11時
 幕 下   13時
 十 両   14時15分
 幕 内   16時
 打出し   18時


 序二段と三段目は番数(取組数)も多いのですが、1番当り2分弱で進んでいくので、スピーディーでとても楽しめます。
 十両・幕内ももちろん面白いけれど、下の方がむしろ楽しめるような気もするのですね。


 増えてきた京都出身の力士

 一昨年(2014)春場所の際、京都府出身の力士についてレポートしました。

  記事は、こちら! ⇒ <京都出身の大相撲力士、少ないながらも奮闘中!>

 2年前、京都府出身の力士は、たった5人でした。
 ところが、今年は10人に倍増です!

 さっそく紹介してみましょう。

 千代栄 (西 幕 下 31)・・・九重部屋
 北勝芯 (東三段目62)・・・八角部屋 【旧四股名・森垣】
 琴名和 (西三段目81)・・・佐渡ケ嶽部屋
 今 福 ( 同  93)・・・二所関部屋
 一心龍 ( 同  100)・・・山響部屋
 大勇人 (西序二段 7)・・・峰崎部屋
 岩 上 ( 同  51)・・・峰崎部屋
 花 井 (東序ノ口10)・・・伊勢海部屋
 海 渡 (西序ノ口17)・・・宮城野部屋
 泉 川 ( 同  20)・・・峰崎部屋


 残念ながら、現在、京都出身の関取(幕内・十両)はいません。
 最上位は、千代栄。この力士は、福知山出身(京都共栄高校出)となっていますが、生まれは兵庫県丹波市春日町だそうです。
 三段目の北勝芯は、森垣が改名したものです。

 海渡という変わった四股名の力士がいますが、「うみわたり」と読むそうです。調べてみると、海渡海渡! 「うみわたり・かいと」。そうか、本名が海渡クンで、それを四股名にしたわけだ。

 今年は、新弟子検査を受けた京都出身者も1名いて、また力士が増えますね。


 若手もベテランも奮闘!
 
 今日、三日目に見た5力士を紹介。

 岩上
   岩上(左)

 まだ若いですね。19歳。
 昨年デビュー。自衛隊を辞めて、好きな大相撲に入ったという力士。細いけれど、筋肉質です。

 大勇人
   大勇人(左)

 昨年はケガで苦しんだようです。
 この力士も、岩上も、峰崎部屋。ちなみに、序ノ口の泉川も峰崎で、京都出身が3人いる部屋です。峰崎親方は、三杉磯(元前頭)ですね。

 琴名和
   琴名和(左)

 昨年デビュー、19歳の若手。
 佐渡ケ嶽部屋ですので、本名に「琴」が付いています。

 北勝芯
   北勝芯(左)

 以前は、本名の森垣で取っていました。
 昨年九州場所、北勝心に改名。八角部屋(親方は元横綱・北勝海)なので、「北勝」+本名「(森垣)心」。今年初場所に「心」を「芯」に変えています。

 一心龍
   一心龍(右)

 ベテラン力士。32歳。
 下の名前は「太助」。まさに、一心太助から来てますね。
 北の湖部屋でしたが、親方が亡くなったので、現在は山響部屋に所属。元の北の湖部屋にはベテラン力士が多いです。

 今日の一心龍は、今場所初めて土俵に上がった石橋(高砂部屋)との取組でした。
 石橋は、学生相撲の近畿大学出身で、注目の新人力士。もちろん、髷も結えていません。
 
 そして取組。
 応援むなしく、一心龍は寄り切られてしまいました。
 どんな心境なのかなと、いつもは考えない力士の気持ちに思いを巡らせてしまった……

 上の写真でも分かるように、たくさんのカメラマンが石橋目当てにフラッシュをたいていました。
 翌日のスポーツ紙には、石橋の初白星の記事が。
 
 テレビ中継やマスコミの報道だけでは分からない場所での相撲。
 幕下までは会場もガラガラだけど、そこには一番に全てを懸ける男たちがいます。

 大相撲大阪場所




 【参考文献】
 『平成二十六年度 大相撲力士名鑑』ベースボール・マガジン社、2014年