京都駅から東寺へ行く途中に 先日、所用があって東寺に行きました。
いつも、JR京都駅から歩いて行きます。
今日も、京都駅の八条口(南口)を西に進み、油小路通を渡りました。イオンモールの向い側の森は、伏見稲荷大社の御旅所です。その北側の小道を進むと、すぐに近鉄電車の高架があります。
高架をくぐったところに、こんなお堂があります。
なんの変哲もない小さなお堂で、蟇股や大瓶束(下の写真)を見ても、そう古くはない、近代の建物だと思えました。
寺名を見ると、西福寺とあります。
浄土宗のお寺のようで、標柱に「安産石薬師如来」と記されています。
地域の人たちに安産の仏さまとして信心されてきたのでしょう。
ただ気になるのは、この碑に「弘法大師御自作」と書かれていることです。昭和12年(1937)の石標とは言え、なぜかなと思いますよね。
綜藝種智院の故地
実は、この場所は弘法大師(空海)にゆかりの深いところだったのです。
見えづらいのですが、別の石標に「綜藝種智院蹟」と刻まれています。
綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)。
日本史の教科書に登場する名辞ですね。
空海が開いた学校で、天長5年(828)に設立されました。仏教をはじめ、儒教などさまざまな学問を綜合的に学ぶ私立学校として生まれました。
貴族だけでなく、ひろく庶民にも門戸を開いたことが、その特徴とされています。
用地は、前中納言・藤原三守の邸宅を寄付してもらったもので、空海が賜った東寺の東方です。実際には、この場所よりも少し南にあったとされています。
『京都市の地名』は、南区西九条春日町・蔵王町の一部がそれに当たる、としています。『平安京提要』を見ると、左京九条二坊十一町および十四町の2区画にあった、と記されています。十四町の大部分は、現在、市立九条弘道小学校になっており、その西隣の十一町は油小路通の西から近鉄線路の西側までになります。
かなり広いエリアだったようです。
綜藝種智院から種智院大学へ
綜藝種智院は、空海が没し、三守も亡くなったのち、廃止されてしまいます。創立から僅か20年ほどでした。
しかし、ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、いま「種智院大学」という大学がありますよね。
どう考えても、空海の学校と無関係ではなさそうですが、現在のキャンパスは京都市伏見区向島にあります。
同大学のウェブサイトを見ると、確かに空海が創設した綜藝種智院を起源とする、と書かれています。
もっとも、近代の大学が1200年前の学校と直接つながっているのではありません。
明治維新後、真言宗でもさまざまな学校が設立されます。明治14年(1881)、雲照律師によって真言僧の養成機関・総黌(そうこう)が開校されました。
その場所は、東寺北大門の北、現在、洛南高校があるところです。
総黌があった現・洛南高校
ここは、もと宝菩提院(東寺の子院)があった場所でした。門が、それらしいですね。
総黌は、大正6年(1917)には、真言宗京都大学となりました(のち京都専門学校と改称)。
これが戦後、4年制大学の種智院大学になったのです。
伏見区に移転したのは1999年ですから、割と最近のことですが、ここにあった時代のことは私もよく知りません。
空海の綜藝種智院にかける思いは、「綜藝種智院式」などを読むと大変高邁であったようですが、長続きしなかったのは残念です。
綜藝種智院跡(西福寺)
所在 京都市南区池ノ内町
拝観 外観自由
交通 JR「京都」下車、徒歩約15分
【参考文献】
『日本歴史地名大系 京都市の地名』平凡社、1979年
『平安京提要』角川書店、1994年
『日本古典文学大系 三教指帰 性霊集』岩波書店、1965年
阿部貴子「明治期における真言宗の教育カリキュラム」(「現代密教」24号、2013年 所収)
変貌してきた東寺の伽藍 東寺といえば、平安京以来の寺院で、空海が賜った真言宗の総本山です。
つまり、1200年の歴史があるわけですが、その間に伽藍は焼亡などによって大きく変化してきました。いまでは平安時代の面影をしのぶことは、なかなか難しくなっています。
しかし、そのことが逆に、人々とともに息づいているお寺という雰囲気を醸し出して、心地よいのですね。
気になるのは、広い境内の中に、弘法大師の信仰とはちょっとずれた神仏が祀られていることです。
なかでも、七福神がいくつか祀られていることが注目されます。御影堂のある西院エリアに毘沙門天と三面大黒天、北大門の外に弁財天が祀られています。これらは単独のお堂を持っています。
今回は、弁天さんを取り上げてみましょう。
池のほとりにある弁天堂
北大門を出ると、細長い蓮池があります。
池は、門外の東西に広がっています。その東部分のほとりに弁天堂が建っています。
弁天堂 (北から望む)
桁行三間、梁間三間、入母屋造の小さなお堂です。
『東寺の建造物』によると、弁天堂の創建は詳らかではないそうですが、現在のお堂は天保年間(1830-1844)の建築だそうです。
唐破風の拝所が目を引きますが、これはなんとなく後付けのような気がしています。
後から付けたとしても、幕末か明治時代のものではあるでしょう。
彫刻も見どころ!
その唐破風の下は、念入りに彫り物で飾られています。
大瓶束の左右に龍、蟇股には宝珠。少し平面的な印象です。
木鼻には、立体的な獅子を。玉眼ですね。
手の揃え方が可愛い!
池に面して花頭窓を
弁天堂は、西を向いて立っています。
南面は、舞良戸(まいらど)をはめています。さすがに地味な印象がします。
一方、北面は少し違います。
舞良戸に加え、センターに花頭窓を持ってきています。
やはり、池を意識して窓を開けているのですね。
弁天さんは、インドではサラスヴァティーと呼ばれる河の神。日本では、「弁才天」が「弁財天」ともなって、「財」をもたらす神さまとして崇拝されてきました。
念のため、弁財天について宮田登氏の解説を引いておきましょう。
弁天さんといえば、福神の中でもとりわけ美しい女神だと思われているし、片手に琵琶を持ち、右手でこれを弾奏している姿から音楽の神だとも思われている。一方福の神でもとくに金銀財貨をたくさんもたらしてくれる存在とも考えられ、銭洗弁天などの名称もある。
弁天さんの本名は、弁才天であるが、妙音天、美音天の名もあり、弁才と音楽を司る天部の神として知られる。
本来インドの土着の神格であり、サンスクリットで Sarasvati という。インド神話には、河川の神として登場する。(中略)
このインドの民間の神を仏教は吸収して天部の神に位置づけたのだが、そのときには、弁才を備え、福と知、長寿と財宝を与え、かつ災厄を除く天女だとしている。 (「弁天信仰」)
東寺の弁天堂では、なかにおられる弁天さんが池を見られるよう、窓をうがったのでしょう。こう考えると、北面(池側)にだけ窓がある意味が理解できます。
ところで、水にかかわることでは、このお堂の脇に井戸があったといいます。
昭和8年(1933)に出版された井上頼寿『京都民俗志』には、次のように記されています。
東寺弁才天閼伽[あか]井
弁天堂の南に切妻の建物があり、甕[かめ]の中に水がためられてゐる。『閼伽場』の額があり、御供の水に用ひられる。(29ページ)
この閼伽場の建物は現在はないようですが、このあたりで井戸水を汲んでいたとは興味深いことだと思います。
もとは西の門からお詣り
いま、このお堂には、北の橋から渡って来てお詣りするか、南の境内から小門をくぐってお詣りするようになっています。
橋は、昭和9年(1934)の弘法大師1100年御忌の年に架けられ、それまではありませんでした。
では、どこから参拝したかというと、北大門の脇にある西向きの門から入って来たのです。
この門を開けると敷石の参道があり(現在は作業小屋になっている)、弁天堂に至ります。
『東寺の建造物』に掲載された明治時代の複数の境内図にも、この門があり、鳥居があり、弁天堂が画かれています。
おそらく戦前は参拝者が多かったのでこちらからお詣りしていたものが、北に橋が出来たので、そのルートに変更されたのでしょう。
一帯には玉垣が整備されており、近辺の商業者から大阪の人に至るまで、幅広い信仰を集めていたようです。
上の玉垣には「七条館 長谷川弁次郎」とあります。地元の映画館主でしょうか。伏見の侠客・勇山の名もあって、さまざまな人が寄進しています。
東寺の中では、ひっそりとした一画ですが、時折お詣りの方も訪れて、根強く信心されているさまがうかがえます。
最後に、ちょっとした疑問をメモしておきます。
大正5年(1916)に編纂された『東寺沿革略誌』は、昭和9年(1934)に再刊されました。
そこには、弁天堂は次のように記されています。
弁天堂
本尊弁財天像 弘法大師御作 一躯
創建年代は未詳。現存の建物は、天保年中に建立せしものなり。北弁天堂、梁行二間、桁行三間の建造物は大正六年澤島清太郎の発願にて創建。(73ページ)
なぞは、「北弁天堂」です。
大正6年(1917)に、澤島清太郎という人の発願で建てられたといいます。梁行三間、桁行三間は、本書の記述では柱間ではなく実寸を示しているようです。
「“北”弁天堂」というくらいですから、それまでの弁天堂の北方に建設されたのは疑えません。では、どこに?
現在の弁天堂の北側はすぐ蓮池で、池の向こうには太元宮(昭和4年=1929建立)が建っていて、スペースはありません。
では、もっと離れた場所に建てたのでしょうか?
もしかすると、現存の弁天堂が「北弁天堂」で、南側に元の弁天堂(天保に建立)があったのでしょうか?
今、これを解く手掛かりがないのですが、弁天堂周辺の空間を観察すると、いくつも納得いかない点があります。しかし、それは後日の課題にしておきたいと思います。
東寺(教王護国寺)弁天堂
所在 京都市南区九条町
拝観 境内自由
交通 近鉄「東寺」下車、徒歩約10分
【参考文献】
『東寺沿革略誌』教王護国寺事務所、1934年
『東寺の建造物』東寺(教王護国寺)宝物館、1995年
宮田登「弁天信仰」(『民衆宗教史叢書 20 福神信仰』雄山閣出版、1987年所収)
井上頼寿『京都民俗志』西濃印刷株式会社岐阜支店、1933年
今回も、建物をじっくりウォッチング 4月の東福寺ツアーにつづき、<まいまい京都>さんの秋のメニューで、東寺に行ってきました。
今回も満員御礼で、9月6日(土)、午前中とはいえ暑い中、2時間じっくり建物見学しました。
御影堂
東寺は、国宝・重要文化財の建造物が目白押し。
だから、というか、なのに、というか、あえて細かいところに着目して、ご案内しました。
南大門
特に、木や石の魅力について、改めてお話してみました。
また、細かい職人技があふれる彫り物についても注目。
みなさん、礎石とか玉垣とか、これまで見過ごされたところに魅力を見出されたようです。
解説中!
東寺の記事をご覧ください!
東寺については、これまでも多々記事にしてきました。
ご覧いただくには、画面の左側、<MENU>のところの<洛中(南区)>をクリックしてください。
東寺の記事が、ずらっと出てきます!
当日お話し切れなかった内容も詳しく書いていますので、ぜひご覧ください !!
小子坊勅使門
また、話題になった「小子坊(こしぼう)勅使門」についても書いています。
関連する建築家・亀岡末吉(京都府技師)のことと一緒に、2013年3月に連載しています。
画面の左側<ARCHIVE>の<2013/03>から入れますので、ぜひ読んでみてください!
では、またの機会にお会いしましょう!
東寺から西へ進むと… 東寺を参拝しても、その西にある「西寺」に行く人は、ほとんどいないでしょう。
もちろん、「西寺」といっても、それは跡地になっていて、東寺のような大伽藍があるわけではありません。それでも、町名に「西寺町」といったものが残っていたりするのも、京都らしいところです。
「西寺町」の町名
東寺から九条通を西に進み、七本松通を北に曲がってしばらく行くと、唐橋小学校があります。小学校の北側に公園があり、その中に西寺跡の碑があります。
「史蹟 西寺阯」碑
平安京の官寺「西寺」
平安京が置かれた後、中央を通る朱雀大路に開かれた羅城門を挟んで、東に東寺、西に西寺が対称的に設置されました。
その規模はほぼ同じで、南大門-中門-金堂-講堂-食堂が並び、金堂や講堂の回りには僧坊が配されていました。他に、塔や宝蔵などがあります。
西寺の伽藍配置(現地の案内板より)
西寺の場合、五重塔の位置などが東寺と反対なのが分かります。
西寺は、東寺と同様に平安京が置かれて以降、伽藍の建設が進められ、およそ830年頃には主な建物は完成していたと考えられます。
東寺が弘法大師に与えられ、真言密教の拠点となっていったのに対し、西寺には僧綱所が置かれたり、天皇を供養する国忌が行われるなど、鎮護国家の寺として栄えました。
しかし、天暦元年(990)に火災に遭い、その後、ある程度は再建されたようですが次第に荒廃し、鎌倉時代の天福元年(1233)には残されていた五重塔も焼失。以降の様子は、よく分かっていません。
土の壇が残る史跡
現在、唐橋小学校の北にある唐橋西寺公園を訪れると、写真のような小さな丘があります。
西寺跡の土壇
これが、西寺の建物の土壇跡といわれています。この土壇は、地元では「コンド山」と呼ばれているといいます。建物の基壇としては余りに高いのですが、後世に松尾大社の神輿を練り上げるために、盛土されたものだそうです(『京都府の歴史散歩 中』)。
ここで注意したいのは、この「コンド山」という表現。当然、「金堂山」と思いますよね。実際、大正時代に考古学者の梅原末治氏が調査報告された際、これを金堂跡とされています。
この場所が史跡指定されたのは大正10年(1921)なので、当時はここが金堂跡と思われていたのでしょう。
戦後になっても、ここは閑散とした場所だったようです。
川勝政太郎『京都古蹟行脚』(1947)にも、「ここから[羅城門跡から]更に二町行つて北に入ると、人家の間の空地に土壇が残つてゐる。ここが西寺址(史・弘仁)である。壇には草生ひ二三の雑木の立つてゐるのもわびしい」と記されています。
昭和27年(1952)頃の様子。
『京都史跡名勝紀要』より
今は、この石碑と、運ばれてきた3つの礎石が置かれています。
礎石のひとつ
戦後の発掘で伽藍配置が判明
西寺跡は、昭和34年(1959)から昭和63年(1988)まで30年にわたって発掘調査が行われました。その結果、伽藍配置もほぼ判明しています。
それによると、「コンド山」と呼ばれていた土壇の場所には、講堂がありました。
その南方、公園南側の道路あたりに金堂が建っていました。さらに南、唐橋小学校の校地の中に中門や回廊があり、校地南側の道路のあたりに南大門がありました。
また、講堂の左右や背後には僧坊があり、公園の北側道路の先には食堂が造られていました。
このように伽藍部分でも、かなり広大な範囲に及んでいたわけですが、さらに北側には政所院や花園院などが建てられていたわけで、その広壮さは想像に余りあります。
東寺と同じ規模だったのですね。
京都の地図を見て、現在の東寺の範囲をもとに、西寺の規模をイメージしていただければと思います。
西寺跡に残る礎石
あの東寺ですら、現在は中門、回廊、僧坊などが失われて、がらんとした境内です。西寺に至っては、民家が立ち並んで往時をしのぶのが難しい状態です。
それでも、伽藍配置図などをもとにイメージすると、平安京にあった寺院のありさまに思いを致すことができるでしょう。
西寺跡(国史跡、唐橋西寺公園)
所在 京都市南区西寺町
見学 公園内は自由
交通 市バス西寺前、または九条七本松下車、徒歩約5分
【参考文献】
川勝政太郎『京都古蹟行脚』臼井書房、1947年
『京都史跡名勝紀要』京都市役所卯、1952年
『平安京提要』角川書店、1994年
『京都府の歴史散歩 中』山川出版社、2011年