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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

巨大土塁・御土居と御土居餅、おもちは羽二重餅にきな粉をかけた上品な味わい





御土居餅


 あまり知られていない「御土居」

 NHK「ブラタモリ~京都~」が放送された際、3つの話題(琵琶湖疏水、新京極、御土居)のひとつとして、「御土居」が取り上げられました。
 オンエア後、それを見た他県出身の方から、「御土居って知らなかった」と言われ、少し驚きました。

 確かに、御土居は全国区ではないし、観光地でもないので、知らない方も多かったでしょう。

 京都市内でも、もっぱら北の方で育った私は、青少年時代、御土居のそばをうろうろして過ごしていたような気さえします。それだけ馴染み深く、いつも目にしていたのですが、意外にじっくりとは見ないもの。
 今回、改めて見直してみました。


 京の外周を囲った土塁

 御土居(おどい)。

 豊臣秀吉が京都を治めたとき、町の大改造を行いました。
 特に、町の外周を土塁と堀で囲む大土木工事は「御土居」の名で知られています。

  御土居位置図 御土居の位置(鷹峯旧土居町の案内板)

 南北に約8㎞、東西に約4㎞弱の拡がりを持つ大土塁。
 北端は堀川通の御薗橋の南方辺、南端は京都駅のあたりまで。東西は、およそ鴨川と紙屋川の間と考えておけばよいでしょう。
 この土塁の内側が「洛中」、外が「洛外」となりました。

 御土居断面図
   御土居の断面図(同前案内板より)

 「土居」という語が示すように、大きな土塁を築いて、その外側に深い堀を造りました。このため、「御土居堀(おどいぼり)」という呼称がふさわしいという研究者もおられます(中村武生『御土居堀ものがたり』)。

 巨大構築物だった御土居ですが、江戸時代以降、町の開発に伴って徐々に取り壊されていきました。
 例えば、繁華街・河原町通も、その西側にずっと御土居が構築されていました。いまでは、その面影もありませんが、にぎやかな三条-四条間の西側歩道の西方には、かつて御土居が続いていたのです。


 玄琢下に御土居を見る

 しかし、上図を見ると、黒い印で示された史跡指定地はは、北辺と北西辺が中心です。
 今回は、北西角に近い部分を見てみましょう。

 御土居

 京都市北区大宮土居町。
 もっとも、この場所は、地元では玄琢下(げんたくした)と通称されています。写真の急坂を上ると玄琢(地名)に至ることから、そう呼ばれています。
 坂の上り口の左手(南側)に、フェンスに囲まれた御土居があります。

 御土居

 久々に、まじまじと見たのですが、かなりの土盛りです。

御土居

 ここの御土居は、ほぼ東西に走っているのですが、写真は北側から見たところ。5m位の高まりが認められます。
 
 御土居
   土塁と堀

 左の高まりが土塁、中央のくぼみが堀の跡です。
 写真の左方が市街の内(つまり洛中)で、右方が外(洛外)になります。
 かなり大規模な土塁と堀があったことが理解できます。
 

 さらに西へ

 ここから坂を上ると、南方に御土居が続いていることになります。
 途中、玄琢南公園のあたりから御土居を眺めてみました。

 御土居
   西から東を望む

 公園は坂上にありますので、見下ろすような谷になっています。
 写真では分かりづらいのですが、インターネットで航空写真をご覧いただくと、一目瞭然です。
 北側(写真左手)が堀で、南側が土塁になります(先ほどの玄琢下と逆の関係ですね)。

 御土居
  ほぼ南方を望む

 ここに、ほぼ左右に堀が走っていたのでしょうか。現地で下を覗くと、相当な谷になっています。
 右上は、自動車学校です。自動車学校の東から玄琢下まで、約300mにわたって御土居が保存されているわけです。


 鷹峯の御土居

 このさらに西方、鷹峯(たかがみね)にも御土居は残されています。
 北区鷹峯旧土居町です。

 鷹峯街道
  鷹峯街道

 千本北大路から北に続く鷹峯街道。この上に、本阿弥光悦の“芸術村”で著名な光悦寺などがあります。

 御土居

 フェンス内に、御土居が保存されています。
 この場所は、御土居全体の北西隅の位置です。このすぐ向こうで、土塁は南に曲がります。

 御土居

 北側から見たところ。奥の屈曲部は見えません。
 
 このあたり、私は高校時代にさんざん通ったのですが、御土居があったことなどほどんど記憶にありません。地元の方に尋ねたところ、以前は御土居の前にスーパーが建っていて、ほどんど隠されていたとか。道理で気付かないわけです。
 現在ではその建物もなくなり、見学スペースも出来ています。なかに入れないのは残念ですが……

 春には、御土居上に咲く桜が綺麗だそうです。


 御土居をかたどった和菓子「御土居餅」

 この御土居の真向いにあるのが、和菓子の光悦堂。

 御土居餅
  光悦堂

 御土居餅
  御土居餅

 こちらの名物が、御土居餅です。
 
 1個135円。
 手作り感のあふれる店頭とパッケージ。

 御土居餅

 御土居餅

 羽二重餅の中に、こしあんが入っています。
 餅の上には、きな粉がふられています。

 これが、御土居の形をイメージして作られているのだそうです。
 お店の方によると、もう50年ほど前から作っているとか。

 御土居餅

 甘すぎない上品な味で、少し塩味も利いているようです。きな粉も、京都らしいですね。
 ふつうの大福餅よりは柔らかめだと感じました。

 御土居餅
  由緒書には光悦垣が

 無骨な土木構築物が、典雅な和菓子に。
 こういうところも、史跡めぐりの愉しみですね。


  御土居餅




 御土居

 所在 京都市北区大宮土居町ほか
 見学 自由(フェンス内には入れません)
 交通 市バス「玄琢下」下車、すぐ



 【参考文献】
 中村武生『御土居堀ものがたり』京都新聞出版センター、2005年




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寺町・新京極を歩く(その3) - 天寧寺 -





天寧寺


 「額縁門」の寺・天寧寺

 鞍馬口通から南に伸びる寺町通。この先、通りの東側(賀茂川側)に寺院が並んでいます。

 その最初に現れるのが曹洞宗・天寧寺です。

天寧寺

 この門は、俗に「額縁門」と呼ばれ、門の中に比叡山が借景のように望めます。

天寧寺

 天気のよい日に訪れると、さぞかし美しいことでしょう。

 この景色に見とれ、つい直ぐに門内へ入ってしまうのですが、門の左に注目してみましょう。
 こんな石標が立っています。

 天寧寺

 「金森宗和公本塋」。「塋(えい)」はお墓のこと。時折「塋域」(墓域)などという言葉を目にします。江戸時代の茶人・金森宗和(かなもり そうわ、1584-1656)の墓所があることを示しています。
 金森宗和といえば、飛騨高山の出身で、茶道・宗和流の祖として知られます。
 大坂の陣のあと、父から勘当され、母とともに、元和4年(1618)頃、烏丸今出川上ルの御所八幡上半町に移り住みました。つまり、天寧寺の比較的近くということになります。

 2基の五輪塔が、母子のお墓です。

天寧寺

 右が宗和、左が母・室町殿です。

 天寧寺 金森宗和墓


 かなり磨滅しかけているものの、かろうじて刻字を読むことができます。宗和の方には、次のように記されています。

天寧寺

 「明暦二 丙申 年/地 甲堅院徳英宗和居士/十二月十六日」

 戒名とともに、明暦2年(1656)12月16日に亡くなったと記されています。命日については、「隔冥記」などには12月15日となっており、1日異なっています。


 高橋箒庵が建てた石標

 今回注目するのが、最初に登場した門前の石標です。その裏面には、こう記されています。

 天寧寺

 「寄附主 東京 高橋箒庵」

 建てたのは、高橋箒庵(そうあん)でした。
 高橋箒庵(義雄、1861-1937)は、益田鈍翁(孝)と並んで、近代を代表する数寄者です。東京では中心的な存在で、彼が催した茶会は『東都茶会記』などに記され、その交友関係は日記『萬象録』に書き留められています。また茶道具の売立てなどについて克明に記録した著書『近世道具移動史』があります。もとは新聞記者でしたが、途中、三井に勤務し、晩年は茶道に関する文筆に専念し、斯界の名器を探し求めました。

 茶の世界に生きた金森宗和と高橋箒庵。そんな二人が結びついても何の不思議もないのですが、それにしても、なぜ高橋箒庵はここにこの石標を建てたのでしょうか。
 具体的に知りたいと思いました。


 『大正名器鑑』と『昭和茶道記』

 そもそも、この石標はいつ建立されたのかが記されていません。年代という大切な手掛かりがないわけですが、それでも高橋箒庵には明治から昭和に至る茶会記(茶道記)があるので、それを調べてみることにしました。
 直観的に「昭和かな」と思い、『昭和茶道記』を調べてみます。 
 するとどうでしょう、昭和2年(1927)5月31日の項で、金森宗和墓のことが記されていたのです。

 高橋箒庵は、金森宗和が宇治の茶の木で刻んだ千利休像を所持していたそうです。1尺3寸(約40cm)程度の像ですが、大徳寺山門の像とほぼ同形で、底に宗和の直筆で名と書判が認めてあったといいます。
 箒庵は、この木像を安置するのにふさわしい場所を探し求め、宗和の墓のある天寧寺を思い付きました。

 かくて箒庵は天寧寺を訪ねるのですが、そこからの事情は彼の大著『大正名器鑑』とあわせて見ていきましょう。ちなみに『大正名器鑑』は全9編あり、蒐集家などが秘蔵する茶道の名器を集成した写真・史料集です。

 『大正名器鑑』によると、大正15年(1926)5月17日に閑を見付けて天寧寺に趣き、「先づ宗和の墓所を探れば、果して丈四尺許[ばかり]なる五輪石塔二基相並び居るを発見せり」。
 宗和の墓を「発見」!
 『昭和茶道記』では控えめに「今度余が発見したとは言わぬ」と書いていますが、忘れられた宗和の墓所を見出したのでした。むろん、その墓が天寧寺にあることは、箒庵が参照していた『茶人系伝全集』や『名人忌辰録』などにも掲載されていたようですから、全く未知だったのではありません。しかし、かなり忘れられていた存在だったのでしょう。


 野々村仁清「水仙」の茶碗

 墓参を済ませた箒庵は、住職に面会し、宗和の遺物がないかと問います。すると、野々村仁清の茶碗と二重切竹筒花入、そして宗和からの手紙を示されたといいます(これを見た日付については『茶道記』と『名器鑑』では異なっているように読めます)。
 天寧寺に宛てた手紙には、茶入、茶碗、茶杓、竹筒、水指をそれぞれ1つずつ持参すると記されていました。そのうち茶入と茶杓はすでになく、水指は京都国立博物館へ出品中だったそうです。けれども、箒庵は茶碗と竹筒花入を実見することができました。

 花入は宗和の作に紛れはないけれど、格別のものとも思えませんでした。しかし、茶碗は宗和好みで、野々村仁清に焼かせたものと思え、「作行精妙、意匠抜群の名品」と見受けられました。感動した箒庵は、これを『大正名器鑑』に収録します。

 この茶碗は、高さ3寸、口径4寸1分、白地蹴鞠形で、「水仙」という名の通り「如何にもサツパリとして高尚なる図様」で、胴に水仙が描かれています。まったく使用した痕跡がなく「今や窯より出でたらんが如くに新鮮」な品でした。
 『大正名器鑑』第9編の最末尾にこの茶碗は掲載されていて、その姿を写真で見ることができます。

 箒庵は『昭和茶道記』に、「宗和の菩提寺たる天寧寺に斯かる遺品遺書が現存してある以上は、当今の茶人は此不世出の大宗匠に向つて時々報恩供養を怠つてはなるまい」と記しています。
 この気持ちが、門前に石標を建てさせた理由であり、その熱意が仁清作の優れた茶碗を発見させたのでした。

 ちなみに、高橋箒庵が見出した「水仙」の茶碗は、2008年に「銹絵(さびえ)水仙文茶碗」として国の重要文化財に指定されました。
 文化庁のデータベースより、その解説を抜粋しておきます。

 仁清の作品は色絵が著名であるが同時に本作品のような銹絵などの作品でも優品を多数残している。本茶碗は仁清の茶碗によく見られる胴部を絞った優美な姿を示している。文様は水仙の意匠であるが、仁清独特の白濁釉(はくだくゆう)の下に白泥(はくでい)を置いて銹絵の濃淡で見事に描いたものである。技術的にも極めて優れた仁清の茶碗を代表する優品である。

 京都国立博物館のホームページもご参照ください(作品写真があります)。 ⇒ <京都国立博物館ホームページ>




 天寧寺

 所在 京都市北区寺町通鞍馬口下ル天寧寺門前町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄鞍馬口下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 高橋箒庵『大正名器鑑 第9編』大正名器鑑編纂所、1926年(復刻版 アテネ書房、1997年)
 高橋箒庵『昭和茶道記 一、二』淡交社、2002年
 谷晃校訂『茶湯古典叢書 四 金森宗和茶書』思文閣出版、1997年




寺町・新京極を歩く(その2) - 上善寺 -





上善寺


 秀吉による寺町の形成

 京都市街を南北に貫く寺町通。平安京の時代にさかのぼれば、ほぼ東京極(ひがしきょうごく)大路に相当します。つまり、平安京の東の端で、その向こうは鴨川が流れているというわけです。
 その後、豊臣秀吉は京都市街の改造に着手し、外周を御土居(土塁)で囲むとともに、寺院を寺町に集めました。その場所は、かつての東京極大路と、その西に築かれた御土居に挟まれた土地です。
 北は鞍馬口通から南は六条あたりまでの長大な区域に、多数の寺院が移転させられ、その数は100ほどにものぼります。距離は、約5km。他に類を見ない寺町の完成でした。
 移転は、天正19年(1591)頃までに終わりましたが、その多くは京都の町衆と密接な関係を持っていた浄土宗や日蓮宗、時宗の寺院でした。


 鞍馬口通の上善寺から

 今回、寺町通を歩くにあたって、最初に北端の鞍馬口通に向かってみましょう。

 寺町鞍馬口

 鞍馬口通から南を見たところ。ささやかに寺町通が始まっています。ちなみに、右の建物は銭湯です。 
 ここから南へ行くと、すぐさま寺が続く町並みが始まるのですが、まずは鞍馬口通に面したお寺からのぞいてみましょう。

 上善寺です。

上善寺 本堂

上善寺 山門

 上善寺は浄土宗の寺院です。開創は円仁にさかのぼると伝え、もとは天台宗の寺院でした。秀吉の時代に移転する前は千本今出川にあり、現在そこには後に再興された上善寺があります。
 秀吉の寺町計画の一番北に据えられたのが上善寺でした。ただ、建物などは当時のものはないようです。

 門前に立つと目に入るのが、大きな石標です。

 上善寺

 比較的新しく昭和2年(1927)に建てられたものなのですが、「第一番 六地蔵尊」と刻まれています。上善寺は浄土宗、本尊は阿弥陀さんなのですが、「六地蔵」とはいったい?


 京の六地蔵

 天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道を指す六道。そこで衆生を救済する地蔵菩薩は、それぞれにおられるので、六地蔵とも呼ばれます。
 京都で「六地蔵」というと、伏見区から宇治市にかけての地名・駅名「六地蔵」を思い出す方も多いのでは。そのあたりから話を説き起こしてみましょう。

 「平家物語」の異本のひとつ「源平盛衰記」には、「西光卒都婆事」として、平家物語にはない記事を載せています。そこには、

 「当初有難キ願ヲ発セリ。七道ノ辻コトニ、六体ノ地蔵菩薩ヲ造リ奉リ、卒都婆ノ上ニ道場ヲ構テ、大悲ノ尊像ヲ居奉リ、廻リ地蔵ト名テ、七箇所ニ安置シテ云(中略)加様ニ発願シテ造立安置ス。四宮河原、木幡ノ里、造道、西七条、蓮台野、ミソロ池、西坂本、是ナリ」

 ここには、院の近臣・西光(藤原師光)が、京都に出入りする七道の辻ごとに地蔵菩薩を造立し、道場を構え、「廻り地蔵」と名付けたと記されています。
 その場所が、次の7か所です。

  ・四宮(しのみや)河原
  ・木幡(こわた)の里
  ・造道(つくりみち)
  ・西七条
  ・蓮台野(れんだいの)
  ・ミゾロ池
  ・西坂本

 この地名については、のちに「山城名勝志」(1705)が注釈しています。
 四宮河原は「大津路、山科に在り」、木幡の里は「宇治路、六地蔵町に在り」、造道は「摂津路、上鳥羽に在り」、西七条は「丹波路、桂里に在り」、蓮台野は「長坂路、今絶えて常盤村像を拝す」、ミゾロ池は「鞍馬路」、西坂本は「竜華越、今この一所絶る」とあります。

 それぞれの場所が、京都から遠方に向かう行き口、いわゆる京の七口(多くの出入り口)にあったことが分かります。つまり“境”に当たる場所に、地蔵を祀ったというわけです。
 さらに、すでに18世紀初めには西坂本は廃絶し、蓮台野にあった地蔵も代わって常盤村のものを参るようになっていたと記されています。
 
 他方、「都名所図会」巻5(1780)「六地蔵」の項には、次のように記されています。

 「地蔵堂 大善寺と号す。浄土宗也。京道の角にあり。 本尊地蔵菩薩ハ仁寿二年[852年]、小野篁、冥土に趣き生身の地蔵尊を拝し、蘇りて後、一木を以て六体の地蔵尊をきざみ当寺に安置す。保元年中に、平清盛、西光法師に命じて都の入口毎に六角の堂をいとなみ、この尊像を配して安置す。今の地蔵巡り、これよりはじまる」

 ここでは、冥土から帰還した小野篁(たかむら)の説話を加え、篁が6体の地蔵を造って現在の大善寺(伏見区)に安置したとしています。そして、のちに西光が1体ずつを6か所に分置したと述べています。

 このように言い伝えはさまざまで、起源は定かではありません。それでも、江戸時代の前半には次の6か所が六地蔵として参拝の対象になっていたようです。

  1.御菩薩池地蔵(のち鞍馬口・上善寺)
  2.山科地蔵(四宮・徳林庵)
  3.伏見六地蔵(伏見・大善寺)
  4.鳥羽地蔵(上鳥羽・浄禅寺)
  5.桂地蔵(桂・地蔵堂)
  6.常盤地蔵(太秦・源光庵)

 おそらく北から時計回りに巡る順になっているのでしょう。

  
 御菩薩池(深泥池)の地蔵

 上善寺の話に戻りましょう。

上善寺
 上善寺地蔵堂

 現在、上善寺の地蔵堂には地蔵菩薩が祀られていますが、これも元は他の場所にありました。それが、御菩薩池(みどろがいけ)です。今では、深泥池と書くのが一般的になりましたが、北区上賀茂の東端にある貴重な水生植物群が生育する池沼です。
 
 深泥池を元は「御菩薩池」と書いたのも、地蔵菩薩に由来するのでしょうか。「都名所図会」巻6には、こうあります。

 「御菩薩池ハ幡枝[はたえだ]の南にありて傍に地蔵堂あり。平相国清盛の代、西光法師がいとなみしとぞ。六地蔵廻りの其一なり」

都名所図会より御菩薩池 
「都名所図会」より「御菩薩池」
左下に「地蔵堂」。遠くに「幡枝円通寺」が

 上の図にも「地蔵堂」として、方三間の宝形造のお堂が描かれています。その脇、池端の道が幡枝から市原、鞍馬方面に抜ける鞍馬街道です。つまり、このお地蔵さんは、鞍馬街道の口に当たる場所に祀られていたのでした。
 これが明治以降、上善寺に移されたのです。上善寺も鞍馬口通にあり、深泥池よりはかなり南ですが、出雲路橋を渡って真っ直ぐ北上すると深泥池に到達しますから、鞍馬への入口に当たるのは確かです。そういう縁で移転したのでしょうか。

上善寺 上善寺 上善寺
 各地蔵のお幡(左上・鞍馬口、右上・六地蔵、左下・上鳥羽)

 京都の年中行事をまとめた黒川道祐「日次紀事」(1676年)には、六地蔵巡りの習俗について、7月24日(旧暦)の条に、こう記しています。

 「六所地蔵詣 今日洛外六所地蔵詣、いわゆる賀茂御泥池[みどろがいけ]、或は云く菩薩池、山科、伏見、鳥羽、桂、太秦これ也。およそ一日六所の行程十里余也(後略)」

 17世紀後半には、すでに先に記した6か所になっていることが分かります。
 ちなみに、24日はお地蔵さんの縁日です。 

 冒頭に掲げた上善寺門前の石標(昭和2年)に刻まれた順番は「第一番」。上記の1~6の順番は、江戸時代初めから、およそ定まっていたのかも知れません。石標と同じ頃(昭和7年)に出版された濱中寛淳『京都「六地蔵巡り」の栞』も、この順番を取っています。

上善寺 上善寺にて

 現在では、六地蔵巡りは、地蔵盆の8月22日、23日に行われます。
 『京都「六地蔵巡り」の栞』には、その功徳として、除災火難、寿命長遠、女人平産、除碎諸病、福徳自在、五穀成就、諸神守護の7つをあげています。お地蔵さんは庶民を助ける仏さまとして、いつの時代にも人気がありますね。



 上善寺

 所在 京都市北区鞍馬口通寺町東入ル上善寺門前町
 拝観 境内自由
 交通 地下鉄鞍馬口駅下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『図集日本都市史』東京大学出版会、1993年
 「参考源平盛衰記」、『改定史籍集覧 編外三』(臨川書店、1984年)所収
 「山城名勝志」、」、『京都叢書』(京都叢書刊行会、1915年)所収
 「日次紀事」、『京都叢書』(京都叢書刊行会、1916年)所収
 濱中寛淳『京都「六地蔵巡り」の栞』龍門春秋会、1932年
 田中久夫ほか『近畿の民間信仰』明玄書房、1973年



絵馬堂が意外におもしろい!(4) - 今宮神社 -





今宮神社


 紫野の今宮神社

 私は、高校3年間、今宮神社のそばの学校に通っていました。通学の行き帰りに見ていた朱色の楼門は、眼の奥に焼き付いています。

今宮神社

 けれども、境内の様子は余り記憶にありません。記憶にあるのは、東門前に向かい合って2軒ある「あぶり餅」店だけです。高校生ですから、その程度だったのでしょう。
 今回取り上げる絵馬堂なども、まったく覚えておらず恥ずかしい限りですが、少し観察してみましょう。


 京都の古い絵馬堂

 これまで3回にわたり、京都の絵馬堂を紹介しました。内容は、こちら ⇒ その1その2その3

 これまでは、上御霊神社、北野天満宮、御香宮神社を取り上げました。
 京都市内の古い絵馬堂(絵馬所)といえば、上記の北野天満宮があげられます。現在の絵馬所は、元禄13年から14年(1700-1701)の天満宮修築の際の建物です。しかし、もともとは慶長13年(1608)に豊臣秀頼により絵馬堂が造営されたといいます(『京都の絵馬』)。もっとも「京都御役所向大概覚書」によると正保3年(1646)の社殿修復時には絵馬堂は確認されないので、途中で失われていたのかも知れません。
 『京都の絵馬』掲載の年表によると、古い絵馬堂の建設は次のようになっています。

 慶長13年(1608)   北野神社
 正徳年間(1711-16) 藤森神社
 宝暦 5年(1755)   御香宮神社
             御霊神社
 宝暦年間(1751-63) 安井金比羅宮
 寛政 3年(1791)   今宮神社
 寛政 9年(1797)   伏見稲荷大社

 北野天満宮は飛び抜けて古いとしても、多くの神社では18世紀に絵馬堂が建立されたことが分かります。今宮神社も、そのひとつだったわけです。

今宮神社

今宮神社

 側面からは撮りづらいのですが、北面から写してみました。
 桁行六間、梁間二間、入母屋造桟瓦葺の建物です。北野天満宮などと同じ規模で、大きな絵馬堂といえます。
 「都名所図会」(1780)を見てみましょう。

今宮神社

今宮神社

 本殿の左方に「画馬殿」が描かれています。絵は、桁行三間、梁間はおそらく二間になっています。「都名所図会」は安永9年(1780)刊ですから、寛政の今宮神社絵馬堂より早く描かれていることになります。すると、この「画馬殿」は寛政の建物の前身なのでしょうか? このあたりは少し考えてみる必要がありそうです。


 海北派の絵馬

 この絵馬堂に懸っている絵馬を見てみましょう。今回注目するのは、次の絵馬です。

今宮神社

 少し退色しているものの大画面の絵馬です。
 中央の人物を拡大してみましょう。

今宮神社


 左は女性、右はいかめしい顔をした男性。どちらも甲冑をまとっているようです。
 実はこの人物、神話上の存在ですが、神功皇后と武内宿祢なのです。いわゆる「三韓征伐」の絵柄になっています。特に、武内宿祢の表情と甲冑が巧みに描かれています。
 神功皇后が手に長い棒状のものを持っていますが、これは釣竿で、肥前国松浦で鮎釣りをして勝敗を占っている場面(もちろん勝つという結果)です。祇園祭の占出山(鮎釣山)と同じモチーフになっています。

 神功皇后の説話は人口に膾炙していたらしく、それを取り上げた絵馬は全国的にも数多く見られるようです。一般には、皇后に仕えた武内宿祢とセットで描かれ、船に乗って戦闘している絵柄もあります。また、武内宿祢だけを画く絵馬もあります。これらは、武運長久の祈願であり、航海安全の祈願でもあるのでしょう。
 
 では、この絵馬、いつ誰によって描かれたのでしょうか。

 今宮神社

 絵馬の右端に、「寛政十年戊午秋七月吉祥日 海北友徳斎謹図」とあり、「照道」の印。奉納者の「沖田氏/木村氏/中嶋氏/木戸氏/渤海氏」の名が記されています。
 寛政10年、つまり1798年に描かれた絵。絵師は、海北友徳。

 海北(かいほう)という苗字は、桃山時代の絵師・海北友松でお馴染みですね。
 海北派の系図を見てみると、

  友松-友雪-友竹・(友賢)-友泉-忠馬-友三-友徳-友樵

 と続いていきます。
 友徳は、友松の6代後ということになります。宝暦12年(1762)の生れ、弘化4年(1847)没。海北家は、京都の禁裏御用だったので、友徳も寛政の御所造営(1790)に際して、小御所東廂の障壁画・朝賀図を描いたそうです。もちろん、友松の頃の勢いはなく、筆法も狩野派のそれを取り入れていったとみられます。

 いまひとつ、今宮神社に伝わる彼の絵馬を見ておきましょう。

今宮神社

 竜頭の船が一隻、海原に浮かんでおり、右手に一人の翁が釣をしています。この翁、実は住吉明神で、船の舳先に乗る人物は、白楽天です。よく見ると、顔も中国風に描かれています。謡曲「白楽天」の一節を絵画化した作品です(「謡曲白楽天図」)。寛政9年(1797)に描かれたもので、「海北斎宮亮」と友徳を示す落款があります。 

 江戸時代、京都で絵馬をよく描いた絵師は、狩野、長谷川、海北、別所の4家だったといわれます。海北派も、友松以来の障壁画の技術をもって大画面の絵馬を描いたのでしょう。
 2代目の海北友雪は、清水寺に伝わる「頼政射怪獣図(鵺[ぬえ]退治図)」(1635年)や「田村麻呂夷賊退治図」(1657年)といった巨大な絵馬を描きました。また、その門人の友賢は八坂神社に「仁田四郎猪退治図」(1702年)を残しています。ふだん目にする機会のない作品ですが、現在まで伝わる大作もあるわけです。
 今宮神社には、「曳馬図」も残されています。これは、海北友竹が描いた図が風雨により傷んだので、友徳が補筆した作品だともいわれます。弘化3年(1846)のことですから、友徳が没する前年です。

 絵馬堂の上を見上げて絵馬を観察するのは、なかなかしんどいのですが、時には時間をとってじっくり絵馬を眺めるのも愉しいものです。



 今宮神社




 今宮神社

 所在 京都市北区紫竹今宮町
 拝観 境内自由
 交通 京都市バス今宮神社前下車、すぐ



 【参考文献】
 『京都の絵馬』京都府立総合資料館、1980年
 『近世の京都画壇-画家と作品-』京都市文化観光局、1992年
 河田貞『日本の美術 92 絵馬』至文堂、1974年
 岩井宏実『絵馬』法政大学出版局、1974年



御所の門を移築した大徳寺勅使門は、桃山の彫刻が美しい





大徳寺勅使門


 近世の京都御所造営

 京都御所というと、平安京の昔から今の位置にあるように錯覚されがちですが、かつての内裏はもっと西、現在の千本通に近い場所にありました。
 南北朝時代、里内裏だった土御門東洞院殿が皇居に定められて以来、そこが御所となりました。
 もちろん、建物もたびたび改築されてきました。あるときは火事による焼失で、あるときは時の権力者による新築などで。近世だけでも、次のように頻繁に造替が行われました。

 天正19年(1591)
 慶長18年(1613)
 寛永19年(1642)
 承応 4年(1655)
 寛文 2年(1662)
 延宝 3年(1675)
 宝永 6年(1709)
 寛政 2年(1790)
 安政 2年(1855)

 天正は豊臣秀吉による造営、慶長は徳川家康、寛永は徳川幕府による造営でした。しかし、承応以後は、火災による焼失で新築されたものです。
 そこで、私たちの興味をひくのが、天正・慶長・寛永の御所の建物が寺社などに下賜されて残されていることです。

 たとえば、この建物。

仁和寺金堂
 
 仁和寺金堂(国宝)です。桁行七間、梁間五間、入母屋造の堂々たる建築ですが、これは慶長18年(1613)に造営された御所の紫宸殿でした。木造建築は、ばらして運べば、また組み立てられますから、このように移築できます。
 仁和寺では、他にも御影堂が慶長の清涼殿を移したものとされています。
 また、南禅寺方丈は天正19年の内裏の建物ですし、同じく南禅寺勅使門は慶長18年の内裏の門でした。このように、京都の各所に御所の旧建物が移築されて、現存しているのです。

 そして、今回取り上げる大徳寺の勅使門(重文)。

大徳寺勅使門

 こちらも、仁和寺金堂や南禅寺勅使門と同様、慶長18年の御所の門を寛永の造替に先立って移築したものです。大徳寺の記録には、寛永17年(1640)に下賜されたと記されています。
 2002年まで行われていた修理工事で、この勅使門から「御内裏西之かわ 南ノ門」とか「西かわ南御門」といった墨書が確認されて、御所の西側の塀に開かれた南門だということが裏付けられました。


 勅使門の位置

 大徳寺勅使門は、総門を入って西に進んだところに建っています。京都の禅宗寺院では、総門と勅使門を別々に造るのがふつうで、両者が左右に並んでいる場合もあります。ここでは、直角の関係になっています。
 勅使門の先には池があり、さらに三門、仏殿、法堂と一直線に並びます。大徳寺も、このパターンをとっています。

都名所図会のうち大徳寺
  「都名所図会」巻六、大徳寺

 この図の左下に見えるのが勅使門です。ちなみに、左上の門は「日暮門」とも称された唐門、右上の大きな楼門は三門です。唐門については、こちらの記事をご参照ください。 ⇒ <国宝・大徳寺の唐門は、聚楽第の遺構>

 少しおもしろいのですけれど、上の図のうち、三門は自前で建てたものですが、勅使門や唐門は他所からもらってきたものなのですね。

都名所図会のうち大徳寺
 「都名所図会」巻六、大徳寺(勅使門)

 「都名所図会」(1870年)に描かれた勅使門は、実物よりちょっと貧弱に見えます。けれども、切妻の屋根に唐破風を付け、左右に袖壁があるところなどは、きちんと画いていますね。左手にある立派な松は今はないようですから、枯れたのでしょうか。


 多彩な彫刻が目を引く門

大徳寺勅使門
  勅使門の軒唐破風

 桃山の建築だけあって、細部はなかなかこっています。

大徳寺勅使門

 軒唐破風の細部。上から、懸魚(げぎょ)、大瓶束(たいへいづか)、蟇股(かえるまた)と並びます。懸魚の左右には鰭(ひれ)の飾りが付いています。これは菊なのでしょうか、花の模様です。よく見ると、中央にも菊文が入っていて、元御所の門らしいですね。
 大瓶束にも、左右に笈形というヒレが付いています。この花は牡丹でしょうから、牡丹唐草、桃山時代の特徴を示す笈形で、華やかですね。

  【上の写真の拡大です】
大徳寺勅使門


 懸魚など

大徳寺勅使門
  妻側(西面)

大徳寺勅使門

大徳寺勅使門

 妻に付く懸魚は三花懸魚です。これも中央に菊文が付けられています。
 藤原義一先生の評を引用しておきましょう。


 主として唐様手法に成り、随所に大小彫刻を充填し、殊に太瓶束の両脇を飾る笈形の唐草彫刻は見事である。
 軒唐破風が大きくて屋根が重厚なのが、普通ならば不均合と感じられるところであるが、此の場合には柱、枓栱、虹梁、太瓶束等の構成する気宇に雄大さがあり、其間に充たされた彫刻もこれに相応する力強いものであるので、屋根の重圧を優に支へ、門全体として一種の壮重さを現はしてゐる。
 桃山式華麗な彫刻を多く用ひ乍ら、華麗さよりも壮重さを多く現はしてゐるところに此門の特徴があり、次に記す唐門と比較すれば此性質が一層はつきり感じられる筈である。(『京阪沿線の古建築』)


 なるほど、屋根と彫刻とのバランスですね。たしかに、大ぶりの軒唐破風に負けないくらい彫刻がぎっしりです。

大徳寺勅使門
  木鼻

 勅使門などというものは、どちらのお寺でも地味で目立たない存在ですが、なかなか立派なものが多いのです。この門も、京都の四脚門の中で自慢できる逸品ではないでしょうか。


大徳寺




 大徳寺

 *所在 京都市北区紫野大徳寺町
 *拝観 境内自由  ※塔頭などは別途
 *交通 市バス大徳寺前下車、すぐ



 【参考文献】
 『国宝重要文化財 大徳寺唐門勅使門修理工事報告書』京都府、2003年
 「都名所図会」(1870年)
 藤原義一『京阪沿線の古建築』京滋探遊会、1936年
 天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』星野書店、1944年
 三好和義『京都の御所と離宮1 京都御所』朝日新聞出版、2010年