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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

初詣は北野天満宮、おみくじに秘められた深い意味





北野天満宮初詣


 三が日に初詣

 あけましておめでとうございます。
 本年も、当ブログをよろしくお願い申し上げます。

 私は毎年、お正月は北野天満宮に初詣です。
 というのも、天神さん(という方がなじみなので)の近所に恩師のお宅があり、そこに新年の挨拶にうかがうからです。訪問の前に、天神さんに初詣、というわけです。
 もっとも、母の実家もこの近くでしたので、子供の頃はいつもお詣りしていました。京都の大きな神社のなかでは、一番なじみ深い神社なのです。

 北野天満宮大絵馬 戌年の絵馬


 特徴のあるおみくじ 
 
 参拝すると、必ずおみくじを引くのも毎年の習慣。200円也ですが、真鍮製の棒を引くので、がらがらと大きな音がします。

 天神さんのおみくじは、大吉とか小吉とか、吉凶がもちろん書かれているのですが、それに加えて1行の言葉が添えられています。

 今年、私が引いたものには、こう書かれていました(19番)。

  屈曲して初めて用を知る 
 
 なにか、むずかしそうですね。
 そのため、説明として、次のように記されています。

 折曲ることにより初めて屏風は立って役にたつもので この世の中も多くの人々の協力を得て初めて成功すると教えられているのです。人と親しみ万事に調和して、信心専一にすれば大幸運を授かります。  

 なるほど。
 屏風は、曲がって初めて立つものなので、それに人をなぞらえて、人も役立つには “曲がる” ことが重要と、説いているわけです。

 ちなみに、辞書を引いてみると、屏風について、「屏風と商人(あきんど)は直(すぐ)にては立たぬ」ということわざが載っています(『日本国語大辞典』)。

 屏風は折りたたむようにすこし曲げなければ立たない。商人も営業上自分の情を押えて買手の意を迎えなければ成功しない。商人と屏風は曲らねば世に立たず。 

 こちらは、屏風を商人(商売)のたとえにしています。
 そして、17世紀初頭にイエズス会により刊行された「日葡辞書」にこの言葉が記されていることが紹介されています。つまり、安土桃山時代には、すでにこういう言い方があったわけです。


 なぜ屏風なのか?

 と、意味はよく分かったのですが、なぜおみくじに屏風が登場するのか、ちょっと不思議ですね。

 実は、北野天満宮のおみくじは、ご祭神である菅原道真が詠んだ漢詩などの一節から取られているのです。
 これについて紹介したウェブサイト「山陰亭」によると、ほとんどが道真公の詩文を収めた「菅家文草」所収のものによるということです。

 そう聞いて、おみくじを見ると「北野天満宮 御詠詩神籤」と書いてあります。道真公の「詠詩」に基づいているということですね。

 そこで、『日本古典文学大系』に収載された「菅家文草」を見てみると、巻5-409に「屏風」という漢詩(五言律詩)がありました。
 原文は漢文ですが、訓読したものを引用します。

 屈曲して 初めて用を知る
 施来(もち)ゐれば 風を畏(おそ)りず
 質(かたち)は羅(うすもの)を帳の裏に宜し
 功(いたは)りは玉の筵(むしろ)の中に見(あらは)る
 人馬 来り去ることなし
 煙霞 始終あらず
 丹青 巧みあることを知る
 開合 また西東  


 屏風の特徴を詠んだ詩ですが、最初に「屈曲して初めて用を知る」が出てきました。
 註によると、中国の書物に現れたモチーフが参照されているそうです。「南史、斉書に、王遠という人は屏風のようだ、屈曲して俗に従い、能(よ)く風露を蔽うとある」と説明しています。

 おみくじは、道真公の原詩をさらに敷衍して、世の中に役立つための人のあり方を説いたわけです。
 なかなか含蓄が深いですね。

 北野天満宮

 引いたおみくじは、天神さんに結んで帰るので、過去にどんなものがあったのか、残念ながら記憶にありません。
 ひとつだけ、記録していたものが、これです(12番)。

  木こりは薪(まき)を負うて行くを嘆かず

 現在は苦難の運勢だが、めげずに精進すれば明るい未来が開ける、と説かれています。余りよくない運勢で、半凶でした。

 この出典は「菅家文草」巻2-146で、七言律詩です。

 士は寒(ひややか)なる閨(ねや)より出でて忠順成る
 樵夫(しょうふ)は歎かず 薪(たきぎ)を負ひて行くことを
 雲龍闕下 趨(はし)りて父を資(たす)く
 槐棘門前 跪(ひざまづ)きて兄に事(つか)ふ 
 一たび願はくは 偸(ひそか)に天性の色を承けなむことを
 参(み)たび言へらく 半(なかば)孔懐の声を帯びてむといへり
 侍郎は官衙の早きを厭ふことなし
 誰か道(い)はむ 遺孤の生めるところを忝(はづかし)むると 


 「樵夫」は、木こり。この部分をおみくじに用いています。
 古典文学大系の註には、「たとえば樵夫の家に生まれたならば、少年のとき、薪をせおって力しごとに従事して、それを苦にしないものが士(中国の階層のひとつ)となるの意」と説明しています。

 貧しい身分であっても、努力を重ねれば立身出世する、というような意味ですね。
 おみくじの説くところと通じます。

 含蓄のある北野天満宮のおみくじ。
 今年引いた「屏風」の教えは、1年間仕事をしていくうえでも、よい教訓になりそうです。

 来年は、どんな句が出て来るか、早くも楽しみです。




 北野天満宮

 所在  京都市上京区馬喰町
 参拝  自由
 交通  市バス「北野天満宮前」下車、すぐ



 【参考文献】
 川口久雄校注『日本古典文学大系 72 菅家文草 菅家後集』岩波書店、1966年
 『日本国語大辞典』小学館、1975年



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新たに指定される京都市の文化財 - 堀川第一橋ほか -





堀川第一橋(中立売橋)


 橋から仏像、文書まで、さまざま

 今月(2017年3月)、京都市の新たな市指定文化財の答申が出ました。

 指定品は、次の通り。

 ・堀川第一橋
 ・櫻谷文庫(旧木島櫻谷家住宅)
 ・木造阿弥陀如来立像(上徳寺)
 ・紙本金地著色唐獅子図(養源院)
 ・鳥羽離宮金剛心院跡出土品
 ・伏見稲荷大社松の下屋
 ・大原野神社摂社若宮社(追加指定)
 ・実相院文書(追加指定)  


 橋や住宅といった建造物、仏像、障壁画、考古遺物、古文書など、バラエティに富みますね。

 実は、このなかに当ブログでも取り上げたものがあるのです!
 別にこのブログのおかげで指定されたわけではないのですが(笑)、うれしいことですね。

 ひとつは、上徳寺。
 下京区の富小路通五条下ルにある浄土宗のお寺で、今回の指定は御本尊の阿弥陀如来立像です。

 上徳寺本堂
  上徳寺 本堂

 もっとも、この御本尊を取り上げたわけではなく、境内にある別のものを紹介したのでした。

 世継地蔵

 世継(よつぎ)地蔵です。
 お世継ぎ、つまり子供に恵まれるというご利益があるお地蔵さんです。たいへん深い信心を集めているので、昨年でしたか紹介しました。

 記事は、こちら! ⇒ <数多くの絵馬が奉納された世継地蔵に、庶民の願いをみる>
 
 たくさん絵馬が懸けられていたり、祈願した方の感想ノートがあったり、いろいろ考えさせられるお地蔵さんです。

 指定される阿弥陀如来立像の方は、鎌倉時代前半の作と考えられるもので、滋賀県の鞭崎八幡宮から伝わったものとされています。


 明治時代の石橋も

 もうひとつは、堀川第一橋です。
 いまは中立売橋(なかだちうりはし)の呼び名で通っています。

 ちなみに、「中立売」は「なかだちうり」ということになりますが、発音的には「なかだちゅうり」でしょうか。

 堀川第一橋
  堀川第一橋(中立売橋)

 いいですよねぇ、この橋。
 変な言い方ですが、これが長崎にあったら観光名所ですよね(笑)

 真円のアーチ橋。円の下の方は埋まっているのだそうです。
 明治6年(1873)に架けられました。俗に言う「めがね橋」的なものですね。

 ちなみに、京都の眼鏡橋と言えば、大谷本廟(東山五条)にある円通橋などが立派でしょう。

 この堀川第一橋は、明治初期のもので、当時、堀川や本町通(伏見街道)に架けられた諸橋と同様、石造です。

 堀川の橋

 渡る人の目につく高欄も石で造られていて、なんだかお寺にある橋みたいですね。

 堀川の橋

 堀川の橋 石造の擬宝珠(ぎぼし)

 この下流の下立売橋は、堀川第二橋で、現在の橋の下部に明治の構造が残されています。

 これらについても、以前の記事をお読みください。

 記事は、こちら! ⇒ <堀川には素敵な石橋が架かっている>

 明治6年と言えば、すでに鉄橋が登場している時代で、お隣の大阪などでは盛んに鉄橋が架設されていました。
 堀川や本町通に残る石橋は、川幅が狭かったため、こういう構造になったのでしょう。

 近くを通ったら、ぜひ見学してみてください。

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 ということで、3月末、年度替りの季節ですね。
 
 当ブログ<京都発! ふらっとトラベル研究所>は、これまで3日に1度の更新、光秀公の三日天下ならぬ “三日殿下” になった気分で書き継いできました。
 4月から、大人の事情でちょこっと忙しくなりそう、というか、なる可能性があり、少し更新が不規則になるかも知れません。ご心配おかけするといけませんので、あらかじめお断りしておきます。

 ご愛読のみなさま方には、相も変わらぬ御贔屓をたまわりますよう、お願い申し上げます。




 堀川第一橋

 所在  京都市上京区東橋詰町ほか
 見学  自由
 交通  市バス「堀川中立売」下車、すぐ



応仁の乱の西軍の将・山名宗全の邸宅跡を訪ねてみた





山名宗全邸跡


 上京で展開した応仁の乱

 史上名高い応仁の乱(1467-77年)は、10年以上の長きにわたって京都の街中で闘われた戦です。
 細川勝元率いる東軍と山名持豊(宗全)率いる西軍が対峙して、地方の武将も参戦し、長期間戦ったのです。

 当時、室町時代の京都は、上京(かみぎょう)と下京(しもぎょう)という2つの地域に分かれていました。
 上京は、足利将軍の御所があり、公家や武家の邸が集まっているところ。分かりやすく、ざっくりと言えば、現在の相国寺~京都御所の西のエリアです。
 一方、下京は商工業者が集住していた地区で、現在の三条、四条あたり。祇園祭で山鉾を出す地域です。

 応仁の乱は、貴顕が住む上京で展開されたのでした。

 前回の記事では、東軍は「東陣」を構えて戦った、という話でした。
 東軍の陣は、室町幕府の御所(花の御所)を中心としてエリアでした。
 当時の陣は、史料に「城」という言葉で表現されるように、堀を持った要塞でした。東軍の場合、(北)寺之内-(東)烏丸-(南)一条-(西)小川という広い範囲を堀と土塁で囲んだのです。このような要塞を「構(かまえ)」と呼んでいます。

 これに対し、西軍の大内政弘は、東陣を見張るために高さ約30mもある櫓(やぐら。「井楼(せいろう)」という)を建てて見張ったと言います。また、東陣を攻める際にも、高さ4m近くある櫓を造って、攻撃を仕掛けたと言います。それだけ高い土塁があったのでしょう(『図説 京都ルネサンス』)。

 公家や武家は、自らの邸を堀と土塁で囲み「構」化したので、市街各所に構が続出することになりました(『応仁の乱』)。
 例えば、細川成之邸に造られた構は、彼が讃岐守だったことから「讃州陣」「讃州構」などと称されていたようです。

 応仁の乱では、このような籠城戦というか攻城戦が行われたので、戦いが長期化したのだとも考えられています。早くも戦国時代の戦の様相が先取りされていたわけです。


 山名邸跡を訪ねる

 今回は、西軍を率いた山名持豊(宗全)の邸宅跡を訪ねることにしました。

 堀川通
  堀川通

 堀川今出川の交差点から少し北に上がり、五辻通のさらに先の通りまで歩きます。ガソリンスタンドが目印です。
 ガススタンドの北のマンションに、小さな石標が建っています。

 山名宗全邸跡石標

 「山名宗全邸址」と刻まれています。
 ちょっぴり小さいので、“がっかり名所” 的な感じがするのも事実。
 でも、それにめげずに、もう少しふらっとしてみましょう!


 町名も「山名町」 

 京都でよく言われる冗談に、京都の人が「この前の戦争」と言ったら応仁の乱を指す、というのがあります(笑) その真偽はさておき、いにしえの記憶が街に刻まれているのも事実です。

 山名町

 碑の建つ道は、こんな静かな家並み。国の登録文化財である藤田家住宅などもあります。
 左側には2つのコインパーキングが。

 Times のパーキング名を見てみると……

 タイムズ看板

 「タイムズ堀川山名町」。
 
 そう、この場所の町名は、山名町なのです。

 応仁の乱から550年が経過していますが、いまだに山名宗全の名が町名に使われている。これもまた京都らしいと言うべきでしょうか。江戸時代には、山名辻子(づし)もあったようです。
 ちなみに、この乱に参加した畠山氏の名を取った畠山町などもあります。
 

 もうひとつの石碑

 少し歩くと……

 山名宗全邸跡

 町家と町家の間に案内板が。
 そう、ここもまた山名邸跡を示す石碑なのでした。

 山名宗全旧蹟碑
 
 「山名宗全旧蹟」と書かれています。
 それにしても、こんな狭いすき間に石碑とは…… たぶん広大だった山名邸が、こんな小さくなったとは。

  山名宗全旧蹟碑 山名宗全旧蹟碑

 でも、碑としてはこちらの方が立派で、史跡に来たという感じがしますね。

 山名邸は乱の中で焼亡し、宗全も文明5年(1473)、陣中で亡くなりました。
 

   消火器箱




 山名宗全邸跡

 所在  京都市上京区堀川通今出川上る西入山名町
 見学  自由 
 交通  市バス「堀川今出川」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 佐藤和彦ほか編『図説 京都ルネサンス』河出書房新社、1994年
 呉座勇一『応仁の乱』中公新書、2016年



 



西陣に対する「東陣」とは?





新町今出川


 「東陣」ってあるのか?

 先日、“西陣550年” の記事を書きました。
 応仁の乱に際して、山名宗全が陣を置いた場所が「西陣」と呼ばれるようになり、それから今年(2017年)が550年に当たるというものです。

 その際、「東陣」はあるのだろうか? という素朴な疑問を頂戴しました。

 今出川の町家

 大正4年(1915)に刊行された『新撰京都名勝誌』を見ると、「西陣織物 幷(ならびに)刺繍友禅染」の項に、次のように書かれています。

 西陣とは現今堀川以西、一条以北の地を総称す。応仁記に西陣(山名宗全の軍)には千本、北野、西ノ京、また東陣(細川勝元の郡)も上は犬馬場、西蔵口、下は小河、一条まで云々とあれば、堀川以東を東陣と称せしが如く思はるれど、今はたゞ西陣の称のみ残り(後略) (304ページ)

 このように、西陣とともに「東陣」についてもふれていて、堀川通より東が「東陣」であったように記しています。

 上の引用文に出て来る地名で「西蔵口」というのがありますが、これは現在の「清蔵口(せいぞうぐち)」に当たるようです。
 堀川通と烏丸通の間、鞍馬口通あたりに、上清蔵口町(北区)と下清蔵口町(上京区)があります。
 江戸時代の「雍州府志」などによると、元は「西蔵(倉)口」であると言います。
 京都市街に出入りする七口(ななくち)のひとつであったとされています(七口には諸説あり、実際には7か所以上あったらしい)。
 なお、犬馬場は、西蔵口の南あたりだったようです。

 『新撰京都名勝誌』に従えば、「東陣」は、堀川通より東で、北限は(およそですが)鞍馬口通あたり、南限は一条通あたり、ということになります。なお、東限は烏丸通あたりでしょう。
 東西南北ほぼ1km四方の広い範囲で、下記のように、西陣もこれと同じくらいの広さでした。

 西陣の範囲は、江戸時代の「京都御役所向大概覚書」には「東ハ堀川を限り、西ハ北野七本松を限り、北ハ大徳寺今宮旅所限り、南ハ一条限り、又ハ中立売通」とあります。
 江戸時代の範囲なのですが、西陣は、東は堀川通、西は七本松通の間で、北はおよそ北大路通あたり、南は一条通か中立売通までであったという認識です。

  西陣碑


 白雲村の白羽二重 

 東陣について、もう少し知りたいと思い、『京都町名ものがたり』を繙いてみました。
 すると、応仁の乱後の状況について、次のように説明されています。

 応仁の乱を避けて各地に散らばっていた織物関係者は、乱後、西陣の地に帰住し始めた。その中心となったのが大舎人座(おおとねりざ)の機織家たちだった。
 一方、練貫座(ねりぬきざ)の人々は、東陣の跡地に居を構え、白羽二重(しろはぶたえ)を生産した(練貫は絹織物の一種)。
 白羽二重の純白から取られたのか、そのあたりは白雲(村)と呼ばれた。場所は、室町通の西、小川通より東で、今出川通よりも北に当たる。これが、かつての東陣の地域に相当する。

 このように述べて、現在の新町通今出川上ルの元新在家町がそのゆかりだと指摘しています。同志社大学新町キャンパスの南側付近です。

 新町今出川
  今出川新町の交差点

 新町通の1本東の室町通には、室町幕府(花の御所)があったことを示す碑が立っています。そこを中心にしつつ、細川方は東陣を敷いたわけです。

 花の御所跡
  室町幕府(花の御所)跡碑

 それにしても、東陣とは聞き慣れない名前でしたが、現在では交通量も多い今出川通の付近だったわけです。
 京都の歴史は奥が深いと思いますが、知らず知らずのうちに、東陣の跡をいつも歩いていたのでした。まさに「兵どもが夢の跡」ですね。

 ところで、現地をぶらぶら歩いていたら、広報板にこんなポスターが貼ってありました。

 応仁の乱ポスター

 「歴史シンポジウム 応仁の乱」のポスター。
 ここにも「応仁の乱勃発550年」とあります。

 そして驚くべきことに「洛中洛外図屏風に見る乱後の東陣」と書いてあるではありませんか!
 調べてみると、昨年(2016年)2月に第1弾が行われ、上京区の方では東陣の盛り上げが図られていたようです。

 東陣ポスター

 こんなところで「東陣」に出会うとは ! ! 意外でした。




 東陣跡

 所在  京都市上京区今出川通新町上る元新在家町 付近
 見学  自由
 交通  地下鉄「今出川」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 川嶋将生ほか『京都町名ものがたり』京都新聞社、1979年
 『日本歴史地名大系 京都市』平凡社、1979年
 『京都府の歴史散歩(上)』山川出版社、2011年


2017年は、西陣550年!





千本中立売


 西陣誕生のきっかけは応仁の乱

 今朝、なにげなく「府民だより」2月号を見ていたら、伝統工芸を紹介するページに、小さく、

   西陣550

 というロゴマークが載っていました。

 何かな? と思って、説明を読んで分かりました。
 今年(2017年)は、応仁の乱から550年、つまり「西陣」が出来て550周年ということらしいのです。

 念のため、応仁の乱(応仁・文明の乱)について教科書を見ると、次のように書いてあります。

 嘉吉の変後、将軍権力の弱体化にともなって有力守護家や将軍家にあいついで内紛がおこった。
 (中略)
 幕府の実権を握ろうとして争っていた細川勝元と山名持豊(宗全)が、これらの家督争いに介入したため対立が激化し、1467(応仁元)年、ついに戦国時代の幕開けとなる応仁の乱が始まった。

 守護大名はそれぞれ細川方(東軍)と山名方(西軍)の両軍にわかれて戦い、主戦場となった京都は戦火に焼かれて荒廃した。応仁の乱は、1477(文明9)年、戦いに疲れた両軍のあいだに和議が結ばれて終戦を迎え(後略)  (『詳説日本史』山川出版社) 


 まあ、10年以上やっていたのだから、疲れますよね。

 戦いの舞台は、室町幕府が置かれていた京都。
 両軍の大将は、細川勝元と山名宗全。勝元が東軍、宗全が西軍です。

 そして、教科書には書いてないけれど、西軍が陣を置いた場所が、「西陣」呼ばれるようにとなった、ということなのですね。

 つまり、“西陣誕生” のきっかけは応仁の乱で、それが勃発したのが1467年、いまから550年前というわけです。

 堀川今出川西入ル、つまり西陣の一画にある京都市考古資料館。この大正時代に建てられた建物は、かつては西陣織物館でした。
 その前に、西陣と西陣織の由来を記した石碑があります。

  西陣碑 「西陣」碑

 昭和3年(1928)に建てられた堂々たる碑。立派な「西陣」の二文字は、京都帝大総長・荒木寅三郎によるもの。また、由来を記した文章も、京都帝大の歴史学者・三浦周行が起草しています。

 なお、大正の西陣織物館については、以前記事を書きましたので、そちらもご覧ください。
 
 記事は、こちら! ⇒ <ふたつの「革新」が出会い、西陣織物館は生まれた>

 京都市考古資料館
  旧西陣織物館(京都市考古資料館)


 始まっている「西陣550」

 550周年というのは、ちょっとキリが悪いけど、それはまぁいいですよね。
 調べてみると、「西陣550」は、西陣織工業組合が行っている西陣呼称550年にちなんだキャンペーン。きものショーなどのイベントを展開されるようで、すでに昨年11月からスタートしています。
 昨秋は、西陣織会館のリニューアルも実施され、今年がいよいよ本番ですね。

 ロゴマークも、京都造形芸大名誉教授・久谷政樹氏のデザインにより制作。織機で使う杼(ひ)を意匠化したものです。
 ここで紹介したいのですが、使用は有料みたいなので、ちょっと控えておきます(笑)

 西陣の町家

 西陣のことは、ここでもちょくちょく書いていますが、実のところ、このキャンペーンは知りませんでした。
 不注意の謗りを免れませんが、いっそうPRしていただき、盛り上げていければうれしいですね!


  西陣碑




 旧 西陣織物館(京都市考古資料館)

 所在  京都市上京区今出川通大宮東入ル元伊佐町
 見学  館内自由(無料)
 交通  市バス「堀川今出川」下車、すぐ