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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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京都の人気スポットを考える - トリップアドバイザーのランキングから -

伏見




伏見稲荷千本鳥居


 旅行サイト・トリップアドバイザーのランキング

 最近の京都では、海外ツーリストの受け入れについて、いろいろな議論が出てきています。
 宿泊の問題は最たるもので、新しいホテルが次々と建設され、宿の不足への新しい施策も検討されています。

 そんな中、少し旧聞に属しますが、6月に米国の大手旅行サイト・トリップアドバイザーが「外国人に人気の日本の観光スポット2016」を発表しました。
 これを見ると、当然? というべきか、京都の観光スポットもランクインしています(カッコ内は2015年順位)。

 1位  伏見稲荷大社(1位)
 2位  広島平和記念資料館(2位)
 3位  厳島神社(3位)
 4位  東大寺(4位)
 5位  サムライ剣舞シアター(8位)
 6位  新宿御苑(12位)
 7位  奈良公園(18位)
 8位  金閣寺(11位)
 9位  アキバフクロウ(初)
 10位  清水寺(ー)

 13位  禅林寺 永観堂(5位)
 14位  三十三間堂(24位)
 26位  京都駅ビル(-)
 28位  ギア専用劇場(19位)


 11位~30位は、京都だけをピックアップしました。

 伏見稲荷大社 伏見稲荷大社


 意外な体験型が人気

 どうでしょう?

 堂々1位は、伏見稲荷大社ですね。
 たぶん、世界中でも類を見ない千本鳥居が、相変わらず大人気!

 伏見稲荷は、私的には、社頭のお店のある雰囲気が気に入っていて、トップでうれしいですね。
 いつぞや訪問した際も、ミニ鳥居――というか鳥居形の絵馬を衝動買いしてしまい、同僚に苦笑されてしまいました。

 鳥居型絵馬 鳥居形の絵馬
 
 そんなわけで、べストテンに4つも京都がランクインしています。
 4つ? と思いますよね。
 伏見稲荷大社、金閣寺、清水寺……

 実は、5位のサムライ剣舞シアターも、京都市内にある施設なのだそうです。
 羽織・袴を着用して、居合いのような体験ができるみたい。場所は、三条通東山西入ルらしく、そういえばそんな看板を見たことがあるような……
 2014年にできた施設ですが、人気はうなぎ登り。2~3時間の体験ができて、数千円から1万円。英語で指導してくれるそうで、少し高価な気もするけれど、海外旅行でなら良いかも。

 また、ギア専用劇場も2015年からランクイン。
 こちらは三条通寺町西入ルの1928ビル(ART COMPLEX 1928、旧大毎京都支社)にあって、セリフのないパフォーマンスを披露するもの。テレビでやっていたのを見たのですが、かなり人気のようです。お値段は、3000~4000円ぐらい。
 昼間観光したあと、夜に行けるので好都合な感じですね。

 こういう、ある種の体験型が、リピーターには人気なのでしょう。
 そういえば、以前テレビで、東京の例ですけれども、太鼓を叩く、書道をする、寿司を握る、なんていう体験ツアーを紹介していました。ただ「見る」だけでは、あきたらないのでしょう。

 それにしても、サムライ剣舞シアターが全国で5位! というのは…… ちょっと言葉を失います。私の大好きな三十三間堂より9ランクも上だし……

 まぁ、1位が伏見稲荷大社なので、少し気持ちが落ち着くということにしておきましょうか。

 
  清水寺




 伏見稲荷大社

 所在  京都市伏見区深草藪之内町
 参拝  自由
 交通  京阪電車「伏見稲荷」下車、徒歩約5分


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豊臣秀吉が築いた石垣を比べてみる(その1) - 伏見・指月城の巻 -

伏見




指月城石垣


 石垣の時代

 私たちは「お城」と聞くと、立派な天守閣と高い石垣をイメージしますね。
 このイメージに合う城郭が出来始めるのが、織田信長と豊臣秀吉の時代です。それまでの戦国時代の山城とは一変したので、専門家の間では「織豊期城郭」という呼び方もされています。

 信長の安土城が先鞭をつけ、秀吉の諸城が続きます。
 その特徴は、天主(天守)、石垣、瓦にある、という指摘もあるように、私たちの持つ“お城イメージ”が作られたのでした。

 今回は、その中から石垣をピックアップして、豊臣秀吉の築城を例にしながら見ていきたいと思います。


 秀吉の伏見城、その変遷

 2015年6月、京都市伏見区で、豊臣秀吉が築いた「指月城」の一部が発掘されたと報道され、大きな関心を呼びました。
 6月20日に行われた現地説明会には、2500人もの市民が詰め掛けたそうです。

 といっても、「指月城」って、いったい何と読むのでしょう?

 この名前、むしろ山口・萩城の別名として有名かも(読みは「しづき」)。
 伏見の場合、「しげつ」と言い習わされています

 昭和の模擬伏見城
  昭和の伏見城模擬天守

 秀吉が伏見に造った城といえば、「伏見城」であると思いますよね。
 でも、そう単純ではないようです。

 甥・秀次に関白職と聚楽第を譲った秀吉は、伏見に「隠居所」を造ります。文禄元年(1592)のことでした。
 これが、指月屋敷とされるもので、宇治川を望む地に造られた城郭風の邸宅でした。

 翌年、秀吉には実子・秀頼が誕生。これにあわせて、指月屋敷を改築して本格的な城郭・指月城とします。文禄3年(1594)頃には、ほぼ完成していたと考えられています。
 しかし、文禄5年(1596=慶長元年)閏7月、大地震が発生し、指月城は倒壊します。

 地震後、秀吉は、指月の北東にある木幡(こわた)山に、新たな城を造ることにしました。これが木幡山の伏見城です。
 現在の伏見桃山陵(明治天皇陵)や旧キャッスルランドなどを含む広大な城郭でした。

 慶長3年(1598)、秀吉はこの城で没します。その後、伏見城は徳川家康の支配下に入りますが、関ヶ原の戦い(1600年)に先立つ合戦で、豊臣方に攻められて落城、焼失してしまいます。

 関ヶ原の戦い後、勝利した家康は、焼失した伏見城の縄張りを生かして、城を再建しました。これが、徳川期の伏見城です。
 家康は、ほとんどの期間をこの伏見城で過ごしたため、江戸幕府というよりも「伏見幕府」と言えるくらいだ、という話もあります。
 2代将軍・秀忠、3代家光も、この城で将軍宣下を受けました。この城が廃されたのは、家光の将軍宣下のすぐ後、元和9年(1623)のことでした。建物や石材は、他所でリユースされ、また石垣などは徹底的に破却されたのです。

 つまり、

 指月屋敷 ⇒ 指月城 ⇒ 木幡山の豊臣・伏見城 ⇒ 木幡山の徳川・伏見城 ⇒ 廃城

 となるわけです。

 ちなみに、各所の言い伝えで、「伏見城」の建物などが移築されたと伝わっているケースがあります。けれども、指月城は地震で倒壊し、豊臣の伏見城も焼失したので、秀吉が造った伏見城が移築されたということは、理屈としては考えづらいでしょう。一方、徳川の伏見城なら、その建物が移築された可能性はあるわけです。


 発掘された伏見・指月城

 ということで、ひと口に、“秀吉の伏見城”と言っても、大きく分けると、指月(しげつ)と木幡山(こわたやま)の2期に分かれるわけです。
 先ごろ出土した指月城は、先に造られた方の城だったのですね。

 では、その遺構を見ていきましょう。

 指月城石垣
  指月城跡の発掘現場

 この写真は、発掘現場(伏見区桃山町泰長老)の東端を北から撮ったものです。
 この部分で、指月城のものと思われる石垣が発掘されました。

 指月城石垣
  石垣と堀が発掘された指月城跡

 南北に約36mにわたり、石垣が出土しました。

 指月城石垣
  石垣

 また、石垣の西側には堀もあることが分かりました。

 指月城石垣
  堀

 堀は、現状でも2m以上の深さがありますが、当時は3~4mあったのではないかと推測されています。
 その東に土を盛り、石垣を築いています。石垣は、最下段から1~2段だけ検出されました。おそらく、それより上の部分は、以前建っていた建物を造る際に壊されたのでは、と想像されます。

 指月城石垣

 指月城石垣

 石垣は、花崗岩や堆積岩などで構成されています。
 一見して分かる通り、近世城郭のような、きっちりとした切石を積み上げているわけではありません。割り石が少なく、多くの石が自然石です。それを野面(のづら)積みしています。

 大きな石の間に、こぶし大くらいの間詰め石を詰めています。
 石垣の背後には、裏込めとして多数の小石が入れられていて、排水なども配慮したものです。
 また、石は、どちらかというと短辺が外側に見える形で積まれています。

 そして、見えている面が平らになっているものも観察されます。この点は、秀吉の石垣を考える上で重要なポイントですので、チェックしておきましょう。

 写真では、1~2段しか残っていないので、やや迫力に欠けますが、これが何段も高く積み上がっていたら壮観でしょう。
 いずれにせよ、これまでほとんど謎だった指月城の遺構が確認できたことは、画期的です。
 地形的には、発掘現場の東方が小高くなっていますから、そこに天主があったのかも知れません。そうすると、この石垣と堀は天主を囲っていた重要な存在ということになります。


 木幡山の伏見城

 今回の関心事は、秀吉の石垣をいろいろと比較してみる、ということです。
 指月城に続いて造営された木幡山の伏見城ですが、今その大部分は伏見桃山陵の中に当たっています。つまり、見学は出来ないのです。

 2009年、歴史系の学会が立入り調査を行った際、石垣を見ることが出来たそうです。しかし、よく残っている箇所は僅かに2か所ほどで、ほとんどが破却されていたのでした。

 私たちが簡単に見られるのは、これでしょうか。

 伏見城残石

 伏見桃山陵の参道にある残石です。以前発見された20ばかりの石が、並べられています。

 伏見城残石
  木幡山伏見城の残石

 多くの石に、矢穴が施されています(矢印)。
 矢穴は、石を切り出したり分割したりする際に入れるもの。ここにノミを打ち込んでいけば、石が割れます。
 先ほどの指月城では、このような石はないわけですが、こちらでは多数観察されます。

 ちなみに、付近の桃山東小学校でも、復元石垣を見ることができます。

 指月城と比較するのに最も好ましいのは、たぶん聚楽第でしょう。
 また、大仏が据えられた方広寺の石垣も、秀吉の石垣の特徴を考える上で、とても役に立ちます。

 次回は、この2つの石垣を観察してみましょう。


 (この項、つづく)




 指月城跡

 所在 京都市伏見区桃山町泰長老
 見学 発掘調査終了後は埋め戻し(マンション建築予定)
 交通 近鉄「桃山御陵前」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 現地説明会資料「伏見城跡(指月城)発掘調査」京都平安文化財、2015年
 日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』文理閣、2001年


深草から宇治につながる八科峠は、秀吉が御香宮神社を移した地

伏見




八科峠


 本町通を南に進むと…

 以前、三条大橋から伏見稲荷に到る大和大路~本町通について紹介しました。 詳しくは、こちら ⇒ <大仏餅に伏見人形、大和大路~本町通も、古きをたずねるとおもしろい>

 京都市街から伏見稲荷までは、昔の感覚でいうと1里くらいでしょうか。では、本町通をそのまま南に進むと、どこに行くのか? 気になるところです。

 実は、その先は宇治街道とも呼ばれる道で、峠を越えて宇治へ、さらに大和(奈良)へ続く道でした。
 今回は、そのルートの入口にあたる峠道を紹介してみましょう。


 スタートは藤森神社

 伏見稲荷から約2km南に進むと、藤森神社に到ります。神社の中を抜けて、南参道から外に出ます。

 藤森神社
  藤森神社 南門

 そこから東に向かって進み、JR藤森駅に突当ったら、右に進んで、踏切を渡ります。

 八科峠
  JR奈良線 踏切

 ここから先は住宅が立ち並び、絶えず自動車が行き交うものの、道自体は如何にも古い峠道という雰囲気を漂わせています。

 八科峠


 貝原益軒も紹介した八科峠

 この峠道が、八科峠です。「やじな」峠と読みます。
 江戸前期の儒者・貝原益軒の著書に「京城勝覧」という書物があります。益軒は、各地を旅して多数の紀行文を残しています。たぶん健脚だったのだろうと、私は勝手に想像していますが、歩いた行程を丁寧に記録しています。
 その経験や知識を京都ガイドに仕立てた本が「京城勝覧」です。
 「京城勝覧」の特徴は、見物すべき京名所を1日ごとに紹介していることです。つまり、今日1日何里歩いたら、これこれの名所が見られる、というスタイルなのです。

 その第5日は、宇治見物にあてられています。
 益軒が、京から宇治へ向かう順路として紹介しているものは、ひとつは醍醐から六地蔵を経由して行くもの。いまひとつが、ここで紹介する藤森神社からスタートするコースです。
 「京城勝覧」では、藤森神社を出ると、すぐに「矢島嶺[とうげ]」と記されています。これが八科峠です。
 読みは、もちろん「やじま」峠ですが、「やじま」と「やじな」は相通じるものがあります。

 ここで、黒川道祐「雍州府志」を見てみましょう。道祐も「矢嶋峠」と記し、その語源を説明しています。

 豊臣秀吉公、伏見の城に在りし時、矢嶋氏の館舎、斯の傍らに在り。故に之れを号す。

 豊臣の武将・矢島氏の館があったので、それが名の由来としています。由来譚のひとつとして考えておきましょう。


 秀吉が移転させた場所、“古御香宮”

 この峠を登ってゆくと、こんもりとした森が見えてきます。

  古御香

 左右にある石灯籠。

  古御香

 銘によると、天保14年(1844)に建立されたもののようです。
 ここが、いわゆる「古御香(ふるごこう)宮」です。

 これも江戸時代の地誌「山城名跡巡行志」には、この「古御香ノ宮」が紹介されています。
 おおむね書かれていることは、次の通りです。

 古御香ノ宮は、この村の北の端の東方にある。鳥居と社殿は西向きである。文禄3年(1594)、豊臣秀吉が伏見山の城を築いたとき、御香宮をこの場所に移した。その後、徳川家康が慶長8年(1603)に元の場所に戻した。今ここは御旅所となっている。古宮は、今なお残っている。(大意)

 要領よくまとめてあります。
 御香宮神社は、もとは伏見九郷のうちの石井村にありましたが、秀吉が伏見城を築城する際、大亀谷の八科峠に移転させられました。一説には、城の鬼門を守るためとされています。
 しかし、のちに家康によって、慶長10年(1605)に現在地に戻されました(慶長8年説あり)。その後、八科峠の場所は御旅所になったのです。
 実際、写真の江戸後期の灯籠にも「御香宮/御旅所」と刻されていますね。

  古御香

 坂道になった参道は、雰囲気があります。

 古御香

 今は小さな社殿のみ。
 毎年10月の御香宮神幸祭では、神輿の渡御があるそうです。


 峠の上には石碑が

 元の道に戻り、少しずつ上って行くと、峠会館という建物を過ぎて、八科峠に到ります。
 
  八科峠
  「八科峠」の石碑

 この峠は、標高95m程度で、さほど高くはありません。それでも藤森神社のあたりが約35mですから、60mほど上ったことになります。
 一方、ここから先(東側)は、たいそう急な坂道になっていて、六地蔵まで一気に下って行きます。

 八科峠
  八科峠の東側。この先が急な下りになる

 なお、峠の脇上には、黄檗宗の寺院・仏国寺があります。このお寺については、またの機会に紹介できればと思っています。

 八科峠は、現在ではその名を忘れられた存在ですが、自動車の往来は激しく、今なお峠の役割を果たしているように見えます。




 八科峠

 所在 京都市伏見区深草大亀谷
 見学 古御香宮とも自由
 交通 JR藤森下車、徒歩約15分



 【参考文献】
 『京都叢書』各巻、1915年
 『雍州府志』岩波文庫、2002年



【新聞から】伏見稲荷に田んぼがあった!? - 田植祭行われる -

伏見




伏見稲荷神田


 「輝く水田、五穀豊穣祈る
  伏見稲荷大社で『田植祭』」
  京都 2013年6月11日付


 京都を代表する古社のひとつ、伏見稲荷大社。
一昨年に鎮座1300年祭も終え、その由緒を示したところですが、京都新聞は6月10日に「田植祭」が行われたことを報じています。

 伏見稲荷

 広さ3.3アール(100坪)の神田で、「すげ笠をかぶり、あかね色のたすきをかけた早乙女ら約30人が、苗を丁寧に植えた」そうです。
 秋の「抜穂祭」で、約150kgが収穫される予定といいます。

 伏見稲荷に参拝する方は、本殿にお詣りすると、千本鳥居のある三ケ峰を巡られるでしょう。
 ところが、本殿の北東奥に、ひっそりと田んぼがあることは余り知られていません。これが「神田」です。
 「稲荷」という名があるように、餅を射たところ峰に稲が生じたという秦伊呂具の説話から、穀霊への信仰があります。

 新聞に報じられた田植祭は、古くは永正14年(1517)に行われたという記録があるといいますが、永らく廃絶し、昭和天皇の即位記念として昭和5年(1930)に復活されました。当時の神田は京都府向日市寺戸町で、境内の現在地に移ったのは昭和23年(1948)ということです。
 
 神事としては、4月12日に苗代に種もみをまく「水口播種祭」が行われ、6月10日に田植祭が執行されます。収穫の抜穂祭は10月25日で、稲わらは翌月の火焚き祭で焚かれます。

伏見稲荷神田

 写真は、いずれも2011年11月13日に撮影したもの。
 抜穂祭を終え、稲わらが掛けられている風景です。
 男性数名が作業しています。ずっと見ていなかったので作業内容は不明ですが、お火焚きの直後なので、稲わらを片付けるところなのでしょう。

伏見稲荷神田

 こじんまりとした田んぼですが、商売繁盛の大もとには五穀豊穣への信仰があるということを具体的な形で表している存在です。昭和になって再興させたというところがなかなか興味深く、信仰を視覚化するという点でおもしろい事例でしょう。

 なお、伏見稲荷大社については、こちらの記事もご覧ください。 ⇒ <社号も変われば、社殿も変わる -伏見稲荷大社->




 伏見稲荷大社

 所在 京都市伏見区深草藪之内町
 拝観 境内自由
 交通 JR稲荷駅下車、すぐ



藤森神社の旗塚は、腰痛平癒の効能が…

伏見




藤森神社


 勝運の神さま・藤森神社

 藤森神社は、戦前の社格でいえば府社なので、その北にある官幣大社だった伏見稲荷に較べると、格は高くはありませんでした。しかし、もとは伏見稲荷の位置にあったともいわれ、このあたりの古社でした。

藤森神社


 伏見稲荷大社もなかなか興味深い神社なのですが、藤森神社もそれに負けていません。
 境内にある「蒙古塚」や「かえし石(力石)」などの遺跡、5月に行われる駈馬(かけうま)神事など、武威に関係する事柄が多く、付近には陸軍の第16師団もあったわけですから、現在も“勝運の神さま”として信仰を集めるのも理解できます。

 駈馬神事は「都名所図会」巻五によると、次のように説かれています

「例祭ハ五月五日にして、産子ハ武具を着して走馬する事ハ、光仁帝の御宇、天応元年[781]に異国の蒙古、日本へ攻来るよし聞へたれば、[桓武]天皇、第二の皇子・早良親王を大将軍として退治あるべきよし宣旨を賜る。親王、当社に祈誓して五月五日に出陣し給ふ。神威いちじるしく忽ち暴風大いに吹来り、蒙古の軍船波にたゞよひ、悉く亡びうせたり。此の吉例によりて毎歳軍陣の行粧をなし天下平安の祷[いのり]とし給ふ。当社を弓兵政所といふは此の謂れによるともいふ」

都名所図会より駈馬神事 「都名所図会」巻五


 8世紀の奥州平定に関する伝えに関連づけたものですが、なんとなく鎌倉時代の蒙古襲来とダブってしまって、変な記述になっています。
 ちなみに、蒙古塚については、「当社森の中に七ツありとぞ。今詳らかならず。夷賊退治の後、軍将の首をここに埋て、神威を現し給ふなり」としています。

藤森神社
 蒙古塚


 神功皇后の「旗塚」

 「都名所図会」の藤森社の図。

都名所図会より藤森社 「都名所図会」巻五

都名所図会より藤森社
 
 上のクローズアップを見ると、本殿の右上に木の生えた小さな塚が描かれており、「旗塚」と注記されています。
 これが神功皇后ゆかりの遺跡なのです。

 今宮神社
 神功皇后と武内宿禰 (今宮神社の絵馬より)

 神功皇后が、いわゆる「三韓征伐」の帰路、ここに立ち寄り、戦さの旗と兵器を埋めたのがこの塚だといいます。つまり、ここが藤森神社の起源だということですね。

 藤森神社

 現在の姿です。「神功皇后 御旗塚」の石標が立てられ、イチイ(イチイガシ)の切株に注連縄が掛けられています。
 ここでは、イチイの異名である「いちのき」に敬称を付けて「いちのきさん」と呼ばれているそうです。
 イチイ(櫟)は、常緑針葉樹で、樹高は20~30mに達する木です。

 「山城名勝誌」には、「当社神主宅後園ニ旗塚ト云有、毎歳十一月朔日[ついたち]注連ヲ引、同二日、神供ヲ献テ祭之」とあります。


 「いちのきさん」は、腰痛に効く!

 いま、この旗塚が信仰されているのは、お詣りすると腰痛が平癒するからだそうです!
 私も少し腰痛のきらいがあるので、これを知った時はうれしく、思わずお守りを求めてしまいました。

 藤森神社腰痛お守り
 「腰痛除け 平癒 御守」

 寺社参拝や歩きで出掛ける時に使うリュックに付けています。
 新撰組の近藤勇もお詣りしたとは、よく言われるところです。

 それにしても、なぜ腰痛平癒なのか?

 不勉強でよく分かりません。

 腰痛とは、いわゆるギックリ腰などの類ばかりと思っていましたが(私もその口)、古くはそれだけでもなかったらしいのです。立川昭二さんの『日本人の病歴』などを見ると、「疝気(せんき)」が腰痛をもたらしたと記されています。疝気とは、昔よく行われた、ある種の症状に対する総称で、下腹などの疼痛を指すものだったようです。内臓疾患などが冷えたりして腰の痛みを引き起すことがよくあったそうで、「せんき腰いたみ」という表現も使われたとか。
 前近代の日本人の病のひとつですね。

 こんな腰痛と旗との関係が何かあるように思うのですが、今のところ思い付きません。
 もう少し調べてみようと思います。
 



 藤森神社

 所在 京都市伏見区深草鳥居崎町
 拝観 境内自由
 交通 京阪電車墨染駅下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「都名所図会」1780年
 立川昭二『日本人の病歴』中公新書449、1976年