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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

新京極にあった2つの松竹ビルは、インバウンド需要でホテルに変貌





松竹第3ビル建替


 松竹兄弟と新京極 

 新京極と言えば、京都のなかで観光客が多いエリアのひとつで、土産物店などが多数並んでいます。

 いまでこそ面影が失われたものの、明治時代より、この通りは京都随一の興行街でした。劇場、映画館、寄席など、庶民に娯楽を提供する施設が集中していました。

 現在、演劇・映画の大手・松竹も、ここを創業の地としています。松竹は、明治10年(1877)生まれの白井松次郎と大谷竹次郎という双子の兄弟により創業されました。弟の竹次郎は、明治28年(1895)、新京極の阪井座の興行主となり、そのことを以て同社の創業としています。

 このあたりのことは、『大谷竹次郎演劇六十年』に書いてあるので、引用しておきましょう(一部句点を補い、適宜改行しました)。

 大谷(竹次郎)が十七、八歳の頃、父の栄吉は祇園館の縁から、新京極の「道場の芝居」といはれた「阪井座」の売店の経営を初め、やがてその歩(ぶ)を持つに至つた。
 
 興行に歩を持つとは、共同出資の金主(きんしゅ)の一人になることで、阪井座、大黒座、その他新京極の劇場は金主が三人、五人で金を出し合つて経営し、いづれも他に本業がある人達が片手間や道楽で興行してゐた、
 栄吉もその仲間でどこまでも売店が本職であつたが、芝居の歩を持つ金主であれば、興行師と呼ばれるのに何のさしつかへもなく、又劇場で「旦那」と敬称されるのにも、誰に遠慮もなかつた。しかるに栄吉は自ら旦那と呼ばれない位置に立つた。

 (中略)

 大谷の父栄吉が、それほどの金主、京都の阪井座の金方(きんかた)になりながら、旦那と呼ばれぬ位置に立つたのは何が原因かといふと、次興行の金主と定まると栄吉は、大谷を膝元に読んで、
「竹次郎、お前、俺の代りに阪井座の仕切場に坐つてんか、来月からお前はこの阪井座の金主や、御仕打はんやぜ、ええか」

 売店の荷を肩にした大谷は、父の言葉に無言で棒立ちとなつたまゝだつた。(11-13ページ)  


 父に才覚を認められた竹次郎は、阪井座の金主(共同出資者)になるのでした。
 一方、兄・松次郎は……

 その頃、松次郎の方は、父の手元を離れ、(新京極)夷谷座の売店全部の権利を握つてゐた白井亀吉のところに働きに出てゐたが、その亀吉の家は夷谷座に隣接し、劇場内と外の通りに店があり、寿司が本業で俗に三亀の名で手広く商売をして居り、娘の「おしか」「お八重」の二女は年頃で、京極の小町娘とうたはれていた。

 その亀吉に見込まれた松次郎は、妹娘のお八重の恋婿に選ばれ、長男の身を、他姓を冒して白井松次郎となつた。(13-14ページ) 


 お兄さんは、これまた才能を買われて、誓願寺前にあった劇場・夷谷座の仲売り・白井亀吉の娘婿候補となり、養子に入ったのでした。


 松竹第3ビルの建て替え

 いつも松竹のことになると、この兄弟のことを語ってしまいます。もちろん、松竹自身も創業者を大切にされているのは当然で、この看板をご覧ください。

 松竹看板

 上記のように、新京極・阪井座の興行主として創業したと記しています。
 末尾の「新京極通りで創業し、ご当地京都の皆様に育てていただいた松竹は……」といった言い回しが、歌舞伎の興行主らしくもあり、京都っぽくもあります。

 で、この看板はどこに掲げられているかというと……

 松竹第3ビル建替え

 この工事現場のフェンスに張ってあります。
 場所は、新京極四条を上がって約50mのところ。ここには、かつてSY松竹京映という映画館がありました。

 ちなみに、さかのぼると……

  SY松竹京映
    ↑
  SY京映
    ↑
  京極映画劇場 
    ↑
  歌舞伎座 (明治33年~昭和11年)
    ↑
  阪井座 (明治25年~33年)
    ↑
  四条道場芝居

 という感じです。(『近代歌舞伎年表 京都篇』)

 昔、この場所には金蓮寺(こんれんじ)という時宗の寺院があり、場所柄、俗に四条道場と呼ばれていました。
 そこに出来た芝居小屋が、“道場の芝居” です。

 これが、阪井座となり、さらに歌舞伎座となりました。京都にも、歌舞伎座という名前の劇場があったわけです。
 この歌舞伎座は、明治の終わり頃には活動写真館になっています。

 そういう歴史を持つ劇場・映画館でしたが、2001年に映画館が閉館したあとは、商業ビルとして利用されていました。ビルは、松竹第3ビルと称していたのです。

 旧SY松竹
  かつての松竹第3ビル

 1階にカジュアル衣料品店・ライトオンなどが入っていました。
 ビル壁面には、松竹マークがありました。

  松竹マーク

 ビルは、2016年に解体され、2017年2月現在、更地になっています。
 あのマークはどうなったのかなぁ、なんて思ってしまいます。

 と、ここまで書いて、今日なぜこの記事を書いているかという理由が出て来ます、ようやく(笑)

 松竹が2月7日(2017年)に行ったプレスリリースによると、2018年の秋、この場所にホテル&商業施設の複合ビルが建設されるというのです。
 そのビル名は「京都松竹阪井座ビル」!
 なんと、明治中期の劇場名をビルの名前にしたのです。

 リリースによると、ビルは地上9階建で、1階がテナントの店舗、2階から9階がホテル・東急ステイになるそうです。


 六角のピカデリー跡地もホテルに
 
 一方、新京極を上がった六角の角は、明治初期から夷谷座という劇場でした。白井松次郎の養父が中売りをしていたところです。
 戦後は、京都ピカデリー劇場という映画館として賑わいました。ビルは、松竹第2ビルと言いました。

 旧ピカデリー劇場
  旧ピカデリー劇場

 こちらも、壁面の松竹マーク&劇場名が何とも言えませんね。
 私も学生時代など、ここに映画を見に行きました。

 残念ながらすでに取り壊され、新しいビルがほぼ竣工のようです。

 ホテルグレイスリー京都新京極

 この夏、ホテルグレイスリー京都新京極(仮称)としてオープンするそうです。客室はツインルーム128室。
 運営は藤田観光ですが、すでに近所の寺町通にできているホテルグレイスリー京都三条とあわせ、ちょっとしたホテル街になりますね。
 ちなみに、藤田観光は、京都ではホテルフジタや京都国際ホテルを閉館していただけに、再度地歩を築いていきそうです。

 松竹系の劇場や映画館がホテルに変貌するというのも、時代の流れなのでしょうか。
 京都の繁華街らしい新京極を引き続き見守っていきたいと思います。




 阪井座跡

 所在  京都市中京区新京極通四条上ル中之町
 見学  自由
 交通  阪急電鉄「河原町」下車、徒歩約1分



 【参考文献】
 脇屋光伸『大谷竹次郎演劇六十年』講談社、1951年
 『近代歌舞伎年表 京都篇』10、八木書店、2004年



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先斗町にある「鴨川の見える場所」は、かつて……





鴨川河川敷


 鴨川から見た先斗町

 京都で暮らすものが、ほっとする景色のひとつが鴨川ですね。

 鴨川
  四条大橋たもとから三条大橋方向を望む

 川べりの堤防も歩けるので、川との距離が近いですね。
 私は、もっと上流の方で育ったのですが、小中学校の頃は、いつも川に入って遊んだりしてました。賀茂川は意外に浅かったので、じゃぶじゃぶと歩くことができたのです(三条・四条あたりは深いので入らないように、念のため)。

 三条と四条の間、写真に写っている建物は先斗町(ぽんとちょう)界隈です。

 鴨川

 今回は、この写真から見える風景がテーマです。
 なにか気付きますか?


 先斗町のナゾの空間

 写真の中央あたりです。
 
 近寄って、クローズアップしてみると……

 車道橋跡

 わかるでしょうか、家と家が離れていますよね。
 それで、向こう側の建物が見えています。このスペースは、いったい何なのでしょう?

 車道橋跡

 こちらからは上れないので、先斗町の通りに行ってみましょうか。

 先斗町
  先斗町

 京都を代表する花街のひとつ、先斗町。細い街路の両脇にお茶屋さんや飲食店が並んでいます。
 四条通から、100mほど北上すると……

 先斗町

 右に道みたいなのがある、問題の場所です。

 曲がってみると!

 車道橋跡

 広場みたいになっています。
 お地蔵さんもありますね。

 お地蔵さん

 鴨川がよく見えます。
 修学旅行生なども、よろこんでますね。

 河川敷

 と、現地に来てみたものの、ここには答えは書いてありません。
 さて、どうするか。

 みなさんに考えていただいている間に、私は地図を持ってくることにします。


 明治時代の地図をみると……

 木屋町をご案内した際に使った明治44年(1911)の地図を持ってきました。
 いまから約100年前の京都の様子を表しています。

 どうやら、ここに答えが載っているようです。

 車道橋

 青い丸で囲ったところ、橋があったのですね!

 その名は「車道橋」。「くるまみち」橋と読むのでしょう。
 四条大橋の約100m上流に架かっていたのです。比較的狭い木の橋でした。

 この橋は、別名「竹村屋橋」とも称しました。
 幕末の絵図には画かれていないので、明治時代にできたのでしょう。
 橋なので対岸に渡れるのはもちろんのこと、納涼イベントなどの際には、臨時の昇降道を橋に付けて河原に降りられるようにしたそうです(「明治後期の京都鴨川における河川空間の広場的利用に関する研究」)。
 鴨川は、古くから河原が広く、納涼や芸能の場となっていました。明治時代にも、そういう状況があり、車道橋が活用されたということですね。

 一説には、大正8年(1919)に撤去されたというのですが、地図を見る限り、昭和初期にも画かれているので、そのあたりまでは架かっていたようです。昭和10年(1935)の鴨川の洪水の際に流されたという話もあり、そちらの方が正しいのかなと思います。


 名前の由来

 ところで、この橋の名前なのですが、竹村屋橋という呼び名は、おそらく架けた人か付近の店の屋号(竹村屋)に由来すると推測されますね。
 一方、車道橋という変わった名称は何に由来するのでしょうか?

 下の絵は、幕末に刊行された「花洛名勝図会」(1864年)に描かれたこの付近です。

 花洛名勝図会より鴨川
  右の橋は四条大橋(「花洛名勝図会」1864年より)

 矢印のところ、荷車を曳いた牛が見えますか?

 江戸時代、荷車は橋を渡ることが許されていなくて(橋が傷むから)、河原におりて川の中を渡っていたのですね。
 鴨川には、主な橋の脇に、渡る場所がありました。「花洛名勝図会」を見ると、白川などでもそうしていたようです。

 絵をよく見ると、上の矢印のところ、家並みが途切れて河原に下りるスロープが付いているのが分かるでしょう。場所は、どうやら三条大橋の下流を描いているようです。

 このような荷車の渡るところを車道と呼んでいました。

 ということは、四条大橋の北側にも、かつては車道があったのでしょうか。
 そのあたりに架けられた橋ということで、車道橋と呼ばれたのでは、と思います。

 なお、車道については、2度ほど書いていますので、そちらもご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <牛で荷物を運んでいた時代、三条通の白川はどう渡った?>
  ⇒ <鴨川に架かる荒神橋の脇にあるナゾの小道とは?>

 ずいぶん前ですが、三条大橋と四条大橋の間に、橋を架けるというアイデアが出されて大騒動になったことがありました(結局ボツになったのですが)。それは、まさにこの車道橋の再生といった感じでした。

 先日、たまたま映画「本能寺ホテル」を見ていたら、冒頭、主人公(綾瀬はるか)がチラシをもらうシーンが、まさにこの場所で驚きました。

 映画のカットで

 映画のカットは、こんな感じ。
 たぶん、狭い先斗町の中で、カメラを置く引きがあってよかったのでしょうね(笑)




 車道橋跡

 所在  京都市中京区四条通先斗町上る鍋屋町
 見学  自由
 交通  京阪「祇園四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 「本願寺宗祖大師御遠忌記念 京都市街地図」1911年
 林倫子「明治後期の京都鴨川における河川空間の広場的利用に関する研究」(「景観・デザイン研究講演集」6、2010)



【駅から、ふらっと1時間】京阪・祇園四条駅から木屋町を歩く(その3)





木屋町から先斗町を望む


 飲み屋街の魅力をもつ木屋町

 高瀬川に沿った木屋町の通り。地図で「電燈會社」となっている旧立誠小学校の場所から、さらに北へ進んで行きましょう。

 四条ー三条ルート

 このあたりは、小ぶりな雑居ビルが立ち並び、夜になるとネオンの巷と化します。

  スナック看板

 ところが、昼過ぎ頃に歩くと、 “準備中” の趣が……
 納品に来たトラックが、たくさん見られるんですよね。

 トラック

 こういう納品車を見ていると、あきることがありませんね。
 コカ・コーラ、味覇(ウェイパー)、スジャータ、KCC(おしぼり)などなど、いろいろあるんです。

 コカ・コーラの車

 これを見ていると、順々に全部写真を撮っていったら、どんなにおもしろいだろうと思うんですね(笑)
 ちょっと変な趣味ですが。


 お龍さんの寓居跡

 雑居ビル街にも、京都らしく、というべきか、史跡がたくさんあります。

 お龍寓居跡

 石標をよく見ると、坂本龍馬の妻・お龍さんが独身時代に住んでいた場所が、このあたりだと言います。
 一瞬、龍馬の寓居か? と思うのですが、よく見ると違うのです。

 この雑居ビルは、都会館という名前です。
 廊下を入ってみると……

 都会館

 あれ、「龍馬」という店が!

 スナック龍馬

 スナックらしいのですが、よく見ると「龍馬資料館」とも書いてある。たぶん、龍馬ファンの皆さんが集うお店でしょう。
 掲示板には、オーナーさんを紹介した記事が。読んでみると、前回出てきた旧立誠小学校を龍馬資料館にしようとしてが、うまくいかなかった、とか。いいアイデアだと思うんですけどね。土佐藩邸跡というだけでは、ちょっと関係が薄いんでしょうか。
 
 龍馬好きの方は、ぜひどうぞ!


 お地蔵さんも

 京都は、町々にお地蔵さんがあるので、木屋町周辺にもお地蔵さんが目立ちます。
 山崎橋と、1本上流の材木橋には、ともに西詰辺にお地蔵さんがあります。

 こちらは材木橋の地蔵尊。

 大黒延命地蔵

 大黒町にあるためでしょう、「大黒福授延命地蔵菩薩」と書かれています。

 お堂は、しっかりした覆い屋に入っており、鳩除けなのでしょう、金網が張られています。
 これまで、なにげなく通り過ぎていたのですが、今回近寄ってよく見てみると、お堂はずいぶん丁寧な造りなのです。

 懸魚

 これは懸魚(げぎょ)。
 かぶら懸魚に、左右にひれが付いています。

 そして、象鼻も!

 象鼻

 組物も立派で、六葉なども使われており、覆い屋で守るのも理解できますね。


 変わる町並み

 お地蔵さんがあるのは、高瀬川西岸の西木屋町です。
 ここには「れんこんや」といった風情あるお店もありますね。からしれんこんが名物の店です。

 れんこんや
  左が、れんこんや

 少し歩いていると、工事中の現場がありました。

 京劇ビル跡

 この辺には、昔、京劇という映画館があって、ビルは長く残っていましたが、ついに取壊しです。
 繁華街の青空が、ちょっと悲しいですね。

 反対を向くと、先斗町歌舞練場が見えます。

 先斗町歌舞練場
  奥が先斗町歌舞練場

 ここも、最近右側のビルが取り壊されました。
 近年、ビルの改築が多いですね。

 高瀬川と木屋町

 四条通から、ふらっと歩いてきた木屋町。
 ようやく別れを告げて、先斗町に抜け、鴨川方向に進みます。

 珉珉の角

 ぎょうざの珉珉のところを曲がると、鴨川と三条大橋が見えて来ます。

 そして、橋のたもとには、弥次喜多像が。

 弥次喜多像

 三条大橋を渡れば、京阪・三条駅です。

 わずか1kmの京阪・祇園四条-三条間の旅。
 このほかにも、隠された見どころもあるようですが、そちらは現地で確かめてみてください。




 【コース】
 スタート:京阪・祇園四条駅 → 木屋町通 → ゴール:京阪・三条駅 【距離:約1km】



【駅から、ふらっと1時間】京阪・祇園四条駅から木屋町を歩く(その2)





西木屋町


 西木屋町

 京阪・祇園四条駅をスタートした “駅から、ふらっと1時間”。
 四条小橋を右折し、木屋町通を北上します。

 四条ー三条ルート

 地図上の赤線は、市電の線路です。線路の左には、高瀬川が流れています。
 高瀬川の左(西)側には、とぎれとぎれですが道が画かれていますね。これが、いわゆる西木屋町です。

 西木屋町
  高瀬川の左が西木屋町

 現在では、三条通の1本南から蛸薬師通までと(上の写真)、旧立誠小学校の南から四条通まで通っています。
 ところが、明治末の上の地図では、三条通の南の方はほとんど道がないし、四条通の北の方も途切れている箇所がありますね。

 木屋町裏の大木

 この道は、四条通を1筋北に上がったところの西木屋町です。
 なぜか大木があり、道も曲がっていて、誰しも不思議に思う街路なのです。この場所を地図で確かめると、道は描かれていません。少なくとも明治末の時点では道はなかったのでした。
 おそらく、家が建っていたところに無理やり? 道を通したので、こんな変な路地になったのでしょう。

 この北側も、明治末からあるようですが、狭い道です。

 木屋町の一筋西

 沖縄料理店「赤ひげ」とか、老舗バー「サンボア」など、古くから続くお店もありますね。

 赤ひげとサンボア

 ここを北へ行くと突き当りになり、小学校跡のグラウンドが見えて来ます。


 舟入跡と土佐藩邸跡 

 旧立誠小学校あたり

 写真は再び、木屋町通。
 左前方が、かつての立誠小学校です。

 立誠(りっせい)小学校は、四条通に沿った市街中心部の学校のひとつで、明倫、日彰、生祥などとともに賑やかなところにある小学校でした。
 学区は、南北は三条と四条の間、東西は鴨川と寺町の間。まさに、京都随一の繁華街が学区です。

 八の舟入跡

 江戸時代は、このグラウンドのあたりは高瀬川の舟入(ふないり)があったということで、石標に「八之舟入址」とあります。
 高瀬川は角倉了以が開いた運河で、高瀬舟による舟運が行われていました。荷物の揚げ降ろしや船の方向転換をする場所が、舟入です。
 一番川上は、二条通下ルにある一の舟入で、ここには今でも広い水面が残されています。他は、九の舟入跡まで石標が建てられていて場所が分かります。
 ちなみに、今回はこの先にも、7、6、5と舟入跡に遭遇します。

 小学校の北側には、七の舟入がありました。

 七の舟入跡

 昔からここは、ちょっとした広場になっていましたが、舟入の痕跡だったのでしょうか。今では駐輪場になっています。

 七の舟入跡の船

 レプリカの船と写真が展示されていますね。
 舟入の左手には、土佐藩邸跡を示す標識があります。立誠小学校の場所は、江戸時代は土佐藩邸だったのですね。
 道路を西に進んで行くと、かつては土佐藩邸内にあった稲荷社を遷した土佐稲荷(岬神社)もあります。小さな龍馬像もあるので、お詣りに行くのもよいかも知れません。


 旧小学校で映画上映

 校名が論語の一節に由来する立誠小学校。明治2年(1869)、京都の学校黎明期に建てられた小学校のひとつで、当時は下京第六番組小学校でした。場所も、現在地より北の河原町三条にありました。

 今回のルートマップを見てみると、高瀬川畔に「電燈會社」と書いたところがありますが、ここが現在の立誠小学校の位置です。
 昭和3年(1928)に移転し、いま残されている校舎が建設されました。

 電灯会社とは、京都電灯のこと。のちに統合して現・関西電力となる会社です。
 この場所は、いまから百年前の明治30年(1897)1月、当時日本に輸入され始めた映画が試験上映された場所でした。
 京都市出身の企業家・稲畑勝太郎――大阪で稲畑染料店(現・稲畑産業)という会社を経営していました――は、青年時代、京都府からフランスに派遣されたことがありました。そのとき、映画の発明者・リュミエール兄弟と知り合い、のちに映画を輸入したのです。
 フランスから輸入した映画フィルムを仏人技師に試験上映させた場所が、京都電灯の中庭だったということです。稲畑は、翌月、大阪・南地演舞場で上映会を開いています。

 日本での “映画のはじまり” には、さまざまな考え方があります。使った機材と上映方式、興行方法などが、いろいろあるためです。
 ただ、百年前に当地で行われた映画上映も「起源」のひとつと言えるでしょう。そのため、ここは日本映画の故地として顕彰されています。

 だから、と思うのですが、ここでは「立誠シネマプロジェクト」という映画上映が行われています。

 立誠シネマ

 古い校舎の3階に上がり、ぎしぎしきしむ廊下を進むと、教室を改造したシアターがあります。
 座席数は、40ほど。
 私も、今回、話題の作品「この世界の片隅に」を見ましたが、キャパがオーバーするほどの超満員でした。
 

 古い鉄筋コンクリート造の校舎

 立誠シネマは、毎日上映しているので、以前は立ち入りしづらかった学校内にも入れるようになりました。
 立ち入り禁止ゾーンも多く、撮影も不可ですが、昭和初期の学校建築を見ることができます。

 旧立誠小学校正面
  旧立誠小学校 校舎

 鉄筋コンクリート造3階建で、昭和3年(1928)竣工。
 昭和初期、京都市では鉄筋コンクリート造(RC造)の校舎が盛んに建てられていました。
 とりわけ、本館、校舎、講堂・雨天体操場の3つを共にRC造にした学校に、本能、立誠、中立、修徳、成徳、淳風、明倫、清水、桃薗の各校がありました。なかでも、ここ立誠小学校はその第一号だったのです(『近代京都における小学校建築』)。

 立誠小学校の場合、正面(敷地の東側)に本館を置き、南北に校舎を配置。南西に雨天体操場をつなげています。上から見ると「コ」の字形の平面になっているのです。

 関東大震災(大正12=1923年)以後、建築や橋梁の耐震・不燃化は喫緊の課題で、東京ではRC造で小学校の復興が進みました。
 京都にもそのような流れが及んだわけですが、このあと昭和9年(1934)に関西を襲う室戸台風では、RC造の校舎が児童・生徒を守ったのです。

 外観を見ると、当時の学校建築によく見られるように、縦長の窓を多数うがっています。

 玄関

 アーチの玄関には大きな庇を付け、装飾を施しています。このようなアーチは、当時の小学校建築の流行だったそうです。
 上を見上げると、露台(バルコニー)が突き出していますね。

 露台

 シックな印象ですが、なかなか正面性が強い建物で、通りからも目立つ存在です。
 高瀬川がありますので、玄関に入るには橋を渡ります。

 旧立誠小学校の橋

 橋の細部

 なぜか「川」の字に見えるのは気のせいですね(笑)


 南北も見られる

 南側はグラウンドに面しています。

 旧立誠小学校南面

 階段室の上部に3つのアーチ窓を連ねたところなどは、ちょっとロマネスクの教会みたいで微笑ましい。

 窓の好きな方は、北側もいいですよ。
 
 旧立誠小学校北面

 この辺りは、窓の桟やガラスも古いままのようで、雰囲気があります。

 ちなみに、校舎内では階段なども見どころですし、中庭もあります。ただ、写真がNGのため、実際に訪れてご覧になってください。

 そんなわけで、この小学校だけでも1時間近くかかりそうですが、道はまだ半分ほど……
 もう少し歩を進めたいと思います。


 (この項、つづく)




 【コース】
 スタート:京阪・祇園四条駅 → 木屋町通 → ゴール:京阪・三条駅 【距離:約1km】



 【参考文献】
 川島智生『近代京都における小学校建築』ミネルヴァ書房、2015年



【駅から、ふらっと1時間】京阪・祇園四条駅から木屋町を歩く(その1)





四条大橋


 駅から歩く、1時間の小旅行 

 京都は、昔から市街地に鉄道が余り走っていないところで、JR(東海道線・山陰線)や京阪は街の外縁部を通っているし、阪急も戦後まで四条大宮止まりでした。
 もっとも、大阪市なども、かつては国鉄や私鉄は市街地には乗り入れておらず、京都より徹底していたように思われます。

 そのため、街中の公共交通は明治以来、市電であり、京都の場合、昭和53年(1978)まで活躍していました。
 その後、地下鉄が敷設され、現在は烏丸線と東西線があるのはご存知の通りです。

 ですから、今年の新企画<駅から、ふらっと1時間>も、JRや阪急、京阪などの鉄道駅からスタートするほか、地下鉄駅が起点になることも多いと思います。

 申し遅れましたが、この企画は、タイトル通り、駅から歩いて1時間ほどで楽しめる “小旅行コース” をご紹介するものです。
 基本は、A駅から歩き始め、B駅で終了するワンウェイになっています。
 
 京都の場合、駅から30分も歩けば、必ずと言ってよいほど由緒ある古社寺があるものですが、この企画ではそういった場所にこだわらず、ビビットな京都の街の姿を紹介できればと思っています。

 では、さっそく第1回の旅に出掛けてみましょう。


 京阪・祇園四条駅からスタート 

 京阪電鉄・祇園四条駅は、2008年までは「四条」駅と呼んでいました。京阪電鉄の京都市内の各駅が「神宮丸太町」「清水五条」などというふうに改称されたもののひとつです。
 駅名の通り、駅は四条通との交点にあり、駅の東方は花街・祇園のエリアです。

 駅は、四条大橋東詰の地下にあります。

 京阪四条駅
  京阪・祇園四条駅

 背後のビルが早くも気になりますが(笑)、スタートする前に今回のコースを紹介しておきましょう。

 四条ー三条ルート
 青線がコース。下の●が祇園四条駅、上の●が三条駅
 (明治44年=1911年刊行の地図による)

 祇園四条駅をスタートし、四条大橋を渡り、高瀬川沿いの木屋町を北上します。終点は京阪・三条駅です。距離は、約1km。ふらっと見て歩いても、1時間のコースです。

 では、スタートしましょう!

 まず、おすすめは、四条大橋でゆっくりと時間を取ること。
 北側の歩道から、上流を眺めてみましょう。

 鴨川

 遠くに北山の山並みが望めます。
 京都は、北と東西を山に囲まれた盆地です。

 そこを北から南に流れる鴨川は、大阪の淀川や東京の隅田川などに比べると川幅も狭いのですが、堤が散策路のようになっていて、川に近付くことができるのです。
 まず、四条大橋の南側に下りてみましょう!

 四条大橋

 四条大橋の左にそびえる建物は、東華菜館(トウカサイカン)です。名前の通り、老舗の中国料理店。
 大正15年(1926)に建てられた近代建築で、当初は矢尾政(やおまさ)というレストランでした。戦後、東華菜館となりました。
 国の登録文化財になっており、設計はW.M.ヴォーリズです。
 
 東華菜館
  東華菜館 左は料亭ちもと

 空に突き出す塔屋が印象的ですが、全体がベージュっぽい色合いで、多彩な装飾を施したスパニッシュな建物です。
 正面玄関に付けられたテラコッタ(陶板)の飾りも見どころです。

 東華菜館 東華菜館玄関細部

 内部も、開業当初のエレベーターがあったりと興味が尽きません。ここで食事して、1時間の小旅行を終えるのも一興かも?


 景観が変わる四条大橋 

 東華菜館の正面が見えるのは、四条大橋西詰。交番の前ですね。
 交番の脇を下に降りる階段がありますので、そこから再び鴨川の堤防に下りてみましょう。

 南座と菊水ビル

 すると、四条大橋越しに2つの建物が見えてきます。
 左がレストラン菊水、右が南座です。

 菊水も、大正15年(1926)に西洋レストランとして開業しました。
 こちらもベージュ色の建物ですが、塔屋が表現派のようで目立ちますね。
 南座は、少し遅れて昭和4年(1929)の開業。いずれも登録文化財です。

  レストラン菊水
   レストラン菊水

 このように、昭和初期、四条大橋の両側には立派な西洋建築がそびえることになりました。おだやかに東山を望む景色は一変したことでしょう。

 大正初期の四条大橋
  大正初期の四条大橋(『新撰京都名勝誌』より)

 これは、大正初期の四条大橋の風景です。西から東を見ています。
 奥の右端に南座がありますが、余り大きな建物は建っていません。
 ちなみに、四条大橋は大正2年(1913)に架け替えられていました。

 昭和初期の四条大橋
  昭和初期の四条大橋(『京都名勝誌』より)

 ほぼ同じ位置から撮影しています。
 中央に、大きく菊水が写っており、景観の変化がうかがえます。おそらく、菊水側から見ると、矢尾政(東華菜館)がドーンとそびえ立っていたことでしょう。

 なお、四条大橋の下(西側堤防)には「四条大橋の歴史」という案内板があり、古い写真も掲出されているので、あわせて見てみると楽しめます。


 木屋町を上がる

 スタート地点の四条大橋のまわりだけでも、かなり時間を食いそうです(笑)
 実は、もうひとつ興味深い点があるのですが、それは改めて取り上げるとして、歩を先に進めましょう。

 四条ー三条ルート

 四条大橋を西へ進むと、最初の信号が高瀬川との交点です。架かっている橋は、四条小橋と言います。
 上の地図を見ると、高瀬川の脇に赤い線が引いてあるでしょう。これは、市電の線路を示しています。

 現在の私たちからすると、“あの狭い木屋町通に路面電車が走っていたの ! ? ” と思いますが、そうなのです。
 当時、河原町通は、今のように拡幅されておらず、木屋町(きやまち)がメインでした。市電は、二条通以北は寺町通を、それ以南は木屋町通を走っていたのです。

 木屋町通
  木屋町通

 この幅でも、市電が走っていたの! と驚きますが、昔の広かった高瀬川を埋めて拡幅して、ようやくこの幅員になったのです。

 いま(2017年1月)、木屋町を歩くと、高瀬川の工事が行われています。年度末には終わるかな?

 高瀬川
  高瀬川

 この通りは、高瀬川沿いであるだけに、片側町の様相を呈しています。
 材木商が多かったことに由来するという、そんな町の名を持つ木屋町。高瀬舟による水運で賑わった木屋町。

 しかし今は、京都を代表する花街のひとつ、先斗町と背中合わせであるだけに、京都きっての飲み屋街であり、あえて古い表現で言えば、雑居ビルの立ち並ぶスナック街のようなところです。
 昼間、改めてこの街を眺めてみると、小さなビルが林立していることに驚きます。

 こう書くと「京都らしくない」と思われるかも知れません。
 たしかに、京都らしくない(笑) でも、それがかえって京都らしい気もする、そんな木屋町。

 どんな顔があることやら、次回はその辺を探ってみましょう。


 (この項、つづく)




 【コース】
 スタート:京阪・祇園四条駅 → 木屋町通 → ゴール:京阪・三条駅 【距離:約1km】



 【参考文献】
 『新撰京都名勝誌』京都市、1915年
 『京都名勝誌』京都市、1928年