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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

二条城の釘隠と “のし” の関係は?





花熨斗形釘隠


 二の丸御殿で飾り金具を見る

 前回は、久々に二条城を訪問し、ソテツについて考えた話を紹介しました。

 今回は、二の丸御殿を彩る飾り金具についての話です。

 東大手門
  二条城 東大手門

 ところで、建築を見るときに一番頭を悩ませるのは、意匠なんですよね。
 例えば、お寺などでも、建物の各所にいろんな彫刻がしてあるでしょう。浮彫りとか透かし彫りとか。
 で、それが植物、お花だったとして、何の植物、何の花なのか、なかなか分からないのですね。
 
 まぁ、ボタン(牡丹)くらいだったら、すぐわかるんです、桃山時代の人は好きですし。
 でも、例えば、ブドウみたいに見えるけど、実はオモト(万年青)だった、といったケースがあるんです。こういうものになると、よほど慎重に調べないといけないし、知識の積み重ねも必要になってきます。
 
 私は、天沼俊一先生の『日本建築細部変遷小図録』などを参照して勉強させてもらうのですが、何でも網羅されているわけではありません。
 特に、今回問題にする金物(金具)については、ほとんど取り上げられていないんですね。困ったものです(笑)


 豪華すぎる釘隠

 建築の金物というと、釘や鎹(かすがい)といった実用的なものと、飾り金具に大別されます。
 飾り金具には、扉に付けられる八双(はっそう)金物や、長押や扉に付けられる釘隠(くぎかくし)などがあります。

 特に釘隠は、六葉(ろくよう)といった六角形のものや、門扉でよく見る丸っこい饅頭(まんじゅう)金物などが著名です。
 ところが、二条城の二の丸御殿で見た釘隠は、そのレベルをはるかに超えたものだったのです。

 二の丸御殿
  二の丸御殿(国宝)

 二の丸御殿の最初の建物、遠侍(とおざむらい)の長押に打たれていた釘隠は、三つ葉葵の入った饅頭金物を基本にしたものでした。これでも、よく見る六葉の釘隠などに比べると凝っています。
 ところが、先に進んで、大広間や黒書院に入ると、さらに独特の形をした大型の釘隠が登場したのです。それは驚きの豪華な釘隠でした。

 二の丸御殿は撮影禁止ですが、特別公開の東大手門内(撮影OK)で、同じ釘隠が陳列されていたので、それを撮影させてもらいました。ガラスが反射して見づらいですが、こんなものです。

 花熨斗形釘隠

 花熨斗形釘隠

 細部意匠が微妙に違うのですが、大きな形は同じです。

 こういった意匠こそ、どういうものなのか分からない、困りものなのです。

 しかし、ありがたいことに、二条城ではこの金物について「花熨斗形釘隠」と説明してくれています。
 別のものを調べると、花熨斗桐鳳凰文釘隠とあります。

 桐鳳凰文(きりほうおうもん)は、いいんです。植物の桐(きり)と架空の鳥・鳳凰(ほうおう)を組み合わせた図柄ということです。
 写真では見づらいですが、中央下部に、鳳凰と桐を取り合わせた意匠があるのです。

 問題は、花熨斗(はなのし)です。
 花熨斗って何だ?


 花熨斗とは?

 まず、花は分かりますよね。
 釘隠の左右の端に、花の意匠がありますね。たぶん、牡丹でしょう。
 
 問題は、熨斗(のし)。

 そもそも、熨斗とは?

  熨斗袋 熨斗袋

 みなさんもお使いになる熨斗袋。祝儀を入れるものですね。この右上に付いているのが、熨斗なのです。

   熨斗 熨斗(折り熨斗)

 熨斗は、もともとは縁起のよいアワビが用いられていましたが、現在では上のような紅白の紙を折った折り熨斗が一般的です。

 とすると、花熨斗とは、これと関係があるのか……

 もう一度、先ほどの釘隠を見てみましょう。

 花熨斗形釘隠

 分かりますか?

 そう、熨斗の形が隠れていますよね、横向きに。

 花熨斗形釘隠

 ちょっと落書きしてみました。
 実は、牡丹の花が熨斗紙に包まれているデザインだったのですね!

 ほんとうに、忠実に熨斗で花を包んだ意匠になっていて、それを横倒しにして左右に配するという、得も言われぬ発想です。
 もっとも、着物の世界では、この花熨斗の柄が用いられることがあるので、江戸時代の人にはお馴染みの意匠だったのかも知れません。


 紋の世界にも

 ほかにも、熨斗がないかなと思って見回してみると、書棚にある紋帳『紋之泉』に多数発見できました!

 紋の泉 『紋之泉』

 なんと、熨斗を用いた紋が56種類も収録されています。

 例えば、こんなもの。

 熨斗輪桔梗 熨斗輪桔梗

 熨斗輪桔梗(のしわききょう)。
 熨斗で作った輪の中に、桔梗を入れたものです。
 実は、熨斗紋では、この熨斗輪を使ったものが大多数。『紋之泉』では、56種中、45種類が熨斗輪かそれに類するもの(結熨斗)です。

 ほかには……

 違い折熨斗 違い折熨斗

 違い折熨斗。
 2つの折り熨斗をクロスさせた、わかりやすい図様ですね。

 違い熨斗 違い熨斗

 違い熨斗。
 輪にせずにクロスにしています。

 熨斗桐 熨斗桐

 これは、カッコいい!
 桐紋を熨斗で作っているんですね。まったく見たことない、超珍しそうな紋ですが、ステキですね。

 それにしても、奥深いですねぇ。
 私は、二の丸御殿で、この花熨斗の意味を理解するのに、随分長い時間をかけてしまいました……

 江戸時代の武士たちは、御殿でこの飾り金具を見て、果たしてその意匠を理解できたのでしょうか?




 二条城 二の丸御殿(国宝)
 
 所在  京都市中京区二条通堀川西入
 見学  有料 大人600円ほか
 交通  地下鉄「二条城前」下車、すぐ



 【参考文献】
 濱島正士『寺社建築の鑑賞基礎知識』至文堂、1992年
 吉野竹次郎『紋之泉』洛東書院、1926年


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二条城の庭にあったのは、南国の象徴・ソテツの木





二の丸庭園


 東大手門の修復が完成

 二条城。
 「古都」京都のなかにある “お城” として、ちょっと異色感もある場所。
 今回、東大手門(重文)の修復が完成したので、私も久しぶりに訪ねてみました。

 東大手門
  東大手門(重要文化財)

 7月31日(2017年)まで、内部にも入れます(入城料+400円)。
 そこで見たものは、たぶん次回紹介するとして、今日はずっと先に進んで、二の丸御殿へ。

 二条城といったら、やはり国宝・二の丸御殿がメインですね。
 大規模かつ代表的な書院造の建築です。

 二の丸御殿
  二の丸御殿(国宝)

 この御殿には、5つ、6つのスペースがあって、入口側から、

  遠侍(とおざむらい)
  式台(しきだい)
  大広間
  蘇鉄(そてつ)の間
  黒書院
  白書院 


 と、つながっています。
 
 どの場所もとても興味深いのですが、写真はNG。
 でも、私が気になったのは、「蘇鉄」の名が付いたスペース「蘇鉄の間」なのです。

 ここは、大広間と黒書院を結ぶ廊下なのですが、杉戸に大きな蘇鉄の絵が描かれているので、蘇鉄の間と呼ばれているようです。
 現在、原本は別の場所に保管されており、複製が置かれていました。


 庭の蘇鉄

 蘇鉄(ソテツ)というと、「恋の涙か蘇鉄の花が」という春日八郎の「長崎の女(ひと)」を思い出すのは、年齢がバレますが、長崎の歌に出てくることから分かるように、蘇鉄というと南国の植物というイメージです。

 蘇鉄の間の外に拡がる二の丸庭園には、蘇鉄の木が植えられています。

 二の丸庭園の蘇鉄
  二の丸庭園の蘇鉄 建物は大広間

 この蘇鉄が見えることも命名の由来なのでしょうか。

 ところで、堺市(大阪府)に妙国寺というお寺があって、ここは立派な蘇鉄が庭に群棲している寺として有名です。
 あくまで伝説ですが、織田信長がこの寺の蘇鉄を安土城に持って行って植えたところ、夜な夜な「帰りたい」と泣いたとか。それほど著名だったわけです。

 一説には、国内で蘇鉄が植栽されるようになったのは、その安土城あたりが最初といわれています。

 作庭家・重森三玲の『日本庭園の観賞』には、次のように記されています。(適宜改行しました)

 この外桃山時代からは、蘇鉄を庭木として植ゑ始めてゐるが、安土城の庭などに植ゑたのが先(ま)づ始の様であつて、これは文明頃に始めて日本に伝へられたことが文献に見られ、それを非常に珍重してゐるので、桃山時代から漸やく庭樹として用ゐかけたらしい。

 安土城のものは、後堺の妙国寺へ移植されて今日に伝はり、一休寺方丈前庭、三宝院庭、本派本願寺虎渓庭、坂本来迎寺庭などの桃山から江戸初期へかけてのものには何(いず)れも用ゐられてゐる処を見ると、桃山時代の豪華な芸術に受けたものと云ふことが考へられるが、後にはあまり用ゐられなかつた。紀州の円満寺のものなどは特に蘇鉄としての超大木である。(86-87ページ) 


 本派本願寺というのは、西本願寺のことです。
 西本願寺の対面所の蘇鉄は、江戸時代から知られていて『都林泉名勝図会』にも描かれています。

 西本願寺対面所の蘇鉄
 「西六条本願寺対面所林泉」(部分) 『都林泉名勝図会』より

 10本たらずでしょうか、妙国寺などと同様に蘇鉄が群棲しています。

 実は、二条城二の丸庭園の蘇鉄も、現在では1本しかありませんが、江戸中期には多数あったことが分かっています。

 大工棟梁・中井家に残された絵図のなかに、「二条御城中二之丸御庭 蘇鉄有所之図」というものがあります。
 享保15年(1730)調べの図です。
 それによると、池の周りや蓬莱島、鶴島に15本の蘇鉄が植栽されていたことが分かります。
 1本ずつの絵もあり、例えば「壱(1)」番の蘇鉄は、1丈2尺(約360cm)、7尺(約210cm)、4尺(約120cm)の3株からなっていたことなども判明します(『世界遺産をつくった大工棟梁 中井大和守の仕事』)。

 庭の点景として、蘇鉄が効果的に配されていたのです。

 二の丸庭園

 かつては、この庭のなかに、点々と蘇鉄が姿を見せていたわけです。

 桃山時代から江戸初期の感覚では、蘇鉄は “モダン” な植物だったのでしょう。
 障壁画などにも、題材として見掛けることがありますね。

 二条城の庭に蘇鉄がたくさんあったとは、蘇鉄好きの私にはうれしい限りです。




 二条城二の丸庭園(特別名勝)

 所在  京都市中京区二条通堀川西入
 見学  有料 大人600円ほか
 交通  地下鉄「二条城前」下車、すぐ



 【参考文献】
 「都林泉名勝図会」1799年
 重森三玲『日本庭園の観賞』スズカケ出版部、1935年
 図録『世界遺産をつくった大工棟梁 中井大和守の仕事』大阪市立住まいのミュージアムほか、2008年


新京極にあった2つの松竹ビルは、インバウンド需要でホテルに変貌





松竹第3ビル建替


 松竹兄弟と新京極 

 新京極と言えば、京都のなかで観光客が多いエリアのひとつで、土産物店などが多数並んでいます。

 いまでこそ面影が失われたものの、明治時代より、この通りは京都随一の興行街でした。劇場、映画館、寄席など、庶民に娯楽を提供する施設が集中していました。

 現在、演劇・映画の大手・松竹も、ここを創業の地としています。松竹は、明治10年(1877)生まれの白井松次郎と大谷竹次郎という双子の兄弟により創業されました。弟の竹次郎は、明治28年(1895)、新京極の阪井座の興行主となり、そのことを以て同社の創業としています。

 このあたりのことは、『大谷竹次郎演劇六十年』に書いてあるので、引用しておきましょう(一部句点を補い、適宜改行しました)。

 大谷(竹次郎)が十七、八歳の頃、父の栄吉は祇園館の縁から、新京極の「道場の芝居」といはれた「阪井座」の売店の経営を初め、やがてその歩(ぶ)を持つに至つた。
 
 興行に歩を持つとは、共同出資の金主(きんしゅ)の一人になることで、阪井座、大黒座、その他新京極の劇場は金主が三人、五人で金を出し合つて経営し、いづれも他に本業がある人達が片手間や道楽で興行してゐた、
 栄吉もその仲間でどこまでも売店が本職であつたが、芝居の歩を持つ金主であれば、興行師と呼ばれるのに何のさしつかへもなく、又劇場で「旦那」と敬称されるのにも、誰に遠慮もなかつた。しかるに栄吉は自ら旦那と呼ばれない位置に立つた。

 (中略)

 大谷の父栄吉が、それほどの金主、京都の阪井座の金方(きんかた)になりながら、旦那と呼ばれぬ位置に立つたのは何が原因かといふと、次興行の金主と定まると栄吉は、大谷を膝元に読んで、
「竹次郎、お前、俺の代りに阪井座の仕切場に坐つてんか、来月からお前はこの阪井座の金主や、御仕打はんやぜ、ええか」

 売店の荷を肩にした大谷は、父の言葉に無言で棒立ちとなつたまゝだつた。(11-13ページ)  


 父に才覚を認められた竹次郎は、阪井座の金主(共同出資者)になるのでした。
 一方、兄・松次郎は……

 その頃、松次郎の方は、父の手元を離れ、(新京極)夷谷座の売店全部の権利を握つてゐた白井亀吉のところに働きに出てゐたが、その亀吉の家は夷谷座に隣接し、劇場内と外の通りに店があり、寿司が本業で俗に三亀の名で手広く商売をして居り、娘の「おしか」「お八重」の二女は年頃で、京極の小町娘とうたはれていた。

 その亀吉に見込まれた松次郎は、妹娘のお八重の恋婿に選ばれ、長男の身を、他姓を冒して白井松次郎となつた。(13-14ページ) 


 お兄さんは、これまた才能を買われて、誓願寺前にあった劇場・夷谷座の仲売り・白井亀吉の娘婿候補となり、養子に入ったのでした。


 松竹第3ビルの建て替え

 いつも松竹のことになると、この兄弟のことを語ってしまいます。もちろん、松竹自身も創業者を大切にされているのは当然で、この看板をご覧ください。

 松竹看板

 上記のように、新京極・阪井座の興行主として創業したと記しています。
 末尾の「新京極通りで創業し、ご当地京都の皆様に育てていただいた松竹は……」といった言い回しが、歌舞伎の興行主らしくもあり、京都っぽくもあります。

 で、この看板はどこに掲げられているかというと……

 松竹第3ビル建替え

 この工事現場のフェンスに張ってあります。
 場所は、新京極四条を上がって約50mのところ。ここには、かつてSY松竹京映という映画館がありました。

 ちなみに、さかのぼると……

  SY松竹京映
    ↑
  SY京映
    ↑
  京極映画劇場 
    ↑
  歌舞伎座 (明治33年~昭和11年)
    ↑
  阪井座 (明治25年~33年)
    ↑
  四条道場芝居

 という感じです。(『近代歌舞伎年表 京都篇』)

 昔、この場所には金蓮寺(こんれんじ)という時宗の寺院があり、場所柄、俗に四条道場と呼ばれていました。
 そこに出来た芝居小屋が、“道場の芝居” です。

 これが、阪井座となり、さらに歌舞伎座となりました。京都にも、歌舞伎座という名前の劇場があったわけです。
 この歌舞伎座は、明治の終わり頃には活動写真館になっています。

 そういう歴史を持つ劇場・映画館でしたが、2001年に映画館が閉館したあとは、商業ビルとして利用されていました。ビルは、松竹第3ビルと称していたのです。

 旧SY松竹
  かつての松竹第3ビル

 1階にカジュアル衣料品店・ライトオンなどが入っていました。
 ビル壁面には、松竹マークがありました。

  松竹マーク

 ビルは、2016年に解体され、2017年2月現在、更地になっています。
 あのマークはどうなったのかなぁ、なんて思ってしまいます。

 と、ここまで書いて、今日なぜこの記事を書いているかという理由が出て来ます、ようやく(笑)

 松竹が2月7日(2017年)に行ったプレスリリースによると、2018年の秋、この場所にホテル&商業施設の複合ビルが建設されるというのです。
 そのビル名は「京都松竹阪井座ビル」!
 なんと、明治中期の劇場名をビルの名前にしたのです。

 リリースによると、ビルは地上9階建で、1階がテナントの店舗、2階から9階がホテル・東急ステイになるそうです。


 六角のピカデリー跡地もホテルに
 
 一方、新京極を上がった六角の角は、明治初期から夷谷座という劇場でした。白井松次郎の養父が中売りをしていたところです。
 戦後は、京都ピカデリー劇場という映画館として賑わいました。ビルは、松竹第2ビルと言いました。

 旧ピカデリー劇場
  旧ピカデリー劇場

 こちらも、壁面の松竹マーク&劇場名が何とも言えませんね。
 私も学生時代など、ここに映画を見に行きました。

 残念ながらすでに取り壊され、新しいビルがほぼ竣工のようです。

 ホテルグレイスリー京都新京極

 この夏、ホテルグレイスリー京都新京極(仮称)としてオープンするそうです。客室はツインルーム128室。
 運営は藤田観光ですが、すでに近所の寺町通にできているホテルグレイスリー京都三条とあわせ、ちょっとしたホテル街になりますね。
 ちなみに、藤田観光は、京都ではホテルフジタや京都国際ホテルを閉館していただけに、再度地歩を築いていきそうです。

 松竹系の劇場や映画館がホテルに変貌するというのも、時代の流れなのでしょうか。
 京都の繁華街らしい新京極を引き続き見守っていきたいと思います。




 阪井座跡

 所在  京都市中京区新京極通四条上ル中之町
 見学  自由
 交通  阪急電鉄「河原町」下車、徒歩約1分



 【参考文献】
 脇屋光伸『大谷竹次郎演劇六十年』講談社、1951年
 『近代歌舞伎年表 京都篇』10、八木書店、2004年



先斗町にある「鴨川の見える場所」は、かつて……





鴨川河川敷


 鴨川から見た先斗町

 京都で暮らすものが、ほっとする景色のひとつが鴨川ですね。

 鴨川
  四条大橋たもとから三条大橋方向を望む

 川べりの堤防も歩けるので、川との距離が近いですね。
 私は、もっと上流の方で育ったのですが、小中学校の頃は、いつも川に入って遊んだりしてました。賀茂川は意外に浅かったので、じゃぶじゃぶと歩くことができたのです(三条・四条あたりは深いので入らないように、念のため)。

 三条と四条の間、写真に写っている建物は先斗町(ぽんとちょう)界隈です。

 鴨川

 今回は、この写真から見える風景がテーマです。
 なにか気付きますか?


 先斗町のナゾの空間

 写真の中央あたりです。
 
 近寄って、クローズアップしてみると……

 車道橋跡

 わかるでしょうか、家と家が離れていますよね。
 それで、向こう側の建物が見えています。このスペースは、いったい何なのでしょう?

 車道橋跡

 こちらからは上れないので、先斗町の通りに行ってみましょうか。

 先斗町
  先斗町

 京都を代表する花街のひとつ、先斗町。細い街路の両脇にお茶屋さんや飲食店が並んでいます。
 四条通から、100mほど北上すると……

 先斗町

 右に道みたいなのがある、問題の場所です。

 曲がってみると!

 車道橋跡

 広場みたいになっています。
 お地蔵さんもありますね。

 お地蔵さん

 鴨川がよく見えます。
 修学旅行生なども、よろこんでますね。

 河川敷

 と、現地に来てみたものの、ここには答えは書いてありません。
 さて、どうするか。

 みなさんに考えていただいている間に、私は地図を持ってくることにします。


 明治時代の地図をみると……

 木屋町をご案内した際に使った明治44年(1911)の地図を持ってきました。
 いまから約100年前の京都の様子を表しています。

 どうやら、ここに答えが載っているようです。

 車道橋

 青い丸で囲ったところ、橋があったのですね!

 その名は「車道橋」。「くるまみち」橋と読むのでしょう。
 四条大橋の約100m上流に架かっていたのです。比較的狭い木の橋でした。

 この橋は、別名「竹村屋橋」とも称しました。
 幕末の絵図には画かれていないので、明治時代にできたのでしょう。
 橋なので対岸に渡れるのはもちろんのこと、納涼イベントなどの際には、臨時の昇降道を橋に付けて河原に降りられるようにしたそうです(「明治後期の京都鴨川における河川空間の広場的利用に関する研究」)。
 鴨川は、古くから河原が広く、納涼や芸能の場となっていました。明治時代にも、そういう状況があり、車道橋が活用されたということですね。

 一説には、大正8年(1919)に撤去されたというのですが、地図を見る限り、昭和初期にも画かれているので、そのあたりまでは架かっていたようです。昭和10年(1935)の鴨川の洪水の際に流されたという話もあり、そちらの方が正しいのかなと思います。


 名前の由来

 ところで、この橋の名前なのですが、竹村屋橋という呼び名は、おそらく架けた人か付近の店の屋号(竹村屋)に由来すると推測されますね。
 一方、車道橋という変わった名称は何に由来するのでしょうか?

 下の絵は、幕末に刊行された「花洛名勝図会」(1864年)に描かれたこの付近です。

 花洛名勝図会より鴨川
  右の橋は四条大橋(「花洛名勝図会」1864年より)

 矢印のところ、荷車を曳いた牛が見えますか?

 江戸時代、荷車は橋を渡ることが許されていなくて(橋が傷むから)、河原におりて川の中を渡っていたのですね。
 鴨川には、主な橋の脇に、渡る場所がありました。「花洛名勝図会」を見ると、白川などでもそうしていたようです。

 絵をよく見ると、上の矢印のところ、家並みが途切れて河原に下りるスロープが付いているのが分かるでしょう。場所は、どうやら三条大橋の下流を描いているようです。

 このような荷車の渡るところを車道と呼んでいました。

 ということは、四条大橋の北側にも、かつては車道があったのでしょうか。
 そのあたりに架けられた橋ということで、車道橋と呼ばれたのでは、と思います。

 なお、車道については、2度ほど書いていますので、そちらもご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <牛で荷物を運んでいた時代、三条通の白川はどう渡った?>
  ⇒ <鴨川に架かる荒神橋の脇にあるナゾの小道とは?>

 ずいぶん前ですが、三条大橋と四条大橋の間に、橋を架けるというアイデアが出されて大騒動になったことがありました(結局ボツになったのですが)。それは、まさにこの車道橋の再生といった感じでした。

 先日、たまたま映画「本能寺ホテル」を見ていたら、冒頭、主人公(綾瀬はるか)がチラシをもらうシーンが、まさにこの場所で驚きました。

 映画のカットで

 映画のカットは、こんな感じ。
 たぶん、狭い先斗町の中で、カメラを置く引きがあってよかったのでしょうね(笑)




 車道橋跡

 所在  京都市中京区四条通先斗町上る鍋屋町
 見学  自由
 交通  京阪「祇園四条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1864年
 「本願寺宗祖大師御遠忌記念 京都市街地図」1911年
 林倫子「明治後期の京都鴨川における河川空間の広場的利用に関する研究」(「景観・デザイン研究講演集」6、2010)



【駅から、ふらっと1時間】京阪・祇園四条駅から木屋町を歩く(その3)





木屋町から先斗町を望む


 飲み屋街の魅力をもつ木屋町

 高瀬川に沿った木屋町の通り。地図で「電燈會社」となっている旧立誠小学校の場所から、さらに北へ進んで行きましょう。

 四条ー三条ルート

 このあたりは、小ぶりな雑居ビルが立ち並び、夜になるとネオンの巷と化します。

  スナック看板

 ところが、昼過ぎ頃に歩くと、 “準備中” の趣が……
 納品に来たトラックが、たくさん見られるんですよね。

 トラック

 こういう納品車を見ていると、あきることがありませんね。
 コカ・コーラ、味覇(ウェイパー)、スジャータ、KCC(おしぼり)などなど、いろいろあるんです。

 コカ・コーラの車

 これを見ていると、順々に全部写真を撮っていったら、どんなにおもしろいだろうと思うんですね(笑)
 ちょっと変な趣味ですが。


 お龍さんの寓居跡

 雑居ビル街にも、京都らしく、というべきか、史跡がたくさんあります。

 お龍寓居跡

 石標をよく見ると、坂本龍馬の妻・お龍さんが独身時代に住んでいた場所が、このあたりだと言います。
 一瞬、龍馬の寓居か? と思うのですが、よく見ると違うのです。

 この雑居ビルは、都会館という名前です。
 廊下を入ってみると……

 都会館

 あれ、「龍馬」という店が!

 スナック龍馬

 スナックらしいのですが、よく見ると「龍馬資料館」とも書いてある。たぶん、龍馬ファンの皆さんが集うお店でしょう。
 掲示板には、オーナーさんを紹介した記事が。読んでみると、前回出てきた旧立誠小学校を龍馬資料館にしようとしてが、うまくいかなかった、とか。いいアイデアだと思うんですけどね。土佐藩邸跡というだけでは、ちょっと関係が薄いんでしょうか。
 
 龍馬好きの方は、ぜひどうぞ!


 お地蔵さんも

 京都は、町々にお地蔵さんがあるので、木屋町周辺にもお地蔵さんが目立ちます。
 山崎橋と、1本上流の材木橋には、ともに西詰辺にお地蔵さんがあります。

 こちらは材木橋の地蔵尊。

 大黒延命地蔵

 大黒町にあるためでしょう、「大黒福授延命地蔵菩薩」と書かれています。

 お堂は、しっかりした覆い屋に入っており、鳩除けなのでしょう、金網が張られています。
 これまで、なにげなく通り過ぎていたのですが、今回近寄ってよく見てみると、お堂はずいぶん丁寧な造りなのです。

 懸魚

 これは懸魚(げぎょ)。
 かぶら懸魚に、左右にひれが付いています。

 そして、象鼻も!

 象鼻

 組物も立派で、六葉なども使われており、覆い屋で守るのも理解できますね。


 変わる町並み

 お地蔵さんがあるのは、高瀬川西岸の西木屋町です。
 ここには「れんこんや」といった風情あるお店もありますね。からしれんこんが名物の店です。

 れんこんや
  左が、れんこんや

 少し歩いていると、工事中の現場がありました。

 京劇ビル跡

 この辺には、昔、京劇という映画館があって、ビルは長く残っていましたが、ついに取壊しです。
 繁華街の青空が、ちょっと悲しいですね。

 反対を向くと、先斗町歌舞練場が見えます。

 先斗町歌舞練場
  奥が先斗町歌舞練場

 ここも、最近右側のビルが取り壊されました。
 近年、ビルの改築が多いですね。

 高瀬川と木屋町

 四条通から、ふらっと歩いてきた木屋町。
 ようやく別れを告げて、先斗町に抜け、鴨川方向に進みます。

 珉珉の角

 ぎょうざの珉珉のところを曲がると、鴨川と三条大橋が見えて来ます。

 そして、橋のたもとには、弥次喜多像が。

 弥次喜多像

 三条大橋を渡れば、京阪・三条駅です。

 わずか1kmの京阪・祇園四条-三条間の旅。
 このほかにも、隠された見どころもあるようですが、そちらは現地で確かめてみてください。




 【コース】
 スタート:京阪・祇園四条駅 → 木屋町通 → ゴール:京阪・三条駅 【距離:約1km】