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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

岐阜県で見た京都からの技術伝播

建築




どんぶり会館


 地方へ伝わる産業技術 

 京都新聞のウェブサイトを読んで、2020年は “丹後ちりめん300年” ということを知りました。
 先日から、“応仁の乱550年” に関心を持っていただけに、○○年 というのを見ると、敏感に反応してしまいます(笑)

 記事によると、丹後ちりめんは峰山出身の森田治良兵衛が、西陣で学んだ技法を丹後に持ち帰って創始したものだそうです。それが、1720年のことだと言います。
 1720年というと享保5年。暴れん坊将軍、じゃなかった、米将軍(米公方)として有名な徳川吉宗が享保の改革を断行していた頃ですね。
 西陣と丹後は技術や人の交流があったのですが、現在、京丹後市にある830の織物事業所のうち、9割は西陣織専業なのだそうです。
 
 この例から分かるように、歴史的にみて産業先進都市であった京都からは、各地へ先端技術が伝わっていったのでした。


 岐阜県多治見市の “タイルの里”

 たまたま、昨日は仕事で岐阜県多治見市を訪ねていました。
 博物館の友の会で、同地への見学会を行ったからです。

 多治見は、かつての美濃国の東の方、いわゆる東濃地域の中心都市です。
 美濃焼の産地として知られています。

 私たちが訪れたのは、笠原町というところ。
 10年ほど前、多治見市に合併されたのですが、それまでは笠原町で、大正12年(1923)までは笠原村でした。

 ここも焼き物の産地ですが、古くは飯茶碗の産地として有名でした。一村あげて茶碗ばかりを造っていたわけです。

 笠原茶碗
  笠原茶碗

 美濃焼の窯がある村々は、“ウチはこれ!” という1品に特化した生産を行っていました。
 例えば、市之倉という村は盃(さかずき)、駄知という村は丼、下石(おろし)という村は徳利というふうに、それぞれに全国のトップシェアを誇っていました。行ってみると小さな村々なのですけれどね。

 そのなかで、笠原は茶碗の村だったのですが、昭和の初めになって、タイル生産を始めました。建築に用いるモザイクタイルです。
 現在も、笠原の事業所の多くはモザイクタイルを手掛けています。岐阜県のシェアは全国の85%にのぼり、そのほとんどが笠原で作られているのだそうです。
 私たちが見学させてもらったカネキ製陶所でもこれを製造されていて、とりわけマンションなどの外壁用タイルを数多く作られていました。

 タイル見本 タイルの見本

 このような製品で、よくイメージするモザイクタイルよりは大きいのですが、5cm×15cm程度の細長いタイル。外装モザイクタイルというものです。

 
 笠原への技術伝播

 カネキ製陶所は、大正7年(1918)の創業で -来年100周年ですね!-、最初は茶碗の高台を作っていたのだそうです。高台(こうだい)は、茶碗の一番下の接地している部分ですね。
 私的には、高台づくり専業だったのか! と、ものすごく興味がわいたのですが、詳しいことは聞きそびれてしまいました。
 その工場がタイル生産に転換したのが、戦後復興のさなか、昭和21年(1946)のこと。茶碗からタイルへと移り変わったのです。

 そんなタイルの町・笠原なのですが、そこでタイル生産を始めた人物が、山内逸三(1908-92)でした。
 山内は明治41年(1908)、笠原に生まれ、地元の土岐窯業学校を卒業したあと、京都にやってきます。京都市立陶磁器講習所で学ぶためでした。
 陶磁器講習所は、もともとは明治29年(1896)に創立された京都市立陶磁器試験所がルーツです。全国各地から集まる若者たちに技術を伝習することも行われ、大正9年(1920)に陶磁器講習所となったのでした。
 
 山内も15歳の時、この講習所で学び始め、6年ほど京都に滞在。実際に工場で経験を積んだりして、昭和4年(1929)、笠原に帰郷します。
 そこで彼が行ったのは、釉薬を施したモザイクタイルの製造でした。これを施釉磁器モザイクタイルと言います。
 訪れた多治見市モザイクタイルミュージアムの学芸員さんによると、この施釉をしたという部分が山内の画期的なところで、これにより壁面などを装飾するモザイクタイルが興隆したのだそうです。

 多治見市モザイクタイルミュージアム
  多治見市モザイクタイルミュージアム

 山内のモザイクタイルは、当時、大阪・御堂筋に建築された大阪ガスビルで使用されるなど、さまざまな建物で用いられます。
 彼が作った大ぶりの陶板などを見ると、ちょっと芸術的ですね。

 このように、昭和から現在に至る笠原のモザイクタイルの歩みは、なかなか興味深いものです。
 その技術者が京都で育まれということは、京都という場所が先端技術のインキュベーターだったことを示しています。こういう話を知ると、私たち京都の者にとってもうれしいですね。


   どんぶり

 


 多治見市モザイクタイルミュージアム

 所在  岐阜県多治見市笠原町
 見学  大人300円ほか
 交通  JR中央線「多治見」からバス




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ぼんやり考えてみた、劇場の客席について

建築




客席


 歌舞伎の話題

 ここのところ、歌舞伎の話題で盛り上がって来ましたね。

 というと、ワイドショーをよくご覧になっている方はニヤッとされるでしょうけれど、見ていなければ何のこと? という話です。

 ほんとうに、中村芝翫(しかん)というのは大きな名跡(歌舞伎俳優の名前)です。5年前に亡くなった芝翫さんは、お顔立ちが古風で江戸時代の人みたいで、私は好きでした。
 今回襲名される橋之助さんは、元気があって若々しいイメージですが、私と同年配のようで、それなりのお歳になられたわけです。

 こういう形で芝翫という名跡が多くの方々に知れ渡るのは嫌な感じかも知れませんが、いつの時代も人気者にはゴシップがつきもの。これで来月(2016年10月)からの襲名披露が話題を呼べばいいのでは、と思えます。
 
 そんな中で、私も仕事の関係で、何かと歌舞伎について考えることが多い今日この頃。
 今回は、劇場の椅子の話について、ぼんやりと考えてみます。


 お芝居をイスで見る時代

 いま劇場に行くと、どちらも椅子席ですね。
 ところが、江戸時代は椅子でなかったことは、どなたもご存知でしょう。

 当時、お客さんが大勢入る中央スペースは平土間(ひらどま、土間)などと呼ばれていて、大相撲にあるような枡席(ますせき)でした。
 お米などを計るマスのように、グリッドに仕切られていて、もちろんペタッと座って観覧します。

 この写真は、大阪・堀江演舞場「此花踊り」です。

 『日本地理風俗大系』9
 堀江演舞場の内部 (『日本地理風俗大系』9より)

 演舞場なので、さほど広くはないのですが、お客の女性たちが座って見ているのがうかがえます。
 
 こういった座り式の劇場から、椅子席に変ったのは、いつ頃なのか?
 東京や大阪、京都の主要劇場では、大正時代から昭和初期にかけて、椅子席が導入されていきました。西暦で言うと、1910年代から1930年代といった時期でしょう。

 
 跳ね上げ式の椅子も登場!

 大正頃の劇場の椅子が、どんなものだったのか、私はよく知りません。
 ただちょっと面白い史料を見付けました。

 開閉椅子
 寿商店の座席開閉連結椅子(雑誌「道頓堀」昭和7年10月号より)

 寿商店というところの広告に載っている写真なんですけれど、上に「特許寿式 並ニ 唖関節式座席開閉連結椅子」と書かれています。
 長いですが、連結椅子というのは左右にズラッとつながっている椅子(つまり現在劇場でよく見るもの)として、「開閉」というところですよね。
 これは「座席開閉装置」を持った椅子ということで、こういうやつです。

 椅子
 
 現在では、跳ね上げ式などと言うようですが、要は座面が畳める椅子のことです。これも劇場ではポピュラーですね。
 ちなみに「唖関節式」とは何なのか? 推測するに、広告にアームのことが記されているので、「唖(あ)」がアームの略で、アームを用いた装置により座面を開閉する、ということなのだと思います。

 この寿商店は、現在もコトブキシーティングという社名で営業されています(本社・東京)。公共施設の椅子などを納入されている会社です。
 同社ウェブサイトによると、東大・安田講堂に初めて連結椅子を納入したのが大正14年(1925)。それから、その方面の営業を強化されていったようですね。
 当時の安田講堂の内部写真を見ると、連結椅子の座面は畳まれているようですので、最初の連結椅子から跳ね上げ式だったようです。

 ということは、広告が掲載された当時(昭和7年=1932年)、跳ね上げ椅子は今後普及していく新アイテムだったことが分かります。
 主な納入先が上げられているのですが、各帝国大学や早慶などの学校、日比谷公会堂や学士会館などのホール、百貨店や病院などがあげられています。

 しかし、劇場はほとんどありません。
 実は、この広告は、昭和7年(1932)に大阪歌舞伎座がオープンした際に、雑誌に掲載されたものです。
 そのため、納入先に大阪歌舞伎座があるのは当然としても、他には大阪北演舞場しかないのでした。北の演舞場は、北新地の芸妓さんが踊りなどを披露する場所なので、一般の大劇場とはやや異なります。とすると、ふつうの劇場で跳ね上げ椅子を導入した第一号は、大阪歌舞伎座ということになるのでしょうか。

 こんな昔からあったのかとも、意外に遅いんだなとも思える、跳ね上げ椅子の歴史です。


 なぜ椅子席なのか?

 そんなわけで、大正から昭和にかけて、各劇場で椅子席化が進められていきました。
 これまで私は、それを当然のことのように考えていたのです。現在から振り返ってみると、進化論よろしく、“マスが淘汰されてイスになる” という思考に染められていたのでした。
 今回、改めて立ち止まってみました。

 なぜ椅子席にする必要があったのだろうか、と。

 単純に考えれば、欧米の劇場の影響、これは間違いなくあるでしょう。
 さらに、座り式ですと、履物を預かる必要が生じます。以前も書いた “下足問題” ですね。
 大阪歌舞伎座では、下足預かり(要はゲタを預かる)もするけれど、できるだけ靴や草履で来てね、とパンフレットに書いています。下足を管理し出し入れする手間は、大変な労力で、トラブルの原因でもありました。

 今回、私が気付いた理由は、活動写真(映画)の普及です。
 大都市では、明治後半から、活動写真が上映され始めます。大正時代になると、飛躍的に上映が増えました。
 専用の活動写真館で映写する場合もありましたが、従来からあった芝居用の劇場で上映する、あるいはその劇場が活動写真館に転換してしまうケースも多かったのです。そこでは、当然、枡席で映画を見ることになるわけで、今日では考えられないヘンテコリンな風景が拡がっていたはずです。

 芝居見物で枡席が便利だったのは、和気あいあいと飲み食いしながら観劇できるところでした。
 横を向いたり後ろを向いたりして、家族や仲間と飲食するわけです。観覧時間も長いので、ずっと集中して芝居を見ているわけでもなく、適当に気をそらしながら、時間を過ごしたのです。

 ところが、映画の場合、場内は真っ暗になりますよね。
 こうなると、みんなで楽しく、というわけにもいきません。おのずとスクリーンに集中する感じになっていきます。

 そこで登場するのが椅子席です。
 椅子は、まっすぐ前を向いて着席する設備ですから、映画鑑賞には打って付けでした。

 これが、芝居だけの劇場にも波及して、枡席が椅子席に変っていったのではないだろうか――そんなふうに考えたのです。

 どうでしょうか?

 ちゃんと実証する必要がありますが、いままで気付かなかった側面があるかも、という話でした。




 【参考文献】
 「道頓堀」1932年10月号
 『日本地理風俗大系』9、新光社、1931年


あやめ板、大和打 …… この風流な名前の建築とは?

建築




善田好日庵


 先斗町の景観を彩る要素

 先日、京都市の景観保全に関するウェブサイトで、先斗町についての記事を見ました。
 「平成27年4月1日から先斗町地区を「先斗町界わい景観整備地区」に指定します」という長い名前のリーフレットです。

 先斗町(ぽんとちょう)は、鴨川の西側に、川に並行して約500mつづく細い街路で、両側にはお茶屋さんなどが並び、たくさんの路地もあって、独特の景観を呈しています。
 「先斗町界わい景観整備地区」の指定は、この雰囲気のある景観を維持するための施策です。

 その対策のひとつとして、建物のデザインのルール化があります。
 詳しくは、京都市のサイトを見ていただきたいのですが、私が気になったのは、「らしさ」を醸し出す建物各部分の名称なのです。

 玄関庇(ひさし)、欄干(らんかん)、あやめ板、簾(すだれ)掛け、犬矢来(いぬやらい)、駒寄(こまよせ)といった言葉の数々。

 みなさんも気になる言葉、“?” な言葉があったと思うのですが、私がとても引っ掛かったのが「あやめ板」です。


 あやめ板とは?

 あやめ板。

 まず考えるのは、語源ですよね。
 で、たぶん、植物のアヤメ(菖蒲)から来ているに違いない、と思います。

 そして、辞書を引いてみるわけですが、「あやめ板」なんてものは、なかなか出てこないわけです(笑)
 でも、よく見ると、『建築大辞典』(彰国社)に、「あやめばり」という項が立っていたのです。
 で、その文字なんですが、「綾目張り」!

 綾目でしたか。
 洋服の柄なんかでも、杉彩(綾杉)模様というのがありますね、英語で言うヘリンボーンです。右の列と左の列のV柄が逆になっていて、それを繰り返す模様です。
 余談ですが、日本人が見ると、このV字模様、杉の葉に見えたり、矢筈に見えたりするのですが、英語圏ではヘリンボーン=ニシンの骨に見えるのですね。おもしろい文化の違いです。

 辞書に戻ると、「綾目張り」のところには、「やまとばり」を見よ、と書いてあります。

 さっそく「やまとばり」を引くと……

 大和張り
 屋根板、天井板、羽目板などの張り方の一。
 板を交互に重ね合わせて打ち付ける手法をいう。
 屋根や塀などの場合はそれぞれ大和葺き、大和塀と称される。
 (中略)
 「大和打ち」、「綾目張り」ともいう。(『建築大辞典』)


 と、文章を読んでも、さっぱり分からないでしょう(笑)
 そこで、この図を見てください。

 大和打

 おなじみの中村達太郎博士の『日本建築辞彙』の図です。
 つまり、タテの板を、前・後ろ・前・後ろ……と張っていく方法でした。
 それも、右の板と左の板を、ちょっとだけ重ねるようにするのが通例です。

 中村博士は、こう説明しています。

 大和打
 板ヲ交互ニ表裏ニ打付クルコト。其(その)表板ハ裏板ト一致セズシテ板の中心線ハ裏ノ板間ノ真墨ニ一致ス。図ヲ見ヨ。(『日本建築辞彙』


 「真墨(心墨)」は、部材の中心線のことですが、論理的な説明です。でも、分かりにくい(笑) 


 「大和塀」?

 さて、そういう大和打(大和張り)で作った塀を「大和塀」と呼ぶと、『建築大辞典』は書いています。
 ただ、大和塀には2つの意味があって、よく用いるのは、杉皮などを張った塀で、茶庭などに建てる数寄屋風のものです。『日本建築辞彙』や、岸熊吉『日本門牆史話』は、こちらのみを大和塀と説明しています。
 でも、現代的には、大和打の大和塀もOKみたいです。

 名前の話が長くなりました。
 実例を見てみましょう。

 大和打
  大和打

 こんな感じですね。

 この場合、水平材を上下2本通して、その裏表にタテの板を張っています。板の上には、長い水平材を通していますが、これは笠木で、名の通り、塀を雨から守る笠(傘)の役目を果たすものです。

 京都市内の中心部を見て回ると、塀の上にプラスアルファとして、大和打を取り付けるケースが圧倒的です。

 京料理にしむら

 中京区の料理店。もとは住まいに使われた仕舞屋でしょう。
 これでよく分かりますが、下の塀だけでは家の2階が見えてしまうので、目隠しの塀として大和打をプラスしているのです。

 大和打は、視線は完全にさえぎるけれど、風は通るので、勝手がよいのですね。

 善田好日庵

 こちらも中京区で、お茶室のようですが、塀の下部には犬矢来を付け、上部は大和打です。その上にさらに樹木を伸ばして、内部が全く見えないようになっています。
 黒板塀に犬矢来、大和打と、京都らしい意匠と言えるでしょう。

 善田好日庵

 もちろん、大和打で塀全部を作ってしまう方法もあります。
 ただ、そうやってしまうと、余りにも実用的というか、語弊を招きかねない言い方ですが、庶民的になるというか、そういう印象になります。そのために、市内中心部のお宅には使われませんね。

 それにしても、冒頭紹介した「あやめ板」という呼称は、あまり使われないようです。
 個人的には、あやめ板という言い方が、上品で好ましいと思うのですが、いかがでしょうか。




 【参考文献】
 中村達太郎『日本建築辞彙』丸善、1906年
 岸熊吉『日本門牆史話』大八洲出版、1946年
 『日本建築大辞典 第2版』彰国社、1993年
 「平成27年4月1日から先斗町地区を「先斗町界わい景観整備地区」に指定します」京都市都市計画局、2015年


信濃善光寺から考えた巨大な仏堂

建築




西本願寺御影堂


 久々の信濃善光寺

 このあいだ、久しぶりに信州に行ってきました。友人との単なる温泉旅行なのですが、帰りに善光寺にお詣りしてきました。

 善光寺
  善光寺(長野県)

 善光寺も、たいへん長い間、参拝していませんでした。
 改めて本堂を拝すると、その立派さに感動を覚えます。

 このお堂の特徴は、建物を上から見ると T字形をしていることです。
 そう、撞木(しゅもく)の形をしているので、撞木造と呼ばれています。

 とてもざっくり言うと、タテ向きのお堂とヨコ向きのお堂をT字形につないでいるのです。
 ただ、軒の出は揃っているので、航空写真で見ても長方形なのですが、棟の形がT字なのです。

 そのため、奥行きが深い建築になっています。

 善光寺 横から見た本堂

 柱間でいうと、間口が7間に対して、奥行きが16間もあります。
 実際の長さにすると、23.85m×53.65mで、ヨコ・タテ比がほとんど1:2ですね(mは両端の柱の間の寸法。以下同じ)。

 日本の木造建築は、桁行(けたゆき)方向には延々と伸ばしていけます。
 善光寺は、妻入りなので、どんどん伸ばしていって、こんな奥行きの深い建物になったのです。伸びていった部分は、大勢の参拝者を受け入れるスペースになっています。
 
 宝永4年(1707)の建築で、江戸時代のものらしく背の高い仏堂。東大寺大仏殿とほぼ同じ時期の建物です。
 木造の古建築では、奥行きが最も深いのが、この善光寺本堂でしょう。


 長さのトップは三十三間堂

 いま私が参照している数字は、文化庁監修『国宝・重要文化財大全』によっています。
 それによると、東大寺の大仏殿は、7間×7間で、端の柱から端の柱までが、間口57.01m×奥行き50.48mです。
 確かに奥行きは善光寺の方が3mほど長いのですが、間口は長大ですね。

 もっとも、桁行が日本一長い木造の古建築は、三十三間堂です。

 三十三間堂
  三十三間堂(蓮華王院本堂)

 この建物は、柱間は35間×5間です。
 三十三間堂という呼称は、内陣の柱間が33あることによっていると言われています。35間というのは、外陣の柱間で、外から眺めると柱の間が35数えられます。
 昔の人は、三十三間堂の「間」を長さの単位・間(けん)と考えていて、長さが60mほどある建物だと思っていたのです。

 しかし、実際の長さは、118.22m。
 先ほど言ったように、桁行を延々と伸ばしていった結果が、このような建物を造ってしまったわけです。
 
 建築年代は鎌倉時代の文永3年(1266)ですから、善光寺や東大寺大仏殿より440年ほど古く、何度も修理を重ねているとはいえ、寿命の長さに驚かされます。


 東西本願寺 御影堂の規模

 国宝や重文に指定されている建造物で言えば、西本願寺の御影堂や阿弥陀堂も大規模です。
 特に、御影堂は、54.89m×39.48mあります。

 西本願寺御影堂
  西本願寺御影堂

 浄土真宗の仏堂は、通常規模が大きいのですが、明治維新以前のものでは、これが最大です。
 寛永13年(1636)に建てられました。
 内陣と外陣の畳数を合わせると、700畳以上あると言います。
 いつでも参拝者が堂内に入れるのも、ありがたいところです。

 もっとも、明治以降ということで言えば、西本願寺より東本願寺の御影堂の方が大きいのです。

 東本願寺御影堂
  東本願寺御影堂

 明治28年(1895)の竣工で、登録有形文化財なのですが、間口が63.63m、奥行きが45.45 m。軒の出まで入れると、間口は76mに及ぶそうです。
 建築面積も2,891.98㎡あるといい、こちらの方が大仏殿(2,877.86㎡)より大きい、という向きもあるようです(『両堂再建』)。

 と、ここまで書いてきてなんですが、何が一番かは尺度の違いもありますので、余りこだわるのも変な話でしょう。
 三十三間堂を除いて、江戸時代の寺院建築は、こちらにあげたもののほかにも、清水寺、知恩院、長谷寺(奈良)など大きな仏堂がたくさんあります。庶民への信仰の普及によって、大勢の参拝者を収容できる堂宇が造られていったことがよく理解できます。
 
 信濃の善光寺は、私が訪れた日もたくさんの参拝者で賑わっていました。
 そういう光景を見ることは、やはりうれしいものです。




 西本願寺御影堂(国宝)

 所在  京都市下京区堀川通花屋町下ル
 拝観  自由
 交通  JR「京都」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 『国宝・重要文化財大全 11 建造物・上』毎日新聞社、1998年
 『両堂再建』真宗大谷派宗務所出版部、1997年


数ある京都の国宝建築、どれがおススメか、独断的に考えてみると……(その2)

建築




三十三間堂


 旧市街最古の寺院建築

 前回に引き続き、京都国宝建築めぐりです。

 京都にある国宝建造物のリストは前回をご覧いただくとして、さらに私の好きなおススメ建築を紹介していきましょう。
 先にあげた醍醐寺五重塔。
 一番上の五重目は、一番下の初層の6割しかないそうで、スーッとすぼまった格好良いスタイルです。

  醍醐寺五重塔 醍醐寺五重塔

 京都市内に残る最古の建築なのですが、こちらは伏見区の醍醐なので洛外になります。洛中、いわゆる旧市街で最も古い現存建築は、大報恩寺本堂です。

 千本釈迦堂
  大報恩寺本堂

 大報恩寺と言っても、聞き馴染みがありません。通称「千本釈迦堂」で知られています。12月の行事「大根(だいこ)だき」は有名です。

 「大根だき」については、こちら! ⇒ <きょうの散歩 - 千本釈迦堂の大根だき - 2013.12.8>

 この本堂は、鎌倉時代の安貞元年(1227)に建てられています。
 ご承知のように、京都では応仁の乱(1467~1477)によって市街が焼けましたから、それ以前の建物は貴重です。
 また、千本釈迦堂がある西陣界隈は、江戸時代の天明の大火など、何度か大火災に見舞われています。それを掻い潜って残って来たのは、仏さまの功徳というべきか、素晴らしいことですね。

 千本釈迦堂
 
 あまりいい写真じゃないですね。本当は美男子なのに、写真写りが悪いんですよ、釈迦堂は。

 横から見ると、薄い屋根が伸びやかに広がっているのが美しいです。
 参拝者が上がっていくところ、向背(こうはい、ごはい)といって、ひさしが前に突き出ています。
 入母屋造の屋根が △ に合わさる部分は、猪子扠首(いのこさす)です。

  千本釈迦堂

 外観は、“御殿風”に見えますよね。和様の建築で、開口部は半蔀(はじとみ)などで寝殿造のようですね。
 堂内に入ってみると、参拝する外陣と内陣が区切られていて、内陣には黒い敷瓦が敷かれ、四天柱が立っています。真言宗なので、密教的な雰囲気に満ちています。
 静かな空間なので、建築美を堪能するには最適ですね。

 国宝建築としては意外に知られていないと思いますが、これは優品です。
 北野天満宮から徒歩で行けるので、ぜひ訪ねてみてください。


 ひなびた山里にも……

 南郊まで足を延ばすと、浄瑠璃寺がいいですね。

 浄瑠璃寺
  浄瑠璃寺本堂

 本堂は、9躯の阿弥陀仏が安置される九体(くたい)阿弥陀堂です。
 阿弥陀さんは横並びなので、横に長い建物で、桁行は十一間あります。
 堂内に入ると、狭い空間に金色の阿弥陀さんが並んで座っておられます。平安貴族の夢の空間。まさに極楽浄土です。
 この建物は、中に入らないと良さが分かりませんね。

 浄瑠璃寺

 遠いせいもあって、長らく訪ねていません。こちらには国宝の三重塔もありますし、久しぶりに行ってみたくなります。


 クラシックな趣きの建築

 阿弥陀さんが9躯の浄瑠璃寺も壮観ですが、もっとたくさんの仏さんを造ってしまおう、というのが、こちらです!

 三十三間堂
  三十三間堂

 千体の千手観音がおられる御堂。
 三十三間堂という通称は、内陣の柱間が33あるために付けられました。外から数えると33でないため、昔の人は「長さが33間(約60m)」と考えることも多かったのです。
 ちなみに、文化庁のデータベースには、「桁行三十五間、梁間五間」とあります。この「三十五間」というのが外陣の柱間、つまり外から見た間数を表しています。

 三十三間堂

 三十三間堂もまた、建築が好きな方にも仏像が好きな方にも満足いただけるところです。
 修学旅行の定番になっていて、いつも人が大勢ですが、それに反して荘厳な宗教的雰囲気にあふれていて、私はここが大好きです。
 特に、真ん中に座っておられる観音さん(中尊)が、本当に尊いお顔お姿をなさっていて、いつも感動します。

 西側から見ると、遮るものがなくて上手く見られます。
 この建物は、鎌倉時代の文永3年(1266)に建立されたものです。しかし、その原型は後白河法皇の発願により建てられたもので、平清盛が大きな貢献をしています。つまり、院政期の建築なのですね。

 そのせいか、私の目にはとてもクラシックに映ります。

 三十三間堂

 この雰囲気。

 実に古風で、奈良のお寺を見ているような錯覚に囚われます。
 私の “古寺巡礼” は、少年時代、奈良から始まったのでした。そのせいか、「天平の甍」ではないけれど、古代のスタイルが心の底にあるみたいで……。どうしても、古典的な雰囲気に心魅かれるようです。
 今回は、そういった自分の中にある趣味嗜好が分かったような気がしました。

 みなさんも、「わたしの一棟」を探してみてはいかがでしょうか。




 三十三間堂(蓮華王院本堂)

 所在  京都市東山区三十三間堂廻り町
 拝観  大人600円ほか
 交通  京阪電車「七条」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 文化庁ウェブサイト「国指定文化財等データベース」
 京都府教育委員会『京都府文化財総合目録』京都文化財団、2006年
 山岸常人『塔と仏堂の旅』朝日選書、2005年