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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

「世界ふしぎ発見!」で、明智光秀の特集 ! !  

洛西




明智風呂


 「世界ふしぎ発見!」で “新説 本能寺の変 434年目の真実” 放映

 7月9日(2016年)の夜、なんとなくテレビをつけると、「世界ふしぎ発見!」(TBS)が放送されているところでした。
 どうやら、明智光秀の特集らしい。

 そういえば、新聞のテレビ欄にそう書かれていたけれど、すっかり忘れていました……

 もう9時半も回っており、ちょっと見ただけでチャンネルを変えました。
 でも、しばらくたってもう一度見ると、いよいよ “ラストミステリー” の問題で、こんな映像が出て来ました。

 妙心寺 (テレビ画像ではありません)

 「妙心寺」とテロップが入ってる。

 このブログの愛読者なら、ここで答えが分かるはず ? !

 妙心寺にある明智光秀にゆかりのあるものは? みたいな問題なのですが、そのものの画像まで映し出されました。

 明智風呂

 そう、明智風呂ですよね。

 光秀公は生前、妙心寺と近い関係でしたので、本能寺の変後、彼の菩提を弔うために建てられたのが明智風呂です。
 詳しくは、以前の記事をご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <妙心寺の浴室は「明智風呂」>
 

 首塚や餅寅さんも

 ラストの前には、白川三条下ルにある光秀公の首塚や、それを守っておられる和菓子店・餅寅さんも登場していました。

 明智光秀首塚
  明智光秀首塚

 餅寅
  和菓子店・餅寅

 首塚の記事は、こちら! ⇒ <明智光秀の首塚は、幕末から明治、歌舞伎役者たちによって整備された - 光秀饅頭も美味!->

 いつものように、餅寅のおかみさんも登場されて、元気なお声が聴けました。
 光秀饅頭も紹介されましたが、「世界ふしぎ発見!」は、それを食べたりするシーンはないんですね。禁欲的な番組です(笑)

 光秀饅頭 光秀饅頭

 そんなことで、妙心寺のところで解答者の答えが示され、案外正答が多く(!)、野々村真クンが「露天風呂」と書いたりして他のゲストに突っ込まれたり。
 見ていた私は、CMになったので正解まで見ずに、テレビを消してしまいました。

 そして、一夜明けて……

 番組のこともすっかり忘れ、朝、いつものようにブログのアクセス数をチェックしてみると……

 なんと、ふだんの4、5倍ものアクセス数になっているではありませんか!
 それも、21時台に集中している!

 あっ、と気付いたのは「世界ふしぎ発見!」のこと。
 調べてみると、「明智光秀 妙心寺」「明智光秀 風呂」といったキーワードで、いっぱい検索されていたのでした。

 この番組は、やっぱり人気なんですねぇ。
 改めて長寿番組の実力を知らされた出来事でした。




 妙心寺 浴室(明智風呂、重要文化財)

 所在  京都市右京区花園妙心寺町
 拝観  浴室・法堂 大人500円ほか
 交通  JR「花園」下車、徒歩約3分


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龍安寺の文鎮は、これしかないという超レア・デザイン - 私の文鎮収集(2)-

洛西




竜安寺文鎮


 寺院の文鎮は、やはり珍なるデザイン

 「私の文鎮収集」の2回目は、龍安寺。

 京都でも人気寺院のひとつで、虎の子渡しと称される方丈の石庭は、人気の的です。海外ツーリストも、とても多いですね。

 こちらの売店にも、文鎮が置いてあり、求めてみました。

 竜安寺文鎮箱

 箱は、至ってふつう。中に「京の鉄器」という紙片が入っていて、制作は“アトリエYOU”という工房のようです。

 中を空けると……
 
 竜安寺文鎮

 なんと! 石庭をかたどった文鎮なのです。
 その名も「石庭文鎮」。

 こんなデザインありか? と思わせる奇抜なアイデアです。龍安寺も、やるなぁ。

 竜安寺文鎮

 鈕(ちゅう=つまみの部分)が、庭の石なのですね。
 ちゃんと、砂の波紋も作られていて、細かい作品です。


 どの石がモデルなのか?

 それにしても、いい文鎮だなぁ、と悦に入って見ています。が、実際、どの庭石をモデルにしたのだろうか? という疑問が沸々と湧いてきます。

 竜安寺石庭

 右から左まで、大きく分けると5つ石の固まりがあります。
 江戸時代の「都林泉名勝図会」では、このようになっています。

 「都林泉名勝図会」より「竜安寺方丈林泉」
 「龍安寺方丈林泉」(「都林泉名勝図会」4)

 当時は、庭に人がおりているところが驚異的なのですが、まぁそれはおくとして。
 どれなんでしょうか?

 竜安寺石庭

 右方の2つの固まり(上の写真)は、どうも違うみたいです。
 また中央奥の方も、明らかに違う形。
 そうすると、これでしょうか……

 竜安寺売店

 左端にある、この石。
 竜安寺文鎮

 これに間違いなさそうですね。

 なぜこれなのかは不明ですが、単につまみに適した形だったからでしょうか。
 立石から少し離れた左右にある平たい石も、ちゃんと作っています。
 けれども、それぞれの石はそれほど写実的でもないように見受けられます。


 他にも石庭グッズが

 龍安寺の売店は古風だけれど、充実しています。
 文鎮も、複数売っています。

 竜安寺売店

 右端のものが、私が購入した文鎮。
 中央は、石庭全体をかたどった文鎮で、つまみは土塀! なんという意匠でしょうか。
 また、左端は「つくばい栓抜き」。方丈の裏手にある「吾唯知足」の蹲(つくばい)を栓抜きにしてしまった !!
 
 龍安寺、かなりイケてるぞ!

 極めつけは、これ。

 竜安寺石庭

 石庭屏風。
 
 「都林泉名勝図会」の絵を屏風にしたのです。
 実は、これも欲しかったんですね。でも、お値段が……
 日本人より海外ツーリスト向けのグッズかも知れません。

 写真に文鎮のお値段が写っていますが、文鎮は土産物としては適当な価格なのです。どの寺社でも、1000円前後で良い品が買えます。
 実用的で、腐らないし、虫も喰わないし。

 竜安寺文鎮

 まだまだ紹介していきたいと思います。




 龍安寺方丈石庭(国特別名勝・史跡)

 所在 京都市右京区龍安寺御陵ノ下町
 拝観 大人・高校生 500円ほか
 交通 京福電車「龍安寺道」下車、徒歩約10分



 【参考文献】
 「都林泉名勝図会」1799年 


仁和寺経蔵で、戸閉まりについて考える

洛西




仁和寺経蔵


 江戸時代の建物の宝庫・仁和寺

 「御室」の呼称で知られる仁和寺。
 現在、私たちが目にする伽藍は、江戸時代の前半に整備されたもので、寛永年間から正保年間(およそ1640年代)に建てられた建築が多数を占めます(国宝の金堂は、慶長18年(1613)築の内裏・紫宸殿を移築したもの)。
 国指定の建造物が多く、金堂は国宝、二王門、中門、五重塔、観音堂、鐘楼、経蔵、御影堂などは重文となっています。

 今回は、経蔵に注目です。

 仁和寺経蔵
  仁和寺 経蔵


  輪蔵がある経蔵

 この経蔵の中には、八角形の輪蔵(りんぞう、回転するお経の収納庫)があります。かなり大ぶりの輪蔵ですね。
 引き出し状になった768の経函があり、そのなかに仏教の経典集・大蔵経(一切経)が収められています。

 特別公開で、その内部に入れたのですが、気になったのが扉でした。

 仁和寺経蔵
  正面向かって右側面(南側)

 扉は、背面を除く3面に1か所ずつ付いています。
 両開きの桟唐戸(さんからど)で、藁座(わらざ)によって吊り込まれ、外開きになっています。上下に付けられた白色の部材が、藁座ですね。
 扉を藁座で吊り込むのは、禅宗様のやり方です。仁和寺は真言宗なのですが、この建物だけは禅宗様で建てられています。浄土宗・知恩院の経蔵も禅宗様ですから、経蔵は禅宗様で造るという了解があるのでしょうか。

 仁和寺経蔵

 寺院建築の場合、基本的に扉は外開きです。
 例外的に内開きになるのは、門と蔵です。
 経蔵は、蔵の一種だから内開きだろう、と思いきや、外開きになっています。仁和寺だけでなく、知恩院、妙心寺、大徳寺は言うに及ばず、各地にある国指定の経蔵を見てみると、みんな外開きになっていることが分かります。

  仁和寺経蔵 仁和寺経蔵
  外開きの扉  (左)正面 (右)北面

 今回、気になった点は、“戸締り”でした。カギの問題ですね。
 この扉、どうやってカギを掛けているんだろう、ということです。


 扉のカギは、どうなってる?

 考えてみると、建物は外観だけを見学することが多く、扉の内側は余り見ません。見ても、カギのことまでは気に掛けないものです。

 この写真をご覧ください。

  仁和寺経蔵
  扉に付いた金物

 開いている扉の写真です。
 扉の内側の両端に、タテ長の金物が付いています。
 上下にスライドするようになっていて、下端はL字形に曲がっています。

  仁和寺経蔵 ← の部分がL字形に曲がっている

 実は、これがカギなのです。

 建物側を見ると、足元の貫(足固貫)に、こんな穴が開いています。

 仁和寺経蔵

 この2つの穴こそ、タテ長の金物が刺さる穴なのです。

 この金具、いわゆる「落とし」というやつで、現在の建物でもドアを留めるための「フランス落とし」などが使われていますね。
 
 3か所の入口には、各2つ、合計6つの落としが付いています。
 頭が鈍いものですから、“内側から6つとも閉めると、外に出られなくなるなぁ”なんて疑問も湧いてきます。
 いろいろ考えたのですが、最後に閉める落としは、貫に着地させてから、そっと閉めていくと、穴のところで勝手にコトッと落ちて閉まるのかな?--とも思いました。でも、それも無理があるなぁ、などと悩み、やはり道具を使うんだろうか、などなど、ちょっとお手上げです。

 戸締りした様子は、外から見ると全く分かりません。

 仁和寺経蔵

 ちなみに、閉めた扉を開くとき、つまり落としを上げるときは、おそらくL字形の鍵を使うのだと思いますが、それをどこから差し込むのか、こちらも不明でした。

 現在では、正面の扉の外側に錠前が取り付けられています。

 仁和寺経蔵


 落としの呼び名

 戸締り金物の一種である、この「落とし」、正確にはどう呼ぶのか、なかなか難しい問題です。
 金物だから「落とし金」と言ったり、カギだから「落とし錠」と言う場合もあるようです。
 この経蔵の『修理工事報告書』を見ると、「落としコロロ」という “?” な呼称が出てきました(28ページ)。

 コロロって?

 『日本国語大辞典』や『大阪ことば事典』によると、「コロロ」とは「枢」の漢字を当て、「戸の桟(さん)。おとし。さる」とあります。大阪などの方言で、「くるる」の転化とされています。
 『大阪ことば事典』には挿図があって、戸に落としが描かれています。

 寺院のお堂には、昔はカギなど掛けなかったということです。
 さすがに門はカンヌキ(閂)で閉めたと思うのですが、仏罰を恐れて賊も入らなかったのでしょうか。

 仁和寺経蔵
  仁和寺東門のカンヌキ
  
 いまでは、どの寺院でも警備員さんやセンサーに頼らざるを得ない時代になってしまいました。
 扉やカギからも、寺院と信仰の歴史をうかがうことができそうです。




 仁和寺 経蔵 (重文)

 所在 京都市右京区御室大内
 拝観 経蔵は通常外観のみ(無料)
 交通 嵐電「御室仁和寺」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 『重要文化財仁和寺鐘楼・経蔵・遼廓亭修理工事報告書』京都府教育委員会、1993年
 『国宝・重要文化財大全 11 建造物 上巻』毎日新聞社、1998年
 牧村史陽編『大阪ことば事典』講談社学術文庫、1984年


お百度参りは、祈願の個人化によって誕生した

洛西




梅宮大社


 この棒は?

 先日、松尾大社(京都市西京区)を訪れた際、拝殿の前にこんな木の箱が置かれていることに気付きました。

 松尾大社

 なかをのぞきこんで見ると、

 松尾大社

 竹の棒が、無造作にたくさん入れられていました。

 これは、いったい何なのか?

 貼り紙には、こう記してあります。
 「お願い  御千度串入れに付、古神札等を入れないで下さい」

 お千度串。

 つまり、千度参りをするとき、何回拝礼したかを数えるための串(棒)なのです。

 松尾大社
  松尾大社


 百度参りと千度参り

 そのあと、桂川を渡って、梅宮大社に参拝しました。

 梅宮大社
  梅宮大社

 すると、こちらには拝殿の右側に、このような場所がありました。

 梅宮大社

 ふたつの石の間が石畳になっています。
 向こうの石には「百度石」と彫られていますので、ここを往復して百度参りをするということのようです。

 手前の石には、

梅宮大社

 このような札が。
 百度参り用の「こより」は、社務所で100本100円で売られている旨が記され、「従来の竹串」は手水舎の後ろにあると書かれています。

 そこで手水舎に行ってみました。
 すると、ありました。

 梅宮大社

 「お百度参り竹串在中/ここへ古札やごみを入れないで下さい」と書かれています。

梅宮大社

 なかには竹串が入っていて、小分けに結えてあります。

 松尾大社は千度参り、梅宮大社は百度参り。
 回数は違いますが、近くの神社だけに細かいところは似ていますね。

 江戸時代の人も、お百度やお千度を踏んだわけですが、絵で見てみましょう。

 「花洛名勝図会」より頂妙寺
 「花洛名勝図会」(1865年)より「頂妙寺二天門」

 これは、洛東にある頂妙寺の仁王門(二天門)のようすを幕末に描いたものです。
 門に祀られた持国天と多聞天が広く信仰を集めていたので、人々が時計回りに門を回って参拝しています。

 「花洛名勝図会」より頂妙寺

 拡大すると、左の女性は右手に「こより」を持っています。これで回数を勘定しているのです。
 「花洛名勝図会」には、このように記されています。

 此[この]尊天、霊験あらたなるが故に、陰晴をいはず朝より暮に至るまで、詣人しばしの間断なく、老若男女群つどひて、かちはだしにて門をめぐり千度をうつことおびただし

 裸足で門を回って「千度」を打っている、というのです。
 これを読むと、梅宮大社の百度石のところに敷石があったわけがわかるでしょう。たぶん、裸足で百度参りする方がいるのだと思います。

 頂妙寺の仁王門について以前書きましたので、ご覧ください。 記事は、こちら! ⇒  <仁王門通の由来である頂妙寺とナゾの絵>


 柳田国男の説

 百度参り、千度参りのあり方や変遷について、民俗学者・柳田国男は「千駄焚き」という文章の中で、興味深い説を述べています。

 柳田によると、神への祈りは、もともとは村などの共同体で行われるものでした。それが、時代を経るにつれて、「個人祈願」、つまり「一人限りの願ひごと」を神さまに頼むようになったのです。

 千度参りについては、次のように述べています。

 斯ういふ信心の最も明らかに顕はれて居るのは、村で大事な氏子が大病にかゝつて命危いときに、多くの人が出て祈願をする千度参り、又は数参り度(たび)参りともいふものであるが、是なども最初はもつと弘く、村に何事か大きな憂ひ事が有る場合、殊に五月六月におしめりが無くて、田が植ゑられなくて苦しむ時などの方が多かつた。
 女や子供までを加へても、村では千人といふ人は中々揃はない。多分はめいめいが二度も三度も、還つては又御参りに行くので、千といふのは精確で無くとも、実際は千度よりも多く、一日の内に神様の前に出て、口々に同じ言葉を申し上げて、神様を動かそうとしたことゝ思ふ。(『定本柳田国男集』21、396ページ)


 ここから分かるように、千度参りは、もとは一人で千回お参りするのではなく、千人、あるいは多人数でお参りすることを指していたのです。

 隠岐島の海士(あま)村などでは、この日の祈願に先だつて、浜の小石を千個だけ拾ひ寄せて、めいめいがそれを一つづゝ手に持つて、御参りしては拝殿に置いて来るさうである。(同)

 千個の小石を数を数える道具にしています。
 しかし柳田は、「この浜の小石といふのは、本来はたゞの数取りではなかつたのである。すなはち海の潮を以て、まづ身と心を潔くしてから、祈りを神に申すといふ意味があつた」と指摘しています。
 こういったことは水垢離(みずごり)の一種ですから、「千度垢離」とか「千願垢離」と呼ぶ場合もあったようです。

 しかし、時代とともに、お百度やお千度も、ひとりで百回、千回行うものと解釈されるようになってきました。

 ところがこの千度参りの人の数といふものは、実際は段々に少なくなつて来て居る。殊に交際の限られた都会の人々などは、御百度はたゞ一人で踏むものと思ひ、何べんも同じ処へ行くことを、御百度を踏むといふ諺[ことわざ]さへ有る。
 大きな御社の鳥居の脇には、御百度石といふ石が立つて居て、手に数取りの紙縒[こより]や竹の串を持つて、脇目も振らずにそこと社殿との間を、往き返りする人を毎度見かける。是も病人の為か、又は遠い処に居る旅人の為かの、切なる願ひ事であることは同じなのだが、今ではそれがもう純然たる個人祈願になつてしまつて居るのである。(398ページ)


 ひとりでお百度やお千度を踏むという信仰が、都市的で近代的な営為だとは、少し意外な感じがします。
 ただ、祈願内容が個別バラバラになってくる都市社会では、さまざまな神さまが並立するとともに、流行神なども生まれます。そんな中で、百度参りや千度参りが行われるのも、うなずけるでしょう。

 なお、柳田は、仲間で「続けて数多くの宮を巡つてあるく」百社参り、千社参りの風も紹介しています。
 いま私たちが知っている「千社札」は、元来は千社参りの人々が貼付した札でした。

 今日、お百度参りがはやるのも、柳田の説に立てばよく理解できます。




 梅宮大社

 所在 京都市右京区梅津フケノ川町
 拝観 境内自由
 交通 市バス「梅宮大社前」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 「花洛名勝図会」1865年
 柳田国男「千駄焚き」(『村と学童』所収)、『定本柳田国男集』21、筑摩書房、1962年


江戸時代の京都ガイド本「京城勝覧」に沿って、三条大橋から嵯峨・嵐山へと歩いてみた - 後編 -

洛西




嵯峨大念仏狂言


 嵯峨の田園を歩く

 前編では、三条大橋から広沢池までの行程をご紹介しました。後編では、さらに歩を西へ進めます。ここまで、すでに10km近い歩行距離です。

 広沢池
  スタートから約10kmの広沢池 愛宕山を遠望

 広沢池の南西角に児神社があり、その西の分岐を右へ入って行きます。

 千代の古道
  右が「千代の古道」

 これが、「都名所図会」などにも紹介されている“千代の古道”だと、道標は示しています。田んぼの中を、ぐねぐねと曲がっていく道です。

 それにしても、このあたりの田園風景は美しいですね。
 “京に田舎あり”という言葉が思い浮かびます。のどかな景色で、「京城勝覧」の著者・貝原益軒もこんな風景を見たのでしょうか。

 嵯峨の田園
  嵯峨の田園

 嵯峨の田園

 その道沿いに、ユーモラスな案山子が!
 案山子コンテストに出された作品だそうで、今年(2014年)の流行をうつして、「ダメよ、ダメ、ダメ」の案山子が目立ちます。
 
  千代の古道

 高い梢で鳴くモズの声を聞きながら、大覚寺へ到着。
 9時45分。
 ようやく観光客も増え始めました。

 大覚寺
  大覚寺


 清凉寺へ

 今日は先を急ぐので、大覚寺には入らず、そのまま西へ進みます。
 やはり、ところどころに田畑が残り、ここが京都市内かと思わせる茅葺民家もありました。

 嵯峨の茅葺民家

 『京郊民家譜』などに登場しそうなお宅ですね。

 そして、清凉寺へ。
 嵯峨の釈迦堂として知られる古寺です。

 清凉寺
  清凉寺(釈迦堂)

 時刻は、ちょうど10時。
 広沢池から約2.3kmです。出発した三条大橋からは、およそ12kmになりました。昔風に言うと3里で、ひたすら歩き続けると3時間の道程ということになります。

 清凉寺
  「栴檀瑞像」の扁額(隠元筆)

 清凉寺を「釈迦堂」と呼びならわすのは、ご本尊が釈迦如来だからです。三国伝来の瑞像として著名で、江戸時代には大人気となり各地の出開帳に大忙しでした。
 僧・奝然(ちょうねん)が中国の宋に赴き、そこで模刻した像を寛和3年(987)に持ち帰り、祀ったものです。
 モデルになった仏像は、優填王(うでんのう)が刻んだとされるお釈迦さまの姿で、仏教史上“最初の仏像”とされ、とりわけ篤く信仰されました。そのため、清凉寺の像も深く信心されたのです。

 ご参考までに、この像については、こちらの記事をご覧ください! ⇒ <嵯峨・清凉寺の釈迦如来は奥深い(その1)>  < 同 (その2)>


 嵯峨大念仏狂言に遭遇!

 ちょうど秋の公開期間だったので、本堂に上がって、釈迦如来を拝しました。
 立派な厨子に入っておられ、切れ長の目が特徴的な独特のお顔と、波打つような衣紋を持ったタイトな衣が印象的です。

 しばらくお詣りしたあと、堂を後にすると、寺内に何やらマイクの声が響いています。かまわず御手洗いに行こうとすると、なんと、手洗いの横(失礼)で、「嵯峨大念仏狂言」が始まろうとしているではありませんか!
 ちょうどこの日は、秋の公演の日で、西門の脇に狂言堂があるのでした。

 午前10時半。なんという幸運でしょう。
 ここは時間を気にせず、最後まで拝見することにしました。

 嵯峨大念仏狂言
 
 嵯峨大念仏狂言は、弘安2年(1279)に円覚上人(道御)によって始められた大念仏に由来し、その教えを広めるために創始された宗教的な無言劇です。
 少なくとも室町時代には行われており、江戸時代には能や狂言の影響を受けながら充実していきました。京都では、壬生狂言や千本えんま堂大念仏狂言とともに、よく知られています。
 昭和61年(1986)に、国の重要無形民俗文化財に指定されました。
 文化庁の国指定文化財等データベースより、解説文を引用しておきます。

 嵯峨大念仏狂言は清凉寺(嵯峨釈迦堂ともいう)の法会に行われる狂言で、鎌倉時代末、京都で円覚十万上人が遊戯即念仏の妙理を広めるために始めたという三大念仏狂言(壬生・嵯峨・千本)の一つであり、狂言の演じられる大念仏会は能の「百万」という演目にも扱われている由緒あるもので、所蔵狂言面には天文18年(1549)在銘のものがあるなどこの狂言の歴史の古さが知られる。

 能楽ことに狂言の変遷過程を知る上にも重要な芸能史的価値の高いものである(昭和39年からは後継者養成が困難なため一時中断されたが、昭和50年に復活され、従来の演目を今日では充分な状態で上演できるようになった)。

 この嵯峨大念仏狂言は、清凉寺狂言堂で無言劇として演じられる。演目は、「夜討曽我」、「羅生門」などカタモンと称される能風の演目12番、「愛宕詣」、「餓鬼角力」などヤワラカモンと称される狂言風の演目12番とがあり、演技、曲種とも壬生狂言に似ているが、「釈迦如来」の演目は、ここ嵯峨のみの独自の演目であり、全体的に壬生狂言より、おおらかな古風さをよく保存しているものとして重要である。


 
 子供が演じる「蟹殿」を見物

 午前の部は、子供たちが演じる狂言でした。演目は、「蟹殿(かにどん)」。いわゆる“猿蟹合戦”の筋のようです。

 嵯峨大念仏狂言
  「蟹殿」

 鉦(かね)、太鼓、笛で行われる囃子(はやし)は、「カンデンデン」で知られるリズムです。
 せりふが全くない無言劇なので、さすがにストーリーは十分つかめません。

 額縁のようになった横長の舞台には、右端に柿の木があり、実が成っています。これを猿が取りに来ます。蟹も取りたいけれど、うまく取れない--といった感じのようです。
 
 面を付けて演じるのですが、頭上に、蟹とか臼とかを載せて、それが何の役か一目瞭然に分かるようにしています。

  嵯峨大念仏狂言
  頭上に蟹を付けている(右)
 
 また、舞台の上に綱が張ってあり、そこにぶら下がる場面や、舞台から下方へ飛び降りる場面など、アクション的にも充実。上演時間も40分ほどあり、本格的です。
 
 後半は、猿に親蟹を殺された子蟹が、臼、栗、鋏(はさみ)に助力を得て、敵討ちするくだりです。

 嵯峨大念仏狂言

 倒れた猿の上に、臼がドーンと飛び降り、さらに蟹と臼が刀で猿を斬る! という、意外にリアルな演出。
 そのあと、猿の首を掻き切って掲げます。

  嵯峨大念仏狂言 首を掲げる臼

 おそらく昔の人達は、話の筋を教えたり教えられたりしながら、見物していたのでしょう。
 子供さんが演じた狂言とは思えない、立派な舞台でした。

 嵯峨大念仏狂言

 見終えて、明治時代に建ったという狂言堂の修復のため、瓦代の寄進(ほんの少し)をして、先を急ぎます。

 嵯峨大念仏狂言
  清凉寺 狂言堂


 雑踏する秋の嵐山
 
 貝原益軒が、嵯峨から嵐山で見るべしという名所は、次の通りです。

 ○大沢の池
 ○名社(なこそ)の滝の跡
 ○釈迦堂[清凉寺]
 ○往生院[祇王寺]
 ○三宝寺
 ○二尊院
 ○小倉山
 ○野々宮[野宮神社]
 ○天竜寺
 ○大井川[大堰川]
 ○嵐山
 ○臨川寺
 ○法輪寺
 ○櫟谷(いちゐたに)
 ○大悲閣


 これだけ回るのに、何時間かかるのか!
 今回は、清凉寺以外は門前通過としました。

 清凉寺の西門を出て、二尊院、さらに西へ。

 落柿舎
  落柿舎

 落柿舎の遠望。
 秋らしく美しい風景です。これだけ綺麗だと、入らなくても満足。

 嵐山竹間の小径

 竹藪の中を抜ける小径を進むと、少し混雑が……

  野宮神社の斎宮行列(準備)

 山陰線の踏切。平安時代と現代との融合のような光景ですが、実は、この日は野宮神社の斎宮行列があったのでした。

野宮神社
  野宮神社

 このあと、嵐電の駅から渡月橋までも、ものすごい人出でした。
 清凉寺から嵐山・渡月橋まで、約2km。スタートから14kmほど。
 時刻は、11時50分。
 ようやくお昼前で、三条大橋から4時間が経過していました。

 渡月橋
  渡月橋
 

 旅のゴールは、松尾大社

 渡月橋を渡り、十三まいりで有名な法輪寺を過ぎると、観光客の姿はなくなります。
 阪急嵐山駅の方には行かず、まっすぐ南下する古そうな街道を進みます。

 松尾大社への道
  渡月橋から松尾大社への道

 曲がりくねった道を約2km進むと、松尾大社に到着です。

 松尾大社
  松尾大社 楼門

 時刻は、12時15分。
 6時50分に歩き始めてから、5時間25分経っていました。歩いた距離は、およそ16km。ちょうど4里あったことになります。
 
 お祭りを見て、清凉寺をお詣りした上に嵯峨大念仏狂言まで見物したのですから、意外に早かった? というべきでしょうか。

 貝原益軒の「京城勝覧」では、松尾大社について、こう記されています。

○松尾  法輪寺より四、五町南にあり。明神のやしろあり。是より京に帰るに大井河を舟にてわたり、梅津にゆくべし

 なるほど、橋が架かっていないので、渡し船で戻るのですね。

 松尾大社
  大学生たちと松尾大社を参拝

 ひとりぼっちでも愉しかった小旅行を終え、午後1時からは60人ほどの大学生、教員のみなさんと、松尾大社、梅宮大社、蛇塚古墳を回りました。
 私達は、午後4時前に、そこまでで終了したのですが、本来の「京城勝覧」のルートでは、京への帰途に太秦・広隆寺や、蚕ノ社として知られる木の島(このしま)神社も参拝する予定になっています。

 私もよく歩く方だと思いますが、さすがに貝原益軒の健脚には、かないません。




 清凉寺

 所在 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町
 拝観 境内自由(本堂などは有料) 嵯峨大念仏狂言は無料
 交通 JR山陰線「嵯峨嵐山」下車、徒歩約15分



 【参考文献】
 「京城勝覧」(『新修京都叢書』所収)
 『嵯峨狂言』嵯峨大念仏狂言保存会、1997年
 『京都市の文化財[民俗文化財]』京都市文化観光局文化部文化財保護課、1992年
 『京都府の歴史散歩 上』山川出版社、2011年
  国指定文化財等データベース(ウェブサイト)、文化庁