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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

新緑のゴールデンウイークにおすすめの京都名所(2)

宇治




萬福寺三門


 3.新緑の宇治・三室戸寺、萬福寺

 ゴールデンウィークにオススメの京都名所。
 それも、あまり混雑していないところを、という欲張りな案内の第2回。
 
 どうしても中心部は混み合っているということで、今回は周辺部を紹介してみましょう。

 まずは、宇治!

 宇治と言えば、平等院鳳凰堂だと思うのですが、あえて違うところで。

 三室戸寺
  三室戸寺

 三室戸寺(みむろとじ)です。
 西国三十三所の第十番札所。

 観光寺院というわけではないのですが、札所だけあってふだんから参拝者は訪れています。
 京阪電車「三室戸」駅から、徒歩で約15分。ほどよい散歩道です。クルマの方も、駐車場完備。

 私は、江戸後期の本堂が好きで、いつも奉納された額などを眺めて時間を過ごすのですね。

 三室戸寺の奉納額

 ゴールデンウィーク中にオススメなのは、ツツジの花。
 平戸ツツジが、ちょうど満開の時期なのだそうです。

 三室戸寺を参拝したあとは、北にある萬福寺(まんぷくじ)へ。
 電車の駅に戻るのはかえって面倒なので、昔の巡礼道を20~30分歩いて行くことをお薦めします(約2km)。

 萬福寺総門
  萬福寺 総門

 中国風の総門を開く萬福寺。
 中国・黄檗山の高僧であった隠元禅師が、江戸前期に来日して開いた黄檗宗の寺院です。

 萬福寺扁額 扁額は隠元の揮毫

 「山門を出ずれば日本ぞ 茶摘み唄」という句も詠まれたくらい、山内は中国風です。そんな異国情緒をぜひ味わってください。

 萬福寺開山堂
  開山堂

 反りのある屋根。
 達筆な文字が書かれた聯(れん)と額がかかります。

 卍崩し

 卍崩しの勾欄(こうらん)。

 桃の開き戸

 桃の絵があしらわれた桃戸。
 
 萬福寺伽藍

 アーチ状になった蛇腹天井。

 萬福寺三門礎盤

 柱の下部には、太鼓のような石の礎盤。

 いずれも中国風のものです。
 そして、とても有名な……

 魚梆

 魚の形をした、時を告げる板・魚梆(ぎょほう)。開梆(かいぱん)などとも言います。
 眠らないとされる魚をモチーフにしていて、謹厳な禅寺らしい意匠ですね。


 <プラスアルファで…>

 萬福寺の北隣りにある塔頭・宝蔵院。
 鉄眼禅師が心血そそいで開板された一切経(重文)の板木6万枚が保管されています。
 板木(はんぎ)は、いわば印刷のための原版ですね。板に木彫したものです。
 桜の板で出来た板木は、現在でも刷ることができます。経文の書体は、中国・明(ミン)からもたらされた明朝体。

 足を延ばして拝観させていただきましょう。

 
 4.御室の仁和寺を訪ねて

 京都市内の西の方と言えば、金閣寺から龍安寺にかけて参拝客が多く、西端の嵐山も観光客でごった返しますね。
 でも、その中間地帯は、意外に穴場です。

 臨済宗の禅寺・妙心寺、弥勒菩薩で著名な太秦の広隆寺、そして桜の名所として知られる御室の仁和寺。
 いずれもオススメですが、ここでは仁和寺をピックアップ。

 仁和寺(にんなじ)は、平安時代の仁和4年(888)に宇多天皇のときに創建されました。仁和寺と称するゆえんです。
 
 仁和寺山門
  仁和寺 二王門(山門、重文)

 この二王門は、通りに面していた目立ちますよね。でも、いつも門前にタクシーが停まっていて写真を撮るのに難渋します……
 江戸前期のものだけれど、迫力十分です。

 仁和寺は、御所の紫宸殿を移築した金堂が国宝、五重塔や観音堂、経蔵、中門など多数の重要文化財を擁し、建築の宝庫です。

 仁和寺金堂
  金堂(国宝)

 仁和寺五重塔 五重塔(重文)

 私がオススメなのは、勅使門です。
 近代のものですが、亀岡末吉という建築家が設計した作品です。

 仁和寺勅使門
  勅使門

 亀岡末吉は、明治末から大正期に京都で活躍した府の技師です。
 再建や増築される寺院などの建築を手がけました。寺社建築ですが、復古的な、あるいは近代的なデザイン感覚を生かして設計しました。

 仁和寺勅使門の蟇股等

 この門も、細部は絢爛です。
 太瓶束の左右に鳳凰を彫刻するなど、過剰なまでの彫り物ぶり。

 透彫り

 切り紙のような扉の透し彫り。
 この美しさには、息を飲みます。

 二王門を入って、左手の本坊エリアに開かれた門です。
 見落とさずに、ご覧くださいね。

<プラスアルファで…>

 やはり、妙心寺を訪ねたいですね。
 仁和寺からは意外に近く、妙心寺の北門までは徒歩10分ほど(約700m)。
 市内の禅寺としては珍しく、ふだんから法堂や浴室(明智風呂)の内部が拝観できます。


 5.先斗町歌舞練場で「鴨川をどり」

 最後は、ちょっと混むかも知れないけれど、5月らしいところで。

 先斗町

 京都で、花街の季節の踊りと言えば、祇園甲部の「都をどり」が最も有名でしょうか。
 それが終わり5月の声を聞くと、先斗町で「鴨川をどり」が始まります。

 今年は、第179回。5月1日から24日まで、1日3回公演です。
 明治5年(1872)から開催されてきた由緒ある花街の踊り。

 ちょっとお手軽な2階席から、のぞき込むようにして見る鴨川をどりが、私は好きです。

 好きと言えば、この歌舞練場の建物が好きなのです。

 先斗町歌舞練場
  先斗町歌舞練場(鴨川側から望む)

 劇場建築の名手と言われる大林組の木村得三郎の設計。昭和2年(1927)の竣工ですが、古びた感じは全然しません。
 木村は、祇園甲部の弥栄(やさか)会館や、大阪の松竹座などを手掛けています。屋根のデザインや、タイル、テラコッタ(陶板)の使い方がうまいですね。

 先斗町歌舞練場は、とりわけ、さまざまな種類のタイルやテラコッタが見ものです。

 先斗町歌舞練場のタイル

 こじんまりとした劇場内空間とあわせて、楽しんでみたいですね。
 
 <プラスアルファで…>

 先斗町歌舞練場から歩いて5分ほど。
 高瀬川沿いの木屋町蛸薬師下ルに元・立誠(りっせい)小学校があります。
 小学校としては20年以上前に閉校したのですが、現在は「立誠シネマ」などとして映画上映等で活用されています。

 建物は、先斗町歌舞練場とほぼ同じ昭和3年(1928)竣工。
 映画を見ながら、モダン空間を体験してみては?




 三室戸寺

 所在  京都府宇治市兎道滋賀谷
 拝観  大人500円ほか
 交通  京阪「三室戸」下車、徒歩約15分

 萬福寺

 所在  京都府宇治市五ケ庄三番割
 拝観  大人500円ほか
 交通  JR、京阪「黄檗」下車、徒歩約5分

 仁和寺

 所在  京都市右京区御室大内
 拝観  境内自由(御殿などは有料)
 交通  嵐電「御室仁和寺」下車、徒歩約2分

 先斗町歌舞練場

 所在  京都市中京区先斗町通三条下ル
 見学  外観自由
     鴨川をどりは、普通席2,300円ほか
 交通  京阪「三条」下車、徒歩約5分


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平等院鳳凰堂の文鎮は、スペア紐まで付いている逸品 - 私の文鎮収集(5)-

宇治




平等院鳳凰堂文鎮


 平等院の文鎮は?

 宇治にある国宝・平等院鳳凰堂。

 平等院鳳凰堂
  平等院鳳凰堂

 ここの文鎮は、どんなものなのか?

 やっぱり鳳凰?
 それとも、お堂の形?

 などなど、想像が膨らみますね。

 実際は、このようなものでした。

 平等院鳳凰堂文鎮

 上品な紙箱に、「鳳凰堂扉止鐶(とびらどめかん)文鎮」と記されています。

 フタを開けると……

 平等院鳳凰堂文鎮

 これは品のよい文鎮ですね。
 扉止めの鐶(かん=輪)をデザインしたものだそうです。
 扉止め鐶とは、どのようなものかというと、同封されている説明書に写真が掲載されています。

 平等院鳳凰堂文鎮

 なるほど。
 現地で気を付けて見たことはないのですが、本物はさぞかし立派なことでしょう。しかし、文鎮も負けず劣らず立派です。

 説明書には、次のように書かれています。

 この文鎮は鳳凰堂の扉のあおり止めの為取付けられてある金具を象ったものであります。
 実物は鉄地に宝相華、菊華を鍍金、銅、象嵌又は浮彫りしたもので、その用途の為の力強さと、まわりの荘厳さとに調和した美しさは当時の美術工芸の粋を極めたものであります。(後略)


 などと書かれています。

  平等院鳳凰堂文鎮


 ひもの色は2色

 平等院鳳凰堂文鎮

 朱色の綺麗な紐(ひも)が付いています。本物の扉止めには、ここに鐶=輪が付いているわけです。
 そこに紐を付けるとは、なかなか考えましたね。

 記憶では、紐は2色あって、もう1色は確か紫だったと思います(ずいぶん以前に買ったので不確かですみません)。

 この文鎮でおもしろいのは、紐のスペアが付いているところ。

 平等院鳳凰堂文鎮

 わざわざ「スペア紐」と書いているところが、なんとも!

 平等院鳳凰堂文鎮

 青銅風で、金も使っていてゴージャス感がありますね。
 裏面には、「平等院」の名称が。

 平等院鳳凰堂文鎮

 国宝の一部を意匠化した文鎮だけに、なかなか豪華でした。




 平等院鳳凰堂

 所在 宇治市宇治蓮華
 拝観 大人600円ほか
 交通 京阪電車「宇治」駅下車、徒歩約10分


萬福寺の文鎮も、これ以外にない! ベスト・デザイン - 私の文鎮収集(3)-

宇治




萬福寺文鎮


 萬福寺にも、ぜひとも求めたくなる文鎮が

 「私の文鎮収集」、第3回。

 今回は、宇治市にある黄檗山萬福寺です。
 江戸時代に中国から入ってきた黄檗宗の大本山だけあって、異国情緒にあふれる伽藍が魅力的です。

 売店も充実していますが、やはり文鎮が置いてあるのですね。

 少々前に求めたので、箱はどこかに行ってしまいました。
 文鎮は、こちら!

 萬福寺文鎮

 ただのサカナじゃありません。
 萬福寺に行かれた方なら、何かすぐ分かるでしょう。

 そう、魚の形をした板、開梆(かいぱん、魚梆)ですね。
 斎堂の前に吊るされていて、儀式や食事など時刻を知らせる際に叩きます。木魚のルーツともいわれますね。
 魚は不眠不休なので、怠惰を戒めるために叩くそうです。
 これをモデルにして文鎮を作りました。

 萬福寺魚梆
  開梆

 私は、子供の頃、ここを訪れたことがあるのですが、記憶に残ったのは、この魚板だけでした。
 それだけインパクトのある存在ですね。

 この文鎮も、かなりリアルなので比べてみましょう。

 萬福寺文鎮 文鎮

 萬福寺魚梆 開梆

 紫色の紐を付ける部分が出っ張っているところ、ここだけが少し違いますね。


 開梆を彷彿とさせる出来栄え 

 萬福寺文鎮

 迫力ありますねぇ。
 口には玉をくわえています。

 胴には、「黄檗山万福寺」の名入り。

 萬福寺文鎮

 タテから見ると……

 萬福寺文鎮

 若干左に傾いているでしょう。
 つまり、名前が入っている方が前なんですね。

 私はいつも複数の文鎮を机上に載せ使っています。この文鎮は、そのひとつ。
 文鎮としては背が高くて不安定。使いにくいわけですが、ウェイトは通常の文鎮より重いので、しっかり押さえることができます。他の文鎮と組み合わせて用いると便利です。

 デザイン優先で置物的と思える萬福寺文鎮ですが、意外に役立つ実用品でした。




 萬福寺

 所在 宇治市五ケ庄三番割
 拝観 大人500円ほか
 交通 JR、京阪電車「黄檗」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『黄檗山萬福禅寺』大本山萬福寺、2001年


萬福寺の聯と額は、京都人の憧れの的

宇治




都名所図会・萬福寺


 「都名所図会」の特異な項目

 近世京都のヴィジュアルガイドとして誰もが知っている「都名所図会」(1780年刊)。
 数多くの挿絵は見ているだけで楽しいのですが、そんな中で少し変わった項目があります。宇治の黄檗山萬福寺。「都名所図会」は、こう説明し始めます(句読点は適宜補いました)。


 黄檗山萬福寺ハ五箇庄ノ南にあり。開山隠元和尚は大明福州福清の人にして、姓ハ林氏、諱[いみな]ハ隆琦、字[あざな]ハ隠元なり。本朝、承応三年[1654]に東渡し、万治二年[1659]、公命によつて山城国宇治郡大和田の勝地を賜り、寛文元年[1661]九月より伽藍を草創し、精舎の経営多くハ異風を模し、名[なづけ]て黄檗といふ。同十三年[1673]四月二日、後水尾上皇より大光普照国師の号を賜ふ。


 と、ここまではごく普通の書きぶりです。しかし、ここから次が違うのです。

都名所図会・萬福寺

 右のページの6行目から、がらっと調子が変わり、何やら四角い枠囲みの文字が頻出します。「都名所図会」の他の箇所にない特異な構成です。

 その冒頭の部分。

都名所図会・萬福寺

 「漢門 惣門をいふ 【第一義】 漢門の額なり。高泉の筆。【宗綱済道重恢郭】【聖主賢臣悉仰尊】 漢門の柱の聯なり。高泉の筆」

 枠囲みの文字は、額や聯[れん]の文字で、枠は額や聯の形をそのまま写し取ったものなのです。
 「聯」とは聞きなれない言葉ですが、建物の柱や壁の左右に一対で掛けられる板で、含蓄のある禅語などが書かれています。
 上の7文字×2行の聯は、「隠元隆琦禅師は、臨済義玄禅師が中国で開かれた臨済禅の教えを、ここ日本の黄檗山萬福寺で再び広く大きく唱えられ、その教えを聴かれた天皇をはじめ臣下の人たちは誰れもが心の底から仰ぎ尊んだ」(中尾文雄訳)という意味です。

萬福寺
 「漢門」と記されている萬福寺総門(重文)


萬福寺
 左右の柱に、縦長の板が取り付けられている。これが「聯」

萬福寺

 高泉が書いた「第一義」の額です。この額には有名なエピソードがあって、一所懸命に書く高泉に対し、見ていた弟子が何度もダメ出しをしたので、高泉は何十回と書き直しを余儀なくされたそうです。そして、弟子がトイレに立った隙に書いた一枚が、弟子にもOKをもらえて、ここに掛かっているのだそうです。禅の高僧といえども、なかなか大変……


 重要文化財の額と聯

 萬福寺の額や聯は、その建築同様に、重要文化財に指定されています。額40面、聯44対、榜牌13面、それらの下書き14幅です。
 「都名所図会」には、たいへん多くの額・聯が収載されていますが、数えてみると、額が19面、聯が11対(つまり22枚)に過ぎず、実際の半分も収録していないことが分かります。さすがに、スペースの都合もあったのでしょう、最後のあたりはこんな調子になります。

都名所図会・萬福寺

 「【通玄】 開山堂の門の額なり。隠元の筆。 【開山堂】 同堂の額。木庵の筆。聯これを略す」

 なんと、聯はあるけれど省略する、というのです。

萬福寺
 開山堂(重文) 額のほかに聯が掛けられている

 スペースの都合もあるし、読まされる方も、さすがに見開き一杯が精一杯かも知れません。


 黄檗の名僧たちは、書の達人

 この細かい項目を読んでいくと、多くの人名が出てきます。

 高泉[こうせん]、隠元[いんげん]、木庵[もくあん]、千呆[せんがい]、即非[そくひ]、費隠[ひいん]、大鵬[たいほう]らです。
 彼らは、中国から来日した僧で、即非如一を除いて萬福寺の住持を務めました。隠元隆琦は初代、木庵性瑫は二代、高泉性潡は五代、千呆性侒は六代、大鵬正鯤は十五代と十八代です。
 なかでも、隠元、木庵、即非は「黄檗三筆」とも称される能筆でした。彼らの書は、豪放かつ伸びやかで、御家流に飽き飽きしていた? 日本の文化人の目にはとても新鮮に映ったのです。

萬福寺

 これは、通玄門に掛かる「通玄」の書。隠元によるものですが、太くて丸みを帯びた字は、ちょっと大胆不敵で、とらわれない印象を与えますね。

萬福寺

 三門です。額の「萬福寺」は開山・隠元の手になります。これは一山を代表する雄渾の書。
 聯は、木庵のもの。

萬福寺

 三門の上層にも、隠元による山号の額が掛けられています。

 こちらは、即非。

萬福寺

 天王殿の背面に掲げられていて、「威徳荘厳」とあります。わりと、かっちり書いていますね。

 こちらは、木庵。

萬福寺

 お釈迦さまを意味する「萬徳尊」。大雄宝殿の背面に掛けられています。これは、なかなか雄大な字で感心します。

 最後は、千呆。

萬福寺

 「栴檀林[せんだんりん]」と書かれた額。三門の内側にあります。
 いずれも堂々たるもので、明末の書風がうかがえます。


 京都人の中国への憧憬

 ここで最初に戻って、なぜ「都名所図会」にこのような額や聯が延々と掲載されたかについて考えておきましょう。

 これはひとえに、当時の京都の人達の中国文化への憧れに由来すると思われます。古代、中世、近世と、中国は文化の先進地で、日本人はそれに憧憬を抱き、輸入してきました。江戸時代、長崎の出島が西洋文化の窓口であったように、宇治の萬福寺は中国につながる扉だったのです。
 17世紀前半の中国は、王朝交代に揺れていました。1644年に明が滅亡し、清王朝が成立します。その中で、明から日本へ「亡命」して来る人達もいました。長崎や宇治の萬福寺に来た僧侶たちもそうでした。
 萬福寺には、彼らが持ち来った多様な文化事象があふれました。大陸の精進料理である普茶料理、売茶翁により広められた煎茶、黄檗様と呼ばれる建築様式、范道生による異国風の仏像、中国語による読経や梵唄、木魚など中国風の仏具等々。これらのすべてが日本文化に浸透したわけではありませんが、文化的刺激を与えたことは間違いありません。書も、そのひとつだったのです。

 近世京都人の中国への憧憬、言い換えれば中国趣味(シノワズリー)が「都名所図会」にこんな特異なページを作らせてしまったのです。


萬福寺 魚梆



 萬福寺

 *所在 宇治市五ケ庄三番割
 *交通 JR・京阪電車黄檗駅より、徒歩約5分
 *拝観 大人500円ほか



 【参考文献】

 「都名所図会」1780年
 中尾文雄『黄檗山の聯と額』黄檗宗務本院、1990年
 田中優子『江戸はネットワーク』平凡社、1993年
 九州国立博物館『特別展 黄檗 京都宇治・萬福寺の名宝と禅の新風』西日本新聞社、2011年



京都の西国三十三所(6) - 三室戸寺 その3 -

宇治




三室戸寺本堂



 「講」でお参り

 かつて、寺社への参拝は「講」を組んで行うことが多かったのです。最も著名なものは、お伊勢参りの伊勢講ですが、会費(旅費)を積み立てて、毎年代表者がお参りに行く(代参)スタイルをとることが一般的でした。

 西国三十三所の信仰にも、講があります。たとえば、第二十六番・中山寺へ行くと、境内の玉垣や石碑などに数多くの講名が刻まれています。傘講、元蝋燭講、永代講、安産講など無数の講が組織され、大きな講には「支部」もあったりして、とても盛んだったのです。
 中山寺の講は大阪のものが多かったようで、大阪からは5~6里(20~24km)程の距離ですから、代参という大仰な形をとらず、みんなでお参り(総参り、惣参り)したのでしょう。

 ここ三室戸寺でも、同じように講による信仰がありました。

三室戸寺

 お寺への入口の手前(駐車場の脇)に、このような石碑が立っています。石碑の中央には、「観世音出現渕」と書いてあります。これは、三室戸寺の観音さんが川の淵から取り上げられたという縁起にちなんだものです。
 その左には、「いわま/石山/ちか道」と、十二番・十三番の道案内があります。
 そして、右には、「大阪 三室講」と刻まれています。
 明治25年(1892)の建碑ですが、遠く離れた大阪に三室戸観音を信心する講があったことがわかります。

 石段を上って本堂前に至ると、手水舎があります。

三室戸寺

 これは手水鉢。上の水盤は蓮弁の形をしていますが、胴の部分に「大阪福寿講」と刻まれています。昭和に入ってからのものですが、こちらも大阪の講が奉納したものです。


 額を奉納する

三室戸寺本堂

 本堂へお参りして上を見ると、多くの額が奉献されているのが目に付きます。
 そのなかに、再び「大阪福寿講」の額を見ることができます。

三室戸寺

 時期ははっきりしないのですが、明治時代くらいでしょうか、講で納めた額が掛けられています。
 額には、次のように書かれています。


      大阪福寿講     講元 加茂屋禎七
    
  奉納 千手観世音菩薩    世話人 銭谷与平治
                    (ほか15名)

                世話元 奴 定吉
                    播磨屋嘉蔵
                    京屋彌兵衛
  
 金文字で記された立派な額です。講元の加茂屋禎七は、いわばこの講の代表者であり、世話人の16名がこの額を奉納する事業の実際のお世話した人達なのでしょう。世話元は、この額をお寺に奉納する際の仲立ちをした人達でしょうか。
 福寿講のメンバーが何名かは定かではありませんが、おそらくは数百名もいて、大阪でお金を集めて額を作り、こうして奉献したものでしょう。

三室戸寺おみくじ奉納額

 おみくじを奉納した人達もいました。
 額は「御鬮[みくじ]奉納」と題され、明治34年(1901)10月、大阪の森本伝兵衛を発起人として、86名が出資しておみくじを作り、奉納したのでした。女性も6名います。特に講名は記されていませんが、講の一種と捉えてよいでしょう。
 この額は、おみくじを奉納した印に掲げたものです。


 ご開帳にあわせて奉納

 ところで、三室戸寺の御本尊千手観音像は秘仏です。先頃2009年に御開帳がありましたが(花山院千年忌に各寺で開帳)、その前は84年さかのぼった大正14年(1925)でした。
 三室戸寺のホームページに過去の詳しい開帳記録が掲載されています。
  *ホームページは、こちら ⇒ 三室戸寺ホームページ
 
 それによると、記録上わかる範囲で、次の年に御開帳があったそうです。

  延徳元年(1489年)
  慶長16年(1610年)
  寛永16年(1639年)
  万治 2年(1659年)
  元禄 2年(1689年)
  正徳 4年(1717年)
  享保 5年(1720年)
  元文元年(1736年)
  寛延元年(1748年)
  宝暦元年(1751年)
  明和元年(1764年)
  明和 6年(1769年)
  安永元年(1772年)
  天明元年(1781年)
  文政元年(1818年)
  安政 3年(1856年)
  明治22年(1889年)
  大正14年(1925年)
  平成21年(2009年)

 18世紀には頻繁に御開帳が行われていますが(9回)、これは天皇即位の際に御開帳されていたためのようで、年表的にみると、桜町・桃園・後桜町・後桃園・光格・仁孝天皇の即位後に行われている様子がうかがえます。

三室戸寺御詠歌

 この額、三室戸寺の御詠歌「夜もすがら月を三室戸わけゆけば 宇治の川瀬に立つは白波」が記されているのですが、よく見ると額の下端に「開帳紀念」と書いてあります。
 右端には「大正拾四[14]年四月調」とあり、大正14年(1925)の御開帳にあわせて奉献されたものだとわかります。
 大阪朝日講と、これも大阪の講で、講元は永田吉松、世話係が鵜鷹春夫ほか4名、そして尼講として乾ふさほか9名の名前があります。なかには、鵜鷹春夫の妻でしょうか、鵜鷹まつという名も見えます。尼講は、今でいうと「女性部」ということになるでしょう。額を作った額師は、穂積誠進と記されています。

 御詠歌の額を奉納して掲げることは西国三十三所の札所ではよく行われますが、これは明治22年(1889)から36年ぶりの御開帳での奉納です。納めた人達も、明治の開帳のときは子供だったかも知れません。三室戸寺ホームページには御開帳時の写真が掲載されていますが、現在のように蓮池もなかったようで、本堂前に立錐の余地がないほど善男善女が詰め掛けています。

 ≪ いま自分は御開帳にやって来たけれども、明治の御開帳のときは亡くなった父母がこの観音さまを信心していたのだなぁ ≫ という感慨を抱いた人もいたかも知れません。
 そんな想像をしながら、額に記された一人ひとりの名前を見ていると、ひとつのことを永らく守り続ける尊さと、信心することの有り難さが伝わってきます。




 三室戸寺

 *所在 宇治市菟道滋賀谷
 *拝観 大人500円ほか (宝物殿は毎月17日公開、300円)
 *交通 京阪宇治線三室戸駅より、徒歩約15分



 【参考文献】
 浅野清編『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』中央公論美術出版、1990年