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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

京都について書いた随筆、かずかずあれど - 井上甚之助『わたしの京都』 -

京都本




みやこメッセ


 春の古本市を訪ねて 

 5月のゴールデンウィーク、催事も多いなかで、私が訪ねるのが京都古書組合が主催する古本市です。
 岡崎公園のみやこメッセ(京都市勧業館)で開催されます。

  古本市看板 春の古書大即売会

 学生の頃から行っているので、もう30年以上たっています。
 その間に、勧業館の建物も昭和初期の歴史的な建物から新しい建築になって、名前も「みやこメッセ」と変わって、前の京都会館も改築されて「ロームシアター」になり、隣接する府立図書館も建て直しましたね、ずいぶん以前ですけれど。岡崎公園も、たいそう様変わりした30年です。


  京都を取り上げた随筆 

 春の古本市には、会場の南東隅に必ず京都本コーナーが設けられます。
 今年は、少しレイアウトが変わったものの、いっそう拡大されてコーナーが作られていました。
 こんなブログを書いている私ですので、この一画は目を皿のようにして(?) 本探しをしてしまいます。

 数多の京都本のなかでも、数が多いのは随筆です。
 アンソロジー、つまり大勢の執筆者が名を連ねた随筆集もあるわけですが、今回は1人で書かれたものについて、少々の雑感です。

 実は、これまで言ったことはなかったのですが、京都について書かれた随筆もピンからキリまであるというか、面白いものは大変おもしろいけれど、つまらないものは大層つまらないーーたいへん失礼な言い方を承知でいえば、そのような印象を持っています。
 たとえ著名な方が出版したエッセイでも、これはなぁ……、と思ってしまうものがある一方、無名のひとが書いたものでも、とても素晴らしい作品があります。

 これまで、ここに紹介・引用したものでいうと、例えば北尾鐐之助(りょうのすけ)の『京都散歩』は、私のお気に入りです。
 北尾は、昭和の戦前戦後に活躍した大阪毎日新聞の記者です。写真部だったので、自分で写真も撮りますが、エッセイの名手で、同時代の社会を切り取って描く視線は新聞記者ならではの鋭さがあります。代表的な著作は「近畿景観」シリーズで、そのなかでも第3巻の『近代大阪』は優れた作品ですが、京都を取り上げた『京都散歩』も読みごたえがあります。
 
 京都エッセイといっても、内容的には主に3つに分かれます。
 ひとつは、北尾のように、同時代の京都を書いたもの。著者からすれば「現代」の街の姿を “見たまま” 描写したものです。
 ふたつめは、回想です。子供の頃から育った京都の過去を振り返って記すものです。結構、記憶のよい人が多いことに驚かされます。
 第三のものは、京都について学問的な視線で分析的に述べる随筆です。学者に多いパターンで、歴史や伝統工芸などジャンルを絞ることが多いのです。

 私は、1番目のものが最も好きで、その時代々々を生きた人たちのリアルな息吹きみたいなものが感じられて、つい引き込まれます。言葉遣いや地名など固有名詞の呼び方も、同時代ならではのものがあります。
 回想ものは、勉強になります。筆者の生まれ育った地域に即して詳しく分かることは、たいへんな利益になります。高名な方だけでなく、市井の一庶民といった人たちも書いていますが、参考になるものが数多くあります。
 第3分類は、そんなに好みではないのですが、梅棹忠夫さんのものなどは、ここでも何度か紹介していますが、京都人にも共感できるような分析があって納得です。


 井上甚之助『わたしの京都』 
 
 今回出会った随筆で、これはいいなぁ、と買い求めたものが、井上甚之助の『わたしの京都』。
 
  わたしの京都 井上甚之助『わたしの京都』墨水書房  装釘は小野竹喬 

 昭和48年(1973)に出版されました。
 井上甚之助という人は、私もよく知りませんでしたけれど、演劇評論家として『三津五郎芸談』などを出した人ということです。
 奥付のところに記された著者の略歴によると、明治35年(1905)、京都に生まれるとあり、本文中に柳馬場五条が育ったお宅だったことが分かります。長じて慶應義塾大学に進まれましたが、その後、京都に戻られ、これも文中には大丸に勤めておられた時期もあるようです。本書が刊行される直前、昭和48年3月に亡くなっています。

 もともとは、昭和46年(1971)7月から京都新聞に連載されたもので、連載当時のタイトルは「丸竹夷に」。
 ご存知のように、「丸竹夷二押御池(まるたけえびすにおしおいけ)……」という、京都の通り名を覚えるための俚謡から取られた題名です。

 およそ季節の流れに従って、年中行事や四季の風物をテーマに記述しています。
 回想が中心になっており、著者の少年時代、つまり明治末頃からの思い出が綴られています。

 最初に配列されるのは、正月につきものの「雑煮」です。

 松の内が過ぎて雑煮の話でもあるまいが、年の始めとあれば、先ず雑煮の話からはじめよう。
 京の正月の雑煮といえば、昔から白味噌仕立てときまっていた。こってりとした白味噌の汁の中には、小餅のほかに、大きな頭芋(かしらいも)と拍子木に刻んだ大根がはいっていて、上からパッと花鰹が振りかけられてあった。白味噌の甘い匂いと、花鰹の香ばしい匂いとが、微妙に入りまじって、プーンと鼻をつくのが、いかにも正月らしい改まった気分を誘うのだが、椀の中にデンと構えた大きな頭芋は、見た目には立派でも、さて食べる段になると、取り付く島もなく、並み大抵の苦労ではなかった。(後略) 


 この冒頭を読んでも分かるように、井上氏は大変な名文家です。
 なんということはない、正月の雑煮についての説明ですが、なかなかこのように書けるものではありません。

 それぞれのエッセイは、新聞連載ということもあり、とても短くて原稿用紙2枚半(約1000字)くらいです。そのなかに、ほどよい起承転結があり、読む者を引き付けます。

 雑煮の話は、このあと「頭芋は、幼い私にとっては、どうしようもないしろ物」であったが、厳格な父は食べないことを許さず、「将来、人の頭に立つためにも、頭芋は食べ残してはいけない」と叱るので、幼い井上氏はボロボロと涙をこぼしながら食べるのでした。
 しかし時代が移るにつれ、三日のうち一日は東京風のすましの合鴨の雑煮になり、自分の代になると合鴨の雑煮が二日を占めるようになって、白味噌の日も頭芋の代りに小芋が入る始末でした。
 随筆は、次のように締めくくられます。

 その小芋を見るにつけ、私はその昔、私を泣かせたあの憎らしい頭芋が懐かしく、昔の白味噌雑煮のうまかったことを、いまさらながら恋しく思い出している。そして頭芋が嫌いだったばっかりに、人の頭にも立てず、小芋で一生を終わるであろう自分自身にも見切りをつけている。 
 
 なんだか、ちょっぴり切ないような幕切れです。
 京都の雑煮の話題は誰もがすることですが、雑煮のなかみ、頭芋の持つ意味、昔気質の風習、時代の推移を要領よく説いて、最後に自分の思い出に引き付けて、ちょっとしたユーモアで落ちをつけるあたり、このエッセイは実に巧みといえるでしょう。


 京菓子の思い出 

 もうひとつばかり、紹介してみましょう。
 「京菓子」と題する文章です。

 (前略)
 それはそうとして、昔は菓子屋にもご用聞きがあって、毎日のようにお得意先を回っていたものだった。子供のころ、私の家でもお菓子の見本を入れた箱をよく見かけたが、それは平べったい木箱の中がいくつにも仕切られてあって、その中の一つずつに、お菓子の見本が、ほんの少しずつはいっていた。そんな古びた木箱が五段か六段重ねられてあったのだから、相当な種類のお菓子の見本がはいっていたことになる。
 まだ祖母が生きていたころで、その祖母を中心に、両親までが揃って、楽しそうにお菓子の見分けをしていた。時にはその見本の中の一つをヒョイとつまんで、食べていた場面も見受けたことがある。やっと品定めがすんで、見本箱を元の通り積み重ね、待たせてあった菓子屋の丁稚さんのところへ、母が持って行って注文するのだが、その注文たるや、いまから思うと、まことにつつましやかで微々たるものであった。  


 この菓子屋が末富(すえとみ)であったことを後年知ったと書いています。
 大の大人がお菓子を楽しそうに品定めしている光景が目に浮かびますが、大店なのにその「微々たる」注文は意外かも知れません。本書には、ところどころに京都人の質素さや控えめなさまが記されています。
 一方で、季節に従い、節分や八朔など節目に応じた “儀式” を行っていた、折り目正しくリズム感のある日々が想起されます。

 そんな半世紀ほど前までの暮らしぶりからすると、現在はずいぶん変わってしまったなあという感慨を禁じ得ません。

 (この項、つづく)




 書 名  『わたしの京都』
 著 者  井上甚之助
 刊行者  墨水書房
 刊行年  昭和48年(1973)



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鳩があふれる三宅八幡宮は子育て祈願の神さま





鳩の像


 比叡山麓の静かな神社 

 京都郊外の洛北。

 比叡山の麓に、岩倉(左京区)という地域があります。
 周囲を山に囲まれた小盆地的なエリアですが、京都国際会館、グランドプリンスホテル京都や、同志社小・中・高校、府立北稜高校、京都精華大学など、公的な施設もあり、住宅も多いところ。戦後、市街地化が進みました。
 比叡山を借景とした庭で知られる円通寺や、実相院門跡、岩倉具視旧邸などの名所旧跡もあります。

 比叡山

 その東の端、この辺はもう旧高野(たかの)村というべきところですが、現在の上高野(かみたかの)に、三宅八幡宮という神社があります。
 静かなたたずまいのお宮さんです。

 『京都市の地名』によると、

 社伝には、推古天皇15年、遣隋使小野妹子が筑紫で病み宇佐八幡に祈願、平癒したので帰朝後に八幡神を勧請したのが始まりという。祭神は応神天皇。

 と説明されています。

 三宅八幡
  三宅八幡宮(京都市左京区)

 神社は南面していて、高野川畔の一の鳥居からずっと歩いて行くと境内に至り、さらに進むとこの鳥居が見えてきます。

 ここで、思わず立ち止まってしまうのが、狛犬のように鳥居の左右に鎮座する、この石造物!

  鳩像

 なんと、鳩の狛犬? です!

 鳩石像

 ハトだけに、胸を張って、ちょっと偉そうですね(笑)

 ふつう、狛犬にせよ仁王像にせよ、左右に阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)があって、口を開いている方と閉じている方があります。
 上の写真の鳩は口(くちばし)を閉じているので、逆側を見にいってみると、そちらは…… 閉じてました(笑)

 鳩の場合、口を開いてると、やはり変なのでしょうか?


 八幡様のお使いは鳩 

 八幡神は武運の神さまで、そのお使いは鳩ですね。
 鳩というと、いまでは平和の象徴と捉えられていますが、それとは逆のイメージです。

 三宅八幡宮のウェブサイトには、次のように記されています。

 宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ八幡神を勧請した際に、白い鳩が道案内をしたと伝えられ、以来、八幡宮の 「鳩」 は 「神様の使い」 として大切にされてきたという言い伝えがあります。 
 鳩は八幡神の使いとして武士などに信仰されましたが、三宅八幡宮と鳩との関係がこれほど深いものとなったのはいつ頃か、又その理由など、詳細は不明です。  


 そんなことで、三宅八幡宮の境内には、鳩の絵やレリーフが満ちあふれています。

 信鳩組

 まず、先ほどの “狛鳩” の台座には、このように「信鳩組」と奉納者名が彫られています。明治34年(1901)の奉納品なのですが、彼らの講名に鳩の文字が使われているのでした。

 鳩瓦

 社務所の瓦には、つがいの鳩。
 キスしてるみたい。ちょっと新しそうです。

 鉄製の鳩

 解体されて本殿脇に置かれていた鉄製灯籠についている鳩。
 かなり大きく、戯画的でもあります。

 神鳩

 本殿前の灯籠に置かれた神鳩。
 参拝者に授与される、つがいの土人形です。

 このほかにも、たくさん鳩の意匠が見られます。


 こどもの安育を願って 

 このような三宅八幡宮ですが、幕末頃からは、こどもの「かん虫封じ」の神さまとして知られ、虫八幡の異称で親しまれました。

 江戸時代も、また近代になっても、子育てするお母さんにとっては、赤ちゃんの疳(かん)の虫や夜泣きは悩みの種でした。
 それを神さまにお願いして、疳の虫が出ないように、夜泣きしないように、頼むわけです。

 いまでも、祈願者が多いようで、本殿には数多くのよだれ掛けが奉納されています。

 奉納よだれ掛け

 赤ちゃん関係の祈願の寺社ではよく見られる光景です。

 かつては、絵馬を奉納することが行われていました。

 絵馬所

 参道には立派な絵馬所が建っているのですが、いまは一枚の絵馬も掛かっていません。
 これは、ちゃんと保存されているからなのですね。

  絵馬展示館看板

 124点の絵馬が、国の重要有形民俗文化財に指定され、十年ほど前から、この絵馬展示資料館で保存・公開されています。
 これはぜひ見たかったところですが、私が訪ねたのは午後4時頃だったので、すでに閉館されていたようでした。

 幸い、看板にいくつかの絵馬の写真が掲出されていたので、見ることができました。
 例えば、こういうもの。

 絵馬

 幕末の嘉永5年(1852)のものといいますから、ペリーが黒船で来た頃のものですね(笑)
 十数名のこどもの姿があり、将棋の山崩しを楽しむ子たちや、本を読んだり取り合ったりと、なかなかにぎやかです。
 下に60数名のこどもらしい人たちの名前が記されています。

 この神社の信仰の範囲は広くて、京都のみならず、比叡山の向うの近江(滋賀県)や、摂津、北河内(大阪府)、大和(奈良県)にまで広がるそうです。
 そういえば、大津の人たちが奉納した石灯籠もありました。

  石灯籠

 こういった信仰の証しが大切に伝わっていることは、とても素晴らしいですね。
 今回は拝見できませんでしたが、改めて見せていただきたいと思っています。

 ちなみに、こどもの疳の虫封じは、土地の伝承によると、もともとは田の虫よけの神さまであったということです(『京都市の地名』)。

 三宅八幡宮。洛北のお宮さんですが、八瀬・大原へ訪問の折りに、一度立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

 境内




 三宅八幡宮

 所在  京都市左京区上高野三宅町
 参拝  境内自由 (絵馬展示資料館は不定期開館、志納制)
 交通  叡山電鉄「三宅八幡」または「八幡前」下車、徒歩約5~10分



 【参考文献】
 『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社、1979年



【大学の窓】京都で歴史を学ぶ大学生の出身地2018

大学の窓




大学校舎


 今年の傾向は?

 桜の開花が早かった今年、2018年。
 非常勤講師で行っている(仮称)上京大学では、入学式の頃にもまだ桜は咲いていたでしょうか。

 私は、日本史の学生を指導していて、1回生全員が履修する演習科目を他の先生方と一緒に担当しています。
 初回には、学生がひとりひとり自己紹介をしてくれます。そのとき、出身地を言ってもらうことになっていて、私は彼らの出身県をメモしています。
 それが、毎年恒例の <京都で歴史を学ぶ学生の出身地> です!

 実は、いまさらながら気付くことですが、初回の授業には全員出席しそうなものですが、どうも毎年5人位は休むみたいなのですね(笑) だから、この統計も全学生の出身地をリサーチできてはいません。
 いま、数字を入力していて気が付いたのですが、昨年度、私の担当班に韓国からの留学生が1人いたのですね。でも、去年の数字は「0」になっていた! 
 つまり、留学生のK君は、初回お休みしていたみたいなんです(苦笑)
 仕方ないです。今年、数字を訂正しておきました……
 
 という前置きをしながら、見ていきましょう!

 左端が今年、その右が2017年、2016年とつづき、右端が2013年の人数です。


 【北海道・東北】 2名-3名-4名-2名-3名-3名
  北海道 1-1-2-2-2-1
  岩手  0-0-0-0-0-1
  山形  0-0-0-0-1-0
  宮城  1-0-1-0-0-0
  福島  0-2-1-0-0-1
 【関東・甲信越】 8名-12名-15名-7名-7名-11名
  群馬  1-0-1-1-0-1
  栃木  1-0-0-1-1-0
  茨城  1-1-1-0-0-1
  埼玉  0-0-1-1-0-0
  千葉  1-0-2-0-0-1
  東京  1-0-1-1-1-1
  神奈川 0-0-4-0-1-1
  山梨  0-1-0-0-0-1
  新潟  0-2-0-0-1-1
  長野  2-5-1-1-2-2
  富山  0-3-0-1-0-0
  石川  1-0-1-0-0-0
  福井  0-0-3-1-1-0
 【東海】 9名-13名-5名-6名-9名-11名
  静岡  0-4-2-0-5-2
  岐阜  3-1-2-0-1-2
  愛知  5-6-1-5-2-6
  三重  1-2-0-1-1-1
 【関西】 31名-38名-23名-42名-31名-28名
  滋賀  3-0-5-2-3-2
  京都  5-6-6-7-6-6
  大阪  14-21-7-14-13-10
  奈良  3-3-1-6-1-2
  兵庫  6-8-4-11-8-8
  和歌山 0-0-0-2-0-0
 【中国・四国】 6名-6名-9名-9名-8名-8名
  岡山  2-2-2-0-1-2
  広島  1-2-5-4-3-2
  鳥取  0-0-0-1-1-0
  島根  1-0-0-0-0-0
  山口  0-1-0-0-1-1
  徳島  0-1-0-0-0-0
  香川  1-0-1-0-0-1
  愛媛  1-0-1-1-1-1
  高知  0-0-0-3-1-1
 【九州】 6名-7名-9名-3名-7名-10名
  福岡  2-6-7-1-3-6
  佐賀  1-0-1-0-0-0
  大分  0-0-0-1-1-2
  長崎  0-0-0-0-0-1
  熊本  2-0-0-0-2-1
  鹿児島 1-0-0-1-1-0
  沖縄  0-1-1-0-0-0
 【海外】 1名-1名-1名-4名-2名-2名
  中国  1-0-0-4-2-1
  韓国  0-1-0-0-0-0
  香港  0-0-1-0-0-0
  フランス 0-0-0-0-0-1

 大学の桜



 初めて登場した県は?

 こうして、2018年度の数字を見てみると、ほぼ2017年度と同傾向であることが分かります。
 やはり、大阪がトップという状況は変わりません。
 
 一方、数は多くないのですが、九州が4県(福岡、佐賀、熊本、鹿児島)ランクインしていて、うれしいですね。

 そして、島根県が初登場しました!
 鳥取、山口も少ないのですが、島根はこれまでゼロでした。カウント6年目で初めて入学してくれて “ありがとう” という気分ですね。
 これで、あと3県。青森、秋田、宮崎を残すのみです。
 
 自己紹介は、近年、出身地を自虐的に言う学生が多くて、たとえが「うちは田舎で」的なことを結構言ってきます。
 「大阪だけど、大阪市内じゃなくて田舎」だ、とか。まあ、大阪にはそんな田舎はないと思うんですけどね。ちょっと誇張気味に言うのです。

 今年、数名が言及したのが、都道府県魅力度ランキングなるもの。
 ブランド総合研究所という会社が毎年出しているランキングのようです。

 まず、佐賀出身の学生が「都道府県魅力度ランキングで、下から数えて3番目の佐賀県出身」といえば、茨城の学生が満を持したように「都道府県魅力度ランキング最下位の……」! と言ってきます。
 他にも、栃木の学生も自虐的でしたね。栃木県は、同ランキングで43位のようです。

 まあ、罪なランキングがあるものです。
 なにが魅力かなんて、競うものではないですよね。

 最近の学生は、ひとと争うことを好まないというか、融和を重んずるようなので、自慢するより自分を卑下する方がいいんでしょう。
 それで、どこの大学でも昔よりおとなしい傾向があるみたいですね。

 でも、研究は自己表出の場でもあるので、謙遜しないで積極的にチャレンジしてみてください。
 今年も1年、一緒に研究していきましょう!


  さくら




高瀬川桜まつりと新年度スタート!





高瀬川


 桜満開の京都

 今年、2018年は、桜がとても早く開花しましたね。

 さくら

 京都でも、観測史上最速で満開になりました。
 満開は、3月28日!

 平年は4月5日ですから、8日も早いということになります(京都地方気象台による)。
 2002年も3月28日に満開になっていますが、新しい年が記録に残るそうです。


 高瀬川も桜いっぱい 

 京都の繁華街で桜がキレイなところというと、高瀬川沿い(木屋町通)があります。
 
 昨日(3月31日)、たまたま通りがかったら、クルマを通行止めにして、「高瀬川桜まつり」が開催されていました。
 こんな感じで、高瀬舟を曳いて川に浮かべていました!

 高瀬舟

 旧立誠小学校より上の、ごく短い区間ですが、散り初めの桜のなか、みなさんを喜ばせていました。

 高瀬舟と桜

 川を堰き止めて、桜の花びらが一面に ! ! 

 こういう光景も、なかなか見られませんね。

 高瀬川の桜

 「高瀬川桜まつり2018」は、3月31日(土)、4月1日(日)の開催です。


 そして4月へ 

 そして、4月、新年度です。
 新しい生活をスタートさせる方もいらっしゃるかも知れませんね。

 私自身は、昨年4月に異動して新たな仕事が始まったので、今年は2年目ですね。だから、大きな変化はありません。
 それでも、周囲の仲間は若干入れ替わるでしょうし、少し忙しい年になりそうなので、変るといえば変わるかも知れません。

 大学への出講も、早いもので10年目を迎えます。
 新しい学生たちに出会えるのも楽しみです。


  法被




 高瀬川

 所在  京都市中京区三条通木屋町下る
 見学  自由
 交通  京阪「三条」下車、徒歩約5分



お寺の墓地にひそむ御土居の跡とは……





御土居


 寺町通にある廬山寺 

 寺町通は、その名の通り、寺院がたくさんある街路です。 
 豊臣秀吉の時代に、市中にあった寺院を集中させて形成されました。
 寺町通は、平安京でいえば東京極大路の位置に当たるので、京都の東の端になります。この東は、もう鴨川ですね。

 いま寺町通にある有名寺院といえば、第一が本能寺でしょうが、その次くらいに著名なのは、ここではないでしょうか?

 廬山寺

 廬山寺。
 むずかしい字ですけれど「ろざんじ」と読みます。
 京都では、節分のときに鬼が出て来る追儺会(鬼法楽)が行われるお寺として、夙に知られています。
 私としては、平安時代の比叡山の高僧・元三大師(良源)を祀る寺としてもインプットされていますね(廬山寺の開基です)。このブログでも、何度も紹介してきた人ですから。

 廬山寺元三大師堂
  廬山寺 元三大師堂


 墓地に参れば 

 廬山寺の裏手、つまり東側には墓地が広がっています。
 寺町にある寺院は、だいたい寺域の東に墓地を持っています。ここが寺の裏側に当たるからですね。
 もともとは、裏側なので見えないのですが、現在では、そのさらに東に河原町通が通っているので、そこから墓地がうかがえるところもあります。廬山寺のお隣の清浄華院はそのケースです。

 廬山寺墓地
  廬山寺の墓地

 墓地に参ることを「掃苔(そうたい)」という漢語で言うことがありますが、世の中には、この掃苔が好きな方がいて、著名人の墓地をお参りすることを趣味にするのです。大きな墓地、例えば東京などでは谷中墓地みたいなところ、そこに眠る有名人の墓を訪ね歩くわけです。

 私は、この趣味はないのですけれど、でもお隣の清浄華院には、山科言継(やましなときつぐ)卿のお墓があって、ここにはお参りしましたね。日本史を学ぶ者にとっては、戦国時代の京都を知る重要な日記を残した人として知られています。
 ほかにも、天寧寺(てんねいじ)、ここは寺町通の北端にありますが、そこでは茶人・金森宗和の墓参をしたこともあります。
 寺町だけに墓が多く、掃苔の趣味のない私ですら、引き付けられるのでした。

 廬山寺の墓地も、以前お参りして、慶光天皇と中山愛親について書いていますので、そちらもご覧ください。

 記事は、こちら! ⇒ <廬山寺には、「慶光天皇」と中山愛親が共に眠っている>


 意外な史跡も!

 その墓地の東端には、こんもりと樹木が繁っているところがあります。

 御土居

 画面奥ですね。
 白いビルは、河原町通に沿って建っている建物です(裏が見えています)。

 この部分が、実は御土居なのでした。

 御土居(おどい)は、豊臣秀吉が造った京都を囲む土塁と堀です。
 広い京都を縦長に囲み、全長は約22.5kmあります。
 
 現在、残されている場所は少なく、国史跡に指定されている地点が9か所あります。

 御土居の北辺についての記事は、こちら! ⇒ <懐かしい母校の裏に、京都を囲む御土居がある>

 西の辺は、全長は8.5kmほどもあると思いますが、史跡として残されている部分は、この廬山寺の墓地内だけです。
 多くの部分が河原町通と合致しているので、まったく取り毀たれているわけです。およそ、河原町通の西沿いが御土居の位置に当たります。

 墓地の東端に、南北に伸びる御土居があります。
 延長は、およそ100mくらいです。

 御土居

 画面右隅に「史跡 御土居」と書いた標柱が見えると思います。
 
 下のように正面から見ると、分かりやすいですね。
 
 御土居

 盛り上がりは2mくらいでしょうか。樹木が生い茂っています。江戸時代などは、御土居の上に竹などを植えたようですが、これは雑木ですね。

 鷹峯や大宮あたりに残るものに比べると、ややこぢんまりした印象です。
 でも、河原町通に沿って残っているのは貴重。さすがに、墓地のなかだったので、壊されなかったのでしょう。

 北の端には石段があって、御土居上に上れます。

  御土居

 なかなか御土居には上がれないので、この体験は貴重かも?

 廬山寺の裏の墓地という、少し分かりづらい位置にある御土居ですが、一見の価値ありです。




 御土居(国史跡)

 所在  京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町(廬山寺内)
 見学  自由 
 交通  市バス「府立医大病院前」下車、徒歩約3分



 【参考文献】
 中村武生『御土居堀ものがたり』京都新聞出版センター、2005年