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船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

ARCHIVE

心学を始めた石田梅岩の生誕地を亀岡に訪ねて





石田梅岩生家


 亀岡の奥にある生誕地

 週末、亀岡に用事があり、クルマで出掛けました。

 京都府は南北に長く、かつては北から丹後、丹波、山城と3国が連なっていました。亀岡は、丹波に属し、丹波のなかでも南の端に位置する口丹波(くちたんば)という地域にありました。
 私の父祖も、この口丹波の出身で、亀岡より少し北方にある旧船井郡の出です。そこは現在では南丹市(なんたんし)となっていますが、南丹は口丹波の別称です。

 亀岡に来るのは久しぶりでしたが、用件のあと時間があったので、史跡を訪ねることにしました。
 江戸時代、当地から出た町人学者・石田梅岩の生誕地です。

 JR亀岡駅から、府道407号を南下。山道を曲折して、10kmばかり離れた奥まったところ、クルマでは15分くらいの場所に石田梅岩の誕生地はあります。山の中といってもよいかと思います。
 現在では、亀岡市東別院町となっています。

 東別院町
  のどかな東別院町の風景

 東別院町のグラウンドの脇が、梅岩の生家です。


 農家の次男に生まれて 

 田植え

 集落は、田植えの季節を迎えているようです。

 道路脇に「右 心学石田先生誕生地」の石標が立っています。

  心学石田先生誕生地

 この標識も、大正3年(1914)に建てられたもので、古くから史跡として大切にされていたことが分かります。

 石田梅岩生家

 田んぼの向こうに生誕地が見えます。
 入母屋の農家ですが、石垣と塀があり、長屋門もあって、立派な構えです。
 ゆるい坂を上って、門の脇から母屋をうかがいました。

 石田梅岩生家全景
  石田梅岩生家

 のぞいてみると、母屋の前で3人の方が話をされていました。
 おはようございます、と声を掛けると、今日はこれから田植えなのだといいます。

 お忙しいところにお邪魔してしまったわけですが、年配のご主人はお茶を出して、椅子を進めてくれました。

 湯呑

 湯呑に「梅岩先生誕生之地」とあって、微笑ましいんですね。

 家には、石田という表札が掛かっているので、ご主人も梅岩ゆかりの方だと思われました。
 
 それから、15分ばかり梅岩とこの村についてお話をうかがいました。書物に説かれていることも含めて、紹介してみましょう。

 石田梅岩は、江戸時代の初め、貞享2年(1685)、この家に生まれました。
 現在、この場所は亀岡市内になっています。当時は、丹波国桑田郡東掛(とうげ、東懸)村でした。
 江戸時代、亀岡は亀山藩といいましたが、ここは亀山藩領ではなく、南の高槻藩領(現・大阪府高槻市)でした。生家の前を通る街道は、茨木街道などとも呼ばれ、摂津の茨木・高槻に通じているのです。
 梅岩の母上も高槻の唐崎の出身だったそうです。
 
 ご主人によると、石田家は「東北の流れ武者」で、この地で農業を営みました。梅岩、幼くは勘平といったそうですが、本人によると「理屈者」で、友人には嫌われたといいます。
 次男だったので、11歳で京の商家に奉公に出ました。しかし、主家の経営が傾き、一旦実家に戻ります。23歳になり改めて京へ奉公に上り、その頃、神道の布教を志したといいます。
 勉学には熱心で、商売で出掛けるときは懐中に書物を忍ばせ、朝は朋輩が起きる前、夜は皆が寝静まったあと書物をひもといて勉強に励みました。
 梅岩の学問は、おおむね独学ですが四書五経や仏教・神道書など幅広く学んだようです。

 20年ばかり奉公し続けたのち、享保14年(1729)、45歳のとき、車屋町通御池上るで講義の席を開きました。
 いま、その場所にはそれを示す案内板があります。

 石田梅岩講社旧跡
  梅岩の心学講舎跡(車屋町通御池上る)

 聴講無料、女性も含め誰でも聞きに来てください、という開かれた姿勢で、京の商人たちに支持され、のちには大坂などでも人気を博します。
 
 いま、梅岩のご子孫は東京におられるといいます。上の話でも分かるように、私をもてなしてくれたご主人は梅岩のお兄さんの子孫ということになりますね。


 心学の教え
 
 梅岩の教えは、のちに心学、あるいは彼の苗字を取って石門心学と呼ばれます。
 その特徴は、竹中靖一氏の解説が分かりやすくおもしろいので、紹介しておきましょう。

 1729年(享保14)悟りを開き、無縁の町人を集めて聴講無料の講釈を始め、日本における社会教育の草分けとなった。
 文学になずむ学者を文字芸者とののしり、生きた学問を求め、朱子学を中心としながら、神道や仏教や老荘をも取り入れた。

 当時世の中で卑しめられていた商人を市井の臣とし、社会的職分遂行の上では商人も武士に劣らないと主張するとともに、商人の反省を求め、悪徳商人を非難して商業道徳の確立を説き、商取引は1対1の対等の場で自由に行われねばならぬと主張した。

 月に3回商家の主人たちを集めてゼミナールを開き、弟子の養成に努めた。
 主著『都鄙問答』はそのときの問答の抜粋である。
 倹約を正直の徳と結び、すべての道徳の基礎においた。(後略) (『大百科事典』「石田梅岩」)


 たぶん梅岩という人は、幼少時より少々かたくなで人付き合いが苦手、しかしそれをきまじめに捉えて、性格改善しようと心掛けたのでしょう。
 それにしても、「社会的職分遂行の上では商人も武士に劣らないと主張」したというところなど、いかにも商人であった彼らしい思想といえるでしょう。


 お墓に参る

 石田梅岩生家

 母屋の逆側には、梅岩記念公園という小さなスペースがあり、財団の建物もあります。

 石田梅岩記念公園
  梅岩記念公園

 この一画には、梅岩遺愛の蓮を植えた池もあります。
 ただし、シーズンはこれからなのですが。

 遺愛の蓮
  遺愛の蓮池

 さらに、奥の山腹には墓所がありました。

 石田梅岩墓所

 石田梅岩墓

 ご主人が教えてくださった通り、墓石には石田勘平の名と、延享元年(1744)9月24日の没年月日が刻まれています。
 墓は、東山区の鳥辺野墓地、延年寺にもあるそうです。




 石田梅岩生誕地

 所在  亀岡市東別院町東掛
 見学  梅岩記念公園は自由
 交通  京阪京都交通バス「東別院グランド前」下車、すぐ



 【参考文献】
 『日本思想大系 石門心学』岩波書店、1971年
 『心学開講280年記念 今よみがえる石田梅岩の教え』亀岡市立文化資料館、2009年
 『梅岩の教え』石田梅岩先生顕彰会
 田尻祐一郎『江戸の思想史』中公新書、2011年
 『大百科事典』平凡社、1984年


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活動写真でにぎわった新京極の思い出 - 松田道雄『明治大正 京都追憶』その2 -

京都本




『新撰京都名勝誌』の新京極


 明治末から大正時代を回想 

 前回に引き続き、松田道雄さんの『明治大正 京都回想』から紹介します。

 松田さんは、明治41年(1908)茨城県の生まれで、生後まもなく京都に転居し、明治末から大正にかけての京都の様子を書き留めた --という話でしたね。


  明治大正京都追憶 松田道雄『明治大正 京都追憶』岩波書店

 最近、京都・大阪の芝居や活動写真に関心を持っている私としては、本書でもそのあたりの記述が気になりました。
 なかでも、「みどりさん」という女性についての松田氏の思い出に興味が湧いたのですね。


 みどりさんとの活動写真見物 

 『明治大正 京都追憶』で、みどりさんは次のように紹介されています。

 茨城県から出てきて同志社の女学校に行っていたみどりさんという娘が家に来るようになった。束髪のうしろをおさげにし、大きなリボンを髪にかぶせるようにつけ、胸高に袴をはいていた。大の活動写真好きで、あそびにくると私をつれて新京極に行った。

 活動写真館は男子席と女子席とに分けるように警察から命じられていたが、なにしろ暗いので女学生ひとりで行くのは物騒だった。幼児でも連れがあったほうがよかったのだろう。たよりない同伴者だが学校への申しわけにもなったのかもしれない。(53ページ) 


 みどりさんの苗字は書かれていません。
 たぶん、小さかった松田さんは「みどりさん、みどりさん」とだけ覚えていたのでしょう。
 茨城県から出てきたと書かれていますから、松田家の親戚か知人の娘さんだったのでしょうか。同志社女学校の生徒でした。
 松田家も医師の家庭ですが、当時娘さんを女学校に通わせる(それも茨城から)というのですから、みどりさんの実家もさぞ名家だったことでしょう。

 松田さんによると、当時、京都日出新聞に掲載された「京阪の女学生」という連載(明治42年)では、大阪ではリボン禁止、京都のある学校では、学校で小説を読むと譴責(けんせき)、新聞を読むと掃除当番をやらされたそうです(罰ですね)。
 そういう意味では、「活動写真を見るのを許していた同志社は自由だった」わけです。


 新京極へ

 日本の活動写真の歴史は、明治29、30年(1896-97)頃に始まります。
 明治末になると、歌舞伎などの芝居に匹敵する一大娯楽に台頭してきました。以下の引用で、活動写真を上映する館として歌舞伎座というのが出て来ます。
 
 歌舞伎座? 歌舞伎をやるんじゃないの? ということですよね。
 その名の通り、歌舞伎座はもともと歌舞伎を上演する劇場だったのですが、明治末に活動写真館に鞍替えしたのでした。それほど活動写真に勢いがあったという話です。

 明治の四十年代は活動写真がにわかにさかんになった時期にあたる。京都でも横田商会というのちの日活が、四十二年には南電気館と日本館と西陣電気館をやっていただけだったのが、四十五年には活動写真をやる館が、歌舞伎座、八千代館、みかど館、中央館、三友倶楽部、パテー館、北電気館、オペラ館、常設館、世界館にふえた。

 もっとも、どれも一巻程度の短編を七本立か八本立でやっているにすぎず、長尺の劇映画は日本ではまだつくっていなかった。一巻も十七場とか十八場とかいって、カット数が少なく、旧劇、新派劇のほかに外国の風景ものをやっていた。(53ページ) 



 大正初期の新京極(新撰京都名勝誌)
  大正初期の新京極 蛸薬師錦上ル 帝国館付近(『新撰京都名勝誌』)

 明治末、京都随一の繁華街である新京極では、「第二京極」という場所が開発されました。
 四条通から上がった東側、錦天満宮の裏手あたりです。
 ここに、松田さんも書いている八千代館や中央館、三友倶楽部などが出来たのでした。

 八千代館は数年前までやっていたので、ご記憶にある方も多いでしょう。
 また、北側の公園のところや、その東隣のスーパーホテルのところも上記の活動写真館で、戦前(さらに戦後も)このあたりは映画館街だったのです。

 旧八千代館(WEGO)
  第二京極の八千代館跡(現WEGO) 昭和初期の建物が残る

 みどりさんに最初につれていってもらったとき、ジャガタラ先生というのと、新馬鹿大将というのが出てきたのをおぼえている。どちらも西洋のドタバタ喜劇だった。それがどの館で、いつだったかわかると、そのときの私の年齢もわかるわけだ。

 日出新聞に劇場が出しものの広告「興行案内」を出すようになったのは、[明治]四十五年の三月からである。それまでは演芸担当の記者が劇評の形で、各劇場の出しものを「ゑんげい」欄に紹介していた。

 (中略)

 ジャガタラ先生と新馬鹿大将を同時に上映した館がないかとさがしていたら、とうとうみつかった。明治四十四年十二月十一日、パテー館で「滑稽ジャガタラ先生」「史劇大奸悪」「実写シシリー島の絶景」「史劇阿新丸」「悲劇浮草物語」「喜劇新馬鹿大将」「新派劇日本男子」の上映をはじめたと「ゑんげい」欄にかいてあった。

 みどりさんは学期末試験のすんだ十二月十五日ごろ私をつれだしたのだろう。とすると、私の映画遍歴は三歳二カ月からはじまったことになる。(54ページ) 


 3歳で見た映画のタイトルを覚えているのは驚異的、淀川長治並みの記憶力です。

 ……と、書いたところで、もしかすると淀川さんのこの辺の記憶ってどうなってるのだろう? と思いました。
 さっそく、『淀川長治自伝(上)』を見たところ、こんなことが書いてありました。淀川さんは、松田さんより1歳年下です。

 さて私が生まれたのは明治四十二年(一九〇九)の四月十日。(中略)父は今日にも子どもが生まれるという臨月の母をつれ四月九日の夜も活動写真を見にゆき、活動写真を見ているさいちゅうに母が産気づきあわてて帰ることになったのだが、父はいま見ている活動写真があまりにも面白く、「おまえ、さきにかえれ、わしはぜんぶ見てからかえる」と言ったそうである。

 (中略)

 その日はいったいどのような活動写真を上映していたのであろうかと、母にこれもずーっとあとで聞いてみたところ、西洋のにわか喜劇で『馬鹿大将』というのをやっていたと私に打ち明けた。呑気な話で、かかる腹で活動写真をよくも見物に出かけたものである。(中略)そのあくる日の朝の十時十五分に私は生まれたのだが、さてその『馬鹿大将』とはいったい何であろうか。どうやらこれはフランスの活動写真で『ドン・キホーテ』であったらしい。もっともこの十分くらいの劇映画のほかにも実写や何かと五本くらいを上映していたらしい。(25-26ページ) 


 なるほど、「馬鹿大将」というのが「ドン・キホーテ」。筈見恒夫氏もそう書いているので、間違いなさそうです。ということは、その2年後に公開されていた「新馬鹿大将」は、その続編なのでしょうか。

 昭和初期の新京極(京都)
  昭和初期の新京極 三条下ル松竹座前(『京都』)


 連続大活劇! 

 次に、みどりさんの名前が出て来るのは「三年生」という章です。
 ちょっと長くなるけれど、大正5、6年(1916-17)頃の思い出を引いてみましょう。

 そのころは連続大活劇の全盛の時代だった。大正五年に「拳骨」が今の菊水キネマの天活倶楽部で、大正六年には「鉄の爪」が今はなくなった帝国館で上映された。どちらもパール・ホワイト嬢が女主人公であった。

 (中略)

 連続ものの最初は大正四年に見た「ファントマ」だった。「拳骨」の前に「名金」「快漢ロロー」を一部見たし、「鉄の爪」につづいて「運命の指輪」「レッドサークル」をところどころ見たから、連続ものはあまり見逃していない。
 連続大活劇は子どもの観客を中心に発達した活動写真の一頂点で、それからあと成人向きの劇映画が出てくる。そうなると子どもの私にはおもしろくないし、家でもゆるしてくれなくなった。
 だが、連続大活劇のまえにも洋画の劇映画は、あるにはあった。
 大正のはじめの日出新聞をくってみると、みどりさんにつれていってもらった劇映画をひろいだせる。大正元年の「ナポレオン」も大正二年の「巌窟王」も歌舞伎座で見たし、大正三年の「クレオパトラ」は帝国館で見ている。
 こういう劇映画はどの映画史にも引用されているのを見ると、田舎から出てきた同志社女学生のみどりさんの眼力は抜群だった。私が三年生で連続大活劇にうつつをぬかしたのも、みどりさんの薫陶のたまものだ。(197-198ページ) 


 連続活劇は、この頃のブームで、同世代の映画評論家・双葉十三郎氏もその思い出を語っていますね(『ぼくの特急二十世紀』)。
 双葉氏によると、連続活劇は米語で「クリフ・ハンガー」(崖からぶら下がるヤツ)というそうです。なぜなら、断崖絶壁にぶら下がるシーンがやたら多いからだそうです(笑) 主人公が絶体絶命の窮地に陥る場面が多いのでしょう。

 松田さんが覚えているパール・ホワイトも、双葉氏の本に写真掲載されています。連続活劇のスター女優だったそうです。

 松田さんを映画の世界に誘ってくれた女学生みどりさん。
 でも、本書ではこの後みどりさんの名前は一度も出てきません。女学校を出て、どこかへ行ってしまったのでしょうか。

 大正座の女優劇の話や、活動写真の女弁士のことも大いに興味が湧くのですが、みどりさんのその後について、それ以上に知りたい私でした。




 書 名  『明治大正 京都追憶』
 著 者  松田道雄
 刊行者  岩波書店(同時代ライブラリー)
 刊行年  1995年(原著1975年)



 【参考文献】
 筈見恒夫『新版 映画五十年史』鱒書房、1947年
 淀川長治『淀川長治自伝(上)』中公文庫、1988年
 双葉十三郎『ぼくの特急二十世紀』文春新書、2008年
 

内側から見た百年前の京都 - 松田道雄『明治大正 京都追憶』 -

京都本




  明治大正京都追憶 松田道雄『明治大正 京都追憶』岩波書店


 恒例、春の古本まつり 

 5月の大型連休、京都では毎年恒例の古書市があります。
 場所は、岡崎公園のみやこメッセ(京都市勧業館)。

 みやこメッセ
  みやこメッセ

 主催の京都古書研究会は、今年で40周年。
 春の古書大即売会も、35回目を迎えたそうです。

 私の学生の頃は、まだ勧業館も古い建物(戦前のいわゆる近代建築)で、その2階への階段を上ったところにある広い会場で開催されていました。
 そこで買った古書から発想したテーマで、後年論文を書いたこともあります。
 そんな懐かしい思い出のある古書市です。

 もちろん、30年余り通っていると、最近ではもう1冊1冊並んでいる本をしっかり見ていくこともなく、大づかみに本の群を一瞥して探すようになってきました。
 どの古書店さんも、同じジャンルの本は固めて陳列されますから、そういう探し方でいけるのですね。
 それでも、気が付くと、すぐ2時間、3時間と経っています。

  春の古書大即売会

 毎回、およそ、こういう分野の本を探すか、という方針はあるのです。
 ただ今回は、見て回っているうちに、京都に関する随筆でも探そうか、という気になってきました。


 明治・大正の回想

 そのなかで目に留まったのが、松田道雄『明治大正 京都追憶』です。

 松田道雄さんというと、京都の小児科医で、『私は赤ちゃん』や『育児の百科』など育児書の著者として有名ですね。そのせいで、私はこれまで読んだことはありませんでした。
 しかし、著作リストを見ると、京都に関する本も何冊か出しておられます。
 本書は、『花洛―京都追憶』というタイトルで、昭和50年(1975)に岩波新書の1冊として刊行されたものです。

 もとは京都新聞に連載され、それを岩波新書として刊行しました。しかし、著者によると「花洛」という言葉は多くの京都ファンには知られていないものでした。そのため、新書としては多くの人には迎え入れられなかったようですが、20年後、改題して同時代ライブラリーとして日の目を見たのでした。

 松田さんは明治41年(1908)茨城県生まれで、生後6か月で京都に越してきました。そのため、本書には明治末頃から大正時代にかけての京都の町の様子が克明に記されています。

 松田家は、茨城から聖護院(左京区)に移って来、すぐに東丸太町の仲小路に転居しました。

 東丸太町
  東丸太町  写真中央が教会

 鴨川に架かる丸太町橋を渡り、少し東へ行ったところ、教会の南側へ入ったところだったそうです。

 鴨川の東だったこのあたりの丸太町通が、拡げられたのは大正元年(1912)だったといいます。

 丸太町通に電車を通すので、北側に道をひろげはじめたのは、大正元年である。
 丸太町通がせまかったころを見ているはずだが、思い出せない。丸太町橋の東詰に、熊野神社の鳥居があったといわれると、知っているような気もする。熊野さんと聞いて思い出すのは神殿でなく、高い木のしげった森である。梢にたくさんの鳥がとまって鳴いていたのをおぼえている。

 熊野さんから東は、田んぼがつづいて、先のほうにお辰稲荷の森が見えた。この辺の記憶があるのは、父が学生のとき下宿していた鹿ケ谷の農家によく行ったからである。

 お辰稲荷の森をすぎると、岡崎町の人家が見え、そこに池があり、池のそばに岡崎神社があった。神社から東北にまがっていくと、鹿ケ谷の農家の集落が大文字山の麓に見えてくるのだった。(42ページ)  


 丸太町橋付近
  丸太町橋から東(熊野神社方面)を望む

 熊野神社は、現在では、丸太町通と東大路の交差点の北西にあります。
 かつて、その鳥居が丸太町橋の東詰にあったのは、松田さんが書いておられる通りです。いまでは想像できないですね。

 それ以上に想像不能なのは、熊野神社からさらに東を眺めると、お辰稲荷神社が見えたということです。お辰稲荷は、現在の武道センター(かつての武徳殿)の北東ですね。

 明治末の東丸太町付近
  左の青丸が丸太町橋、右がお辰稲荷(京都市街地図、明治44年)

 これは明治末の東丸太町付近です。
 丸太町通は、まだ拡幅前で、市電も二条通を走っていました。

 大学病院の南に丸太町通があり、その南に「絹糸紡績」と書かれた大きな工場があります。松田さんの家の東側でした。
 子供心にも、「高くて長い塀」があり「繭(まゆ)を煮る異様なにおいが私たちを遠ざけた」と回想されています。

 丸太町橋が木造からコンクリートにかわったのは大正二年の八月だ。市電を通すためである。
 少しあとに市電全通のお祝いの催しが円山公園であった。これをおぼえているのは、母とショーちゃんとで夕涼みに円山に行ったところ、祝賀の提灯をもらったのがうれしかったからである。 

 (中略)

 電車がついて丸太町はにわかに賑やかになった。(75-76ページ) 

 
 大正初期の東丸太町付近
  大正2年の東丸太町付近(京都市街全図)

 地図を見ると、現在の東大路のところまで丸太町通が拡幅されています。
 赤線の市電は、熊野神社前で南に折れています。

 通りの南の絹糸紡績は鐘紡に合併されました。
 そのさらに南には、琵琶湖疏水の夷川ダムが水をたたえています。

 私もふらっと、夷川ダムを訪ねてみました。
 とても、のんびりしたいいところですね。

 夷川ダム
  夷川ダム

 私の父など、昔ここで水泳していたそうです、踏水会(とうすいかい)に入って。
 写真の右奥に、踏水会の古い建物が写っていますね。


(この項、つづく)




 書 名  『明治大正 京都追憶』
 著 者  松田道雄
 刊行者  岩波書店(同時代ライブラリー)
 刊行年  1995年(原著1975年)


最大級の木橋、上津屋の流れ橋を訪ねて

南山城




木津の流れ橋


 八幡にある観光名所 

 京都の南郊・八幡(やわた)市は、男山にある石清水八幡宮で知られています。

 先日、用事で訪れたあと、市役所前にある観光案内板を見ていました。少し時間があったので、めぼしいところがあれば立ち寄ってみようというわけです。

 すると、おもしろいものを見付けました。

 「流れ橋」があったのです!

 俗に「木津の流れ橋」として知られる、この橋。
 長大な木造橋で、正しくは上津屋橋(こうづやはし)と称され、「上津屋の流れ橋」とも呼ばれています。

 京阪八幡市駅や八幡市街から少々離れていて、クルマがないと行きにくい場所かも知れません。
 しかし、案内板は完備しているので、迷わずに行くことができます。

 四季彩館
  四季彩館

 橋の近くには、四季彩館という建物があり、ここに駐車できます。

 四季彩館の裏手から遊歩道を通って、木津川に向かいます。

 遊歩道

 1、2分歩くと、高い堤防が現れます。
 この向こうに、木津川があるようです。

 木津川堤防


 木津川に架かる木造橋

 堤防に上がると、広い木津川の河原が見渡せます。

 木津川

 河原が広すぎて川の流れは見えません。
 黒い覆いは、お茶を栽培しているのですね。よく見ると、その覆いの先に橋が架かっているのが分かります。あれが流れ橋のようです。

 流れ橋渡り口

 ここが八幡市側の橋詰。
 橋の幅は3mほど。自転車は押して渡るようにと、注意書きがあります。結構、大勢の人が来ていました。

 欄干がないので、意外にあっさりしていますね。

 流れ橋正面

 これは爽快な風景ですね!

 356.5mあるそうなので、久御山(くみやま)側の端は見えません……

橋板

 橋板も木製。
 この橋板と橋桁(はしげた)が、洪水時には流されるので「流れ橋」というのですね。
 現在では、これらはワイヤーで結束されているので、洪水後に再利用が可能だそうです。

 この橋は、橋の上部が流されてしまうわけですが、四万十川などでは沈下橋というコンクリート製の橋があって、大水が橋の上を越えていく仕組みになっていますね。


 時代劇でも使われる美観 

 河原に下りて眺めてみます。

 流れ橋全景

 美しいですね。
 橋脚にはコンクリート製の部分もあって現代化されていますが、遠くから見ると昔の木橋のようです。

 橋脚

 かつて、木津川のこの地には両岸を結ぶ渡し船がありました。
 戦後しばらくして渡し船は廃止され、かわりに昭和28年(1953)、上津屋橋が架けられました。
 
 それから60年余り、流されたり直されたりを繰り返してきたわけです。
 近年、かつてより75cmばかり高く改修されたので、流される回数も減るかも知れませんね。

 映画の撮影などにも用いられる流れ橋。
 のんびり訪れてみるのもいいですね。




 上津屋橋(上津屋の流れ橋)

 所在  京都府八幡市上津屋宮前川端ほか
 見学  自由(人道橋)
 交通  京阪バス「上津屋流れ橋」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『京都府の歴史散歩 下』山川出版社、2011年


松ヶ崎街道と遊歩道になった狐坂





遊歩道の狐坂


 京都北郊の古い農村

 松ヶ崎(まつがさき)というと、京都の地名のなかでも少しローカル。
 知る人も余りいないかも知れません。

 左京区に属し、地下鉄「松ヶ崎」駅も出来ています(北山駅と宝ヶ池駅の間です)。
 大文字五山の送り火のうち、「妙法」のある場所として著名かも知れませんが、観光地とは言えません。

 京都北郊図
  「大京都市街地図」昭和14年(1939)

 これは、昭和初期の松ヶ崎付近の地図です。左が北になります。
 右下隅に下鴨神社があり、地図中を斜めに流れる川が高野川です。ちなみに、高野川とX字状に交差しているカーブした水路は疏水(そすい)になります。
 左端の縦方向のミドリが「妙法」のある丘(西山・東山)。丘の中央にある池が宝ヶ池(たからがいけ)。
 この丘を含む麓一帯が、松ヶ崎なのです。
 
 古い地名ですが、中世には氷室もあったらしく、風流な歌も詠まれています。

 夏の日もすずしかりけり松か崎
    これや氷室のわたりなるらん  藤原顕季 

 
 また、妙法があることから分かるように、この村は法華宗(日蓮宗)が普及した地域でした。いまも題目踊りが伝わっています。


 水路のある旧街道 

 この地区を東西に通る道が通称・松ヶ崎街道です。

 松ヶ崎街道
  松ヶ崎街道

 いまでは、この道の南側に、4車線の北山通が通っていますので、ひっそりとした生活道路になっています。
 その北山通は、私の学生時代に延伸されたものなので、およそ30年前に出来たことになります。
 私が初めて、この松ヶ崎街道を通ったのは(記憶の限りでは)小学校6年生の頃で、友人らと担任の先生の家をさがすべく “探検” に行ったときのことでした。
 現在でも、当時の雰囲気が保たれていますが、家屋はずいぶん建て替わったような気がします。

 それでも、木造の家や蔵が残り、道の片側には水路が流れていて、風情のある旧街道です。

 松ヶ崎街道の水路

 高野川に架かる松ヶ崎橋の西方から、宝ヶ池通まで、古い街道は約1.5km。ふらっと散歩するにはいい距離です。


 ヘアピンカーブだった狐坂

 新宮神社
  新宮神社

 集落にある寺社では、松ヶ崎大黒天や涌泉寺が有名ですが、産土神の新宮神社もあります。
 松ヶ崎街道の北側なのですが、この神社の前を左に上っていくと、砂利道になり、こんなところに出られます。

 狐坂のヘアピンカーブ

 ちょっとしたヘアピンカーブでしょう(笑)

 これが、狐坂(きつねざか)なんです。

 私も子供の頃からよく登りました ーー ただしクルマに乗ってですけれど。

 この坂上にはトンネルがあり、それを抜けると岩倉方面に通じます。つまり、狐坂は、京都市街の北山通と北郊の岩倉などとを結ぶ坂のひとつだったわけです。

 松ヶ崎付近図

 左下方に「宝池」とあるのが宝ヶ池。その下を通る道が狐坂で、地図では「狐子坂」と書いていますね。これで読みは「きつねざか」です。S字カーブのさまがよく分かります。

 狐坂
  狐坂

 こういうふうに急カーブしていて、かつてはちょっとした難所でした。クルマもまあまあ渋滞したりして、不便といえば不便だったかも。

 それが近年、バイパスの陸橋が出来たのです。

 狐坂の新旧
  左が旧道(狐坂)、右が陸橋

 陸橋は2006年完成ということで、もう10年余りになります。
 狐坂の方は、遊歩道になってクルマは通れなくなりました。のどかな散歩道といったところでしょう。

 坂上には、宝ヶ池があります。

 宝ヶ池
  宝ヶ池

 池の向こうに比叡山。左奥の白い建物は、京都国際会館です。
 貸しボートもありますよ。

 ほんと、のんびりしたところですね。

 観光でわざわざ来るほどではないけれど、グランドプリンスホテル(宝ヶ池)やアピカルイン(松ヶ崎)といった宿泊施設もあるので、ちょっと外れたところに泊まって郊外散歩、というにはいい気がするのですが、いかがでしょうか。




 狐坂

 所在  京都市左京区松ヶ崎狐坂
 見学  自由
 交通  地下鉄「松ヶ崎」下車、徒歩約5分



 【参考文献】
 『京都市の地名』1979年、平凡社