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PROFILE

船越幹央

Author:船越幹央
博物館で学芸員をしています。また、京都市内の大学で非常勤講師を務めています。
生れ育った京都の魅力を歴史・文化財・史跡を中心にお伝えします!
やっぱり、京都は奥深い。知れば知るほど、味わい深い。このブログを読んで、京都を歩いてみてください!

[主な取材等]
テレビ:NHK「ブラタモリ~京都~」、BS朝日「京都ぶらり歴史探訪」、BS-TBS「高島礼子・日本の古都」、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」ほか
新聞・雑誌:小学館「サライ」、朝日新聞、日本経済新聞ほか
見学会:「まいまい京都」ほか

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秋間近の公園にも台風の爪あとが……

その他




倒木群


 秋間近の公園 

 先週今週と、2週つづきの三連休でしたね。
 今日(9月24日)は秋分の日で、まだ紅葉とは言えないものの、秋の気配が感じられました。

 秋の気配

 公園の中を通る道路。
 木々が美しいですね。

 ところが、公園内には一部通行止めのエリアがあって、そこでは樹木の伐採作業が行われていました。
 そう、9月初めに関西を襲った台風21号の後処理が未だに続いているのでした。


 あちこちに倒木が……

 台風21号は、9月4日に四国から関西を通過。関西国際空港が大きな被害を受けたように、大阪府南部では住宅にも多数被害が出ました。
 大阪市内でも、公園などで多数倒木が発生。京都市内も、大阪ほどではありませんが、倒木などが見られます。

 今日訪れたこの公園でも、ひどい倒木がありました。

 倒木

 ここは杉が数多く植樹されているのですが、根こそぎ倒れています。
 特に、若い木は成長が早い割には根が張っていないようで、風に耐えられなかったようです。

 根元から倒れた木

 先日、ある緑化団体にお話をしに行った際、団体の方がおっしゃっていました。都会の植樹は根が浅く、いわば植木鉢に植えられているような状態なので、強風で倒れやすいのだ、と。
 まさに、そのような状態でした。

 また、幹の途中から、ぼきりと折れている木も多数。杉、松、桜など、樹種に限らず被害を受けていました。
 
 折れた木

 これらの木々は、まだ手が回らないようで、処理が追いついていません。
 
 このブログでも何度か取り上げましたが、昭和9年(1934)9月に関西を襲った室戸台風が、とても強い風台風でした。
 京都でも、小学校の木造校舎が多数倒壊し、生徒・教職員の尊い命が奪われました。一説には、最大風速は60mを超えたともされており、大阪では四天王寺の五重塔が倒れました。

 私のこれまでの経験でみても、今回の台風21号は最も風が強烈な台風だったように思います。
 室戸台風を過去の出来事のように感じていましたが、このような経験をすると、昔の話とは思えません。
 被害を受けられた方も多く、胸が痛みます。はやい復旧が望まれるところです。
 



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連載600回 & 6周年! 

その他




比叡山


 ご愛読に感謝! 

 毎日暑い日がつづきますが、いかがお過ごしですか。

 おかげさまで、このブログ「京都発! ふらっとトラベル研究所」も、600回&6周年を迎えることができました。
 これもひとえに、みなさまのご愛読の賜物とあつく御礼申し上げます。

 偶然にも、ちょうど600回と6年が重なって、6・6です。
 思えば、2012年8月に連載を開始して、京都の歴史や文化に関する話題を書き継いできました。それなりに長い6年でしたね。

 でも、みなさまの応援に励まされながら、なんとかつづけてくることができました。改めて感謝したいと思います。


 近況・雑感など 
 
 昨年から、勤務形態が変わり、それなりに忙しい毎日を過ごしています。そのため、このブログの更新も滞りがちで、心苦しい限りです。
 なんだか、寄る年波には勝てず(笑)というのか、日常が忙しいと、余暇にやれることも限られてきます。体力の限界、というべきでしょうか(笑)

 ただ、おもしろいことなのですが、仕事でいろいろな経験をすると、それが<過去を見る眼>にも反映してくるのですね。
 われわれ歴史学徒は、単に研究・勉強をしていれば歴史が分かるというものでもなく、やはり人の営みを考える学問ですから、研究者自身の人間的深みが問われることになります。その意味で、日々の仕事で鍛えられるのは、とてもいいことです。純粋に研究に没頭していたらよいというものではありません。

 回顧的になりますが、私は博物館で学芸員を四半世紀ほどやってきました。
 そのなかで、新しい博物館を作る仕事をやったり、ボランティアのお世話をしたり、広報や渉外の仕事をやったりと、どちらかというと学芸員業務の端の方の仕事――言うなれば周辺業務――をたくさん行ってきました。
 広告代理店の人からアポを取り付けられて、広告の売り込みに対応することは、たぶん学芸員の本務ではないのでしょう。でも、そういうことをやるうちに人の気持ちも分かってくる。
 印象深かった出来事のひとつに、こんなことがありました。東日本大震災のあとのこと、いつも強気の電話営業をしてくる代理店の男性が、少し元気のない調子で電話してきたのです。聞くと、震災後ということで、どの会社も広告を出し控えているという。それで彼も広告を取れずに大変だというのです。しばし、ふたりでしんみりと話したことを覚えています。

 こういうことに触れながら仕事をできるということは、とても有り難いことだと思っています。
 学芸員とか研究者とかいう枠を越えて、ひとりの人間として、社会や他者とどう向き合っていくのか、そして自分はどう生きていくのか。それが問われるし、それに応えていかないといけない。
 歴史の勉強をして、かれこれ30数年になるのですが、ようやく自分がやっていることの意味が分かりかけてきたような、そんな気がする昨今です。――まぁ、今まで分かってなかったのかと笑われるかも知れませんが……

 そんなこんなで、ブログの更新は、まだしばらく滞りがちになると思いますが、ぼちぼちつづけていきたいと思います。
 おかげさまで、講演・見学会・原稿執筆・テレビ出演など、ちょこちょこ依頼を受けて、やらせてもらっています。また、大学への出講も、今年は京都の(仮称)上京大学に加え、大阪のOS大学でも少しだけ講義し、初試験&採点もさせてもらいました(すごく大変でしたが)。いろんな形で、自分の研究や思いを伝えていければうれしいです。

 さあ、次回からは7年目。
 変わらぬご愛顧をよろしくお願い申し上げます。




酷暑のなか、祇園祭は後祭へ





神輿


 先祭と後祭、神輿渡御

 今週も、暑い日がつづきました。
 観測史上初の7日連続の38℃超えは驚きましたね(2018年7月)。

 祇園祭は、2014年から先祭と後祭が執行されており、今年は5回目。すっかり定着しました。
 もともとは、この形が本来だったのですが、戦後、7月17日に巡行が一本化されていました。われわれ若い京都市民は、前後2度の巡行があったとは知らずに、1度が当たり前のように受け止めていたのでした。

 現在では、八坂神社から神輿(しんよ=みこし)が渡御されるのに先立ち、17日の朝、山鉾巡行が執行されます。その晩、八坂神社から3基の神輿が出、氏子域をめぐったあと、四条寺町の御旅所(おたびしょ)に留まられます。1週間後の24日の朝、ふたたび山鉾巡行が行われ、その晩、神輿はまた氏子域をめぐって八坂神社へ戻られます。 


 
御旅所の神輿
  御旅所の神輿(四条寺町) 


 後祭は落ち着いている 

 後祭は、前祭に比べて人出も少ないので、落ち着いてゆっくり回れますよね。

 役行者山 役行者山

 山鉾の数も10基ですし、大船鉾のほかは全て山です。
 山は、上に乗っておられるご神体などがいろいろあって、拝見していて楽しいんですね。たとえば、鯉山の鯉(左甚五郎作とされる)なんて、とっても立派で、何度見ても感心しきりです。

 鯉山
  鯉山の鯉

 いずれの会所も、静かな感じでいいものです。

 ただ、町並みは毎年少しずつ変化してきています。

 役行者山と町内
  役行者山

 役行者山を南から見たところですが、西側でこれから建設工事が行われるようでした。向いの東側は、すでにマンションになっています。
 ホテルもたくさん建ってきました。下の写真は、北観音山の町内です。大きなホテルがあります。

 北観音山
  北観音山
 
 このようにみていくと、祇園祭と山鉾巡行自体も時代によって大きく変化していますし、それを支える鉾町も年々変わっていることが分かります。
 「古都」とか「千年の伝統」とか、ひと口に言いますけれど、時代の情勢に適応し、形を変えてつづいているのが祇園祭なのですね。
 21世紀の百万都市で、こんな祭礼が行われていることは、やはりすごいし、それを支える皆さんの努力には頭が下がります。

 祇園祭の後祭、今年も7月24日に巡行が行われ、夜には神輿の還御も行われます。




 祇園祭

 所在  京都市中京区、下京区一帯(烏丸・室町・新町通界隈)
 拝観  自由(有料の会所等あり)
 交通  地下鉄「四条」、阪急「烏丸」下車、すぐ

 


祇園祭が近付き、京都は酷暑の日々





芦刈山の提灯


7月の最高気温を記録! 

 暑いですね!

 こういった挨拶が、思わず口をつく猛暑の毎日。
 京都市では、昨日(2018年7月14日)の最高気温が38.5℃、今日7月15日は38.7℃を記録しました。いずれも、7月の京都市の最高気温としては、観測史上最高ということです!

 ニュースによると、今日の京都では、夕方までに30人以上の方が熱中症で救急搬送されたそうです。
 ふだんは無頓着な私も、今日はさすがに水分補給に気を付けました。それでも、持っていたカメラの接着剤が溶け出し!! たいへんなことになる寸前でした。
 みなさん、くれぐれもお気を付けください。


 蟷螂山の新機軸 

 ここのところ、関西では強い地震があり、西日本の広域でも豪雨災害があって、落着かない日々がつづいています。
 私自身も、身近にいろいろと出来事があり、急な原稿も入ったりして、せわしない毎日を過ごしていました。
 ようやく、この3連休、祇園祭でもあるし、少し出掛けようかと、四条界隈をのぞいてみました。

 芦刈山 芦刈山

 このような、現代の町のなかに山や鉾が建つ風景は、祇園祭ならでは。
 いい雰囲気ですよね。

 上の写真は芦刈山(あしかりやま)なのですが、いつも会所に飾られた翁(おきな)を拝みに行くんですね。
 難波(なにわ)の浦に芦を刈る老翁の物語に共感します。

 山や鉾とその町々も、年々少しずつ変わっていきます。
 今年、前祭の山一番を引いたのは、蟷螂山(とうろうやま)です。

 蟷螂山 蟷螂山

 山の上に、カマキリがとまっていて、それがからくりで動くのが楽しいんですよね。

蟷螂山のカマキリ
  今日はまだ動いていません

 その蟷螂山で、これは去年やっていたのか、「かまきりおみくじ」という面白いおみくじをやっていました。

 かまきりおみくじ かまきりおみくじ

 こんなふうに、山の下に模造(?)のカマキリがいて、これがお宮さんから出る玉(番号が書いてある)を授与してくれるのです。
 昔あった、小鳥がおみくじを引いてくれるやつに似た発想ですね。
 200円でしたけど、ふつうのおみくじより断然人気で、長蛇の列でした! 


 ぶらぶら歩きがおもしろい 

 祇園祭の町家

 祇園祭のときは、町内の家々がこういうふうに提灯を吊り、幔幕を張るのですね。
 風情があります。
 
 そして、ここらが京都らしいというのが、この写真。

 ローソンの幕

 室町でしたか新町でしたか、ローソンまで幕を張っているんですね(笑)
 これは、いろんな意味で京都的でしょう。
 でも、なんかはまってるなぁ…

 ちなみに、ローソンの看板自体も市の屋外広告物の規制に従って、全国とは異なる色づかいです。

 こんなのを見ながら、超あついけれど、山鉾を見てまわるのが楽しいです。

 長刀鉾

 生ビール500円とか、コンビニで買った方が安いや(笑)なんて思いながら、ぶらぶら。
 夜になると、15日、16日は歩行者天国になって、ものすごい人出の宵々山、宵山になります。

 今年のように災害が多いと、祇園祭にも自ずと「祈り」の色合いが濃くなりますね。
 疫病などに悩まされた古えの人と同じように、如意にならない自然の猛威の前で、現代人の私たちも尊いものに頭を垂れます。

 そんな、祇園祭。
 近年は、翌週に後祭もありますので、ぜひ京都にいらしてみてください。




 祇園祭

 所在  京都市中京区、下京区一帯(烏丸・室町・新町通界隈)
 拝観  自由(有料の会所等あり)
 交通  地下鉄「四条」、阪急「烏丸」下車、すぐ



リアルな昭和初期の京都 - 井手成三『京洛ところどころ』 -

京都本




  京洛ところどころ 井手成三『京洛ところどころ』第一書房 


 昭和10年代の京都エッセイ 

 前回は、古書市で出会った井上甚之助『わたしの京都』を紹介しました。
 その帯には「京に育ち 京を愛した著者が描く 古都の風物詩」と書いてあります。

 今回も、京都に生まれ育った著者による、京都随筆を取り上げてみます。
 井手成三『京洛ところどころ』。
 昭和16年(1941)12月、東京の第一書房から発行されました。お気づきのように、太平洋戦争が開戦した直後に出た書物ということになります。

 著者は、地方官から内閣法制局に転じた官僚で、晩年は大学で法学の教鞭も執っていました。ちなみに、この人の子息に元JR西日本・井手正敬社長がおり、これはちょっと複雑なのですけれど、少しおいておきましょう。
 自らのルーツについて、本書の自序に次のように書いています。

 我が亡き父は京を去る十八里、松青く水清き若州小浜に修験道を事とせし家に生れ、京に来り住みしものなるが、母は京都の官家士族に生れ、祇園社の社家に育ち、高齢今は生を洛外山科に養ひ給ふ。
 幼き私はこの母の膝上にて、其の口誦(くちず)さむ京の俚謡、其の語るゆかしき行事、をかしき伝説に聴き入つた。(後略) 
 
 
 その後、高等学校まで京都で暮らしています。
 井手氏の父親は、若狭国(福井県)の小浜(おばま)の出であると書かれています。京都と若狭は、古くから “鯖街道” で結ばれていて、その距離は70有余キロ。ここでは「十八里」(約72km)とされていますね。母は、祇園社、つまり八坂神社の社家に育ったとありますので、京都の人であったわけです。


 京都の百名所 

 この随筆集は、もともと「学士会月報」というものに連載されたもので、それに加筆して百の小文から構成されています。

 一番の南禅寺に始まり、永観堂、若王子、一乗寺、修学院と、東山の裾を北上し、大原、貴船から上賀茂、下鴨に転じて、再び南下して吉田、真如堂、黒谷へ、さらに青蓮院、知恩院、祇園さん、円山、八坂、清水寺。そこからはぐっと南へ行って、東福寺、深草から観月橋、黄檗、宇治、巨椋池、そして著者と同名の南山城・井手へと筆は及びます。さらに西の方へ移って、長岡、桂、嵐山、天竜寺、清滝と北へ。そして妙心寺、御室、北野、金閣寺と移り、西陣から相国寺、御所と中心部へ進みます。寺町、二条、三条、京極、四条と繁華な地を巡り、鴨東の祇園町、六波羅、三十三間堂から、東西の本願寺に触れ、最後は百番の東寺で擱筆します。

 こう、ずらずらと並べると京の名所も随分たくさんあるものです。

 例えば、「白川」はこのような文章です。

 (前略)
 私等はこの白川村をとほつてよく比叡山に登つた。白川の上流に沿つてあゆみ、林中土湿(しる)き天神宮の境内でやすんでから、白川口の山路にかかつた。
 この辺の農家は皆花を植ゑて毎朝主婦、娘達が洛中に仏に供ふる花を売りに出る。三巾前垂れをして頭に手拭をまき頭上に花を頂く女を一概に大原女(おはらめ)と言つてゐるが、大原、八瀬(やせ)、山端(やまばな)、白川あたりの農家の女達は皆揃つて朝から売声も清らげに花、柴、茶等を売りに出て、帰りには市中で日用品を買つて帰る。帯や紐の模様などで、一見各々部落毎に区別することが出来るやうになつてゐる。
 霜未だ融けざる朝まだき、花売りの声を聞くのは京都特有のおもしろさである。東京の朝、納豆売の苦学生の声を聞くことによつて受ける感じとは全然別のものだ。   


 大原女、白川女の習俗をうるわしい京の日常として描いています。


 「松や」の三宅八幡 

 このブログで前々回に取り上げた三宅八幡宮(左京区)についても、懐かしい思い出とともに書かれています(「山端」)。

 (前略)
 山端(やまばな)という名称は、蹴上(けあげ)、棒鼻等と同じく、何となく京のはづれといふ感をあらはしてゐる。
 「松や」という母の子守女だつたのが縁付いてこの山端に住んでゐたが、高齢になつて猶ほ随分と元気で、裏の牛小屋から飛んでくる虻ほどある蠅を団扇で遂ひ遂ひ、母と何かしら昔言葉で話しつづけてゐた。
 帰りたくて仕様のない私が往還を見ると、牛車が繁々と通つてゐた。
 「松や」の家にくるまでには、高野川に沿つて「平八」「十一家」が清らかな粋な構へを見せ、子供心にも京都風を感じた。 


 母の子守であった、松やという女性の住まいを訪ねた母と著者。大原街道には、料理屋である平八や十一家もあり、牛車が通る穏やかな風景でした。

 「松や」を尋ねるのは大抵三宅八幡さんに参る時だつた。三宅八幡さんの森にゆくまでは随分遠くて、御社までくるとほつとした。
 御社は小さくて由緒など深かりさうではないが、子供の虫気(むしけ)に霊験ありとして市民の群参する社である。糯(もちごめ)でつくつた小さな鳩の御供物は、今でもおいしいと思う。
 神信心のお蔭にもよることであるが、一年中陋巷に住み殊に蟄居勝ちの京都市中の婦人子供が、田園の清い空気のなかを遠くあゆむといふことそのことが自らなる保健で、御社にたどりつくまでに大抵の虫気はなほつてしまふのではないかと思ふ。(後略) 


 三宅八幡宮へのお詣りのようすが、うまく書かれています。
 まちなかの女性や子供たちは、どうしても家にこもりがちになるので、ときおり郊外のすがすがしい空気に触れると健康にもなる、ということが書かれていますね。もっともな気がします。今もある「鳩餅」もおいしかったのでしょう。
 「市民の群参する社」という言葉から、三宅八幡への信心ぶりがよく表れています。


 リアルな戦前京都の姿 

 本書のひとつの特徴は、当時(昭和16年)の京都のありのままの姿を活写していることです。
 著者は、結構辛口の人のようで、あるいはその頃の感覚としては当然だったのでしょう、はっきりと街の特徴を記しています。このことは、私たち過去の京都を学ぶ者にとっては有り難いことともいえます。それを紹介したいのですが、少しばかり地域や職業等への好悪の感情が書かれている部分もありますので、ご了承ください。

 今日、海外からのツーリストが多い伏見稲荷大社の風景を、こう記しています。

 (前略)
 いつも塩小路で市電をのりかへ、稲荷の停留場で降りた。東海道線をこえる陸橋を電車がわたる間、下を見るのが子供心に興味をそそつた。陸橋をこえると随分汚い工場町だなといふ感じがした。棒鼻などといふいかにも町はづれらしい名の停留所があつて中書島行きの電車との連絡にいつも相当停車してゐた。後、深草の野砲聯隊で乗馬の練習をしたとき、練兵場から馬を駆つてときどきこの棒鼻などといふところにやつてきた。
 稲荷の停留場を降りると、鳥居のところまで細い道が適当のカーブをなして、土産物を売る店、飲食店、カフエーなどが相並んでゐる。土産品屋には稲荷にちなんだ狐、珠などが多くならんでゐることはもとよりだが、私たちの最もなつかしいのは「でんぼう」といふ伏見の泥細工である。泥をこねて柚子のかたちになつたふたもので、単純な構造と黄色い彩色のうちに言ひ知れぬ味があつた。
 私達は稲荷の土産にこれをもらつて一銭二銭を入れる貯金箱にしてゐた。京都の大路小路を商店の丁稚(でっち)がとほると私達子供はとほくから「丁稚でんぼう、稲荷の土産、おとして破(わ)るな」とはやしてからかつたものだが、其の「でんぼう」とはこの泥細工のことである。この道は所謂通常参道であつて、正参道は南の方省線(しょうせん)駅に近く続いてゐて、石畳もゆかしく神馬灯籠等の配置もよく、落ちついた神域の清浄をあらはしてゐる。鳥居をくぐり、愈々境内に入つてからも道の両側には香具師(やし)、古着屋、安玩具屋、袋物屋などが並んで客を呼んでゐる。いつか寒い風の吹く日には女相撲がかかつてゐて、寒さうに小汚い女力士がいろりをかこんでゐた事もあつた。  


 「でんぼう」という言葉は、関西で一般には、できもの(おでき)のことを指します。「でんぼ」などと言いますね。
 まあ、できものくらいの小ぶりの焼物ということなのでしょう。いわゆる「柚でんぼ」というもので、小さな黄色い柚子形の蓋のついた焼物だそうです。伏見人形の一種でしょう。
 これを丁稚さんをからかう戯れ歌にしているところが時代ですね。


 繁華街 

 「高瀬」という項には、

「恋ひし(小石)恋ひしを高瀬に積んで末は大阪(逢ふさか)十三里」

 といった狂歌が紹介されています。
 おしゃれな歌ですね。高瀬舟の荷は、淀川をくだって大阪に至る、それを酒席に相応しく恋に掛けたもの。なかなかです。
 ちなみに、昔は京・大坂間は十三里(約52km)とされていて、「難波(なにわ)より十三まゐり十三里もらひにのぼる智恵もさまざま」という歌もあります。

 さて、京都の繁華街は、寺町、新京極。「京極」には、次のように書かれています。

 (前略)今の寺町三条、寺町四条あたり殊に新京極は市内第一の盛り場である。
 銀座、新宿、浅草、道頓堀、東京大阪各々の盛り場はそれぞれの特色を有(も)つが、賑かなうちにどことなくうるんだ淋しさをもつのが京極ぢやないかと思ふ。その狭い道は狭い為に良いと思ふ。(中略)

 京極には随分古い寺や神社があるが、雑沓にまぎれて拝して通る人もない。しかしいはれの日にはなかなか昔ながらの行事が維持せられ勤められてゐる。この雑沓のなかにあるためか寺も行事も反(かえ)つて異色のあるものが多い。

 四条から入らうとすると「菊水」の角に染殿地蔵があつて蝋燭の灯をあかあかとてらし、二十世紀のハイカラ人種、さてはよつぱらひの通行をよそに老少男女が奇妙な声をあげて鉦(かね)にあはせて御詠歌を申してゐるのも京都なればこそである。またの名を十住心院といふが、弘法大師ここに居て十住心論をあらはしたまふによる。
 染殿地蔵といふのは染殿后が帰依したまへる弘法大師作裸形地蔵尊の安置せられてゐるのによる。

 四条道場は錦を下るところにあるがその名も何となしに時宗らしい念仏道場の情緒をあらはしてゐる。
 錦の天神さんは錦小路の行当りにあり、この社が誓願寺と共に京極を通る人の一番気のつく社寺である。錦はまた天神さんの外、市場で有名で魚介と青物の問屋が並んで、石畳の狭い道に両側から天井に幕をはり、一寸した小雨にはぬれずに店を開いてゐる。これは京極の本通りにもあるが幼な心に素晴らしい思ひ付きの様に考へられた。
 錦の天神さんは初め河原左大臣をまつり、後菅公をまつる。尚この社はもと六条道場といひ、一遍上人の甥聖戒上人の開基で六条枳殻馬場河原院にあつたのをこの地にうつし、明治五年寺の方は分離されて今天神さんだけになつてござるわけである。

 「さかれんげ」とかいた格子づくりに汚い女人の髪がぶらさげられて何やら願かけがされてゐる小さな堂が蛸薬師下ル東側にあるが、この繁華な通りに旧弊な願かけ堂を見出すところが京都。古い物が凡そ周囲と没交渉に、それでゐてまた不思議な調和を保つてゐる。
 恵心僧都の開基で僧都の姨(おば)安養尼のありし大和当麻(たいま)よりこの地にうつしたもので華台八葉蓮華を逆にす。初め本寺の華台をつくること三度毎々に破る。試に逆蓮華(さかれんげ)とせしに何等の事なかりき。思ふに女人胸中の蓮華逆なり、之をあらはすためにて、女人引接(いんじょう)の相をあらはすものだと言はれてゐる。

 蛸薬師通の突当りは蛸薬師であるが、其の名の因縁についてはいろいろ附会の説がある。
 誠心院といふのが、六角下ルところにあるが、これはあまり気がつく人がなささうだ。この雑沓の地に藤原道長、和泉式部の像がある。和泉式部は小式部の死後尼となりて当院に入る。尤(もっと)もこの寺はもと小川の一条上ルにあつたものである。

 誓願寺は六角の突当りにあり京極中最も大なる寺であり、行きすがりに荘厳な勤行にあふこともままある。この寺ももと奈良にあり恵心僧都のひらくところで、京にうつつて元誓願寺の小川からこの地にうつり、其の後も度々の火災にあつてゐる。この辺から東側の細道を入ると所謂(いわゆる)裏寺町で古びた寺、安待合、小料理店などがあり、うすぐらいところに気味わるい風態の人間がたたずんでゐたりする。  


 このエッセイは、今から80年近く前に書かれたものです。
 ちょっとおもしろいのは、著者の関心によるものか、新京極の東側に並ぶ寺社ばかりが説明されていることです。新京極といえば、当時なら映画館や寄席、劇場がいろいろとあったのに、そこには興味がないのか全く触れられていません。

 著者は割とハイソサエティな人のようで(官僚だから当然といえば当然ですが)、京都の街のなかの「汚い」と感じた部分を「汚い」と素直に書いています。
 例えば、ある地区については、次のように記述します。

 (前略)裏に瓦斯会社のタンクがあつて学生の頃見学にいつて随分汚いところだと思つたが、今もこのあたりは汚い工場街で不衛生な不潔な地区である。 

 著者には「京都風」「京都気分」という基準があるようで、それに当てはまらない部分はバッサリと切り捨てるという感じです。
 この随筆集を読むと、月並みですが、“「京都」ってなんだ?” という問題意識に突き当たらざるを得ない気がしてきます。




 書 名  『京洛ところどころ』
 著 者  井手成三
 刊行者  第一書房
 刊行年  昭和16年(1941)



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